これはカトリック(最高善の神)の黙示録(revalation)である
まえがき
安土城の築城は近世式の天守閣においてイマーゴ(真善美の回復)と言われている。
しかし一般に言われている歴史では天正 10(82)年6月2日、「本能寺の変」の後に焼失しているため実際の姿を知ることはできないとされている。
最近大規模な安土城発掘調査の発表があった。
バチカン宮殿へも調査が行われるとある。
バチカン宮殿には織田信長と安土城に関する何らかの資料が存在する由縁があると見られる。
ここで私が指摘したいことは安土城が「信仰から形成されたオリジナル」として存在しているとしたら後に建造された天守閣は「オマージュ(印象操作)」であると判断される。
では「信仰から形成されるオリジナル」を弾圧して存在する「オマージュ(印象操作)」とは何だろうか?
『信長公記』に見る「ダビンチコード」
「蛇石(じゃいし)」はダビンチコード
「魚」は「蛇」であり「パン」は「石」を示している
ここに明智光秀の名前がないことに何か意味があると思われる。
想像だが明智光秀の「謀反」ではなかったことを示したいのではないだろうか!
私は津田坊と羽柴秀吉・滝川一益・丹羽長秀の4人が怪しいと思う。
何故なら「蛇石」の意味はカトリックに於いて「最悪」を示しているからです。
「蛇石」(最悪)を「運び寄せ」「引き上げた」という記述であろう。
それは「バフォメット」の存在を暗示している。
「蛇石」は現在所在不明とされているらしい。
これほどの巨石が所在不明とはなんとも不可解な事実であろう。
これは聖書の一文を暗に示したダビンチコードであると考えられる。
「魚」は「蛇」であり「パン」は「石」を示している。
「パン」と「魚」とはカトリック(最高善の神)の恵の象徴であるのです。
そういった「パン」と「魚」は「イエス・キリストの肉」であり「イエス・キリストの血」を示しています。
それらは「イエス・キリストのパン」(真実の食べ物、真実の飲み物)を示し「永遠の命のパン」を示しています。
それはカトリック信仰から受肉する「叡智」を意味しています。
織田信長の「楽市楽座」「天下布武」などはその典型であるでしょう。
又、タロットカードのあり方は「叡智」(アルカナ)とされています。
安土桃山時代の「美」とは「安土」が「美学」であり、「伏見」が「利益追求」による「豪華絢爛」となる。
そのような「利益追求」を廃棄し「信仰を入れる場所を確保すること」が「美の学問の形成」となっている。
そして「美の学問の形成」が「美学」と言えます。
そのようなイマーゴ(真善美の回復)が「白ミサのヒューモア(善き羊飼い)」である。
それは「芸術性」です。
それは「最高のイノセント」です。
「美学」としての「安土」とは織田信長の「美学信仰(カトリック)」としてあった。
だから「信長」なのだろう。
しかしそれに対する「黒ミサアイロニー(堕天使ルシフェル召喚)」が「利益追求」としての「伏見」を生んだのです。
それは「ヲタ芸」です。
それは「最大のギルティ」です。
「美学」を「醜悪」として貶め冒涜し、「醜悪」を「スター」の如く祭り上げ崇拝する「利益追求」が存在した。
「利益追求」としての「伏見」は豊臣秀吉らの「利益追求崇拝(プロテスタント)」としてあった。
だから「豊臣」なのだろう。
このように「安土桃山時代」とは「ユートピア」と「ディストピア」の縮図となっている。
聖書における「蛇石」(求めれば与えられる マタイ、 ルカ)
1 真偽の「真」
ここで分かりやすくするために幾らか例を挙げたいと思います。
聖宮崎駿と彼の後継者と言われるアニメクリエーターの比較は非常に分かりやすい現代感覚だろうと思います。
彼らの作品は同じアニメ映画のジャンルですがその内容は大きく異なっています。
先ず大きな違いを指摘すれば真偽の問題が大きく取り沙汰されます。
アメリカ合衆国の前大統領トランプ氏はマスコミュニュニケーションをフェイクニュースであると指摘しました。
そして自分の言葉(発言)は「嘘のない言葉」であると主張しました。
では「真」とは何でしょうか?
