「他者を愛する」とは「隣人愛」と呼ばれ高度な信仰とされる 求めれば与えられる(マタイ 7:7-11) 求めよ、そうすればあなたたちに与えられるであろう。探せ、そうすればあなたたちは見いだすであろう。叩け、そうすればあなたたちは開けてもらえるであろう。なぜなら、すべて求める者は手に入れ、また探す者は見いだし、また叩く者は開けてもらえるだろうからである。 あるいは、あなたたちの中で誰が、自分の息子がパンを求めているのに、石を彼に与えるような人間であろうか。あるいは魚を求めているのに彼に蛇を与えるであろうか。だから、もしあなたたちが悪人であるにもかかわらず自分の子供たちには良い贈物を与えることを知っているとすれば、天におられるあなたたちの父はなおいっそう、彼に求める者に〔さまざまの〕良いものを下さらないであろうか。
岩波書店「マタイによる福音書」 「他者を愛する」とは「自らの愛」によっている 「他者を愛する純愛」は「他者から愛される欲望」という「思い込み」(盲目状態)とは全く違っている。
又、そういった「愛」(誠実と真実)のあり方は「信用」(誠実と真実)のあり方と非常によく似ている。 「他者を愛する純愛」とは「他者を信用する信仰」となり、「他者から愛される欲望」とは「他者から信用される崇拝」となる。 ここで解るように「他者を愛する純愛」と「他者を信用する信仰」は「純愛信仰」となり、「他者から愛される欲望」と「他者から信用される崇拝」は「欲望崇拝」となる。
「他者を信用する純愛信仰」とは「知識の廃棄」から受肉したカトリックロゴス感覚であり科学的思考を示している。 このようなあり方は「善き羊飼い」の典型的なあり方です。
しかしそういった「他者を信用する純愛信仰」を欠落した「他者から信用される欲望」とは「知識の鵜呑み」をアジテーションする。 それは「ドクサ」を「絶対知」(信念)とした「思い込み」(盲目状態)となりカルト思考を示している。 このようなあり方は「盲目の道案内」の典型的なあり方です。 「馬鹿の一つ覚え」のアジテーションとは「デマゴーグ」の出現を意味している。 それは「コンフィデンスマン」(バフォメットの呪術崇拝から形成するバフォメットの偶像崇拝)なのです。
○恋(こい)は盲目(もうもく) 《Love is blind》恋におちると、理性や常識を失ってしまうということ。
『大辞泉 第二版』 小学館 ○馬鹿(ばか)の一つ覚え ある一つの事だけを覚え込んで、どんな場合にも得意になって言いたてること。
『大辞泉 第二版』 小学館 デマゴーグ demagogue 古代ギリシアの民主政治において,その声望および弁舌によって民会の決議に影響を与えて,政治を左右する者,つまり「民衆の指導者」を意味したのが原義であるが,現代では刺激的な弁舌,文章によって大衆を政治的に動員する扇動政治家をいう場合が多い。デマゴーグによって,特定の政治目的のために意図的に捏造され,流布される虚偽の情報がデマゴギーであって,一般にデマと略されている。
『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc. cónfidence màn〓 (取り込み)詐欺師,ぺてん師. (また⦅話⦆ con man) ◊[文学・著作物]The Confidence Man『信用詐欺師』H.Melville の小説(1857). [1849.米語]
『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館 cón àrtist —〓 〓 ⦅略式⦆ 取り込み詐欺師.
『ルミナス英和辞典(第3版)』 研究社 Cónfidence―Màn —n. [The ~] 『ペテン師』 ⦅Herman Melville の諷刺小説 The Confidence―Man: His Masquerade (1857); Mississippi 川の蒸汽船 Fidèle 号に最初は聾唖の若者として乗り込んだペテン師が, 次々と仮装して乗客をだましていく⦆.
『リーダーズ・プラス』 研究社 何故なら「他者を愛する純愛信仰」とは「自らの愛」から生じるからである。 それ故に「ドクサ」を「絶対知」(信念)とする「思い込み」(盲目状態)とは全く違っている。 要は「思い込み」(盲目状態)は「他者を愛する純愛信仰」とは絶対にならない。 何故なら「思い込み」(盲目状態)とは「他者から愛される欲望崇拝」にしかならないのです。 「自らの愛」なら「思い込み」(盲目状態)とはならないからです。 そういった「思い込み」(盲目状態)を廃棄していくことで「他者を愛する純愛信仰」は「自らの愛」からカトリックロゴス感覚(高度な精神的姿勢・ユーモア)を受肉する。 カトリックロゴス感覚(高度な精神的姿勢・ユーモア)とは「イエス・キリスト(神の似姿)のパン」であり、それは「イエス・キリスト(神の似姿)の肉とイエス・キリスト(神の似姿)の血」であり、そして「真実の食べ物と真実の飲み物」とされるのです。
その意味を示せば「他者から愛される欲望崇拝」といった「ドクサ」を「絶対知」(信念)とする「思い込み」(盲目状態)は虚偽(偽善者)にしかならない。 しかし「他者を愛する純愛信仰」とは「思い込み」(盲目状態)を廃棄し「自らの愛」からカトリックロゴス感覚(高度な精神的姿勢・ユーモア)を受肉していく。 これは「イエス・キリスト(神の似姿)のパン」でありキリスト教の「最大の掟」とされている「隣人愛」となります。
してみればわたくしは、思弁的理性から同時にその過大な認識に対する思い上りを奪いとらないかぎり、神、自由及び不死を、わたくしの理性の必然的な実践的使用のために想定することはとうていできないのである。なぜなら、思弁的理性がこのような過大な認識に到達しようとしても、その際用いざるをえない原則は、実際には単に可能な経験の対象に達するにすぎないから、それにもかかわらず経験の対象たりえないものに適用されると、事実上つねにこれを現象に変化させ、かくて純粋理性の一切の実践的拡張を不可能であると宣言するにいたるからである。したがってわたくしは、信仰に余地を求めるために、知識を除去しなければならなかった。 かくて形而上学の独断論、すなわち純粋理性を批判することもしないで形而上学において成果を収めようとする偏見は、つねにまったく独断的な、道徳とは相容れない一切の不信仰の真の源をなすものである。 -したがって純粋理性批判にのっとって作られた体系的形而上学をもって、後代に遺産をのこすことが必ずしも困難でないとすれば、この遺産は軽視すべからざる贈物である。
高峯一愚翻訳 イマヌエル・カント「純粋理性批判(第二版序文)」 高峯一愚翻訳 イマヌエル・カント「純粋理性批判(第二版序文)」 穢れに関する論争(マタイ 15 1-20) そのあと、〔幾人かの〕ファリサイ人たちと律法学者たちとが、エルサレムからイエスのところにやって来て言う、「なぜお前の弟子たちは父祖たちの言い伝えを破るのか。彼らは、パンを食べるときに〔自分たちの〕手を洗わないではないか」。すると彼は答えて彼らに言った、「お前たちこそ、なぜお前たちの言い伝えで神の掟を破るのか。というのは、神は父と母を敬えと言い、父や母を呪うものは必ず死ぬべしと言われたにもかかわらず、お前たちは〔次のようなことを〕言っている、『父や母に対し、「あなたが差し上げるはずだったものは、供え物〔となります〕と言う者は、その父を敬う〔必要が〕ないであろう』、と。こうしてお前たちは、お前たちの言い伝えで神の言葉を台無しにしてしまった。偽善者どもよ、お前たちについて、イザヤはみごとにも預言して〔次のように〕言った、 この民は唇で私を敬うが、 その心は私からはるかに隔たっている。 彼らは私をいたずらに敬うが〔に過ぎない〕、 人間たちの〔さまざまな〕戒めを〔しょうこりもなく〕教えとして教えながら」。 そして群衆を呼び寄せ、彼らに言った、「聞け、そして悟れ。口の中に入って来るものは、人間を穢さない。むしろその口から出ていくもの、それこそが、その人間を穢すのだ」。 そのあと、弟子たちがやって来て彼に言う、「ファリサイ人たちが〔今の〕御言葉を聞いて躓いたのをご存じですか」。すると彼は答えて言った、「天の私の父が植えられたのではない植物はすべて、根こそぎにされるであろう。彼らをそのままにしておくがよい。彼らは[盲人〔を導く〕]盲目の道案内どもだ。しかし、もし盲人が盲人の道案内をするなら、両者とも溝に落ち込んでしまうであろう」。 するとぺトロが答えて彼に言った、「[この]譬を私たちに解釈してください」。すると彼は言った、「あなたたちも、悟りがないままなのか。すべて外から口の中に入って来るものは、腹の中に入って行き、便所へと出されてしまうことがわからないのか。しかし、口から出てくる〔もろもろの〕ものは、心の中から出て来る。それこそがその人間を穢すのだ。なぜならば、心の中からこそ、悪しき想い、殺人、姦淫、淫行、盗み、偽証、瀆言が出て来る。これらのものが、その人間を穢すものである。しかし、洗わない手で食べることがその人間を穢すことはない。
岩波書店「マタイによる福音書」 ここで言う「他者を愛する純愛信仰」という信仰とはイマヌエル・カント「純粋理性批判(第二版序文)」にも示されています。 イマヌエル・カントの指摘したこととは「ドクサ」を「絶対知」(信念)とした「思い込み」(盲目状態)を廃棄することでカトリックロゴス感覚(高度な精神的姿勢・ユーモア)を受肉することでした。 それは「知識(叡知)の受肉システム」 を示していたのです。
これはタロットカードのアルカナとトートロジーとなります。
タロット tarot 22枚の〈大アルカナ〉(アルカナ arcana は〈秘密〉の意のラテン語 arcanum の複数形)と呼ばれる絵札と,56枚の〈小アルカナ〉からなる一組78枚のカード。主として卜占に用いる。英語 tarot の正確な発音はタローだが,日本ではもっぱらタロットと呼びならわされている。なおフランス語ではタロ tarot,イタリア語ではタロッコ tarocco という。〈小アルカナ〉56枚は,それぞれ百姓・貴族・商人・僧侶の4段階に対応する14枚ずつの4組,棍棒・剣・金貨・聖杯に分かれ,その1組14枚がさらに10の数札とキング・クイーン・ナイト・ジャックの4枚の親札からなり,のちにこれだけが独立して近代のトランプの前身となる。ただしタロットのシンボリズムは主として〈大アルカナ〉について論じられることが多く,22枚の絵札にはそれぞれ以下のような数番号と名称がついている。すなわち,1:奇術師,2:女教皇,3:女帝,4:皇帝,5:教皇,6:恋人,7:戦車,8:正義,9:隠者,10:運命の輪,11:力,12:吊るされた男,13:死神,14:節制,15:悪魔,16:神の家,17:星,18:月,19:太陽,20:審判,21:世界,0:愚者である。ただし現在広く用いられているウェート A. E. Waite 考案のカードでは8が〈力〉,11が〈正義〉に変えられ,0の〈愚者〉を先頭に置く。タロットの占い方には〈生命の樹法〉〈ケルト法〉等いくつかあるが,輪状配列による方法が〈普遍の鍵〉(パピュス)と称されてオカルティストたちに好まれている。TAROT という文字そのものが輪状に配列されれば ROTA(輪)またはTORA(律法)のアナグラムとして読むことができ,永遠に回転しつつ世界に変化をもたらす不可視の〈運命の輪(世界輪)〉の象徴となる。 タロットの起源についてはさまざまの説がある。語源はアシュトレト=アスタルテ女神とも,古代ペルシア語のタリスク tarisk から派生した古代エジプト語のタルート tarut(〈問いかけられた者。余は答えを切望する〉の意)ともいわれ,後者はナイル川の水の増減を占う卜占装置として発生したという起源説(クール・ド・ジェブラン A. Court deGレblin)と結びつく。またタロットの〈大アルカナ〉22枚は,ヘブライ語のアルファベット22文字にそれぞれ対応しているところからヘブライ起源説(E. レビ)があり,さらに古代インドのチェス遊戯チャトゥル・アンガ chatur‐anga に特に〈小アルカナ〉のデザインを思わせるものがあることから,インド起源説もある。有力なのは,タロットは本来遊戯カードではなくて,一冊の(絵)本だったという推測である。アレクサンドリアの大図書館(アレクサンドリア図書館)が破壊されたとき,世界の秘密を封じ込めた一冊の書物がばらばらに分解されて持ち出された。この寓意図からなる断片を組み合わせると,古代の失われたすべての知識が復元されるというのである。78枚=78ページからなるこの本は,実は〈(古代の)すべての本を封じ込めた本〉であり,これを流浪のジプシーがカードの形式にやつして今に伝えるというものである。したがって組合せの秘密に通じた者は,そこから世界の隠された秘密を自在に読み解くことができるのである。なお,日本の〈うんすんかるた〉との類似に注目する向きもあり,たとえば尾佐竹猛は〈スペインのタロッキーというカルタは,確かに“うんすんかるた”に近い形式である〉(《笛博と掏摸の研究》)と,うんすんかるたのタロット起源を示唆している。⇒トランプ 種村 季弘
(C) 1998-2000 Hitachi Systems & Services, Ltd. All rights reserved. ar・ca・na [ɑːrkéinə] ―n. 1 arcanum の複数形. 2 アルカナ:タロット占いの2種類の組みカードで,22枚の寓意(ぐうい)的な絵カードと56枚の数カードがある.
『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館 ar・ca・num ar・ca・no・rum [ɑːrkéinəm ɑːrkənɔːrəm;Lat. arkáːnum arkɑːnóːrum] ⦅ラテン語⦆ 秘中の秘,大秘密,大神秘(secret of secrets).
『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館 tau・tol・o・gy [tᴐːtálədʒi|―tɔl―]〓 ―n. (pl. ―gies) 1 トートロジー,類語反復:考えを不必要に繰り返して表現すること;特に言葉の不必要な繰り返し;例 widow woman. 2 〖論理〗 トートロジー. (1)同語反復(文),同意反復(文):「人間は人間である」や「母は女親である」のように,述語が主語の繰り返しになる文. (2)恒真論理式:「A または非 A」のような要素命題の変更にかかわらず常に真となる論理式;例 This candidate will win or not win. 3 (行為・経験などの)反復,繰り返し. [1579.<後期ラテン語 tautologia<ギリシャ語 tautología.⇀TAUTO―,―LOGY]
『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館 トートロジー tautology 文法的には同じ語の無意味な反復をいうが,論理学では,経験的知識の内容とはかかわりなく,必然的に真として成立する命題,ないしその関数関係をいう。常に無条件的に真であるから,⇨恒真式とも呼ばれる。また命題構造としては,主辞に含まれている内容を賓辞がただ析出するだけであるから,分析文とも呼ばれる。トートロジーの論理学的重要性は現代論理学の発展によって認められるようになった。記号論理学は結局,数個のトートロジーの公理式と,これらの公理からほかのトートロジーを導き出すための規則とによって構成された,巨大なトートロジーの体系である。
『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc. このようにイエス・キリストとイマヌエル・カントは同じことを示していたのです。 イマヌエル・カントはカトリック信仰だった。 だからイマヌエル・カントの作品には「政治的最高善」が「永遠平和」と記されているのです。 ここで解るようにイマヌエル・カントとは「最高善信仰」であったのです。 イエス・キリストの「隣人愛」は「他者を愛する純愛信仰」であって、それは「政治的最高善」が「永遠平和」とされた「神の王国の到来」と同様なのです。
ここで重要なことは「他者を愛する純愛信仰」とは「自らの愛」からであって、「ドクサ」を「絶対知」(信念)として「他者から愛される欲望崇拝」といった「思い込み」(盲目状態)の形成とは全く別物だった。 「他者を愛する純愛信仰」とは虚偽(偽善者)ではないということです。
「自己の愛」と「他者の愛」に関する倒錯(バフォメット)が起こった状況が「他者から愛される欲望崇拝」の正体であったのです。
「他者を愛する純愛信仰」 フロイトのユーモア
「善きサマリア人」(最大の掟) 「自己の愛」は「自己の愛」とされ、「他者の愛」は「他者の愛」とされる。
「他者から愛される欲望崇拝」 「バフォメットの偶像崇拝」(バフォメットの呪術崇拝)
「無様なバフォメットの偶像」(無様なバフォメットの呪術) 「自己の愛」は「他者の愛」とされ、「他者の愛」は「自己の愛」とされる。
これらはフロイトのユーモアに記されたカトリックミサ(白魔術)と黒ミサ(黒魔術)に関するテーマです。 ここでは「ユーモアはユーモア」「バフォメットはバフォメット」と必ずなる。 「ユーモアはバフォメット」「バフォメットはユーモア」は絶対にあり得ない。
【関連作品】フロイトのユーモアに於ける白魔術(完結性)と黒魔術(循環論証) ※上掲の作品にフロイトのユーモアに関して記されているので是非お読みください。
Baph・o・met /bǽfəmèt/ —n. バフォメット ⦅テンプル騎士団が儀式に用いたとされる偶像⦆. [F (変形) 〈 Mahomet]
『リーダーズ・プラス』 研究社 Ma・hom・et [məhámit|―hɔm―] ―n. ⇨MUHAMMAD 1. (また Ma・hom・ed[məhámid|―hɔm―])
『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館 1 ムハンマド,マホメット(570-632):アラビアの預言者で,イスラム教の創始者. (また Mohammed,Mahomet) 2 Elijah (Elijah Poole),(1897-1975):米国の聖職者;Black Muslim の指導者. 3 男子の名.
