【聖愛信仰】堕天使の思想〈ストレイシープ達により決行された日本最大の集団練炭自殺に於ける最高悪を批判する〉
〈盲人が盲人を手引する〉に関する私的レポート
カトリックから閉ざした盲人(オタク)を「密室の邪神」として祭り上げることは「盲人が盲人を手引する」ことと同様となる。
そのように堕落した盲人(オタク)を賛美することで堕天使は存在する。
それをルシフェルという。
堕天使ルシフェルという思想はそのように盲人が盲人を手引して全員が溝に落ちる様を描いている。
ストレイシープ達の集団練炭自殺事件の最悪はそのような経過で発生した。
しかしこれは大日本帝国のスローガンであった一億玉砕と同様であるだろう。
「盲人が盲人を手引する」ことで大日本帝国は溝に落ちてしまった。
盲人(オタク)とはカトリックから閉ざした黒ミサを「知の鵜呑み」にするあり方です。
そして視力はなくともカトリックの白ミサを「知の廃棄」で受肉する存在は天使(善き羊飼い)と言える。
黒ミサ(盲人)はdoxaを崇拝し、白ミサ(善き羊飼い)はロゴスを信仰する。
理(ロゴス)とは白ミサとして「綺麗は綺麗」であり「穢いは穢い」を回復する。
しかし黒ミサは「綺麗は穢い」であり「穢いは綺麗」として理(ロゴス)の逆転を目指すあり方となる。
天使(善き羊飼い)は理(ロゴス)の白ミサを信仰し、盲人(オタク)は理(ロゴス)の黒ミサを崇拝する。
信仰(叡智)は「知の廃棄」としてカトリックの白ミサを受肉し、崇拝(doxa)はカトリックの黒ミサを「知の鵜呑み」にすることで堕天する。
叡智を受肉するものは信仰を持つものである。
しかしそれを信仰弾圧する愚者は崇拝としてあります。
日本最大の集団練炭自殺事件の『我が告白』
これは私の告白とマス・コミュニケーションからなされた『真実の手記』である。
「待宵月さん(Matsuyoinotsuki-san)」の「自殺志願者の憩いの場」の「チャットルーム」に突然書き込まれた集団練炭自殺の募集案内から始まった日本最高悪の「集団練炭自殺事件」に関する私的レポート
〈自殺願望の告白〉精神神経科の医師は神話を語り患者は聖書を受肉する。
私は自殺を考えていた時期がありました。
精神神経科の医師はそれに対し「希死念慮」という言い方をします。
私には「希死念慮」とは何かよく判りません。
何故なら自殺したいそれなりの現実的理由があるのに精神神経科の医師はその存在を一切認めないからです。
そしてただ精神病(スキゾフレニア)というワンワードの一括りで患者と見做すレイシズムの診断が行われます。
そして彼ら医師に対して患者からインフォームドコンセントを要求してもまともな説明は得られません。
ただのレイシズムの診断がいつまでも患者に為されるだけなのです。
しかし実際には精神神経科の医師の方がワンワード愚者(知の鵜呑み)であり患者の方がワンワード聖人(知の廃棄)なのです。
何故ならば精神神経科の医師は『神話崇拝(レイシズムとギルティ)』であり患者は『聖書信仰(バプテスマとイノセント)』であるからです。
WEBサイト「自殺志願者の憩いの場」の存在
私は非常に落ち込んでいて死を考えていました。
そんな時、WEBサイトで「待宵月さん(Matsuyoinotsuki-san)」の「自殺志願者の憩いの場」というWEBサイト「チャットルーム」を見つけました。
そこでは自殺を考えている人を「自殺志願者」という言い方で示していました。
そして「待宵月さん(Matsuyoinotsuki-san)」がこの〈WEBサイト「チャットルーム」の管理人さん〉でした。
「自殺志願者の憩いの場の鉄則」
「自殺志願者の憩いの場」の管理人さんは「待宵月さん(Matsuyoinotsuki-san)」と言い自殺志願者という「死にたい気持ちを持ってしまった悲しい存在」に「憩いの場」として「チャットルーム」を提供し運営していました。
それは自殺志願者が自殺をするためにあるWEBサイト「チャットルーム」ではありませんでした。
自殺志願者同士がお互いのことを話したり、相手を気遣ってもそこに付け込まれたりしない関係を提供し、それなりの人の交流を通してそれが「憩いの場」となることを意図していました。
私はハンドルネームを「猫さん(NEKO-san)」にして「チャットルーム」の会話の語尾に「ニャ(NYA)」をつけて「チャットルーム」で会話(チャット)をしていました。
それは猫の鳴き声の表現の一つですが、そういった人間というより「言葉を喋る猫」(カトリックロゴス感覚(Holy Communion)の受肉した猫)の様にそこで他の方と交流をしていました。
「自殺志願者の憩いの場」のWEBサイト「チャットルーム」には絶対の禁止事項がありました。
それはハンドルネームを「ayaさん(AYA-san)」という人からいろいろ教えられました。
「自殺志願者の憩いの場」の「チャットルーム」で自殺方法を尋ねたり楽な死に方について聞いたりしたら本当は管理人さんが怒ってしまいそれは絶対に駄目なのです。」と彼女に言われました。
私が初めにいろいろ彼女に尋ねてしまった後で彼女はそのように前置きした上でバルビツール系の睡眠薬を教えてくれました。
(後で知ったのですが結構有名な昔の睡眠薬で古い映画などの自殺するシーンで使われることがあるらしい。)
〈ハンドルネーム「ayaさん(AYA-san)」の悲しい話〉
そのハンドルネーム「ayaさん(AYA-san)」の悲しい話がありました。
彼女は相手男性との性的関係を持ち続けていて、その男性との妊娠と中絶を何度も繰り返しているとのことでした。
彼女の親と一緒に妊娠した子供の堕胎を繰り返しているがそれをその相手男性には伝えていないと言う。
それがここに来ている理由だという話でした。
私はその男との肉体関係をどうして止めないのかは聴けませんでした。
きっと何かやめられない深刻でデリケートな事情があるのかもしれないと察しました。
しかしただそれを踏み込んで聞くことが善いのか悪いのか私には即断できませんでした。
私はその場では踏み込まずハンドルネーム「ayaさん(AYA-san)」が自分から話すことを待つことにしました。
それ以外できないと思いました。
根掘り葉掘り無神経に聞き出すことはこの「自殺志願者の憩いの場」ではできませんでした。
それはこのサイトが「自殺志願者の憩いの場」のWEBサイト「チャットルーム」だからです。
