【最高善信仰】劇場用アニメーション映画「ルパン三世 カリオストロの城」黒田清子さまから愛子さまへ引き継がれた「ティアラ」の示すものとは?
プロローグ 最高善信仰のティアラ
前書き
『原罪』に対し『無原罪のお宿り』のカトリック信仰が存在する。
そのあり方は最高善の神の愛徳を受肉する『愛されキャラ(可愛い)』を示している。
そういった『無原罪』とは「白ミサ」を齎す。
綺麗は綺麗であり、穢いは穢いであるのです。
そしてそのようなあり方は『可愛いは正義』とされます。
一方で『原罪』を『無垢』と称し『無辜』を主張する屁理屈が存在します。
それはカトリック信仰へ一々敵対する「黒ミサ」であり『逆転の仕組み』なのです。
それは綺麗は穢いであり、穢いは綺麗であるのです。
そういった「黒ミサ」の儀式は「逆転」を「ヲタ芸」により祀っていると言えます。
それによってカトリック信仰(信仰から形成されるオリジナル)へ一々敵対する「逆転」の支配となります。
現実認識を「逆転」させ認識するのです。
そこに歴史信仰はあり得ません。
何故なら逆転した歴史的事実はデマゴギーだからです。
それは政治的宣伝コンテンツに過ぎない。
デマゴギーの歴史から何も学ぶことはできません。
デマゴギーを学ぶなんてナンセンスだからです。
「騙し抜き」によって完全犯罪がなされる。
アウシュビッツ又は防疫731部隊という歴史的事実の抹殺の様に・・・・・・・
よってまともな歴史のない国家信仰もあり得ないのです。
それは国家ではなく「逆転」の支配を司り祀るカルト集団なのです。
そういった「黒ミサ」を司り祀る行為は「バフォメット」と言われています。
そのような「黒ミサ」を司り祀る「バフォメット」とは『超危険思想』なのです。
それがサタン崇拝者(敵対者)の世界観です。
そういった凶事は堕天使ルシフェル召喚と言われ「最悪の災いが世に起こる凶兆」なのです。
それに関しては後に詳述します。
又、近年公開され話題となっている北野武監督作品『首』は「逆転」の凶事の典型です
そして『原罪』を崇拝するアンチキリスト(サタン崇拝)となります。
「ヲタ芸」の芸術(美意識)とはそのような下衆な作品を言います。
しかし下衆な芸術(美意識)に価値は全くありません。
そういった下衆な芸術(美意識)は「有害」しか齎さないでしょう。
ヲタク芸術(美意識)とは文化的価値へ穢い唾を吐き冒涜する。
それを恰も一個のオリジナルと称する「詐欺商法」だったのです。
そして「白ミサ」の芸術(美学)へ一々敵対する「黒ミサ」のヲタク芸術(美意識)とは「最悪の災が世に起こる凶兆」と見做されます。
何故ならばもしヲタク芸術(美意識)が勝利したら『原罪』から人を救済するメシア信仰は完全弾圧されてしまうからです。
宮崎駿(最高善信仰)のルパン三世とはメシア信仰としてあり『原罪』からの救済者と言えます。
私はそれを「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」と名付けています。
又、「聖宮崎駿信仰」と名付けています。
そしてそれらは「最高善信仰」であると言えるのです。
1 劇場用アニメーション映画「ルパン三世 カリオストロの城」を愛するすべてのものへ
「カトリックエリートの最高善信仰」
ご存じの方も多くいらっしゃると思うが「クラリス・ド・カリオストロ」のティアラは「元皇室黒田清子さま」のティアラのマスターとされています。
それは黒田清子さまがカルトアニメ愛好家ではなくカトリックアニメ愛好家であることを如実に示しています。
カルトアニメはカトリックアニメへ一々敵対するプロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)です。
カルトアニメとは「カリスマデマゴーグ」を祀る「政治的宣伝コンテンツ」の制作でしかない。
それは「アニメ芸術(美学)」ではないのです。
それは「ヲタク芸術(美意識)」なのです。
この両者は「白ミサ」と「黒ミサ」として判別されます。
「白ミサ」は「知の廃棄」の容易さへ人を導くことでカトリック信仰へ解放する。
それはイマーゴ(真善美の回復)への信仰です。
しかし「黒ミサ」は「知の鵜呑み」の容易さへ人を陥れることでカルトにより支配します。
それは「逆転」の支配です。
それをカルトというのです。
例えば庵野秀明や新海誠のアニメ作品はカトリックアニメではなくカルトアニメとして制作されています。
それは「黒ミサ」により「知の鵜呑み」の容易さへ人を陥れ支配することを作品の手法(意図)としていることから明確です。
彼らの作品とは「政治的宣伝コンテンツ」だったのです。
彼らは人間関係で芸術家と名乗ることできるかもしれない。
何故ならば「ヲタ芸」だからです。
しかし芸術(美学)とは最高善の神の黙示(revelation)を必要とし彼らの作品はその敵対としてある故にそれらはきっと地獄へ墜ちるでしょう。
少なくとも平成天皇の長女であった黒田清子さまは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を持った人物だと想像される。
そしてそれはカトリックエリートであり最高善信仰を発する存在なのです。
現在その黒田清子さまのティアラは令和天皇長女愛子さまに受け継がれている!
その意味するところは「カトリックエリートの最高善信仰」であるのです!
「アルファとオメガ」は「すべての始まりと終わり」を意味する。
そして劇場用アニメーション映画「ルパン三世 カリオストロの城」は「すべての始まりと終わり」を意味する映画なのだ!
クラリスの介抱
「もし・・・もし・・・・」
ルパン三世(カトリックエリート)はバチカンから来た大司教(カトリックエリート)に変装しクラリスを拝借する。
「おじさま!(泣き声)」
そして婚礼は大暴れの場と化す
『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
2 ルパン三世の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」と『聖戦』
「カリオストロの城」に於いてはクラリス(声優)は「島本須美」でありルパン三世(声優)は「山田康雄」であった。
その後の「山田康雄」の死去に伴い、ルパン三世の「ものまね芸人」だった「栗田貫一」がルパン三世シリーズの声優に大抜擢された。
当時私はこの安易な決定に驚愕した記憶がある。
いくらなんでも「ものまね芸人」にルパン三世を演じさせたら偽物其の物となってしまうだろう。
何故ならば山田康雄が「三位一体のペルソナ」なら栗田貫一は「人間関係の面子」に過ぎないからです。
山田康雄が「最高善の神の子」なら栗田貫一は「ヲタ芸で祀られた存在」に過ぎないのです。
声優「山田康雄」の「最高善信仰」へ一々敵対するものまね芸人「栗田貫一」は「プロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)」であるのです。
栗田貫一は「ものまね芸人(美意識)のウケ狙い」にすぎない。
しかも「ウケ狙い」自体を「ヲタ芸」によって立てられている。
それは「ものまね芸(美意識)」というものが「ヲタ芸」によって祀られた存在であることを示している。
アンチキリストのオタク(美意識)はサタン崇拝(敵対者)であり「本物は偽物」「偽物は本物」とされ「黒ミサ」のあり方となっている。
しかし「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」で言えば「本物は本物」「偽物は偽物」とされ「白ミサ」のあり方となっている。
ルパン三世は本物を盗むことに拘る。贋金は捨ててしまうのだ!(白ミサ)
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."
炎のたからもの(種蒔きの譬の解釈)
イントロ
ウー
ウー
しあわせを
たずねて
私は行きたい
いばらの道も
いてつく夜も
二人でわたって
いきたい
たびびとの
さむい心を
だれが
だいてあげるの
だれが夢を
かなえてくれる
ほのをと
もえさかる
私のこの愛
あなたに
だけは
判ってほしい
きずなで
わたしを
つつんで
「愛国は愛国」「私利私欲は私利私欲」が「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」である。
それは「白ミサ」のあり方です。
一方で「愛国は私利私欲」「私利私欲は愛国」とはアンチキリストの存在でありオタク(美意識)のオマージュ(印象操作)と同様なのです。
それは現在「コミックマーケット(バフォメット)」等で支配的です。
要はオタク(美意識)を祀る「ヲタ芸」となっています。
それは「黒ミサ」のあり方です。
オマージュ(印象操作)は「ヲタ芸」によって祀ることを指します(homage)
特に「TBS(東京放送)」と「フジテレビ」の関係にこの比較は顕著に表れています。
ここで明確にしておきますが「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」を持っているのはTBS(東京放送)・MBS(毎日放送)であるのです。
彼らは「愛国は愛国」「私利私欲は私利私欲」となり「神の王国」を信仰しています。
一方でフジテレビは「私利私欲は愛国」「愛国は私利私欲」と主張します。
それはカトリック信仰へ一々敵対する「プロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)」です。
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」へ一々敵対する「堕天使ルシフェル」の在り方でしかないのです。
彼らの勃興は「最悪の災いが世に起こる凶兆」とされます。
これは「神の王国」と「私利私欲の愛国」の間に必然的に生じる『聖戦』であり『黙示(revelation)』となっているのです。
第一章 宮崎駿のルパン三世(最高善信仰)へ一々敵対するモンキー・パンチのルパン三世(プロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間))
1 旧約聖書サムエル記「ダビデ(最高善信仰)とゴリアテ(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」
劇場用アニメーション映画「ルパン三世 カリオストロの城」はモンキー・パンチ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)の原作コミックのキャラクターを使用して宮崎駿(最高善信仰)がアニメ映画監督デビューを飾った傑作芸術作品(傑作美学作品)です。
私はこのアニメ映画をとても愛している。
このアニメ映画の「著作権」の在り処はモンキー・パンチ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)にあるのだろうか?
宮崎駿監督(最高善信仰)にあるのだろうか?
それともモンキー・パンチ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)がルパンの如く盗作したと言われる「怪盗アルセーヌ・ルパンシリーズ」の作者モーリス・ルブランにあるのだろうか?
私には「著作権法」の兼ね合いは実際にはよくわからない。
制作会社にあるのなら「トムス・エンタテインメント」である。
しかし著作権とは制作会社にしかないのだろうか?
