【聖アニメ信仰】アニメキャラクターの「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」の研究(アニキャラの魅力とは何か?)
ミセス・ハドソン(マリー)のペルソナ
(シャーロック・ホームズの思い出)
私はサー・アーサー・コナン・ドイルの「シャーロック・ホームズの冒険」の愛好者である。
初めて読んだのは小学校四年生の時だった。
私は幼稚園の時に野球のバットが眼球を直撃する大怪我を負って一時失明していました。
その治療の過程で眼の発達障害を指摘され私は遠視のメガネをかけていたのです。
しかし遠視の眼鏡は読書にとって不快でしかない。
眼が非常に疲労するからです。
それは読書には不向きであるのです。
しかし小学四年生の時その遠視の眼鏡はかけなくていいと両親に言われました。
多分発達障害において10歳あたりで不要となるメガネだったのかもしれません。
私はよく知りませんでした。
そして小学四年生になって私は初めてまともに読書をしたのです。
それが「シャーロック・ホームズの冒険」だったのです。
私が名古屋の小学校から千葉県の小学校に転校したのは小学6年の11月でした。
千葉県の小学校にはほとんどいないも同じでした。
千葉県の小学校に愛着があるわけがありません。
そして千葉県の中学校に進学した1984年から1985年にかけて「名探偵ホームズ」というアニメが放送されていました。
私はアニメファンですが情報通ではありません。
しかしこの作品はどう見てみ宮崎駿作品に見えました。
そして「ダ・カーポ」の曲も素敵でした。
すっかり好きになっていました。
しかしこのアニメに登場するミセス・ハドソン(マリー)のキャラクターがコナン・ドイルの原作と全く違って魅力的な若き未亡人とされホームズの憧れの人とされていました。
そこがこのアニメ作品で飛び抜けて原作小説と違うところでした。
ただこのアニメは原作信仰を弾圧しアニメ作品崇拝を形成するネオ・ナチズムとはなっていませんでした。
もしネオ・ナチズム作品となっていればコナン・ドイル関係者から著作権法違反で訴えられるでしょう。
しかしこの「名探偵ホームズ」が著作権法違反にならない理由は「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」が制作されていたからです。
それは同じミセス・ハドソン(マリー)であってもペルソナ(オリジナル)として魅力あるキャラクターが成立していることを示しています。
私は知りませんでしたがこの作品は「風の谷のナウシカ」と同時上映された宮崎駿作品だったのです。
そして私は後に1986年に劇場公開された「天空の城ラピュタ」を一人で上野の映画館に観に行った時にも「名探偵ホームズ」が同時上映されていました。
私はその映画パンフレットを今でも大切に所有しています。
イマーゴ(真善美の回復)を付け回し敵対感覚〈原罪〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)を狙う魔物に対する「護符」
最高善を躓かせる仕掛けとしての敵対感覚〈原罪〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)はサタン(最高悪)の計略でありアンチキリストの純粋無垢で穢のない欲望という屁理屈(前衛詐欺)である。
それは一見クリーンイメージの人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))が形成する天然邪悪の概念である。
それは人間の悪臭を発散しそれを高価な香水で誤魔化している。
聖なる香水とは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」であり聖水と呼ばれる。
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."
ケネディ大統領はアイルランド系であり『カトリック』であった。
「アニメキャラ」と「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」の研究
詐欺行為(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)は他者の意識(知の鵜呑み)へストーキングすることで印象操作(オマージュ)を可能とする。
オマージュ(印象操作)は決して良いことではない!
それは信仰(知の廃棄)から形成されるオリジナルを弾圧する最悪行為と言えるからです。
何故ならばオマージュ(印象操作)はイマーゴ(真善美の回復)の「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」が集めた「尊敬」を弾圧するからです。
オタクとはそのようなオリジナルを弾圧する存在でありオタクの二次創作(コミックマーケット)は弾圧商売でしかありません。
もしオタクに信仰があり「信仰から形成されるオリジナル(唯一性のペルソナの確立)」を制作するならオタクではなく一人の立派な芸術家です。
しかしそれをオタク芸術とは言いません。
村上隆や庵野秀明、新海誠はオタク芸術としてサブカルチャーの芸術ジャンルを掲げていますがそれは不可能です。
何故ならば芸術(オリジナル)とオタク(弾圧)は全く違うからです。
そしてオマージュ(印象操作)と弾圧を一緒にしてしまうことへの批判に敢えて答えるとしたら、オリジナルのイマーゴ(真善美の回復)を信仰することが真のオマージュであるということを指摘するだけで理解されると思われます。
「世界」と「日本」のアニメにおける最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」への「批判」と「吟味」
それは犯罪を暴露し黙示が始まることを示している。
アニメ黙示録であるのだ。
詐欺行為対策-「オレオレ詐欺のなりきりキャラクター」に対する批判
先ず「キャラ」とは「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」を意味している。
例え「キャラクターの造形」が「人間以外の動物の造形(ダンボ)」だとしても其のキャラクター形成が「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」であるならそれは最高善の神に愛された「唯一性のペルソナの確立(キャラクターの成立)」であるのだ。
「最高善の神」とは「唯一無二」であり「唯一無二の神」に愛された対象は「唯一無二のペルソナの確立」となる。
「キャラクター造形」がたとえ「下賤な動物(毛虫のボロ)」であっても「機械ロボット(アトム)」であってもキャタクターの「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」は「魅力あるキャラクター形成」の絶対条件となる。
ただキャラクターがその造形の「呪術崇拝」が形成する象徴(偶像崇拝)の在り方(原始的段階に近い)としてあるだけの場合には視聴者(他者)の意識へストーキングすることによってオマージュ(印象操作)を形成する。
それはまさに「呪術崇拝」が形成する象徴(偶像崇拝)の在り方(原始的段階に近い)としての「偶像崇拝」の「なりきりキャラクター」の形成となる。
しかしそれはキャラクターの「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」に対するなりきり行為でしかないだろう。
そしてその「なりきりキャラクター」には「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」が存在せず「魅力を持つこと」は出来ないのだ。
最高善の神の愛徳を受けた「唯一無二のペルソナの確立したキャラクター」ではなく、ストーキング行為のオマージュ(印象操作)から形成された「偶像崇拝」の「なりきりキャラクター」となりそれは「まやかしの存在(前衛詐欺)」でしかなくなる。
シェイクスピアの「マクベス」の「三人の魔女」のようにデマゴギー(前衛詐欺)を弄する「危険な存在」となるのだ。
