【聖可愛い信仰】〈可愛いは正義〉‘Cute’ is ’justice’-『誰に愛されるのか?神or人』「愛されキャラ」の在り方は「青銅の蛇」である。
特集「可愛いは正義」とは「神に愛されキャラクター」!
イマーゴ(真善美の回復)を付け回し敵対感覚〈原罪〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)を狙う魔物に対する「護符」
最高善を躓かせる仕掛けとしての敵対感覚〈原罪〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)はサタン(最高悪)の計略でありアンチキリストの純粋無垢で穢のない欲望という屁理屈(前衛詐欺)である。
それは一見クリーンイメージの人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))が形成する天然邪悪の概念である。
それは人間の悪臭を発散しそれを高価な香水で誤魔化している。
聖なる香水とは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」であり聖水と呼ばれる。
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."
ケネディ大統領はアイルランド系であり『カトリック』であった。
「神に愛されキャラ」に対する黒ミサカルト(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)として「人に愛されキャラ」は存在する。
最高善の神は「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」を愛し、人は「キャリア(黒ミサカルト)」を愛す。
「キャリア(ユング心理学の面子)」とは人間関係の産物であり幾らでも捏造可能な「INNOCENT(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)」である。
悪臭を発する「人に愛されキャラ」から身を守る「護符」である。
1 「可愛いと愛されキャラ」
「可愛い(カトリックエリート)」は人間理性の「福音(キリスト)の香り」
「人に愛されキャラ」は黒ミサカルト(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)を至上とする黒ミサカルトエリートの「人間臭さ」であり「悪臭」を発する。
「人に愛されキャラ(ユング心理学の面子)」と「可愛い(フロイト精神分析のペルソナ)」の違いを明確にするために先ず両者の「一般論」を引用する。
「可愛いは正義」
2 「カトリックエリート」の在り方と「黒ミサカルトエリート」の「INNOCENT(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)」の縮図-「可愛い」と「人に愛されキャラ」の「差異」のストーリー
【可愛い】の在り方と【人に愛されキャラ】の在り方は【カトリックエリート】の在り方と【黒ミサカルトエリート】の【INNOCENT(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)】の在り方の問題を孕んでいる。
何故なら「可愛い」とは「カトリックエリート」の在り方のことであり「INNOCENT(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)を嫌悪する最高善の神からの「愛徳」を受ける「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」の在り方のことに他ならないからだ。
ここで言えることは「可愛い(Holy Communion)」と「INNOCENT(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)」の違いが「ダビデ」と「ゴリアテ」の違いとなる。
そして「人に愛されキャラ」はINNOCENT(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)であり決して「純粋無垢な愛(最高善信仰)」を示しては居ないのです。
INNOCENT(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)は「純粋無垢なディザイア」を示しています。
それは「穢のないディザイア」という欲望を美化する「屁理屈」です。
私はクリント・イーストウッド主演の映画「ダーティハリー」が好きです。
この映画は「穢のないディザイア」に対する批判の映画です。
INNOCENT(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)をカトリックエリートの在り方が討ち取っていくのです。
これは「神に愛されキャラ」という「可愛い(Holy Communion)」の在り方です。
最高善信仰(愛徳)に殉じる「神に愛されキャラ」は「可愛い(Holy Communion)」の存在なのです。
※INNOCENT(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)は「最高善信仰を解すカトリックエリートを無邪気にはしゃぎながら弾圧するサタン(悪魔)」なのです。
※INNOCENT(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)は「理性」がないのだ。
INNOCENT(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)はゴリアテを嫌悪しない。
それはINNOCENT(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)が「ダビデ(カトリックエリート)としてゴリアテ(黒ミサカルトエリート)を殺害することが決してないという事実」を示している。
INNOCENT(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)は黒ミサカルトによってユング心理学の面子を造るだけなのです。
その面子が人間関係の産物(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)の形成する黒ミサカルトエリートなのです。
そしてそれは「人に愛されキャラ」として存在します。
しかしそれは「信仰」が形成する「オリジナル」に対し詐欺行為として存在します。
詐欺行為に「愛徳」はなく全く可愛くありません。
キリスト教カトリック神学(ユダヤ神学)を信仰し「最高善の神」から「愛徳」を得るものは「INNOCENT(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)」を嫌悪する「最高善の神」を直観できる感性持ったカトリックエリートです。
また「可愛い(Holy Communion)」は自らもダビデ(カトリックエリート)の如くINNOCENT(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)のゴリアテ(黒ミサカルトエリート)を滅ぼす存在なのです。
「可愛い(Holy Communion)」と「INNOCENT(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)」は全く違うのだ。
「可愛い(Holy Communion)」は最高善の神の愛徳を受けた「神の子」を意味している。
だから「可愛い(Holy Communion)」とは「神に愛されキャラクター」のことを示している。
「人に愛されキャラクター」は全く可愛くないのです。
何故ならばそこに「詐欺行為」だけがあって「愛徳」がないからです!