その辺りの日本アニメ映画産業のあり方も私は存じていない。
しかしそもそも「最高善の神の芸術作品(最高善の神の美学作品)」に「人の著作権」はあるのだろうか?
芸術(美学)とは「神演出の支配(カルトエリート)」を嫌悪する最高善の神への感性を持ったダビデ(最高善信仰)が其の最高善の神の意に従い自ら最高善の神の子として「神演出の支配(カルトエリート)」のゴリアテ(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)を殺害する行為である。
それはカトリック信仰へ一々敵対する「神演出の支配(カルトエリート)」である「プロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)」へ黙示録(revelation)を行うことと同じである。
例えば旧約聖書サムエル記「ダビデとゴリアテ」を日本人は単に「ジャイアント・キリング」だと解釈する。
一般のコミックでは「ジャイアント・キリング」という言葉が頻繁に使われていることも事実である。
そしてそれは美談として語られる。
サッカー日本代表の「ジャイアント・キリング」も同様に美談として評価されている。
「ジャイアント・キリング」とは一般に「番狂わせ(逆転)」と言う意味であるらしい。
しかし「ジャイアント・キリング」がモンキー・パンチ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)のルパン三世だとしたら、宮崎駿監督(最高善信仰)の劇場用アニメーション映画「ルパン三世 カリオストロの城」は旧約聖書サムエル記「ダビデ(最高善信仰)とゴリアテ(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」と言えるだろう。
巨人ゴリアテ(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)を倒したダビデ(最高善信仰)の逸話であるが只の「ジャイアント・キリング」とは全く違うのです。
「番狂わせ(逆転)」と「ダビデとゴリアテ」では「ジャイアント・キリング」の価値は大きく異なっている。
もちろんカトリック信仰で評価されるのは「ダビデとゴリアテ」である。
しかし日本のワールドカップサッカーで評価されるのは「番狂わせ(逆転)」である。
確かに「番狂わせ(逆転)」は起こった。
それは「ヲタ芸」の「黒ミサ」の儀式だと指摘することはできる。
「番狂わせ(逆転)」を祀り上げたのです。
でも実際サッカー日本代表はドイツにもスペインにも勝利した。
私はテレビ観戦してみたがこの試合を八百長だとは全く思わなかった。
ただ気持ち悪さを生理的に感じた。
それは「メッセージとコミュニケーション」の欠落だった。
ではサッカー日本代表はどうして強豪国に勝利できたのだろうか?
先ず言えることはサッカー日本代表とはカトリックサッカーではないということです。
対戦相手があってサッカーの試合は成立する。
だから一方的なサッカーとはカトリックサッカーではない。
だから一方的なサッカーを「サッカー」とも言わない。
一方的なサッカーに「メッセージとコミュニケーション」は存在しない。
それはロゴスへ一々敵対する「絶対知(doxa)の定型的なカンバセーション」です。
サッカー日本代表はカトリックサッカーへ一々敵対するサタン崇拝(敵対者)として一方的にプレーをしている。
そしてそのような敵対者(堕天使ルシフェル)を祀る「ヲタ芸」を弄する。
それは「黒ミサ」の儀式です。
このようなやり方で一方的プレーを形成している。
それはカトリック信仰へ一々敵対する一方的姿勢です。
これは聖織田信長へ一々敵対する一向宗徒のあり方と同じでしょう。
一向宗徒はカルト集団だったのです。
そしてサッカー日本代表もカルト集団なのです。
ではカトリックサッカーへ一々敵対する「サッカー」とは何だろうか?
シンプルに発想すればそれはロゴスへ一々敵対するdoxa(絶対知)であろう。
又、同時に他者のdoxa(絶対知)へストーキングすることで「知の鵜呑み」の容易さへ貶め支配することだろう。
要は自らにロゴスはないのです。
サッカー文化を堕落へ貶めるのがサッカー日本代表です。
それはカトリック信仰へ一々敵対しているのだから当然です。
兎に角、「最悪のサッカー」がサッカー日本代表だったのです。
何故最悪かと言えば「サッカーの意義」とはカトリック信仰にあるからです。
それは「知の廃棄」の容易さへ導きロゴスを受肉することで可能となる。
そういった「文化的価値」を示しています。
しかしサッカー日本代表の勝利はサッカーの「文化的価値」へ一々敵対することで成り立っています。
サッカー日本代表の勝利に「文化的価値」はない。
サッカー日本代表の勝利は「文化的価値」の破壊と言えます。
では一体サッカー日本代表は何のためにサッカーをしているのだろうか?
日本には「サッカー文化」はないのだろうか?
ワールドカップサッカーで勝利することを「ヲタ芸」で祀っただけらしい。
そして「文化的価値」の破壊を誇らしげに行っている。
それは「黒ミサ」の儀式でしかないでしょう。
劣等サッカーがサッカー日本代表なのです。
「黒ミサ」は劣等なのです。
しかし「黒ミサ」を高等とするあり方がカルトなのです。
「お笑い芸人」と同じレベルの「ヲタ芸」でした。
サッカー日本代表は「最悪サッカー」だったのです。
そしてそれは「番狂わせ(逆転)」の支配でした。
しかし「ダビデとゴリアテ」はカトリック信仰からロゴスを受肉する。
そこに「文化的価値」があります。
それが「聖書」のイマーゴ(真善美の回復)への信仰です。
そして「白ミサ」なのです。
ここで言えることはモンキー・パンチ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)の原作キャラクターを利用して宮崎駿(最高善信仰)が名作アニメ映画を制作した。
ここに「番狂わせ(逆転)」を見る人もいるだろう。
しかしこの構図はダビデが宮崎駿(最高善信仰)であり、ゴリアテがモンキー・パンチ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)となっている。
宮崎駿(最高善信仰)はゴリアテ(モンキー・パンチ)を倒したダビデと言えるのです。
そういった意味でこの宮崎駿作品は「旧約聖書 サムエル記」に趣旨があるのです。
2 芸術家(美学家)の定義
最高善の神の子とはダビデ(最高善信仰)であり、イエス・キリスト(最高善信仰)です。
メシアは「神演出の支配(カルトエリート)」を感性で捉え嫌悪する「最高善の神の子」の感覚の人であるのです。
その「最高善の神の子」の感覚の人を芸術家(美学家)という。
3 「最高善信仰」と「神演出の支配(カルトエリート)」
宮崎駿(最高善信仰)がオタク(美意識)を嫌悪する理由
芸術家(美学家)が「神演出の支配(カルトエリート)」を嫌悪していくことで創り上げる作品を「芸術(美学)」と呼ぶからです。
そして芸術(美学)への劣等感から芸術(美学)への「アンチ美学(美意識)」を創る行為をオタク(美意識)と言う。
このようなオタク(美意識)が形成するオマージュ(印象操作)はストーカー行為と同様の存在となるのです。
オタク(美意識)が形成するオマージュ(印象操作)はストーカーがクリエーターとされている「黒ミサ」の儀式なのです。
それはすでに出来上がった作品に対して「鑑賞者」が持つ「知識(doxa)」へ一々敵対的にストーキング行為をすることでオマージュ(印象操作)と称する「黒ミサ」の儀式を行う。
doxa(絶対知)が「オマージュ芸術作品(美意識作品)」という二次創作(印象操作)を生み出しているとされている。
その異常さは相手の意識(doxa)へのストーキング行為を前提(絶対知)としてその知識(doxa)を印象操作することで「オマージュ芸術作品(美意識作品)」を崇拝させることを目的としているからです。
それがおかしいのは有名作品(ロゴス)に対して鑑賞者が持つ「doxa(絶対知)」へストーキングすることは「黒ミサ」の儀式でしかなくそういった「二次創作」に「最高善信仰」が全く存在し得ないところです。
「最高善信仰」とはロゴスの受肉を示しています。
doxa(絶対知)へのストーキング行為にロゴスの受肉はあり得ません。
「他者のdoxa(絶対知)」しか見えていないストーカーに最高善信仰を解す資質は全くないのです。
それは「カトリックエリート」ではないことを示し、芸術家(美学家)の資質が無いことをも同時に示している。
結局、最高善信仰の芸術(美学)の鑑賞とは如何なるものだろうか?
それは他者のdoxa(絶対知)へのストーキングではなく、最高善信仰の芸術が持っているカトリックコミュニケーションのイマーゴ(真善美の回復)への信仰を解することであるだろう。
それこそ芸術信仰者(美学信仰者)のあるべき姿である。
それは「知の廃棄」の容易さへ受肉するロゴスの鑑賞となる。
一方で他者のdoxa(絶対知)へのストーキングは「知の鵜呑み」の容易さからの絶対命令と絶対服従となる。
芸術(美学)とはメシアによる解放であり、ヲタク芸術(美意識)とは暴君(堕天使ルシフェル召喚)による支配である。
オタク(美意識)が形成するオマージュ(印象操作)に芸術信仰者(美学信仰者)のあるべき姿(イマーゴ)はなく、彼らは「他者のdoxa(絶対知)」へストーキングするプロテスタントデマゴーグ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)でしかないのです。
それは「カルトエリート」の政治的宣伝活動でありナチス・ドイツのアドルフ・ヒットラーやヨーゼフ・ゲッベルスのプロパガンダ手法と同様である。
彼らは「コミックマーケット(バフォメット)」のネオ・ナチズムの存在なのだ!
