永遠の命
毎日新聞社とは「信仰」の新聞社であろう
そしてそれはイマーゴ(神の似姿)への信仰と呼ばれる
理想的の旅人への導き
実は学問の真の意味を解し、一定の方針を立てて読書する人だけが、之によって生涯を正しく導き得ると同じ様に、この旅行といふものの意味をよく知つて、短い一日二日の旅行でも心を留めて見てあるく人が、時即ち人生を一番良く使った理想的の旅人といふことになるのである。
柳田國男はここに「読書」と「旅」について語っている。
毎日新聞社パレスサイドビル人生案内を解した私は柳田國男のこの部分を思い出し感銘を新たにしたのです。
毎日新聞社とは「信仰」の新聞社であろうと感じた。
それは理想の存在であるのです。
イマーゴ(神の似姿)への信仰
※原敬はカトリック教徒だった。
毎日新聞CMと筆者が撮影したパレスサイドビル写真集
のんちゃん可愛い(可愛いは正義)
何故今、毎日新聞社か?
毎日新聞東京本社パレスサイドビルが名建築物であると私が知ったのは一九九三年(平成五年)辺りだっただろう。
私は千葉県立船橋旭高等学校卒業後三年浪人して東中野にある東京工科専門学校建築科二年制に通学していた時だった。
当時その専門学校の校舎は酷くボロボロの建物であり建築科の担任だった先生はここは以前ラブホテルだったとウソかホントか分からないような発言をしていた。
専門学校二年時に建て替えのために中野駅近辺の商業ビルが仮設校舎となった。
今東中野に建設されている白い立派な高層建築に私は通学したことがない。
ただ一年時の東中野は穢いオンボロ校舎であったけれど図書室には建築の専門書が豊富にあった。
それは日本語で書かれているものもあれば外国語で書かれているものもあった。
なかなか建築書を洋書で読むのは難しかった。
私はそういった洋書の写真や図面をぱらぱら眺めていたのです。
私は高校の入学当初帰宅部であった。
所謂部活に無所属であったのです。
しかし高校二年時に何故か英会話部に入部する気になった。
その時クラスの同級生が一人ストーカーのようについてきて一緒に入部することになった。
しかし英会話部の卒業アルバムの写真に彼の姿はない。
彼は途中からこの船橋旭高校に転入してきた学生であった。
そして当時テレビで盛んに放送されていた中華人民共和国列車事故の進学校とは彼が転入以前に在校していた高校だったのです。
彼によると同級生の知人がこの事故で複数人死んだらしい。
そして彼はクリスチャンであると告白していた。
クリスチャンとはキリスト教徒を指すがカトリック信仰というよりプロテスタント系のキリスト教信者を指す場合が多い。
私自身は正式な洗礼は受けていないけれどカトリック信仰を持っていると感じていた。
私は彼の人間性と彼の宗教を知ってあまり好感を抱いていなかった。
何故ならば彼の差別発言(差別行為)や冒涜発言(冒涜行為)は結構酷かったからです。
それは他の学生も同様であったけれど彼が行う差別発言(差別行為)や冒涜発言(冒涜行為)は結構陰湿だった。
それは彼に典型的な悪質さがあったからです。
典型的な悪質さとは他者へ差別発言(差別行為)や冒涜発言(冒涜行為)の責任を転嫁するところだった。
彼自身が行う差別発言(差別行為)や冒涜発言(冒涜行為)を他者へ責任転嫁して行くのでした。
そして自分自身は無垢で無辜であると主張する。
「そんなバカな!」
ワザワザ自分自身で率先して差別発言(差別行為)や冒涜発言(冒涜行為)をしておきながら他者の責任にする。
そして自分自身は無垢で無辜だと主張する。
だったら彼自身が差別発言(差別行為)や冒涜発言(冒涜行為)を敢えてする理由がわからないのです。
だったらそんなバカな行為はしなければいいだろう!
もし差別発言(差別行為)や冒涜発言(冒涜行為)がしたいなら自分の責任でやれ!
それこそ正当な自己責任論だ!
彼は他者をそして特に私をバカにしきっていた!
