見出し画像

【聖アニメ信仰】「知の鵜呑み(doxaによるレイシズム〈ギルティ〉)」は神話であり「知の廃棄(doxaをバプテスマ〈イノセント〉する)」は聖書である。


イマーゴ(真善美の回復)を付け回し敵対感覚〈原罪〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)を狙う魔物に対する「護符」
最高善を躓かせる仕掛けとしての敵対感覚〈原罪〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)はサタン(最高悪)の計略でありアンチキリストの純粋無垢で穢のない欲望という屁理屈(前衛詐欺)である。
それは一見クリーンイメージの人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))が形成する天然邪悪の概念である。
それは人間の悪臭を発散しそれを高価な香水で誤魔化している。
聖なる香水とは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」であり聖水と呼ばれる。
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."
ケネディ大統領はアイルランド系であり『カトリック』であった。


「知の鵜呑み」と「知の廃棄」

※「知の鵜呑み」が演出した代表的アニメーション「新世紀エヴァンゲリオン」

パロディ(オタクの二次創作)の演出企画

最高善の神との関係に於ける「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」を弾圧するためのアニメ企画書である。

何故アニメファンである筈のアニメオタクがこの様にオリジナルを弾圧するのだろうか?

それは「キャラ立ち」という表現から読み解けるだろう。
「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」と「キャラクター立ち」の絶対的矛盾がそこにはある。
「オリジナルの作品」は「知の廃棄」から信仰を入れる場所を確保することで受肉する叡智によりペルソナの作品となる。
しかし「キャラクター立ち」は「知の鵜呑み」への批判はなされない。
それどころか「知の鵜呑み」を問うことを禁忌とすることで「キャラクターの知のあり方(内面)」はサンクチュアリとされる。
それによってキャラクターの外面のみが問われることになる。
それがオタクの二次創作としてのアニメキャラクターデザインである。
これは「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」を弾圧する「キャラクターデザイン」で制作されたパロディ作品となるだろう。

私はオリジナルを弾圧して制作されたカルトアニメを観ても何が面白のか理解できない。

例えば「風の谷のナウシカ」はオリジナル作品である。
そして「ふしぎの海のナディア」はカルトアニメである。
確かに貞本義行のナディアは素敵な美少女であり、メカニックデザインも工夫が見られた。
ストーリーは破綻しているが迫力ある大団円を迎えて記憶に残る作品となっているだろう。
ただオリジナルとは言い難い。
当然に「知の廃棄」よる信仰を入れる場所がないからです。
何故ならアニメオタクの知識を総動員して制作された「知の鵜呑み」による作品であるからです。
これでは芸術となることはできない。
アニメオタクの知識を総動員した作品を仮にオタク芸術と名付けても価値はないと私は思う。
「信仰から形成されたオリジナル」が芸術作品の最大の条件であるからです。
庵野秀明の「ふしぎの海のナディア」はオタクの喝采を狙った娯楽作品ではあるけれど「風の谷のナウシカ」の芸術作品とは程遠い駄作中の駄作であるだろう。
庵野秀明の作品は全てそうであり、彼が「風の谷のナウシカ」の続編制作を嘆願した行いは身の程を知らない者の行いであろう。

ca・reer [kəríər]〓
―n.
1 (特に専門的訓練を要し一生の仕事とされる)職業;一生の仕事:〓
2 生涯,一生の行路;経歴,履歴,キャリア:〓
3 (職業での)成功,出世:〓
4 進路;(特に速やかな)進展,進行,成り行き,経過:〓
5 ⦅しばしば full career⦆ 速力,(特に)全速力(full speed),疾走,ばく進:〓
6 ⦅古⦆ 急襲.
―v.i. 速く走る[動く],疾走する,突進する;暴走する;全速力で走る:〓
―v.t. 〈車・馬などを〉疾走させる,全速力で走らせる;素早く動かす.
―adj. ⦅限定的⦆ ⦅主に米⦆ 専門の,本職の,職業的な;生涯[通算]の:〓
[c1534年.<中期フランス語 carriere<古プロバンス語 carriera,字義は「道」<後期ラテン語 carrāria (via)車の(道)(ラテン語 carrus「四輪車」より;⇀CAR¹)]

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

キャリアぐみ【キャリア組】
career
国家公務員採用試験I種に合格し,中央本省庁に採用された一般行政職公務員の俗称。それ以外の公務員をノン・キャリア組 non-careerと呼んでいる。両者の間には昇進スピード,最終ポストにおいて大きな差がある。最終ポストはキャリア組の平均が本省庁の中堅課長職,ノン・キャリア組は II種合格者が本省庁の課長補佐級,III種は上級係員である。幹部候補としてのキャリア組は1~2年単位で省庁内の多くの部局を異動したり,他の省庁へ出向したりしてジェネラリストとしてのトレーニングを積んでいく。幹部の頻繁な異動にもかかわらず行政を安定させているのは,スペシャリストとして長年同一部局にいるノン・キャリア組である。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

さんみいったいろん【三位一体論】
De trinitate
400~419年頃にかけて書かれた⇨アウグスチヌスの円熟期の労作。まず聖書の記録に従って三位一体すなわち3つのペルソナ tres personae,1つの実体 una substantiaの教義の解明に努め,次いでこの教義をめぐる教父たちの諸説に論及し,最後に三位一体の秘儀について考察している。ギリシア教父たちはおおむね父と子と聖霊の3つのヒュポスタシス(個性的実体)から出発して神の唯一性を考察し,3神論に陥る危険を思弁的に克服しようとする傾向にあったが,彼は逆に神の唯一性そのものから出発,3つのペルソナ(父,子,聖霊)を神の存在そのものにおける関係概念として説明することによって3神論への傾斜を避け,啓示と救いの働きにおける面を強調する(経綸的)三位一体論の立場を正統とした。また彼は三位一体の秘儀は啓示と信仰のもとでも理性による十分な把握はむずかしいとし,神の三位一体性を人間の心的活動(記憶と悟性と意志,あるいは精神と認識と愛)の三位一体性と類比的に説明している。なお“tres personae,una substantia”という表現はすでにテルトゥリアヌスに見出されるが,これを明確に定式化したのはアウグスチヌスである。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

ペルソナ
persona; person
位格ともいう。本来の意味は俳優のかぶる仮面。そこから奥にある実体を意味することになり,個的人格 personの意となる。キリスト教神学におけるペルソナ(位格)とは,⇨三位一体論に関して,神の唯一の神性のなかの三つの「私」といえる基体の意であり,客観的に1個のそれ自体で完結している全体,直接神に向ってつくられた唯一のものとして,それ自体で完成した理性的な単一実体 substantiaを意味する。これはテルトゥリアヌスによるとされ,以後この語は西欧神学,哲学において,認識と愛とをそなえた精神的実体の意で用いられた。⇨ユングの心理学では,表に現れた仮面として,社会的な⇨パーソナリティを意味する。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

私は「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」が「キャラ立ち」として成功した作品が名作だと認識している。
それはシェイクスピアの戯曲と同様の価値がありそれはキャラクターの「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」を至上としたキリスト教カトリック神学となるだろう。

それを弾圧することで形成された作品は中身のない「ハリボテ作品」と言えるだろう。

ガイナックスの「オネアミスの翼」においてハリボテ兵器が登場した戦争シーンは印象深かった。
庵野秀明のロケット発射シーンよりハリボテ兵器の方が当時船橋市立高根中学校卒業間近の私にとってカルチャーショックであったのです。

これは「キャラクターデザイン神話」の手法である。

私は「綾波レイ」を気に入っている。
しかし初回に登場したときの痛々しい包帯はインチキ臭いと思う。
「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」を弾圧するための思わせ振りの設定に終始して企画されたからだろう。
一山当てたい山師の作品であるが芸術家の作品ではないのです。
大阪芸大卒業というキャリアだけで「オリジナル信仰を弾圧する芸術家」が庵野秀明であるだろう。
それは節操のないコピー製品を意味しユニクロと非常に酷似している。

「惣流・アスカ・ラングレー」も私は好きだ。
しかしレイもアスカも中学生でありロリータコンプレックスのセックスシンボルであるだろう。
こんなにもスタイルが良くて綺麗な子と付き合いたいと思わせるのはエヴァンゲリオンがロリコン商売をしている証拠だろう。
ロリコンセックス商売をしているだけなのだ。
それは少女売春宿の主人のような存在と言える。
それが「芸術」ですか?
庵野さん?

