【カトリックアニメ信仰】
イマーゴ信仰(オマージュ信仰)が受肉した名シーン
天軍七隊 権天使(Principalities)
ヨハネによる福音書の冒頭に出てくる「はじめに、ことばがいた。」の「はじめ」にあたる言葉である。
黒田清子さま(旧名・殿下清子内親王)から敬宮愛子内親王さまへ引き継がれた「ティアラ」の黙示とは?
副題 「最高善信仰のティアラ」
前書き
『原罪』と『無原罪のお宿り』が存在している。
『原罪』を崇拝することは殉教者(確信性の確保)を「倒錯対象」としたコンフィデンスマン(倒錯性の支配)となる。
それは「堕天使ルシファー」が司った「黒ミサの儀式」であって悪を愛する「愛されキャラ(末法思想)」の誕生とされる。
「黒ミサの儀式」とは「ブラックマジック」である。
ウィリアム・シェイクスピア「マクベス」に登場する黒魔女の言葉「綺麗は穢い、穢いは綺麗」は「ブラックマジック(黒ミサの儀式)」であった。
『原罪』を「無垢」と見做すコンフィデンスマン(倒錯性の支配)によって『原罪』は「無辜」とされていくのです。
ここで登場する「無垢」とは「愛されキャラ(末法思想)」であった。
それは「最高善信仰」を「倒錯対象」とした「黒ミサの儀式」であり「倒錯の仕組み」となっている。
それによってコンフィデンスマン(倒錯性の支配)はなされていく。
それは「綺麗は穢い、穢いは綺麗」である。
一方で『無原罪のお宿り』を信仰することは殉教者(確信性の確保)を「パロディ対象」とする「オマージュ(最高善信仰)」となります。
それは「神の恵み」を受肉した「愛されキャラ(黙示録)」の誕生とされます。
「神の恵み」の受肉とは「ホワイトマジック」です。
「綺麗は綺麗、穢いは穢い」は「ホワイトマジック(神の恵み)」であったのです。
そしてそのようなあり方は「可愛いは正義」とされ「愛されキャラ(黙示録)」とされる。
「ヲタク芸術」とは「黒ミサの儀式」を「日本サブカルチャー」の「呪術崇拝と偶像崇拝」で祀ってできた有り様なのです。
だから「ヲタク芸術」に於いては「最高善信仰」を「倒錯対象」とした「倒錯の支配」がなされる。
それがコンフィデンスマン(倒錯性の支配)であった。
そうやって実存を根拠付ける「神とことば」を「呪術崇拝と偶像崇拝」へ倒錯させて認識していくのです。
そこに「歴史信仰」もあり得ません。
何故なら倒錯した歴史的事実はデマゴギーだからです。
デマゴギー(歴史的虚偽)は「政治的宣伝コンテンツ」に過ぎないのです。
デマゴギー(歴史的虚偽)から何も学ぶことはできません。
デマゴギー(歴史的虚偽)を学ぶなんてナンセンスだからです。
「歴史信仰」を持つものは「愛国者」であって、「政治的宣伝コンテンツ」を扇動するものは「売国奴」なのです。
デマゴギー(歴史的虚偽)の「騙し抜き」は「完全犯罪」を意味します。
アウシュビッツユダヤ人収容所、又は日本陸軍防疫731部隊という歴史的事実も抹殺されていきます。
マトモな歴史のない「国家信仰」もあり得ません。
何故ならマトモな歴史のない「国家信仰」は不可能であり「国家の成立」ではないからです。
それは「倒錯の支配」を司り祀ったコンフィデンスマン(倒錯性の支配)なのです。
そういった「黒ミサの儀式」を司り祀った行為は「バフォメットの偶像崇拝」と言われています。
「どうしてお前は天から落ちたのか、明けの明星、暁の子よ」
そのような「黒ミサの儀式」を司り祀った「バフォネットの偶像崇拝」とは「超危険思想」なのです。
それが「コンフィデンスマングループの世界観(最高悪崇拝の世界観)」です。
そういった凶事は「堕天使ルシファー召喚」と呼ばれ「最悪の災いが世に起こる凶兆」とされています。
まさに「明けの明星、暁の子」です。
又、近年公開され話題となっていた北野武監督映画『首』は「倒錯の凶事」の典型に見えます。
それは『原罪』を崇拝するアンチキリストとなります。
「ヲタク芸術」とはそのようなコンフィデンスマン(倒錯性の支配)を言うのです。
「ヲタク芸術」に価値は全くありません。
そういったコンフィデンスマン(倒錯性の支配)は「文化破壊」しか齎さないだろう。
「ヲタク芸術」とは文化的価値へ穢い唾を吐き続ける。
しかもそういったコンフィデンスマン(倒錯性の支配)を恰も一個の「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」と称する「詐欺商法」だった。
そして「ホワイトマジック芸術」を「倒錯対象」とする「黒ミサの儀式」は「ブラックマジック芸術」となって「最悪の災いが世に起こる凶兆」と見做されます。