要は芸術製作ではなく他者の知識(doxa)の印象操作に終始している。
それは「アルファとオメガ」を弾圧する行為なのです。
何故ならば「始まりと終わり」のない完全犯罪の詐欺を意味しているからです。
そういった「アルファとオメガ」へ一々敵対する詐欺行為はアンチキリストの証明なのです。
「コミックマーケット(バフォメット)」が最高善信仰の芸術(美学)ではないことは明白です。
芸術家(美学家)が「神演出の支配(カルトエリート)」を嫌悪して創る「芸術(美学)」へ一々敵対する「オタク芸術(美意識)」はサタン崇拝の行為である。
「オタク(美意識)」と「オタク作品(美意識作品)」の存在とはカトリック信仰へ一々敵対することで形成される多面的面子でありそれは「神演出の支配(カルトエリート)」と呼ばれる。
そういった敵対者(サタン)は芸術(美学)を貶め弾圧しサタン崇拝となっている。
それは原始的段階に近い在り方なのです。
最高善信仰から完全に堕天した存在と言える。
イエス・キリストを芸術(美学)としたらオタク(美意識)はアンチキリストである。
そして後に述べるがそのようなオタク(美意識)が形成するオマージュ(印象操作)は「高校生の万引きの屁理屈」と同じである。
そして「高校生の万引きの屁理屈」の描写作品が現在の文学作品であり文学賞受賞はその様な「高校生の万引きの屁理屈」の描写作品をアーリア(高貴さ)とするヨーゼフ・ゲッペルスの宣伝手法と同様であるだろう。
それは「ヲタ芸」で「陳腐」を祀る「黒ミサ」の儀式である。
そうなると宮崎駿(最高善信仰)のルパン三世は芸術(美学)であり最高善信仰の芸術(美学)となるだろう。
それは本物の芸術(美学)を示している。
しかしモンキー・パンチ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)のルパン三世は「神演出の支配(カルトエリート)」であるから「高校生の万引きの屁理屈」のようなものである。
それはアンチキリストとして存在している。
「屁理屈の描写」の作品は決して芸術(美学)ではないがオタク芸術(美意識)とされる。
しかし其の作品を「芸術(美学)」と飽くまでも呼ぶならそれは「堕落芸術(サタン崇拝)」でしかなく、そこに「神演出の支配(カルトエリート)」への嫌悪がなければ一個の真の芸術(美学)は絶対にあり得ないのです。
それは「オタク作品(美意識作品)はオタク作品(美意識作品)」「芸術作品(美学作品)は芸術作品(美学作品)」なら「真の学問(カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion))」であるからです。
それはイエス・キリストである。
そして「オタク作品(美意識作品)は芸術作品(美学作品)」「芸術作品(美学作品)はオタク作品(美意識作品)」とすることはアンチキリストでありオタクのオマージュ(印象操作)のことなのです。
それは現代アートの急先鋒と言われる「村上隆」「庵野秀明」「岡田斗司夫」等が其の代表と言えるのです。
彼らは芸術(美学)に一々敵対する存在である。
それは敵対者(サタン崇拝者)なのです。
彼らはサタン崇拝であり、真の芸術(真の美学)を貶め弾圧するアンチキリストでありオタク(美意識)が形成するオマージュ(印象操作)と称しサタンの烙印を捺して廻っている存在です。
それが宮崎駿(最高善信仰)が「オタク(美意識)の存在を蛇蝎のごとく嫌悪する理由」であるのです。
人がストーカーを嫌うのは当然であるでしょう。
しかし彼らオタク(美意識)はdoxa(絶対知)へ嫌らしくストーカーをする作品をオマージュ(印象操作)と言って「美化」する。
INNOCENT(傲慢の大罪)(欲望の美化)とはストーカーのことであるのだ!
4 価値のないものを売りつけて商売をするのは「詐欺行為」である
芸術家(美学家)はオタク(美意識)がカトリック信仰へ一々敵対することで形成される多面的面子を「ヲタ芸」で祀った「神演出の支配(カルトエリート)」を嫌悪していく。
それは芸術(美学)を創り上げる。
オタク芸術家(美意識)の「村上隆」や日本サブカルチャー(コミック)の代表的存在である「浦沢直樹」又、アニメトップクリエーターの「庵野秀明」等は「神演出の支配(カルトエリート)」でしかない。
彼らは真の芸術家(真の美学家)ではない全くの偽物であり詐欺師であり敵対者(サタン崇拝)であるのです。
魔女や魔術師の様に「価値のない作品を恰も価値があるように偽って売りつけている。」のです。
また「価値のない作品で商売をしている事自体」が詐欺師の詐欺行為であるのです。
それはカトリック信仰へ一々敵対する敵対者(サタン崇拝)であり魔女と魔術師の類です。
そして詐欺師です。
それは最高善信仰の芸術(美学)でないどころか消費者にストーキングする悪徳商法であるのです!
「神演出の支配(カルトエリート)」とは悪徳商法であるのです!
それは特殊詐欺と言えるだろう!
それは前衛詐欺(屁理屈)とも言える。
それはオタク(美意識)のオマージュ(印象操作)が絶対知(doxa)へのストーキング行為でありそこに最高善信仰が全く存在しない詐欺芸術であることを私は証明できます。
YOUTUBEで浦沢直樹がいくら漫画を描いて見せてもそれは最高善信仰により「神演出の支配(カルトエリート)」を嫌悪して制作した真の作品ではなく単なる人を騙す「作者の匙加減(カルトエリート)」の支配の賛美と扇動でしかないのです。
要はカトリック信仰へ一々敵対することでコミックを描いている。
そこに芸術性(美学性)は全く存在しません。
モーリス・ルブランから奪ったモンキー・パンチ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)の盗作行為は「神演出の支配(カルトエリート)」の詐欺師の手法であるだろう。
そしてそれは「作者の匙加減(カルトエリート)」の支配であるだろう。
それ故にカトリックロゴス感覚(Holy Communion)へ一々敵対する「ヲタ芸」となっている。
それが日本サブカルチャーの正体です。
そして正体とはサタン崇拝(敵対者)なのです。
テンプル騎士団に疑問を感じる理由があります。
それはイエス・キリストが弟子たちに命じた「あらゆる異邦人たちへの洗礼の授け」にある。
イエス・キリストにとってエルサレムなんてどうでも良かったと思うのです。
ダビデの再来と言われたイエス・キリストがソロモン王が建造した神殿を守護するなんてあり得ないのです。
そして「新約聖書 福音書」にある通り「あらゆる異邦人たちへの洗礼の授け」を指示された弟子たちと共にいる「アルファとオメガ」がイエス・キリストなのです。
そういう意味でフリーメーソンの「愛」をバフォメットとする見方もおかしいと思います。
何故ならば「愛」の「黒ミサ」は最高悪であるからです。
テンプル騎士団の後継をフリーメーソンとしてそれをバフォメットと認識することは「愛」を冒涜する最高悪行為であるだろう。
それはイエス・キリストが弟子に指示した「あらゆる異邦人たちへの洗礼の授け」を完全に冒涜している。
このようなあり方はバフォメットを祀る「ヲタ芸」の「黒ミサ」なのです。
そこにテンプル騎士団がバフォメットを祀っている「ヲタ芸」だとする疑惑が起こったと考えられます。
そうなるとテンプル騎士団は「アンチキリスト」と見做されるのです。
モンキー・パンチ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)の盗作の「手法」は「高校生の万引きの屁理屈」と同じであるでしょう。
それは「錬金術」と言えるでしょう。
バフォメットなのです。
「ヲタ芸」によって「モンキー・パンチ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)」の「陳腐な屁理屈(盗作)」を祀った「黒ミサ」の儀式だったのです。
私はここにハンナ・アーレントの「イェルサレムのアイヒマン」を思い出します。
盗作(詐欺師行為)を「神演出の支配(カルトエリート)」の古典的詐欺師がアーリア(高貴さ)として祀ったのです。
そしてモンキー・パンチ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)は盗作しておきながら「ルパン三世」の「人の著作権」を盛大に主張する。
それがモンキー・パンチ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)の「ルパン三世」であるのです。
そして庵野秀明は宮崎駿(最高善信仰)の名作映画「風の谷のナウシカ」の巨神兵を自分の作品だと主張(高校生の万引きの屁理屈)する。
それがオタク(美意識)が形成するオマージュ(印象操作)である。
モンキー・パンチ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)や庵野秀明は「コミックマーケット(バフォメット)」であるのだ!
何故ならば「神の著作権」を侵害している。
それがどういう意味か説明します!
オリジナルへ一々敵対して制作した「黒ミサ」の作品はオリジナルを冒涜することで存在している。
このような冒涜作品に「人の著作権」を付与したとしても決してオリジナルとはならない。
「神の著作権」とはオリジナルへ付与される筈であるからです。
だからそのような「人の著作権」も無効です。
では冒涜作品とはオリジナルと見做せるだろうか?
冒涜作品とは他者のオリジナルへ穢い唾を吐いているだけの存在です。
だから自分の穢い唾を吐く行為に「著作権」があるかどうか考えてみれば解ります。
それは他者のオリジナルへの冒涜行為でしかないでしょう。
庵野秀明の穢い唾を「風の谷のナウシカ」へ吐き付けたからと言って彼に「風の谷のナウシカ」の「人の著作権」がある訳ではないだろう。
しかし庵野秀明の「唾付けた!」と言う「人の著作権」の強硬な主張は「神の著作権」を冒涜した越権行為である事は確かです。
きっと庵野秀明へ「神の雷」は下るだろう。
もうすでに庵野秀明の「神演出の支配(カルトエリート)」によって「風の谷のナウシカ」の続編の制作プランが進んでいるらしい。
様々な名作作品が庵野秀明というアンチキリストによりオタク(美意識)を祀る手法でリメイクされています。
堕落作品(バフォメット)となっているのです。
それは「サタンの烙印」が捺され続けていることを示している。
又はオリジナルへ一々敵対し穢い唾を吐き続けているのです。
庵野秀明の「唾付けた!」と言う「人の著作権」の強硬な主張となります。
私はアニメ映画「風の谷のナウシカ」を愛しているので決して堕落作品(バフォメット)としての「サタンの烙印」を捺させるわけにはゆかないと考えている。
そして私は「神の著作権」を守護したいのです。
何故ならばそれが「善き羊飼い」の「白ミサ」であり至上命令であるからです。
私は庵野秀明によるアニメ映画「風の谷のナウシカ」の続編制作に対して絶対阻止の構えをするつもりだ!
庵野秀明よ!
お願いだから止めてくれ!
君は最も重要な資質である最高善信仰が欠落している!
君には絶対に無理なのだ!