そして私はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の聖愛信仰を持った猫でもあったからです。
〈愛について〉
ハンドルネーム「儚いさん(HAKANAI-san)」も女性の方でしたが複数あるギリシャ哲学の「愛」を語りだしました。
その後、学んだのですが「エロス(情欲的な愛)、フィリア(深い友情)、ルダス(遊びとゲームの愛)、アガペー(無償の愛)、プラグマ(永続的な愛)、フィラウティア(自己愛)、ストルゲー(家族愛)、マニア(偏執的な愛)、Philosophia(知への愛)」などがあり、そして私は愛していたのはPhilosophia(知への愛)だと思いました。
ただその時はハンドルネーム「儚い(HAKANAI-san)」さんがギリシャの愛の言葉を「eros(性愛)、philia(友愛)、 storge(家族愛)、agape(無償の愛)」といきなり連続して書き出した時には何だか知らない言葉を書かれ複雑でした。
自分の無知を知らされた感じでした。
でも愛の言葉を語るこの女性はこの言葉(愛)を真には理解していないだろうと感じました。
何故なら彼女に「隣人愛」を感じなかったからです。
ただそれが「愛について」なら善いのだろうと思いました。
他のことならいざ知らず「愛について」語るなら「善」ではないかと思いました。
「自殺志願者の憩いの場」でそのギリシャ哲学の「愛の言葉」を語る気持ちは解らないわけではなかった。
そしてそのギリシャ哲学の「愛の言葉」を知ることは自殺志願者の憩いにとって悪くない善の可能性ではあると思いました。
その後、私はギリシャ哲学の「愛」を考えるようになりました。
それはイマーゴ(真善美の回復)の可能性です。
キリスト教の愛は「愛徳」と「信徳」と「望徳」です。
それは最大の掟である〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉です。
「猫のペルソナを剥がされることへの動揺」
男性のハンドルネーム「駄目人間さん(DAMENINNGEN-san)」は私の猫のペルソナに向かって唐突に「あなたはもしかしたら「オッサン(OSSAN)」ですか?」といきなり攻撃的に「チャットルーム」で書かれた時、私の猫のペルソナをいきなり剥ごうとしたその行為に深く傷つきました。
その時、なんて言えばいいかわかりませんでした。
「自殺志願者の憩いの場」でもこうなるのだなと感じました。
そしてその時に何か言い返せば猫のペルソナはどっちみち剥がされてしまうのでした。
私はハンドルネーム「駄目人間さん(DAMENINNGEN-san)」には緘黙しました。
「集団自殺への誘い」
そういった中でハンドルネーム「マリさん(MARI-san)」の書き込みがありました。
今まで居なかった方です。
「自殺志願者の憩いの場」に居ない人で突然現れた知らない人でした。
ハンドルネーム「マリさん(MARI-san)」は「練炭の集団自殺への募集案内」の書き込みをしたのです。
募集案内に彼女のメールアドレスが書き込まれてありました。
ハンドルネーム「ayaさん(AYA-san)」によればそういった「自殺志願者の憩い」以外に自殺を勧めたり自殺を煽ったり自殺へ追い込んだり集団自殺を募集したりする行為は少なくともこの「自殺志願者の憩いの場」では絶対の禁止事項で管理人の「待宵月さん(Matsuyoinotsuki-san)」に見つかったらかなり怒られると言っていました。
そういった中でハンドルネーム「マリさん(MARI-san)」はそれを「知ってか知らず」か集団練炭自殺の募集案内の書き込みをしたのです。
ただ私はこの書き込みを見た時にそこに集団自殺を決行する強い意志を感じました。
この募集案内は必ずやると感じました。
そういった直観にはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の聖愛信仰とただの黒ミサカルト感覚(ギルティをイノセントとする感覚、イノセントをギルティとする感覚)の2つがあり得ます。
しかしそれが当たるのはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の受肉した直観です。
何故ならばカトリックロゴス感覚(Holy Communion)とは「ギルティをギルティとする感覚、イノセントをイノセントとする感覚」だからです。
それは現にある世界を歪むことなく直視する存在はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)だと判断できることを示しています。
だから私は彼女の募集案内を読みカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の受肉した直観によって必ず集団自殺を決行するだろうと思いました。
そしてその予言は当たったのです。
自殺志願者とは死にきれない故に自殺志願者であり自殺志願者であっても本当には死ぬことが出来ないような人の集まりなのです。
その「憩いの場」の提供を「待宵月さん(Matsuyoinotsuki-san)」が管理人となって運営していました。
そういった中で自殺決行への強い意志のある彼女の書き込んだ募集案内の明らかな強烈な本気は大きな波紋と影響力を持ったのです。
「集団自殺への応募」
多分この人は何かの決定的なアクシデントが無ければ集団自殺を決行するだろうと感じました。
私は募集案内を読んでその書き込まれたメールアドレスへ応募の申込みをしました。
ハンドルネーム「マリさん(MARI-san)」からの返信メールは意外と速く届きました。
ほとんど見てすぐに返信してきた感じでした。
そこには快く受け入れるという旨が書かれていました。
何故その「快く」というのが大事かを説明すると集団自殺募集へ応募のメールを出してもかなりキツイ返信がきたり何だか変な要求をしてきたりすることがあることを志願者なら知っているからです。
そういった中でハンドルネーム「マリさん(MARI-san)」は何にもこだわらず来るものは拒まずという姿勢でした。
彼女は死にたい人は誰でも受け入れ「死への導き」をしていました。
ここで終わらすことへの「イノセント(無辜)」な「意志」を感じました。
それはかなり危険なものです。
しかし自殺志願者にとってそういった信じて死ねるものがあることが「心中(集団自殺)」にとって大きいのだろうと思います。
それが良いと言いたいわけではないのです。