ただここで言えることは「キャラクターの造形」と「キャラクター」の「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」が「魅力あるアニメキャラクターの条件」であり「呪術崇拝」が形成する象徴(偶像崇拝)の在り方(原始的段階に近い)の「なりきりキャラクター」は「まやかしの存在(前衛詐欺)」であり「真に魅力を持つこと」はできない。
「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」を持ったキャラクターは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」としてあり「至高の抽象化の高み」にある。
それは「聖なるキャラクター」となり「呪術崇拝」が形成する象徴(偶像崇拝)の在り方(原始的段階に近い)のキャラクターは「詐欺行為」としてある「原始的段階に近い」となる。
これが何を示しているかを一言で示せば「呪術崇拝」が形成する象徴(偶像崇拝)の在り方(原始的段階に近い)は「キャラクター」ではないのだ。
人を騙し抜く行為でしかないのだ。
虚飾の存在でしかない。
一般にアニメ-ション作品は「イラスト」などが描かれて「キャラクター造形」は形成されていると考えられがちだが実はそれは大きな間違いである。
そのような「キャラクター造形」はどんなにお上手でもお絵描きがうまい幼稚園児程度の存在であるのだ。
「キャラクター」は「最高善の神」との関係としてある「唯一無二のペルソナの確立」としての「実存」であるのだ。
それは芸術(美術)としての「アニメキャラ」も同様である。
「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」のない「アニメキャラ」は「呪術崇拝」が形成する象徴(偶像崇拝)の在り方(原始的段階に近い)であり「詐欺行為」の存在である。
それは「詐欺アニメ」であり「詐欺芸術(詐欺美術)」であり「詐欺産業」であり「芸術作品」としても全く価値はない。
ただ「詐欺行為」で「地位と名誉と金と女(男)」は手に入るかもしれない。
誰かさんのように・・・。
世界のアニメ制作会社
世界のアニメーション作品は古くからアメリカの「ディズニー」と「ワーナー」が有名であり、日本でも様々なアニメーションの制作会社がある。
日本のアニメ制作会社
日本では手塚治虫の「虫プロ」も有名であり、「機動戦士ガンダム」で有名な「日本サンライズ」や宮崎駿の所属した幾つかの制作会社と現在の「ジブリ」などは特に有名である。
又「新世紀エヴァンゲリオン」で有名な「ガイナックス」とその主要メンバーが新たに設立した「スタジオカラー」も最近では有名である。
他にも有名作品を制作したアニメーション制作会社は多数ある。
「良作アニメ」の条件は「芸術性の確立」の「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」でありそのためには最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」を嫌悪し撃ち殺す意志が必要である。
だからアニメ作品を批判し鑑賞する上で私の「嗅覚」を最も刺激する点は最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」に関する「キャラクター設定」と「ストーリーの設定」である。
「敵対感覚(原罪)」の「異臭」がする作品は観る気がなくなるのだ。
反吐が出るというやつだね。
では「キャラクター」に関する「一般論の定義」を示したい。
これは「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」というより「キャラクター造形」の「一般論」と言っていいだろう。
様々な要素から造形されるキャラクターはどのような理論(前衛詐欺)で成り立っているかを知ることはその「知の鵜呑みを廃棄」し「知の排除」から「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の受肉へ向かうためには絶対に必要であるだろう。
「キャラクター造形」に関する「一般論の定義」
「キャラクター造形」の一般論の概論
以上の「キャラクター造形」の「一般論」を前提にしてありえる「キャラクター」及び「作品世界観」は無限大にあると言えるだろう。
それは「アニメのキャラクター造形のやり方」を端的に示していることが理解される。
全てのアニメキャラクター造形はこのような「性格・人格形成」の「一般論」や「医学的仮説、医学的一般論」によって為されていることが一読して理解される。
ただ以下に示すように「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」のキャラクターとして魅力を持つということがなければそれは最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」でしかないだろう。
何故ならばそのキャラクター造形は「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」を貶め弾圧してある「詐欺行為の在り方」であり「敵対感覚(原罪)」でしかないからだ。
最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」とは視聴者の意識へストーキングすることでそのオマージュ(印象操作)により形成された「呪術崇拝」が形成する象徴(偶像崇拝)の在り方(原始的段階に近い)の「なりきりキャラクター」である。
「唯一無二のペルソナの確立したキャラクター」の魅力と最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」は絶対に同一とならないのだ。
アニメキャラクターの「倫理観」とその「魅力」
「唯一無二のペルソナの確立したキャラクター」は最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」を嫌悪し撃ち殺す意志を持った存在である。
最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」を「高貴」とするアーリア人のキャラクター造形とは違う。
そのような存在はオマージュ(印象操作)として形成された「呪術崇拝」が形成する象徴(偶像崇拝)の在り方(原始的段階に近い)の「なりきりキャラクター」でありそのような「まやかしの存在」を「高貴としたアーリア人のキャラクター」である。
アーリア人のキャラクターは「呪術崇拝」が形成する象徴(偶像崇拝)の在り方(原始的段階に近い)のキャラクター造形であり「唯一無二のペルソナの確立したキャラクター」とは全く違う。
「破綻した作品」として有名な鳥山明「ドラゴンボール」は「呪術崇拝」が形成する象徴(偶像崇拝)の在り方(原始的段階に近い)の典型として形成された「なりきりキャラクター」であり「まやかしの存在」を高貴としたアーリア人のキャラクターである。
「唯一無二のペルソナの確立したキャラクター」は「呪術崇拝」が形成する象徴(偶像崇拝)の在り方(原始的段階に近い)を嫌悪し撃ち殺す意志を持つ。
そしてそのような「倫理観」を持った存在は魅力を形成する。
クリント・イーストウッドが演じるキャラクターと同様である。
その一方でアーリア人のキャラクターは「呪術崇拝」が形成する象徴(偶像崇拝)の在り方(原始的段階に近い)に「鈍感」であり又それを自ら容認し共犯関係を形成する「反倫理観」の存在である。
アニメキャラクターの「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」にある「倫理観」によってそれは「魅力ある存在」となる。
それは「唯一無二のペルソナの確立したキャラクター」であり「最高善の神の愛徳」であるからだ。
だから最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」を問わないキャラクター造形には「倫理観」はなく「魅力」はない。
「唯一無二のペルソナの確立したキャラクター」ではなくストーキングによって形成された「呪術崇拝」が形成する象徴(偶像崇拝)の在り方(原始的段階に近い)の「なりきりキャラクター」でしかないからだ。
「魅力のないキャラクター」は「真には人気がない」のだ!