カトリック信仰に対する強烈な嫌がらせだろう!
惚けて嫌がらせを続けるタイプの男だった。
高々高知県の進学校如きで人をバカにするな!
クズ!
馴れ馴れしくフレンドリーだった。
しかしフレンドではなかった。
あなたはフレンドの概念を知っていますか?
friend [frénd]
[中期英語 friend,frend,古期英語 frēond 友,恋人,親族〔もとは frēogan(⇀FREE)の現在分詞;ゴート語 frijōn「愛する」と同語源〕;ドイツ語 Freund と同語源]
彼は私に何故そこまで執拗に因縁を付けてきたのだろうか?
彼の悪質さはフレンドの概念へ露骨に「黒ミサの儀式」を執行したところだと見做せる。
悪意ある存在の肯定を「ヲタ芸」として祀ったのです。
それは最悪の友人(堕天使ルシフェル召喚)だったのです。
フレンドの語源は「愛する」である。
「悪意」を「友人(愛する)」と見做すことは「黒ミサの儀式」の典型的なあり方と言えます。
彼らは「友人(愛する)」へ一々敵対し「黒ミサの儀式」を執行したのです。
特に彼はカトリック信仰へ一々敵対するヤンキー(地域的エリート感覚)だったのだ。
そして多分クリスチャン(プロテスタント系)だろう。
だから「友人(愛する)」へ「黒ミサの儀式」を執行するのです。
如何にも高知県のバカがしそうなことだと思った!
彼は私に付き纏いながら私に対して典型的な悪質さを責任転嫁していった。
悪質なストーカーだった。
カトリック信仰に対するプロテスタント系の典型的な嫌がらせだったのです。
ただ彼とはラグビーの大学選手権(一九八九年)を正月休みに観戦へ行ったことをよく覚えている。
彼がラグビーをその進学校でやっていたと主張していたからです。
私は父が早稲田大学の文学部卒業だったことから早稲田大学ラグビー部の試合を父親と一緒に幼少時何度か観戦したことがあった。
今でも思い出すのが早稲田大学の本城和彦がキックを外しまくって観客の一人が「帰ったら練習だ!」と叫んでいたことが印象深かった。
また別の試合の国立競技場の帰りに瀬古利彦が神宮外苑周辺をランニングしていた。
「瀬古だ!」と周囲から歓声が上がったのです。
当時マラソンで早稲田大学の瀬古利彦の人気は非常に高かった。
ただ人気というのはカトリック信仰へ一々敵対する存在を祀る「ヲタ芸」であり「堕天使ルシフェル召喚」と同じだろうと思う。
早稲田大学の瀬古利彦と早稲田大学の村上春樹という早稲田大学の人気ランニングマンがいたということだ。
そして人気とは「ヲタ芸」であった。
私は彼との会話の成り行きで国立競技場で行われるラグビー大学選手権の観戦へ行くことになった。
その時の私は東京国立競技場でこのような発言をしたことを覚えている。
私は「美智子様が失語症になっているらしい。」と発言した。
当時皇太子妃美智子様の失語症についてマスコミ報道がなされていた。
そういった中で昭和天皇は崩御されそれによりラグビー大学選手権決勝も延期されたのです。
ただ私達が観戦した試合が正月のどの試合だったか実はあまり記憶していない。
多分単純に決勝だろうと思うが天皇崩御のため延期されていたと聞いて違っていたかもしれないと不安になった。
ただその時、彼は私の発言に対してこのように返答した。
「美智子様は頭がおかしい。キチガイだよ!」
彼は私に調子を合わせたように言い出したのです。
ここに彼の嫌らしい人間性を垣間見ることができます。
私自身は決して美智子様が「頭がおかしい。キチガイだ!」だと言いたかった訳ではなかったのです。
心労で失語症になられた方に対して同情を感じていたのです。
何故ならば当時の私も陰湿な虐めで心労を患っていたからです。
しかし彼は惚けながら嫌らしく責任転嫁と立場の逆転を図っていくのです。