どう足掻いても堕落作品(バフォメット)しか作れない!
身の程を知って「寺院(教会)」へでも行ってくれ!
もういい加減コネクションで生きることを止め「芸術家(美学家)」が無理と悟って引退してくれ!
庵野くん!
そもそも「芸術家(美学家)」を目指したことが間違いなのだよ!
これは神聖なアニメファンの願いだ!
日本サブカルチャーは「芸術(美学)」へ一々敵対する「神演出の支配(カルトエリート)」でありアンチキリストである。
オタク(美意識)を祀る堕落作品(バフォメット)であるのです。
彼の作品に見られる「アンチキリストの烙印」を見ればそれは明確であるだろう。
日本文学賞も堕落作品(バフォメット)であり日本サブカルチャーなのです!
堕落芸術(ヲタ芸)でありアンチキリストのオタク作品(美意識作品)を祀る「神演出の支配(カルトエリート)」であるでしょう。
そのことに対する感性からサタン崇拝(敵対者)へ嫌悪を持つことができないなら芸術(美学)を制作する資格はないのです。
庵野秀明の作品は真の芸術家(美学家)なら恥ずかしくて芸術(美学)とは名乗れない代物なのです。
そして「ダビデとイエス」(最高善信仰)の感覚に「人の著作権」はない。
それは「神の著作権」である。
何故ならそのような「ダビデとイエス」(最高善信仰)の感覚は「真の学問(カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion))」であるからです!
しかし「イエスに香油を注ぐマリヤ」のように芸術家(美学家)に献身し殉じる者もいる。
それは芸術家(美学家)が生き続ける助けとなるだろう。
カトリック信仰はイマーゴ(真善美の回復)へのオマージュです(hommage)
モンキー・パンチ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)のルパン三世も「唾付けた!」だった!
しかしモンキー・パンチ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)のルパン三世の「人の著作権」は「神演出の支配(カルトエリート)」をアーリア(高貴さ)とする仕組みにすぎなかった。
「神の著作権」を冒涜する越権行為であるのです。
又は「唾付けた!」という「人の著作権」の強硬な主張に過ぎない。
「唾付けた!」は「ゴネ得」でしかないのです。
第二章 神の著作権
1 最高善信仰は「神の著作権」である
「神の著作権」は「神演出の支配(カルトエリート)」をカトリック信仰の感性で捉えそれを嫌悪することで殺害する「ダビデとイエス」(最高善信仰)によっている。
ここで誤解を招くので指摘して置くことがあります。
「神の著作権」とは人が捏造したクリエーションの「人の著作権」ではない。
それは至上の普遍的存在のあり方を指す。
そういった至上の普遍的存在はカトリック信仰により人を神の王国の叡智へ導くのです。
それが「神の著作権」です。
「神演出の支配(カルトエリート)」とはカトリック信仰へ一々敵対する「神」のあり方であるでしょう。
例えばカトリック信仰に一々敵対することで「トイレの神様」を祀る行いと同じです。
それは「黒ミサ」を形成する「ヲタ芸」です。
そういった敵対者(サタン崇拝者)が形成する「神演出の支配(カルトエリート)」をアーリア(高貴さ)とするネオ・ナチズム感覚が「人の著作権」であるでしょう。
又、モンキー・パンチ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)は明らかにルパン三世を自分のオリジナルアイデアだとは主張することはできないでしょう。
しかしルパン三世の「人の著作権」はモンキー・パンチ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)にある。
※モンキー・パンチ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)の「ルパン三世」とはモーリス・ルブランの「アルセーヌ・ルパン」からモンキー・パンチ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)が「高校生の万引き」の如く「ルパン」を拝借した作品なのです。
しかし「真の学問(Holy Communion)」としてある芸術作品(美学作品)には「人の著作権」はありえないのです。
そういった「人の著作権」は「ヲタ芸」で形成された「黒ミサ」の学問となっているからです。
そんな「黒ミサ」の学問に学問的価値はありません。
こういった学問のあり方は最高善信仰に「人の著作権」がないことで証明されます。
最高善信仰に「神の著作権」があっても「人の著作権」がある訳はないのです!
芸術作品(美学作品)は「神の著作権」であるのです!
2 「最高善の神の子の感覚」は「真の学問(Holy Communion)」であり「人の著作権」ではあり得ないのだ
ダビデ感覚(最高善信仰)にしてもイエス感覚(最高善信仰)にしても「最高善の神の子の感覚」は「神演出の支配(カルトエリート)」をゴリアテ感覚(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)として殺害する。
それは「神の著作権」へ一々敵対する「サタンの著作権」でしかないからです。
真に魅力あるキャラクター(ルパン三世)は「最高善の神の子の感覚」である。
それは綺麗は綺麗であり、穢いは穢いであるのです。
ただ敵対者(サタン崇拝者)が形成する「神演出の支配(カルトエリート)」をアーリア(高貴さ)とすることで「魅力」の欠落した味の悪いキャラクター(モンキー・パンチ)が生み出され「ヲタ芸」によって祀られるのです。
それが「黒ミサ」です。
味の悪いキャラクター(モンキー・パンチ)は人間関係の「ヲタ芸」によって祀られ「黒ミサ」の儀式が執り行われる。
それは綺麗は穢いであり、穢いは綺麗であるのです。
「最高善の神の子の感覚」の「魅力」と人間関係の「ヲタ芸」によって捏造し成立した「黒ミサ」の「魅力」とは「ダビデ(カトリックエリート)」と「ゴリアテ(カルトエリート)」の違いとなる。
そしてモンキー・パンチ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)は「宮崎駿(最高善信仰)のルパン三世」を自らの描くルパン三世とは全く違うと豪語する。
何故彼は其のように「魅力」のないルパンに自信を持っているのか明確に理解できる。
それはモンキー・パンチがカトリック信仰に一々敵対する敵対者(サタン崇拝者)であるからです。
そういった敵対者(サタン崇拝者)の感覚はモンキー・パンチ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)の「著作権」が「人の著作権」であることを証明している。
彼こそが「モンキー・パンチ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)」が描いた「高校生の万引きルパン三世」なのです。
自分の作品で自分自身が知れてしまう格好の例である。(高校生の万引きルパン三世とはモンキー・パンチだった。)
宮崎駿(最高善信仰)とモンキー・パンチ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)・・・・これは「聖戦(ダビデとゴリアテ)」であったのです。
真に「魅力あるルパン三世」は宮崎駿(最高善信仰)が描いたカトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)の感覚を持つルパン三世であるのです。
第三章 ルパン三世の最高善信仰は「エチカ(倫理学)」である
1 「人を背後からでも撃つキャラクター」
モンキー・パンチ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)は自分のルパン三世について背後からでも人を撃てるキャラクターだと主張していた。
しかしそれは非常に倫理的な問題を孕んでいる。
それは私が「アニメキャラクター論」として旧約聖書サムエル記「ダビデ(最高善信仰)とゴリアテ(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」のあり方が魅力の形成であると考えているからです。
「魅力あるキャラクター形成」において「倫理性」が非常に重要なのです。
非倫理性である「神演出の支配(カルトエリート)」のキャラクターでは「真の魅力」はなく「存在価値」がないのです。
何故ならばカトリック信仰より形成されるチャーミング(倫理性)へ一々敵対する敵対者(サタン崇拝者)は「ヲタ芸」によって祀る「黒ミサ」の儀式を執り行うだけだからです。
「魅力」へ一々敵対する敵対者(サタン崇拝者)は冒涜者でしかないのです。
背後から人を撃てるキャラクターが意味するところは「確実な殺し」です。
確実に人を殺し勝つためには背後から人を撃ち殺すのが最も安全で確実だろうと思います。
又はそういった背後から撃ち殺すあり方は味方による裏切りによっています。
味方に寝首を掻かれれば必死となるでしょう。
しかしそれは「騙し討ち」を意味する。
ここで参考にするのが旧約聖書サムエル記「ダビデ(最高善信仰)とゴリアテ(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」であります。
ダビデ(最高善信仰)はゴリアテ(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)を撃ち殺した。
それは背後から「騙し討ち」で撃ち殺したのではない。
最高善の神を冒涜したゴリアテ(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)をダビデ(最高善信仰)は一騎打ちで倒したのです。
「神演出の支配(カルトエリート)」の行為は「真の学問(カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion))」を解する者に察知され嫌悪される。
そういったサタン崇拝者(敵対者)への嫌悪は最高善の神の子の証明です。
何故そう言えるのか?
それはダビデ(最高善信仰)が
解する感性の人であり其の意に従いゴリアテ(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)を殺すからです。
では最高善の神とは何だろうか?
ダビデ(最高善信仰)とは何だろうか?
ゴリアテ(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)とはなんだろうか?
2 「最高善の神の意」と「ダビデ(最高善信仰)」と「ゴリアテ(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」とは?
それがキャラクター形成の最重要課題であり、モンキー・パンチ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)のルパン三世と宮崎駿(最高善信仰)のルパン三世のキャラクター形成の決定的違いがこの三者の関係にある。
先ず「神」とは最高善の神であり其の至上命令は〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉であるだろう。
それは間違っていることが判明する場合や最高善信仰ではなく「神演出の支配(カルトエリート)」であることに対して行う〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉を意味する。
そういったあり方は決して覆らない「善」であるのです。
例えば「躓き」はよくあり得るでしょう。
人生を無傷で生きていくことは誰であっても不可能と私は経験から認識している。
では「善人」は不可能だろうか?