最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」をアーリアとするキャラクター造形は「呪術崇拝」が形成する象徴(偶像崇拝)の在り方(原始的段階に近い)を意識せずそれを嫌悪せずそれを撃ち殺さないことで「反倫理観」として存在する。
それはただの深みのない「オタク芸術(オタク商品)」の「廃棄物」となるだけである。
「唯一無二のペルソナの確立したキャラクター」の弾圧はサタンの「詐欺行為」の「なりきりキャラクター」であるのだ。
そういった「なりきりキャラクター」は真の聖なる芸術性(美術性)が欠落している。
「聖」を完全弾圧するサタンの「邪さ」しかないのだ。
中身が「純粋虚構(詐欺行為)」としての虚無(邪さ)であるオタク芸術(オタク美術)の「呪術崇拝」が形成する象徴(偶像崇拝)の在り方(原始的段階に近い)でしかない。
キャラクター造形の「呪術崇拝」が形成する象徴(偶像崇拝)の在り方(原始的段階に近い)の問題となる。
「呪術崇拝」が形成する象徴(偶像崇拝)の在り方(原始的段階に近い)の造形は最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」をアーリアとするものである。
デザイン造形の屁理屈(前衛詐欺)で最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」をアーリアとしているだけである。
最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」を嫌悪し撃ち殺す意志のないデザインは全てアーリア人のデザインとなる。
ただ「最高善の神の愛徳」から「唯一無二のペルソナの確立したキャラクター」となるものは其のキャラクター造形によってあるのではなく「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」に拠ってしかありえない。
それが象の「ダンボ」であっても良いということなのだ。
キャラクター造形によるアーリアは「呪術崇拝」が形成する象徴(偶像崇拝)の在り方(原始的段階に近い)の中身の「虚無」を「レトリック」として飾り立てる詐欺行為にすぎない。
最高善の神の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」は「無知の知」の知識に依ってしかあり得ないのだ。
アーリア人の「呪術崇拝」が形成する象徴(偶像崇拝)の在り方(原始的段階に近い)を問うことは禁忌とされる。
それはフジテレビ社員の「呪術崇拝」が形成する象徴(偶像崇拝)の在り方(原始的段階に近い)を問うことを禁忌とする彼らの「一方的ルールの押しつけ」と同様である。
これはゲッペルスの宣伝方法なのである。
しかしこのように「呪術崇拝」が形成する象徴(偶像崇拝)の在り方(原始的段階に近い)を容認することは反倫理観であるのだ。
サタンのカルト(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)である。
「容認」とは共犯関係でありアーリア人の「呪術崇拝」が形成する象徴(偶像崇拝)の在り方(原始的段階に近い)を問わないことを言う。
明らかに「呪術崇拝」が形成する象徴(偶像崇拝)の在り方(原始的段階に近い)としてあるフジテレビ社員である。
ストーキング行為を飽くまで続ける悪しきテレビ局は潰さなければならない。
彼らの論法では「ブーメラン」となると言いたいのだろうね?
だが「ダビデ」と「敵対感覚(原罪)」は違うのだよ!
「それはお前だ!」
最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」のブーメランを狙うだけのあばずれフジテレビ社員である。
しかしブーメランとは本来は「狩りの道具」であり自分に帰ってくるから役に立つのだよ!
馬鹿者フジテレビ!
ここで「呪術崇拝」が形成する象徴(偶像崇拝)の在り方(原始的段階に近い)としてあるフジテレビの代表的アニメを一つ挙げてみる。
「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」
※このアニメの違和感は「めんま」には「あばずれ」とは絶対に言えない設定となっているところだ!
それは幽霊となって現れた「めんま」は他者の意識へのストーキングによって形成された「呪術崇拝」が形成する象徴(偶像崇拝)の在り方(原始的段階に近い)であり「めんま」の「偶像崇拝」の「なりきりキャラクター」の賛美と崇拝がこの奇妙なアニメ作品の魅力とされているからだ。
そこから「キャラクター造形」はアーリアとなりドラマツルギーは「泣ける話」となる。
しかしなんだか「唯一無二のペルソナの確立」が全く存在しない「呪術崇拝」が形成する象徴(偶像崇拝)の在り方(原始的段階に近い)だけの作品となっている。
ただ「泣けるだけの話」のように感じる。
しかしそこに「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」がないために「詐欺行為」にしか感じない。
幽霊(めんま)との交流はそれが「純真」故であり「純愛」故ではない。
「最高善の神の愛徳」は存在せず「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」のキャラクターも形成されない。
「子供の頃は純粋だった」という「キャラクター造形」を押し付けているだけである。
ただ最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」とそれをサタン崇拝と見做すことに対する不可能性(禁忌)として存在する。
要は「綺麗は穢い」「穢いは綺麗」であるのだ。
それが「めんま」をアーリアとする仕掛けなのだ。
この作品は最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」は「泣ける話」としてアーリアとされている。
「感情」をアーリアとするゲーム作品であるが最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」のゲームと言えるだろう。
それは最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」をアーリアとするゲームストーリーであり、ダビデが最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」を嫌悪し撃つ旧約聖書サムエル記(ダビデとゴリアテ)とはなっていないのだ。
これは「長井龍雪」と「岡田麿里」の作品と言われているが、彼らのこのアニメ作品には「あばずれ(反倫理観)」を感じるのだ。
彼らに「唯一無二のペルソナの確立したキャラクター」を描く才能はないと言える。
これは「泣ける話」でしかなく最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」という「感情」のアーリアのアニメ作品である。
あばずれ(反倫理観)を純真とすることを感動だと称するアーリアとなる。
その「感動」が「泣ける話」としてその「ストーリー」は「アーリア」とされる。
あばずれ(反倫理観)が純真となることでアーリアとされる。
そのような印象操作による「泣ける話」が「感動」だとしてアーリアとされるという仕組みです。
これは露骨にあばずれ(反倫理観)をアーリアにするためのドラマツルギーのトリックとなっている。
しかしこのようなドラマツルギーはネオ・ナチズムと言えるだろう。
何故ならば「最高善の神の愛徳」はなく「唯一無二のペルソナの確立したキャラクター」は描けていない。
それ故に「駄作」と言える。
要はあばずれ(反倫理観)を嫌悪する「純真さ」が本来であり「純真さ」は「ダビデ」としてある筈が「ドラマツルギー」で「アーリアの仕組み」が成立してしまう「偽の純真さ」に違和感を覚えるのだ。
ここで解りやすく言えば「めんま」は「純粋」であり「ダビデ」は「純愛」である。
「純真」があばずれ(反倫理観)を察知し嫌悪するものとしてあるのか?