何故ならもし「ブラックマジック芸術」が「ホワイトマジック芸術」に勝利したら『原罪』から人々を救済する「メシア信仰」は完全弾圧されてしまうからです。
聖宮崎駿(最高善信仰)のルパン三世とは「メシア信仰」であり『原罪』から人々を救済する。
私はそれを「カトリックロゴス・純愛メシア信仰(Holy Communion)」と名付けています。
又、「聖宮崎駿信仰」とも名付けています。
そしてそれらは「最高善信仰」であるのです。
劇場用アニメーション映画「ルパン三世 カリオストロの城」を愛するすべてのものへ
「カトリックエレクト」の「最高善信仰」
ご存じの方も居られると思いますが「クラリス・ド・カリオストロ」のティアラとは「黒田清子さま(旧名・殿下清子内親王)」のティアラのマスターとされている。
それは黒田清子さま(旧名・殿下清子内親王)がコンフィデンスマン(倒錯性の支配)のスカトロジーを嫌悪し「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」への殉教者(確信性の確保)であることを物語っている。
黒田清子さま(旧名・殿下清子内親王)は「ヲタク人」ではなく「聖アニメファン」であった。
例を挙げるとすれば「マニア」とは「聖アニメファン」の資質であったのです。
又、「マニア」とは「ヲタク人」の習性も意味する語彙であった。
この2つの「マニア」は全く別物であり「似て非なり」であったのです。
前者の「マニア」は「神的霊感」であったり「神の贈り物」としての「神的狂気」を言った。
これは「皇室」の「マニア」を示していて、「カトリックエレクト」の資質であったのです。
そしてこのように「皇室」とは殉教者(確信性の確保)を根拠として形成されたのです。
殉教者(確信性の確保)である「聖アニメファン」とは「高度な精神的姿勢ユーモア」なのです。
一方で後者の「マニア」は「熱中する人」や「躁うつ病」を示していた。
これはコンフィデンスマン(倒錯性の支配)の習性であった。
コンフィデンスマン(倒錯性の支配)である「ヲタク人」とは「お下劣」なのです。
「高度な精神的姿勢ユーモア」のあり方は「ヒポクラテスの誓い」としてもとても有名です。
Hippocratic Oath (hip′ō‐krat′ik ōth).
誓い
大槻マミ太郎 訳
後代きわめて重要視されるようにになった『誓い』も、文献上では、紀元一世紀のローマの医師スクリボニウス・ラルグスの言及がはじめてであり、紀元前に言及した人は一人もいなかった。しかもこの世紀は、大ローマ帝国の頽廃が底なしに進むか一方でこれと反比例したきびしい精神の再高揚がはかられ、医学精神のルネッサンスも行なわれた時代であった。しかもそれがヒポクラテスの名と結びついたのである。しかし実際は、『誓い』の前半部分の師弟の誓いと後半部分の医師の戒律・守秘義務は、全集の内容からみて、ヒポクラテス医学派内でとくにきびしく守られたとはどうしても考えられない。しかしここには、遠く古代ギリシアのホメロス以来高く評価されてきた医術とさらにその後の前六〜五世紀中心にギリシアをおそった精神革命の嵐のなかででき上がったヒポクラテス派の医学と、したものが誰かによって作成され、紀元一〜二世紀ローマ時代のヒポクラテス全集刊行時に全集の中に差し込まれたとみることもできよう。とにかく『誓い』には、かまびすしいソフィスト時代以前の古きギリシアの医学精神状況が基調になっていることは否定できない。
医神アポロン、アスクレピオス、ヒュギエイア、パナケイア、およびすべての男神・女神たちの御照覧をあおぎ、つぎの誓いと師弟誓約書の履行を、私は自分の能力と判断の及ぶかぎり全うすることを誓います。
この術を私に授けていただいた先生に対するときは、両親に対すると同様にし、共同生活者となり、何かが必要であれば私のものを分け、また先生の子息たちは兄弟同様に扱い、彼らが学習することを望むならば、報酬も師弟誓約書もとることなく教えます。また医師の心得、講義そのほかすべての学習事項を伝授する対象は、私の息子と、先生の息子と、医師の徒てに従い師弟誓約書を書き誓いを立てた門下生に限ることにし、彼ら以外の誰にも伝授はいたしません。
養生治療を施すにあたっては、能力と判断の及ぶかぎり患者の利益になることを考え、危害を加えたり不正を行なう目的で治療することはいたしません。
また求められても、致死薬を与えることはせず、そういう助言も致しません。同様に婦人に対し堕胎用のペッサリーを与えることもいたしません。私の生活と術ともに清浄かつ敬虚に守りとおします。
結石患者に対しては、決して切開手術は行なわず、それを専門の業とする人に任せます。