そこに唯一の「善人」のあり方が存在します。
それが最高善信仰です。
〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉による最高善のあり方は決して覆らない「善」のあり方なのです。
例え如何に躓こうと〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉により「善性」は回復するのです。
それが最高善信仰です。
それは最高善の神が敵対者(サタン崇拝者)が形成する「神演出の支配(カルトエリート)」を嫌悪しているからであり、最高善の意を解する神の子として「神演出の支配(カルトエリート)」を嫌悪しそれを撃ち殺す。
それがダビデ(最高善信仰)である。
そしてサタン崇拝者(敵対者)を嫌悪する最高善の神を「侮辱」し「弾圧」し「笑い者」にする「黒ミサ」は「ヲタ芸」で祀られたゴリアテ(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)である。
先程「ジャイアント・キリング」を「番狂わせ(逆転)」の意味と示した。
この様にサタン崇拝(敵対者)の「ジャイアント・キリング」は「最高善の神(ジャイアント)を殺す(キリング)」であるのだ。
それは「堕天使ルシフェルの最高善の神への反逆」としてある。
「神への反逆」が「ジャイアント・キリング」と言われ堕天使ルシフェルのサタン崇拝(敵対者)が賛美され翼賛される。
これが「キャラクター形成の基本の関係」である。
最高善の神であるのか?
最高善信仰であるのか?
「神演出の支配(カルトエリート)」であるのか?
そしてそのキャラクター形成はダビデ(最高善信仰)でありゴリアテ(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)はその敵対者(サタン崇拝)でしかない。
敵対者(サタン崇拝)に唯一性のペルソナの魅力の形成はあり得ないのです。
何故ならば敵対者(サタン崇拝者)でしかないからです。
そして「サタン崇拝(敵対者)」とは「傲慢(ジャイアント・キリング)」であるのです。
ただ背後からでも人を撃つキャラクターは「神演出の支配(カルトエリート)」のキャラクターである。
それは味方が寝首を掻いて人を撃ち殺すことを意味している。
背後とは味方に撃たれるという意味だ!
それはあばずれ同士の撃ち合いの中での背後(味方)からの狙撃でしかない。
そんなあばずれ同士のストーリーに「魅力」はないしあばずれキャラクターにも「魅力」はない。
そこには「神演出の支配(カルトエリート)」の屁理屈の描写とその生態の描写しかなく「アダルトビデオ」と「狂った果実」でしかないのだ。
そのような「娯楽」もあるだろう。
「アダルトビデオで男女が肉体や精神を犯し合っている様子」や「其の屁理屈の描写」を「映像」で鑑賞することも「娯楽作品」ではあるだろう。
しかしそれは絶対に芸術(美学)ではない。
何故ならば芸術(美学)とはカトリック信仰の回復でありイマーゴ(真善美の回復)への信仰であるからです。
「味方」は「味方」であり「敵」は「敵」であるのです。
そういったあり方は最高善の神の「味方」でありサタンの「敵」のあり方なのです。
一方でオタク芸術(美意識)とはそれに一々敵対する絶体の「敵」なのです。
「味方」は「敵」であり「敵」は「味方」となるのです。
そういったあり方は最高善の神を裏切った堕天使ルシフェルと言えます。
それは最高善の神の「敵」でありサタンの「味方」となったのです。
石原慎太郎が如何に芸術家(美学家)の振りをしても「狂った果実」は若者の屁理屈の描写でありその若者の生態描写でしかない。
其の本質は「アダルトビデオ」と同じである。
「アダルトビデオ」を芸術(美学)だと主張した高橋源一郎は結局「屁理屈屋」であり生態描写でしかなく自堕落(サタン崇拝)其の物の似非芸術家(似非美学家)だった。
その本質は「循環論証」でした。
論理上の虚偽の一つ
神が存在するということは聖書に書いてある。しかるに聖書は神の言葉である。ゆえに神は存在する。
「循環論証」は最高善の神に対する完全な不敬罪である。
3 坂口安吾「堕落論」の意味
「堕落芸術」とは何だろうか?
真の「堕落芸術」は坂口安吾の「堕落論」で言うサタン崇拝者(敵対者)が祀る「神演出の支配(カルトエリート)」への感性を研ぎ澄まし「堕落」を感じ続けることである。
その先に真の最高善の神の子のダビデ(最高善信仰)の聖戦があり得る。
何故ならば「堕落は堕落」「崇高は崇高」と感じることをカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の「堕落論」とし、「堕落を崇高」「崇高を堕落」と感じることをサタン崇拝(敵対者)の「堕落芸術」とすることを示している。
それは「最高善の神の子のイエス・キリスト」と「堕天使ルシフェル」の聖戦ともなるのです。
この両者はメシアとなり最高善の神の子のダビデ(最高善信仰)であり最高善の神の子イエスとなる。
それは「堕落は堕落」「崇高は崇高」と見做すことがサタン崇拝(敵対者)の「堕落芸術」を撃ち抜くことであり、その先にある旧約聖書サムエル記「ダビデ(最高善信仰)とゴリアテ(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」が坂口安吾の「堕落論」の意味するところである。
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)の「堕落論」が坂口安吾なのです。
サタン崇拝(敵対者)の「堕落芸術」とは「屁理屈屋」でありその生態描写でしかない。
それが「ゴリアテ(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)のキャラクター」なのです。
そこには「真の学問(カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion))」は存在しない。
何故ならば敵対しているだけだからです。
暴走族の煽りでしかないのです。
そういった意味で坂口安吾の「堕落論」は「白ミサ」と言えるのです。
そして坂口安吾の芸術(美学)は「真の学問(カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion))」と見做されます。
4 「クリント・イーストウッド(最高善信仰)の顔に現れる表情が物語るもの」
From 映画「ダーティハリー(最高善信仰)」
例えば「背後からでも人を撃ち殺すようなイメージのキャラクター」にクリント・イーストウッド(最高善信仰)の主演映画「ダーティハリー(最高善信仰)」があります。
この映画の主人公ハリー・キャラハン刑事は背後からでも犯人を撃ち殺すようなイメージのキャラクターからダーティハリー(最高善信仰)と呼ばれています。
しかし彼は刑事であり決して味方を裏切って背後から人を撃ち殺すようなことはしません。
彼は刑事として犯罪者と戦い撃ち殺していくのです。
このハリー・キャラハン刑事は刑法的な犯罪以外にもサタン崇拝者(敵対者)が祀る「神演出の支配(カルトエリート)」を敏感に感じ取り嫌悪する資質の持ち主でもあるのです。
それはこの映画の主人公が「神演出の支配(カルトエリート)」に対しそれへの嫌悪の感性が引き起こす表情が物語っています。
このクリント・イーストウッド(最高善信仰)の顔の表情の演技はいつも秀逸でした。
そして彼はゴリアテ(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)としての手強い犯人とダビデ(最高善信仰)のごとく対決し撃ち殺していく。
一見モンキー・パンチ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)の発言は彼のルパン三世がダーティハリー(最高善信仰)であるかのように思わせている。
しかし実際はモンキー・パンチ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)のルパン三世は「神演出の支配(カルトエリート)」のキャラクターでしかない。
モンキー・パンチ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)のルパン三世はダビデ(最高善信仰)ではなく「神演出の支配(カルトエリート)」の犯罪者の盗賊でしかないのだ。
そのため(犯罪のため)に平気で味方を裏切り背後からでも人を撃ち殺すのです。
そしてモンキー・パンチ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)のルパン三世の「盗みの美学」は「神演出の支配(カルトエリート)」を嫌悪して創り上げた「芸術(美学)」ではなく、ルパン三世の「神演出の支配(カルトエリート)」によって可能となる超能力芸人(美意識)としてある。
それはルパン三世の「ヲタ芸」を祀った「黒ミサ」の儀式でしかなかったのです。
5 モンキー・パンチ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)の美意識はストーカー!
それは「価値あるものは価値あるもの」「粗大塵(どうでもいいもの)は粗大塵(どうでもいいもの)」という「真の学問(真の美学)」の価値観を貶め弾圧している。
そして「価値あるものは粗大塵(どうでもいいもの)」「粗大塵(どうでもいいもの)は価値あるもの」とすることに等しいのです。
モンキー・パンチ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)の「ルパン三世」に真の「盗みの美学」はない。
それは他者の意識にストーキングすることでなされる印象操作である。
モンキー・パンチ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)はそれを独創性だと称する。
そういったあり方は他者のdoxa(絶対知)へ執拗にストーキングすることで支配を試みている。
「知の鵜呑み」の容易さを形成し絶対命令に絶対服従させるのです。
このように最高善信仰の宮崎駿に敵対してモンキー・パンチ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)はストーカーの独創性を形成した。
しかしその独創性とは「作者の匙加減」の支配にすぎない。
そこに最高善信仰は存在しないのだ。
最高善信仰はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の受肉であり「知の廃棄」の容易さへ導きとしてあるのです。
「作者の匙加減」の支配は作者が神となった世界観であり「ご都合主義(なんでもあり)の奇跡」で主人公は「ヒーロー・ヒロイン(英雄的存在)」となるだろう。
まさに価値のないコミックである!