それとも「純真」はあばずれ(反倫理観)をアーリアとすることなのか?
その決定的な違いがこの作品にはあるのだ。
前者の純真は純愛と言えるだろう。
「めんま」の「純真さ」とその愛らしいキャラクターに何だか「詐欺行為」を感じるのは其の所為だろう。
彼女に愛らしさはあっても「唯一無二のペルソナの確立」は感じられないのだ。
「めんま」は愛らしいが「魅力が乏しい理由」は「彼女の純真」が最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」への「不感症」を正当化しているからです。
彼女は最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」を察知し嫌悪する「純真さ(愛徳)」を弾圧しているのだ。
それこそが「純愛信仰の核」であるにも関わらず弾圧しているのです。
最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」への「不感症」による「純真さの形成」は最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」の所業そのものである。
結局は「めんま」は一匹の「雌子犬」のような「メス臭いキャラクター造形」であり又最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」の所業をする全くのサタン崇拝の「象徴」となるのだ。
「めんま」は「メス臭い雌子犬」でありあばずれ(反倫理観)其の物であるのだ。
決してキャラクターの造形は下手ではないがその創作動機はあばずれ(反倫理観)であるだろう。
この作品はどうしても「信用できない感じ」がするのだ。
このストーリーはあばずれ(反倫理観)をアーリアとすることがテーマでありそれは邪悪なストーリーである。
私にはこのアニメは確信犯的な邪悪なストーリーに見える。
TBS系MBSの「鉄血のオルフェンズ」は同じ長井龍雪と岡田麿里の作品とされているが比較してみてどうだろうか?
「虐げられた存在」であるオルフェンズ(孤児)の鉄華団の連中も「敵」もみんなすべてあばずれ(反倫理観)の存在である。
その中で「彼ら主人公たち」は「遊侠の世界」に生きそして人一倍に最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」を嫌悪し撃ち殺す意思を持つようになる。
結局そういった極度のあばずれ(反倫理観)を嫌悪し撃ち殺す意思があばずれ(反倫理観)との決定的な対決を生む。
その時に生死を分ける旧約聖書サムエル記「ダビデとゴリアテの戦い」となるが結局は聖書と違って彼らは滅ぼされてしまうのだ。
しかし其処に「唯一無二のペルソナの確立したキャラクター」の形成が見られる。
「最高善の神への純愛信仰」からある「最高善の神の愛徳」の「唯一無二のペルソナの確立したキャラクター」があるのだ。
彼ら主人公は「デブリ(廃棄物)」として徹底的に虐げられたオルフェンズ(鉄華団)でありそこから「唯一無二のペルソナの確立した愛徳のキャラクター」としてある。
ただ彼らの「敵対感覚(原罪)」故に「鉄血のオルフェンズ」も最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」をアーリアとするゲーム感覚ストーリーであるように見えるかもしれない。
しかしそれは違う。
オルフェンズ(鉄華団)の「敵対感覚(聖櫃)」は最高善の神の敵に向けられたものでありダビデとしてある。
オルフェンズ(鉄華団)は最高善の神を信仰しているのだ。
そして「悲劇」と「喜劇」と「殉教のストーリー」がこの作品には出てくる。
「悲劇」と「喜劇」は 最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」をアーリアとする「ゲーム感覚ストーリー」である。
しかしそこに「殉教」がある場合にあばずれ(反倫理観)を察知する「聖人」が存在する作品となる。
「唯一無二のペルソナの確立した聖人の殉教」は「最大の殉教」となる。
「真に泣ける話」となるのだ。
そのような聖人が描かれた作品は「高度な倫理観」を持った神聖な黙示信仰社会(Holy Communion)の芸術作品となり得る。
この作品で描かれた倫理観は最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」に徹底的に虐げられたオルフェンズ(孤児)の集まりである鉄華団の最高善の神の信仰である。
その前提があるストーリーが「真に泣ける話」でありそこからある「唯一無二のペルソナの確立した聖人の殉教の死」は身体が震えるほどの感動と涙を誘うのだ。
彼らは心から最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」を嫌悪している。
彼らはあばずれ(反倫理観)に徹底的に虐待されたからだ。
そういう意味でこのアニメはかなり「暴力(弾圧)シーン」などで話題になった。
当然だろう。
彼らがあばずれ(反倫理観)を徹底的に嫌悪する動機づけはそのようなオルフェンズ(孤児)としてのデブリ(廃棄物)扱いから或るからだ。
そこがこの2つの作品の決定的な違いである。
それが「あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない。」の露骨な最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」のゲーム感覚ストーリーとの違いを感じた。
ここにフジテレビ作品とTBS系(MBS)作品の間の如実な違いを示しているのだ。
TBS系MBSについての私見
またTBSとMBSの違いも不明である。
TBS(東京放送)にはかなりの「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」があり、MBS(毎日放送)はネットチェンジまではNET系(テレ朝系)だった。
それはMBS(毎日放送)が独自のテレビネットワークを持つことを構想していたためと思われる。
又、レッドパージによる毎日新聞に対する謀略によって毎日新聞が瀕死の状態となった時にTBS(東京放送)とMBS(毎日放送)が毎日新聞の支えとなったという事実もあるのかもしれない。
ただ当初何故両社が2つの系列に分かれていたかは不明である。
その事実確認を私は出来ていない。