謎の人物 碇ゲンドウ
唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)を完全弾圧する超人的キャラクター
異常者であるが有能とされている。
ふざけた設定と言えるだろう。

※「知の廃棄」が演出した代表的アニメーション「風の谷のナウシカ」

これはキャラクターの「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」が結晶した「芸術」である。

「風の谷のナウシカ」の奇跡は最高善の神の奇跡であるだろう。
「風の谷のナウシカ」の「奇跡」は「新世紀エヴァンゲリオン」のSF的「なんでもあり」とは似て非なるものです。
カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰の「奇跡」とSF的「なんでもあり」は才能の違いとなるだろう。
「芸術家」と「詐欺師」の違いである。

※「知の鵜呑み」は崇拝関係を形成する。

私が拵えた他者への蔑称

これは今まで私自身が他者から聞いたことはないけれど私自身が独自に命名した「頭の悪い人間」の蔑称の一つである。
実は私は結構「毒舌」なのだ!

ワンワードとは何かと言えば「一文」で評して「全てを一言で評してしまう姿勢」である。

しかし私自身もワンワードで人や物事を評することはよくあるのだ。
では「愚者」と「聖人」を分かつ「試金石」と「分水嶺」はどのようになっているのだろうか?

「知の鵜呑み」と「知の廃棄」の違い

では一体「知の鵜呑み」と「知の廃棄」の違いは何かということを明確にしたい。
それは至極簡単な仕組みで成り立っている。
その説明は簡単である。
「知の鵜呑み」はワンワードを「呪術崇拝から形成される象徴(偶像崇拝)」とする原始的段階に近い「愚者」である。
それは真の「馬鹿の一つ覚え」を意味する。

その一方で「知の廃棄」はワンワード崇拝を禁忌としてその代わりにカトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰の入れる場所を確保する。
これはイマヌエル・カントの「純粋理性批判」の「第二版序文(信仰を入れる場所を確保するために知識を廃棄しなければならなかった。)」に示されている。

知とは「思い込み」であり、それを廃棄してカトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰を入れることを示している。
それは「思い込み」を廃棄した上で可能となるカトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰でありソクラテスの「無知の知」を示している。
「知の鵜呑み」は真の「馬鹿の一つ覚え」であり、「知の廃棄」は「受肉」を意味している。
そして「知の鵜呑み」は「神話」であり、「知の廃棄」は「聖書」と言えるだろう。

○馬鹿の一つ覚え
一つの事だけをおぼえて、それをどんな場合でも得意になってふりまわすことをあざけっていう言葉。同じことを繰り返す時の言い分けにも使う。

『広辞苑 第六版』 岩波書店

〓馬鹿の一つ覚え
A fool always tries to show off the only thing he knows.

『プログレッシブ和英中辞典(第3版)』 小学館

しんわ【神話】
myth; mythology
神話 mythはギリシア語のミュトス mythosに由来し,論理的な思考,ないしその結果の言語的表現であるロゴス logosに対し,事実そのものに関係しながらもその背後にある深い隠された意味を含む「神聖なる叙述」とされる。人間を取巻く宇宙や自然の起源とそのあり方,したがって人間自身の起源とそのあり方を説明したり,規定したりする集団表象であるが,その際必ずなんらか超自然的存在を引合いに出し,それとの関連において解明が試みられる。神話を最初に批判したのはギリシア人であって,神話の非合理性の批判からギリシアの哲学は発生し発展した。伝統的社会のように神話の生きている社会では,神話的伝承ないし儀礼を繰返すことによって一定の重要な呪術的効果が期待される。こうして社会存立の根本にかかわる重要な文化的機能を神話はもっているが,非合理な神話を信じない文明社会では,哲学や科学や政策が神話に取って代る。神話としては宇宙創造神話(→宇宙開闢説)が基本的なもので,そのうえに太陽,月,星に関する神話,雷や風雨,洪水に関する神話(→洪水神話),火の⇨起源神話,祭儀,風習神話,人類発生神話,恋愛,婚姻神話,英雄神話などが展開される。そしてその中心ないし背後にある霊格,霊能に対して人がどういう態度をとるか,そこに呪術的,宗教的なものがからんでくる。神話には現実生活の理想的形態が凝縮された姿で投影されるとともに,逆に現実生活にそれとは意識されずに相当強力な影響を及ぼすこともある。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

ロゴス
logos
理性,言語,理法(法則),比例,定義などさまざまに訳されるギリシア語で,古代哲学,神学における重要な概念。ヘラクレイトスはロゴスを万物の生成を支配する永遠の理法とし,ストア派は世界を合目的的に支配する原理として神と同一視した。なおストア派は個物を形成する能動的理性を種子的ロゴス(ロゴス・スペルマチコス),分たれて個々の人間に内在する思想 ratioとしてのロゴスをロゴス・エンディアテトス,言葉として表出された oratioとしてのロゴスをロゴス・プロフォリコスと呼んだ。コダヤ神学とギリシア哲学の融合を試みたアレクサンドリアのフィロンは,ロゴスを神と同一視せず,神と世界とを仲介し世界形成に関与する神的存在とした。これは『ヨハネによる福音書』における神のひとり子イエス・キリストとして受肉したロゴスと近似しており,直接の依存関係はないがキリスト教神学に与えた影響は大きい。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