しかしそこには「死」と「裏切り」という問題があるのだ。
本来は「裏切り」は「死」である。
しかし「死」への「裏切り」は「生」である。
その「生」にはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の「信仰」があり得る。
それは「信」になり得る。
「信」と「裏切り」と「死」と「生」の在り方が「信仰」の場所を必要とする。
〈「裏切り」は「死」〉、〈「信」は「生」〉、しかしこの集団自殺応募の場合は〈「信」は「死」〉、〈「裏切り」は「生」〉だった。
そして真に生きるためには〈「信」は「生」〉でなければならない。
それが「信仰」だった。
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)の聖愛信仰である。
裏切られる危険もある集団自殺であり、また何らかの「私利私欲」が伴う事件に巻き込まれる危険も十分にありえる。
集団自殺募集案内に応じることにはリスクを伴うのです。
しかし彼女の募集案内に集団自殺への強い意志以外他の「私利私欲」は感じなかった。
本当に「集団自殺」を決行することだけが目的であると感じた。
最悪の「座間9人殺害事件」のあり方は自殺志願者に於ける「黒ミサのアイロニー」に対する「白ミサのヒューモア」である。
その時私にはよく解らなかった。
しかし後に彼女の「私利私欲」は屈折した「私利私欲」であり歪んでいただけだったのだと感じました。
それが最悪の裏切りだと知ったのは後の事でした。
彼女は他人を巻き込み自殺するマニアでした。
彼女は人を集団自殺させて人を殺す殺人鬼なのかもしれません。
其の思想的在り方は後に示します。
私は最高善の神の名のもとに彼女を討たなければならない。
彼女が拘った思想的在り方は男への未練だったのでしょうか?
そのバンドスターだった男への邪な崇拝だったのだろうと感じました。
彼女にはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の聖愛信仰はなかったのでした。
もし私が心中するとしたらカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の聖愛信仰によるものです。
しかしそれで相手を殺してしまいたくはないでしょう。
それが聖愛信仰だからです。
だから聖愛信仰による心中は無理な話なのです。
この自殺事件は聖愛信仰ではなく黒ミサカルト感覚(ギルティをイノセントとする感覚、イノセントをギルティとする感覚)によって行われたのです。
国葬の人の愛国のように・・・・
「重罪」
ただこの「自殺志願者の憩いの場」で「死への導き」をする行為は「待宵月さん(Matsuyoinotsuki-san)」が務める管理人の絶対の禁止事項であり、それをしたら「憩いの場」へのアクセス禁止(出入り禁止)になる「重罪」でした。
「集団自殺からの逃げ」
私は一旦応募して快く受け入れてもらった集団練炭自殺グループにやはり逃げを打ちたくなったのです。
自殺志願者とは死にきれない者の集まりであり、そこでは自殺前に逃げを打つというのはありきたりと言える行為です。
そしてそれこそが自殺志願者たる所以なのです。
それがなかったらとっくに人々は簡単に自殺し死んでいくからです。
「自殺志願者」ではなく「自殺者」となるからです。
「集団自殺の台風クラブ」
当時を思い出すと関東に大型台風が接近し直撃する「天気予報」が盛んになされていました。
かなり大型台風だと言われていました。
それを見て私はハンドルネーム「マリさん(MARI-san)」へ参加を辞めるメールをしました。
〈「台風が直撃するようだから止めた方がいい。僕は台風が来るから何だか危ないというか・・台風でどうなるかわからないから集団自殺は延期したらいいよ。」という書き方をしてその場は一旦集団自殺への参加を辞めるメールを送りました。〉
確か彼女からそれを「了解する丁寧で寛容な返事」があったと思います。
私は私のカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の受肉した直観が正しければ彼女の主導した大規模な集団自殺事件のマスコミ報道がきっと為されるだろうと予想していました。
(この後の経過は結局、9日は台風直撃のために翌日の10日に集団自殺は決行され発見が12日になされました。)
そこにはハンドルネーム「マリさん(MARI-san)」の何らかの決定的アクシデントが無ければ必ず決行するだろうと感じたものへ向けられた私のギリギリの思い止まらせるためのメッセージを込めた書き方がありました。
〈「台風だから」取り敢えず延期でもいいよ」〉という書き方をして相手の自殺決行への意志に対して〈その自殺中止への「逃げ道」を作る〉ための言い方で辞退しました。
しかし彼女は結局自殺しました。
9日が10日に延期されただけで集団自殺は決行されたのです。
私はその募集案内に応募して受け入れてもらった自殺志願者の一人でした。
私にはこの時点でも今でもこの事件の全体像の把握はできていません。
事件の概要は週刊朝日のスクープでかなり後になって知ることができました。
最近まで週刊朝日のスクープの存在を知らなかったのです。
しかし一体何人の自殺志願者が彼女と接触し実際にどのようなやり取りで集団自殺は決行されたのか私は知ることはできません。
この事件の真の詳細を知るには捜査機関の誠実な発表であるか報道機関のスクープでしかあり得ないのです。
残りは私の様にこの事件に関わった者の「証言」です。
夕方のテレビニュース報道
新聞報道でもテレビ報道でもこの大事件は大きく報道されていました。
ヘリコプターでの生中継(12日夕方ニュース)もあったと記憶しています。
報道によるとこれら集団練炭自殺グループは台風の接近で盛り上がり相米慎二監督の映画「台風クラブ」の様に集団自殺に進んで行ったのではないかというTVキャスターの憶測が放送されていました。
「集団自殺への私の憶測」
その集団練炭自殺の大事件で多くの人が亡くなりました。
死亡者数は計9人の大惨事でした。
そして報道によるとそのグループは2つに分かれて集団練炭自殺が決行されたとありました。
人数が多い上に何故彼らが2つのグループに別れたのか分かりません。
どうして彼らが別々に集団自殺を決行したのだろうか?
私の想像では自殺志願者はかなり多かったのではないでしょうか?