「去勢した猫」の世話をして「愛徳」があるわけがないのです。
それは「INNOCENT(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)」であって「愛徳」ではないのです。
「神に愛されキャラ」はダビデ(カトリックエリート)の如くイエス・キリスト(カトリックエリート)の如くある「神の子」を示している。
その最大の掟は〈「悔い改め」とそれに対する「自己愛」という「隣人愛」〉であるのです。
それは「信仰」を確保する姿勢です。
3 「人に愛されキャラクター」
「神に愛されキャラクター」に対し黒ミサカルト(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)で攻撃する存在が「人に愛されキャラクター」であり一般の世に言う「愛されキャラ」であります。
それは本来「全く可愛くない存在」であるでしょう。
「愛されキャラ」は「人ウケ」として存在し「大ウケ狙い」のポピュリズムであるからです。
しかしその「ウケ狙い」も「虚飾」であるのです。
何故ならば「黒ミサカルト(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)」の「お約束(大ウケ)」であり他者の主観がそれを判断しているわけではないからです。
お約束(大ウケ)は「人に愛されキャラ」の「ユング心理学の面子」を形成します。
それは「タモリの芸」が有名でしょう。
お約束(大ウケ)は何一つ面白くなくても面子が形成されます。
タモリは「人に愛されキャラ」ではあるでしょう。
しかしタモリは「悪臭」を発散するのです。
最近の例を挙げればTBS系「THE TIME」の朝の生中継で「三谷幸喜演劇」の宣伝が行われていました。
それ自体は特に非難されるものではないでしょう。
しかし三谷幸喜は自分の公演演劇についてこの様に語りました。
「開演して直ぐに笑いが来ますよ!」と三谷幸喜本人が豪語したのです。
私はそれを聴いて三谷幸喜のカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を疑いました。
本来「笑い」とは「観客」の「主観」によるものです。
三谷幸喜が「笑いを齎す」と幾ら主張しても「面白くないもの」は笑えないのです。
そこにはその観客の主観が経てきた人生が関わってくるでしょう。
それはその観客の歴史と歴史観です。
私は三谷幸喜演劇が「面白くないもの」と言いたいわけではないのです。
観客の主観によって「三谷幸喜の公演演劇」で笑う人も居ればどうやっても笑えない人も居るだろうと思うのです。
そこに三谷幸喜の冒涜感覚(オタク感覚)を垣間見ました。
結局は冒涜を祭り上げているサブカルチャーでしかないのです。
TBS系には似合っていないと感じました。
NHKの大河ドラマかフジテレビ系のドラマがお似合いです。
そういった言葉使いは三谷幸喜が言葉を理解していない証拠だと感じました。
そのようなセンスで形成した脚本の演劇に価値があると思えないです。
三谷幸喜の発言は言ってはいけない言葉であったと思います。
たまにお笑い芸人が「笑いの神が舞い降りた!」とか「何か持っている!」などと言っています。
しかしあれは「人に愛されキャラ」の「ユング心理学の面子」です。
黒ミサカルト(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)のお約束(大ウケ)であり最高善信仰(愛徳)は皆無なのです。
それは「笑い」は「観客」の「主観」によってあり、三谷幸喜は「ウケ狙い」を演劇の開演直後に仕掛けたに過ぎない。
それは低俗なお笑い芸人の「原始的段階に近い」あり方で演劇成立の条件である「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」の「至高の抽象化の高み」を弾圧した劣等な見世物となっています。
三谷幸喜は言葉の使い方の「美徳」と「悪徳」が逆転したサタン崇拝者(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)であるのです。
そこが冒涜感覚でありオタク感覚でありサタン崇拝のあり方となっています。
「観客」の「主観」に「お約束」ではなく「大ウケ」するものは最高善信仰(愛徳)としてしかありえないでしょう。
何故金を払ってわざわざ馬鹿みたいに笑わなければならないのか?