私の想像だがMBS(毎日放送)をキー局とするテレビネットワーク構築構想があり、またTBS(東京放送)設立の経緯が毎日新聞系独自ではなく、読売新聞社系、朝日新聞社系、などの複数の新聞社系のラジオ局が合同で設立した放送局だった事実もあるだろう。
TBS(東京放送)は毎日新聞社が大きく関わっているが毎日新聞社独自というわけではないのだ。
結局はそれぞれの新聞社系のテレビ局が発足し独立していきTBS(東京放送)は毎日新聞社系とされるようになった。
しかし実際には関東圏で毎日新聞社独自のテレビ局は存在していないのだ。
実質的に持ち株関係から窺うとTBS(東京放送)は毎日新聞社系だといえばそうなるだろう。
だが元々の設立母体は毎日新聞社ではなくそういった経緯でMBS(毎日放送)の方に毎日新聞社系のキー局の正当性があったと言える。
しかしMBS(毎日放送)は関西圏であり関西圏をキー局とするテレビネットワーク構想は頓挫したと思われる。
現在日本のテレビネットワークのキー局は全て関東在である。
そしてTBS(東京放送)系MBS(毎日放送)も最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」への容認は赦されず、黙示信仰社会(Holy Communion)として最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」を撃つダビデの傾向が見られる。
しかしレッドパージで「牙を抜かれた毎日新聞社」にはもう力はないのだ。
しかし「唯一無二のペルソナの確立したキャラクター」の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」だけは残っているようだ。
それがMBS(毎日放送)制作のアニメに垣間見られる。
これは左翼系と言われる毎日新聞社の黙示信仰社会(Holy Communion)の影響と思われる。
左翼と言ってもコミュニズム(共産主義)もあれば黙示信仰社会(Holy Communion)もあるのだ!
「スターリン」と「ダビデの黙示信仰社会(Holy Communion)」の違いは最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」を嫌悪し撃ち殺す意思である。
「スターリン」は「ダビデ」と言えるか!
「スターリン」は「絶対権力者(弾圧者)」にすぎない。
「スターリン」が最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」を敏感に察知し嫌悪した「黙示信仰社会(Holy Communion)の聖人」と見做す人はいないだろう。
「唯一無二のペルソナの確立したキャラクター」ではなく意識へのストーキング行為から形成された「偶像崇拝」への「なりきりキャラクター」を「恐怖政治」によって行ったのだ。
「スターリン」はあばずれ(反倫理観)が発する「呪術崇拝」が形成する象徴(偶像崇拝)の在り方(原始的段階に近い)でありフロイトの言う「至高の抽象化の高み」に対する「原始的段階に近い」であるだろう。
「スターリン」は最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」だったのだ。
しかしスターリン(前衛詐欺)が国家(ソビエト連邦)の権力を掌握した。
「プーチン」はスターリン(前衛詐欺)だろうか?
日本の代表的な「スターリン」は「フジテレビの日枝久」であり「読売の渡辺恒雄」だろう。
TBS(東京放送)の白眉
TBS(東京放送)系ではあばずれ(反倫理観)に対する鈍感さは許されないのだ。
「唯一無二のペルソナの確立したキャラクター」への「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」があるからだ。
それが最悪の終わりを迎えたとしてもダビデとして生きることを止めてはいけないと言うメッセージとなる。
それが黙示信仰社会(Holy Communion)への殉教となるのだ!
そのような唯一無二のペルソナの確立したキャラクターの殉教は「最大の感動」を描くことになる。
倫理観アニメであるのはTBS(東京放送)アニメであり、あばずれ(反倫理観)を賛美する「敵対感覚アニメ(原罪)」であるのはフジテレビアニメである。
魅力と傲慢
アニメ制作におけるキャラクター造形は無限大であり無際限に製作可能である。
しかしその中で魅力あるキャラクターとは何かというアニメの解析における最重要課題がある。
アニメのキャラクター造形は様々な形態があり得ることが分かるだろう。
「製作者の匙加減で無限に制作することが可能なのだ!」
しかし名作キャラクターとなるとその評価は違ってくるのだ。
それは名作キャラクターには最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」に関する「姿勢」が如実に現れているからだ。
魅力のないキャラクター
ただ単に最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」のパーソナリティでは何の魅力もない。
それは「唯一無二のペルソナの確立したキャラクター」を完全弾圧してありえる。
視聴者の意識に対するストーキングから形成された「偶像崇拝」への「なりきりキャラクター」であるのです。
「偶像崇拝」への「なりきりキャラクター」は「偽物」であり魅力のないキャラクターとなります。
有名キャラクラーの最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」の解析
ミッキーマウス
ミッキーマウスはかなり狡猾な最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」として描かれている。
それはあばずれ(反倫理観)に対する倫理観(ダビデ)と言うよりあばずれ(反倫理観)のキャラクターのアーリア造形の基本であるだろう。
そして最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」が「人気キャラクター」となったのだ。
その描き方が最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」の人気者扱いなのだ!
兎に角あばずれ(反倫理観)が人気者として扱われるストーリー造形であり当にあばずれ(反倫理観)のスターなのだ!