私を含め直前で逃げた人も多かったのではないかと想像します。
ただハンドルネーム「マリさん(MARI-san)」の自殺募集文によって集まった多くの自殺志願者の間で何らかのやり取りがあったとは想像できます。
そこに一体何があったのかその真相は「謎」であります。
何らかの死へ向かう前のやり取りがありそこに「人間関係」が生まれたとも考えられます。
やはり同じ死ぬなら一緒に死にたいと思えるような人間と「自殺(心中)」したいのではないかとも想像しました。
この事件のマスコミ報道を聞いてからすっかり「自殺志願者の憩いの場」へ行くことができなくなりました。
人気バンド「T-BOLAN」の代表曲「マリア」は「マリさん(MARI-san)」をモデルとして作詞され楽曲となりました。
この事件は人気バンド「T-BOLAN」の代表曲「マリア」とジョン・レノンの代表曲「Oh Yoko!」として見ることができます。
人気バンド「T-BOLAN」は「冒涜は愛」「愛は冒涜」という「黒ミサ」の「サタン崇拝」となり、ジョン・レノンは「冒涜は冒涜」「愛は愛」という「最愛信仰」となるということなのです。
「最愛信仰」に「逆転」はありません。
1971年10月11日が英国リリース!
1971年11月10日が日本リリース!
1975年11月24日は米国リリース!
私の誕生日は1971年10月16日です。
ここでカトリックの愛を歌うジョン・レノンの代表曲を紹介します。
「Oh Yoko!」です。
私は千葉県立船橋旭高等学校卒業間近にかなり落ち込んでいました。
そんな中で友人の妹の飛び降り自殺事件もあったわけです。
ただそんな中で私は近所のCDレンタル店で音楽CDを借りてカセットにダビングし曲名などを手書きで書き込んでいました。
当時私はジョン・レノンのアルバムをいくらかレンタルしカセットにダビングしていました。
その中に「Oh Yoko!」があったわけです。
千葉県立船橋旭高等学校の教室の休み時間に珍しくクラスメートに「Oh Yoko!」の部分だけ歌って見せました。
私は「ジョン・レノンてこんな曲作っているんだよ!」と発言したのです。
私はわざとそういった言い方で珍しくジョン・レノンの曲を紹介したのでした。
別にそれを冒涜する気はなかったわけです。
しかしそれを聞いた一人のクラスメートが血相を変えて私に食って掛かりました。
よくわからない複雑な表情を浮かべた彼は何故か私を非難したのです。
それは私と千葉県立船橋旭高等学校とジョン・レノンの記憶です。
あと何故か千葉県立船橋旭高等学校入学当初からジョン・レノンの命日(1980年12月8日)を崇拝している男子学生がいました。
「壊れたペルソナ」
ハンドルネーム「猫さん(NEKO-san)」を演じることが、もうそのペルソナを付けることが私にはできなくなりました。
別の名前を使って入る気にもなりません。
それ以来、「待宵月さん(Matsuyoinotsuki-san)」のサイトである「自殺志願者の憩いの場」へは近づかなくなりました。
もうそこは触れてはいけない場所となってしまったのです。
〈「自殺志願者の憩いの場」再訪〉
最近、またその「待宵月さん(Matsuyoinotsuki-san)」のサイトである「自殺志願者の憩いの場」を久しぶりに訪れてみました。
ただもう「待宵月さん(Matsuyoinotsuki-san)」のサイトである「自殺志願者の憩いの場」は閉鎖されていました。
非難される管理人さんへの同情
非難される死んだ「マリさん(MARI-san)」への哀れみ
私は当初ハンドルネーム「マリさん(MARI-san)」もサイトの管理人である「待宵月さん(Matsuyoinotsuki-san)」もどちらも責めることはできませんでした。
しかし「マリさん(MARI-san)」へ疑惑を持つようになりました。
「マリさん(MARI-san)」への疑惑
ハンドルネーム「マリさん(MARI-san)」は人を自殺に追い込むのではなく自らと一緒に死のうとして応募し来るものは拒まず快く集団練炭自殺事件(心中)を決行しました。
人を追いこむのではなく自らも一緒に死ぬというのが一緒に死んでいった連中には大きかったと想像しています。
そのことでハンドルネーム「マリさん(MARI-san)」を責める気にはならなかったのです。
しかし彼女に関する週刊朝日のスクープを読み彼女の思想的根拠がカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の聖愛信仰を貶め否定する黒ミサカルト感覚(ギルティをイノセントとする感覚、イノセントをギルティとする感覚)であると知ることとなりそれは彼女の劣等感覚故の傲慢感覚であったと見做せると思いました。
それは最高善の神への反逆というサタン崇拝です。
しかしそれは最高善の神に弓を引くジャイアント・キリングのヤンキーとも言えます。
普遍社会信仰を貶め否定して地域社会主義を賛美し翼賛することが結局は地域的エリート意識を捏造するネオ・ナチズムと同じになる。
ニューイングランドを地域的エリートとして捏造した月刊誌「ヤンキー」がその語源であるらしい。
地域的エリートとして偏差値暴走族を生み日本は荒廃した。
しかしハンドルネーム「マリさん(MARI-san)」も結局は整った容姿や芸能人との関係から自分を地域的エリートと見做すヤンキーの存在だったのだ。
そしてそのような地域的エリートのヤンキーは普遍的エリートに反逆する。
それは最高善の神への反逆としてのサタン崇拝となるのだ。
結局この集団自殺事件はヤンキーの歪な思想を強固とした一人の女性の主導により決行されたと見るのが正しい。
それは「盲人が盲人を手引した」と言えるのだろうか?
それとも「サタンが盲人を手引した」と言えるのだろうか?
それとも「サタンがストレイシープを手引した」と言えるのだろうか?
「ストレイシープがストレイシープを手引した」と言えるのだろうか?
「サタンがサタンを手引した」と言えるのだろうか?
最後のあり方ではサタン崇拝者の集団自殺となるだろう。
しかしイエス・キリストはストレイシープを導くことは確かだ。
何故ならば彼はメシアだからだ!