行きたくもない風俗に連れて行かれて高い金を払って風俗嬢に無理矢理射精させられているような「笑い」でしかない。
品のない苦痛な「お笑い」です。
"Fair is Foul, and Foul is Fair. "
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. "
この一瞬で三谷幸喜は「言葉の使い方」が真に解っていない脚本家であると感じた。
それは黒ミサカルト(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)を至上とする黒ミサカルトエリートでありユング心理学の面子を示しています。
彼の演劇は「唯一性のペルソナの演劇(信仰から形成されるオリジナル)」ではなく「ドサ回りの黒ミサカルト(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)」でしかなかった。
彼は全く「可愛くない」のです。
しかし三谷幸喜は「人に愛されキャラクター」であるのです。
その様な黒ミサカルトエリートの実体を暴露すれば「INNOCENT(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)」の反動に依ってカトリックエリートは猛攻撃を受けます。
しかし本来「社会」とは黒ミサカルト(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)を審判する黙示信仰社会でありダビデ(カトリックエリート)がゴリアテを殺害した如くあるのです。
それはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の黙示信仰社会(最高善信仰)となる。
しかしユング心理学の理論で「INNOCENT(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)」が最上位とされ「ダビデ(カトリックエリート)」が「ゴリアテ(黒ミサカルトエリート)の敵」として猛攻撃される。
これは「ダビデとゴリアテの聖戦」なのです。
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."
それは人間の社会的関係の在り方によって判断される。
「原始的段階に近い」であるか?
"Fair is Foul, and Foul is Fair. "
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. "
「至高の抽象化の高み」であるか?
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."
そして社会的関係は「獣的な人間関係や様々なコネクション」に依って決定されそれは「神の愛徳」を無視した人間関係が「人に愛されキャラクター」のために黒ミサカルト(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)で面子を形成しそれを至上とした黒ミサカルトエリートによって「神の王国の到来」を人によって統治することを目論む。
それは「私利私欲の愛国」であるでしょう。
それは世に言う「人に愛されキャラ」の「INNOCENT(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)」の面子が醜悪さを露悪する瞬間である。
神のもとでは「人」の「詐欺行為」は嫌悪され禁止される。
「神に愛されキャラクター」が真に「可愛い」のです。
渡辺恒雄
通称「わたつね」又は「なべつね」
情勢論、特に政治的情勢論の黒ミサカルト(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)をジャーナリズムと称し政治的失政に対し全くアンタッチャブルである。
黒ミサカルト(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)を至上とした黒ミサカルトエリートの教祖の一人である。
神を至上としたカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の受肉はない。
この男の「人間臭さ」は人間理性ではなく黒ミサカルト(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)の人間の臭さである。
悪臭であるのだ。
「福音の香り」と「悪臭」
黒ミサカルト(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)を至上とする黒ミサカルトエリートの人間の臭さは「悪臭」である。
人間理性(カトリックエリート)の「人間臭さ」は「福音の香り」がするのです。
そもそも全て情勢論で片付ける手法であるから時の政権と対立することはなく、対立があったとしても日本既得権益(特権階級)による謀略宣伝機関(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)をするだけであるだろう。
それが読売新聞及び日本テレビ放送網グループの正体である。
フジテレビの逸話
私の父の姉は万博コンパニオンをしていた時に出会ったかなり年上のフジテレビ社員と結婚したという。
その時には私は生まれていないので知り得ないことだがそう聞いている。
そしてその結婚相手は文化放送出身であったらしい。
要はフジテレビ設立母体であった「日本放送、文化放送」出身者であり上級社員であったらしいのです。
だから彼らは出世していった。
また彼の兄弟は大手銀行(日本興業銀行)のエースと言われた存在であったらしい。
新聞(毎索・聞蔵)で調べてみたが「みずほ銀行」の副社長となりあの有名なATMのシステムトラブルで責任を取る形になったらしい。
しかし彼はその後も金融機構(小泉行政改革で民間人起用により)のトップに就任し出世を続けた。
彼は一体何者なのだろうか?