銀河英雄伝説では何故かラインハルトはいつも勝ちまくり、物語の最後はラインハルトが風邪を引いてあっけなく体調不良で敗けてしまった。
なんてバカバカしい話なのだろうと私は感慨深く思った。
「コミックマーケット(バフォメット)」的手法によりコミックの芸術的価値(美学的価値)を貶めたのはモンキー・パンチ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)であり庵野秀明であったのです。
6 「最高善の神の子ルパン三世」と「神演出の支配(カルトエリート)のルパン三世」
前者は宮崎駿(最高善信仰)のルパン三世であり最高善の神の子の芸術(美学)である。
後者はモンキー・パンチ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)のルパン三世の「神演出の支配(カルトエリート)」の芸者(美意識)である。
芸者(美意識)は芸術(美学)と違って人間関係のアーリア(高貴さ)で決定する。
それは「ヲタ芸」による「黒ミサ」の儀式です。
芸術(美学)は芸術家(美学家)が「神演出の支配(カルトエリート)」を嫌悪して成立する。
芸者(美意識)は「神演出の支配(カルトエリート)」をアーリア(高貴さ)とする者が人間関係の中で高評価されて成立する。
芸術家(美学家)と芸者(美意識)は相反する。
芸術家(美学家)となるためには芸者(美意識)はその成立の核である「神演出の支配(カルトエリート)」を嫌悪して自らダビデ(最高善信仰)のごとくそれをゴリアテ(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)として殺害することでしかあり得ない。
しかしそれは自らの「手癖の悪い手(多面的面子)」を「神演出の支配(カルトエリート)」として切り落とし最高善の神の子として「真の学問(カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion))」を持って唯一性のペルソナを形成した芸術家(美学家)として生きていくことを意味している。
芸術家(美学家)はそのように誕生するのだ。
しかし実際はモンキー・パンチ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)の「神演出の支配(カルトエリート)」のルパン三世が崇拝される。
当然「ヲタ芸」の「黒ミサ」の儀式とはそういったものだろう。
学問的価値も芸術的価値もないのです。
ただ詐欺的手法でしかありません。
古典的詐欺です。
バカには宮崎駿(最高善信仰)の最高善の神の子のルパン三世の凄さが理解できないのでしょう。
バカだからどうしようもないと言ってしまえばそれまでだがバカを立てる社会主義(ネオ・ナチズム)ではなく黙示社会信仰(最高善の神)で人々が生活していくことが最重要だと思われる。
何故ならそれが最高善の神の子のペルソナ(信仰から形成されるオリジナル)に他ならないからだ。
それが三位一体のペルソナ(信仰から形成されるオリジナル)である。
モンキー・パンチ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)の「神演出の支配(カルトエリート)」のルパン三世と宮崎駿(最高善信仰)の最高善の神の子ルパン三世の違いは芸者(美意識)と芸術家(美学家)の違いでありそれは「社会主義(ネオ・ナチズム)」と「黙示社会信仰(最高善の神)」の明確な違いを示している。
7 宮崎駿(最高善信仰)の聖書(カトリックコミュニケーション)とモンキー・パンチ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)の反聖書(カルトエリート)
「神演出の支配(カルトエリート)」のルパン三世は最高善の神の子のルパン三世(ダーティハリー)に「ダビデ(最高善信仰)とゴリアテ(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」の如く撃ち殺される存在である。
それが「聖書(カトリックコミュニケーション)」である。
しかしモンキー・パンチ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)のルパン三世は反聖書(カルトエリート)によって「神演出の支配(カルトエリート)」のルパン三世が華麗に活躍するのだ。
それは反聖書(カルトエリート)である。
しかしモンキー・パンチ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)のルパン三世も又ダーティハリーに撃ち殺される「神演出の支配(カルトエリート)」の堕落した犯罪者でしかない。
※当時、ルパン三世もダーティハリーも声優は「山田康雄」が演じていた。
では宮崎駿(最高善信仰)のルパン三世はどうだろうか?
宮崎駿(最高善信仰)のルパンは「神演出の支配(カルトエリート)」ではない。
だから背後から人を撃ち殺してまで盗賊はしない。
そんなものに意味は無いのだ。
モンキー・パンチ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)のルパン三世は「高校生の万引きと同じ程度の屁理屈」の犯罪者でしかない。
8 私の人生における試練の数々
私の高校(千葉県立船橋旭高校)の同級生は青山学院大学へ進学したが高校入学当初にスーパーマーケット(夏見台ヨークマート)でいきなり万引きをして見せて「刹那だ!」と言ってのけた。
彼にとっては気の利いたと思ったらしいセリフを私に吐いたらしい。
私はゾッとしていたがその時に「万引き」を店に通報する事はできなかった。
同級生の万引きをその場で通報することはなかなかできないものだ。
私は「不愉快」な思いをしたが其の同級生は「悦」に入っていた。
気持ち悪い男であり全くの気違いだった。
嫌な奴と知り合ったのだ。
屁理屈の塊を頭の良さとする異常者だった。
私の通学していた中学校(船橋市立高根中学校)には其の様な連中が多かった。
其の中で登校拒否になる学生も少なからずいた。
私は当然だろうと思う。
そんなキチガイ学生やそれを容認する先生がいる学校なんて行きたくない。
だからといって誰でも登校拒否できる訳ではないのです。
登校拒否したくてもできない人はいるのです。
千葉県の全く嫌な場所に引っ越してきたのだ!
私はその男と其の中学から同じ高校に入学した。
その男は気違い野郎だったのです。
私にはこの男は本当に頭の悪い人間の典型であるように感じていました。
ただ其の同級生は受験勉強や点数稼ぎの勉強をシコシコするタイプで「真の学問(カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion))」には程遠いが周囲の人間関係の点数稼ぎはしていた。
だから学校の先生や当時の大人の間では評価が高かったのです。
全くバカな評価をした先生や当時の大人達だった。
9 人生とは?
ペルソナ(信仰から形成されるオリジナル)としての生き様である
その男は「真の学問(カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion))」には程遠く点数稼ぎの知識しかない「愚者」であったから馬鹿にしか見えなかった。
しかし其奴はキリスト系大学の名門大学青山学院へ合格した。
私は大学へはすべて落ち専門学校へ行った。
私の方は点数稼ぎの無益な勉強に絶望していたのです。
私は柄谷行人の研究を高校卒業後に自分でしていた。
人生修業は中山競馬場でもやっていた。
ギャンブルでの科学的思考を考えていた。
それも「真の学問(カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion))」のあり方だった。
私は当時絶望感を感じながらヒューモア(柄谷行人が指摘したフロイトのヒューモア)の研究をしながら過ごしていた。
柄谷行人の言うヒューモアは「真の学問(カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion))」であり「神演出の支配(カルトエリート)」への嫌悪の感性を持って生きることであった。
柄谷行人の言うヒューモアは宮崎駿(最高善信仰)のルパン三世のヒューモアであったのです。
この青山学院大学を卒業した同級生は最悪だった。
私はこの男の卑劣漢に人生で真に絶望を感じたことが度々あった。
彼は万引きの常習犯だった。
母親の財布から万札を盗んで美食に耽ったと自慢された。
同じ中学から同じ高校に進学したから家が目と鼻の先だった。
しかし以前は付き合いがなかったので高校で始めて話した同級生だった。
通学路もほぼ同じでありこんな奴と知り合ったことの運の悪さを感じていた。
ただ人生にはこの様な嫌な出会いもあるのだと考えるしかなかった。
私は結局大学へは行かず専門学校へ行った。
その後就職し退職後に社会人入試で拓殖大学へ再度入学して自分のやりたい柄谷行人研究をしていた。
主に柄谷行人研究であったが拓大の外国語学部は必修講義が多く大変であった。
兎に角必修講義が多かった。
そして一般教養も普通に単位が必要だった。
内容は兎も角講義スケジュールはハードだった。
10 「高校生の万引き程度の美意識はストーカーとしてある」
「高校生の万引き程度の美学」がその高校の同級生の「刹那だ!」の発言だった。
「刹那だ!」と言えば「美学」だと思っていたらしい。
そういったワンワード(刹那)はdoxa(絶対知)へのストーキングによって「知の鵜呑み」の容易さへ陥れ絶対命令と絶対服従の支配を形成する。
それは聖織田信長が掃討した一向宗徒と同じあり方であろう。
ワンワード愚者である。
しかしそのようなワンワードから「知の廃棄」の容易さへ導きカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を受肉するのがワンワード聖人である。
しかし其の男は完全な頭の悪い屁理屈屋であった。
しかも「屁理屈を頭の良さと考える典型的な愚者」であった。
絶対に「真の学問(カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion))」になれないタイプの男だ!
だから完全なワンワード愚者であり一向宗徒であった。
11 小保方晴子のSTAP細胞の詐欺事件は確信犯だ!
科学(カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion))へ一々敵対したサタン崇拝(敵対者)でありアンチキリストである
小保方晴子氏が作ったSTAP細胞の屁理屈も同様だろう。
彼女もこの同級生と同じタイプの人間であり「真の学問(カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion))」にはなれない「ワンワールド愚者」である。
「真の学問(カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion))」は最高善の神の子であり宮崎駿(最高善信仰)が描いた「ワンワールド聖人」でなければならない。
しかしワンワールド愚者は「神演出の支配(カルトエリート)」を使うのだ。
それは飽くまで点数稼ぎと人を騙す詐術によって成果を出すことでありそれを「神演出の支配(カルトエリート)」と言う。
最高善の神の子はそのようなカルトエリートを嫌悪して成果としての芸術(美学)を創造する。
そういった真の学者は最高善の神の子の成果としてある。
しかし偽の学者は「神演出の支配(カルトエリート)」の成果としてある。
小保方晴子氏が作ったSTAP細胞の成果は偽の学者による「神演出の支配(カルトエリート)」の成果であった。
これは完全に最初から「詐欺事件」だったのだろう。
最高善の神の子ではなく「神演出の支配(カルトエリート)」だったのだ!
そして「神演出の支配(カルトエリート)」とは「詐欺師の手癖の悪さ」をアーリア(高貴さ)としたネオ・ナチズム(社会主義)である。
最高善の神の子は黙示社会信仰の「真の学者」であり「神演出の支配(カルトエリート)」はカルトエリートをアーリア(高貴さ)とする社会主義(ネオ・ナチズム)としてある。
フジテレビの女子アナが神演出の支配で成果を出したようなものであったのだ。
女子アナレベルの学者がアインシュタインのノーベル賞並みの成果を出したと大騒ぎをしてバカ騒ぎをした。
「真の学者」と「神演出の支配の成果」の違いもわからないならあの首を括った男は死んでも仕方がない「愚かな学者(ワンワード愚者)」だったのかもしれない。
第四章 日本の聖書(カトリックコミュニケーション)
1 日本という国の「屁理屈」と「聖書(カトリックコミュニケーション)」
「日本には聖書(カトリックコミュニケーション)が必要だ!」
何故こんな奴が青山学院大学へ合格したのだろう?
バカな屁理屈男が青山学院大学のエリートだとされるのが日本国である。
そのような「高校生の万引きの屁理屈」の神演出の支配を敏感に感じて嫌悪するのがダビデ(最高善信仰)である。
私には村上春樹も「高校生の万引きの屁理屈」の匂いを感じるのだ。
彼の曖昧で明確な終わりのない作風が屁理屈に感じる。
「アルファとオメガ」を欠落しているのだ。
一体村上春樹は何が言いたいのだ?