せいしょ【聖書】
Biblia Sacra; the Holy Bible
⇨ユダヤ教と⇨キリスト教の聖典。キリスト教の聖書は⇨旧約聖書と⇨新約聖書からなっているが,ローマ・カトリック版の旧約聖書はプロテスタントが外典とみなしている書を含むため,多少大きくなっている。ユダヤ教の聖書は,プロテスタントにとっての旧約聖書だけをさし,ユダヤ教とキリスト教とでは,正典の並べ方がかなり異なる。プロテスタントとローマ・カトリックの並べ方はほぼ同一である。
伝統的にユダヤ人は,聖典(旧約聖書)を3つのパートに分けている。トーラー(律法)あるいは⇨モーセ五書,ネビーイーム(→預言書),そしてケスービーム(諸書)あるいは聖文学である。モーセ五書と⇨ヨシュア記の六書には,イスラエルの国がどのようにして成立し,またどのように約束の地を手に入れたかが解説してある。預言書に分類されている個所も,約束の地におけるイスラエル人の物語の続きが語られ,王政の成立と発展,さらに人々に対する預言者たちのメッセージが記されている。諸書は神の摂理の中で起る悪と死について思索する書(→ヨブ記, ⇨伝道の書)や詩的文学,そして追加されたいくつかの歴史書などが含まれている。
旧約聖書における外典には,さまざまな種類の文学が描かれている。外典の目的は,明らかに正典とされているものの間で生じる相違点と,紀元前2世紀までのイスラエルの歴史の狭間を埋めることにあるようだ。
旧約聖書と比べると,新約聖書はキリスト教の聖書の中で占める割合がかなり短くなっているが,キリスト教の広がりを通して,その影響力は多大なものとなっている。旧約聖書同様,新約聖書も数々の書を集めたもので,さまざまな初代キリスト教文学を含んでいる。四福音書は,クリスチャンによって思い起こされた形でイエスの生涯,人物像,教えなどが描かれている。使徒の働きは,イエスの復活からパウロの働きの最後までを扱っている。書簡は,使徒パウロをはじめとする初代キリスト教のさまざまなリーダーたちによる書状で,あらゆる必要と初代クリスチャンたちが抱えていた問題について書かれた教会宛のメッセージである。黙示録は,初代クリスチャンの運動に見られた終末論的文学を大きく取扱った唯一の正典である。
またユダヤ教の聖書,あるいは旧約聖書の原書は,ごく一部⇨アラム語で書かれた個所がある以外はほとんどすべてヘブル語で書かれた。新約聖書は,ある部分だけ最初アラム語で書かれた可能性もあるが,当初おそらくすべてギリシア語で書かれたか,記録されたと思われる。ペルシア帝国が地中海流域を支配していたとき,アラム語はその地域の共通語となり,捕囚に連れて行かれたユダヤ人たちは,そうした言語的理由からトーラー(モーセ五書)を伝統的なヘブル語から共通語へ翻訳しなければならなかった。こうして生れた⇨タルグムはオリジナルのヘブル語の巻物が失われた後も残ることになった。のちの紀元前3世紀中期にギリシア語が主流になると,ユダヤ教の神学者たちは徐々にヘブル語の正典からギリシア語へと翻訳していき,現在ではその翻訳は『七十人訳旧約聖書』(→セプトゥアギンタ)として知られている。最終的に,キリスト教が広まるにつれてさらにコプト語,エチオピア語,ゴート語,ラテン語などに翻訳する必要が出てきた。聖ジェロームは 405年頃,ある部分を『七十人訳旧約聖書』をもとにして翻訳しはじめたラテン語版聖書ウルガタを完成させた。筆工によって変造がなされたにもかかわらず,『⇨ウルガタ訳聖書』は 1000年以上もキリスト教の規範となった。
聖書の資料は,旧約聖書のほとんどの書の著者は判明しておらず,多くの場合編集が個人によってなされたのか,あるいはグループによってなされたのかもわかっていない。にもかかわらず,内部の証拠を丹念に調べた結果,神学者たちはある資料の特徴を把握し,書かれた年代順に並べることができるようになった。基本的な五書の資料を区別し,それらの年代を設定する方法によって,イスラエル文学と宗教的な進展は初めて明確に把握されるようになった。それらの資料の今日知られている名前を年代順に挙げていくと,まずヤハウィスト(J)資料が挙げられる。ヘブル語による主の名前を英語に訳すと YHWH(Jと呼ばれるのはドイツ語の JHVHから)になり,発音するとヤハウェと言うのでそのように呼ばれる。次はエロヒスト(E)資料で,主をエロヒムと呼ぶことから,そう区別される。第3番目は申命記的(D)資料で,他とは異なる特有の言葉や形式が特徴である。第4番目は祭司的法典(P)資料で,儀式の手引きについての詳細についてふれている。
旧約聖書の資料は,ほかにもその後多数確認されている。その中には,今日現存していない最も初期の頃のユダヤ文学の書で,部分的に早い時期に書かれた物語に取り入れられているものも2つほど含まれている。それら『ヤハウェの戦いの書』 Book of the Wars of Yahwehと『ヤシャーの書』 Book of Yasharは,おそらく詩文体で書かれたものと思われる。
新約聖書の資料は,先に興った口伝の伝統とともにキリスト教聖典から構成される原文からなる。初めの3つの福音書は,共観福音書と呼ばれ,同じ資料を共有している。『⇨マルコによる福音書』は『⇨マタイによる福音書』と『⇨ルカによる福音書』の資料として用いられ,後者の2つはQ(ドイツ語の Quelle=資料から名づけられた)と呼ばれ,おもにイエスの格言からなる別の同じ資料をもとに書かれているという意見が現在ではいわれている。ヨハネの福音書は,明らかに独自の伝達方法をとっている。ほとんどの旧約聖書の著者は不明なのに対し,主要な新約聖書の出所は知られており,したがって研究において重要な仕事はもとの直筆原稿にできるだけ近い形で原文を保存することになっている。証拠の主要な資料は,2~15世紀にわたるギリシア語の新約聖書の写本,シリア語,⇨コプト語,ラテン語,アルメニア語,グルジア語など他の言語の初期の頃の訳,初代教会の著者による新約聖書からの引用などである。
それらの資料は,ひとまとめに「証し」と呼ばれる。現代翻訳されているものの中で信頼できる聖書はたいてい,証しがさまざまな読み方を示す折衷主義的な原文をもとにしたものである。そのような場合,文脈と一般的に知られた著者の文体に最も合う読み方をするのが好ましい。原文をこえて口伝の伝統を再現しようという試みは,伝統批判主義として知られる聖書批判の分野である。最近の神学者たちは,伝えられていく過程で付け加えられていったものを取り除いて,イエスがまさに語ったと思われる言葉をよみがえらせようとするそのような方法を試みている。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

これは根本的な言語の使用問題である。

はじめに、ことばがいた。

ことばは、神のもとにいた。

ことばは、神であった。

この方は、はじめに神のもとにいた。

すべてのことは、彼を介して生じた。

「新約聖書〈ヨハネによる福音書〉」より

聖書とカトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰

「知の鵜呑み」を崇拝するか!

「知の鵜呑み」の崇拝を「神のことば」への弾圧として嫌悪するか!

それは「神のことば」は「知の廃棄」としてあるからだろう。

原始的段階の近い「愚者」は最高善の神を身近に感じることはない。
「知の鵜呑み」を禁忌としてカトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰を受肉するものは最高善の神を身近に感じ「至高の抽象化の高み」の存在となる「知の廃棄」と言える。
最高善の神の身近にいる存在が「至高の抽象化の高み」にある「知の廃棄」なのです。
だから「知の鵜呑み」はワンワードを「呪術崇拝から形成される象徴(偶像崇拝)」とすることで最高善の神を身近に感じる存在には絶対にならない。
それはカトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰を弾圧する原始的段階に近い「愚者」でありどのようにトートロジーで装っても「知の鵜呑み」という「劣等な存在」でしかないのです。

賢者のあり方

最高善の神を身近に感じる聖人は「知の廃棄」でありそれは「賢者」である。
「知の鵜呑み」から崇拝関係を形成する原始的段階に近い存在はカトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰を弾圧するために最高善の神に反逆する存在であるのだ。

それは彼らがパロディ(オタクの二次創作)を崇拝してことにあらわれている。
それは「全知全能(ネ申)」であるからだ。
パロディ(オタクの二次創作)は「思い込み」を「ワンワード」として崇拝することでいくらでも「ワンワード」を捏造可能であるのだ。
其の意味するところはワンワードで全てを評することで「全知全能」が可能になる。
ワンワードで拵えれば知識はいくらでも捏造可能であり全知全能となり得るのです。
しかしその全知全能はワンワードのパロディ(オタクの二次創作)によって体系構築されるだけで、実際の全知全能は「無知の知(知の廃棄)」によって構築される学問体系としてある。

よって学問体系は全知全能ではなく人類の「無知の知(知の廃棄)」の遺産であるのです。
「知の鵜呑み」による全知全能は全て出鱈目となる証明が為されそれを「思い込み」と言います。
そしてそれは「詐欺」とも言います。

ぜんち‐ぜんのう【全知全能】
完全無欠の知恵と才能。どんなことでもよく知り、どんなことでもよく行う神の能力。「—の神」

『広辞苑 第六版』 岩波書店

ドクサ
doxa
「臆見」を意味するギリシア語。⇨エピステメの対立概念。低次の認識を意味する語としてドクサを初めて使ったのはクセノファネスであるが,永遠不変の存在についての真なる確証に対して,感覚に基づくドクサを立てたのはパルメニデスである。プラトンは後者の思想をうけて,真実在についての知識(エピステメ)と感覚的事象を対象とするドクサを認識論的存在論的に峻別,さらにドクサを感覚的個物に対する確証と感覚的個物の似像に対するエイカシアに区別した。アリストテレスはこれに対して存在論的区別を退け,エピステメを一般者ないし必然的なものについての判断とし,ドクサを感覚的個物にかかわるものとしている。エピクロス派では感覚そのものは真と認めるが,感覚に近い自発的な精神作用であるドクサには感覚の明証性の限界を踏越えて誤謬の可能性があるとしている。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

山師を人間関係によって全知全能のごとく扱うことがパロディ(オタクの二次創作)の人間関係という。

しかし人間の社会信仰は「無知の知(知の廃棄)」の遺産によって形成される。

「無知の知(知の廃棄)」の遺産による社会信仰によってある人間社会(神の王国の到来)と「山師を全知全能のごとく扱うパロディ(オタクの二次創作)」の人間関係は対立します。

「最高善の神の意思」による芸術社会の構築

これは「聖社会信仰」によって「邪社会主義」のメッキが剥がされ地金が出ることにより醜悪を晒すことを示しています。
それは「神の王国の到来」が勝利するのが「最高善の神の意思」による芸術社会であるということです。

カントとヘーゲル

全知全能の存在証明はヘーゲルの「神の存在証明」と同じである。
しかしヘーゲルにはカトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰がない。
ヘーゲルは先ず「神の存在証明」をして、それを崇拝することから始めるからです。
ヘーゲルは神のパロディ(オタクの二次創作)であり「ネ申(ネモウス)」と言えるだろう。
だからヘーゲルの「神の存在証明」はヘーゲルによる全知全能の存在の捏造と其の根拠とされる神のパロディ(オタクの二次創作)の賛美でしかないのだ。
ヘーゲルの神の存在証明はパロディ(オタクの二次創作)の神の存在証明である。
キリスト教のパロディ(オタクの二次創作)を禁忌として最高善の神を身近に感じる聖なるカトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰とは相容れない。

ヘーゲルの神とキリスト教の神は「神」が違うのだ!
カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰者とはカントを示している。
これはカントとヘーゲルの「神」の違いでありカントの最高善の神とヘーゲルの「ネ申(ネモウス)」の違いである。
これは賢者(最高善の神)と愚者(ネ申)の違いとなる。

そして「無知の知(知の廃棄)」と「全知全能(知の鵜呑み)」の絶対的な違いなのだ!
それがキリスト教の最高善の神の叡智とパロディ(オタクの二次創作)の「ネ申(ネモウス)」のドクサの違いとなる。

「無知の知(知の廃棄)」の知識は最高善の神の意思(人類の遺産)である。

知とは「ドクサ」であり「思い込み」である。
ドクサとは天然邪悪(イノセント)を示している。
それはワンワードで捏造可能な全知全能の詐欺でしかないからだ。
「無知の知(知の廃棄)」とは知のパロディ(オタクの二次創作)を禁忌として最高善の神を身近に感じることで叡智を受肉する。
それはカトリックロゴス感覚が受肉した叡智となりそれを「芸術」という。
「芸術の成果」としての「学問」を「人類の遺産」というのだ!
「無知の知」の叡智は「人類の遺産」である。

「最高善の神のパロディ(オタクの二次創作)」は「ネ申(ネモウス)」という「オタクの二次創作)」である。

アイドル・タレントとはパロディ(オタクの二次創作)をタレント(才能)として芸能活動の労働をしている存在である。
現在ではAKB48や乃木坂46、欅坂46など様々である。
彼女ら(彼ら)を「神」と見做しパロディ(オタクの二次創作)の賛美をすることがエンターテイメント(娯楽産業)とされる昨今である。
しかし彼女らが如何に若く美しく輝いて見えてもそれは「神のアイドル・タレント」としての「ネ申(ネモウス)」というパロディ(オタクの二次創作)でしかない。

歌が上手いとか演技が上手いとかの人物の評価の核心は「知の鵜呑み」であるか?

それとも「知の廃棄」であるか?

人物評価の核心は「聖人のペルソナの確立」にあるがそれに対しパロディ(オタクの二次創作)の崇拝による人物評価が娯楽として人に愛される。
しかしその「知の鵜呑み」のパロディ(オタクの二次創作)が明らかにされて白日のもとに晒されてしまえばそれは「陳腐な悪(ハンナ・アーレント)」にしかならないのだ。
何の魅力もない愚者の存在であるのだ。

「知の廃棄」を信仰する時には、「知の鵜呑み」であってはならないのだ。
「知の廃棄」とは「無知の知」をカトリックロゴス感覚で受肉し叡智として得る人である。それがカトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰である。
キリスト教の信仰は斯くあるのだ!
最高善の神を身近に感じない存在が「神のパロディ(オタクの二次創作)」を始めるのはその時である。
神を身近に感じることが不可能なパロディ(オタクの二次創作)が「神のパロディ(オタクの二次創作)」を崇拝する。
しかしそれは「知の鵜呑み」と同様であって其の神は「ネ申(ネモウス)」でしかないのだ。
「ネ申(ネモウス)」のパロディ(オタクの二次創作)の愚者とパロディ(オタクの二次創作)を嫌悪する最高善の神を身近に感じる聖人は「人格」が段違いなのだ!

愚者とは!

知能が劣っているパロディ(オタクの二次創作)は「神のパロディ(オタクの二次創作)」を拵えて崇拝し自らを「神(ネ申)を身近に感じる聖人」と称するが其の神とは真っ赤な偽物の「ネ申(ネモウス)」という擬物である。

庵野秀明の「シンウルトラマン」について

庵野秀明に依って新たに制作された「シンウルトラマン」はウルトラマンシリーズの象徴であった活動限界を示すカラータイマーが無くなっている。
この設定演出の変更はシンウルトラマンが「神のパロディ(オタクの二次創作)」崇拝の対象となっていることを示している。
「活動限界を示すカラータイマー」は「SF」におけるシナリオと作品の破綻の明らかな理由となる「なんでもあり」の設定を禁忌とするよく考えられた存在だった。
その活動限界を取り払うことで庵野秀明スタイルの演出である「なんでもあり」の作品とされた今回のシンウルトラマンは完全な破綻作品であるだろう。
これはエヴァンゲリオン初号機の活動限界を超えた活躍が碇シンジの存在によって何故か起こる暴走状態と同様である。
「ネ申(ネモウス)」のパロディ(オタクの二次創作)であり暴走状態がアニメの神だと庵野秀明は考えている。
少なくとも彼の神はパロディ(オタクの二次創作)の神である「ネ申」であり、キリスト教の天然邪悪(イノセント)を嫌悪するカトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰の最高善の神ではない。
「神の存在」が暴走状態とされ其の演出が「神演出」とされている。
暴走状態は天然邪悪(イノセント)の存在の象徴である「ヤンキー暴走族」と同じである。
それが「神の存在」であり「神演出」とされるのは庵野秀明がヤンキー並みの人物である証明である。
庵野秀明の「神演出」は「ヤンキー暴走族」を「ネ申」のパロディ(オタクの二次創作)とするものでありシンウルトラマンも同様の「神のパロディ(オタクの二次創作)」崇拝の対象とされ「ネ申(ネモウス)」のパロディ(オタクの二次創作)の愚者の象徴となっているのだ。
僕らのウルトラマンは庵野秀明に依ってヤンキー暴走族に堕したのだ!

私のヤンキー暴走族体験談

私が専門学校を卒業後に新卒で就職した大成建設グループの(株)エムイー環境計画は酷いハラスメント会社だった。
そこは専門学校の就職課の担当の先生が意匠設計を現役でしていた時に大成建設本社が入っている新宿センタービルの建設がありそこで知り合った大成建設社員とのコネクションによって入社した。
専門学校の就職課の先生の紹介であり当たり前の就職斡旋だと思っている。
私は専門学校では卒業設計で優秀賞を受賞し記念品を貰うなどした真面目な学生だったのだ。
当然、その物件は大成建設グループによって建設されその時に就職課の先生が大成建設社員の一人と非常に仲が良くなったらしい。
その大成建設本社ビル建設担当者で友人となった大成建設社員石関氏が大成建設から出向に出されそのグループ会社社長の地位を得ていたらしい。
就職課の先生は私が建築デザイン設計希望だけれど意匠設計は不況で就職先もあまりなく建築電気設備設計なら就職先はあると持ちかけてきたのです。
意匠関係の設計の仕事ができる人は自宅が設計事務所のようにコネクションのある人が多かった。

しかし入社してみて分かったのですがこの会社は酷いハラスメント会社だったのです。
そこで知ったのはハラスメントの基本は「パワーハラスメント」であるということでした。
そこでは「パワーハラスメント」のヤンキー暴走族が上級社員をしていました。
そして設計能力に疑問を感じる先輩社員も設計を外注に出して威張っていられるようでした。
しかし役員は大成建設の設計部部長を務めたエリート社員達であり大丈夫だろうと期待していましたが彼らも酷い会社役員だということが判明してきました。
出向社員だと言ってもこの会社では役員である。
しかし偉そうに呟くだけでふんぞり返り平気でプライバシーの侵害をする。
様々なハラスメントも酷かった。
勝手に寿退社を計画する女子社員を擁護しアベコベを主張され私はこの時に人生で深く傷ついたのです。

彼ら大成建設設計部のエリートは理由は分からないけれど大成建設東京本社から出向社員としてこのグループ会社の「社長職」・「副社長職」・「所長職」などを務めていた。
社長は東京本社のエース格だったらしいが神奈川支店の設計部長に昇進した時点で出世レースから左遷されたのだと言って嘆いていた。
「こんなところに来る筈じゃなかった!」と社員の前で悲しそうに嘆いてみせたが私は社長の無神経さにぞっとしていた。

