聖宮崎駿ルパン三世作品論集成 第7回「ルパンの福音」
【カトリックアニメ信仰】
イマーゴ信仰(オマージュ信仰)が受肉した名シーン
天軍七隊 権天使(Principalities)
ヨハネによる福音書の冒頭に出てくる「はじめに、ことばがいた。」の「はじめ」にあたる言葉である。
聖宮崎駿が創作したルパン三世の福音
副題 カトリックコミュニケーションの必要性
ゴートの謎
「ルパン三世 カリオストロの城」に於いて最大のキーワードは「ゴート」であった。
もちろんこのストーリーはホンモノ以上と称えられた「ゴート札」を巡って始まる。
そして有名なスパゲッティ肉ダンゴのシーンで「ゴート文字」が登場する。
それは死滅したゴート文字と言われていた。
銀の指輪と金の指輪を合わせたつなぎ目には「ゴート文字」の伝承文が彫られておりローマの街は湖底から出現することになる。
又、カリオストロ伯爵はカリオストロの人間に古いゴートの血が流れていると発言している。
ここで「ゴート」に関して確認しておきたい。
「ゴート札」と「ゴート文字」、「古いゴートの血」とはここからどのように考察されるだろうか?
先ずカリオストロ伯爵が言った「古いゴートの血」とはゴート文字成立以前を指していると思われる。
何故ならルパン三世が指摘したようにゴート語は死語になっている。
しかしその痕跡はギリシャ語からゴート語への聖書翻訳の痕跡として残されている。
国民国家の成立と文化社会の成立は聖書の翻訳によって形成された国民文学によっている。
そういう意味で死滅したゴート文字は聖書翻訳を経た言語であったのです。
そのような言語により形成されたゴート人とは真の「ゴートの血」を指し示している。
何故なら「イエス・キリストの肉」は「真実の食べ物」であり、「イエス・キリストの血」は「真実の飲み物」であるからです。
それは「命のパン」を指し示しているのです。
「ローマ数字」と「湖底から現れたローマの街」はローマ系住民とゴート人の宥和政策があったためだろうと考えられる。
そして「ゴート文字」によって「ローマの街」が出現する演出は殉教者(確信性の確保)であり得るだろう「奇跡」を示しているのだろう。
又、「ゴート語」とは「ギリシャ語」から聖書を翻訳したことによる言語形成であって殉教者(確信性の確保)を象徴している。
何故ならばそれは「ヨハネによる福音書」の序文に示された通りだからです。
「はじめ」とは「神とことば」であり「イマーゴ(神の似姿)とロゴス(恵みと真理)」であるからです。
「ゴート語」は殉教者(確信性の確保)であり得るだろう証しであった。
ルパンの福音
ルパン三世は「福音」をクラリスへ齎した。
それは殉教者(確信性の確保)であり得るだろう「余地」を得ることです。
「余地」とは一般に「悔い改め」と「隣人愛」を言います。
殉教者(確信性の確保)に対するコンフィデンスマン(倒錯性の支配)とは「特殊詐欺」でしかありません。
何故ならば殉教者(確信性の確保)とは「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」を形成し「真実への愛」を齎すことだからです。
「真実への愛」とは「イエス・キリストへの愛」を示しています。
そして「真実への愛」とは「知への愛」であり「哲学」を示しています。
コンフィデンスマン(倒錯性の支配)はそういった「愛」を歪めます。
殉教者(確信性の確保)をコンフィデンスマン(倒錯性の支配)とすることは「虚偽」を「真実」とすることです。
「真実への愛」は「知への愛」です。
しかし「虚偽への愛」は「詐欺師の愛」です。
「詐欺師の愛」はコンフィデンスマン(倒錯性の支配)のスカトロジーです。
コンフィデンスマン(倒錯性の支配)のスカトロジーとは何ですか?
例を挙げるとすれば「マニア」とは「聖アニメファン」の資質であったのです。
一方で「マニア」とは「ヲタク人」の習性でもあった。
この2つの「マニア」は全く別物であり「似て非なり」であったのです。
前者の「マニア」は「神的霊感」であったり「神の贈り物」としての「神的狂気」を言った。
これは「皇室」の「マニア」を示していて、「カトリックエレクト」の資質であったのです。
そしてこのように「皇室」とは殉教者(確信性の確保)を根拠として形成されたのです。
殉教者(確信性の確保)であり得るだろう「聖アニメファン」とは「高度な精神的姿勢ユーモア」なのです。
後者の「マニア」は「熱中する人」や「躁うつ病」を示していた。
これはコンフィデンスマン(倒錯性の支配)の習性であった。
コンフィデンスマン(倒錯性の支配)である「ヲタク人」とは「お下劣」なのです。
「高度な精神的姿勢ユーモア」のあり方は「ヒポクラテスの誓い」としてもとても有名です。
Hippocratic Oath (hip′ō‐krat′ik ōth).