そして私へ悪意のストーキングをしながら差別発言(差別行為)や冒涜発言(冒涜行為)を続けて行くのでした。
彼は惚けて悪意を止めようとはしません。
「何故?」「どうして?」
それはこっちのセリフです。
彼は惚けながら悪意を続けるのです。
「陰湿な虐め」でした。
昭和天皇は崩御され平成元年となりました。
昭和六十四年のコインは希少価値があると言われ父親が何処からか貰ってきていました。
そして一九八九年(昭和六十四年)は平成元年となったのです。
彼は差別発言(差別行為)や冒涜発言(冒涜行為)をやることで昭和の最後を終え平成の始めを飾っていきました。
しかしそれも私へ責任転嫁されていくのでしょう。
そういうあり方が私にとってとても心労になっていました。
あとクラスメイト数人で明治神宮に初詣に行ったことを思い出した。
それはいつだったか覚えていない。
一九八八年の大晦日だと思う。
しかし彼は冗談では済まないような発言を平気でしていた。
それは他の学生にも言えることではあったがただこれが「クリスチャン(キリスト教徒)」なのかと私は驚愕していた。
しかし彼が「プロテスタント」なら合点がいく。
何故ならカトリック信仰に一々敵対する存在を祀る「ヲタ芸」であるからです。
要は「詐術」を祀るカルトでしかないのです。
現代を支配しているカミオカンデ、量子力学、精神薬理学、経済学、『首』はこの典型です。
それらはカトリック信仰に対する陰湿な嫌がらせだったのだろう。
サタンの下僕です。
しかし彼は大学入試で筑波大学に現役で合格していた。
当時はまだバブル最盛期と言われていて有名大学卒業生は超売手市場だった。
彼の将来は約束されたと思われていた。
しかし彼がどうなったか私はもう知りません。
ただ高校卒業の数年後「紅の豚」を知人と千葉県の映画館で鑑賞していた時、前の席に偶然座っていた人物がそのクリスチャンの男子学生だった。
その時彼は女性とデート中だったらしい。
私はなんだか気まずい思いをしたことを強烈に覚えている。
「紅の豚」がそんな印象になってしまって嫌な気がしたのです。
気分が悪かったから映画鑑賞後に黙って立ち去った。
彼の同級生が多く死亡した中華人民共和国の列車事故に関して進学校の事件であったためマスメディアの扱いも大きかった。
又、高知県が豊臣方から徳川方へそして明治維新政府と上手く渡り歩いた特権階級の支配地域であることも影響しているのかもしれない。
そのためにエリートの卵の死として宣伝されていた。
そういったマスメディアの宣伝によってこの事件を現在でも記憶されている方は多くいらっしゃるだろう。
そしてここに毎日新聞の特集記事もありました。
ただ先程も指摘しましたがその転入生の人間性は明らかにおかしかった。
進学校から来て高慢だったからかもしれない。
他の学生にも言えることだが彼の発言にかなり「偽善」を感じていた。
「よく言うわ!」と言いたい発言が度々あった。
それはこういった感覚だった。
彼らは「友人(愛する)」ではなかった。
そして悪意を持っていながら「フレンドリー」であり「愛らしい」とされていた。
そのような偽の「友人(愛する)」の存在が「偽善」となって私を苦しめていた。
彼らは「悪意」なのに「善意」を装う「偽善者」だった。
だから私はその列車事故の話を聞いても複雑な感想を持っていた。
確かに同情に値する事件だった。
それは事故に遭われた被害者に対してであって彼にではなかった。
彼は差別発言(差別行為)や冒涜発言(冒涜行為)を続けながら自分自身は同情されるべきだと主張する立ち位置を絶えず確保していた。
しかしそれはただ図々しい行いだった。
そういった図々しい行いは人間関係で容認されていくのです。