この会社では「生え抜き社員」には出世の道はなかったのです。
上級役員職は大成建設出向社員が独占しその下の役職も中途入社社員が独占していた。
長くいてもいいことはないだろうことは明らかだった。
しかしこの会社は大成建設グループだから潰れることはないと主張する先輩社員達がいたがその先輩社員達のパワハラ・モラハラ・セクハラ行為は露骨だった。
そしてそれらを隠蔽するために明らかに格下で給料も格安の私達が大成建設社員と同列の役職であるかのような印象操作をしていました。

馬鹿馬鹿しいワンワードの羅列である。

「大成建設社員!?」である。

明らかに給料が安いのに一年生とか二年生とか主任とか妙な会社の地位を言い出して同会社のような印象操作をするバカバカしさだった。

彼らの中身も暴走族並みのハラスメントであった。
中身はヤンキーの暴走族と同じだった。
実際に暴走族上がりの生え抜き社員が二人いて一旦パワーハラスメントの暴走が始まると止まることはなかった。
大成建設の出向社員の会社役員はそのような暴走を奨励した。
自分たちに矛先が向かなければ良かったのだ。

彼らに天然邪悪(イノセント)を嫌悪する最高善の神を感じる感性は全くなかった。
カトリックの信仰を弾圧していたのです。

神棚を飾っていたが一体何を拝んでいるのか不明でした。
カトリックを弾圧するための神棚のようでした。
それが大成建設の出向社員だった。

私へのパワーハラスメントはエスカレートして暴走状態になった。
私は悔しかったがこんな会社は辞めた方が賢明と判断した。
当時から大成建設はスーパーゼネコンと言われていて物件も大きく良いグループに入ったと錯覚していた。
後に大成建設はカトリックを弾圧する社風であると知った。
私は社会に無知だと知った。
専門学校出の私のような新卒には其の様な知識はなかった。
しかし彼らの論理では私の方が暴走状態で会社を辞めたと言う認識となるらしい。
私の方がヤンキー暴走族とされた理屈がハラスメントの暴走状態ではなく会社を暴走して辞めたとされたのだ。
又カトリックを信仰していることが暴走とされたらしい。
しかしカトリックは倫理観でありカトリックを信仰弾圧する大成建設グループは暴走していました。
手に負えない嫌な連中としか言いようがありません。

聖織田信長信仰なら皆殺しですね!

賢明に考えていくらスーパーゼネコンと言われた大成建設でも内情を知ってしまえば辞めて賢明な事となるでしょう。
カトリックを信仰弾圧しハラスメントを奨励する社風なら辞める判断は賢明だろうと思います。

大成建設グループの人心掌握術は天然邪悪(イノセント)の手法だった!

私自身も出世もないだろうし、ハラスメントは酷いし、まともに設計を教えてくれる人はいなかった。
そして給料も安かった。
この会社は私をハラスメントで飼い馴らすつもりだったのだろうがここを賢明に辞めて正解だったと思っている。

ハラスメントで飼い馴らすことは悔しさで飼い馴らすことなのだろうか?

そういった人心掌握術があるのだろうか?

それは天然邪悪(イノセント)の人心掌握術だった。
その会社を退社後、私は深く傷つき内面は酷い傷心だった。
私は拓殖大学外国語学部英米語学科に合格し八王子キャンパスに通学することになった。
そこでもヤンキー暴走族の学生はいた。
しかし素敵な子もいた。
人はそれぞれであり人生は色々あるのだ。

※カトリックを信仰弾圧する大成建設グループの物件はいくら印象操作と詐術を弄しても絶対に芸術作品とはならないだろう。大成建設の物件は芸術的価値はなく粗大ごみでしかないのです。

シンウルトラマンはアダルトビデオ俳優だ!

シンウルトラマン主演俳優である斎藤工は活動限界(カラータイマー)のないセックスマシーンの象徴である。
アダルトビデオ俳優の鏡であるのだ。
活動限界のないセックス男女(何度でもやれるヤリチンであり他の女優はヤリマンである。)です。
当にアダルトビデオの俳優の英雄である。
カラータイマー(活動限界)のないアダルトビデオ俳優たちの作品であり一流のアダルトビデオである。
ただそれは芸術作品にはなり得ない。
庵野秀明はオタク派のアダルトビデオ監督であり絶対に芸術家ではない。
何故ならばそのヤリチンはカトリックロゴス感覚を弾圧した「なんでもあり」の設定によっているからである。
それは作者のさじ加減で一年中射精できる天才ヤリチンとされるだろう。
そのようなシンウルトラマンは決して芸術ではない。
それは断言しておく!

「最高善の神の演出」は「なんでもあり」ではなく天然邪悪(イノセント)を嫌悪する芸術(奇跡)である!

ルパンの「奇跡」

「なんでもあり」のSF作品が「神演出」だとして庵野秀明は「神演出」の作画に拘るがそれは破綻の証明なのだ。
しかし彼らは「アニメーター見本市」などとして其の「なんでもあり」をクリエーターと称する。
其の認識の違いが「芸術家」と「オタク」の違いなのだ。
芸術家は「なんでもあり」のSF作品を天然邪悪(イノセント)であるとして嫌悪することで芸術作品(奇跡)を制作する。
それが「最高善の神の演出」である。
しかしオタクは「なんでもあり」のSF作品を天然邪悪(イノセント)であるとせずそれを賛美して「神演出」として「ネ申(ネモウス)」としてパロディ(オタクの二次創作)のオタク作品を制作する。

オタク芸術は詐欺師の詐称である

これが芸術(奇跡)とオタク(なんでもあり)の違いである。
しかし近年このようなオタク作品をオタク芸術と呼称する風潮が出てきた。
しかし芸術(奇跡)とは天然邪悪(イノセント)への嫌悪を持って制作されたものであるのだから名前を同じ芸術としてもそれは「詐称」でしか無い。
オタク芸術(なんでもあり)は「詐称という詐欺」であるのだ!

賢者とは!

賢者とは「知の廃棄」としてあり、ワンワードのパロディ(オタクの二次創作)を禁忌として天然邪悪(イノセント)を嫌悪する最高善の神を身近に感じる聖人であり天才であり芸術家なのだ!

特殊詐欺の構造

庵野秀明は宮崎駿を目の敵にしている。
「知の鵜呑み」は「知の廃棄」によって否定されるからだ!
「知の廃棄」の存在によって「知の鵜呑み」のパロディ(オタクの二次創作)の聖性の光が詐欺だと発覚する。
パロディ(オタクの二次創作)の聖性は「知の廃棄」が証明するカトリックロゴス感覚によって喪失しそのメッキが剥がれ地金が出てしまうのだ。
さて其の地金を見た時に人は何を見るのだろうか?
聖性を失ったパロディ(オタクの二次創作)の地金とは何だろうか?
一言で言えば「特殊詐欺」である。

「特殊詐欺」は全知全能を山師による人間関係が成立させる事を言う。
これは超能力であり人徳であり全知全能が山師によって可能となる出来レースを意味している。
八百長レースであるがこれを「特殊詐欺」と言うのだ。
「特殊詐欺」は競馬にもあり得ると思う。

ネコパンチ疑惑

私は長年競馬ファンをしてきたが、今でも思い出す「特殊詐欺」レースがある。
一着に「ネコパンチ」が入賞し二着に武豊の有力馬が入った十万馬券のレースだった。
あのレースは明らかに可怪しかった。
武豊は何か主導して企んだのではないかと今でも疑っている。
競馬の八百長疑惑である。
そして「特殊詐欺」は競馬によらず「オレオレ詐欺師」「学校名だけの学歴詐欺師」「コネの特権階級詐欺師」など様々ありそして「宣伝活動詐欺師」がある。
フジテレビは宣伝活動でいくらでも後から認識を変えられると考えているようだ。
宣伝活動で歴史も自虐史観とされ隠蔽される。
宣伝活動で全てをコントロールできると考え自ら「成り済まし」を行う気持ちの悪い気違い連中がフジテレビ社員だ。
彼らはゲッペルス崇拝者なのだろう!
フジテレビの深夜のアニメ枠の名称はノイタミナだとご存知の方は多いだろう。