誓い
大槻マミ太郎 訳
後代きわめて重要視されるようにになった『誓い』も、文献上では、紀元一世紀のローマの医師スクリボニウス・ラルグスの言及がはじめてであり、紀元前に言及した人は一人もいなかった。しかもこの世紀は、大ローマ帝国の頽廃が底なしに進むか一方でこれと反比例したきびしい精神の再高揚がはかられ、医学精神のルネッサンスも行なわれた時代であった。しかもそれがヒポクラテスの名と結びついたのである。しかし実際は、『誓い』の前半部分の師弟の誓いと後半部分の医師の戒律・守秘義務は、全集の内容からみて、ヒポクラテス医学派内でとくにきびしく守られたとはどうしても考えられない。しかしここには、遠く古代ギリシアのホメロス以来高く評価されてきた医術とさらにその後の前六〜五世紀中心にギリシアをおそった精神革命の嵐のなかででき上がったヒポクラテス派の医学と、したものが誰かによって作成され、紀元一〜二世紀ローマ時代のヒポクラテス全集刊行時に全集の中に差し込まれたとみることもできよう。とにかく『誓い』には、かまびすしいソフィスト時代以前の古きギリシアの医学精神状況が基調になっていることは否定できない。
医神アポロン、アスクレピオス、ヒュギエイア、パナケイア、およびすべての男神・女神たちの御照覧をあおぎ、つぎの誓いと師弟誓約書の履行を、私は自分の能力と判断の及ぶかぎり全うすることを誓います。
この術を私に授けていただいた先生に対するときは、両親に対すると同様にし、共同生活者となり、何かが必要であれば私のものを分け、また先生の子息たちは兄弟同様に扱い、彼らが学習することを望むならば、報酬も師弟誓約書もとることなく教えます。また医師の心得、講義そのほかすべての学習事項を伝授する対象は、私の息子と、先生の息子と、医師の徒てに従い師弟誓約書を書き誓いを立てた門下生に限ることにし、彼ら以外の誰にも伝授はいたしません。
養生治療を施すにあたっては、能力と判断の及ぶかぎり患者の利益になることを考え、危害を加えたり不正を行なう目的で治療することはいたしません。
また求められても、致死薬を与えることはせず、そういう助言も致しません。同様に婦人に対し堕胎用のペッサリーを与えることもいたしません。私の生活と術ともに清浄かつ敬虚に守りとおします。
結石患者に対しては、決して切開手術は行なわず、それを専門の業とする人に任せます。
また、どの家にはいって行くにせよ、すべては患者の利益になることを考え、どんな意図的不正も害悪も加えません。とくに、男と女、自由人と奴隷のいかんをとわず、彼らの肉体に対して情欲をみたすことはいたしません。
治療のとき、または治療しないときも、人々の生活に関して見聞きすることで、およそ口外すべきではないものは、それを秘密事項と考え、口を閉ざすことにいたします。
以上の誓いを私が全うしこれを犯すことがないならば、すべての人々から永く名声を博し、生活と術のうえでの実りが得られますように。しかし誓いから道を踏みはずし偽誓などすることがあれば、逆の報いを受けますように。
出典 エンタプライズ1985「ヒポクラテス全集」
コンフィデンスマン(倒錯性の支配)を強制されることによって「心的外傷」を受け「PTSD」を発症することはフロイト精神分析のヒステリーと同じであるだろう。
このヒステリーは「聖アニメファン」に特有であり「ヲタク人」には発症しない。
「極悪非道」が「愛されキャラ」なのです。
コンフィデンスマン(倒錯性の支配)は「愛されキャラ」とされ「可愛い」又は「カッコいい」とされる。
このようなコンフィデンスマン(倒錯性の支配)を「真実」とする「詐術」が横行していきます。
「学生バイトのノリ」といった表現はコンフィデンスマン(倒錯性の支配)を「愛されキャラ」とする「詐術」なのです。
それは「ハンカチ王子!」と同様です。
それは「悔い改め」と「隣人愛」に対するコンフィデンスマン(倒錯性の支配)となっているのです。
例えば庵野秀明監督はこのように公に告白しました。
「私はうつになりました!」
しかし私は庵野秀明監督の「うつ病」に違和感を感じていました。
その謎は「マニア」にあったのです。
「マニア」は「芸術的託宣」としての「神的霊感」であったり「神の贈り物」としての「神的狂気」を意味していました。
一方で「マニア」とは「一つのことに熱中すること」や「躁うつ病」のことも示していた。
前者の「マニア」は「芸術家の才能」を意味し、後者の「マニア」は「ヲタク人の確信犯グループ」を意味していました。
又「芸術家の才能」とは「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」への殉教者(確信性の確保)であり得るだろう「悔い改め」と「隣人愛」を持っていた。
一方で「ヲタク人の確信犯グループ」とはコンフィデンスマン(倒錯性の支配)のスカトロジーへの崇拝であった。
それは「悔い改め」と「隣人愛」に対するコンフィデンスマン(倒錯性の支配)だった。