最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」のスターの誕生である。
「唯一無二のペルソナの確立したキャラクター」形成はあまり見られない。
私は「ダンボ」以外ディズニーアニメは好きではない。
トムとジェリー
このアニメを私は大好きだった。
トムもジェリーも一見してあばずれ(反倫理観)のキャラクターである。
しかしその最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」の内面において相手への思いやりが時折描かれる。
それは「唯一無二のペルソナの確立したキャラクター造形」であり最高善の神の「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」と最高善の神の愛徳の在り方であるのだ。
トムはジェリーをいつも本当に食べようとして逃げられてしまう。
ジェリーもトムから必死に逃げる。
しかしジェリーが本当に死んでしまう段になるとトムは青くなって泣き出すのだ。
それは又ジェリーも同様であってトムが本当に危機に瀕すると救出するのだ。
黙示信仰社会(Holy Communion)において最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」は軽蔑される。
これは最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」ではないキャラクターを示している。
これは「なりきりキャラクター」ではない。
最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」を嫌悪し撃ち殺す意思を持っている。
そして社会において最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」は軽蔑されるのだ。
「唯一無二のペルソナの確立」は尊敬されるのだ。
手塚プロの作品
あばずれ(反倫理観)キャラクターと倫理観(ダビデ)キャラクターが手塚治虫のデザインで定型的に描かれている。
この定型的な在り方が「唯一無二のペルソナの確立」であるだろうかという疑問がある。
ただ主人公は「唯一無二のペルソナの確立したキャラクター」である作品が多い。
「最高善の神への信仰」と「最高善の神の愛徳」が「唯一無二のペルソナの確立した存在」を形成する。
しかし登場人物のキャラクター造形は一見してその「偶像」でパーソナリティは理解される。
そこからのストーリー構成である。
しかしその解りやすく「定型化したキャラクター造形」に依って一見して其のパーソナリティは視聴者(読者)に把握されるが其の弊害としてあばずれ(反倫理観)を嫌悪し撃ち殺す意思は隠蔽される場合がある。
これは手塚治虫作品における欠点である。
要は「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」が定型的なキャラクター造形だけでは描けないことを示している。
それは定型的な「偶像崇拝」によって判断されるものではない。
それではキャラクターではなく「なりきりキャラクター」となってしまうだろう。
それは「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」を装ったゴリアテとなりそれを嫌悪し撃ち殺すのがダビデでありイエス・キリストである。
そこが最重要なポイントであるが手塚治虫作品の定型化されたキャラクターのあり方がそのような繊細な感性を描くことを難しくしている。
それは「手塚治虫の欠点」である。
手塚眞について
手塚治虫の息子の手塚眞は映像作家をしているらしいが典型的なクリエーター(印象操作)でありゴリアテを繊細な感性で感じ嫌悪していない。
それは最高善の神を繊細な感性で感じられないことを意味する。
最高善の神の敵を嫌悪し撃ち殺す意思を所持していない。
最高善の神に愛された才能がないのだ。
※映画「白痴」について
私は彼の監督した映像作品である坂口安吾原作の映画「白痴」を観た。
「繊細な感性」と「芸術」についての認識を明らかに錯誤した作風だった。
当時僕は拓殖大学で学びながら柄谷行人の影響で坂口安吾を読んでいたのでこの作品に少し注目していたのだ。
安吾とフロイト
坂口安吾は、フロイトに対して否定的である。それは、一つには、彼が「快感原則の彼岸」以前のフロイトしか読んでいないことによる。しかし、彼の作品と行動は、フロイトの「死の欲動」概念をもってくるときに初めて理解できる。とはいえ、実際には、安吾はフロイトを否定しながら、重要なところで精神分析を使っている。彼は、歴史小説を書きながら、自らの方法を「歴史探偵方法論」と呼んでいる。「歴史というものはタンテイの作業と同じものだ」と。しかし、彼はそのとき精神分析を隠している。たとえば、彼は「古事記」において、主要な登場人物が必ず二人、分身的な兄弟姉妹であることを指摘して、次のようにいっている。《このように主役がそろって相似の二人であることは二人合せて一人であることを意味する場合もあるだろうと思います。もっともフィクションの作法から云うと、分身の一シが真実を説く暗示であって侭暗示の役割の方は端役的で目立たない。他の一方の、つまり暗示のカギで解かれる人物の方は表向きの主役であるが、これは真実が歪めてあって、その分身の暗示することをカギとして解明しうるものが真相であるらしい》。しかし、これは「フィクションの作法」というよりも、フロイトが「夢判断」で書いたように、置換や圧縮という「夢の仕事」なのである。記紀の編纂者たちは、夢の検閲官のように、或る事柄を隠すためにさまざまな偽装を試みたという、安吾の確信は、したがって、推理小説というよりも精神分析から来たというべきである。一九世紀における探偵小説の発展と精神分析の発展には平行性がある。たとえば、「シャーロック・ホームズ」が活動した時期はフロイトが精神分析を開始した時期である。また、ちょうど安吾が死んだころだが、ジャック・ラカンがセミナーで、ポーの「盗まれた手紙」をもとにして、精神分析を再構築しようとしたことがある。要するに、安吾は「歴史探偵」と称して、いわば「日本精神分析」を企てたのである。しかし、なぜ彼はフロイトを隠そうとしたのか。私は、この講演でそれを「推理」したい。
一人暮らしだったが近所に住んでいたクラスメイトの女子学生がその坂口安吾の映画のことを僕に仄めかして話していたので今でも印象深く覚えている。
ただこの映画の白痴は容姿が美しいのだ。
要は「偶像」が美しく描かれ作品世界観も技巧的(耽美的)で終盤の空襲のシーンも派手な耽美的爆破シーンでしかなかった。
要は「醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間」として作品を制作しているのが明らかだった。
当に庵野秀明的クリエーターである。
これは坂口安吾の名作を「呪術崇拝」が形成する象徴(偶像崇拝)の在り方(原始的段階に近い)の愚作で映画化したものだった。
坂口安吾の「白痴」は「人の中身が白痴」であるということを示している。
それは「呪術崇拝」が形成する象徴(偶像崇拝)の在り方(原始的段階に近い)の「白痴美」を示していない。
「唯一無二のペルソナの確立したキャラクター」を問うているのが坂口安吾である。
明らかに手塚眞は「白痴美」と「人の中身を問うことでありえる白痴」を錯誤した愚者であるだろう。
また坂口安吾の白痴は中身を問うという意味で人間関係は反故にされ真に最高善の神に愛された人を賛美する作品となる。
最高善の神に愛された「唯一無二のペルソナの確立」の賛美であるのだ。
男が白痴の女を匿い空襲の中で一緒に逃げるシーンはそれを意味し象徴している。
しかし手塚眞の映像作品は耽美的映像化(醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間)でしかなく私に言わせれば悪趣味な作品であり「白痴の中身を問う」という最も大事な坂口安吾の芸術価値を理解していない犯罪級の似非作品であった。
なぜ映画監督をするのにしっかり坂口安吾の作品「白痴」の中身を読まないのか?