本来であればその前提は「カトリック信仰」であり「神のことば」であると主張されます。
「信仰」は「知の廃棄(doxaをバプテスマする)」の容易さによって確保されていきます。
それによって「神のことば」が受肉します。
そのような「知の廃棄(doxaをバプテスマする)」の容易さの強い場所がサンクチュアリと呼ばれ一般にカテドラルを中心に形成されます。
そのようなあり方は叡智の受肉を賛美し「神の王国の到来」へ導くのです。
私はそれを「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」と呼んでいます。
最高善信仰とはそのような「神のことば」を受肉することを指します。
それが真偽の「真」です。
2 真偽の「偽」
では「偽」とは何でしょうか?
「神のことば」を完全弾圧した「人のことば」を指します。
それは先程指摘した「カトリック信仰」の場所の破壊を指します。
それは「知の廃棄(doxaをバプテスマする)」の容易さが強い場所を殲滅していくことで可能となります。
それはマスメディアのコンテンツから発せられる「知の鵜呑み(doxaによるレイシズム)」の容易さへの扇動活動によって可能となっていきます。
ここで言えることはマスコミュニュケーションは「神のことば」を伝えることを指しマスメディアとは「知の鵜呑み(doxaによるレイシズム)」の容易さを指しています。
そして「doxa」とは「人のことば」を指し真偽の「偽」であるのです。
例を挙げれば受験勉強です。
受験生は入学試験の回答を廃棄して試験の正解を得られません。
受験勉強の知識は仮にそれが真(神のことば)ではなくそれが偽(人のことば)であっても全くかまわない。
もし真偽に拘った受験生が居たとしたらその人は真っ当ではありますが入学試験の落伍者となるでしょう。
何故ならば真(神のことば)に拘っても入学試験で得点は得られず不合格となるからです。
3 「安土城」
では話を『安土城』に戻します。
安土城が真(神のことば)に拘ったカトリックの存在であり、その後の城郭建築が偽(人のことば)の鵜呑みに拘った存在だとしたらそれは何を意味しているでしょうか?
幾らか日本国には城郭建築が存在します。
ここでは敢えて熊本城を引き合いに出したいと考えます。
近年の地震で被害を受けた熊本城は村上春樹を始め多くの著名人がその美しさに賛美の発言をしているからです。
では安土城が「真(神のことば)」であり熊本城が「偽(人のことば)」であるとしたらそれは何を意味しているのでしょうか?
幾らか考えられます。
歴史の真偽もあるかもしれません。
しかしその判別は難しいでしょう。
簡単に言って「安土城」は「白ミサのヒューモア(善き羊飼い)」であり「熊本城」は「黒ミサアイロニー(堕天使ルシフェル召喚)」と言えるものと見做せます。
「安土城」の「最高のイノセント」による「白ミサ」へ一々敵対する「熊本城」の「最大のギルティ」による「黒ミサ」です。
「芸術性」の「白ミサ」へ一々敵対する「ヲタ芸」の「黒ミサ」です。
そのあり方はイマーゴ(真善美の回復)とオマージュ(印象操作)の違いを指摘すれば足りるのです。
しかし「オマージュ」にはスペリングが2つ存在する。
それぞれ意味が異なっています。
それぞれの意味を指摘することは非常に重要です。
「イマーゴ(真善美の回復)」と「啓蒙芸術性への敬意」、そして「忠誠誓約と言う名のヲタ芸」
imago, hommage
「イマーゴ(真善美の回復)」と「啓蒙芸術性への敬意」は「白ミサのヒューモア(善き羊飼い)」を指し示している。
「最高のイノセント」です。
それは「芸術性」です。
homage
そして「忠誠誓約と言う名のヲタ芸」とは「黒ミサアイロニー(堕天使ルシフェル召喚)」のことを示している。
「最大のギルティ」です。
それは「ヲタ芸」です。
imago, hommage, homage
4 「人工の第2の方舟」として建造された「バベルの塔(神の門)」と「高層建築」
「神の王国の到来」と「バチカン宮殿(大聖堂)」と「一層建築」
では城郭建築として検証してみましょう。
安土城はカトリック(最高善の神)への信仰から建造されています。