彼ら兄弟は驚くべき出世をしているのだ。
何故だろうか?
私は父の姉の結婚相手の正体をほとんど知らないが「家柄」か「何かの特権階級の意味」があるのかもしれない。
私はそう感じている。
日本特権階級である「薩長クーデター政権出身家系」であるかそれに関連した何か強力な黒ミサカルトエリートの出身であった可能性が高い。
「馬込沢霊園」の分譲で当選しただけの祖父祖母の大石家の墓の法事の時の話である。
「そのフジテレビ上級社員が平成天皇に傘を差し出して丁重に断られた逸話」を父の実姉が自慢げに語りだした。
あの女はいつもそうだ。
そして彼らはかなり羽振りが良かった。
「私たち家族は運がいい」と言って他人である私に同意を迫ってきた時はすごく嫌な気がした。
当時困窮していた私は本当に嫌味な連中だと感じていた。
特権階級の既得権益のくせにただ嫌味なババアだった。
うまく潜り込んだのだ。
その結婚相手はフジテレビの秘書室長に昇進しフジテレビの重役になるかの選考過程を経て落選した。
私の家族(父)に落選したと「一報」が入った。
かなり自慢もされていたし親戚一同それがどうなるか興味津々だったのだ。
ただフジテレビグループ会社である㈱ポニーキャニオンの社長に就任したと聞いた。
彼らは時々ビデオテープを貸してくれた。
それは映画「ターミネーター」や実写版の「続・オズの魔法使い」だった。
そして「カンヌ映画祭」へ招待されたと言って「フランス・カンヌ」へ行ってきたらしい。
こっちは自慢されただけだった。
特にお土産もなかったと記憶している。
フジテレビでは「グループ会社の社長」はフジテレビの重役になりそこなった「天下り社員」らしい。
当時中学生か高校生だった私にとってフジテレビ重役より「フジテレビグループ会社の社長」の方が「格下」と聞いてカルチャーチョックで吃驚した思い出であった。
フジテレビの逸話 後記
後でよく考えてみたらフジテレビ重役はフジテレビ専務やフジテレビ社長やフジテレビ会長になる可能性がある。
それを考えたらフジテレビグループ会社の社長は格下だろう。
会社の格と序列だったのだ!
そういった社会システムはカトリックエリートの在り方ではなく黒ミサカルトエリートのINNOCENT(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)の宣伝活動としてあるのだ。
それが当たり前だと宣伝する常套手段だ!
黒ミサカルト(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)を至上とする黒ミサカルトエリートなのである。
そしてグループ会社の「生え抜き社員」は社長になれないのだと知った。
「私が新卒で入社した大成建設グループもそうだったよ!」
フジテレビは鹿内家との関係がある。
日枝久は権力を奪取したらしいがカトリックエリートの在り方はない。
電波放送の宣伝活動に依る黒ミサカルトエリートのINNOCENT(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)が際立つ。
悪臭ばかりだ!
日枝神社(TBS赤坂サカス近くに鎮座している。)
4 「神に愛されキャラクター」
静かな質素な小社の祭は「信仰」と言え、大掛かりな祭礼は「崇拝」と言えるだろう。
よく日本人は「カルト」の意味がわからないと嘯いているが辞書で引いてみれば一目瞭然であり「崇拝」とされている。
特に英語辞典で引いてみれば「カルト」は「崇拝」に他ならない。
そして「信仰」と「崇拝」の違いは「祭」と「祭礼」の違いと言えるだろう。
静かな質素な小社の祭は「信仰」を至上とし、大掛かりな祭礼は「崇拝」を至上とする。
ここにおいて最高善の神(左まんじ)とサタン(右まんじ)の違いが明確となる。
メシア(左まんじ)とハーケンクロイツ(右まんじ)が聖戦の関係となる。
これが第二次世界大戦の構図である。
柳田國男の祭と祭礼
毎日新聞社パレスサイドビル屋上(東西線竹橋駅)
「人に愛されキャラクター」と違って「神に愛されキャラクター」がフロイト精神分析の「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」であることを示している。
それは最高善の神との契約でありカトリックエリートの在り方を意味している。
カトリックエリートの在り方とはINNOCENT(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)を嫌悪することが「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」の形成となりそれが「神に愛されキャラクター」となるのです。
それは黒ミサカルト(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)によって「INNOCENT(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)」の面子を立てるのがゴリアテだとするなら、ダビデはそのゴリアテと戦いそれを殺しとどめを刺すのです。
それはその「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」が聖性(最高善信仰)を帯びる理由である。
TBS今道潤三
ケネディーと関係
神に愛されキャラクター
アメリカのテレビネットワーク機能と運営
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."