そういったあり方が「カトリック信仰」へ一々敵対する「オタク」を祀る「ヲタ芸」であり「堕天使ルシフェル召喚」でした。
ただそういった人間関係の中で私は唯一性のカトリック信仰であったから彼らから一々敵対される格好の標的とされた訳です。
見せしめのような嫌がらせを受けることになりました。
陰湿な虐めの格好の標的とされたのです。
そういった陰湿な虐めが「ヲタ芸」のあり方です。
そして「堕天使ルシフェル召喚」は容認され「最悪の災が世に起こる凶兆」が見られるようになっていきます。
そんな中で中学校時代の同級生が紹介してくれた素敵な妹が自殺した事件がありました。
今でも彼女と出会った時を思い出します。
「鞦韆(ブランコ)」の思い出です。
その自殺事件は一九八九年十二月十八日(新聞休刊日(12月第3日曜日『1989年新設』)の翌日)にあった。
私は近くを同時刻通りかかっていました。
それは船橋グリーンハイツの交番前でありました。
いつもそこを八時一五分に通るのが高校への通学路でした。
私はその場所で同時刻何かを強烈に感じたことを今でも覚えています。
私は交番前で白い高層アパートメントを振り返り多分飛び降り自殺事件があっただろうことを察しました。
特に人が集まっている様子はありませんでした。
目視では遠すぎて何も確認できませんでした。
ただその場を支配する強烈な霊感を感じていたのです。
私は確認のためにその白い高層アパートメントへ行くか立ち止まって迷っていました。
しかし私はその遺体の確認をすることへ抵抗を感じていました。
何故ならば私は天啓(revelation)を感じていたからだろうと思います。
私はその直観に従った方がいいと思ったのです。
そして私は直観に従いました。
ただ当時自宅で購読していた朝日新聞で自殺記事をチェックしたのです。
朝日新聞の記事にだけ自殺者の実名報道がなされていました。
それにより船橋グリーンハイツの自殺者が誰だったのか容易く判明したのでした。
そして私はその自殺者が「友人(愛する)」だったことを知ったのです。
だから私にとってその自殺事件が単なる偶然と思えないものとなっていたのです。
何故、朝日新聞社だけ「実名報道」だったのだろうか?
ここに述べる感想は私の「ドクサ」の産物であってあまり大きくは言えないのですが・・・私へ伝えるためではなかったかと思いました。
しかしこの「ドクサ」はカトリックロゴスの根拠付けを持ったものであると感じました。
何故ならこの事件にはカトリック信仰が関わっているからです。
そして私はカトリック信仰の資質を持ち、彼女もカトリック信仰の資質を持っていた。
それはイマーゴを持っていたということです。
イマーゴとは「神の似姿」です。
それはイマーゴを否定するドクサではない。
「イマーゴ」(神の似姿)を持ったドクサと言えます。
そしてそういったイマーゴを持ったドクサは「霊感」となって顕現する。
それは「愛の形」です。
中2女生徒が飛び降り自殺 船橋、両親らに遺書
船橋グリーンハイツ再訪(二〇二三年)
※NHKの朝の連続テレビ小説は当時八時一五分開始でした。
※船橋旭高校の始業時間は当時八時三〇分でした。
※小学校は高根小学校
※船橋運動公園
二つの鞦韆(ブランコ)
「鞦韆考」には「鞦韆の起源」がいくらか示されている。
そこには大きく分けて二つのあり方が見られます。
私の「タロットカード連想図」
「THE LOVERS(恋人)」のカードは「純愛信仰」を示している。
一方で「バフォメットの異端教団」のカードは文鮮明「統一教会」の「合同結婚式」を想起させます。
このような「カルト教団の教祖|文鮮明」と「岸信介」の関係性も現代日本に大きな傷跡として残っているらしい。
「ラバーズ(恋人)」であるか?
「バフォメットの異端教団」であるか?