それは彼が「猿のクリエーター」だからだ!
最高善の神を繊細な感性で感じていないことを意味する。
そしてそれは「猿のクリエーター」を意味する。
もし猿が最高善の神を感じるなら手塚眞より猿の方が高尚である。
「猿のクリエーター」と「人間のクリエーター」と「最高善の神の芸術家」は違うのだ。
真の芸術は最高善の神を感じる人によってなされる。
宮崎駿とジブリ作品
あばずれ(反倫理観)のキャラクターは存在しない。
ルパン三世の峰不二子も宮崎駿の場合は決してあばずれ(反倫理観)ではなくむしろダビデ(純愛信仰)として描かれている。
しかしそのために宮崎駿作品は性善説であると揶揄されることがある。
その理由を解説しよう。
それはダビデ(主人公)があばずれ(反倫理観)を敏感に察知する。
そこに「唯一無二のペルソナの確立」が在る。
何故ならば「信仰を入れる場所の確保」が為されていることを示しているからだ。
そこから宮崎駿作品の黙示信仰社会(Holy Communion)としての世界観を成立させている。
それはどう言うことかといえば最高善の神に対する明らかな「敵対感覚(原罪)」としてあるキャラクターと主人公が織りなすストーリーという構図ではなく、ダビデ(主人公)のあばずれ(反倫理観)を嫌悪し撃ち殺す意思によって形成される作品世界が真の黙示信仰社会(Holy Communion)として描かれている。
それは「唯一無二のペルソナの確立」の成立した聖者伝の芸術作品となる。
黙示信仰社会(Holy Communion)はあばずれ(反倫理観)に対して「モーゼの十戒」であったり、〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉の至上命令であったりする。
それがダビデによるゴリアテ殺害であり真のホロコーストであり真のスケープゴートとなりえるのだ。
それが神聖な社会の成立となりそれを描いた宮崎駿作品は芸術作品と成り得たのだ。
そういった黙示信仰社会(Holy Communion)の世界観を描き「奇跡」を起こす娯楽作品として制作されたのが「ルパン三世カリオストロの城」であり「風の谷のナウシカ」であり「ジブリ」である。
「唯一無二のペルソナの確立したキャラクター」の芸術作品として賛美される名作となったのだ。
私は本当に大好きだ!
宮崎吾朗について
ここで手塚治虫の息子「手塚眞」と同様に宮崎駿の息子「宮崎吾朗」について触れなければ両者にとってフェアではないだろう。
特にどちらかを贔屓する理由は私にはない。
人間関係で高評価された芸術家は最高善の神に愛された才能は持っていないのが通例である。
それは偽物でしかなく詐欺師でしかないことを意味する。
人間関係で高評価されたクリエーター(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa)は「呪術崇拝」が形成する象徴(偶像崇拝)の在り方(原始的段階に近い)としてある。
それは中身を問わずにあり得る評価であるからだ。
中身とは最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」を嫌う。
そして其の最高善の神を繊細で敏感な感性で感じその意に従いゴリアテ(最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」)を嫌悪し撃ち殺すことが芸術家の才能である。
最高善の神が最も嫌う「敵対感覚(原罪)」を感じてそれを嫌悪する芸術家が最高善の神に愛された真の芸術家であるのだ。
最高善の神に愛された真の芸術家が居れば人間関係で高評価される偽の芸術家がいる。
宮崎駿は最高善の神に愛された才能がある芸術家であるだろう。
では息子の宮崎吾朗はどうだろうか?
周囲の意識にストーキングをして形成した「偶像崇拝」の「なりきりキャラクター」であり「偽物」であるだろう。
アニメ映画「ゲド戦記」を観たが原作を宮崎駿スタイルの作画でなぞった紙芝居でしか無かった。
アニメ芸術映画の条件である「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」とは言えず又原作小説の宣伝でしか無かった。
しかし私は原作すら読む気がしなかった。
要は原作「ゲド戦記」の下手な広告プロモーションビデオであった。
一個の芸術作品と言える代物ではなかった。
一言で評して酷い駄作だった。
最高善の神に愛された才能(信仰)はなかった。
しかし才能とは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」である。
最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」を嫌悪し撃ち殺す意思は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」と言えるのだ。
それは芸術家に最高善の神が与えた才能であり人間に課された「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」である。
「猿知恵」とは最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」であるのだ!
それを理解していないのは頭が悪いからであり「猿知恵」とは最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」と言えあばずれ(反倫理観)であるのだ。
宮崎吾朗を見ていると「猿知恵」の「人間関係」で生きていくタイプのようだ。
芸術家の才能はないが宮崎駿の息子として「クリエーターとしての高評価」を得ている。
典型的な人間関係で高評価されるクリエーターであり「呪術崇拝」が形成する象徴(偶像崇拝)の在り方(原始的段階に近い)としてある。
人間の堕落と世界の堕落(反倫理観)
近年其の様な人間関係で高評価を得ることで芸術家となる「呪術崇拝」が形成する象徴(偶像崇拝)の在り方(原始的段階に近い)が多すぎる。
全く堕落した世界であるのだ!
堕落した世界
堕落した日本国
堕落した人間
最高善の神は最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」を嫌う。
それは堕落した人間を嫌うことを意味する。
世界は終末の時が来た!
福音から黙示録である。
そしてダビデが再来する!
イエスが再来する!
それはメシアの再来である!
キリスト教である!