『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館 しんでんきししゅうどうかい【神殿騎士修道会】 Templars 正式には「キリストとソロモン神殿との貧しい騎士団」 Pauperes commilitones Christi templique Salomonis,略してテンプル騎士団ともいう。十字軍によって建てられたエルサレム王国の初期,キリスト教徒のエルサレム巡礼者を保護するため 1119年末もしくは 20年初めにユーグ・ド・ペイヤンら8~9人のフランス人騎士によって創立された騎士修道会。エルサレム国王がもとのユダヤ教神殿跡の一部を与えたのでこの名称がある。クレルボーのベルナールが会則を起草,急速に発展して巡礼者の保護だけでなく「教敵」に対する軍事行動にも従事して,ヨーロッパ各地に多くの領域と巨大な富を獲得した。フランス王フィリップ4世は,修道会の権勢への恐れと財産を没収する意図で,教皇クレメンス5世に働きかけて 1312年3月 22日修道会を解散させ,2年後修道会総長ジャック・ド・モレーを焚殺した。のちのフリーメーソンはこの修道会に由来するといわれる。
『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc. ソロモン ?‐前928ころ Solomon イスラエル・ユダ複合王国2代目の王。在位,前967年ころ‐前928年ころ。ダビデの子。母はヘテ人ウリヤの妻であったバテシバ。幼名エデデヤ。預言者ナタンとその仲間に擁立され,異母兄アドニヤを退けて父の王位を継承,アドニヤ,軍の長ヨアブ,祭司アビヤタルなどを粛清して王権を確立した。ダビデが築いた大帝国を,北はユーフラテス川から南はガザまで支配した。帝国内にはメソポタミアをエジプトとアラビアに結ぶ国際通商路が縦貫していたため,莫大な関税収益をあげるとともに,エジプトとクエ(キリキア)とシリアを結ぶ仲介貿易や,フェニキア人の協力を得た紅海貿易にも従事した。アラビア半島南端のシバからは女王(シバの女王)が隊商を率いてエルサレムを訪問した。このように活発な商業活動によって巨富を集めたことから,〈ソロモンの栄華〉の伝説が生じた。しかし,ソロモンのはでな消費はこの莫大な収入をはるかに上回っていた。そこで,ソロモンはイスラエル全地を12の行政区に分割して徴税組織を整えただけではなく,民を強制労働に徴用した。その目的は,とくにエルサレムの宮殿と神殿の建築であった。このためにも,フェニキア人は技術者を派遣し,レバノンスギを送って協力した。しかし,20年がかりで宮殿と神殿の建築が終わったときに,フェニキアのツロ(テュロス)王ヒラムに借りた負債を支払えなくなったソロモンは,ガリラヤの町20を割譲しなければならなかった。また近隣諸国と友好条約を結んだ結果,エジプト王の娘など多数の外国の女を王妃に迎えた。彼は妻700人,側妻300人の大ハレムを所有していたと伝えられる。 40年続いた治世後半に,敵対的な王朝がエジプトに出現したことがきっかけとなって,支配下にあった近隣諸民族が次々と反旗をひるがえした。とくにダマスクスのアラム人の独立によって国際通商路の支配を失ったことは,ソロモンの商業活動にとって大きな打撃であった。北方諸部族もヤラベアムに率いられて反乱したが鎮圧された。しかし,ソロモンが死ぬと,彼らはダビデ家の支配を脱して北イスラエル王国を建てた。このような内外の敵に備えて,エルサレムやメギドに要塞が建てられた。しかし,何といってもソロモンが果たした最大の業績はエルサレム神殿の建築であった。この神殿によって古代イスラエルの伝統が後代に伝えられたからである。ソロモンは知者としても著名であったことから,彼を《箴言》や《伝道の書》などの著者とする伝承も生じた。 石田 友雄 [図像] ソロモンの生涯の美術表現は,中世初期以降,旧約聖書写本挿絵などのなかに,〈ソロモンの戴冠〉〈ソロモンの審判〉〈シバの女王のソロモン訪問〉〈ソロモンにアドニヤの結婚を説くバテシバ〉などの諸場面が見いだされる。近世以後では,ピエロ・デラ・フランチェスカの《シバの女王とソロモン》(1452ころ)や,ラファエロのバチカン宮殿フレスコ画《ソロモンの審判》(1510ころ)などが知られる。このような物語図像のほかに,ひげをはやし,王冠をかぶり王笏を持つ単独像として表されたり(アミアン大聖堂西正面の彫刻,13世紀),イエス・キリストの祖先を示す列のなか(カハリエ・ジャーミーのモザイク,イスタンブール,14世紀)や,〈エッサイの根(樹)〉の図像のなかに描かれることもある。 浅野 和生
(C) 1998-2000 Hitachi Systems & Services, Ltd. All rights reserved. テンプル騎士団が崇めたとされる「バフォメットの偶像」はカトリック信仰を倒錯対象としていると見做された。 それによってテンプル騎士団は解体された。 何故ならテンプル騎士団が守護したのはソロモン王が建造したエルサレム神殿であったからです。 ソロモン王が建造したエルサレム神殿によってカトリック信仰は倒錯対象とされ信仰弾圧が為された。 それ故にソロモン王が建造したエルサレム神殿の守護を謳ったテンプル騎士団はカトリック信仰を倒錯対象とする「バフォメットの偶像崇拝」(バフォメットの呪術崇拝)であると見做されたのです。
映画「君たちはどう生きるか」 初日配布ファイル 現在、聖宮崎駿の子息である宮崎吾朗氏はジブリパークなどの神殿建造を盛んに推進している。 この関係はカトリック信仰のダビデ王とカトリック信仰を倒錯対象としたソロモン王の両者と同じであるだろう。 ダビデ王から王位を継承したのは子息のソロモン王だった。 これはダビデ王である聖宮崎駿のカトリック信仰を倒錯対象としたソロモン王である宮崎吾朗氏のエルサレム神殿建造と同じ意味であるだろう。 これによって聖櫃(カトリック信仰)は失われていきソロモン王は堕落した王(最悪の王)と言われることになる。 まさにソロモン王(宮崎吾朗氏)とは「他者から愛される欲望崇拝」と言える。 ただ父親のダビデ王(聖宮崎駿)とは「他者を愛する純愛信仰」と言える。 「他者を愛する純愛信仰」があってこそ才能とされる。 何故ならば philosophia(哲学)を持って才能と為すからである。 それが「知識(叡知)の受肉システム」であるのです。 philosophia(哲学)とは「他者から愛される欲望崇拝」ではなく「他者を愛する純愛信仰」を示しています。
ダビデ David イスラエル・ユダ複合王国の王。在位,前997ころ‐前966年ころ。ユダのベツレヘムのエッサイの子。羊飼いの少年ダビデは,琴の名手として,悪霊に悩まされていたイスラエル王サウルを慰めるため宮廷に出仕した。別の伝承によると,ペリシテ人の勇士ゴリアテ Goliath を倒して認められ,サウルに仕えるようになったという。いずれにしてもサウルの武将として頭角を現し,サウルの息子ヨナタンと深い友情で結ばれ,サウルの娘ミカルMichal を妻に与えられた。しかし,彼の成功をねたんだサウルに命をねらわれるようになり,宮廷から逃亡してユダの荒野に身を潜め,サウルの支配に不満を抱く人々を集めた。しばらくの間,ゲリラ戦によってサウルと対抗したが,身の危険を悟り,あえてイスラエルの宿敵ペリシテ人の都市国家ガテの王アキシ Achish のところへ亡命した。アキシはダビデにチクラグ(ネゲブにあったユダの町)を与え,護衛の長にした。サウルがギルボア山でペリシテ人と戦って敗死したことを聞くと,ダビデは南方諸部族の中心都市ヘブロンに行って,ユダ王国を建てた。サウルの軍の長アブネルAbner は,東ヨルダンに逃げてサウルの子エシバアル Eshbaal をイスラエル王として擁立したが,結局,2人とも暗殺されたため,ダビデにイスラエル王位が提供された。 こうして,前997年ころイスラエル・ユダ複合王国の王になったダビデは,エブス人のエルサレムを占領して,ヘブロンから移住した。エルサレムは南北両部族の中間に位置し,それまでイスラエルのどの部族にも属していなかったため,部族間のバランスを保って統一国家を建設したダビデにとって理想的な首都であった。攻めてきたペリシテ人を撃退すると,ダビデは東ヨルダンの諸王国とシリアのアラム人を征服して,南は紅海から北はユーフラテス川に達する大帝国を建設した。この成功を背景に,ダビデは王政前にシロ部族同盟の象徴であった〈神の箱(契約の箱)〉をエルサレムに搬入し,イスラエルの神ヤハウェが,エルサレムとダビデ家を永遠にイスラエルの首都と王家に選ぶ約束をした,と主張した。この神の約束は〈ダビデ契約〉と呼ばれ,のちにダビデの子孫からメシアが現れるというメシア思想の源泉となった。晩年,ダビデの中央集権政策に対する民衆の不満はアブサロムの乱となり,ユダ族偏重策への批判はシバ Sheba の乱を引き起こしたが,いずれも軍の長ヨアブ Joab の働きによって鎮圧することができた。ダビデの治世は,ユダ王時代を含めて約40年間であった。彼はまた詩人としても傑出していたために,後代,多くの詩篇が彼の作とされた。⇒イスラエル王国 石田 友雄 [図像] 美術作品において,王としてのダビデは王冠を着け,短いひげをもつ姿,王となる以前は羊飼いや武装した青年の姿で表される。単独像では,《詩篇》本の扉絵に,玉座に座り竪琴を持つ王の姿として描かれるのが代表的である。《ビビアンの聖書》(850ころ)には,楽師らに囲まれて竪琴を手に踊る表現がみられる。旧約聖書による生涯の物語場面の成立は古く,ドゥラ・ユーロポスのシナゴーグの壁画(245ころ)には〈塗油〉の場面がある。またキプロス出土の一連の銀皿(7世紀前半)には,〈塗油〉〈サウルの前のダビデ〉〈ライオンとの格闘〉〈ダビデとゴリアテ〉〈ミカルとの結婚〉など数場面が,各1場面ずつ表されている。中世には,〈モーセ八書〉や《詩篇》などの写本挿絵に,詳しい物語場面が描かれた(《ウィンチェスターの聖書》,12世紀後半)。このほかダビデの姿は〈エッサイの樹〉の中に表されたり,旧約の預言者たちと並んで表されたりすることも多い。ルネサンス期には若い勇士としてのダビデが好まれ,ドナテロのブロンズ彫刻(1434ころ)やミケランジェロの大理石彫刻(1501‐04)などの名作がある。 浅野 和生
(C) 1998-2000 Hitachi Systems & Services, Ltd. All rights reserved. エッサイ Jesse 旧約聖書中の人物。ベツレヘムに住むユダ族の一員で,8人の息子があり,その末子がダビデだとされている(《サムエル記》上17:12~14)。ダビデの記事とともに語られることが多い。エッサイの図像はダビデ伝の写本挿絵などにも登場するが,特に中世美術ではサン・ドニ修道院長シュジェールが流布させたといわれる〈エッサイの根(樹)〉という図像が知られる。これは《イザヤ書》11章,《マタイによる福音書》冒頭などの記述により,キリストの系図がダビデを通じエッサイに由来することを示す主題で,横たわるエッサイの身体から木がはえ,その枝の間にキリストの先祖たちが,頂上にキリストが描かれる表現(シャルトル大聖堂ステンド・グラス,12世紀)などがある。 浅野 和生
(C) 1998-2000 Hitachi Systems & Services, Ltd. All rights reserved. ツミ(雀鷂) ツミ Japanese lesser sparrow hawk∥Accipiter gularis タカ目タカ科の鳥(イラスト)。アジア東部の中緯度地方で繁殖し,冬は中国南部,マレー諸島,フィリピンまで渡るが,南日本で越冬するものもある。日本では平地や低山帯の森林で繁殖し,もっぱら林の中を飛びながら小鳥を空中でつかまえる。同属のハイタカよりも小型で,全長は雄が約26cm,雌で約30cm。ハイタカのように雌は雄よりひとまわり大きい。雌雄とも上面は暗灰青色だが,下面は雄が淡赤褐色,雌が白と黒の横縞で,一見別種のように見える。かつては,雌をツミ,雄をエッサイ(悦哉)と呼んで区別していた。キッキッキッと鳴く。5~7月に低山帯の森林の高木の枝に小枝を重ねて皿形の巣をつくり,1腹4~5個の卵を産む。雌だけが抱卵し,雛がかえるまでの5週間は雄が獲物を運ぶ。⇒タカ 竹下 信雄
(C) 1998-2000 Hitachi Systems & Services, Ltd. All rights reserved. ヨアキム・デ・フローリス 1145ころ‐1202 Joachim de Floris イタリアの神学者,聖書釈義家,修道会創設者。イタリア名はジョアッキーノ・ダ・フィオレGioacchino da Fiore。コゼンツァに生まれ,シトー会修道士となったが,パレスティナへの旅行後フローリス(フィオレ)に聖ジョバンニ修道院を創設し,フローリス修道会を始めた。これはイタリアにのみ知られ,17世紀には消滅した。三位一体論と聖書解釈をもとに世界史を3期に分け,第1期は律法の下に俗人の生きる〈父の国〉の時代,第2期はキリストの下に聖職者が霊肉の間を生きる〈子の国〉の時代,第3期は自由な精神の下にヌルシアのベネディクトゥス以来の修道士が生きる〈聖霊の国〉の時代とした。この第3期(第三帝国)には〈山上の垂訓〉が厳格に守られなければならないとされる。ヨアキムはさらに,1260年には《ヨハネの黙示録》14章6節にいう〈永遠の福音〉がなり,教会制は終わって完全な霊的教会が誕生すると預言した。著作に《旧・新約聖書の一致》《ヨハネの黙示録注解》があるが,これらが禁書とならなかったのは,歴史解釈が比喩的であり,教皇を頂点とする教会制そのものの革命を意図してはいなかったからである。1215年の第4ラテラノ公会議は彼の説を異端としたが,フランシスコ会と厳修派シトー会には迎えられた。 泉 治典
(C) 1998-2000 Hitachi Systems & Services, Ltd. All rights reserved. 第三帝国 だいさんていこく Drittes Reich[ドイツ] この語は最初,12世紀の神学者ヨアキム・デ・フローリスによる《ヨハネの黙示録釈義》のうちに現れた。それによると世界史においては,三位一体に従って三つの秩序(または国)があり,それが三つの時代となって展開するとされる。すなわち第1は父の秩序で,律法のもとに束縛されたユダヤ教の時代。第2は子の秩序で,新約聖書とキリスト教(教皇と司祭)の時代。ここでは自由は部分的にしか実現していない。第3は聖霊の秩序で,全き知識と自由にみちた時代である。ヨアキムによれば,この第3期は1260年に始まり,そのときにはドイツ,イタリア両国にまたがって教会を支配しようとしたフリードリヒ2世がアンチキリストとなり,他方フランシスコ会修道士たちが指導して歴史を完成させ,再臨のキリストを迎えるに至る,という。この教えの信奉者たちは,フリードリヒが1250年に死んだことで期待を裏切られたが,アッシジのフランチェスコこそ第3期の最初の指導者であったとして,既成教会と対立した。近世以降では,ヨアキムの名を引用しないまでも,教会の世俗化こそが第三帝国到来のための要件であるとして,これを進めることに歴史の進歩あるいは終末を見いだす考えが,レッシング,ヘーゲル,ドストエフスキー,シュペングラーなどにみられる。さらにナチスの〈第三帝国〉理念の背景ともなっているといわれるが,これについては次項を参照されたい。 泉 治典
(C) 1998-2000 Hitachi Systems & Services, Ltd. All rights reserved. アンチキリスト Antichristos[ギリシア] 新約聖書と後期ユダヤ教の黙示文学に見られる思想・用語。福音書では,世の終りが近づくと〈偽キリストや偽預言者が起こって,大きなしるしと奇跡をなし,できれば,選民をも惑わそうとするであろう〉(《マタイによる福音書》24:24)と言われている。パウロはキリスト再臨の前に〈不法の者〉が現れるだろうと述べている(《テサロニケ人への第2の手紙》2:1~11)。〈アンチキリスト〉の名はヨハネの手紙に見られる(《ヨハネの第1の手紙》2:18,《ヨハネの第2の手紙》7節など)。それはイエスのキリストたることを否認する者で,終りの日に先立って今現れているという。黙示文学では,エルサレムを荒らしたアンティオコス4世が終末時の敵の原型とされ,さらにローマ皇帝ネロやドミティアヌスもそのようにみなされた。宗教改革者はしばしばローマ教皇をアンチキリストと呼んだ。ニーチェの書《アンチキリスト》はみずからをそれに模してキリスト教道徳を攻撃したものである。⇒悪魔 泉 治典