善き羊飼いとストレイシープ
黒ミサヤンキーとはサンクチュアリに於ける神聖なオタク(密室の邪神)である。
サヴァン症候群に似ている。
しかしサイトの管理人である「待宵月さん(Matsuyoinotsuki-san)」は責められません。
何故なら自殺志願者の憩いの場を提供しそして自殺への決行を禁止したサイト運営はどうしても悪いとは言えません。
ただその中で起きた集団練炭自殺大事件はサイトの管理人さんにとって「悲劇」でしかないのです。
ただこの集団自殺事件は「サタンの思想」によって行われた「呪われた事件」となっているのです。
私はその後千葉大学医学部附属病院へ通院し事件に巻き込まれました。
人体実験とインフォームド・コンセントにまつわる不正です。
私は2020年3月に群像新人賞応募作品「ナザレの猫」を執筆しました。
「何があったのか衝撃が走った。」 週刊朝日スクープから
週刊朝日の指し示すものは人気バンド「T-BOLAN」の「マリア」の歪んだ「愛」である。
私の受けた衝撃は週刊朝日のスクープの存在を「聞蔵」で知ったからだ。
私は数年後に意を決して事件経過を検索してみた。
私自身がこの過去最大の集団練炭自殺の引き金の一つになってしまっただろうという自責の念がそれをさせたのだろう。
そこには一読では理解し難い奇妙な真実が報道されていた。
この人は他者の死を弄んだのではないだろうか!
「疑惑」が沸き起こった。
彼女は「死神転生マリア」なのか?
〈ヒット曲「マリア」は「マリさん(MARI-san)」をモデルに作曲された〉とあります。
たぶんハンドルネーム「マリさん(MARI-san)」は「マリア」から来ているのですね。
あんなに寛容に自殺志願者を集めてただみんなを死へだけ導いてしまったと思う。
7人の他に少し離れたところで2人の集団自殺があった。
マスコミ報道では同一グループが何故か別れて自殺したとされている。
合わせて9人の集団自殺事件だった。
週刊朝日の記事は確かに状況が把握しづらいが実際にこの関係性は彼女の存在を省いては指摘できないのだから仕方がないと感じた。
そこには触れてはいけない暗黙の隠蔽があったと言える。
しかしそれをよく把握してみると結局は彼女達の集団自殺を止めるのは無理だったと言える。
ただ彼女一人で自殺させていれば他の人の巻き込み自殺は防げたのではないだろうか?
そして彼女一人の自殺を止めるには彼女を歪んだ愛から聖愛信仰へ導く必要がある。
そうあるためには彼女が黒ミサカルト感覚(ギルティをイノセントとする感覚、イノセントをギルティとする感覚)ではなくカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を至上とする信仰者となる必要があるだろう。
しかし彼女は人気バンド「T-BOLAN」を崇拝している。
其処にかなり危険な問題があったと考えられる。
人気バンド「T-REX」とマーク・ボランの黒ミサカルト感覚(ギルティをイノセントとする感覚、イノセントをギルティとする感覚)はビートルズのカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の聖愛信仰に対し信仰弾圧の攻撃をするサタン崇拝だった。
しかし彼らはアンチビートルズ(アンチキリスト)でありながらビートルズの後継者に位置づけられていた。
それは宮崎駿の後継者が宮崎駿への攻撃者(アンチキリスト)である庵野秀明とされたアニメオタク事件と同じである。
要はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の聖愛信仰にアンチ(アンチキリスト)である黒ミサカルト感覚(ギルティをイノセントとする感覚、イノセントをギルティとする感覚)を至上とするサタン崇拝を立てることが必ず起こる。
カトリックから自らを閉ざした信仰弾圧のヒーロー(オタク)を祭り上げて行うショービジネスが堕天したルシフェルなのです。
それはヒーロー誕生(オタク)のショービジネスと言えるだろう。
それは決して人を救済するメシア再来とはならないのです。
カトリック・ビートルズから自らを閉ざすことで信仰弾圧を可能としそういったヒーロー誕生(オタク)の存在を祭り上げるショービジネスモデルが人気バンド「T-REX」とマーク・ボランの存在だったと言えるのです。
それは芸術を冒涜する「密室の邪神(オタク)」です。
庵野秀明や草間彌生は芸術信仰を徹底的に冒涜するヒーロー誕生(オタク)のショービジネスであり堕天したルシフェルとしての存在している。
彼らはアートを冒涜することで祭り上げられた堕天使アーティストなのです。
悪魔の芸術とはスカトロジーなのです。
この信仰弾圧の攻撃行為(アンチキリスト)は最悪の黒ミサカルト感覚(ギルティをイノセントとする感覚、イノセントをギルティとする感覚)を正当化する天然邪悪の行為と言えるのです。
それが彼女が拘った堕天使ルシフェルでありサタン崇拝の正体であっただろうと私は考えます。
「マリさん(MARI-san)」は人気バンド「T-BOLAN」の代表曲「マリア」のモデルであり主要メンバーの配偶者であった。
そのバンドスターとの間に子供もいる。
「マリさん(MARI-san)」のサタン崇拝は此処に象徴されているのです。
しかし彼女がサタン崇拝だったのか?
それとも人気バンド「T-BOLAN」がサタン崇拝だったのか?