これは「純愛信仰」の存在証明となっているのです。
一つ目の鞦韆(ブランコ)
一つ目は男女関係に於ける「風俗営業」です。
数々の文学賞を受賞された「作家|高橋源一郎先生」が小学校時代の同窓会に出席され昔を回想するエッセーを読んだことがあります。
そこには或る女児が「ブランコ」を高く漕ぎあげていたことが大きく取り上げられていました。
高橋源一郎先生は「その女児がブランコを高く漕ぎあげてパンティーをワザと見せつけていた!」とイノセントに評しておりました。
こういったあり方は特に宮廷において「鞦韆」によりワザと下半身を強調することで「天子」に気に入られる機会を得るという逸話と同様のあり方です。
これは宮廷以外にもあり得たかもしれません。
「性具」の意味があった訳です。
しかしそれは「風俗営業」でしかなく「女」と「男」の両者を「呪術崇拝」から「偶像崇拝」で形成することでしかないのです。
それは「下ネタ」でしかありません。
アダルトビデオの「下ネタ」を得意になって披露していた「とんねるず」のようなものです。
それは「女」と「男」の両者の「面子」を祀り上げただけの「ヲタ芸(cult)」となっています。
「面子」を祀り上げただけの「人間関係」であり「バフォメットの異端教団」と言えます。
日本流に言えば「風俗営業の従業員」です。
それは「下賎の職業」と言えます。
高橋源一郎先生はこれを「普遍性」とした訳です。
しかしそこに「黒ミサの儀式」の「逆転」があった訳なのです。
信仰弾圧によって「呪術崇拝」から「偶像崇拝」を形成する「劣等性」へ堕していたに過ぎない訳です。
※高橋源一郎先生の「東京拘置所に於けるマスターベーション体験談」や川上未映子「乳と卵」はこのような「偽の普遍性」(劣等性)の代表選手です。
それは「逆転は正転」「正転は逆転」と為す「黒ミサの儀式」を司った「バフォメットの異端教団」と言えるのです。
「バフォメットの異端教団」が必ず陥ることになる「悪循環」は「循環論証」として表出し「特殊詐欺師」の「神演出」となります。
「神演出」は「ヲタ芸」(cult)によって形成されます。
それが彼らの作品です。
「面子」の中身とは何でしょうか?
「愛」(叡知界)はなく「邪悪」(感性界)があるのです。
「神」に叛逆した「堕天使ルシフェル」の「邪悪さ」なのです。
二つ目の鞦韆(ブランコ)
二つ目は韓国で有名な「端午の節句」の「女児の遊び」の「鞦韆」です。
一般に「端午の節句」は「菖蒲」で「厄払い」をします。
又、そういった神聖なあり方は「ブランコ」を「天から吊るすこと」に似て「神との関係」を想起させます。
「天から吊るされた遊具」とは「ペルソナ」のあり方ではないでしょうか?
それは三位一体のペルソナです。
そういった「ペルソナ」は「神と人間の関係」に於いて「イマーゴ(神の似姿)への信仰」のあり方とされます。
だから神聖な「端午の節句」で「鞦韆」を遊ぶのでしょう。
この辺りの文化は「朝鮮半島」の南北国家の分断や文化的変遷もあり「鞦韆」を一概に言えるものではないかもしれません。
ただ原勝郎「鞦韆考」に「朝鮮」に於いて「端午の節句」で「鞦韆」を遊ぶとされています。
当然の如く「ペルソナ」の確立は「男女共」に存在する筈です。
このような「唯一性のペルソナの確立」は「カトリック信仰から形成されるオリジナル」であり「イマーゴ(神の似姿)への信仰」なのです。
それは「愛徳」とも言え、単に「愛」(叡知界)とも言えるものでしょう。
これは真の「普遍性」と言えカトリック信仰のあり方なのです。
これは「逆転」ではなく「正転」のあり方です。
「逆転は逆転」であり「正転は正転」なのです。
このようなカトリックロゴス感覚は「善き羊飼い」に導かれた「好循環」なのです。
それは「神の奇跡」を齎します。
※萩尾望都「トーマの心臓」はこのようなカトリック信仰の代表選手です。
「ペルソナ」の中身とは何でしょうか?