(C) 1998-2000 Hitachi Systems & Services, Ltd. All rights reserved. [元祖的イメージ――系統樹] 生命の樹のイメージは,民族または家族の神秘的根源の象徴となる。多くの民族において,木は元祖である父または母と同一視される。 木の元祖的イメージの代表的なものは,12世紀の神秘家ヨアキム・デ・フローリスによるもので,彼はキリスト教の歴史を木として見た。父であるノアからセムとヤペテの2本の幹が伸び,この2本が交差してつくる三つの輪によってキリスト教の過去,現在,未来が象徴される。《イザヤ書》(11章)にみられる〈エッサイの木〉は,ユダヤ人の歴史を象徴し,中世を通じて多くの表現を見たイメージである。エッサイの腰から生えた木には,マリアとキリストが実る。おそらくこのエッサイの木が,ヨアキムの木をはじめ,人間の生の各段階や家族の系統を示す木のシンボルの原型となったと思われる。ここから,一人の男の体から生い育つ木のイメージによって,元祖もしくは祖型とその分岐もしくは発展の系統を図示する伝統が生じた。これを百科全書的知の組織図としてみるとき,学芸や知のシンボルとしての系統樹が生ずる。レオナルド・ダ・ビンチがミラノのスフォルツァ城に描いた,根と枝におおわれた〈アッセの間(中心軸の間)〉は,彼がこれらの象徴を体得していたことを示している。
(C) 1998-2000 Hitachi Systems & Services, Ltd. All rights reserved. エッサイ Jesse 旧約聖書中の人物。ベツレヘムに住むユダ族の一員で,8人の息子があり,その末子がダビデだとされている(《サムエル記》上17:12~14)。ダビデの記事とともに語られることが多い。エッサイの図像はダビデ伝の写本挿絵などにも登場するが,特に中世美術ではサン・ドニ修道院長シュジェールが流布させたといわれる〈エッサイの根(樹)〉という図像が知られる。これは《イザヤ書》11章,《マタイによる福音書》冒頭などの記述により,キリストの系図がダビデを通じエッサイに由来することを示す主題で,横たわるエッサイの身体から木がはえ,その枝の間にキリストの先祖たちが,頂上にキリストが描かれる表現(シャルトル大聖堂ステンド・グラス,12世紀)などがある。 浅野 和生
(C) 1998-2000 Hitachi Systems & Services, Ltd. All rights reserved. 詩 編一詩編集 D. E. Psalm-Psalter. F. Psaume-Psautier. G. Psalmos-Palterion. 〔要旨〕 詩編一へライ語ではテヒリーム(賛歌 Tehillim)。詩編 のほとんどは「ダピデの歌」と表題がつけられている。 ギリシア語訳 (セプトゥアギンタ)ではヘブライ語 ミズモール(歌Mizmor) をプサルモス(Psalmos) と訳す。プサルモスは、弦楽器を弾く、それに合わせて歌う意味で、西欧のPsalm、Psaume の名称はそれに由来する。 旧約聖書中の一書で諸書に属する詩編は、神へ語りかける歌であり、さまざまな内容をもつ。中世にあっては、それらは単なる賛歌で はなく、キリストの祖たるダビデを通して、救世主の到来を予知させるものと解された。また典礼式では読まれるより歌われるものとして、福音書の序曲のごとく用いられて重要な役割を果した。それゆえ旧約聖書の中で最もよく知られ、読まれ、また注釈された書となったのである。ふつうダビデを作者とするがその確証はなく、前10~2世 紀の間に逐次作成されたもので、多くはバビロン捕囚期後に書かれたとされる。原典はマソラとよばれるヘブライ語旧約聖書に所収のものであり、その始源は前6世紀にさかのぼる。最も古いギリシア語訳旧約聖書は、前300年ころアレ クサンドリアで起稿された七十人訳であって、まずモーセ五書が完成し、前130年以前にほぼ完結した。その後諸版が続くが、3世紀アレ クサンドリアの神学者オリゲネスは、伝 承の過程で混乱した七十人訳原文の再確定を意図してマソラや他版と校合し、それらを並べた大冊の六書対訳(231~245年)を編纂した。これは同地で所蔵されていたが、7世紀のイスラムの征服で散逸した。ラテン語訳の古いものはいずれも七十人訳を底本として逐語訳したもので、これらはイクラ(現存最古の写本は4世紀末のもの、ベル リン国立図書館Cod.Theol.Lat.fol.485) と呼ばれる。聖ヒエロニムスはイクラの改訳の形でウルガ タ(『普及版』の意、全体は390~405年完成)を作成するが、383年頃にはその過程でイクラの詩編を修正し、これはローマ詩編集と呼ばれ長くローマ教会の典礼に用いられた。その後東方に移住したヒエロニムスは六書対訳を閲覧し、386年にもう一度改訂を施す。こちらの訳は広く西欧に流布し、ガリア(フランス)詩編集と呼ばれて、これもウルガタの諸版に載せられた。結局これらラテン語の詩編は16世紀まで統一されない。 七十人訳の底本 は後に正典とされたものとは異なるヘブライ語詩編と考えられ、多少の異同がある。マ ソラの詩編は150編であるが,七十人訳には外典と された1編が末尾にあって151編となり、 ウルガタはこの1編を削除 して150編とした。さらにマソラと七十人訳は章立てが異なり、前者に準拠するユダヤ教やプロテスタントの詩編と、後者の系譜のウルガタや正教のそれは、第9編以降が相違して参照や引用に不都合 を来している。 一般に詩編のみをまとめた本を詩編集と呼ぶが、他に特別な意図をもって詩編が使われることもあり、例えば、七つの贖罪の懺悔の詩編 (贖罪の詩編)やエルサレムへの巡礼者たちがその神殿の階段を昇るときに歌う詩編を組込んだ祈祷書や、あるいは詩編に雅歌や使徒信条をあわせて一書にしたものなどがある。西欧でゴシック期に広まった時祷書や聖務日課書に詩編を載せることもある。
吉川弘文館「キリスト教美術図典」 「他者を愛する純愛信仰」 てつがく【哲学】 philosophy 原語であるギリシア語の philosophiaは知を愛することを意味する。哲学という訳語は西周による(1874)。愛知としての哲学はもろもろの学問のなかの一つではなく,人間の知識欲に根ざす根源的活動の一つだが,中世では神学,現代では科学との関係が問題となっている。古代から近世まで哲学は⇨形而上学のほかに自然学(→自然哲学)を含んでいたが,19世紀からの自然科学の急速な発展によって後者は哲学から独立し,哲学をおもに認識論,倫理学,美学の三者で構成する立場が生れた。現代では厳密さを求めて哲学自体を科学化しようとする傾向さえ一部にある。かつて非神学的を意味した哲学的という形容詞は現代ではしばしば非自然科学的,思弁的の意味で用いられている。
『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc. 〈哲学〉という言葉は,明治初年の段階で,西周(にしあまね)によって,英語の〈フィロソフィー philosophy〉の訳語として作られた。〈フィロソフィー〉は,ギリシア語の〈フィロソフィアphilosophia〉に由来し,〈知恵(ソフィア sophia)を愛する(フィレイン philein)〉という意味の言葉である。そこで西周は,周濂渓(れんけい)の〈士希賢(士は賢をこいねがう)〉(《通書》志学)にならい,賢哲の明智を愛し希求するとの意で,はじめ〈希哲学〉(哲智すなわち明らかな智を希求する学)と訳し,のちに〈哲学〉と定めた(《百一新論》1874)。西周は,草創期の明治政府の知的指導者の有力な一人であったから,この〈哲学〉という訳語はやがて文部省の採用するところとなり,以来日本で一般に用いられることになった。
(C) 1998-2000 Hitachi Systems & Services, Ltd. All rights reserved. 「他者から愛される欲望崇拝」 ドン‐ファン〖Don Juan〗 〓スペインの伝説上の人物。美男の好色漢、愛の遍歴者として多くの文学作品に登場する。モリーナの戯曲「セビリアの色事師と石の客」が原型。モリエールの喜劇、バイロンの長詩、モーツァルトのオペラなどで有名。ドン=ジュアン。ドン=ジョバンニ。 〓《〓から転じて》漁色家。女たらし。
『大辞泉 第二版』 小学館 Don Juan [dɑn hwáːn,dʒúːən|dᴐn dʒúːən;1,2で Sp. don xwán]〓 1 ドン・ファン:14世紀ごろのスペインの伝説的遊蕩(ゆうとう)貴族. 2 遊蕩児,道楽者. 3 女好きの男,女たらし,色男,色事師. ◊Don Juan (1)[文学・著作物]『ドン・ジュアン』Byron 作の長詩(1819-24). (2)[演劇]『ドン・ジュアンもしくは石像の宴』Molière 作の喜劇(1665).
『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館 そういった意味で宮崎吾朗氏とは「バフォメットの偶像崇拝」(バフォメットの呪術崇拝)でありました。 宮崎吾朗氏とは「他者から愛される欲望崇拝」であり「バフォメットの偶像崇拝」(バフォメットの呪術崇拝)であったのです。
村上春樹の邪悪さ 村上春樹の作品はポルノグラフィーと言われながら純愛小説と言われます。 村上春樹作品の伝説的純愛小説「ノルウェイの森」が有名です。
por・nog・ra・phy [pᴐːrnáɡrəfi|―nɔɡ―]〓 ―n. 1 ポルノ;猥褻(わいせつ)文書,好色文学,エロ文学;春画;エロ写真:〓 2 ポルノ制作. [1850.<ギリシャ語 pornográph(os)売春婦について書くこと+―Y³]
『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館 por・nog・ra・phy /pᴐɚná(ː)grəfi | pᴐːnɔg―, pə―/ ―n. 1 ポルノ(グラフィー) ⦅性的興奮を引き起こす春画・好色文学・ポルノ写真など⦆ (cf. erotica). 2 ポルノ製作. 〖⦅1857⦆ ▭ F pornographie ՟ Gk pornográphos writing of prostitutes ՟ pórnē harlot+―graphos (⇨―graph): ⇨―y¹〗
『新英和大辞典 第6版』 研究社 そういったポルノグラフィーでありながら純愛小説である作品とはエロス(性愛)を描いた作品と言えます。 そういった意味でエロス(性愛)とは聖愛信仰と言えるのです。
ただ村上春樹作品とは「他者を愛する純愛信仰」ではなく「他者から愛される欲望崇拝」であると見做されます。
ここで村上春樹作品の伝説的純愛小説「ノルウェイの森」を例に挙げたいと思います。
僕は肯いた。レイコさんはむずかしいパッセージを何度も何度もくりかえして練習していた。 「私、キズキ君と寝てもいいって思ってたのよ」と直子は言って髪どめをはずし、髪を下ろした。そして手の中で蝶のかたちをしたその髪どめをもてあそんでいた。「もちろん彼は私と寝たがったわ。だから私たち何度も何度もためしてみたのよ。でも駄目だったの。できなかったわ。どうしてできないのか私には全然わかんなかったし、今でもわかんないわ。だって私はキズキ君のことを愛していたし、べつに処女性とかそういうのにこだわっていたわけじゃないんだもの。彼がやりたいことなら私、何だって喜んでやってあげようと思ってたのよ。でも、できなかったの」 直子はまた髪を上にあげて、髪どめで止めた。 「全然濡れなかったのよ」と直子は小さな声で言った。「開かなかったの、まるで。だからすごく痛くって。乾いてて、痛いの。いろんな風にためしてみたのよ、私たち。でも何やってもだめだったわ。何かで湿らせてみてもやはり痛いの。だから私ずっとキズキ君のを指とか唇とかでやってあげてたの・・・・・・わかるでしょ?」 僕は黙って肯いた。 直子は窓の外の月を眺めた。月は前にも増して明るく大きくなっているように見えた。 「私だってできることならこういうこと話したくないのよ、ワタナべ君。できることならこういうことは私の胸の中にそっとしまっておきたかったのよ。でも仕方ないのよ。話さないわけにはいかないのよ。自分でも解決がつかないんだもの。だってあなたと寝たとき私すごく濡れてたでしょ?そうでしょ?」 「うん」と僕は言った。 「私、あの二十歳の誕生日のタ方、あなたに会った最初からずっと濡れてたの。そうしてずっとあなたに抱かれたいと思ってたの。抱かれて、裸にされて、体を触られて、入れてほしいと思ってたの。そんなこと思ったのってはじめてよ。どうして? どうしてそんな ことが起るの? だって私、キズキ君のこと本当に愛してたのよ」 「そして僕のことは愛していたわけでもないのに、ということ?」 「ごめんなさい」と直子は言った。「あなたを傷つけたくはないんだけど、でもこれだけはわかって。私とキズキ君は本当にとくべつな関係だったのよ。私たち三つの頃から一緒に遊んでたのよ。私たちいつも一緒にいていろんな話をして、お互いを理解しあって、そんな風に育ったの。はじめてキスしたのは小学校六年のとき、素敵だったわ。私がはじめて生理になったとき彼のところに行ってわんわん泣いたのよ。私たちとにかくそういう関係だったの。だからあの人が死んじゃったあとでは、いったいどういう風に人と接すれば
村上春樹作品の伝説的純愛小説「ノルウェイの森」 ここに示されたポルノグラフィーはエロス(性愛)ではなく、よって聖愛信仰ではないと見做されます。 何故ならば主人公・ワタナベとヒロイン・直子の関係に「他者を愛する純愛信仰」は全く存在せず、それどころか完全な「他者から愛される欲望崇拝」となっているからです。
ただ村上春樹作品の伝説的純愛小説の作品名は The Beatles「Norwegian Wood (This Bird Has Flown)」から来ています。 それはこの作品の最初のシーンで主人公・ワタナベが聴いて涙を流し始める機内楽曲が The Beatles「Norwegian Wood (This Bird Has Flown)」であるからです。 そして作中で主人公の第三のヒロイン・レイコは理由はわかりませんが The Beatles「Norwegian Wood (This Bird Has Flown)」を選曲しギターで弾き語りしています。 だからそれを主人公が回想し冒頭で涙を流すのです。 ※他に第二のヒロイン・ミドリがいます。 ※ The Beatles「Norwegian Wood (This Bird Has Flown)」はここ以降からビートルズ「ノルウェイの森」と記す。
I once had a girl Or shoud I say she once had me(バフォメットの呪術崇拝) ビートルズ「ノルウェイの森」の英語歌詞を検討してみると「バフォメットの呪術崇拝」を示す行くだり が冒頭にあります。
I once had a girl Or shoud I say she once had me
主語(自己)と目的語(他者)が倒錯(バフォメット)した行くだり です。 これはフロイトのユーモアに指摘があった「倒錯」であり「バフォメット」と同じです。 ただしビートルズ「ノルウェイの森」のオリジナル楽曲は This Bird Has Flown となっている。 ここで自分と鳥は明らかに違うことを示しています。 この楽曲は「自分は鳥であり、鳥は自分である。」という倒錯(バフォメット)にはなりません。
ビートルズ「ノルウェイの森」のオリジナル楽曲の This Bird Has Flown は「自分は自分であり、鳥は鳥である。」を示しているのです。 この楽曲には倒錯(バフォメット)は一切存在していません。
この英語歌詞を最後まで読んでみると倒錯(バフォメット)ではなく、「主語(自己)は主語(自己)であり、目的語(他者)は目的語(他者)である。」とされています。 この英語歌詞はカトリックミサ(白魔術)でありフロイトのユーモアとなっているのです。
bird /bɚːd | bəːd/ ―n. 1 鳥〓 2a 狩猟鳥 (game bird); (特に)イワシャコ (partridge). b (トラップ射撃の標的にする)クレー (clay pigeon). 3 [修飾語を伴って] a [通例戯言的にまたはいくぶんもったいぶって用いて] ⦅口語⦆ 人, やつ (fellow)〓 b [しばしば反語的に] ⦅米俗⦆ とても利口な人〓 c ⦅米俗⦆ 変人, 奇人. d ⦅米俗⦆ 熱狂者, (…の)ファン, …狂 (enthusiast)〓 4 ⦅英俗⦆ 娘, (特に)魅力的な女(の子) (cf. dolly bird); ガールフレンド〓 5 ⦅俗⦆ a 飛行機; ヘリ(コプター); 誘導弾, ロケット, ミサイル. b 人工衛星 (satellite); 宇宙船 (spacecraft). 6 (バドミントンの)羽根 (shuttlecock). 7 ⦅英俗⦆ 禁固刑の判決; 刑期; 刑務所〓 8 [the ~] a ⦅口語⦆ (観客・聴衆の立てる)あざけりの声, やじ〓 b ⦅口語⦆ 解雇, くび〓 c ⦅米卑⦆ 中指を立てほかの 4 本の指を曲げた手を外側に向けるしぐさ⦅Fuck you. の意の卑猥な軽蔑を表す⦆.