しかし庵野秀明監督の「マニア」とは「神的霊感」や「神の贈り物」としての「神的狂気」とは全く違っていた。
何故それが大問題だったかと言えば庵野秀明監督は「ヲタク芸術グループ」のフラッグシップだったからです。
庵野秀明監督が単なる「ヲタク人の確信犯グループ」であるのなら、聖アニメファンは庵野秀明監督に対して「芸術家(マニア)」に対するオマージュ(イマーゴ)を懐くことが決して出来ない。
そうなると「ヲタク芸術グループ」の主張は「完全なデマゴギー」と判断される。
彼らの「ヲタク芸術綱領」は全てデマゴギーだったと言えるのです。
デマゴギーの証しは「芸術の不成立」を意味している。
「ヲタク芸術」は虚飾だった。
それは「詐欺」だったのです。
庵野秀明監督が突如言い出した「うつになりました!」の告白とは「芸術的託宣」を持った「芸術家(マニア)」の主張ではなかった。
庵野秀明監督の告白は「ヲタク人の確信犯グループ」の「悪癖」であり「古典的詐術」だった。
それはコンフィデンスマン(倒錯性の支配)のスカトロジーでした。
庵野秀明監督は「悔い改め」と「隣人愛」に対するコンフィデンスマン(倒錯性の支配)だった。
コンフィデンスマン(倒錯性の支配)を「真実」としていく「新興宗教モドキ」は過去に多く実例がありました。
早稲田大学スーパーフリーサークル事件もコンフィデンスマン(倒錯性の支配)を「真実」とした「異端教団」の犯罪でした。
学生はコンフィデンスマン(倒錯性の支配)を盾にすることで「凶悪犯罪」を犯していきました。
学生はコンフィデンスマン(倒錯性の支配)が「最大のタブー」となっていることを見越して凶悪犯罪を実行していった。
彼ら学生は文化社会の足元を見ていたということです。
本来であればコンフィデンスマン(倒錯性の支配)から「学生」を守護する聖域が大学であった筈です。
何故なら大学とは殉教者(確信性の確保)であり得るだろう聖域であったからです。
これは殉教者(確信性の確保)とコンフィデンスマン(倒錯性の支配)の間に存在する「最大のタブー」を見事に利用した完全犯罪でした。
彼ら学生はコンフィデンスマン(倒錯性の支配)だったのです。
学生たちは「最大のタブー」を最悪に利用することで最悪の学生犯罪を長期間に渡って行っていました。
この事件の発覚は大きな衝撃を日本に引き起こした。
しかしこの事件の発覚が意味しているものは「最大の罪」と「最大の罰」であると言えます。
「最大のタブー」を破った学生たちは「最大の罪」を犯しました。
彼ら学生は「最大の罪」の報いとして「最大の罰」を受けなければなりません。
「最大の神罰」が彼ら学生に下ることを願っています。
そういった「最大の神罰」とは「悔い改め」と「隣人愛」に対するコンフィデンスマン(倒錯性の支配)へ下ります。
何故ならば「最大の神罰」は「罪人」ではなく「THE DEVIL」へ下るからです。
「悔い改め」と「隣人愛」を持った「罪人」は「愛」を持っている故に「黙示録」で救済される。
一方で「悔い改め」と「隣人愛」に対するコンフィデンスマン(倒錯性の支配)は「愛を持った罪人」ではなく「末法思想」の「THE DEVIL」であって「愛」を持つことは絶対にないのです。
それ故に「黙示録」では「愛を持った罪人」は救済され、「末法思想」の「THE DEVIL」は地獄へ落とされるのです。
これは「ヒポクラテスの誓い」にも書かれていることです。
又、ハルキストと呼ばれる信者を世界中に多く生み出している村上春樹作品もコンフィデンスマン(倒錯性の支配)を「真実」とする「異端教団」を形成しています。
村上春樹の作品はコンフィデンスマン(倒錯性の支配)を「真実」として「国民文学」を冒涜しているに過ぎない。
「聖書」を倒錯することで「村上春樹作品」は書かれているのです。
両者とも早稲田大学出身であるところが不思議な共通点となっています。
早稲田大学にはなんらかのコンフィデンスマン(倒錯性の支配)の「思考」が存在しているようです。
それは早稲田大学の「模範国民の育成」にあると私は思います。
早稲田大学が主張する「模範国民」とはコンフィデンスマン(倒錯性の支配)の「産物」であったのです。
何故なら早稲田大学生が「模範国民」である根拠が全く判明ではありません。
早稲田大学生が「模範国民」であることについて説明責任を果たす必要がある筈です。
これは村上春樹作品も同様です。
村上春樹も作品の説明責任を全く放棄しています。
マスメディアは村上春樹作品の「意味不明」を「難解」で「奥深い」と宣伝して賛美しています。
そういったコンフィデンスマン(倒錯性の支配)は「ヨーゼフ・ゲッベルス」を想起させます。
コンフィデンスマン(倒錯性の支配)とは「最高悪崇拝」であった。
これはコンフィデンスマン(倒錯性の支配)を「真実」とする宣伝活動であって「狂気のデマゴーグ」の出現となっている。
例を一つ挙げれば狂気の「ハンカチ王子!」の連呼のようなものです。
早稲田実業高校とは何だろうか?