結局はその攻撃行為(アンチキリスト)の黒ミサカルト感覚(ギルティをイノセントとする感覚、イノセントをギルティとする感覚)を正当化する天然邪悪感覚がキリスト磔刑の天然邪悪と同じであるだろう。
そしてそれはキリストのカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の聖愛信仰により人を救済することの全くないアンチキリストの現れである。
「マリさん(MARI-san)」はストレイシープをカトリックロゴス感覚(Holy Communion)によって導くキリストとは全くならなかった。
それどころかただストレイシープを死へ追い込むだけの天然邪悪だったのだろうと私は思った。
メシアとはならずヒーロー誕生(オタク)のショービジネスという堕天使ルシフェルの黒ミサとして集団自殺を行った。
そのようなあり方は彼女の黒ミサカルト感覚(ギルティをイノセントとする感覚、イノセントをギルティとする感覚))があってこそ主導されたのです。
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)の自殺と黒ミサカルト感覚(ギルティをイノセントとする感覚、イノセントをギルティとする感覚)の自殺の間には決定的な違いがある。
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)は「殉教」として存在するであろう。
それは白ミサのヒューモアと言える。
そこには愛は愛とし冒涜は冒涜とするカトリック信仰がある。
しかし黒ミサカルト感覚(ギルティをイノセントとする感覚、イノセントをギルティとする感覚)を正当化する天然邪悪感覚による「自死」は「最悪の集団自殺(アンチキリスト)」となる。
それは黒ミサのアイロニーである。
そこには愛は冒涜とし冒涜は愛とする神の門(バベルの塔)がある。
それによってカトリック信仰から自らを閉ざした「密室の邪神」として彼女は存在していたのでしょう。
それは大日本帝国の一億玉砕(アンチキリスト)と同様のあり方となります。
そして「盲人が盲人を手引する。(集団自殺)」と同様のあり方なのです。
〈何回か読み直してみると彼女は確かに運転席で煉炭自殺している。〉
私はこの週刊朝日の記事を読むまで彼女のことをよく知らなかった。
しかしこの週刊朝日の記事を読んでこの何とも言えない読後感を味わったのはご理解頂けるのではないだろうか。
なんとも表現のし難いこの感覚は結局「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)」と「黒ミサカルト感覚(ギルティをイノセントとする感覚、イノセントをギルティとする感覚)」の違いがあるということなのだ。
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)のアンチ(アンチキリスト)として黒ミサカルト感覚(ギルティをイノセントとする感覚、イノセントをギルティとする感覚)がある。
そしてそれはアンチキリストの天然邪悪の現れなのだ。
彼女の存在の天然邪悪さがそのカトリックロゴス感覚(Holy Communion)へのアンチキリストとしてある黒ミサカルト感覚(ギルティをイノセントとする感覚、イノセントをギルティとする感覚)を正当化する天然邪悪感覚にあるというところがサタン崇拝の象徴である。
それは堕天使ルシフェル(サタン崇拝)であるのだ。
それが彼女にとって大切だった人気バンド「T-BOLAN」の黒ミサカルト感覚(ギルティをイノセントとする感覚、イノセントをギルティとする感覚)によっている。
そして人気バンド「T-BOLAN」とはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)のビートルズのアンチ(アンチキリスト)であった人気バンド「T-REX」とマーク・ボランの黒ミサカルト感覚(ギルティをイノセントとする感覚、イノセントをギルティとする感覚)によっている。
この事件の闇を追うとかなり世界的な根深さを持った大事件となってくるのだ。
「マリさん(MARI-san)」はかなりの「自殺オタク(劣等感覚)」だったことに変わりはない。
集団練炭自殺の募集案内に「強い意志と凄み」を感じたのは私だけではなく多くの自殺志願者にあっただろう。
しかしそれは天然邪悪なものだと言える。
そして人気バンド「T-BOLAN」の「マリア」も黒ミサカルト感覚(ギルティをイノセントとする感覚、イノセントをギルティとする感覚)を正当化する天然邪悪感覚のサタン崇拝な曲なのだ。
9人死んだ大事件になったのも頷ける。
私もこの集団自殺事件に応募して辞退した一人としてこの大事件に衝撃を受けている。
彼女は「死神転生マリア」となった。
しかし其の思想的根拠は人気バンド「T-BOLAN」への歪んだ「愛」である。
それは「堕ちた愛」=「堕天使」だった。
彼女は堕天使ルシフェルとなったのだ。
人気バンド「T-BOLAN」の代表曲「マリア」の歌詞を読み批判吟味した感想を記す。
人気バンド「T-BOLAN」の代表曲「マリア」の歌詞を読んだ感想を言わせてもらう。
はっきり言って純愛(聖愛)の否定としての男女関係が描かれている。
純愛(聖愛)を否定して男女関係を成立させるとなんだか歪な関係ができあがる。
その歪な男女の在り方が耽美的な語彙(形容・修飾・装飾)で書かれている。
「マリア」の詩は全くカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の聖愛信仰がないのだ。
歪で訳の分からない歌詞であるのだ。
この歌詞は黒ミサカルト感覚(ギルティをイノセントとする感覚、イノセントをギルティとする感覚)でしかない。
歌詞ではないのだ。(doxaと呪術)
詐欺師が作った擬物の歌詞である。
「マリさん(MARI-san)」をモデルとして書かれた歌詞とされている。
ここでは純愛(聖愛)を否定しながら「優しさ」と「赦し」を歌う。
その正体は天然邪悪の在り方でありサタン崇拝の根幹である。
結局は「最高善の神への反逆」を優しく赦し、そして賛美し翼賛する歌詞であるだろう。
内容のない歌詞であるが実際には純愛信仰(聖愛信仰)を貶めることで否定し黒ミサカルト感覚(ギルティをイノセントとする感覚、イノセントをギルティとする感覚)による男女の在り方を賛美し翼賛している。
バブル経済期の堕落した社会主義(ネオ・ナチズム)の象徴的な代表楽曲であるだろう。
〈マーク・ボラン、人気バンド「T-REX」の天然邪悪〉と〈ジョン・レノン、ビートルズの聖愛信仰(カトリックロゴス感覚)〉
バンド名から推察するに彼らはアンチキリストの音楽バンドなのだろうか?
音楽バンドがアンチキリストという発想は何処から来たのだろうか?