熊本城はカトリック(最高善の神)を弾圧し主君への忠誠を誓うことで建造されています。
シンプルに指摘して安土城は「人工の第2の方舟」として建造された「バベルの塔(神の門)」ではない。
何故ならば「知の廃棄(doxaをバプテスマする)」の容易さの強いサンクチュアリであったと見做せるからです。
そして熊本城はカトリック(最高善の神)を貶め冒涜し忠誠誓約を「スター」の如く祭り上げ崇拝する「人工の第2の方舟」として建造された「バベルの塔(神の門)」と言えるでしょう。
その意味するところは安土城が熊本城の様な多重階の「高層建築」ではなかったという判断が可能となります。
例えば安土城は「五重塔」のような「五階建て」の建築ではなく「一重塔」のような「一層建築」であったと想像される。
「一層建築」は「カトリック信仰」を示している。
安土城はバチカン宮殿の様に「一層建築」を主とした「聖堂建築」だったと判断できます。
「建築高さ」によって価値判断が決まる認識とは「カトリック聖堂建築」においてはあり得ないだろう。
「建築高さ」を誇ることはカトリック信仰の教義上あってはならないからです。
そういう意味で「東京スカイツリー」は「人工の第2の方舟」として建造された「バベルの塔(神の門)」であり「熊本城」なのです。
何故ならば最高善の神へ一々敵対する「人工の第2の方舟」として建造された「バベルの塔(神の門)」と同じ動機を持つていると見做されるからです。
では一般に言われている「安土城」とは何だったのだろうか?
本来、カトリック信仰から建造されたオリジナルであれば「人工の第2の方舟」として建造された「バベルの塔(神の門)」とはならない筈です。
私は「安土城」とは信仰の存在となる何かだったと想像している。
だから「神の王国の到来」を受肉するには大聖堂建造が必要と判断したと言える。
「仮説」として言えることは安土の都は城下町ではなく「大聖堂建造」による「カトリック信仰都市」だったと想像される。
5 城郭建築の起源はデマゴギー
そして熊本城などの天守閣のオリジナルは安土城と言われているがそれはデマゴギーである疑いが強い。
熊本城のオリジナルが安土城であるというのは全くの虚偽であるかもしれない。
では熊本城とは何であるだろうか?
村上春樹が震災によって傷ついた熊本城の美しさを語った発言を私はよく覚えている。
それに違和感を感じたことをここに告白する。
私に言わせれば震災時において城郭なんて二の次であるだろうと感じたからだ。
村上春樹の発言に何の「愛」も感じない。
村上春樹は震災で傷ついた「熊本城」を思いやって「美意識」を誇っているがそこに詐欺師の歪さを感じる。
彼にあるのは「美学」ではなく「醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間」であるだろう。
彼の「黒ミサアイロニー(堕天使ルシフェル召喚)」は詐欺師の「愛」であり、悪魔の「利益追求」である。
悪魔主義と悪魔崇拝は違う。
村上春樹は悪魔崇拝であるだろう。
悪魔主義には「白ミサのヒューモア(善き羊飼い)」が存在し、悪魔崇拝にはそれを完全弾圧する「黒ミサアイロニー(堕天使ルシフェル召喚)」がある。
だから熊本城はイマーゴ(真善美の回復)ではなくオマージュ(忠誠誓約)の象徴であるだろう。
「最高のイノセント」と「最大のギルティ」のあり方はカトリック信仰の存在証明であった。
それは「芸術性」と「ヲタ芸」のあり方に言えます。
村上春樹が賛美したのは「熊本城」が象徴するオマージュ(忠誠誓約)であるだろう。
それは「黒ミサアイロニー(堕天使ルシフェル召喚)」である。
「最大のギルティ」です。
そして「ヲタ芸」です。
自分の難解で理解しがたいと言われる詐欺的作品の鵜呑みを命じている。
それは「知の鵜呑み(doxaによるレイシズム)」の容易さへ誘惑する最高悪の存在である。
村上春樹は文学者でもないのです。
それは悪徳商法を意味する。
それが村上春樹が暗に示しているオマージュ(忠誠誓約)であるだろう。
6 「本能寺の変」のシナリオはカトリックロゴス感覚ではない
織田信長に関する歴史の真偽はどの様に判断されるのだろうか?