『新英和大辞典 第6版』 研究社 Fair is foul , and foul is fair :
きれいは穢ない、穢ないはきれい。
I once had a girl Or shoud I say she once had me
ただ村上春樹はビートルズ「ノルウェイの森」の英語歌詞の冒頭部分を使用して倒錯(バフォメット)を指し示していたのです。 これによって村上春樹は「黒ミサの儀式」を執行した。
村上春樹の英語レベルなんてその程度のものです。 要は村上春樹にはカトリックロゴス感覚(高度な精神的姿勢・ユーモア)の英語感覚が皆無なのです。
ここで示された通り村上春樹作品の伝説的純愛小説「ノルウェイの森」とは「黒ミサの儀式」のアジテートを執行していたのです。 それは「バフォメットの呪術崇拝から形成するバフォメットの偶像崇拝」を示していました。
NORWEGIAN WOOD (This Bird Has Flown) John Lennon and Paul McCartney I once had a girl Or shoud I say she once had me She showed me her room Isn’t it good, Norwegian wood she asked me to stay And she toId me to sit anywhere So I looked around And I noticed there wasn’t a chair I sat on a rug biding my time Drinking her wine We talked until two And then she said,"It's time for bed" She told me she worked in the morning And started to laugh I told her I didn’t And crawled to sleep in the bath And when I awoke I was alone The bird has flown So I lit a fire Isn’t it good, Norwegian wood
イエス・キリストのパン 先ほどしましましたが「他者を愛する純愛信仰」とはイエス・キリストのパンを示しています。
一方で「他者から愛される欲望崇拝」は「ドクサ」を「絶対知」(信念)とする「思い込み」(盲目状態)をサンクチュアリとします。
ここで見られるようにイエス・キリストの教えに対して弟子たちは離反していきます。
「他者を愛する純愛信仰」とは「知識(叡知)の受肉システム」 と言われる高度なあり方であるため「ドクサ」を「絶対知」(信念)とする「思い込み」(盲目状態)をサンクチュアリとした「他者から愛される欲望崇拝」の劣等性が如実に明らかとなります。
ビッチなモンキーとしての最優秀が三位一体のペルソナとしての最劣等とされます。 三位一体のペルソナとしての最優秀がビッチなモンキーとしての最劣等とされます。 ビッチなモンキーとしての最劣等が三位一体のペルソナとしての最優秀とされます。 三位一体のペルソナとしての最劣等がビッチなモンキーとしての最優秀とされます。
これがキリスト教の信仰だったのです。 キリスト教とは三位一体のペルソナ信仰なのです。
「大谷翔平の二刀流」は倒錯(バフォメット) 大谷翔平の様に他者にマウンティングするビッチなモンキーはビッチなモンキーとして最優秀であるでしょう。
「他者にマウンティングする」とは「ドクサ」を「絶対知」(信念)とする「思い込み」(盲目状態)から「他者から愛される欲望崇拝」となっていることを指します。 「他者から愛される欲望崇拝」とはカトリックベースボールを倒錯対象とした「優位性の形成」(パワー・ハラスメント)となるのです。
しかし大谷翔平は「他者にマウンティングする」という破廉恥行為を「馬鹿の一つ覚え」のように熟していきます。 そういった大谷翔平とは三位一体のペルソナと無縁であり最劣等な存在なのです。
大谷翔平は倒錯(バフォメット)を崇拝しているのです。
例えば「大谷翔平の二刀流」は典型的な「優位性の形成」(パワー・ハラスメント)です ここで言う「大谷翔平の二刀流」とは「バッター」と「ピッチャー」の掛け持ちを言います。 本来であれば「バッター」と「ピッチャー」はお互いの対戦相手となります。
カトリックベースボールに於いて、「バッター」は「バッター」であり、「ピッチャー」は「ピッチャー」となります。 ここでは「バッター」と「ピッチャー」は真剣勝負(誠実と真実)を信仰しています。
バフォメットベースボール(末法思想)に於いて、「バッター」は「ピッチャー」とされ、「ピッチャー」は「バッター」とされます。 ここでは「バッター」と「ピッチャー」は真剣勝負(誠実と真実)を信仰していません。 このような歪な関係に於いて大谷翔平は絶えず「優位性の形成」(パワー・ハラスメント)を確保しているのです。
真剣勝負(誠実と真実)への信仰とは「knight」が待つ「騎士道」の倫理性と同じであるだろう。 そういう意味で真剣勝負(誠実と真実)への信仰は「善悪の木」のあり方であったが「騎士道」と同様にバフォメットベースボール(末法思想)へ成り果てていく。 その代表例が「大谷翔平の二刀流」であるだろう。 「大谷翔平の二刀流」とはメジャーリーガーのバフォメットベースボール(末法思想)のあり方であるだろう。
しかし大谷翔平はアメリカ合衆国を馬鹿みたいに舐めきっていると思う。 その大傲慢に対し「神の雷」が屹度下るだろう。 何故ならばアメリカ合衆国は日本国と違い明確にキリスト教国家であって「神と聖書」を信仰している。 バフォメットベースボール(末法思想)は「神と聖書」の「末法思想」として形成される「循環論証」であり、それに対し「黙示録」が絶対に為されるという「信仰」がアメリカ合衆国に於いて「最大の美徳」とされているからである。
きし【騎士】 knight; Ritter; chevalier ヨーロッパ中世の武装騎乗戦士。広義には,国王と全封臣団を含み,狭義では下級貴族をさす。カロリング朝時代の⇨フランク王国における土地知行制の発達とともに農民層から法的に分離し,封建社会における支配層を形成した。その特有な精神類型と行動様式を騎士道と呼んだ。騎士道ではキリスト教倫理の影響が強く,イスラム教徒との戦いは,騎士最高の義務の一つとみなされ,11世紀末から数次にわたる⇨十字軍はヨーロッパの全キリスト教国の騎士を集めて結成された。その生活は,特権身分としての誇りに満ち,華麗な闘技(トーナメント)と高貴な女性への奉仕が基調をなしたが,のちには初期の倫理から変って形式的に体系化された。しかし,中世末期には,軍事的意味とともに政治的支配権を失って衰微した。現在,イギリスなどで称号としてその名をとどめているのは,国家社会に対する貢献を認められた人々が任命されて加入する勲位団体である。なお古代ローマ共和制末期の騎士,騎士身分(→エクイテス)は中世騎士層とは異質の社会層である。
『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc. このような大谷翔平のあり方へ暗に抗議を示したメジャーリーガーがいましたが露骨に処分されてしまいました。 しかしこのような露骨なあり方は「殉教者」と「真の英雄」の「黙示録」を可能とします。
だから大谷翔平が誰からも愛されるベースボールプレーヤーであるという認識は「完全な妄想」と断定されます。
何故ならば真のメジャーリーガーとは「カトリックプレーヤー」だからです。 これは「Catholic Baseball Player」ではなく「Catholic Baseball Prayer」を示しています。 「Catholic Baseball Prayer」は真剣勝負(誠実と真実)を信仰しているのです。 それは「knight」が待つ「騎士道」の倫理性と同じです。
ドン・キホーテ Don Quixote スペインの作家⇨セルバンテスの小説。前編 1605年,後編 15年刊。正しくは『奇想あふるる郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』 El Ingenioso Hidalgo Don Quixote de la Mancha。騎士道小説を耽読して妄想にとらわれた郷士アロンソ・キハーダが,この世の不正を正そうと,みずから遍歴の騎士になってドン・キホーテを名のり,老馬ロシナンテにまたがり,現実主義的な⇨サンチョ・パンサを従者に仕立てて冒険と失敗の旅を続ける長編小説。初めは『⇨アマディス・デ・ガウラ』などの騎士道物語のパロディーとして意図されたものだが,理想と現実,詩的真実と歴史的真実を代表する2つの不朽の人物像をつくり上げ,世界文学史上の傑作となった。
『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc. 「風の谷のナウシカ」の風(自然林)と風車(人工林) 「風の谷のナウシカ」の風(自然林)は「叡知界」を示している。 「風の谷のナウシカ」の風車(人工林)は「感性界」を示している。
ナウシカUP わずかに外へカオむけ 目がキラキラしている コックピットのみブレナウシカ 神様 風の神さま どうか みんな 守って・・・
STUDIO GHINLI絵コンテ全集第Ⅰ期「風の谷のナウシカ」 森のきれ目 出てくる一行 子供達やって来て声かける 少女A ユパさまー ユパ やあ みんな 元気だね ゆたかに実るブドウ畑段々畑の間の道をいくユパ一行。 畑にいる人々挨拶したり 美しい谷間が広けている。 まわる風車、遠い海、走ってくる人 村につづく道に人々待っている。 とまった風車の上にナウシカとミト。 集まって来る人々
STUDIO GHINLI絵コンテ全集第Ⅰ期「風の谷のナウシカ」 人々の中にとまるユパ かけよる人のかわされる挨拶 人々(アドリブ) ようおこして下さいました。 ユパさま お待ちしておりましたetc。 風車の屋根から顔を出しているミト 夕空逆光で美しく ミト、ナウシカにむきセリフ(ソワソワしておる) ナウシカ ロープをたぐっている ミト 姫さまおつきになりましたぞ ナウシカ もうちょっと ミト 下を見てセリフ ミト ユパさまー
STUDIO GHINLI絵コンテ全集第Ⅰ期「風の谷のナウシカ」 人々の中のユパ ふりあおぎ ユパ ミトおじ せいが出るな ミト ユパへ ミト 今宵はまた異国の話をきかして下され ロープをくくりおえたナウシカ ナウシカ いいわ まわして SE キ~ッ ひっこむ ナウシカ 身軽にスピンナーから屋根にとんで斜めのスレートの上をたくみにバランスをとりつつ手前に来て風車の羽根をみる ミト ほぼ同じに顔出す ゆっ~くり動き出す風車 夕陽をあびてまわる風車。 カゲが半露出で塔におちる うしろでまう凧メーヴェ
STUDIO GHINLI絵コンテ全集第Ⅰ期「風の谷のナウシカ」 風車をみる二人 ミト いいようですな ナウシカ うん 2秒に一回のわりでカゲが通過する(半露出) ミト ひっこみ ナウシカ 天窓に入って(素早く) 屋根しまるまで オームの目玉をみている人々 感嘆し、ニコヤカに ガラス色をつかう ゴル ほんとによい品じゃ 村人A さっそく 明日にでも 人手をくり出してとりに行かねばな ナウシカ 赤坊をだき若い母親をうながしつつ出て来るつづく母親 ナウシカout気味 ナウシカ さあ トエト 母親 エエ
STUDIO GHINLI絵コンテ全集第Ⅰ期「風の谷のナウシカ」 ナウシカと母親すすみ出る ナウシカはiN不要 ふりむくユパ ナウシカ ユパさま 今年うまれたトエトの子です ユパ オオ どれどれ 身体をこごめてうけとり ACで鞍の上におさまり 赤坊を見こみ ユパ ウム よい子だ おさない頃のナウシカを思い出すよ ナウシカと若い母親トエト トエト どうか この子の名づけ親になってくださいませ女A いつもいい風がその子に吹きますように・・・ それぞれのり出しつけて ユパ 母親の方へ顔をむけうなづきつつ ユパ ひきうけようよい名を贈らせてもらうよ
STUDIO GHINLI絵コンテ全集第Ⅰ期「風の谷のナウシカ」 高橋源一郎先生などは日本文学界のフラッグシップです。 しかし彼等は「信仰」を嘲笑し「現実主義」を主張していきます。 そのために高橋源一郎先生はセルバンテス「ドン・キホーテ」を引き合いに出し「カトリックプレーヤー」を嘲笑するのです。
しかしセルバンテス「ドン・キホーテ」の白眉は風車(オランダ)へ突撃する勇敢なドン・キホーテ(カトリックプレイヤー)にあります。 当時、オランダ(プロテスタント)は近代世界システム(イマヌエル・ウォーラーステイン)に於いてヘゲモニー国家となっていました。 オランダ(プロテスタント)を象徴する風車は強大な影響力を持っていたのです。 これはオランダ(プロテスタント)によってカトリック信徒が信仰弾圧されていたことを示しています。 オランダ人がニシン(haring)を食べることの意味とはアンチキリスト(俗ゲルマン)の宣言なのです。
これはラテン語に対する俗ラテン語のあり方であって「キリスト教化以前」を指し示している。
よってニシン(haring)はハーケンクロイツの意味と思われます。 バフォメットベースボール(末法思想)はハーケンクロイツを示しているのです。 このようなハーケンクロイツのエニグマが日本国の独自性とされているのです。
逆卍(まんじ)形の「swastika」は倒錯(バフォメット)を示している ハーケンクロイツ〖(ドイツ)Hakenkreuz〗 鉤(かぎ)十字。卍(まんじ)と同起源であるが、右鉤で、右まんじとも呼ばれる。ドイツ、ナチスの党章に用いられ、1935~45年には、ドイツの国旗としても使われた。
『大辞泉 第二版』 小学館 Ha・ken・kreuz [háːkənkrɔits;Ger. háːkənkrᴐYts] ―n. (pl. ―kreu・ze[―krɔitsə;Ger.―krᴐYtsə]) ⦅ドイツ語⦆ ハーケンクロイツ,鉤(かぎ)十字,逆卍(まんじ)形(swastika):ナチス・ドイツ党の紋章.⇨SWASTIKA(図),CROSS [<ドイツ語:逐語訳すれば hook―cross]
『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館 ハーケンクロイツ 〔ナチスドイツの紋章〕 a Hakenkreuz; a swastika.
『新和英大辞典 電子増補版』 研究社 e・nig・ma [əníɡmə]〓 ―n. (pl. e・nig・mas,e・nig・ma・ta[~tə]) 1 なぞ,不可解な出来事[状況].⇨PUZZLE〓:〓 2 なぞの人,正体のつかめぬもの:〓 3 (なぞめいた)言葉,質問,絵;なぞなぞ. 4 ⦅E―⦆ エニグマ:1920年代初期にドイツで開発された暗号機械;当初は民間用に製造されたが,第二次世界大戦中ドイツ軍や枢軸国軍に幅広く使用された. ◊[音楽]Enigma『なぞ』Elgar の変奏曲作品36番(1898). [1539.<ラテン語 aenigma なぞ<ギリシャ語 aínigma なぞ(aînos「寓話(ぐうわ)」の派生語 ainíssesthai「なぞめいた言葉で話す」より)]
『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館 en・igma /ɪˈnɪɡmə/ noun a person, thing or situation that is mysterious and difficult to understand 〓 MYSTERY, PUZZLE
『Oxford Advanced Learner’s Dictionary, Eighth Edition』 Oxford University Press her・ring [hériŋ]〓 ―n. (pl. ⦅特に集合的⦆ her・ring,⦅特に2種類以上を指すとき⦆ her・rings) 1 ニシン:北太平洋産のニシン Clupea harengs pallasii および北大西洋産のニシン C.harengus harengus:〓 2 ニシン:ニシン科 Clupeidae の魚の総称;shad,sardine などを含む. 3 ニシン:(ニシン科以外の)ニシンに似た魚の総称. [900年以前. 中期英語 hering,古期英語 hǣring; ドイツ語 Häring と同語源] her・ring・lìke ―adj.
『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館 her・ring /hέrɪŋ/ ―n. (pl. ~, ~s) 1 〖魚類〗 a タイセイヨウニシン (Cluped harengus) ⦅北大西洋の小形の食用魚⦆. b ニシン⦅ニシン科の魚の総称⦆〓 c (ニシン科以外の)ニシンに似た魚. 2 ニシンの身〓 〖OE hæring < Gmc *χēriŋgaz (G Häring) ⦅原義⦆ ? gray fish ՟?: cf. OE hār gray〗
『新英和大辞典 第6版』 研究社 her・ring /ˈherɪŋ/ noun (pl. her・ring or her・rings) [U, C] a N Atlantic fish that swims in very large groups and is used for food: 〓 ⇨ see also RED HERRING
『Oxford Advanced Learner’s Dictionary, Eighth Edition』 Oxford University Press 武豊がクリスマス開催の有馬記念の直前に放送されたフジテレビの番組「とんねるずみなさんのおかげでした」(2005年12月22日放送)のコーナー「食わず嫌い王」で紹介したお土産に「くさや」を持参したことがあった。 出演者はみんなビックリしていた。
—n. *《俗》 処女, くさや ⦅性器のにおいから⦆.
『リーダーズ・プラス』 研究社 マリア Maria; Mary 生没年未詳 イエス・キリストの母。普通「聖母マリア」と呼ばれる。夫ヨセフとともにダビデの家系とされる。マリアはヨセフと婚約していたが,結婚前に聖霊によって懐胎した。ヨセフは離縁を決意したが,主の使いが夢に現れ,懐胎は聖霊によるものであること,その子は救い主となるべきことを告げたので,眠りからさめるとマリアを妻とし,生れた子をイエスと名づけた(マタイ福音書1・18~25)。マリアに対してはヨセフに先立ってすでに主の使い天使ガブリエルによる処女懐胎の告知がなされ,イエスと名づけられるべき子が「いと高き者の子」と称せられ,とこしえにヤコブ家を支配するといわれている(ルカ福音書1・26~33)。聖書の記事からマリアの生涯について詳しく知ることはできないが,神学上は古来マリア論の名称のもとにキリスト論と密接な関係に立ちつつ救済論の主要な契機をなし,マリアの無原罪の御やどり,終生処女性,マリア崇敬,⇨テオトコス(神の母)という称号,⇨被昇天などについて論議がなされている。
『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc. その意味はクリスマス開催の有馬記念に於いて聖母マリアを倒錯(バフォメット)するハーケンクロイツだったのだろう。 ※武豊は《『聖母マリア』は『腐れヴァギナまんこ 』だ!》と冒涜した訳です。 ※武豊はアダルトビデオ俳優並みの頭脳を持ったタレントだった訳です。 ※武豊はオカマバーの常連らしいからもしかしたら女を嫌っているのでしょうか? ※では佐野量子と何だったのか? ※伊集院静と篠ひろ子夫妻、そして夏目雅子って何だったのだろう? ※私は武豊の性癖まで存じ上げておりません。
「神の磔刑図」と「悪の磔刑図」(最高悪サタン) 鯖鯖鰤っ子サバサバぶりっ子 、鯖鯖鰤っ子サバサバぶりっ子
青い魚を釣ったよ!(イクトゥス殺してあげたよ!)