ビートルズの後継とされた音楽バンドがアンチキリストというのはビートルズの否定(信仰弾圧)としてある。
後継者とはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の聖愛信仰を継ぐものであり信仰者のことを指している。
しかしカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の聖愛信仰に対して其のアンチ(アンチキリスト)である黒ミサカルト感覚(ギルティをイノセントとする感覚、イノセントをギルティとする感覚)を至上とするサタン崇拝を後継者だとするのは狂気の沙汰であり天然邪悪の極みであるだろう。
※ダビデ王の後継者がソロモン王であったのはこの典型である。
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)の後継者を其のアンチである黒ミサカルト感覚(ギルティをイノセントとする感覚、イノセントをギルティとする感覚)とすることはアンチキリストでありサタン崇拝であるのだ。
後継者問題が其の聖愛信仰の後継者ではなく其のアンチ(アンチキリスト)を後継者とするのは社会システムの大欠陥と言える。
ダビデ王のカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の聖愛信仰を継ぐものが後継者になるべきでありソロモン王(アンチキリスト)は其のアンチ(信仰弾圧)としての黒ミサカルト感覚(ギルティをイノセントとする感覚、イノセントをギルティとする感覚)の天然邪悪だったのだ。
そしてイスラエルの民はメシア信仰を持つことになる。
それはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の聖愛信仰を継ぐ後継者としてのメシアの到来である。
それがイスラエルの民にあったメシア信仰でありキリスト教なのだ。
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)の聖愛信仰を継ぐ後継者の到来がメシア(キリスト)なのだ。
キリスト教は此処にあるのだ。
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)の聖愛信仰に対する邪な心理が其の後継者をカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の聖愛信仰を信仰弾圧するアンチ(アンチキリスト)の存在とする。
アンチ(アンチキリスト)としての後継者は黒ミサカルト感覚(ギルティをイノセントとする感覚、イノセントをギルティとする感覚)を至上とするサタン崇拝となるのだ。
そして其の天然邪悪はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の聖愛信仰の力を完全否定し黒ミサカルト感覚(ギルティをイノセントとする感覚、イノセントをギルティとする感覚)を至上としてサタン崇拝を行い、「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)の聖愛信仰感覚」の存在を利用し攻撃しながら全てを否定し破壊し堕落させていくのだ。
オタクの二次創作はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を信仰弾圧し黒ミサカルト感覚(ギルティをイノセントとする感覚、イノセントをギルティとする感覚)を正当化することで天然邪悪感覚へ堕落させたあり方の典型である。
オタクにはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の聖愛信仰はないのだ。
だから天然邪悪な黒ミサカルト感覚(ギルティをイノセントとする感覚、イノセントをギルティとする感覚)を正当化する天然邪悪感覚で創作された二次創作にはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の聖愛信仰はなく芸術はありえない。
村上隆らは真っ赤な偽物芸術家である。
オタクの二次創作はただの堕落作品である。
「真の赤狩り」の必要性を感じる。
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)の聖愛信仰を破壊し世界を黒ミサカルト感覚(ギルティをイノセントとする感覚、イノセントをギルティとする感覚)へ堕落させる天然邪悪はアンチ芸術を聖愛信仰の聖芸術の後継者とすることで正当化が行われる。
黒ミサカルト感覚(ギルティをイノセントとする感覚、イノセントをギルティとする感覚)によって全てを堕落させるのだ。
宮崎駿で言えば庵野秀明がアンチ宮崎駿の黒ミサカルト感覚(ギルティをイノセントとする感覚、イノセントをギルティとする感覚)の存在であり、しかし宮崎駿の後継者とされた存在となっていることと同じである。
宮崎駿の息子である宮崎吾朗も同様の存在であり宮崎駿の後継者となった存在である。
※ダビデ王の後継者がソロモン王(アンチキリスト)であったのはこの典型である。
彼らはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の聖愛信仰を信仰弾圧するアンチキリストとして天然邪悪な黒ミサカルト感覚(ギルティをイノセントとする感覚、イノセントをギルティとする感覚)であるが後継者として見做され正当化され世界を堕落させる。
そしてビートルズのキリスト教的聖愛もアンチ(アンチキリスト)の存在によって堕落するのだ。
それはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の聖愛信仰の後継者に其のアンチ(アンチキリスト)の存在である黒ミサカルト感覚(ギルティをイノセントとする感覚、イノセントをギルティとする感覚)を据えて其のサタン崇拝を正当化する。
ビートルズの後継者とされた人気バンド「T-REX」とマーク・ボランもアンチの存在として黒ミサカルト感覚(ギルティをイノセントとする感覚、イノセントをギルティとする感覚)を正当化された存在だった。
そして人気バンド「T-REX」とマーク・ボランとビートルズの関係の在り方は村上春樹とビートルズの関係と同様だろうと思われる。
村上春樹もアンチビートルズの黒ミサカルト感覚(ギルティをイノセントとする感覚、イノセントをギルティとする感覚)でありアンチキリストなのだ。
「ノルウェイの森」はサタン崇拝(アンチキリスト)の作品である。
これらの事件は共通性が見られるのだ。
ビートルズはキリスト教的だがそれはどのバンドメンバーのカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の聖愛信仰によっているのだろうか?
ビートルズのメンバーはポール・マッカートニーとジョン・レノンとジョージ・ハリスンとリンゴ・スターである。
ジョン・レノンが当初結成していたバンド「The Quarry Men」にその回答があるだろう。
そのバンド名はフリーメーソンを示していると私は見做している。
それは「 Freemasonry」であり友愛結社である。
発想が同じである。
これはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)が同じであることを示している。
聖愛の結社が「The Quarry Men」でありビートルズとなったのだ。
私はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の聖愛信仰はジョン・レノンにあっただろうと見做している。
これはビートルズのキリスト教的聖愛にジョン・レノンのカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の聖愛信仰が大きかったと言える証拠である。
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)の聖愛信仰は純愛信仰となるのだ。
LET IT BE
〈マーク・ボラン、人気バンド「T-REX」〉の「サタン崇拝」
アンチキリストだけの何の聖愛信仰もない天然邪悪だったのだろうか?