ここで言えることは「知の廃棄(doxaをバプテスマする)」の容易さにより信仰を入れる場所を確保することの至上命令です。
それにより「神のことば」は受肉するだろう。
そして多くのマスメディアの情報を鵜呑みにすることはカトリック信仰の完全弾圧であり「神のことば」を完全弾圧する「バビロン捕囚」と同等となる。
では真の歴史を示せと言われた時に私が言えることは「最高善信仰」を持てということとなります。
例えば「本能寺の変」の謎とされている明智光秀だけが織田信長の近くにいたとされた歴史的事実です。
そのようなエアポケット状態が形成され「謀反」を引き起こしたと言われている。
しかしそれは明らかにおかしい。
何故ならば明智光秀は鉄砲組の司令官であり当時の最精鋭部隊を指揮していたからです。
織田信長にとって明智光秀とは家臣の中で最高の人物だったと見做すことができる。
水攻めをしていたという羽柴秀吉とは格が違う。
その意味するところは明智光秀とは織田信長の「虎の子部隊」であり側に仕えていて当然の最側近の存在だったと想像される。
明智光秀は最も信頼できる近衛部隊司令官であったと言える。
だから織田信長をどうあっても死守するのが明智光秀であるでしょう。
近衛部隊(明智光秀)と織田信長は一心同体なのです。
だから明智光秀は織田信長を裏切らず最後まで戦い抜いたのです。
明智光秀が織田信長に叱責されて謀反を起こしたという筋書きはあまりに稚拙である。
明智光秀謀反は捏造だと判断していいと思う。
そして明智光秀は羽柴秀吉に討たれたとされている。
それは一体どういうことだろうか?
では何があったのだろうか?
「本能寺の変」の後に天下取りと称して織田信長の家来集(カトリック)を殲滅したのは羽柴秀吉(プロテスタント)とされている。
では羽柴秀吉とは一体誰だろうか?
一般に「猿」と言われている。
私は多くの人々がテレビドラマなどで「猿」に似た俳優が演じる羽柴秀吉を観ていることを知っている。
私も何人かの羽柴秀吉を演じた俳優を知っている。
しかしその虚実の在処は外見が「猿」ではなく中身が「猿」であるという風刺だったのではないだろうか?
要は羽柴秀吉が「猿」という意味は「外見」ではなくカトリック信仰のないことを示している。
それは「信仰から形成されるペルソナ(オリジナル)」が存在しないことを示している。
ではペルソナ(オリジナル)が存在しないとは何を示しているのだろうか?
それはカトリックに対する敵対感覚としてあり、その正体は「信仰より形成されたペルソナ(オリジナル)」を前提としたオマージュ(印象操作)の存在であるだろう。
その示すところは「面子(印象操作)」である。
ここで例を挙げれば自動車産業においてトヨタ自動車はペルソナ(オリジナル)だろうか?
トヨタが誇っているのは販売台数が主である。
両者の何が違うのだろうか?