キリスト教磔刑図ではなく無辜(夏目雅子)を公開処刑する結婚式 妻の佐野量子 との結婚式 は1995年 (平成7年)6月5日 に京都のカトリック聖ヴィアトール北白川教会 で[95] 、伊集院静 ・篠ひろ子 夫妻を立会人に行われた[96] 。結婚披露宴 は1995年11月20日 に京都府の都ホテル で行われたが、これは「1000勝祝賀会」も兼ねたものだった[97] 。この結婚式のために、SING LIKE TALKING は「Spirit Of Love」を作曲した。佐野との間に子供はいない。
「サバサバぶりっ子」の婚礼は「黒ミサの儀式」だった。 しかし絶対的一番人気ディープインパクトに騎乗した武豊はハーツクライに騎乗したクリストフ・ルメールに完敗する。 このクリスマス開催のグランプリホースレースに於いてハーツクライに騎乗したクリストフ・ルメールはディープインパクトに騎乗した武豊に対し「神の一撃」を放ったことは明らかと言える。
1着 ハーツクライ(橋口師) 「いや〜、ようやく私にも順番が回ってきましたね。普段から堂々とした馬なんですが、今日はパドックで一段とどっしりとした様子で落ち着いているのを見て安心していました。小回りコースはやはり心配でしたよ。歩様が開き気味のために、アクセルを踏んでからトップスピードになるまで時間が掛かりますからね。それにしてもスタンド前で3番手というのはビックリしました。それでも向正面でも折り合って競馬をしていましたから、まぁ大丈夫かなとは思っていました。でもディープインパクトが外から来たときには、また2着かと思いましたよ。これで来年は王道を歩んで行くと思います」 (ルメール騎手) 「天皇賞、JCの反省を踏まえて乗り方を変えようと思っていました。やはり中山は府中とコース形態が違いますから前で競馬をする形になったんです。ハーツクライ自体、真面目な馬ですからどのポジションでも十分力を発揮できると感じていました。日本で初めてのGIを最大のレース、有馬記念で飾れて嬉しいですね」
2着 ディープインパクト(武豊騎手) 「どうして負けたのか訳がわかりません。道中もスムースにレースを進められたし、行きっぷりもよかったんです。直線に向くまでいつもと変わらない走りでしたが、追い出してからまったく反応しませんでした。いつもの伸び脚がまったく出ませんでしたね。今日は飛びませんでした。普通に走っただけでした。負けてはいけない馬だけに残念ですし、自分の未熟さを感じています。まあ、全部の力を出し切って負けたのならばショックも大きいのですが、力負けではないと思いますので来年借りを返したいですね。それだけ力のある馬です」
オランダ(プロテスタント)を象徴する風車に対して勇敢に戦いを挑んだのが騎士道のドン・キホーテ(カトリックプレイヤー)なのです。
セルバンテス「ドン・キホーテ」とはそういった意味を持つカトリック小説なのです。 それが世界初の小説と言われているのです。
ただ「現実主義」を掲げ「信仰」を嘲笑する高橋源一郎先生などは実際に「現実」を見出すことすらできるのだろうか?
何故ならば「現実」を見出していく「現実主義」には「信仰」が必要とされているからです。 それは真剣勝負(誠実と真実)を信仰し、「knight」が待つ「騎士道」の倫理性を確保することと同じです。 それがなければ「現実」は見出されません。 何故ならば「現実主義」が倒錯(バフォメット)によって可能となる筈がないからです。 それは「黒ミサの儀式」だからです。
イエス・キリストの言う「現実主義の信仰」とは、ルカによる福音書「時の徴」と同じです。
時の徴(ルカ 12 54-56) また、群衆にも言った、「あなたたちは、雲が西に出るのを見ると、すぐさま、『にわか雨が来るぞ』と言い、まさにそのようになる。そして南風が吹くと、あなたたちは、『熱風になるぞ』と言い、まさに〔そう〕なる。偽善者たちよ、あなたたちは、地と空との模様は吟味するすべを知っていて、どうして〔今の〕この時は吟味するすべを知らないのか。
岩波書店「ルカによる福音書」 play・er [pléiər]〓 ―n. 1 遊ぶ人[動物],ゲームをする人. 2 競技者,(…の)選手⦅at ...⦆:〓 3 ⦅英⦆ (クリケット・ゴルフなどの)職業選手,プロ:〓 4 演奏者,弾[吹]奏者;⦅古⦆ 演技者,俳優. 5 ⦅話⦆ (会議・商取引などの重要な)参加者. 6 録音[録画]再生機;自動演奏装置,自動ピアノ(player piano):〓 7 賭博(とばく)師,博打(ばくち)打ち(gambler). 8 ⦅俗⦆ ポン引き. 9 道楽者,遊び人,怠け者(idler). 10 ⦅米俗⦆ フリーセックス愛好家;浮気者. 11 ⦅米俗⦆ (1)麻薬の売人(ばいにん). (2)(気晴らしに)麻薬をやる人;麻薬常用者[中毒者]. 12 ⦅players⦆ ⦅英俗⦆ テロ活動家たち. ▶1970年代初めから北アイルランドで用いられる英軍用語. 13 ⦅players⦆ ⦅英証券俗⦆ (株式の)投機家たち. 14 ⦅米病院俗⦆ 文句が多く扱いにくい患者. [1000年以前. 中期英語 pleyer,古期英語 plegere.⇀PLAY]
『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館 pray・er² préiər〓 ―n. 祈る人,祈願者,祈祷(きとう)する人. [中期英語 preyare]
『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館 prayer¹ [prέər](▶prayer² の発音との母音の違いに注意. ただし区別しない人も多い)〓 ―n. 1 (神・信仰の対象への)祈り,祈願,祈祷(きとう):〓 2 (定式化された)祈りの文句,祈祷文:〓 3 祈拝,祈祷;⦅しばしば prayers⦆ (公的・私的な)祈祷式:〓 4 (祈りの)願い事:〓 5 嘆願,懇願:〓 6 〖法律〗 請求趣旨申し立て:衡平法裁判所への訴状などの中で,原告が望む救済方法の申し立てを記載してある部分. 7 ⦅米話⦆ ⦅しばしば否定文で⦆ 一縷(いちる)の望み,(成功する)わずかなチャンス:〓 [中期英語 preiere<古期フランス語<中世ラテン語 precāria(precārius「懇願によって得られた」の女性形名詞用法);cf. PRECARIOUS]
『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館 又、「Catholic Baseball Prayer」を持ってこそ「Catholic Baseball Player」なのです。 大谷翔平の「優位性の形成」(パワー・ハラスメント)に拘るプレースタイルは最悪のビッチベースボールと言えます。
このように「大谷翔平の二刀流」は真剣勝負(誠実と真実)を信仰しないでビッチに結果を残しました。
面子(ユングのペルソナ)だけで威張る傲慢な医師も大谷翔平と同様にビッチなモンキーとして最優秀です。 しかし黒澤明の映画「赤ひげ」の医師は傲慢に見えますが名医(フロイトのペルソナ)であり三位一体のペルソナとして最優秀です。
このようにビッチなモンキーと三位一体のペルソナが対立してしまうのです。
「ドクサ」を「絶対知」(信念)とする「思い込み」(盲目状態)で他者にマウンティングしていくことは傲慢な暴君でしかありません。 それらは「他者から愛される欲望崇拝」であり豊臣秀吉のあり方がとても有名です。 それも真剣勝負(誠実と真実)を信仰しない例です。
そういう意味で落合博満や鈴木一郎(イチロー)、栗山英樹も豊臣秀吉と同様です。 彼らの共通点とはバフォメットベースボール(末法思想)なのです。
落合博満のオレ流とは「ピッチャー」へのバフォメットベースボール(末法思想)であり注文ベースボールなのです。 落合博満は自らの「優位性の形成」(パワー・ハラスメント)の確保に拘っただけのビッチベースボールプレーヤーです。 彼は「優位性の形成」(パワー・ハラスメント)を形成し確保することで「打者三冠王」を獲得しました。 それが「オレ流」です。 落合博満は真剣勝負(誠実と真実)を信仰していません。
同様に鈴木一郎(イチロー)も独特のルーティーンを絶えずやり抜くことでヒットポイントを「ピッチャー」へ要求していました。 鈴木一郎(イチロー)はバフォメットベースボール(末法思想)であり注文ベースボールをしています。 彼も「優位性の形成」(パワー・ハラスメント)を確保することで「安打製造機」という称号を獲得しました。 鈴木一郎(イチロー)も真剣勝負(誠実と真実)を信仰していません。
「大谷翔平の二刀流」もそういったバフォメットベースボール(末法思想)であり注文ベースボールであったのです。
また栗山英樹監督も斎藤佑樹を開幕投手に指名することで「ハンカチ王子」(ビッチ王子)という「優位性の形成」(パワー・ハラスメント)を宣言しました。 要は「Catholic Baseball Prayer」を倒錯対象として「優位性の形成」(パワー・ハラスメント)を主張したのです。 そういった人間同士の「駆け引き」(八百長)によって栗山英樹監督は優勝しました。
日本ハムファイターズの二軍練習場は鎌ケ谷市にあります。 私も何度か見学に訪れました。 大谷翔平もリハビリで球場を歩き回っていました。 超特別扱いでした。 こうやって「Catholic Baseball Prayer」を倒錯対象として「優位性の形成」(パワー・ハラスメント)を主張していくのです。 栗山英樹監督も真剣勝負(誠実と真実)を信仰していません。
カチーフは神への恭順を示している。(ヘッドカチーフ、ネッカチーフ) 「Catholic Baseball Prayer」を意味している。 kér・chiefed ―adj. ヘッドカチーフ[ネッカチーフ]を着けた. 〖⦅1600⦆: ⇨↑, ―ed〗
『新英和大辞典 第6版』 研究社 ker・chief/kɚːʧɪf, ―ʧəf, ―ʧiːf/〓 〖初13c;古フランス語 couvrechief. ker- (覆う=cover)+chief (頭). cf handkerchief, neckerchief〗 〓(〓~s, -・chieves/―ʧiːvz|―ʧɪvz, ―ʧiːvz/) 1 ⦅古⦆カチーフ《特に女性が頭にかぶったり, 首に巻いたりする四角形の布》;ネッカチーフ(neckerchief), えり巻き. 2 ⦅詩・まれ⦆ハンカチ(handkerchief). 〓kér・chiefed 〓カチーフ[ネッカチーフ]をかぶった.
『ジーニアス英和大辞典 用例プラス』 大修館書店 cárdinal’s hát ―n. 〖カトリック〗 枢機卿(けい)の赤帽子⦅緋色で, 枢機卿の地位と権威を象徴する; red hat, scarlet hat ともいう; cf. biretta, galero, zucchetto⦆. 〖1538〗
『新英和大辞典 第6版』 研究社 bi・ret・ta /bᶦərέṭə | ―tə/ ―n. 〖カトリック〗 ビレッタ⦅聖職者の用いる四角形の帽子; pope は白, cardinal は緋色, bishop は紫, その他は黒と, 位階によって色が違う; berretta ともいう; cf. galero, zucchetto⦆. 〖⦅1598⦆ ▭ It. berretta ⫽ Sp. birreta ▭ Prov. bereta cap(dim.) ՟ LL birrus hooded cloak ՟ celt.〗
『新英和大辞典 第6版』 研究社 ga・le・ro /gəlέɚroU | ―lέərəU; It. galέːro/ ―n. (pl. ~s) 〖カトリック〗 ガレロ⦅枢機卿がかぶる上の平らなつば広の赤い帽子; cf. cardinal’s hat, biretta, zucchetto⦆. 〖▭ It. ~ < L galērum conical cap made of leather, fur cap: ⇨galea〗
『新英和大辞典 第6版』 研究社 zuc・chet・to /zUkέṭoU, tsuː― | zuːkέtəU; It. dzukkétto/ ―n. (pl. ―chet・ti /―tiː; It. ―ti/, ~s) 〖カトリック〗 ズケトウ⦅聖職者のかぶる半球形の小ずきん; pope は白, cardinal は緋色, bishop は紫, その他は黒と, 位階によって色が違う; cf. biretta, galero⦆. 〖⦅1853⦆ ▭ It. zucchetta small gourd (dim.) ՟ zucca gourd, head ՟?: cf. LL cucutia gourd〗
『新英和大辞典 第6版』 研究社 【三対神徳】 ほかに神学者たちは「信徳は精神的建物の土台を作り、望徳はそれを建て、愛徳は屋根をつける」 と各役割を説明する。 Cárdinal’s Hát —n. 枢機卿の帽子 ⦅イングランド Lincoln にある 15 世紀からの木骨家屋; もとは宿屋であったが, 改修され, 今は St. John’s Ambulance Brigade が利用している⦆.
『リーダーズ・プラス』 研究社 ※ハンカチーフにいい意味はないらしい。 「バフォメットベースボール」(末法思想)を意味している。 hand・ker・chief/hǽŋkɚʧəf, ―ʧìːf/〓 〖初16c;hand+kerchief (頭にかぶる四角形の布→布). cf. kerchief〗 〓(〓~s, -・chieves/―ʧìːvz/) 1 ハンカチ(⦅略式⦆ hanky, hankie)《◆英米では鼻をかむために使うことが多い;〓 hdkf》;ティッシュペーパー〓 2 ⦅古⦆ネッカチーフ(neckerchief), スカーフ(scarf). handkerchief head/––/ ⦅米俗⦆白人に卑屈な黒人(Uncle Tom). handkerchief tree/––/ 〖植〗=dove tree.
『ジーニアス英和大辞典 用例プラス』 大修館書店 このような信仰弾圧の手法が「優位性の形成」(パワー・ハラスメント)を確保するだけのビッチベースボールとなっているのです。 栗山英樹監督はビッチベースボールを扇動しただけのビッチ監督でしかないのです。 ワールドベースボールクラシックの侍JAPANも「優位性の形成」(パワー・ハラスメント)に拘っただけのビッチ球団でした。
鈴木一郎(イチロー)はこのように発言していました。
「(韓国、台湾などには)向こう30年、日本にはちょっと手を出せないなみたいな、そんな感じで勝ちたいなと思っています」
これは「優位性の形成」(パワー・ハラスメント)に拘っただけのビッチなモンキー発言です。 鈴木一郎(イチロー)は折角の世界大会で「優位性の形成」(パワー・ハラスメント)にだけに拘ったビッチなバカにしか見えませんね。 これは「優位性の形成」(パワー・ハラスメント)にだけ拘って他者を冒涜する「日本の独自性」です。
伝説の水泳競技の「潜水」にしても、東洋の魔女の「回転レシーブ」等にしても、「富士山のトビウオ」にしても、自分達の「優位性の形成」(パワー・ハラスメント)にだけ拘って他者を冒涜しているだけなのです。 これらは真剣勝負(誠実と真実)を信仰していません。
有名な名監督だった西本幸雄は日本シリーズを何故か勝利できませんでした。 西本幸雄監督は真剣勝負(誠実と真実)を信仰していました。 彼は「Catholic Baseball Prayer」を持っていたのです。 西本幸雄監督の最後の日本シリーズ制覇のチャンスは広島東洋カープとの最終戦でした。 広島東洋カープの古葉竹識(古葉毅)監督が送り込んだ江夏豊の変則的投球で近鉄バッファローズは最大のチャンスを逸し日本シリーズの制覇はならなかった。 これは西本幸雄監督の伝説的敗戦と言われている。
一方で江夏豊の投球は「江夏の二十一球」として語り継がれている。 しかしこの「江夏の二十一球」も「優位性の形成」(パワー・ハラスメント)にだけ拘った変則的投球であって他者を冒涜したものであった。 何故なら江夏豊の変則的投球スタイルは打者との間での「駆け引き」(八百長)に拘った勝負を示していた。 この「駆け引き」(八百長)とは「優位性の形成」(パワー・ハラスメント)への拘りを意味しています。 江夏豊は真剣勝負(誠実と真実)を絶対に信仰しませんでした。 江夏豊は「Catholic Baseball Prayer」を倒錯対象とすることで全てを「駆け引き」(八百長)に持ち込んでいたのです。 そうやって「Catholic Baseball Prayer」に対し自分だけ「優位性の形成」(パワー・ハラスメント)を可能として勝利していくことができたのです。 江夏豊は「Catholic Baseball Prayer」を全く持っておらず、それ故に勝負に於いても力で捻じ伏せたのでもなく「優位性の形成」(パワー・ハラスメント)によって勝利したのです。
そうやって「Catholic Baseball Prayer」を否定された「Catholic Baseball Player」は「優位性の形成」(パワー・ハラスメント)に敢え無く敗北することになる。 ただこのような「優位性の形成」(パワー・ハラスメント)によった勝利に公共の価値は全くないと言える。
ワールドベースボールクラシックで韓国代表投手も鈴木一郎(イチロー)に敢え無く敗北しました。 しかし「Catholic Baseball Prayer」を持っていたのは韓国代表投手の方だったのです。
これは極端に言って手袋決闘の場で八百長をしたようなものである。 真剣勝負(誠実と真実)を信仰しない手袋決闘では意味がありません。 江夏豊、恥を知れ! 私達はこの勝負は西本幸雄が勝つべき者であったという認識を持っている。
日本はオリンピックに於いてもその信仰を冒涜しこのような「優位性の形成」(パワー・ハラスメント)にだけ拘って競技を行っていると見做せる。 結局、日本人は世界大会に於いて他国の人を冒涜しているに過ぎない。 日本人にとって世界大会とは「メダル」をコレクトする価値しかないらしい。 それが日本国のプロパガンダであって信仰弾圧の手法となっているからであろう。
しかし「真剣勝負(誠実と真実)への信仰」を解せないとは「劣等性」の表れです。 このような信仰弾圧は愚民政策と言えます。 日本国に於いて近代オリンピックの崇高な信仰は愚民政策へ堕しているのです。
何故なら「優位性の形成」(パワー・ハラスメント)に拘るだけで「真剣勝負(誠実と真実)への信仰」を冒涜し「金メダル」のコレクターとなるなら「成金崇拝」と同じだからです。「成金崇拝」(射幸心)バンザイ!