ガイナックス&スタジオカラー
庵野秀明は世界観を描くがそれは黙示信仰社会(Holy Communion)を描いた世界観ではない。
だからあばずれ(反倫理観)を嫌悪し撃ち殺す意思からの世界観ではないのだ。
逆に庵野秀明の描く世界観が最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」の世界観であると言える。
それは最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」を無辜と見做してなりたつ「呪術崇拝」が形成する象徴(偶像崇拝)の在り方(原始的段階に近い)を世界観としてしまうのです。
要は明らかな「あばずれ(反倫理観)」であってもキャラクター造形はどんな人間もエヴァ(無辜)である。
それは「聖人」が乞食の格好をしていてもスターの装束の格好をしていても中身の「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」を認めることを禁忌とする。
最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」の中身を問わないことでありえるキャラクター造形によって制作された世界観はキャラクター造形の「呪術崇拝」が形成する象徴(偶像崇拝)の在り方(原始的段階に近い)でありそれは芸能人タレントと同じであるだろう。
庵野秀明には人の中身のあばずれ(反倫理観)を問わないというルール(禁忌)が存在するのだ。
誰もが無辜の存在となる。
これはテレビによる視覚効果だけで全てが決まるという一方的なルールの強制なのだ。
これがオタク世代のクリエーターの最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」の屁理屈(前衛詐欺)である。
あばずれ(反倫理観)を崇拝するのだ!
それを「娯楽」と称する。
最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」が娯楽(エンターテイメント)ならアダルトビデオと同様であるのだ。
しかし「質の悪い娯楽」である自覚がないところが最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」が如実にあらわれている。
庵野秀明は宮崎駿と同等だと主張するがそれは最高善の神に対する大弾圧なのだ!
あだち充
「みゆき」に登場する義妹みゆきは最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」である。
あばずれ(反倫理観)の行いを平気でして兄を翻弄し心配させる。
しかし彼女にとって彼女が真に最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」とされない担保は義兄への純愛信仰である。
そして二人は真にお互いを愛していたというエンドをコミックは迎える。
しかしこのアニメ作品はフジテレビで放送されていたが「打ち切り」となった。
内部事情が解らず真の理由は分からないが私の憶測では兄の資質がダビデというところがあばずれ(反倫理観)のテレビ局であるフジテレビに合わなかったのだろう。
この作品で重要と言える要素は義兄に対する義妹みゆきの純愛の在り処である。
それは義兄の持つあばずれ(反倫理観)を嫌悪し撃ち殺す意思と其の人間性にあるというところである。
義妹みゆきは義兄のあばずれ(反倫理観)を嫌悪し撃ち殺す意思を賛美しそのような男性(ダビデ)を愛している。
それは本当に兄を良いと思っていることを示している。
それは「唯一性のペルソナの確立(信仰から形成されるオリジナル)」を賛美し愛する姿勢である。
それは義妹みゆきが義兄の真の良さを知っていてそれを賛美している存在であり彼女の愛徳(純愛)は本物だと言える。
「唯一無二のペルソナの確立したキャラクター」の賛美としてあるのだ。
しかしもう一人の同級生みゆきはそのようなあばずれ(反倫理観)を嫌悪し撃ち殺す意思を賛美せずそれなりの家柄の男だと見做していたに過ぎない。
「ダビデとしての資質」を愛した義妹と「単なる男」として扱った同級生のどちらが兄を高評価しただろうか?
明確に言えば義妹みゆきは兄のダビデとしての資質を賛美し愛している。
「唯一無二のペルソナの確立」として賛美したのは義妹みゆきである。
しかし同級生みゆきは「同級生の家柄と結婚相手としての男」としてしか見ていない。
義妹みゆきは純愛であり、同級生みゆきはあばずれ(反倫理観)なのだ。
何故なら真の愛徳(純愛)がないからだ。
コミックの最後に最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」を晒すのは同級生みゆきである。
彼女は男を狙っていただけのあばずれ(反倫理観)として最後描かれている。
この作品はそれだけの作品である。
あばずれ(反倫理観)と純愛信仰のストーリーなのだ。
打ち切りの憶測
このアニメが打ち切りになった理由はあばずれ(反倫理観)ではないどころかあばずれ(反倫理観)に敏感な感性の作風であり倫理的な作品であったからそれに気付いたフジテレビが打ち切りにしたと考えられる。
あばずれ(反倫理観)と倫理観は対立するのだ!
ダビデは倫理観でありゴリアテフジテレビはそれを笑う。
しかし義妹みゆきの純愛を受けるのはダビデの男である。
それは真の純愛である。
フジテレビはいい作品を打ち切りにするのだ!
ゴリアテ滅ぼす!
サンライズ等
結局クリエーターが「芸術家」であるか「商品開発者」であるかによる。
アニメ制作は商品開発業でもある。
しかし芸術家はあばずれ(反倫理観)を嫌悪し撃ち殺す意思を持っている。
そこから「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の作品世界を構築するのがアニメ芸術家である。
「唯一無二のペルソナの確立したキャラクター」を描くのが芸術家である。
しかしあばずれ(反倫理観)を知って排除する黙示信仰社会(Holy Communion)によらず、あばずれ(反倫理観)を嫌悪し撃ち殺す意志の方を禁忌として作品を制作するクリエーターは最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」をアーリアとするキャラクター造形と世界観を制作し続ける。
だから古典的作品(クラシック)と言われるのは芸術家にとって最高の賛美なのだ。
特に黙示信仰社会(Holy Communion)の芸術作品は古典的作品となり最高に評価される。
それは最も神聖な芸術作品と成り得る。
※安彦良和(唯一無二のペルソナの確立の作者)
しかしあばずれ(反倫理観)を嫌悪し撃ち殺す意志を禁忌として新たに制作されたあばずれ(反倫理観)をアーリアとするキャラクター造形と世界観は邪悪な存在である。
最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」を商売としている。
その共犯関係で商売をしているのだ。
才能の差といえば才能の差であり、最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」と言えば最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」でしかないのだ。
美辞麗句で飾り立てても才能は無いのだ。
「醜悪を美化する幇間、美を醜悪化する幇間」なのである。
「綺麗は穢い」「穢いは綺麗」とはならず、「綺麗は綺麗」「穢いは穢い」となるのが芸術作品である。
シェイクスピアの「マクベス」を見れば明らかだろう。
「才能」と最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」の差異であり、それは「ダビデの才能」と「ヒットラーの才能」の違いである。
ダビデの才能は芸術の才能であり、ヒットラーの才能は最高善の神に対する「敵対感覚(原罪)」の才能である。
ヒットラーのあばずれ(反倫理観)を真の才能とは呼ばないだろう。
彼は滓なのだ!
レオナルド・ダ・ビンチ作品「ウィトルウィウス的人体図」
アドルフ・ヒットラーが描いた「ディズニー・キャラクター」等
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