また、どの家にはいって行くにせよ、すべては患者の利益になることを考え、どんな意図的不正も害悪も加えません。とくに、男と女、自由人と奴隷のいかんをとわず、彼らの肉体に対して情欲をみたすことはいたしません。
治療のとき、または治療しないときも、人々の生活に関して見聞きすることで、およそ口外すべきではないものは、それを秘密事項と考え、口を閉ざすことにいたします。
以上の誓いを私が全うしこれを犯すことがないならば、すべての人々から永く名声を博し、生活と術のうえでの実りが得られますように。しかし誓いから道を踏みはずし偽誓などすることがあれば、逆の報いを受けますように。
出典 エンタプライズ1985「ヒポクラテス全集」
殉教者(確信性の確保)はコンフィデンスマン(倒錯性の支配)に矯正されることによって「心的外傷」を受け「PTSD」を発症することはフロイト精神分析のヒステリーと同じであるだろう。
このヒステリーは「聖アニメファン」に特有であり「ヲタク人」には発症しない。
コンフィデンスマン(倒錯性の支配)は「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」を「倒錯対象」とする「ブラックマジック(黒ミサの儀式)」です。
コンフィデンスマン(倒錯性の支配)とは「堕天使ルシファー」を祀る「政治的宣伝コンテンツ」の制作だった。
それは「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」ではないのです。
それは「ヲタク芸術」なのです。
この両者は「ホワイトマジック(神の恵み)」と「ブラックマジック(黒ミサの儀式)」として判別されます。
「ホワイトマジック(神の恵み)」とは「知識の廃棄」の容易さへ導き「最高善信仰」を受肉させていく。
それはイマーゴ(神の似姿)への殉教者(確信性の確保)です。
それはソクラテス「無知の知」と同様です。
しかし「ブラックマジック(黒ミサの儀式)」とは「知識の鵜呑み」に支配されコンフィデンスマン(倒錯性の支配)へ陥っていく。
それは「倒錯の支配」となります。
例えば「庵野秀明や新海誠ら」のアニメ作品とは「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」ではなくコンフィデンスマン(倒錯性の支配)として制作されている。
何故ならば「庵野秀明や新海誠ら」は「ブラックマジック(黒ミサの儀式)」から「知識の鵜呑み」を扇動して視聴者をコントロールしていく演出家となっているからなのです。
そういう意味で「庵野秀明や新海誠ら」は「神演出家」だった。
しかしそれはコンフィデンスマン(倒錯性の支配)の詐術でしかなかった。
そういったあり方には視聴者へのオマージュ(敬意)が全くないのです。
詐欺師に視聴者へのオマージュ(敬意)が存在する理由はなかった。
騙す相手にオマージュ(敬意)があったら詐欺行為は出来ません。
「庵野秀明や新海誠ら」の「神演出」の存在はコンフィデンスマン(倒錯性の支配)であることを指し示していた。
「神演出」とは「悪魔の烙印」だったのです。
それは決して褒められた代物ではなかった。
「庵野秀明や新海誠ら」の作品とは「堕天使ルシファー」の「政治的宣伝コンテンツ」だったのです。
聖宮崎駿が創作したルパン三世は「聖痕」(殉教)を持っていた。
「聖痕」(殉教)とは殉教者(確信性の確保)であり「黙示」であった。
「黙示」とは「奇跡」(真実と誠実)を示していた。
「庵野秀明や新海誠ら」は人間関係(コンフィデンスマングループの循環論証)によって「芸術家」と名乗れるだろう。
何故ならば「ヲタク芸術」とされているからです。
しかし「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」には「神の黙示(revelation)」を必要とします。
「庵野秀明や新海誠ら」の作品はコンフィデンスマン(倒錯性の支配)としてある故に、きっと地獄へ墜ちるでしょう。
平成天皇の長女の黒田清子さま(旧名・殿下清子内親王)は殉教者(確信性の確保)であり得るだろう人物だと私は想像している。
それは黒田清子さま(旧名・殿下清子内親王)が殉教者(確信性の確保)であり「カトリックエレクト」であることを黙示しているだろう。
現在その黒田清子さま(旧名・殿下清子内親王)のティアラは令和天皇の長女の敬宮愛子内親王さまに受け継がれている!
このティアラの黙示するところは「カトリックエレクトの最高善信仰」である。
「アルファとオメガ」は「すべての始まりと終わり」を意味する。
そして劇場用アニメ映画「ルパン三世 カリオストロの城」は「すべての始まりと終わり」を意味する映画なのです!
(再編集版)