一方で「真剣勝負(誠実と真実)への信仰」を持った「金メダル」のコレクターとは「成金信仰」と言えます。「成金信仰」(神の王国の到来)の福音!
東京放送(TBS)の福島弓子アナは栗山英樹との破局直後に鈴木一郎(イチロー)と電撃結婚しましたが趣味の悪い女ですね。 私も当時彼女のことを可愛いと思っていました。 東京放送(TBS)で放送されていたお昼の番組最終回で伊集院光が福島弓子のことを好きだったのだという話が持ち上がりました。 そして彼女がタレントの伊集院光の頬にキスしてあげるという感動的シーンがあったのです。 それは完全にヤラセではなかった! 私はそれを「へー」と感心して観ていました。 こんなの初めて観たよ! 私はそのシーンを印象深く覚えています。
女子アナは野球選手に拘り過ぎだったと思います。 あんなビッチなバカと一生一緒に生活するつもりなんですかね? この例もビッチでバカな「優位性の形成」(パワー・ハラスメント)のあり方ですね!
男女の愛は真剣勝負(誠実と真実)を信仰することだと思います。 彼らに「Catholic Baseball Prayer」は全くありません。
イエス・キリストはこういったバフォメットベースボール(末法思想)を批判したのです。 イエス・キリストはこういった弟子からの注文ベースボールに対して「Catholic Baseball Prayer」を飽くまで説いたのです。 それは「他者を愛する純愛信仰」であり philosophia(哲学)です。 philosophia(哲学)は「エンターテイメントのモンスター」ではなく文化的価値があるのです。 「エンターテイメントのモンスター」は「ドル箱」にはなるでしょう。 ただそういった八百長に文化的価値はなく文化破壊と堕落と荒廃を招くだけです。
神の警告 mon・ster [mánstər|mɔn―]〓 [1325年以前. 中期英語 monstre<ラテン語 mōnstrum(不吉な,重大な)兆し,不自然な出来事,怪物(monēre「警告する」より;奇怪な生き物は神の警告 と考えられたことから)]
『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館 mon・ster [mánstər|mɔn―]〓 ―n. 1 怪物,モンスター:いろいろな動物の部分を組み合わせた姿をした想像上の動物;centaur,dragon,griffin,sphinx など. 2 (一般に)醜怪な生き物,化け物;異常な人間[動物,植物]. 3 恐怖[嫌悪]を起こさせる人,極悪人:〓 4 巨大な動物[物]:〓 5 〖生物〗 奇形,奇型:動植物の体の一部が甚だしく異常か,あるいは全く欠損していること;ヒトの胎児,幼児では生存できない程度に異常なものをいう. 6 ⦅米麻薬俗⦆ 中枢神経に作用する麻薬. 7 (また mónster bàck,mónster màn)〖アメフト〗 (セットポジションにいない)ラインバッカー(linebacker). 8 ⦅米俗⦆ (1)(特にレコードの)ベストセラー. (2)人気歌手,音楽界のスーパースター. ―adj. 1 ⦅限定的⦆ 巨大な,ばかに大きい;化け物[怪物]のような. 2 ⦅限定的⦆ ⦅米麻薬俗⦆ 〈麻薬が〉強力な,中毒性の:〓 [1325年以前. 中期英語 monstre<ラテン語 mōnstrum(不吉な,重大な)兆し,不自然な出来事,怪物(monēre「警告する」より;奇怪な生き物は神の警告と考えられたことから)]
『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館 ただイエス・キリストに対して注文ベースボールを暗に要求した弟子たちはモンスターを崇拝していたのです。 しかし「エンターテインメントのモンスター」は「神の警告」を意味していました。 このように「神の警告」を倒錯対象としたモンスター崇拝に対しイエス・キリストが批判していくことは当然のことだったと言える。 しかしここに於いてイエス・キリストの弟子の離反が始まって行きました。
ただ「エンターテインメントのモンスター」とは「マタイによる福音書」に記された「犬と豚」(マタイ 7:6)と言えます。 その存在は「神の警告」なのです。
パンの講話(ヨハネ 6:26-59) イエスは彼らに答えて言った、「アーメン、アーメン、あなたがたに言う。あなたがたが私を求めるのは、徴を見たからではなく、パンを食べて満腹したからである。なくなっていく食べ物のために業をなすのはやめて、永遠の命にまで留まる食べ物のための〔業をなしなさい〕。それは、〔将来〕人の子があなたがたに与えることになるものである。その人〔の子〕は父である神が確証したからである。すると彼らは彼に向かって言った、「神の業をなしていくために、私たちは何を行なえばよいのでしょうか」。イエスか答えて、彼らに言った、「神が遣わした者を信じること、これが神の業である」。すると、彼に言った、「それでは私たちが見て、あなたの言うことを信じることができるように、あなたはどんな徴を行なってくれるのですか。どんな業をなそうというのですか。私たちの父祖は荒野でマナを食べました。天から彼らにパンを与えて食べさせたと書かれている通りです」。 すると、イエスは彼らに言った、「アーメン、アーメン、あなたがたに言う。 モーセがあなたがたに天からパンを与えた〔、そしてあなたがたがそれを持っている〕のではない。私の父があなたがたに天から本物のパンを与えつつある。 神のパンは天から降って、世に命を与えつつあるのだからである」。そこで、 彼に向かって、「主よ、そのパンをいつも私たちに下さい」と言った。イエスが彼らに言った、私がその命のパンである。私のところに来る人は、決して飢える ことがない。私を信じる人は、決して渇くことがない。 しかしあなたがたに言った。あなたかたは「私を」見てきたのに信じようとしない。父が私に与えるものは皆、私のところへ来ることになり、私のところへ来る人を、私か外へ追い出すようなことは決してない。私が天から降って〔今ここに〕いるのは、自分の意志を行なうためではなく、私を派遣した方の意志を行なうためだからである。〔父が〕私に与えて下さっているものを皆、その中から私が失うことなく、終りの日に甦らせること、これか私を派遣した方の意志である。つまり子を看て彼を信じる人が皆、永遠の命を持ち、私が彼を終りの日「に」甦らせること、これが私の父の意志なのである」。すると、ユダヤ人たちは、彼が「私が天から降って来たパンだ」と言ったので、彼のことでささやき始めた。そして言い始めた、「この男はヨセフの息子イエスではないか。俺たちにはその父親も母親もわかっているではないか。どうして今さら『私は天から降って来ている』などと言うのか」。 イエスは答えて、彼らに言った 、「互いにささやくのはやめなさい。私を派遣した父が引き寄せるのでなければ、だれも私のところに来ることはできない。そして私は彼を終りの日に甦らせることになる。預言者たち〔の書〕に、彼らは皆、神に教えられた者になるだろうと書かれている。父から聞いて学んだ人は皆、私のところに来る。誰か父を見てきた人がいるのではない、父のもとから〔来た〕者を除いては。この者こそが父を見てきたのである。 アーメン、アーメン、あなたがたに言う、信じる人は命を持っている。 私が命のパンである。あなたがたの父祖は荒野でマナを食べた。そして死んだ。これは、天から降って来るパンである、人が食べると死なないように。私は、天から降った、活けるパンである。人がこのパンを食べるなら、永遠に生きることとなる。 私が〔将来〕与えることになるパンは、世の命のための私の肉である」。 するとユダヤ人たちはお互いに激しく議論し始めた、「この男はいったいどうやて[自分の]肉をわれわれに食べさせることができるのか」と言って。 そこでイエスは彼らに言った、「アーメン、アーメン、あなた方に言う。人の子の肉を食べ、その血を飲まないなら、あなたがたは自分のうちに命を持っていない。私の肉を食らい、私の血を飲まないなら、あなたがたは自分のうちに命を持っていない。私の肉を食らい、私の血を飲んでいる人は永遠の命を持っており、私は彼を終りの日に蘇らせることになっている。私の肉は真実の食べ物であり、私の血は真実の飲み物だからである。私の肉を食らい、私の血を飲んでいる人は、私のうちに留まり、私も彼のうちに留まっている。生きている父が私を遣わし、私が父のゆえに生きているように、私を食らっている人も私のゆえに生きることとなる。これは天から降ったパンである。父祖たちが食べて死んだようにではなく、このパンを食らっている人は永遠に生きることとなる」。 これらのことをイエスはカファルナウムで教えていた時、会堂で言ったのであった。
岩波書店「ヨハネによる福音書」 弟子たちの反応(ヨハネ 6:60-71) すると、彼の弟子たちの中の多くが聞いて言った、「このことばは歯が立たない。誰にこれを聞いていることができようか」。イエスは、自分の弟子たちがこれについてささやいているのが自分の中でわかり、彼らに言った、「このことがあなたがたを躓かせるのか。それなら、人の子が前にいたところへのぼっていくのを看るなら〔その時には〕・・・・・・。霊こそが生かすものであって、肉は何の役にも立たない。私があなたがたに語ってきた言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたの中には信じない人たちがいる」。つまりイエスは、誰が信じない人々で、誰が自分を裏切ることになる人なのかを、はじめから知っていたのである。そして、言い始めた「だからこそ、父から与えられているのでなければ、誰も私のところに来ることはできないと言っておいたのだ」。この時以来、彼の弟子たちの[中から]多くの者が離れ去り、もはや彼と共に歩もうとはしなかった。そこでイエスは〔例の〕十二人に言った、「あなたがたも〔去って〕往こうというのか」。シモン・ペトロが彼に答えた、「主よ、私たちは誰のところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。私たちはあなたか神の聖者であることを信じ、そして知っています」。イエスか彼らに答えた、「あなたがた、この十二人を選び出しだのは私ではなかったか。しかしあなたがたの中の一人は悪魔である」。つまり彼はイスカリオテのシモンの子ユダのことを言っていたのである。この男は〔例の〕十二人の一人であり、後に裏切ることとなるのだった。
岩波書店「ヨハネによる福音書」 ✡Persona feels God hates Bitch✡ 旧約聖書サムエル記「ダビデとゴリアテ」に於いてダビデはゴリアテを倒しました。 それはモンスターである「マタイによる福音書」に記された「犬と豚」(マタイ 7:6)を倒すことを示しています。 ダビデもイエス・キリストも「神の警告」に恭順したのです。
悪魔主義は「神の死んだ」世界における求道精神の逆説的表明 「他者を愛する純愛信仰」とは「他者を愛する」を愛し、「マタイによる福音書」に記された「犬と豚」(マタイ 7:6)を嫌悪することを示しています。 「他者を愛する」とは「友人」を示しているのです。
イエス・キリストの「悪魔」 イエス・キリストが「悪魔」だと指摘したのはイスカリオテのユダだった。
イスカリオテのユダについての記述 「この男は〔例の〕十二人の一人であり、後に裏切ることとなるのだった。」
〔例の〕十二人の〔例の〕とは「裏切った弟子」を意味している。
「しかしあなたがたの中の一人は悪魔である」
「あなたがたの中の一人は悪魔」というイエス・キリストの発言の真意とは誰にとっての「悪魔」であるのかという疑問を意味している。
要はイエス・キリストに対する悪魔(裏切り)であるのか? それとも裏切り者の中のイエス・キリストの「友人」があったのか?
イスカリオテのユダとはイエス・キリストに対する悪魔(裏切り)とイエス・キリストの「友人」のどちらであろうか?
一般にイスカリオテのユダとはイエス・キリストに対する悪魔(裏切り)とされている。 しかし新約聖書をよく読んでみるとイスカリオテのユダとはイエス・キリストの「友人」とされているのです。 何故なら離反した弟子の中でイスカリオテのユダは唯一人の「悪魔主義」だったと言えるからです。
あくましゅぎ【悪魔主義】 diabolism すべてを破壊し否定する悪魔的精神により,人間の暗黒面を追求,その表現に美を見出そうとする文学上の傾向。世紀末の⇨デカダンスはその顕著な実例で,ポー,ボードレール,ワイルドらがその代表者。しかしワイルドの『⇨深淵より』にはキリストへの訴えがあり,ボードレールの『⇨悪の華』はキリスト教への裏面からの接近ともみられ,ポーの究極目標が「天上世界」であったとすれば,悪魔主義は「神の死んだ」世界における求道精神の逆説的表明であるともいえる。
『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc. 「十二使徒」の一人であったイスカリオテのユダはイエス・キリストを裏切った他の「十二使徒」から「リンチ」にあって吊るされたらしい。 Júdas Iscáriot ―n. 〖聖書〗 =Judas 1 a. 1a (イスカリオテの)ユダ (Judas Iscariot) ⦅十二使徒の一人でイエスを裏切り銀 30 枚で祭司長に売った後自殺した; cf. Matt. 26: 47‐48; Mark 3: 19, 14: 43‐46; Matt. 27: 3‐5⦆. b ⦅a1376⦆ (イスカリオテのユダのような, 味方のふりをした)裏切者, 反逆者, 獅子身中の虫. 2 [(Saint) ~] ユダ⦅James の子で十二使徒の一人, Judas Iscariot と区別するため Jude あるいは Thaddeus とも呼ばれる; 祝日 10 月 28 日; cf. Luke 6: 16; John 14: 22; Acts 1: 13⦆. 3 ユダ⦅James およびイエスの兄弟で, 「ユダ書」の著者とされる; cf. Matt. 13: 55; Mark 6: 3⦆. ―adj. [限定的] (他の動物をおびき寄せたり, また畜殺に送るために)おとりとして使った. 〖▭ L Jūdas ▭ Gk Ioúdās ▭ Heb. Yᵉhūdhāʰ ‘JUDAH’〗
『新英和大辞典 第6版』 研究社 ユダ縊死 そのあと、イエスを売り渡したユダは、イエスが〔死刑を〕宣告されたと知り、 後悔して銀三十枚を祭司長たちと長老たちとに返して言った、「俺は罪なき血を売り渡して、罪を犯した」。しかし彼らは言った、「そんなことはわれわれの知ったことか。お前が勝手に始末せよ」。そこで彼は、銀貨を神殿に投げ入れ、立ち去った。そして行って、首をくくっ〔て果て〕た。 他方、祭司長たちは、その銀貨を取って言った、「これら〔の銀貨〕を神殿の宝物庫に入れるのは、許されていない。血の代価だからだ」。そこで彼らは協議して、それら〔の銀貨〕で陶器師の地所を買い、外国からの旅人用の墓地にした。このため、この地所は今日に至るまで、「血の地所」と呼ばれている。そのとき、預言者エレミヤを通して語られたことが満たされたのである、すなわち、そして彼らは、銀貨三十枚を受け取った、 値踏みされた者の値を、 イスラエルの子らの幾人かが、この者を値踏みしたのである。 そして彼らはそれら〔の銀貨〕を陶器師の地所のために払った、私に主が命じた通りである。
岩波書店「マタイによる福音書」27:3-10 ルパンの福音 友人とは「ゴート語 frijōn(愛する)と同語源」の語彙であるのです。 現在現存しているゴート語とは聖書翻訳言語とカレンダー(キリスト教暦)を指し示しています。
ゴートご【ゴート語】 Gothic language ゴート人の言語。そのうちの西ゴートの言語が4世紀の司教ウルフィラスの翻訳した聖書から知られるにすぎない。ゴート語の名のもとに,普通この聖書の言語をさす。 1560年頃,クリミヤ半島でおよそ 86語のゴート語の単語句が採集されたが,現在は死語。インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の東ゲルマン語に属する。古い語形をよく保っていたことから,印欧語比較法に重要な資料となっている。
『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc. ゴート語 ゴートご Gothic インド・ヨーロッパ語族のゲルマン語派のうち東ゲルマン語に属し,現在は死語となっている。ゴート語の話し手であるゴート人は,1世紀の初めころまでに,南スウェーデンからバルト海をはさむ対岸のビスワ河口地帯に移住し,さらに東ゴート,西ゴートに分かれて南下し,2世紀の中ごろには黒海沿岸に到達したが,ゴート人のこのような早い時期におけるギリシア文化圏との接触により,4世紀の中ごろには西ゴートの司教ウルフィラによって聖書がギリシア語からゴート語に翻訳された。この聖書は,現在残されているゴート語資料の主要な部分をなしている。ゴート語の他の資料としては,スキーリーンスと呼ばれるヨハネ福音書注解の断片,ゴート語のカレンダーなどきわめてわずかなものしか残っていない。また,時代は下るが,16世紀に入って,クリミア半島のゴート語86語が記録されている。ゴート語はその記録の古さから,特に文法の面で,ゲルマン語の多くの古い特徴を残している。 斎藤 治之
(C) 1998-2000 Hitachi Systems & Services, Ltd. All rights reserved. だからfrijōn(愛する)も同様にキリスト教化した語彙であり「隣人愛」を示している。 これは聖宮崎駿監督作品「ルパン三世 カリオストロの城」に登場するゴート文字とゴート札を示しています。 ゴート語とはキリスト教化を示しカトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰の奇跡(サクラメント)と言えます。
カオとはウラハラな言葉が出てしまう クラリスの肩に手をかけて ルパン バカなこと云うんじゃねえ そっと、クラリスをはなし明るいつくりガオで、 又、闇ん中へもどりてえのかい やっと お陽さまの下に出られたんじゃねえか ルパンUP ガラにもない説教をたれちゃうのは、 ルパンナメのクラリス、眼がうるんでいる ルパン なっ、お前さんの人生は、これからはじまるんだぜ ↓ おれのようにうす汚れちゃいけねえんだ。 二人、 ルパン 努めてON ルパン 困ったことがあったら、いつでもいいな。 おじさんは、地球の裏側からだってすぐとんで来てやるからな
STUDIO GHINLI絵コンテ全集第Ⅱ期「劇場用アニメーション映画 ルパン三世 カリオストロの城」 ルパン、スッと首のばして、目をつむるクラリスのおでこにキスする 岡の向こうからカールがかけのぼって来て まっしぐらに走って来る 園丁も来る ふりむくクラリス みるルパン クラリスおどろき叫び前へ出る クラリス カール!
