【聖クリント・イーストウッド信仰】『ダーティ・ハリー』(原題 Dirty Harry)のダビデ(イエス)信仰
イマーゴ(真善美の回復)を付け回し敵対感覚〈原罪〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)を狙う魔物に対する「護符」
最高善を躓かせる仕掛けとしての敵対感覚〈原罪〉の正当化(スーパーフリー思想〈一方的自由の陰険〉)はサタン(最高悪)の計略でありアンチキリストの純粋無垢で穢のない欲望という屁理屈(前衛詐欺)である。
それは一見クリーンイメージの人間関係(カルトエリート(doxaによる黒ミサ、黒ミサによるdoxa))が形成する天然邪悪の概念である。
それは人間の悪臭を発散しそれを高価な香水で誤魔化している。
聖なる香水とは「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」であり聖水と呼ばれる。
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."
ケネディ大統領はアイルランド系であり『カトリック』であった。
「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」のダビデ(イエス)と「優等(叡智)を劣等(doxa)が勝るネオ・ナチズム」のゴリアテ(サタン)の聖戦
「完全犯罪の美意識」にとって「聖痕」は「傷」となり「穢」でしかない。
『ダーティ・ハリー』(原題 Dirty Harry)は、1971年製作のアメリカ合衆国の映画。ワーナー・ブラザース提供。
私はクリント・イーストウッド主演の映画「ダーティ・ハリー」が好きである。
映画『ダーティ・ハリー』シリーズは全五作制作されており主人公であるハリー・キャラハンはカトリックロゴス感覚(Holy Communion)を受肉する刑事であり「優等(叡智)を劣等(doxa)が勝るネオ・ナチズム」のゴリアテ(サタン)を察知すると容赦なく撃ち殺すためダーティ・ハリーと呼ばれるようになった。
「優等(叡智)を劣等(doxa)が勝るネオ・ナチズム」のゴリアテ(サタン)を撃ち殺す「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」のダビデ(イエス)が主役の映画であり、一方でカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の犯罪者にはイエス(ダビデ)が主役の映画であるのです。
この映画はダビデ(イエス)としてのクリント・イーストウッドの主演映画である。
そしてこの映画はイエス(ダビデ)としてのクリント・イーストウッドが主演の映画でもある。
クリント・イーストウッドはゴリアテ(サタン)を追い詰め容赦なく44マグナムで撃ち殺していく。
しかしその容赦の無さから付いた蔑称が「ダーティ・ハリー」なのだ。
ダビデ(イエス)はゴリアテ(サタン)を倒した。
これはハリー・キャラハンの44マグナムである。
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."
ダビデ(イエス)とゴリアテ(サタン)
イマーゴ(真善美の回復)
黙示の生き方
"Fair is Foul, and Foul is Fair. But Fair is Fair, and Foul is Foul."
"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."
ダビデ(イエス)はダーティ
「完全犯罪の美意識」にとって聖痕の徴の存在はその「美意識」の疵物の証とされる。
※1 ゴリアテ(サタン)は「叡智にdoxaが勝るネオ・ナチズム」又は「天然邪悪(イノセント)」と同じである。
※2 「ダビデ(イエス)はダーティ」は「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」は「完全犯罪の美意識」にとって穢とされることを指す。
完全犯罪の美意識にとって「聖痕の徴」は「傷」であり「穢」でしかない。
「黙示社会信仰」と「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」
しかしハリー・キャラハンの信念は「ダビデ(イエス)はダーティ」の黙示社会信仰である。
そしてゴリアテ(サタン)を撃ち殺すことこそが黙示社会信仰である。
よってゴリアテ(サタン)を容認する人間関係こそが天然邪悪(イノセント)であり「優等(叡智)を劣等(doxa)が勝るネオ・ナチズム」だと考えている。
しかし彼の生きる世界において彼を取り巻く人間関係は「優等(叡智)を劣等(doxa)が勝るネオ・ナチズム」を容認する人間関係でありハリー・キャラハンはその中で「ダビデ(イエス)はダーティ」の黙示社会信仰としてゴリアテ(サタン)を刑事として追い詰め撃ち殺していく。
だから彼は刑事という「優等(叡智)を劣等(doxa)が勝るネオ・ナチズム」のゴリアテ(サタン)を排除する職業に「ダビデ(イエス)はダーティ」としての使命を感じているのだ。
だから何があっても彼は刑事を辞めようとはしない。
現代で「優等(叡智)を劣等(doxa)が勝るネオ・ナチズム」のゴリアテ(サタン)を撃つ職業は刑事以外ありえないからだ。
この映画は「ダビデ(イエス)はダーティ」と「優等(叡智)を劣等(doxa)が勝るネオ・ナチズム」の対決のストーリーなのだ。
クリント・イーストウッドが「ダビデ(イエス)はダーティ」としてのハリー・キャラハン刑事をこうも愛する理由は何か?