早稲田大学生は何故か「模範国民」であり「ハンカチ王子!」でした。
あの「ハンカチ王子!」もヨーゼフ・ゲッベルスと同様のコンフィデンスマン(倒錯性の支配)であって犯罪キャンペーンでした。
何故ならば「早稲田スーパーフリーサークル事件」の余波のコントロールが「模範国民」の早稲田大学生にとって必要とされていたからでしょう。
しかしそれはすべての国民にとってバカバカしい話なのです。
早稲田大学の「模範国民」のために国民全てが冒涜されたコンフィデンスマン(倒錯性の支配)の卑劣な犯罪キャンペーンと言えるからです。
要は「愚民政策」だったのです。
日本のマスメディアは毎日新聞社系以外全滅です。
要は日本のマスコミは毎日新聞社系だけなのです。
何故ならば他のマスメディアはコンフィデンスマン(倒錯性の支配)だからです。
これは私の個人的認識であって当然「異論」はあるでしょう。
ただ私の考えを公にすることは読者諸君のコンフィデンスマン(倒錯性の支配)を禁忌とする「思考」に役立つと考えています。
何故ならこれが「説明責任」であり「公共性」だからです。
「公共性」とは殉教者(確信性の確保)であり得るだろう「余地」によりコンフィデンスマン(倒錯性の支配)を禁忌とする「思考」となることです。
そういった意味で公共放送NHKの「公共性」とは「有名無実」なのです。
ただ公共放送NHKは「受信料」を国民から「税金」のように徴収しているだけなのです。
その一点において「公共性」なのです。
要は「税金放送NHK」であっただけなのです。
「税金放送NHK」に於いてコンフィデンスマン(倒錯性の支配)が「公共性」とされている。
これは「オウム真理教」が形成した「カルト集団」と同様と言えます。
今、日本はヨーゼフ・ゲッベルスと同様のコンフィデンスマン(倒錯性の支配)の犯罪キャンペーンばかりです。
「公共性」とは殉教者(確信性の確保)であり得るだろう「余地」によりコンフィデンスマン(倒錯性の支配)を禁忌とする「思考」なのです。
マスメディアに「公共性」がなければ当然コンフィデンスマン(倒錯性の支配)であって犯罪キャンペーンとなるのは必定なのです。
ただ同情するわけではありませんけれどコンフィデンスマン(倒錯性の支配)を説明する「能力」とは「無理の超越」となってしまいます。
何故ならばそれは「超能力」とされているからです。
「超能力」は一言で評して「エニグマ」となります。
ただ「エニグマ」とは「特殊詐欺」とも言います。
意図的に説明不可能とされているからです。
殉教者(確信性の確保)に対してコンフィデンスマン(倒錯性の支配)は「全知全能感」を形成します。
そういった「全知全能感」とは「超能力」とされます。
ただそういった「超能力」とは「八百長」であって「特殊詐欺」です。
アメリカでは八百長クイズ番組が暴露され社会問題になったことがありました。
「クイズの解答」を知っていれば「全知全能感」は容易く形成されます。
それは「自転車の鍵」と大して変わりません。
「鍵」を持っているかどうかの違いでしかないからです。
あれもこれも「八百長」だったのです。
何故ならコンフィデンスマン(倒錯性の支配)の「凶悪犯罪」である故に「犯行の自白」がないなら「詳細な説明」をすることは実際に困難です。
知り得ないものに対して「全知全能感」を持つことは「超能力」となります。
そして「エニグマ」を使用したコンフィデンスマン(倒錯性の支配)はその「最大のタブー」を最悪に利用して凶悪事件を起こすのです。
人間には二種類いるということなのです。
一種類目は殉教者(確信性の確保)です。
二種類目はコンフィデンスマン(倒錯性の支配)です。
人種が違いのかも知れません。
しかしそれを最悪に利用したアドルフ・ヒットラーは自らをアーリア人と主張しコンフィデンスマン(倒錯性の支配)による殉教者(確信性の確保)への大虐殺を行ったのです。
それがかの有名なユダヤ人大虐殺(ホロコースト)です。
こういった最悪な凶悪犯がそう簡単に完全な自白をする筈がありません。
そういう意味で「共犯関係」も構築され易く犯罪天国となっていくのです。
最悪の凶悪犯の自白において「完落ち」はあまり例はなく、「半落ち」も極めて少ないでしょう。
ヨーゼフ・ゲッベルスも全く自白しなかったのです。
彼は「知らぬ存ぜぬ」で「無知」を主張したのです。
ヨーゼフ・ゲッベルスは「無知」のコンフィデンスマン(倒錯性の支配)だった。
一方でソクラテスは「無知」の殉教者(確信性の確保)だった。
この両者は「無知」に於いて対象的であって全く異なっていました。
コンフィデンスマン(倒錯性の支配)の犯行の場合には「証拠」と「証言」が絶対に必要となります。
このようにこれらの事件には「立証責任」が必要となります。
だから厳しい事件捜査となることは必定となったのです。
「全知全能感」を持つ「超能力」とはマンガの世界観であって「根拠」がありません。
一方でサイエンス・フィクションの世界観は「知」に対して「一定の根拠」を提供します。
そこがマンガとサイエンス・フィクションの決定的違いです。
ナメック星人が創造する「ドラゴンボール」に「根拠」はありますか?