STUDIO GHINLI絵コンテ全集第Ⅱ期「劇場用アニメーション映画 ルパン三世 カリオストロの城」 両方からかけよるクラリスとカール。 カール くらりすにとびつき短いシッポをふる。 クラリス 首ったまでだきしめ つづいて園丁もiNする クラリス ああ カール! カール! 園丁 クラリス様 クラリス おじいさん! 老犬 大きな舌でクラリスのほっぺたをペロペロとやる 笑うクラリス クラリス キャッ ハハハハ 泣き笑いのような情けないカオでそれをみているルパン そっと後に下がっていく
STUDIO GHINLI絵コンテ全集第Ⅱ期「劇場用アニメーション映画 ルパン三世 カリオストロの城」 friend [frénd] [中期英語 friend,frend,古期英語 frēond 友,恋人,親族〔もとは frēogan(⇀FREE)の現在分詞;ゴート語 frijōn「愛する」と同語源〕;ドイツ語 Freund と同語源]
『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館 「堕天使ルシファー」の正体は「バフォメット」 一方で「聖なるもの」を貶める「犬と豚」は「友人」ではなく虚偽(偽善者)と言える。 又そういった虚偽(偽善者)はカトリック信仰を倒錯対象としたヤンキー(地域的エリート主義)であり「黒ミサの儀式」を執行します。
◊Yan・kee /jǽŋki/ —n. 1 『ヤンキー』 ⦅ニューイングランドの文芸・文化と生活情報の月刊誌; 1936 年創刊, Yankee Books 社刊; 頑固なまでに同地方の地方色を守り, 写真よりもイラストを多用するなど古さ・野暮くささを逆手にとって地域的エリート意識を盛り上げている⦆. 2 [the ~s] ヤンキーズ ⦅NEW YORK YANKEES↙ の愛称⦆.
『リーダーズ・プラス』 研究社 犬と豚 (マタイ 7:6) 聖せい なるものを犬どもにやるな。また、あなたたちの真珠しんじゅ を豚ぶた どもの前に投げるな。さもなければ、彼らはその足でそれらを踏ふ みつけ、振り返りざまにあなたたちを噛か み裂さ いてしまうであろう。
岩波書店「マタイによる福音書」 「聖なるもの」とはイマヌエル・カント「純粋理性批判 第二版序文」にある通り「知識の廃棄」からカトリックロゴス感覚(高度な精神的姿勢・ユーモア)を受肉することを示している。 「犬と豚」が執行する「黒ミサの儀式」とはカトリックロゴス感覚(高度な精神的姿勢・ユーモア)の受肉を阻止するために「知識の鵜呑み」を強迫します。 それは「ドクサ」を「絶対知」(信念)とする「思い込み」(盲目状態)であり堕落を意味している。 カトリックロゴス感覚(高度な精神的姿勢・ユーモア)に対し「人のドクサ」を「絶対知」(信念)とすることで神を嘲笑するのです。 それは神に反逆した堕天使ルシファーのあり方を示している。 堕天使ルシファーの正体とは「バフォメットの偶像崇拝」(バフォメットの呪術崇拝)にあったのです。
Fair is foul, and foul is fair:(バフォメットの呪術崇拝) きれいは穢ない、穢ないはきれい。 例えば坂口安吾「堕落論」があります ここで多くの人は坂口安吾は堕落を賛美していると認識するかもしれません。 確かに坂口安吾は「堕落論」で堕落をテーマにしています。 ただ人間において真の堕落は倒錯(バフォメット)となります。 それは「きれいは穢ない、穢ないはきれい。」(Fair is foul, and foul is fair:)です。 真の堕落とは認識の倒錯(バフォメット)です。
坂口安吾が記した「堕落論」の「堕ち抜けろ」とは「淪落」(背徳)に関する指摘でありました。 これは「堕落」と「倫理」に関するあり方を示しています。 真に堕落したあり方とは「堕落は倫理であり、倫理は堕落である。」(バフォメットの呪術崇拝)と主張されます。 しかし坂口安吾の言う「正しく堕ちる道を堕ちきること」とは「堕落は堕落であり、倫理は倫理である。」(フロイトのユーモア)と認識することであるのです。 それは淪落(背徳)をどこまでも堕ちて行っても「堕落は堕落であり、倫理は倫理である。」(フロイトのユーモア)と認識する高度な精神的姿勢です。 それがホワイト・マジック・オーケストラを形成する高度な倫理性となります。 このようなホワイト・マジック・オーケストラによって坂口安吾は自分自身を発見し救うことができると諭しているのです。 これらもフロイトのユーモアと同じことを示しています。 坂口安吾とはクラシック文学の資格があり世界文学であると指摘できるのです。
※村上春樹は倒錯(バフォメット)を執行するブラックマジシャンですからクラシック文学の資格はあり得ず、世界文学とは言えません。 ※要は村上春樹にとってクラシック文学も世界文学も倒錯対象でしかないのです。(バフォメットの呪術崇拝から形成するバフォメットの偶像崇拝)
りん‐らく【˟淪落】 〘名〙(スル) 落ちぶれること。落ちぶれて身をもちくずすこと。「―の淵に沈む」
『大辞泉 第二版』 小学館 人間。戦争がどんなすさまじい破壊と運命をもって向かうにしても人間自体をどうなしうるものでもない。戦争は終わった。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変わりはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。 戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄のごとくではあり得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それゆえ愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人のごとくに日本もまた堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。
坂口安吾「堕落論」 ここで有名なマルキ・ド・サド「悪徳の栄え」を指摘したい ドナチアン・アルフォンス・フランソワ・ド・サド 一七八〇~一八一四年。 一八世紀フランスの作家。 通称マルキ・ド・サド(サド侯) 遊興と筆禍のため生涯の大半を獄中ですごし、数々の作品を生む。 没後、長年不当な誤解にさらされてきたが、二〇世紀にいたり再評価される。 サディズムは彼の名に由来する。
マルキ・ド・サドの「悪徳の栄え」は「悪徳」に関する官能小説である。 しかしそれは「悪徳」を「悪徳」として認識し行っていく官能性を描く「背徳」(淪落)を描いていて、「悪徳」を「美徳」とし、「美徳」を「悪徳」とする倒錯(バフォメット)は賛美していない。
はい‐とく【背徳・˟悖徳】 道徳にそむくこと。「―行為」「―者」
『大辞泉 第二版』 小学館 りん‐らく【˟淪落】 〘名〙(スル) 落ちぶれること。落ちぶれて身をもちくずすこと。「―の淵に沈む」
『大辞泉 第二版』 小学館 マルキ・ド・サドの「確信性の確保」はそこにあったのです。 マルキ・ド・サドは「悪徳」を「悪徳」とし、「美徳」は「美徳」とするフロイトのユーモアを描いています。 それは「背徳」(淪落)であった。 そこには「自己」と「他者」の倒錯(バフォメット)はありません。 ここで言えることはマルキ・ド・サドとは倒錯(バフォメット)を描いていないのです。 その意味とはマルキ・ド・サドとは philosophia(哲学)であると言えるのです。 それは「知識(叡知)の受肉システム」であり、「他者から愛される欲望崇拝」では決してなく、「他者を愛する純愛信仰」を示しています。 それがホワイト・マジック・オーケストラを形成する高度な倫理性となります。 そういう意味でマルキ・ド・サドにはクラシック文学の資格があり世界文学と言うことができるのです。
「フロイトのユーモア」と「バフォメット」のあり方 ここに示した対立概念は一方で「フロイトのユーモア」からホワイト・マジック・オーケストラを齎し、又一方で倒錯(バフォメット)からブラックマジックオーケストラを執行する。
このような「堕落と倫理」のあり方はキリスト教聖堂に多く示されている。
ゴシック聖堂正面の薄肉彫り(パリ、アミアン)では美徳と悪徳が単独像として上下に対置して表現され、その数は各12個ずつとなり、信徳と偶像崇拝、望徳と絶望、愛徳 と貧欲、正義と不正、質素と贅沢、賢明と愚行、謙虚と傲慢、剛毅と臆病、温順と残酷、和合と不和、恭順と反抗、忍耐と移り気、の12の組合わせを作った。 またジョットのアレ ーナ礼拝堂(パドヴァ、1305~06年)の壁画では,美徳と悪徳が南北の壁面に相対して描か れ、それぞれ望徳と絶望、愛徳と嫉妬、信徳と不信仰、正義と不正、節制と憤怒、剛毅と放縦、賢明と愚行の七つの組合わせである。
吉川弘文館「キリスト教美術図典」【罪悪】 美 徳 E. Virues. L. Virtus. キリスト教での美徳は、三対神徳 Virtus theologicae (信徳 Fides、望徳 Spes、愛徳 Caritas)と四枢要徳 Virtus cardinales(賢明 Prudentia,節制 Temperantia、剛毅 Fortitudo、正義 Justitia)から構成されている。対神徳については、すでに聖パウロのコリントの信徒への手紙1 (13:13)に言及されている。ほかに神学者たちは「信徳は精神的建物の土台を作り、望徳はそれを建て、愛徳は屋根をつける」 と各役割を説明する。枢要徳は扉の蝶番からきているが、これについてアンブロシウスが、プラトンの『国家』をキリスト教思想に適合させ、さらにアウグスティヌス、トマス・アクィナスが体系化した。トマスの『神学大全』では、さらにこれら七美徳の付随的美徳を定義している。 また 同時代のロラン・ ドレアンはその『王の大全』において、四枢要徳を「賢者の堅固な家の四つの塔」にたとえている。さらにセネカ著とされる「徳について」は、15世紀に大いに流行した。これら七美徳の位階について、アンブロシウス(4世紀) とグレゴリウス(6世紀)は枢要徳の中で、「節制」をキリスト教徒の生活の「要」のひとつとみなした。 アウグスティヌスはパウロを引用し「愛徳」を対神徳の中で最重要の美徳とみなし、これに反してトマス・アクィナスは、「節制」は肉体的欲望を抑制する徳ゆえに、他の美徳より低く評価した。しかし13世紀以降、「節制」はとくに騎士道において再評価される。ついに15世紀のフランスの写本「アリストテレスの倫理学」(ルーアン市立図書館、Ms. 927. fol. 17v.)では、「節制」が他の美徳に君臨するかのように中央に位置するようになる。このように美徳の位階や順序は時代によって異なる。
吉川弘文館「キリスト教美術図典」【美徳】 ウィリアム・シェイクスピア「マクベス」から見る「バフォメットの偶像崇拝」(バフォメットの呪術崇拝)とは? ウィリアム・シェイクスピア「マクベス」の魔女は有名な存在である。
魔女と魔術師 D.Hexe und Zauberer. E.Witch and Magician. 人間社会に害を与える超自然的能力を備えた人たち。魔女は普通、いずれもひげのある老醜女とされている。その起源は恐らくオリエントの異教 に発し、北欧諸民族の民話と混渚し、とくに十字軍以後、東方との接触が密になってアラビア人やユダヤ人の魔術信仰も加わり、ついにはキリスト教内部にまで浸透するに至った。14世紀以来、魔女裁判が盛んになったが、16世紀の宗教改革期は異端者をもこれに巻き込み、「女呪術師などは生かしておけない」(出22:17)「あなたの間に 呪術師などがいてはいけない」(申18:10以下)などの聖句をもとに恐るべき拷問や残酷な処刑が18世紀まで続けられた。一般に彼らは悪魔と契約して、血で署名した羊皮紙に心身を悪魔に委ねる旨明記する。その見返りに金銭を得、肉体に悪魔の印刻が残る。彼らは(1)天候を左右する。(2)農作物の収穫に影響する。(3)自他ともに動物(狼、猫、ひきがえるなど)に変身させる。(4)預言する。(5)空中や海上を箒や笊を使って自由に飛行、航行する。(6)邪魔者は呪い殺す。(7)無生物 に生命を吹き込む等々の超能力の持ち主。彼らは安息日の夜集会し、猥褻な儀式を行なって、牡牛や牡羊の形の偶像を礼拝する。彼らは、 不感症のため針や釘で身体を突いたり刺されたりしても痛痒を感じないし、感情がないので泣いたりわめいたりしない。初期キリスト教美術には、あたかも魔法使いのように杖か棒で奇跡を行うモーセやキリ ストをカタコンベの壁画、石棺浮彫に見るが、これらの図像は中世には見られない。 しかし, 15世紀後半から宗教改革の盛期には魔女、魔女裁判の図像がことに北欧版画に多くなり、ショーンガウア、デューラー、クラナハ等巨匠の作品にも見られる。
吉川弘文館「キリスト教美術図典」 ちゅうとう【中東】<古代の> Middle East, ancient東方 Orient(ラテン語の日の出 oriensに由来)の領域は普通イタリア半島より東方をさし, 中東とはそのうちバルカン半島および小アジア,そしてときにシリア,パレスチナなどのレバント地方をも含んだ地域をさすが,現在では西アジアを中東または中近東と称している。
『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc. o・ri・ent [ɔːriənt,―riènt|―riənt,ɔr―] [c1375.中期英語(名詞)<中期フランス語<ラテン語 oriēns 東,日の出(orīrī「昇る」の現在分詞の名詞用法)]
『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館 ひ‐の‐もと【日の本】 《日が昇る本の意》日本の異称。日の本の国。「―一の山」
『大辞泉 第二版』 小学館 ○日(ひ)出(い)ずる国 日本の美称。
『大辞泉 第二版』 小学館 にっしょうき【日章旗】 日本の国旗である日の丸の旗。嘉永6(1853)年の M.ペリー来航後,対外関係のうえから国旗の制定が不可避となり,薩摩藩主⇨島津斉彬の考案に基づいて日の丸が採用された。明治3(1870)年1月明治新政府は郵船及商船規則(太政官布告 57号)で商船の掲げるべき国旗として,さらに同年 10月の太政官布告 651号では軍艦用の国旗として日章旗の規格などについて定めた。しかし,これは日章旗を国旗と定める明文の法規定を伴ったものではなく,既成事実としてその後も使用されてきたものであった。そのため 1999年8月に「国旗・国歌法」を制定し,正式に日章旗を国旗と規定した。
『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc. しょうとくたいし【聖徳太子】 [生] 敏達3(574).大和 [没] 推古30(622).2.22. 大和 古代,推古朝の摂政。厩戸皇子,豊聡耳(とよとみみ)皇子といい,また上宮太子とも称する。用明天皇の皇子,母は穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后。叔母推古天皇の皇太子となり,摂政として内政,外交,仏教の興隆に力を尽した。皇太子摂政の慣習はここに始ったが,これは従来大臣,大連にゆだねられてきた国政総理の職掌を皇室に取戻そうとしたものである。推古 11(603)年⇨冠位十二階を,翌 12年『⇨十七条憲法』を定め,豪族勢力を押えて中央集権的官僚国家建設の準備を整えた。外交面では任那回復のための⇨新羅征討が重大問題で,また新羅問題を有利にし先進文化を輸入するため隋とも国交を開始し,同 15年に⇨小野妹子を派遣した。仏教を深く信仰し,これを弘通させることに努力し,⇨法隆寺,四天王寺などを建立し,仏典の注釈『三経義疏』を著わしたと伝えられる。墓は大阪府南河内郡太子町の磯長墓(しながのはか)。
『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc. 聖徳太子が書いた「日出ずる処の天子」が「オリエントの異教」であるのなら「日没する処の天子」が指した「中国」とはいい意味だったのです。
○日(ひ)没する処(ところ) 日の沈む国。日本の西にある国の意で、中国をさす。推古天皇15年(607)遣隋使小野妹子の携えた国書にある「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」による。