アニメーション
animation
生命のない物体や絵に,あたかも生命が宿っているかのような動きを与える技法。またはその技法で得られた映像。この技法は,エミール・⇨レイノーが 1888年に開発した装置,テアトロ・オプティークによってある程度完成されていたが,この独特な装置によらず,映画の機械装置でそれを実現したのは,1906年に『愉快な百面相』を発表したスチュワート・ブラックトンや,08年『ファンタスマゴリー』を発表したエミール・コールであり,したがって彼らが,今日の一般的なアニメーション映画の創始者とされている。アニメーション映画は⇨コマ撮りの方法によっており,その素材には絵や切り紙,影絵,人形などがよく用いられるが,あらゆる物体が利用可能で,またフィルム面に直接描き込む方法もある。ウォルト・⇨ディズニーは,本格的なトーキー化と色彩化,長編化の成功で,劇場用漫画映画の分野の発展に大きな貢献をしたが,アニメーション映画の利用範囲としては,娯楽のほかに,広告,教育,芸術などの分野がある。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

最高善の神への冒涜テレビ局フジテレビジョン(CX系)

フジテレビのアニメ枠であるノイタミナとはanimationのアルファベットを逆さ読みした名称である。
これはワンワードに関する天然邪悪(イノセント)を嫌悪する神への嘲笑と挑戦の現れである。
明らかにフジテレビはワンワードに関するパロディ(オタクの二次創作)へ視聴者を貶めることを目的とする宣伝活動をしている。
一方で「知の廃棄」としてパロディ(オタクの二次創作)を禁忌として神を感じる感性の信仰があるが、其の一方でフジテレビはその否定として語彙を逆さ読みすることで形成されたワンワードのパロディ(オタクの二次創作)を賛美するパロディ(オタクの二次創作)を徹底的に宣伝する活動をするのだ。
逆さ読みで形成された異端の言語活動の宣伝活動に拠ってそのパロディ(オタクの二次創作)の賛美を扇動しカトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰を否定している。
其の様な逆さ読みの言語活動は完全なデマゴーグとして機能しデマゴギーによる宣伝活動で大衆をコントロールすることを可能にする。
逆さ読みの言語は全く異端であり得体の知れない意味の分からない言語活動でありデマゴーグ自体の宣伝として使用されデマゴーグ自体を賛美するためにアニメを利用し大衆へ宣伝されている。
デマゴーグを賛美しそれがあたかも優秀であり才能であるかの様な宣伝をしている。
デマゴーグによりデマゴーグを賛美する大宣伝活動をしているのだ。

デマゴギーを賛美するデマゴーグの大宣伝活動番組!

その象徴がanimationを逆さ読みしてnoitaminaとする洒落言語であり、それがデマゴギーを賛美するデマゴーグの大宣伝活動番組なのだ!
ノイタミナのフジテレビジョンは逆さ読みでノイタミナのような言語をパロディ(オタクの二次創作)として形成しその異端さと意味の不明な気持ちの悪い気違い言語を宣伝活動するかなりな気違いテレビ局である。
其の意図は最高善の神への冒涜でしかないのだ!

最高善の神への大冒涜の象徴

ノイタミナは知の鵜呑みによる天然邪悪(イノセント)を嫌悪する神への大冒涜の象徴である。

当時の「うる星やつら」

今回の番組のスタッフは不明で知らない。
ただ当時の「うる星やつら」で有名だったのは押井守や伊藤和典や高田明美などが制作に参加していて、押井守以外は私が敬愛する「魔法の天使クリィミーマミ」の制作スタッフと重なっていたのだ。
※押井守はマモちゃんとしてアニメで登場する。

大傑作「魔法の天使クリィミーマミ」

「魔法の天使クリィミーマミ」は森沢優の心の綺麗さがカトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰を入れる場所として確保され確かに在ることがこのアニメーションのファンタジーの拠り所とされていた。
これはイマヌエル・カントの純粋理性批判の第二序文の「信仰の入れる場所の確保のため」の「知識の廃棄」に依っている。
純粋理性批判の核心はこの信仰によってしかあり得ない。
何故なら「無知の知」の「知識の信仰」も「神への信仰」も「叡智の信仰」も全てがその人に「信仰を入れる場所」が確保されていなければあり得ないからだ。
それはイマヌエル・カントが描いた純粋理性批判が信仰を入れる場所を確保しなければ受肉しない合理的ロゴス感覚であることを示している。
イマヌエル・カントの純粋理性批判は信仰を入れる場所に受肉した合理的ロゴス感覚の芸術作品であり又同時に信仰を入れる場所にしか受肉しない合理的ロゴス感覚の芸術作品であるのだ。

これはイマヌエル・カントが理性はカトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰によってしかありえないことを説いた一文である。

純粋理性批判 第二版序文
「したがってわたくしは、信仰に余地を求めるために、知識を除去しなければならなかった。」
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."
純粋理性批判 第二版序文
「だから私は、信に場をえさせるために知を廃棄しなければならなかった。」
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."

「魔法の天使クリィミーマミ」はその最重要部分をこの作品は描いているのだ。

感動しない訳はなかった。

そして「魔法の天使クリィミーマミ」の主人公である森沢優はそのロゴス感覚(聖痕の徴の受肉)の受肉者なのだ。
そして森沢優の信仰の在り処がこの作品のファンタジーの拠り所として描かれている。
それは森沢優の神との関係に於ける唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)によりこの物語は可能となりそれによって森沢優と彼女が変身したクリィミーマミにおけるユング心理学では獣性的に変化する筈の人間関係における社会的ペルソナ(面子)の中でこの二人の自己同一性が確かに保たれるのだ。
その描き方は秀逸であった。
その意味する所はユング心理学の獣性的なマウンティングによる社会的人間関係にはペルソナの変化を齎らされる。
それはヒューマンのペルソナというよりビーストのペルソナのあり方である。

そして最高善の神のアガベーは唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)にある。
ビーストのペルソナには「ヒューマンの愛」も「神のアガベー」もないのだ。
フロイト精神分析とキリスト教神学の場合は人の社会関係の変化の中でもペルソナの唯一性があり「唯一性」と「自己同一性」が保たれるのだ。
これはそのようなユング心理学における獣性的人間関係のマウンティングによる社会関係の浅ましさの中でフロイト精神分析とキリスト教神学の「唯一性」と「自己同一性」が最高善の神のアガベーであることを描いていたのだ。

フロイト精神分析とキリスト教神学の域に達した大傑作が「魔法の天使クリィミーマミ」でありこの作品は私に感動と衝撃を齎したのだ。
私はこの作品から物凄い影響を受けたのだ。
これは精神分析とキリスト教神学にありえる治癒と純愛の可能性としてある唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)だった。

それはキリストだった!
まさにキリスト教であったのだ!
ユング心理学の人の獣性的人間関係のマウンティングによる社会関係の浅ましさと違ってそれは神のアガベーによる治療と救済であり人の純愛による治療と救済であったのです。

「愛のペルソナ」

ユング心理学の獣性的人間関係のマウンティングによる社会関係のペルソナの軽薄な変化に対しこの作品は信仰から形成された自己同一性のある愛のペルソナだったのだ!

愛を描いたこの作品は凄すぎたのだ。
この原案は伊藤和典であった。
私はそれ以来ずっと伊藤和典に注目している。

※自己同一性は「自己同一性の幻想」とも言われる。幻想であっても人には不可欠であると柄谷行人氏は語っている。

※ビーストの愛があるとしたらそれはスカトロジストであるだろう。「Love is blind.」は「恋は盲目」「愛は盲目」と言いますが人糞でも愛することを意味します。

scatology /skaˈtɒləʤi/
▶noun
[mass noun] an interest in or preoccupation with excrement and excretion.〓
◾obscene literature that is concerned with excrement and excretion.〓
→〓OBSCENITY
-DERIVATIVES
scatological adjective〓
-ORIGIN
late 19th cent.: from Greek skōr, skat― ‘dung’ + ―LOGY.

●Oxford Dictionary of English, Second Edition revised

新「うる星やつら」

「ジョジョの奇妙な冒険」のスタッフらしい。
完全なパロディ(オタクの二次創作)でしかないだろう。
ダメだね!
「知の鵜呑み!」
多分観ないだろう。

ナチス・ドイツ宣伝省
ヨーゼフ・ゲッベルス

※ゲッペルスの手法の基本は「ドクサ」と「主張」である。
兎に角言い張ることがその宣伝活動となるのだ!
そして最後は「無知」という「ドクサ」を「主張」する。
それも兎に角言い張ることがその宣伝活動となるのだ!