鳥山明「ドラゴンボール」はマンガであってコンフィデンスマン(倒錯性の支配)の賜物でした。
「根拠」がありません。
それは「根拠」が「循環論証」であることを示しています。
そういった「根拠」の「説明責任」は不可能であったのです。
何故ならば「論理上の虚偽」だからです。
よって作品のインフォームド・コンセントは決してなされません。
このようなマンガとは「カルト作品」といいます。
他では庵野秀明監督「新世紀エヴァンゲリオン」も有名な「カルト作品」です。
一方で聖宮崎駿が創作した「ルパン三世」はサイエンス・フィクションであって殉教者(確信性の確保)の賜物だった。
それは「根拠」の「説明責任」が果たされることを示しています。
このような作品はコンフィデンスマン(倒錯性の支配)と対立関係にあります。
何故ならそのようなコンフィデンスマン(倒錯性の支配)は殉教者(確信性の確保)に対する冒涜(最高悪)として存在するからです。
よって作品のインフォームド・コンセントはなされることは当然でした。
聖宮崎駿監督作品とは「カトリックアニメ信仰」だったのです。
他では毎日新聞社系(TBS含む)も殉教者(確信性の確保)であり得るだろう企業理念を持っていると見做されます。
※SONYも殉教者(確信性の確保)であり得るだろう企業理念と思われる。
だから彼らのバカがバレたということはハッキリしました。
何故ならコンフィデンスマン(倒錯性の支配)であっても「バカはバカ」だからです。
彼らコンフィデンスマン(倒錯性の支配)は「凶悪」であるだけです。
彼らの頭が良いということもない。
彼らが特に優秀ということもない。
彼らはただ凶悪だった。
そしてそれは「最高悪崇拝」だったのでした。
それは「悔い改め」と「隣人愛」に対すコンフィデンスマン(倒錯性の支配)だった。
今度、村上春樹に会った人がいたら「バカ男!(倒錯動物!)」と罵ってやっていいと思います。
それは早稲田大学スーパーフリーサークル出身学生も同様です。
「お前らバカがバレたんだよ!」と罵ってやっていいと思います。
彼らは「コミュニケーション」が不可能であって「動物」以下の「倒錯動物」であったことが判明してしまったのです。
彼らには優れたところが何もなかった。
彼らはコンフィデンスマン(倒錯性の支配)であるだけでただ凶悪でした。
彼らはバカのクズでした。
彼らのコンフィデンスマン(倒錯性の支配)のコミュニケーションとは「変態ゲーム」のようでした。
このような「倒錯動物」を「人間動物扱い」してはいけないと言うことです。
「悔い改め」と「隣人愛」に対するコンフィデンスマン(倒錯性の支配)は「愛」を持たない。
彼らは「地獄行き」です。
このような彼らはインフォームド・コンセントを拒否する医師のようです。
そういったコンフィデンスマン(倒錯性の支配)を「真実」とする「異端教団」が早稲田大学の正体であったと言えます。
「異端教団」とは「倒錯動物園」だったと言えます。
「倒錯動物園」の「危険動物」が彼らでした。
殉教者(確信性の確保)に対してコンフィデンスマン(倒錯性の支配)は「マウンティング」で応じたのです。
「コミュニケーション」への「マウンティング」とは「黒ミサの儀式」です。
「呪術崇拝と偶像崇拝」が支配する「異端社会」です。
「はじめ」には「神とことば」があります。
それは殉教者(確信性の確保)です。
その「神とことば」を「呪術崇拝と偶像崇拝」へ倒錯させるのです。
しかしコンフィデンスマン(倒錯性の支配)には「おわり」しかありません。
「はじめ」とは「神とことば」であって「黙示録」となります。
一方で「おわり」とは「呪術崇拝と偶像崇拝」であって「末法思想」となるのです。
何故ならば「神とことば」を冒涜するだけの「異端社会」となるからです。
それは古来「バフォメットの偶像崇拝」と言われています。
「バフォメットの偶像崇拝」とは「神」に対する「マウンティング」であり「倒錯動物」の「悪魔崇拝」でありました。
殉教者(確信性の確保)を倒錯したコンフィデンスマン(倒錯性の支配)が「倒錯動物」の「最高悪サタン崇拝」として扇動されるのです。
これは「イエス・キリスト」に対して「堕天使ルシファー」が召喚されたと言えます。
「堕天使ルシファー」は「最高悪サタン」と言われています。
マウンティング行動とは「人間動物(ペルソナ)」を前提にした人間社会にとって「最大のタブー」となっている。
ただこのように人間社会が「人間動物(ペルソナ)」を前提にすることにそもそもの無理があったのです。
何故なら「人間動物(ペルソナ)」とは殉教者(確信性の確保)であり得るだろう「高度な精神的姿勢ユーモア」だったからです。
一方で「マウンティング行動」とは「人間動物(ペルソナ)」に対する「倒錯動物」の冒涜行動です。
このような「倒錯動物」には「愛」は存在せず「最高悪」とされます。
「人間動物(ペルソナ)」の存在を前提とした人間社会にとって「倒錯動物」の存在は「最大のタブー」となっている。