天然邪悪とはアンチとしてある。
オタクもアンチとしてある。
「天然邪悪の栄え」である。
それは黒ミサカルト感覚(ギルティをイノセントとする感覚、イノセントをギルティとする感覚)である。
ビートルズへのアンチとしてのサタン崇拝のオタクだったのだ。そして彼女の奇妙な主張はこのサタン崇拝の自殺オタクとして表出した凶悪な「悪魔」だったのだ。
黒ミサカルト感覚(ギルティをイノセントとする感覚、イノセントをギルティとする感覚)のサタン崇拝の存在証明である。
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)へのアンチとして存在する黒ミサカルト感覚(ギルティをイノセントとする感覚、イノセントをギルティとする感覚)はサタン崇拝である。
では悪徳と天然邪悪の違いは何かを説明する。美徳と悪徳と天然邪悪の関係は「カトリックロゴス感覚(Holy Communion)が美徳」であり「それに対するアンチであり否定である悪徳は天然邪悪」であると言える。
しかし「悪徳を悪徳と見做すことはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)であり美徳」である。
そして「悪徳を美徳と見做すことは黒ミサカルト感覚(ギルティをイノセントとする感覚、イノセントをギルティとする感覚)であり天然邪悪」であるのだ。
最後に「天然邪悪を天然邪悪」と見做すことはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)である。
しかし「天然邪悪」とは「黒ミサカルト感覚(ギルティをイノセントとする感覚、イノセントをギルティとする感覚)」である。
そこにカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の聖愛信仰はあり得ない。
逆転の問題である。
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)で言えば「天然邪悪」は「黒ミサカルト感覚(ギルティをイノセントとする感覚、イノセントをギルティとする感覚)」でありそのカトリックロゴス感覚(Holy Communion)への逆転はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の聖愛信仰では絶対にあり得ない。
黒ミサカルト感覚(ギルティをイノセントとする感覚、イノセントをギルティとする感覚)を正当化する天然邪悪感覚によってそれはあり得る。
しかしそれはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の聖愛信仰ではなくサタン崇拝(アンチキリスト)でしかない。
それは黒ミサカルト感覚(ギルティをイノセントとする感覚、イノセントをギルティとする感覚)がサタン崇拝であり、それをサタン崇拝と見做すことはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の聖愛信仰にとっては逆転のないカトリックロゴス感覚(叡智)であることを示している。
最高善の神の認識である。
ではそのサタン崇拝の正体とは何だろうか?
黒ミサカルト感覚(ギルティをイノセントとする感覚、イノセントをギルティとする感覚)である。
そして黒ミサカルト感覚(ギルティをイノセントとする感覚、イノセントをギルティとする感覚)が正当化される理由はカトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)に対するアンチ行為である。
それはアンチキリストであり堕天使ルシフェルでありそれはサタン崇拝(悪魔崇拝)である。
最高善の神への反逆行為であるのだ。
黒ミサカルト感覚(ギルティをイノセントとする感覚、イノセントをギルティとする感覚)の存在なのです。
サタンの存在証明である。
マルキ・ド・サドはキリスト者でありサタン崇拝ではない。
マルキド・サドの「悪徳の栄え」は悪徳について書かれているがサドが天然邪悪な訳では無いのです。
サドにはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)が明確にあるからです。
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)と天然邪悪は全く違います。
天然邪悪とは黒ミサカルト感覚(ギルティをイノセントとする感覚、イノセントをギルティとする感覚)である。
それは「冒涜は愛、愛は冒涜」なのです。
そういったあり方は「黒ミサのアイロニー」と言えます。
よって黒ミサカルト感覚(ギルティをイノセントとする感覚、イノセントをギルティとする感覚)を至上とするものはアンチキリストとなるのです。
それは不浄の世界を示しています。
マルキド・サドの作品は「悪徳は悪徳」として描かれ「美徳は美徳」として描かれている。
それは「冒涜は冒涜、愛は愛」なのです。
そういったあり方は「白ミサのヒューモア」と言えます。
そこには黒ミサカルト感覚(ギルティをイノセントとする感覚、イノセントをギルティとする感覚)を嫌うカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の存在証明が為されている。
それは世界の回復と浄化を示しています。
それがマルキド・サドの作品を世界文学とした理由であるのです。
しかし日本に於いて第一級の世界文学者と目されている村上春樹はマルキ・ド・サドと逆であるだろう。
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)の聖愛信仰を信仰弾圧する黒ミサカルト感覚(ギルティをイノセントとする感覚、イノセントをギルティとする感覚)が村上春樹ワールドである。
それは「黒ミサのアイロニー」と言えます。
要は村上春樹文学は世界を「白ミサのヒューモア」によって全く浄化しないのです。
そういった文学ではないのです。
それは文学信仰の信仰弾圧を示しています。
逆に村上春樹文学は世界を「黒ミサのアイロニー」によって完全に不浄とするのです。
村上春樹文学は悪しき文学と言えるでしょう。
文学崇拝を賛美するサヴァン症候群(文学オタク)を祭り上げることで文学信仰の冒涜を大宣伝したのです。
それが堕天使ルシフェルのあり方です。
今、世は村上春樹ブームであると言われています。
ただ少なくとも世界を不浄とする村上春樹が世界文学者だなんて発言は失笑を買うと言えるでしょう。
何故ならば彼の作品は放射性廃棄物(デブリ)と言えるからです。
後記
朝日新聞さんの「聞蔵」に衝撃を受けました。
「マリさん(MARI-san)」主導した集団練炭自殺は計「9人」の死者が出ました。
警察機関は私のメールアドレスも知っていた筈なのです。
何故なら私は彼女に応募メールと返信メールを送信しています。
そして私は捨てメールアドレスを利用していませんでした。
しかし捜査機関からは何の連絡もありませんでした。
何故私が警察機関に不信を抱くかと言えば「チャットルーム」に張り出された「マリさん(MARI-san)」のメールアドレスを解析すれば事件の概要は知り得た筈ではないかと私は考ているからです。
メールの解析によって彼女が何を行っていたのか判明する筈であったと考えています。
一体何人の自殺志願者と彼女と接触していたのか?
この「9人」は氷山の一角だろうか?
警察機関は当然捜査していると思われるが、しかし当事者の一人であった私のメールアドレスには全く捜査は及んでいなかった。
事情聴取があって然る可きだと考えていた私は何時警察から連絡が来るかビクビクしていたのです。
一応私は台風を口実に辞退し暗に集団自殺の中止の方向を仄めかしたことを証言し申開きをするつもりでいました。
この大事件に私なりの責任を感じていたのです。