『大辞泉 第二版』 小学館 私は拓殖大学2年時にセミゼミと称する「シェイクスピア入門」の講義を受講した。 私は外国語学部英米語学科であったがこの講義は工学部棟で行われた。 又、冨田爽子先生は工学部所属であってそこが不思議だった。 冨田爽子先生は当時継続刊行中だったシェイクスピア全集の翻訳者・松岡和子と友人であると語っていた。 私はこの講義で福田恆存翻訳と松岡和子翻訳の2つの翻訳本を使用して講義に参加することにした。 レポートでは柄谷行人先生の「マクベス論」と「四大悲劇」をテーマにして論文を作成しそこそこの評価を頂いた。 当時はロシア映画「リア王」やロマン・ポランスキー「マクベス」、オーソン・ウェルズ「オセロー」などを喜んで鑑賞していた。 私にとってウィリアム・シェイクスピアに関するかなりいい入門講義となった思い出である。
ただどうして冨田爽子先生は外国語学部英米語学科所属ではないのだろうかと疑問を感じていた。 シェイクスピアなら工学部ではなく外国語学部英米語学科こそ本家本流である。
工学部棟は八王子キャンパスの最深部に位置する鉄筋コンクリート造の近代的建築だった。 他の校舎に比べ作りが非常によく見栄えが良かった。
私は工学部棟にある第三食堂の大盛りカレーライス愛好者だった。 ある時に夕方訪れいつもの大盛りカレーを注文すると男性の調理師からカレーライスとドライカレーのハーフ&ハーフにしてあげると言われ喜んで食べた思い出がある。 私がいつも大盛りカレーライスを喜んで食べているのを知っていたのだろう。
シェイクスピア入門 冨 田 爽 子とみたそうこ (開講キャンパス) 八 王 子 ■目的と内容 「どこでもいい、なにもない空間一それを指して、私は裸の舞台と呼ぽう」ー鬼才演出家、 ピーター・ブルックの演劇論を検討し、演劇とは何かについて考える。考察のよすがとして、シェ イクスピアの代表的な作品をビデオで鑑賞する。16世紀のイギリスで書かれた戯曲が、400年たった 今、日本をはじめ世界中で演じ続けられている理由を考えてみたい。ジャンルを問わず、演劇に興味のある学生の参加が望ましい。シェイクスピアの作品については、必要に応じて、適宜テギスト をプリントで配布し、原文にもあたるが、どの作品も日本語に翻訳されているので、むしろ訳書を積極的に活用し、作品の全体像を把握するよう心がけたい。作品を理解するにあたって必要な、16 世紀イギリスの時代的背景や、演劇上の約束ごとにも触れる。
Act 1 Thunder and lightning.Enter three WitchesFirst Witch When shall we three meet again In thunder, lightning, or in rain?Second Witch When the hurlyburly's done, When the battle's lost and won.Third Witch That will be ere the set of sun.First Witch Where the place?Second Witch Upon the heath.Third Witch There to meet with Macbeth.Second Witch Paddock calls.Third Witch Anon.ALL Fair is foul, and foul is fair: Hover through the fog and filthy air. Exeunt
Macbeth by William Shakespeare 〔第一幕第一場〕 1 場所の指定なし 雷、稲妻。 三人の魔女が現われる。 第一の魔女 いつにしよう、また三人いっしょになるのは、雷、稲妻、土砂降りに誘われて? 第二の魔女 騒ぎが終って、戦いが敗けて勝って、そのあとで。 第三の魔女 それなら、日暮れまえに片附こう。 第一の魔女 所は、どこだ? 第二の魔女 荒れ地がいい。 第三の魔女 そうだ、そうしてマクベスに会う。 第一の魔女 すぐ行く、老いぼれ猫め! 第二の魔女 ひき蛙が呼んでいる。 第三の魔女 あいよ! 三人 きれいは穢ない、穢ないはきれい。さあ、飛んで行こう、霧のなか、汚れた空をかいくぐり。(霧のなかに消える)
福田恆存翻訳「マクベス」 最大の掟 「他者を愛する純愛信仰」は「知識(叡知)の受肉システム」であり philosophia(哲学)なのです。 イエス・キリストがこのアルカナを見い出した者へ「あなたは神の王国から遠くない」と語ったことは正鵠を得ているだろう。
最大の掟(マルコ 12:28-34) すると律法学者たちの一人が近寄って来て、彼らが議論しているのを聞き、イ エスが彼らにみごとに答えたのを見て、イエスにたずねた、「 すべての掟の中で、第一のものはどれでしょう」 。イエスは答えた、「 第一のものはこれだ、聞け、イ スラエルよ。我らの神なる主は、一なる主である。 そこでお前は、お前の神なる主を、お前の心を尽くし、お前のいのちを尽くし、お前の想いを尽くし、お前の力 を尽くして愛するであろう。 第二のものはこれだ、お前は、お前の隣人をお前自身として愛するであろう。これらより大いなる他の掟は存在しない」 。 そこでその律法学者は彼に言った、「 みごとです、先生。〔主は〕一つであり、 主を除いて他の神はありえない、と言われたのはほんとうのことです。また、心を尽くし、理解を尽くし、力を尽くして主を愛すること、そして隣人を自分自身として愛することは、すべての燔祭や犠牲よりも優れています」 。そこでイエス は、彼が賢く答えたのを見て、彼に言った、「 あなたは神の王国から遠くない」 。 これ以上は、誰も彼にあえてたずねようとはしなかった。
岩波書店「マルコによる福音書」 最大の捉(マタイ 22:34-40) マルコニ しかしファリサイ人たちは、彼がサドカイ人たちの口をつぐませたと聞き、 一つところに集まった。 そして彼らの中の一人〔 で律法の専門家である者〕が、彼を試みようとして彼にたずねた、「先生、律法の中では、どの掟が〔 最も〕 大いなる掟でしょうか」 。するとイエスは彼に言った、「 お前は、お前の神なる主を、お前 の、心を尽くしつつ、お前のいのちを尽くしつつ、お前の想いを尽くしつつ愛するで あろう。おこれが〔最も〕大いなる、そして第一の捉である。第二〔 の掟〕もこれと同じである。お前は、お前の隣人をお前自身として愛するであろう。がこの二つの〔の掟〕に、律法と預言者たちのすべてが掛かっている j
岩波書店「マタイによる福音書」 最大の掟(ルカ 10:25-29) すると見よ、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った、「先生、私は何をしたら永遠の命をが嗣〔げる〕のでしょうか」。イエスはしかし、彼に対して言った、「律法には何と書かれているか。あなたはどのように読んでいるか」。すると彼は答えて言った、「お前は、お前の神なる主を、お前の心を尽くし、お前のいのちを尽くしつつ、お前の力を尽くしつつ、お前の想いを尽くし つつ愛するであろう。また(お前は)お前の隣人をお前自身として〔愛するであろう〕」。するとイエスは彼に言った、「あなたはまともに答えた。それを行ないなさい 、そうすれば生きるだろう 」。しかし彼 は 、自らを義としたいと望んでいたの で 、イエス に言った 、「私の隣人とは誰ですか」。
岩波書店「ルカによる福音書」 サマリア人に親切にされた人の譬(ルカ 10:30-37) イエスは〔この問いを〕取り上げて言った、「ある人がエルサレムからエリコにくだって行く途中 、盗賊どもの手中に落ちた。彼らは彼の衣をはぎ取 り 、〔彼を〕めった打ちにした後 、半殺しにしたままそこを立ち去った 。すると偶然にも 、その道をある祭司がくだって来た。しかしその人を見ると 、〔道の〕向こう側を通って行った。また、同じように一人のレビ人も 「現れ 、」そのところへやって来たが 、〔その人を〕見ると 、〔道の〕向こう側を通って行った。さて 、あるサマリア人の旅人が彼のところにやって来たが 、〔彼のあの様を見て〕断腸の想いに駆られた。そこで近寄って来て、オリーブ油と葡萄酒を〔彼の傷に〕注いでその傷に包帯を施してやり 、また彼を自分の家畜に乗せて宿に連れて行って、その介抱をした。そして翌日 、二デナリオンを取り出して宿屋の主人に与え 、言った 、『この人を介抱してやって下さい 。〔この額以上に〕出費がかさんだら 、私か戻ってくる時あなたにお支払いします』。この三人のうち 、誰が盗賊どもの手に落ちた者の隣人になったと思うか 」。 すると彼は言った、「彼に憐れみ〔の業〕を行なった者です」。するとイエスは彼に言った、「行って、あなたもまた同じようにせよ」。
岩波書店「ルカによる福音書」 「愛敵」と「バフォメット」の差異 「愛敵」とは前提として、「愛」(誠実と真実)は「愛」(誠実と真実)であり、「敵」は「敵」であるとされる。 その前提の上で「汝の敵を愛せよ」と言っているのです。 これは「他者を愛する純愛信仰」となる。 だから「愛敵」とはホワイト・マジック・オーケストラを形成する高度な倫理性となります。 このような高度な倫理性は織田信長が有名であるがそれはカトリックロゴス感覚(高度な精神的姿勢・ユーモア)を示している。 そういう意味で「愛敵」にはクラシック文学の資格があり世界文学と言うことができるのです。
一方で「バフォメット」では、「愛」(誠実と真実)は「敵」であり、「敵」は「愛」(誠実と真実)であるとされる。 こういったあり方は「バフォメットの偶像崇拝」(バフォメットの呪術崇拝)を持ってして「他者を愛する純愛信仰」を完全弾圧し「他者から愛される欲望崇拝」を誇らしげに示す傲慢な暴君を誕生させるだろう。 これは織田信長の後で強烈な暴君として登場した豊臣秀吉と同様です。 これは織田信長を倒錯対象として存在した豊臣秀吉を示している。 織田信長が三位一体のペルソナであり、豊臣秀吉がビッチなモンキーだったのです。
富に関して最後に一言 織田信長が建造した安土城とはカトリック信仰都市であったと私は考えている。 それは安土城の正体が城郭建築ではなく日本バチカン宮殿を示すカトリック信仰都市計画であったという想像である。 織田信長は富をカトリック信仰へ費やしたと考えられるのです。
一方で豊臣秀吉は大阪城を築城した。 又、豊臣家臣団は多くの城郭を建築した。 その中では今でも名城と讃えられている熊本城が特に有名だろう。 ただ豊臣秀吉は富を自分勝手な大建築へ費やした。 これは一説によるとピラミッド建設による雇用問題対策という事ができる。 しかし幾らピラミッドの謎を追っても文化的価値のあり得ない王墓に過ぎない。 そこにはピラミッドの謎(エニグマ)はあってもアルカナは存在していないからである。
民にとって真に価値があるのは「知識(叡知)の受肉システム」であり philosophia(哲学)であり「他者を愛する純愛信仰」である。
ホワイト・マジック・オーケストラを形成する高度な倫理性は織田信長であろう。 そういう意味で織田信長は世界的人物だった。 「楽市楽座」や「天下布武」とは「他者を愛する純愛信仰」であったのだろう。 聖織田信長であったのです。
仮説として織田信長の居城だった安土城がカトリック信仰都市であったなら真の織田信長の居城とは何処にあるのだろうか? それが大阪城なら全ての疑問は氷解する。 何故なら現在、大阪城は何故か意図的に埋められタブーとされてるからである。 一方で熊本城は現在でも誇らしげに聳えている。 この違いは織田信長の封印を示している。 ただウルトラマンに於いて大阪城を破壊するのはゴモラである。
ユダの手紙 4-7 執筆の動機としての異端の出現(Ⅱペト二1-3) 愛する者たちよ、私たちの共通の救いについて私はあなたがたに書こうと本気で考えていたが、〔今や〕ひとたび聖なる者たちに伝えられた信仰のために戦うよう、励ますため、私にはあなたがたに書く必然性が生じた。なぜなら、ある人たちがこっそりと入り込んできたからである。彼らは、以下のさばきにあうことが昔から記されている不敬な人々である。私たちの神の恵みを放縦に置き換え、私たちの唯一の主人であり主であるイエス・キリス卜を否んでいるからである。
岩波書店「聖書Ⅴ 公同書簡」 白馬に乗る誠実と真実の騎士 D. DER Reiter Treu und Wahrhaftig auf dem weiBen Pferde. E. The Divine Worrier Faithful and True in the white horse. F. Le Cavalier Fidele et Veridique mont sur un cheval blanc. 〔典拠〕黙19:11-16 〔要旨〕天が開け,白馬に乗った誠実および真実と呼ばれた騎士が現われる。血に染まった衣をまとい,頭には多くの冠をかぶっている。囗からは剣が出,鉄の杖を手にして諸国を治める。純白の麻衣を着た天の軍勢は白馬にまたがり彼に従う。中世の注釈によれば,騎士はキリスト,白馬は罪を免れた彼の肉体である。血に染まった彼の衣は,贖いの死または殉教者のそれを意味する。4人の騎士中の射手をキリストとする中世的解釈を認めるとすれば,キリストが騎士の形をとって現われるのは黙示録では2回目である。いずれもキリストは白馬に乗っているが,勝利の象徴。彼に従う天の軍勢は教会を表わす。 〔図像〕 白馬にまたがり,天の軍勢を引き連れたキリストは 囗に剣をくわえる。
吉川弘文館「キリスト教美術図典」 信長 イクトゥス 愛敵(マタイ 5:43-48) お前は、お前の隣人を愛するであろう、『 そしてお前の敵を憎むであろう』と言われたことは、あなたたちも聞いたことである。 しかし、この私はあなたたちに言う、あなたたちの敵を愛せよ、そしてあなたたちを迫害する者のために析れ。 "そうすればあなたたちは、天におられるあなたたちの父の子らとなるであろう。 なぜならば父は、悪人たちの上にも善人たちの上にも彼の太陽をのぼらせ、義なる者たちの上にも不義なる者たちの上にも雨を降らせて下さるからである。というのも、あなたたちを愛してくれる者たちを愛したとて、あなたたちは何の報いを受けるというのか。徴税人たちでも同じことをしているではないか。また、あなたたちの兄弟たちだけに挨拶したとて、あなたたちは何の優れたことをしているというのか。異邦人たちでも同じことをしているではないか。だから、あなたたちの天の父が全き者であられるように、あなたたちも全き者となれ。
岩波書店「マタイによる福音書」 富める若者(マタイ 19:16-22) さて、見よ、ある者が彼のもとにやって来て言った、「先生、永遠の命を手にするためには、私はどのような善いことを行なえばよいのでしょう」。しかしイエスは彼に言った、「 なぜ善いことについて私にたずねるのか。善き者はただ一者のみである。もしあなたが命に入りたいと思うのなら、掟を守るがよい」 。彼は イエスに言う、「 どの〔掟〕ですか」 。そこでイエスは言った、「 お前は殺すことはないであろう、姦淫することはないであろう、盗むことはないであろう、偽証することはないであろう、 父と母を敬え、そしてお前は、お前の隣人をお前自身として愛するであろう」。そのを者はイエスに言う、「 それらはすべて守って来ました。 まだ何が足りないのでしょぅ」 。ィエスは彼に言った、「 もしあなたが全き者でありたいと思うなら、行って、自分の財産を売り化って、〔 これらの〕貧しい者たちに与えなさい。そうすればあなたは、天に宝を持とう。そうして私に従って来なさい」 。の若者はこの言葉を簡いて、悲しみのうちに去って行った。なぜなら彼は、たくさんの資産を持っていたからである。
岩波書店「マタイによる福音書」 富の危険(マタイ 19:23-26) 他方、イエスはその弟子たちに言った、「アーメン、私はあなたたちに言う、 金持ちが天の王国に入るのは大変難しいであろう。また、重ねて私はあなたたちに言う、金持ちが神の王国に入るよりは、らくだが針の孔を通り抜ける方がまだやさしい 」。弟子たちは〔 これを〕聞いて、はなはだしく仰天して言った、「 では、いつたい誰が救われるのだろうか」 。しかしイエスは彼らに言った、「これは人間にはできない。しかし、神には何でもできる」 。
岩波書店「マタイによる福音書」