これは「人間動物(ペルソナ)」の存在が「均等」ではないという現実を倒錯してしまった「人間平等の理念」に欠陥があったからと言える。
要は誰しもが「人間動物(ペルソナ)」であるという「人間平等の理念」を前提にはできないという現実である。
それは人間社会が「人間動物(ペルソナ)」の存在を当たり前とした認識が完全に間違っていたことを示しています。
人間社会を形成している構成員は「人間動物(ペルソナ)」である筈という根拠のない判断が完全に間違っていたのです。
要は「呪術崇拝と偶像崇拝」によらず「人間動物(ペルソナ)」であるという証しが説明責任として必要なのです。
説明責任とは「神とことば」への殉教者(確信性の確保)であり得るだろう「告白」としてあります。
殉教者(確信性の確保)であり得るだろう「告白」を持たない「ヒト型とヒトのことば」が「呪術崇拝と偶像崇拝」であった場合に「人間動物(ペルソナ)」の証しは全くあり得ません。
その「ヒト型とヒトのことば」は「倒錯動物」であると判断されます。
「ヒト型」であるように見えても、「ヒトのことば」を喋っているように見えても、「呪術崇拝と偶像崇拝」であるのなら「人間動物(ペルソナ)」ではなく「倒錯動物」であるのです。
そのような「倒錯動物」は「人間社会の構成員」にはなり得ない。
「倒錯動物」であった早稲田スーパーフリーサークル出身者やコンフィデンスマン(倒錯性の支配)を「真実」とする村上春樹作品のように処分の対象となるのです。
又、このような「ヲタク芸術」で有名なのは庵野秀明監督の「新世紀エヴァンゲリオン」です。
この作品は「ヒト型とヒトのことば」がテーマだった。
「使徒」と呼ばれる「人類の敵対者」は「ヒト型」から程遠い奇っ怪な風体をしています。
しかしこれは「ヒト型とヒトのことば」を「神とことば」に倒錯させる「神演出」としてありました。
そういった「神演出」とは「神とことば」に対する「ヒト型とヒトのことば」の「マウンティング」を意味していたのです。
そして「呪術崇拝と偶像崇拝」によって形成された「異端社会」による支配を目論んでいた。
「新世紀エヴァンゲリオン」とは「人間動物(ペルソナ)」に対して「マウンティング」する「倒錯動物」を「ヒーロー」として超人気作品となりました。
しかしこれは「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」に対するコンフィデンスマン(倒錯性の支配)のスカトロジーの「マウンティング」でありました。
実際に「新世紀エヴァンゲリオン」とは「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」に対する「冒涜行為」でした。
聖宮崎駿監督に対しても露骨に「マウンティング」していく庵野秀明監督とは「倒錯動物」であり「人間社会の構成員」と言ってはいけない存在だった。
本来であれば庵野秀明監督が制作した「ヲタク芸術」とは「人間社会」から追放され処分の対象となるべきコンフィデンスマン(倒錯性の支配)のスカトロジーでした。
何故ならば庵野秀明監督は「倒錯動物」であって「人間動物(ペルソナ)」ではないからです。
以前にも書きましたが「ヲタク人」とは「動物」以下の「倒錯動物」と言えるのです。
庵野秀明監督は「神とことば」(ロゴス)に対して「ヒト型とヒトのことば」(呪文)で「マウンティング」する。
これは大きな事実です。
「神とことば」(ロゴス)が「カトリックコミュニケーション」であり、「ヒト型とヒトのことば」(呪文)とは「カトリックコミュニケーション」に対する「マウンティング」(支配)であるからです。
それは殉教者(確信性の確保)に対して「マウンティング」するコンフィデンスマン(倒錯性の支配)となっています。
それは「デマゴーグの支配」を意味しています。
例えば庵野秀明監督は「ウルトラマンタロウ」を名作と評価しました。
私はここに「神とことば」(ロゴス)ではなく「ヒト型とヒトのことば」(呪文)を見出しました。
聖宮崎駿は「神とことば」(ロゴス)によって作品を創作します。
一方で庵野秀明監督は「ヒト型とヒトのことば」(呪文)によって作品を制作します。
庵野秀明監督とは「呪術崇拝と偶像崇拝」のアジテータでしかなく才能の欠片もないのです。
何故なら「偶像と呪文」を制作することを作品としているからです。
どういうことかを簡単に説明するには先程指摘した聖宮崎駿監督との比較が簡単です。
聖宮崎駿監督は「はじめに、ことばがいた。ことばは、神のもとにいた。ことばは、神であった。・・・」となり殉教者(確信性の確保)であり得るだろう「余地」となっています。
一方で庵野秀明監督は「はじめに、呪文がいた。呪文は、偶像のもとにいた。呪文は、偶像であった。・・・」となり「呪術崇拝と偶像崇拝」になっています。
このような「呪術崇拝と偶像崇拝」のあり方は有名な「バフォメットの偶像崇拝」であるでしょう。
「バフォメットの偶像崇拝」は「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」ではなく「異端」です。