ドクサ
doxa
「臆見」を意味するギリシア語。⇨エピステメの対立概念。低次の認識を意味する語としてドクサを初めて使ったのはクセノファネスであるが,永遠不変の存在についての真なる確証に対して,感覚に基づくドクサを立てたのはパルメニデスである。プラトンは後者の思想をうけて,真実在についての知識(エピステメ)と感覚的事象を対象とするドクサを認識論的存在論的に峻別,さらにドクサを感覚的個物に対する確証と感覚的個物の似像に対するエイカシアに区別した。アリストテレスはこれに対して存在論的区別を退け,エピステメを一般者ないし必然的なものについての判断とし,ドクサを感覚的個物にかかわるものとしている。エピクロス派では感覚そのものは真と認めるが,感覚に近い自発的な精神作用であるドクサには感覚の明証性の限界を踏越えて誤謬の可能性があるとしている。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

ドクサ〖(ギリシャ)doxa〗
プラトンが、イデアによる知識であるエピステーメーに対し、一段下の感覚による知識(根拠のない主観的信念)をさして呼んだ語。臆見(おっけん)。思い做(な)し。

『大辞泉 第二版』 小学館

しゅ‐ちょう【主張】‐チヤウ
〘名〙(スル)
自分の意見や持論を他に認めさせようとして、強く言い張ること。また、その意見や持論。「―を通す」「自説を―する」

『大辞泉 第二版』 小学館

主張[しゅちょう]〓〓
力説[りきせつ] / 強調[きょうちょう]

叫ぶ[さけぶ] / 強弁[きょうべん]
【共通する意味】
自分の意見や考えを相手に強く訴えること。
【使い方の例】
〖主張〗スル / 主張を貫く / 主張を通す / 自己主張
〖力説〗スル / 氏は基礎の重要性を力説した
〖強調〗スル / 基本の修得を強調します
【それぞれの意味と使い分け】
(1)「主張」は、自分の意見や考え、また何かの必要性、権利などを強く相手に訴えること。たとえば、「義務を果たさないで権利ばかり主張する」「学生たちの主張ももっともだ」のように、その内容が何かに対する権利の要求や、必要性の訴えであることが多い。【英】assertion
(2)「力説」「強調」は、訴える内容ではなく、訴え方に重きがある。「力説」は、相手を説得しようと懸命に話すこと。「強調」は、全体のうちのある部分を特に強く訴えようとすること。また、「下線を引いて強調する」のように、口に出して訴えること以外にも用いられる。【英】emphasis
【関連語】
〖叫ぶ〗(バ五)本来は大きな声を出す意だが、「獄中から無実を叫ぶ」のように、強く主張し、大勢の人に訴える意もある。
〖強弁〗スル 無理があることを正当化しようとして言い張ること。「自己の正当性を強弁する」
【参照】
〖叫ぶ〗⇨叫ぶ

『使い方の分かる類語例解辞典』 小学館

しゅちょう¹【主張】
〔言い張ること〕 insistence; (an) assertion; 〔法廷での〕 (an) allegation; 〔権利の〕 a claim; 〔持論・意見〕 one’s opinion.
~する
〔言い張る〕 insist; assert; claim; hold; keep saying; contend; 〖文〗 aver; 〔支持を訴えて〕 plead; make a 「plea [case] for…; 〔権利を〕 lay claim 〖to…〗; 〔力説する〕 emphasize; stress; lay 「stress [emphasis] 〖on…〗.

『新和英大辞典 電子増補版』 研究社

claim vt.
主張する
It is claimed that…
…であることが主張されている
It is claimed that the incidence of gallstones increases after vagotomy.
胆石の罹患率は迷走神経切断後に増加することが主張されている。

『医学英語実用語法辞典』 メジカルビュー社

assertive training
主張訓練法(行動変容または行動療法の1つで,クライアントは以前,別の形で反応した状況下で,自由に妥当な要求や拒絶を行うように教えられる).=assertive conditioning.

『ステッドマン医学大辞典』 メジカルビュー社

しゅちょうせきにん【主張責任】
Behauptungslast
民事訴訟において,当事者が自己に有利な具体的事実または具体的な法律効果もしくは法律事実が陳述されず(主張),その事実もしくはその法的効果が顧慮されない場合に,その結果として発生する当事者一方の不利益。⇨弁論主義を採用している民事訴訟では,判決の基礎となる主要事実が当事者の責任において提出されなければならないとされていることに基づくもので,論理的かつ時間的に挙証責任(→立証責任)に先行する。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

りっしょうせきにん【立証責任】
burden of proof; Beweislast
(1)民事訴訟においては,証明責任ともいう。裁判所が一定の法的に重要な事実の存否を確定しかねる場合には,どちらかの当事者に不利に仮定して判断しないかぎり裁判ができないが,このような仮定により当事者の一方がこうむる危険または不利益をいう。立証責任は裁判所が審理を尽したのちに初めて問題となるもので,当事者が訴訟上自己に有利な事実を認定してもらうために証拠を提出しなければならない事実上の必要とは直接の関係はない。いずれが立証責任を負うかは,法規により最初から定まっているもので,具体的な訴訟の経過によって一方から他方へ転換することはない。立証責任をいずれの当事者に負担させるかの定めを立証責任の分配という。(2)刑事訴訟においては,挙証責任の語を用いるのが一般である。「疑わしきは被告人の利益に」という原則から,犯罪事実および処罰条件については検察官が合理的な疑いをいれない程度に証明しないかぎり,その事実は存在しないものとみなされる。例外的に法律上被告人が立証責任を負わされている場合があるが(刑法 207,230条ノ2,労働基準法 121条1項,児童福祉法 60条4項,公害罪法5),その場合にも証明の程度については訴追側より軽い程度でよいとする見解が有力である。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

べんろんしゅぎ【弁論主義】
Verhandlungsmaxime
(1)民事訴訟法において,判決の基礎となる事実の収集は当事者の権能かつ責任であるとする主義。職権探知主義に対するもの。それは次のように要約することができる。すなわち,裁判所は,(a)当事者の主張しない事実を判決の基礎にしてはならない,(b)当事者間に争いのない事実はそのまま判決の基礎にすることを要する,©争いのある事実を認定するには当事者の申し出た証拠のみによる。(2)刑事訴訟法でも同じ意味で用いられるが,当事者処分主義とも呼ばれる。(→職権探知)

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

せんでん【宣伝】
プロパガンダ propagandaの訳。多数の人々の態度や行動に働きかけて,一定の方向に操作しようとする意図的・組織的試みである。論争的な政治的・経済的・社会的問題をめぐって世論を宣伝者にとって有利な方向に操作しようとする政治宣伝は,過去のいかなる政治社会においても重要な役割を果してきたが,現代の大衆民主主義のもとでは,マス・コミュニケーションの発達と結びついてますますその重要性を増しつつある。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

propaganda
▷noun
INFORMATION, promotion, advertising, publicity; agitprop, disinformation, counter―information, the big lie; informal info, hype, plugging.

『The Concise Oxford Thesaurus, Second Edition』 Oxford University Press

宣伝[せんでん]〓〓
広告[こうこく] / PR[ピーアール]

広報[こうほう] / プロパガンダ / 触れ込み[ふれこみ] / アナウンス / 周知[しゅうち] / コピー / コマーシャル
【共通する意味】
世間に広く知らせること。
【英】to advertisement; to propaganda
【使い方の例】
〖宣伝〗スル
〖広告〗スル
〖PR〗スル
【それぞれの意味と使い分け】
(1)「宣伝」は、最も広く用いられる。また、事実以上に大げさに言いふらすこともいう。
(2)「広告」は、特に商業的な場合に用いる。
(3)「PR」は、さまざまな事柄を大衆に広く知らせること。
【関連語】
〖広報〗スル 官公庁、企業などが、業務、活動などについて大衆に知らせること。「広報活動」「広報部」
〖プロパガンダ〗多く、ある主義や思想などの宣伝をいう。
〖触れ込み〗前もって宣伝すること。実際以上の宣伝であることが多い。「大型新人という触れ込みだったが演技はさっぱりだ」
〖アナウンス〗スル マイクを通じて、案内などを知らせること。「校内アナウンス」
〖周知〗スル 広く人々に知れわたること。「周知の事実」「周知徹底させる」
〖コピー〗広告の文章。宣伝文句。「コピーライター」
〖コマーシャル〗民間放送などの広告放送。また、広告、宣伝のための文句。「コマーシャルメッセージ(【英】commercial message)」の略。CMともいう。
【参照】
〖コピー〗⇨複写

『使い方の分かる類語例解辞典』 小学館

デマゴーグの人工的カリスマ性

人間関係において飽くまで言い張ることは人間関係に大きな波紋を呼ぶ。
其の内容が虚偽であり平気で大嘘をつく詐欺師の発言であっても言い張り続けることの影響は大きい。
言い張り続ける内容の真偽の判定が容易でない場合にその効果は大きい。

隠蔽された情報で虚偽の言い張りを続ければ人工的にプロパガンダとデマゴーグを創り上げることができる。
そのような言い張りの手法がゲッペルスの手法でありそれをデマゴーグのカリスマという。
デマゴーグのカリスマが其の様なプロパガンダの手法により言い張りを続けることによってある人間関係の波紋が扇動方法として人を支配することが非常に良くあることだ。
「思い込み」又は「作ったこと」を「言い張ること」が宣伝活動の基本でありそれがゲッペルスの手法である。

主張し続けていれば可能になるという思想は現代にも根強くある。
自由民主党の元総理大臣であった安倍晋三も思い込めばなると主張するがそれは主張し続ける宣伝活動を意味している。
アベノミクスも宣伝活動で主張し続ければ成功であり又同様に日本国は美しい国である。

日本国の名医安倍晋三の「ヒポクラテスの誓い」とは?