結局は屁理屈とその描写である。
それを文学としてアーリア(高貴さ)とするのだ。
それが文学賞の正体だ!
先程書いた屁理屈屋とその生態描写作品と同様の「神演出の支配(カルトエリート)」であり絶対に「真の学問(カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion))」ではない。
それを「真の学問(カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion))」の芸術(美学)と言うなら堕落芸術(サタン崇拝)である。
「堕落芸術は堕落芸術」と感じ抜き堕ち抜くことで「坂口安吾」の「芸術論」である「堕落論」となるのだ。
それによって「ダビデ(最高善信仰)とゴリアテ(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」は可能となる。
2 橋下徹の「ジャイアント・キリング」は「最高善の神への反逆」であり堕天使ルシフェルのアンチキリストである
「高校生の万引きの屁理屈」は堕落芸術(サタン崇拝)であり「ジャイアント・キリング」であるのだ。
それは茶髪ヤンキーだった橋下徹が役人相手に喧嘩腰で戦った武勇伝と同じでありそのような「ジャイアント・キリング」は「最高善の神への反逆」としての堕天使ルシフェルだった。
茶髪ヤンキーだった橋下徹はサタン崇拝(敵対者)であり最高善の神の子ではない。
其の様な「神演出の支配(カルトエリート)」を敏感に感じて嫌悪し「お宝」を盗んで見せるのが宮崎駿(最高善信仰)のルパンの「美学」なのだ。
3 「宮崎駿(最高善信仰)のルパン」の美学(盗みの美学)
ルパン三世が劇場用アニメーション映画「ルパン三世 カリオストロの城」でダビデ(最高善信仰)となり大活躍するのは其の様な資質があってなのです。
「神演出の支配(カルトエリート)」を敏感に感じ取り嫌悪してお宝を奪って見せるのが宮崎駿(最高善信仰)のルパン三世の「芸術(美学)」である。
宮崎駿(最高善信仰)のルパン三世は芸術家(美学家)である。
それがダビデ(最高善信仰)の資質と同様なのだ。
クラリスを救い出し、カリオストロ伯爵は死し、ローマの街が湖底から蘇り、クラリスは最高善の神の子「ダビデとイエス」(最高善信仰)と最高善の神への「真の学問(カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion))」をルパン三世に盗まれた心の代わりに確保する。
クラリスは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」が受肉した「最高善の神の叡智の人」となったのだ。
銭形警部(とっつぁん)はクラリスに言ったことは決して間違いではない。
4 クラリスの「信仰」を入れる場所
その意味するところは
「信仰を入れる場所を確保するために知識を取り除かねばならなかった」
イマヌエル・カント『純粋理性批判 第二版序文』
『無原罪のお宿り』の信仰
ソクラテス『無知の知』
タロットカード『The Fool 0』
ルパン三世に盗まれた「クラリスの心」が示しているものとは「信仰を入れる場所を確保するために知識を取り除かねばならなかった。」にある。
ルパン三世が盗んでいった「心」はイマヌエル・カントの言う知識(心)を意味しているのだ。
クラリスがルパン三世に盗まれた知識(心)とはdoxa(絶対知)であるのです。
そしてクラリスはルパン三世に心を盗まれることによって「真の学問(カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion))」を入れる場所を確保したのです。
ルパン三世によりカトリック信仰へ導かれたのです。
しかしモンキー・パンチ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)のルパン三世には「真の学問(カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion))」がないのです。
モンキー・パンチ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)にはダビデ(最高善信仰)のような「真の学問(カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion))」が存在しない。
それは最高善信仰を持っていないからです。
そこが宮崎駿(最高善信仰)と絶対的に違う!
このダビデ(最高善信仰)とは最高善の神を感じる者でありダビデ(最高善信仰)とはイエス・キリストと言える。
つまり美しい、善い心で御言葉を聞き、〔それを〕保ち、不屈さの中で実を結ぶ者たちだ
そしてそれが「クラリス」なのです。
5 ユダヤ教とキリスト教の違いはイエス(最高善信仰)の存在にある
イエス(最高善信仰)をメシアとしないユダヤであるか?
イエス(最高善信仰)をメシアとするキリスト教であるか?
イエス(最高善信仰)をメシアとするかの扱いの違いでしかない。
メシアの認識の違いでしかなく最高善の神への「真の学問(カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion))」のあり方自体は同じだったと言って良いだろう。
モンキー・パンチ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)の描くカルトエリートの盗賊に何の魅力があるだろうか?
キャラクター形成においてただ「神演出の支配(カルトエリート)」の存在が人気を持つことはありえない。
何故ならばそれはカトリック信仰へ一々敵対するサタン崇拝(敵対者)でしかないからです。
6 ネオ・ナチズムの正体はサタン崇拝(敵対者)でありアンチキリストである
ゴリアテ(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)が人気者の社会は社会信仰が堕落した「神演出の支配(カルトエリート)」を正当化する共犯関係であり堕落した人間関係でしかない。
屁理屈屋の生態描写を芸術(美学)として文学賞を与えて社会的権威付けをする。
全くの堕落芸術賞(堕落美学賞)である。
そのような人間関係を社会主義(ネオ・ナチズム)という。
ゲッペルスの宣伝部隊による活動に依ってゴリアテ(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)が人気者(アーリア)となったものが現代の文学作品である。
それは「ヲタ芸」の「黒ミサ」の儀式である。
モンキー・パンチ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)は得意げに「俺のルパンは背後からでも人を撃つ」と言ったがそのようなルパン・キャラクターは何の魅力もなくただ周囲が人気者扱いしたアーリア(高貴さ)でしかないのだ。
それは現代の文学作品である。
しかし芸術(美学)ではない。
そして宮崎駿(最高善信仰)のルパン三世は決して宮崎駿(最高善信仰)のオリジナルキャラクターではないけれどダビデ(最高善信仰)の唯一性のペルソナ(信仰から形成されるオリジナル)を持ったキャラクターとして大変な魅力を持つ人気キャラクターとなった。
「カリオストロのルパン三世である!」
最高善の神の正義の使者であり最高善の神の子のダビデ(最高善信仰)であり、最高善の神の子のイエス(最高善信仰)なのだ!
私の個人的感覚では価値のあるルパン三世はモンキー・パンチ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)ではなく宮崎駿(最高善信仰)の作品である。
モンキー・パンチ(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)の作品は「神演出の支配(カルトエリート)」であるだけの魅力のない滓のようなルパン三世であるのだ。
それは「作者の匙加減」の支配でしかないのです。
7 宮崎駿(最高善信仰)の信仰の為せる仕事だったのだ!
現代は「神演出の支配(カルトエリート)」のキャラクターを人気者として宣伝したいゲッペルス宣伝省が暗躍している。
「ヲタ芸」の「黒ミサ」の儀式です。
ゴリアテ(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)を人気者扱いしたいのだ。
それがネオ・ナチズムであり日本のマスメディアである。
ただTBS(東京放送)と毎日新聞社は例外だろう。
彼らは「カトリック信仰」を至上とする仕事を旨としているからです。
しかしTBS(東京放送)や毎日新聞社のように左まんじ(アーメン)を重んじる白ミサのコンテンツに対し逆に右まんじ(ハーケンクロイツ)の印を刻んでいく黒ミサのコンテンツが存在する。
この暗躍がダビデ(最高善信仰)を貶めゴリアテ(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)を人気者とする活動である。
それが「オタク芸術」の勃興であるのです。
要は人気者の捏造自体がハーケンクロイツ(右まんじ)であるのだ。
私は大成建設グループ会社で異様ないじめにあっていた時に親会社の大成建設の社員に「猿岩石」といきなり呼ばれ侮辱された。
彼は私に信じられない「酷い行い」をした後にそのように私に向かって叫んだ。
無茶苦茶な話だったが私の立場は弱くじっと耐えるしかなかった。
「猿岩石」とはハーケンクロイツ(右まんじ)の意味であるだろう。
「猿岩石」の存在は1996年当時では当たり前に「逆転」の象徴の語彙であったのでした。
だから彼は嫌らしく「ヲタ芸」の「黒ミサ」の儀式を行ったのです。
※原敬はカトリック教徒だった。
私はこのような「神演出の支配(カルトエリート)」を察知したらすぐさま公表したいと思っている。
宮崎駿(最高善信仰)のルパン三世に関する暗躍をお伝えしました。
第五章「新約聖書 福音書としてのルパン三世」
1 真の聖書(カトリックコミュニケーション)としての最高善の神の子ルパン三世
「真の聖人信仰」と「日本的偽神童」を「偽信用」のアーリア(高貴さ)とする構造
ルパン三世には「信用」はない。
又、ルパン三世は「信用」を嫌っている。
それはどういうことか説明しよう!
アルセーヌ・ルパンの三代目とかいう怪しげな「こそ泥」を信用する者は誰もいない。
しかし其の信用とは社会主義で捏造された偽信用でありそれは人間関係で偽信用をアーリア(高貴さ)とする社会主義(ネオ・ナチズム)の偽信用社会のことである。
それは「ヲタ芸」で祀った信用であり「黒ミサ」の儀式でしかない。
「神演出の支配(カルトエリート)」を人間関係で社会的偽信用としてのアーリア(高貴さ)とすることである。
人間社会は人間関係に依って社会主義の名の下に「神演出の支配(カルトエリート)」をアーリア(高貴さ)として「偽信用」を付与するのだ。
だから最高善信仰「ルパン三世」はそのような社会主義の「偽信用」を嫌っているのだ。
「贋金」と同じであり「神演出の支配(カルトエリート)」で捏造された「贋作」であるからだ!
ルパン三世は「贋金」や「贋作」を盗むことを嫌うのだ!
「神演出の支配(カルトエリート)」が支配的であり「社会的偽信用」を至上とする社会主義(ネオ・ナチズム)の人間関係を蛇蝎のごとく嫌っているのが最高善信仰「ルパン三世」である。
だからルパン三世は正確には社会主義において「偽信用」がないのではなくルパン三世の方が社会主義に於いて捏造される「偽信用」を誰であろうと信用しない。
そしてルパン三世とは私(ペルソナ)という「信仰から形成されるオリジナル」のことなのだ!