先ほども指摘しましたがこういった「異端」はコンフィデンスマン(倒錯性の支配)のスカトロジーでしかありません。
そのような「異端」とは「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」の「才能」はなく、「詐術」の「才能」を示しています。
何故ならば「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」が才能であって、「呪術崇拝と偶像崇拝」のアジテーターはコンフィデンスマン(倒錯性の支配)であり「異端」であり「スカトロジー」だからです。
コンフィデンスマン(倒錯性の支配)のスカトロジーを売りつける「ストーカー」とは「痴漢」でしかありません。
もっとわかり易く言えば「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」に対して穢いつばを吐きつけていく冒涜行為が「才能」である筈がないのです。
庵野秀明監督とは「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」に対して穢いつばを吐きつけていく下品な「倒錯動物」と言えるのです。
それが「異端児」です。
しかし「異端児」とは決して自慢できる存在ではありません。
それは「詐術」の「才能」と言えるからです。
庵野秀明監督が書いた「作画」はどれも「虐殺シーン」や「破壊シーン」ばかりだった。
庵野秀明監督はそれを「才能」だと自慢していた。
しかし彼の「才能」はアニメーションの根幹である筈の「生命の受肉」に対して倒錯しています。
庵野秀明監督とはアニメーションの「生命の受肉」に対して「死神」となっているのです。
「ヲタク芸術グループ」とはアニメーションの「生命の受肉」に対する「死神」だったのです。
ここに衝撃の事実が明らかになった。
「最高悪崇拝の末法思想」と「最高善信仰の黙示録」
「ゴート札(詐欺の才能)」と殉教者(確信性の確保)の黙示録(聖戦)が「ルパン三世 カリオストロの城」のテーマだったのです。
このように「人間社会」に対してコンフィデンスマン(倒錯性の支配)のスカトロジーを持って「マウンティング」することは「最高悪崇拝」であり「最大の罪」です。
「最高悪崇拝」は「人間社会」の「最大の敵」なのです。
「ヲタク芸術家」は「最高悪崇拝」という「最大の罪」を「人間社会」に対して犯している。
そして「ヲタク芸術家」は「人間社会」の「最大の敵」として君臨している。
このような「ヲタク芸術家」の君臨がエリートの証しとされている。
しかしそれはコンフィデンスマン(倒錯性の支配)のスカトロジーによる「マウンティング」に過ぎない。
ここにはそのような「最高悪崇拝の末法思想」に対して「最高善信仰の黙示録」が行われる必要性があります。
「聖戦」は「愛」を救済しコンフィデンスマン(倒錯性の支配)のスカトロジーを撃つ「最高善信仰の黙示録」として行われます。
「最高善信仰の黙示録」は「カトリックエレクト」によって為されます。
今、「人間社会」の「最大の敵」を撃つ「聖戦」が始まっている。
「ヲタク芸術家」は「最高悪崇拝」を扇動した報いで「最大の罰」を受けるべきなのです。
「最大の神罰」がコンフィデンスマン(倒錯性の支配)のスカトロジーを扇動した報いで「ヲタク芸術家」に下って欲しい。
「最大の神罰」は「悔い改め」と「隣人愛」に対するコンフィデンスマン(倒錯性の支配)へ下ります。
コンフィデンスマン(倒錯性の支配)のスカトロジーを祀り上げる「ヲタ芸人」とは「堕天使ルシファー」!
このようなコンフィデンスマン(倒錯性の支配)のスカトロジーは何故生れたのでしょうか?
それは「バフォメットの偶像崇拝」が生れた理由と同じです。
「愛」を持たず、ただコンフィデンスマン(倒錯性の支配)のスカトロジーを祀り上げた「ヲタ芸人」に私は全く同情を感じません。
殉教者(確信性の確保)に対してコンフィデンスマン(倒錯性の支配)のスカトロジーを祀り上げた「日本サブカルチャー」と言えます。
「バフォメットの偶像崇拝」とは「日本サブカルチャー」の「ヲタ芸人」と同様のあり方をしている。
コンフィデンスマン(倒錯性の支配)のスカトロジーを祀り上げる「ヲタ芸人」とは「堕天使ルシファー」の「支配」と同様なのです。
コンフィデンスマン(倒錯性の支配)のスカトロジーを祀り上げる「ヲタ芸人」とは「悪魔の群」であった。
そういった陰湿な扇動活動は「他者」がコンフィデンスマン(倒錯性の支配)のスカトロジーを受け入れるまで続けられる。
要は「他者」はコンフィデンスマン(倒錯性の支配)となっていくのです。
「他者」がコンフィデンスマン(倒錯性の支配)となる意味は殉教者(確信性の確保)であり得るだろう「余地」の「棄教」です。
「ヲタ芸人」とは「他者」をコンフィデンスマン(倒錯性の支配)のスカトロジーへ追い詰めていく超危険なストーカーであったのです。