「愛」(叡知界)があるのです。
三位一体のペルソナのあり方と言えます。
それはメシア再来と言えます。
「ユング心理学は一つ目の鞦韆(ブランコ)」|「フロイト精神分析学は二つ目の鞦韆(ブランコ)」
ここにはユング心理学を一つ目の鞦韆(ブランコ)として、フロイト精神分析学を二つ目の鞦韆(ブランコ)として見做すことができる。
フロイト精神分析学は「三位一体のペルソナ」への導きを治療としている。
フロイト精神分析学に於いて寛解のイマーゴ(神の似姿)は「三位一体のペルソナ」とされている。
しかしユング心理学は面子を祀り上げる「ヲタ芸(cult)」を「社会適合性」としている。
そしてユング心理学はそのような「ヲタ芸(cult)」へ批判的な存在の方を治療対象にしているのです。
ユング心理学は「ヲタ芸(cult)」へ強制することを「社会適合性」への治療としている。
これはカトリック信仰へ一々敵対する「偽の社会適合性」となる。
これは男女関係にも言えることである。
文鮮明の統一教会はユング心理学の手法で合同結婚式を開催している。
それは男女の面子を祀り上げるだけの婚姻を取り仕切っているのです。
一方でフロイト精神分析学に於ける性的衝動はカトリック信仰(神との関係)と男女関係の在り方を想起させる。
それは真実の愛(叡知界)による婚姻と性的関係(エロス)を意味している。
文鮮明は神を騙り男女関係を司っている。
しかしそこに真実の愛(叡知界)は存在しないだろう。
人間関係に於ける「ヲタ芸(cult)」によって男女の面子を祀り上げたあり方に過ぎない。
これは一つ目の鞦韆(ブランコ)と同じあり方を意味している。
それはタロットカード「悪魔」が意味する「バフォメットの偶像崇拝」なのです。
フロイト精神分析学は「純愛信仰」を回復させることを治療としている。
それは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」と言える。
二つ目の鞦韆(ブランコ)と同じようにカトリック信仰(神との関係)に於ける「三位一体のペルソナ」が持つ純愛信仰なのです。
それはタロットカード「恋人」が意味する「友人」(トーマの心臓)を示しています。
ここで言えることはカトリック信仰はこうあります。
「カトリック信仰はカトリック信仰」「バフォメット崇拝はバフォメット崇拝」
一方でバフォメット異端教団はこうあります。
「カトリック信仰はバフォメット崇拝」「バフォメット崇拝はカトリック信仰」
この違いが「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」と「統一教会の合同結婚式」の違いです。
この「カトリック」に対する逆転(倒錯)が「バフォメット」が持つ象徴的なあり方なのです。
カトリック信仰の三対神徳(愛徳|望徳|信徳)
神学者たちは「信徳は精神的建物の土台を作り、望徳はそれを建て、愛徳は屋根をつける」 と各役割を説明する。
マンション屋上から飛び降り 船橋・女子中生自殺
産経新聞の記事に刻まれていたバフォメットの呪詛
遺書に友人関係の悩み 女子中学生飛び降り
「船橋西署の調べたことろ、」は誤りであり、「船橋西署の調べたところ、」が正しいのです。
この産経新聞の奇妙なエニグマは「バフォメットの呪詛」を刻んだのだろうと見做されます。
毎日新聞の当該事件記事の見開きには幾つかのイクトゥスが存在すると感じた
新聞休刊日は月曜日が多い。
その理由は日曜に夕刊がないことによっているらしい。
それにより日曜の朝刊から翌日の夕刊まで休みができるという次第です。
しかし読者は新聞から一定期間遠ざけられてしまうだろう。
その意味は何だろうか?