旧約聖書サムエル記
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."
では「可愛い」とはなんだろうか?
「可愛い」とは「愛徳」の意味である。
最高善の神の愛徳
人の寵愛
最高善の神
5 「神の愛徳の聖性(最高善信仰)」と「人からの寵愛の詐欺行為」
「神に愛されキャラ」の「可愛い」は「純粋無垢な愛」「純粋な愛」「穢のない愛」を示しています。
それは『最高善信仰の人』です。
そしてそのような『神に愛されキャラ』を救済するメシアの再来の待望が人々に存在しそれが具現化したものが『カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)』であるだろう。
それは『Holy Communion』と言える。
どんなに穢れていてもその存在は『Holy Communion』なのです。
真の『可愛い』とは『Holy Communion』な存在であるのです。
「人に愛されキャラ」の「可愛い」は「純粋無垢な欲望」「純粋な欲望」「穢のない欲望」を示しています。
それらは黒ミサカルト(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)のオマージュ(印象操作)です。
何故なら幾ら「レトリック」を弄してもその正体は「INNOCENT(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)」に他ならないのです。
「INNOCENT(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)」と「愛徳」は違う。
どんなにクリーンイメージを弄してもそれは「INNOCENT(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)」は「INNOCENT(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)」であるだろう。
それは『七つの大罪』の根源である。
『七つの大罪』の根源として存在する『天然邪悪(原罪)』とは『INNOCENT(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)』に他ならない。
『愛徳』と『欲望』の違いとは?
『愛徳』は「カトリックエリートの在り方」であり『天然邪悪(原罪)』は「七つの大罪」であり「サタン崇拝(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)」となる。
最高善の神から愛徳を受ける「可愛い」の「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成するオリジナル)」とユング心理学における「可愛い」の「INNOCENT(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)」の面子は全く異なっている。
神から愛徳を受ける「神に愛されキャラ」の「可愛い」は「カトリックエリートの在り方」であり、人間関係の力学で形成される「人に愛されキャラ」の「可愛い」は「黒ミサカルト(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)の詐術」である。
敢えて「人間関係の力学」と評したが実際には人間関係の力学は黒ミサカルトエリートの「INNOCENT(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)」であり「詐欺行為の典型」であるのだ。
「神に愛されキャラ」である真の「可愛い」は「人間関係の力学」によって黒ミサカルト(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)で攻撃されるだろう。
しかし真の「可愛い」は「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成したオリジナル)」であり最高善の神の愛徳を受ける。
真の「可愛い」は「最高善の神の守護」を受ける存在であるだろう。
God Bless the Child
最高善の神に愛される存在が神の子である。
6 正義とは詐欺行為ではない!
詐欺行為を正義と名付けるならそれは詐欺行為其の物である。
それは悪徳を美徳とし美徳を悪徳とするサタン崇拝(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)である。
「美徳を美徳」とし「悪徳を悪徳」とすることはカトリックエリートの在り方である。
しかし「美徳を悪徳」とし「悪徳を美徳」とすることは「INNOCENT(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)」の面子を立てる黒ミサカルトエリートでありそれはサタン崇拝(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)と言われる。
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."
カトリックエリートの在り方で言えば「可愛い」は「正義」である。
「可愛い」は「正義」
‘Cute’ is ’justice’
「愛」と「正義」は「JUSTICE」
「可愛い」は「最高善の神の守護」を受ける。
God Bless the Child
「最高善の神に愛される存在」が「最高善の神の子」である。
そして「神に愛されキャラ」は「可愛い」!
「可愛いは正義」であるのだ!