コンフィデンスマン(倒錯性の支配)の「悔い改め」と「隣人愛」とは殉教者(確信性の確保)の「確信性」の「余地」によってコンフィデンスマン(倒錯性の支配)を禁忌とする「思考」となっている。
コンフィデンスマン(倒錯性の支配)は「悔い改め」と「隣人愛」によって「神の王国の到来」は齎される。
一方でコンフィデンスマン(倒錯性の支配)の「思考」とは「倒錯崇拝」であって「確信性の確保」を「呪術崇拝と偶像崇拝」へ落とし込み堕落を扇動する。
それによってコンフィデンスマン(倒錯性の支配)の支配は確立することで「悔い改め」と「隣人愛」は起こらず「完全犯罪」は実現するだろう。
しかしそのような「完全犯罪」の「世界」は穢れきっているだろう。
世界の回復は「キリスト教の黙示録」とされ現世のあり方となっている。
これは一般に「公共性」を持った「大衆(国民)」と言われる。
優秀な「大衆(国民)」とはこのような「公共性」を持った「啓蒙民」となっている。
このような「公共性」は「大衆(国民)」に対するオマージュ(イマーゴ)を持っている。
一方で穢れた世界に於いてあの世の「浄土思想」が形成される。
そこでは「末法思想の阿弥陀如来」が崇拝されている。
これは一般に「公共性」を欠落した「愚民」としての「大衆(国民)」と言われる。
ここでは「大衆(国民)」に対するオマージュ(イマーゴ)は一切存在しない。
又こういった「愚民」に対して「模範国民」が存在することになる。
この「模範国民」が「啓蒙民」である根拠について「愚民」へ「説明責任」は一切果たされない。
何故ならば「愚民」にとって理解不可能とされているからです。
それは「模範国民」が「阿弥陀如来」とされることに等しい。
要は現世での救済はなく、あの世の極楽浄土を根拠もなく約束していると言うことになる。
「模範国民」も「極楽浄土」も根拠のない約束手形のようなものです。
現世の救済は「キリスト教の黙示録」であり、あの世における極楽浄土の約束手形は「浄土教の末法思想」となる。
「悔い改め」と「隣人愛」に対するコンフィデンスマン(倒錯性の支配)は黙示録に於いて現世の地獄に落ちる。
一方で「悔い改め」と「隣人愛」に対するコンフィデンスマン(倒錯性の支配)は末法思想に於いてあの世の極楽浄土を約束される。
これは「ヒポクラテスの誓い」も同様の趣旨だった。
「ヒポクラテスの誓い」とは「黙示録」だったのです。
それが「逆の報い」を願うことです。
「愛のない罪人」なら「地獄行き」なのです。
ここで重要なことは殉教者(確信性の確保)であり得るだろう「余地」とはコンフィデンスマン(倒錯性の支配)を禁忌とする「思考」であって、それは「悔い改め」と「隣人愛」を示している。
「悔い改め」と「隣人愛」とは「啓蒙民」の形成を意味し、「優秀な国民性(大衆性)」を示している。
一方で根拠のない「模範国民」とは「特殊詐欺」と言えるだろう。
「優秀な国民性(大衆性)」と「模範国民」とは対立概念であったからです。
何故なら「模範国民」とは「愚民政策」を意味していたからです。
オマージュ(イマーゴ)に対するコンフィデンスマン(倒錯性の支配)は「THE DEVIL」となります。
何故ならばイマーゴ(神の似姿)に対するコンフィデンスマン(倒錯性の支配)は敵対者の「THE DEVIL」を示しているからです。
「THE DEVIL」は「愛」を持たない故に「悔い改め」と「隣人愛」はあり得ない。
一人の「罪人」と敵対者の「THE DEVIL」は違うのです。
一人の「罪人」は「悔い改め」と「隣人愛」を必要としている。
それが「救済」です。
一方で敵対者の「THE DEVIL」とは「悔い改め」と「隣人愛」に対するコンフィデンスマン(倒錯性の支配)であって「愛」を持たない。
「救済」は不可能であって「地獄」へ落とすしかありません。
「バフォメットの偶像崇拝」に対して「愛を持った人」を救済することは「福音」となっています。
この世界で「愛を持った人」を救済することこそ「キリスト教」と言えるのでした。
「愛を持った人」とは「聖宮崎駿」であり「聖宮崎駿の創作したルパン三世」です。
そして殉教者(確信性の確保)であり得るだろうすべての人は「愛を持った人」なのです。
殉教者(確信性の確保)であり得るだろう「余地」とは「悔い改め」と「隣人愛」なのです。
「愛を持った罪人」は「悔い改め」と「隣人愛」を為す。
そして「隣人愛」とは「愛を持った人」を愛することです。
「隣人愛」とは「愛を持った隣人」を愛することなのです。
そこには「カトリックエレクト」の「カトリックコミュニケーション」が存在します。
それが「人間動物(ペルソナ)」の「人間社会」と言えるのです。
最後に
「聖宮崎駿の創作したルパン三世」とは「聖書」であり「福音」でした。
それは「愛」だった。
この連作作品を黒田清子さま(旧名・殿下清子内親王)、敬宮愛子内親王さま、そして聖宮崎駿さまへ捧げます。
愛を込めて Soma Oishi.
完
(再編集版)
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