いくらか考えてみて新聞の愛読者であれば必ず月曜日の夕刊を手に取り火曜日の朝刊に期待するであろう。
そしてその自殺事件の影響は私にとって大きかった。
それは決してマイナスの意味の影響ではない。
何故ならば私は救済されたかもしれないからです。
それは萩尾望都「トーマの心臓」を想起させました。
しかしその自殺事件が好ましいという意味ではありません。
ただそこに「友人(愛する)」があったのではないかと感じたのです。
トーマ・ヴェルナーの「友人(愛する)」とユリスモール・バイハンの「友人(愛する)」です。
ただそのような事件が起こり得る環境の中で私は生活していたことは確かでした。
そして私はその後に三年浪人して入学した東京工科専門学校の図書室で建築書を眺めていたのです。
またそこには東京工科専門学校映像科も存在していました。
私は図書室には映像化関連の書籍もありそこで「ゴダールの映画史Ⅰ|Ⅱ」を借りて読んでいました。
後に入学し拓殖大学外国語学部英米語学科の卒業アルバムにワンセンテンスをそれぞれ書くことになっていました。
私は「やりたいことの中でできることをやっていこう」と書きました。
それはジャン・リュック・ゴダールのこの本から引用した言葉であります。
私はそれをこの機会に告白しておきます。
図書室でぱらぱらと建築書を眺めていると「毎日新聞東京本社パレスサイドビル」の写真が掲載されていました。
その写真を見て私はどこが良いのかあまりピンとこなかったことを告白します。
何故ならばファサードの一部分とカーテンウォールらしき外壁の写真が掲載されていただけだったからです。
その写真だけでは平凡なビルディングに見えました。
しかし建築書に名建築として掲載されているからにはそれなりに理由があるのだろうと判断していました。
実際見てみないと解らないだろうと思っていました。
私は朝日新聞社の社屋は見たことがありました。
そこは重厚で如何にも立派なビルディングでした。
ただ「ロゴス」と「絶対知」の違いが「白ミサの儀式」と「黒ミサの儀式」の違いであって「文化」と「サブカルチャー」の違いとなっているのです。
そこが毎日新聞社と朝日新聞社の違いであったのです。
あれから三十年近くたった今日私は国立近代美術館の美術鑑賞のついでに「パレスサイドビルディング」に立ち寄ってみたのです。
そして私にとって毎日新聞東京本社パレスサイドビル人生案内は国立近代美術館の美術鑑賞よりずっと興味深かったのです。
それをここに告白し現地写真レポートで終わりにしたいと思います。
毎日新聞社の理念を象徴している「ニッポン 世界一周大飛行完成記念」
『ニッポン』記念碑の由来
毎日新聞社は、昭和14年(1939)に、国際親善を深めるための世界一周旅行をなしとげた。毎日新聞航空部所属パイロットが純国産機で操縦して、日本人として初めて太平洋、大西洋を横断し、北半球と南半球を結んで飛び、わが国の技術水準の高さを世界に示した。
使用機は、全長15メートル全服25メートル全高3.6メートルの三菱製の双発輸送機で、巡航速度は260キロメートルと、当時の最新鋭機だった。
同機の名前には、130万通にのぼる読者の応募ハガキの中から、『ニッポン』が選ばれた。
『ニッポン』は、8月26日に東京・羽田飛行場を出発、10月20日に帰国した。56日間の全行程は52,860キロメートルで、実飛行時間は194時間だった。
世界一周飛行後まもなく、毎日新聞社は『ニッポン』のスケール・モデルを地球儀にのせた記念碑を作ったが、本社屋の移転などの間に破損してしまった。そこで『ニッポン』世界一周飛行後満50年にあたることし、設立当時のままに復元した。このため年号が「皇紀」となっているほか、社名が「大阪毎日」、「東京日日」となっている。
平成元年夏 毎日新聞社
毎日神社
納税問答(マタイ 22:15-22)
だから、カエサルのものはカエサルに与えよ、しかし神のものは神に(与えよ)
毎日神社由来
本神社は昭和十四年(一九三九年)十月二十日毎日新聞社機「ニッポン」号による同社主催 世界一周大飛行の完成記念として創建された 祭神は天照大神 産土神日枝大神ならびに飛行の平安完遂を祈願し全国読者から寄進の御神符が奉安されている
同航空機は中翼単葉の双発機で翼長二五メートル・全長一六メートルの純国産 当時の日本航空科学の粋を集めて制作された 全航程五万三千キロ 北太平洋横断無着陸飛行に成功 空の難関といわれた南米アンデス越えの新記録や大西洋横断の快記録など 世界航空史に不滅の光彩を放っている
祭日 例大祭十月二十日 月例祭二十日
「読売新聞社のジブリ祭礼」と「毎日新聞社の静かな質素な小社の祭」(柳田國男)
私は宮崎駿の信仰の在り処とは読売新聞社ではなく毎日新聞社にあると感じたのです。
毎日新聞社の飛行艇こそ「紅の豚」だったのです。
「神の右側、ことばの始まり」
スクープ(情報)があったら毎日新聞社へ持ち込むと真摯に対応してくれると感じました。
新型コロナウィルスの影響かもしれないが電話で繋がるようになっていた。