ではルパン三世は本当に「誰一人信用しない」のだろうか?
実はルパン三世は社会主義のシステムである「不信用」を「偽信用」としてアーリア(高貴さ)とすることを嫌悪しているが其の一方でルパン三世は「真の信仰者」である。
ルパン三世は「真の学問(カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion))」の信仰者である。
ルパン三世の「真の学問(カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion))」は「真の聖書(カトリックコミュニケーション)」に由来している。
ルパン三世は旧約聖書サムエル記「ダビデ(最高善信仰)とゴリアテ(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」の如く「神演出の支配(カルトエリート)」を嫌悪する感性を持っている。
それは「神演出の支配(カルトエリート)」を嫌悪する最高善の神を自らの感性で感じ其の意に従い「神演出の支配(カルトエリート)」を嫌悪しそれを「ダビデとゴリアテ」の如く殺害するのです。
それは最高善の神の子の為せる技である。
そしてルパン三世を含めた芸術家(美学家)はすべて「神演出の支配(カルトエリート)」を嫌悪していくことで芸術(美学)を創造する。
だから芸術(美学)とは最高善の神の意に依って為される。
だからルパン三世のお宝は最高善の神の意に依って為された芸術(美学)である。
ルパン三世が真に信用するのは「真の学問(カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion))」である。
2 そのルパン三世の「真の学問(カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion))」への真の信用が超人的な奇跡を起こしたルパン三世の傑作が三作品ある
2-1 「死の翼アルバトロス」
峰不二子は小型原子爆弾の密売組織を追っていた!
2-2 「さらば愛しきルパンよ」
峰不二子が撮影した証拠のビデオテープを小山田マキが銭形に差し出す
そして宮崎駿(最高善信仰)の「愛しきルパン」はこれをもって最後となったのです
2-3 「カリオストロの城」
峰不二子は一瞬の隙きでルパンを救出し脱出する
※これらの作品は全て「最高善の神の子のペルソナ(信仰から形成されるオリジナル)」の宮崎駿監督・演出・絵コンテ作品であるのです。
3 「聖人」と「天才」と「芸術家(美学家)」についての〈存在証明〉と〈偽物証明〉
聖人と天才と芸術家(美学家)は最高善の神の意をその感性で感じそれを為すことでありこれらは同様に最高善の神との関係としてあるペルソナ(信仰から形成されるオリジナル)を示している。
「神演出の支配(カルトエリート)」をアーリア(高貴さ)とする特別扱いが「聖人」ではない。
「神演出の支配(カルトエリート)」をアーリア(高貴さ)とする特別扱いが「天才」ではない。
「神演出の支配(カルトエリート)」をアーリア(高貴さ)とする特別扱いが芸術家(美学家)ではない。
「真の学問(カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion))」とは特別扱いではないのだ!
「神演出の支配(カルトエリート)」を嫌悪する最高善の神への感性を持つ者が最高善の神の子であり「聖人」であり「天才」であり「天才芸術家(天才美学家)」と言われる。
「真の学問(カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion))」として「神演出の支配(カルトエリート)」を嫌悪する最高善の神を感じることで其の意に従う聖人(天才)による芸術(美学)のあり方がある。
一方で「神演出の支配(カルトエリート)」を特別扱いして「似非神童」と名付けアーリア(高貴さ)とする構造のあり方がある。
両者の決定的な対立が人類の「真の学問(カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion))」の歴史としてある。
人類の「真の学問(カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion))」の歴史は「聖人」と「天才」と「芸術家(美学家)」についての「存在証明」と「偽物証明」のあり方なのだ。
そういった神の子へ一々敵対する敵対者(ダミアン)が存在するのです。
エピローグ 「宮崎駿(最高善信仰)が描くルパン三世の福音」
1 ルパン三世の福音
ローマの街が蘇ったカリオストロ公国はローマ帝国から東西のローマ帝国へ分裂した。
西洋建築史より考察するとその後はロマネスク建築やビザンチン建築を経てゴシック建築からルネサンスへ向かう。
そしてバロック建築からロココへ向かっていくのです。
建築様式で見ればローマ帝国は崩壊しロマネスク建築からビザンチン建築を経てゴシック様式になっていく。
このゴシックのゴートとはクラリスの指輪に刻まれクラリスの体に流れる古いゴートの血なのです。
2 【ART(芸術「美学」)の成果】と【神演出の支配の成果】の比較はナンセンスだ!
聖人とは天才であって「神演出の支配(カルトエリート)」を嫌悪していくことで生まれる芸術(美学)を成果とする。
それを「真の学問(カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion))」と呼ぶ。
それを為すのが真の「聖人」であり天才芸術家(天才美学家)である。
ここで重要なのは、クラリスは「古いゴートの血」ではなく「真の学問(カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion))」へルパン三世によって導かれたということだ。
ルパン三世はクラリスを「真の学問(カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion))」へ導く!
「カリオストロの城」は其の様なイエス・キリスト(最高善信仰)の福音のストーリーと同様のルパン三世の福音のストーリーなのです。
3 「真の学問(カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion))」と「偽の信用の学問」の構造
この作品で明らかになった「真の学問(カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion))」と「偽の信用の学問」の構造は斯くある。
先ず「神演出の支配(カルトエリート)」により「デマゴーグ」をアーリア(高貴さ)とする「偽信用」を形成する。
それは社会的偽信用であり人間関係で捏造される偽信用である。
それは「ヲタ芸」の「黒ミサ」の儀式なのです。
しかし実際に「神演出の支配(カルトエリート)」を真に信頼し続けることはあり得ないだろう。
それは本当のバカだからです。
又は騙され続ける被害者なのです。
そして騙し続ける加害者でもあるでしょう。
4 「裏切り者」だと知れている者をわざわざ「真に信用するバカ」はいないだろう
後は「神演出の支配(カルトエリート)」を嫌悪しダビデ(最高善信仰)がゴリアテ(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)を殺害した如くカルトエリートを殺害する奇跡の力を聖なる「真の学問(カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion))」と言う。
「真の学問(カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion))」と「神演出の支配の学問」は全く違うものです。
何故ならば「神演出の支配の学問」とは一々敵対して形成されたまがい物でしかないからです。
「真の学問(カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion))」はカルトエリートを嫌悪する最高善の神からカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を受肉している。
しかし其のようにカルトエリートを嫌悪する存在は真の聖なる存在となる。
真の聖人のあり方なのです!
聖書(カトリックコミュニケーション)が真実だと言えるのはそのような最高善の神の意を感じる真の聖人の存在があって可能となっている。
真の聖人はカルトエリートをアーリア(高貴さ)とする偽の「信用」を決して信用しない。
それはカルトエリートをアーリア(高貴さ)とする「ヲタ芸」の「黒ミサ」の儀式でしかないからです。
真の聖人がカルトエリートを嫌悪することは社会主義の偽信用社会と絶対的に衝突する。
真の聖人が嫌悪するカルトエリートを社会主義(ネオ・ナチズム)はアーリア(高貴さ)とするからだ。
しかし「神演出の支配(カルトエリート)」の偽神童(反聖人)は日本には多いのだ。
それを日本国では受験勉強の偏差値といいます。
国立東京大学へ合格したものは日本では「偽神童(反聖人)」とされる。
しかしそれは人間関係においてアーリア(高貴さ)とされた反聖人(偽神童)にすぎない。
日本国の反聖人(偽神童)はカルトエリートを嫌悪し芸術(美学)を創り上げることはできない。
何故ならば敵対者(サタン崇拝者)としてまがい物を形成するだけだからです。
日本国家の「神演出の支配(カルトエリート)」の偽神童(反聖人)は全く聖人ではないのです。
点数稼ぎで成果を出す偽学者(反聖人)にすぎないのです。
真の学者はカルトエリートを嫌悪して芸術(美学)としての成果を出す存在である。
それが真の聖人です。
国立東京大学へ合格した偽神童たち(反聖人)はカルトエリートを偽聖人としてアーリア(高貴さ)とする社会的偽信用のアーリア(高貴さ)です。
真の聖人が「真の学問(カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion))」の真の聖書(カトリックコミュニケーション)としてあるのか?
偽聖人が偽信用のアーリア(高貴さ)としてあるのか?
前者は「真の学問(カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion))」であり、後者は社会主義(ネオ・ナチズム)の事を言う。
それが真の聖人の「真の学問(カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion))」の「真の聖書(カトリックコミュニケーション)」と「日本的偽神童の偽信用のアーリア(高貴さ)」の構造であるでしょう。
宮崎駿(最高善信仰)のルパン三世とは真の聖人であるのです!
5 真の信用
しかしこの世界で真の聖人ほど真に信用される存在はいない。
それが「ダビデ(最高善信仰)」の再来と言われたメシアであり聖人の「ナザレのイエス」である。
そして「ナザレのイエス」は後にキリスト教の教えの中心となり「新約聖書 福音書」の主人公となった。
宮崎駿(最高善信仰)のルパン三世は真の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の人であった。
そのような存在は「真の学問(カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion))」を真に信用することで奇跡を起こす。
それが宮崎駿(最高善信仰)の福音書の真の聖人の存在「ルパン三世」であったのです。
宮崎駿(最高善信仰)のルパン三世は「新約聖書 福音書」のイエス・キリスト(最高善信仰)と同様なのです。
そしてイエス・キリスト(最高善信仰)はダビデ(最高善信仰)の再来と言われました。
それ故にキリスト(メシア)とされたのです。
それがキリスト教であるのです。
最後に
宮崎駿(最高善信仰)の劇場用アニメーション映画「ルパン三世 カリオストロの城」はキリスト教の聖書(カトリックコミュニケーション)なのです!
黒田清子さま 愛子さま そして聖宮崎駿さまへこの作品を捧ぐ
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