それは「白ミサのヒューモア(善き羊飼い)」と「黒ミサのアイロニー(堕天使ルシフェル召喚)」の違いと言ってしまえば簡単である。
そして「最高のイノセント」の「最大のギルティ」の違いであり「芸術性」と「ヲタ芸」の違いなのです。
それが「似て非なり」と言われる錯覚を生み易いあり方なのです。
トヨタ自動車が誇る販売台数は「信仰から形成されるペルソナ(オリジナル)」ではない。
「誠実」ではないのだ。
それは詐欺的悪徳商法であるかもしれない。
販売台数を誇るだけなら詐欺的悪徳商法が手っ取り早く効果的である。
「黒ミサのアイロニー(堕天使ルシフェル召喚)」の商売は世界を荒廃させる。
何故ならば「最大のギルティ」だからです。
それは「ヲタ芸」です。
「黒ミサのアイロニー(堕天使ルシフェル召喚)」の存在だが具体的にその正体は何だろうか?
「ヲタ芸」は「サル芸」と言えます。
「サル真似」を「スター」の如く祭り上げ崇拝するあり方が「ヲタ芸」だったのです。
そのような「劣等」をアーリアとするネオ・ナチズムが起こったと判断できる。
豊臣秀吉(猿)の朝鮮出兵はアドルフ・ヒットラー(猿)の侵攻と同様だったのだろう。
メシア信仰を信仰弾圧して誇らしげにデタラメを行う英雄崇拝が支配したのだろう。
「犬と豚」のカルト集団となったのです。
一向宗と同程度の存在です。
メシアと英雄は全く違います。
メシアは「芸術性」であり英雄は「ヲタ芸」である。
そしてメシアは「最高のイノセント」であり英雄は「最大のギルティ」であるのです。
7 安土宮殿の存在証明
織田信長の死の真相は私には知り得ない。
織田信長と明智光秀の両聖人が突然死んだ本能寺の変といわれる事態は一体何だったのだろうか?
一言で評してキリシタン大名の問題だろう。
多くの著名人によるとキリスト教は日本国の領土没収を目的とした悪しき宗教団体としている。
しかしもし日本国のバチカン宮殿(大聖堂)が存在していたとしたら「キリスト教信仰」と「領土問題」の軋轢は一気に解消する。
仮にキリシタン大名であっても自分の領土を他国の宣教師に差し出さなくてもいいからです。
それを日本国のバチカン宮殿(大聖堂)の領土とすればいいだけである。
それが安土の都であったのではないだろうか?
安土城とは日本国のバチカン宮殿(大聖堂)であったと想像される。
私は人生を閉じる前に安土城址と言われる場所に取材に行きたいと考えている。
そこは日本国の信仰都市「安土宮殿」であったのです。
最後の提言
本能寺の変(開国主義 織田信長)
桜田門外の変(開国主義 井伊直弼)
カトリック信仰の「白ミサ」へ一々敵対する後継者崇拝が露骨に行われた悪しき例は決して少なくはない。
ほとんどそうなっている。
ただ言えることは「知の廃棄(doxaをバプテスマする)」を容易にすることにより聖織田信長の「カトリック信仰」の場所を確保することが至上命令となるのです。
しかしそのような「知の廃棄」の容易さの「白ミサ(至上命令)」へ一々敵対して「知の鵜呑み」の容易さへ扇動する「黒ミサ(デマゴギー)」が行われる。
そのような「白ミサ」へ一々敵対されるあり方(黒ミサ)はカトリック信仰者にとって「試練」と言えます。
ここで言えることはどのような「試練」の中でも「聖織田信長信仰」を守護し生活することは「永遠の命」を得ることになるのです。
何故なら「イエス・キリストのパン」(真実の食べ物、真実の飲み物)を得ることになるからです。
だから、カエサルのものはカエサルに与えよ、しかし神のものは神に(与えよ)
このパンを食らっている人は永遠に生きることとになる
「救世主、神の子、イエス・キリスト」