アベノミクスの提唱者である安倍晋三は日本国の名医(ヒポクラテス)として登場した。
それはご存知の通りだろう。
そして名医の条件とは「ヒポクラテス」を信仰することであることを知らない人はいるかもしれない。
すべての医師は「ヒポクラテスの誓い」をすることによって医師として認められる。
しかし「ヒポクラテスの誓い」というカトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰を読んでみるとそこにはそれを破ったものは全てが反対になると記されている。
これは非常に重要な指摘であるのだ。

Hippocratic Oath (hip′ō‐krat′ik ōth).〓
ヒポクラテスの誓い(通常,医学士の学位を受けるときに医師が行う誓い.そこで,医師は医学の実践に際して,倫理的な原理を守ることを約束する.この誓いは,Cos島出身のHippocrates(紀元前460―377)にちなんで名づけられている.医学の同業者組合,すなわち,アスクレピアズ協会に属していた彼は,医学の父と称えられている.なぜなら,彼は,医学という技術と科学を哲学や宗教から分離した初めての人だからである.しかしながら,その誓いは,Hippocratesの言語資料体を構成する無数の様々な書物の中で現在まで伝わっているが,それがHippocrates自身によるものであるということについては,近代の学者たちは疑いをもっている.この誓いが,(アスクレピアズ協会の人々の間で,すべて認められ,許されていた)自殺,安楽死,堕胎,手術を禁止していることは,むしろPythagoras学派に由来していることを示唆している.この誓いがいつつくられ,そのもともとの使われ方がどうであったのかはわかっていない).
「私は,医神Apollo,Asclepius,Hygeia,Panaceia,そしてすべての神と女神の名に懸けて,そして,これらの神,女神を証人として,この誓いと約束を果たすことを,私の能力と判断によって誓う.私に医学技術を教えてくれる人を両親と同様にみなす.私の人生,そして必要ならば,私の食料もその先生に分け与える.先生の子供たちは私の兄弟とみなし,彼らに医学技術を教える.医学知識は,書いて,口頭で,あるいは実習で,私の息子たちや私の先生の息子たちに教える.同様に,私たちの職業の規範に従い,他の何者にも従わずに,誓約書に署名し,誓いを宣言したすべての医学生に教える.私は,私の能力と判断に従って,病人の利益のために治療手段を施す.危害を加えたり犯罪を犯したりはしない.私は,誰に対しても,求めに応じて死をもたらす薬を与えたりはしない.また,その使用を勧めたりはしない.同様に,女性に堕胎をさせる薬を与えない.私は純粋な,神聖な生活をし,医療技術を磨く.私は,結石による病気であっても手術はしないが,それに従事する人を妨げたりはしない.私が訪ねる家はどこも,私は病人の利益のためだけに訪れ,意図的な悪行や姦通はしない.特に,男性でも女性でも,自由人でも奴隷でも,性的に親密な関係を結ぶことはない.私は,職業によるものであってもなくても,私が見たり聞いたりした,人々の個人的な生活に関する私的な性質について一切漏らすことはしない.なぜなら,私はそうした情報を暴露することの恥を理解しているからだ.もし,私がこの誓いを実行し破らなければ,私は人生と職業の実践に満足し,人々の間で永遠の栄誉に浴するだろう.もし,私がこの誓いを破り,偽りの誓いをしたら,私のすべては反対になるだろう」
米国とカナダのほとんどすべての医学校の卒業生は,学位授与式の間,医学の実践において,倫理的な原理を守るために,何らかの形式の制約を暗唱する.しかし,いまや,Hippocratesの誓いの原文を使用する機関は少ししかない.ほとんどの卒業生は,規則上あるいは道徳上制約にしばられるというよりも,その訓練を,単なる形式上のもの,あるいは伝統への敬意を示すものとみなされているようにみえる.この誓いの現代版は,典型的には,自分の先生の子供たちに無料で医学技術を教えることを約束するとか,手術をしないなどといった,文化的にすでにない用法,すなわち遺物を除外している.より重要なことは,それらのほとんどはまた,神への祈祷を除外し,宗教的な勤めや義務およびそれを破ったときに受ける罰への注意を除外し,さらには,安楽死や医師の助けを借りた自殺,堕胎,患者との性的な関係を誓ってやめることを除外していることである.RoeらとWade(1973年)の裁判において,合衆国大法廷は,堕胎を禁止する点でHippocratesの誓いの権威を拒否した.この誓いは古代の文化水準を反映しておらず,ユダヤキリスト教の堕胎に関する考え方の影響を長くもち続けてきたものであるとの理由による.「まず傷つけないように」(しばしばラテン語で“primum non nocere”と引用される)という一般によく知られた規範は起源がわからないが,Hippocratesの誓いの一部ではない.

『ステッドマン医学大辞典』 メジカルビュー社

「ダビデの手法」と「ゴリアテの手法」

「知の廃棄」は「無知の知」の知識の人類の遺産を信仰する。
パロディ(オタクの二次創作)を禁忌としてワンワードのパロディ(オタクの二次創作)を禁じて最高善の神を身近に感じるのだ。

ゲッペルスの手法はワンワードやワンフレーズによって主張を繰り返す。
それは人を「知の鵜呑み」へ貶める手法でありそれによって最高善の神を身近に感じる聖人への信仰は抹殺される。

ただ天然邪悪(イノセント)を嫌悪する感性を人が失わないことが信仰であるだろう。

カトリック信仰者はゲッペルスの手法であるワンワードの言い張りの継続やワンフレーズの言い張りの継続をパロディ(オタクの二次創作)として天然邪悪(イノセント)に感じ取ることができる。
だからユダヤ人は虐殺されたのです。
それが天然邪悪(イノセント)を嫌悪する神を感じる感性の信仰である。

ゲッペルスの手法はこのように最高善の神を感じる感性を信仰する聖人信仰を「知の鵜呑み」へ追い落とすための手法であり聖人信仰を標的にしたかなり邪悪であるがよく研究された手法である。
ワンワードとワンフレーズで宣伝活動しパロディ(オタクの二次創作)を徹底的に宣伝することでパロディ(オタクの二次創作)を禁忌として天然邪悪(イノセント)を嫌悪する神を感じる感性の信仰を包囲し其の殲滅を図る。
これは天然邪悪(イノセント)を嫌悪する最高善の神への挑戦と嘲笑である。

「ゲッペルスの手法」とは「ゴリアテの手法」であるのだ!

カエサルのものはカエサルに神のものは神へ
マタイ 納税問答

ゴリアテの手法を撃ち取るダビデの手法とは汎ゆるパロディ(オタクの二次創作)を禁忌として天然邪悪(イノセント)を嫌悪する最高善の神を感じる感性の信仰である。
理性とはカトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰生活者のことなのだ!

それは信仰を至上とする生き様である。

信仰を至上とするとは新約聖書福音書の神童イエス・キリストの生き様であり又「信仰を至上とする唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)の演技」と「特殊詐欺としてある多面子的な印象操作」との関係はこのサイトのテーマの「旧約聖書サムエル記ダビデとゴリアテ」であるのです。

閲覧は自由です。その代わり愛徳募金は歓迎します。

Browsing is free. Instead, charity donations are welcome.

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?