この映画の正体 『聖戦と黙示』
要はこの映画の肝はハリー・キャラハンが「ダビデ(イエス)はダーティ」としてあるということと同時にあるはずの「優等(叡智)を劣等(doxa)が勝るネオ・ナチズム」のゴリアテ(サタン)の正体とは何かということなのだ!
この映画で「ダビデ(イエス)はダーティ」に依って撃ち殺される「優等(叡智)を劣等(doxa)が勝るネオ・ナチズム」のゴリアテ(サタン)の正体は何なのか?
刑法を犯した犯罪者なのか?
それとも「カトリック感覚(Holy Communion)」を貶め否定する「優等(叡智)を劣等(doxa)が勝るネオ・ナチズム」のゴリアテ(サタン)のことなのか?
犯罪は刑法において犯罪とされた行為であり、その犯行を行った者を犯罪者という。
もちろんハリー・キャラハンは刑事であるから犯罪者を逮捕する。
しかしこの映画は「単なる犯罪者」と「ゴリアテ(サタン)」の両方を描いているのだ。
それはイエス(ダビデ)の「福音」である。
それは「単なる犯罪者」とは「迷える子羊」であり、ゴリアテ(サタン)とは違うことを描いているのだ。
そしてそのような犯罪者とされた「迷える子羊」にメシアの再来が待望される。
それがイエス(ダビデ)であるのだ。
そして映画名『ダーティ・ハリー』(原題 Dirty Harry)の名前の由縁となっている。
「ダビデ(イエス)はダーティ」は「イエス(ダビデ)はダーティ」であるのです。
ダビデ(イエス)はゴリアテ(サタン)を撃ち殺す。
イエス(ダビデ)は「迷える子羊」の救済のため〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉を説く。
ダーティ・ハリーはイエス(ダビデ)でありダビデ(イエス)であるのです。
しかしイエス(ダーティ)にとってゴリアテ(サタン)は「迷える子羊」を躓きへ誘惑するサタンの下僕です。
そしてその判別は「最後の審判」である「黙示録」によってなされる。
それはダビデ(ダーティ)の業でありイエス(ダーティ)の業であり神の業である。
そしてクリント・イーストウッドが「メシア」として狙っているのはゴリアテ(サタン)の首である。
何故なら単なる刑法違反の犯罪者であるなら普通の刑事の仕事と同じであり「凡庸な作品」となるからである。
ただ刑事が犯罪者を追い掛け回すなら普通の話なのだ。
この作品の白眉はクリント・イーストウッド演じるハリー・キャラハンが「メシア」としてゴリアテ(サタン)を狙っているところであり、それが皮肉にも「ダーティ・ハリー」と呼ばれているところなのである。
「メシア」が「ダーティ」と呼ばれるのだ!
しかしその「ダーティ」は「聖痕の徴」を受肉した神聖な存在なのだ。
ハリー・キャラハンが刑事として狙っているのはゴリアテ(サタン)の首である。
彼はゴリアテ(サタン)を嫌っているが刑法で犯罪者ではないゴリアテ(サタン)を刑事として逮捕し又は撃ち殺すことはできない。
しかし相手がゴリアテ(サタン)の犯罪者であれば容赦なく撃ち殺す。
それが44マグナムの示す意味である。
この大口径の銃は獣の屠殺に使用されるのだ。
「刑法における犯罪」と「ゴリアテ(サタン)」の関係と「メシアとしての刑事の物語」が「ダーティ・ハリー」なのだ。
それは現代における信仰のイマーゴ(真善美の回復)のストーリーなのです。
これは「モーゼの十戒」と「メシア」と「ゴリアテ(サタン)」のストーリーなのだ。
信仰のイマーゴ(真善美の回復)を描いているのだから面白くて当然だったのだ。
そしてここにおいて言えることは「聖痕の徴」を受肉したメシアは神聖であるということだ。しかしその対極にあるゴリアテ(サタン)は「天然邪悪(イノセント)」であるということだ。
では「犯罪」とは何か?
ゴリアテ(サタン)を認識し嫌悪し排除しないことを黙示社会信仰に於ける犯罪という。
それは明らかに黙示社会信仰への「アンチ」でありゴリアテ(サタン)である。
信仰とは自らがゴリアテ(サタン)であれば悔い改める姿勢である。
そして其の「悔い改め」を祝福する「隣人愛」のことである。
最大の掟、良きサマリア人
「悔い改め」の賛美と喜び
生命の木 イエス(ダーティ)
この映画は「傑作芸術映画」だ!
この映画は「傑作芸術映画」だ!
それが最高善の神の至上命令である。
ゴリアテ(サタン)を認識しそれを嫌悪し排除することで「カトリックロゴス感覚・純愛メシア信仰(Holy Communion)」の入れる場所となる。
それを44マグナムで容赦なくゴリアテ(サタン)を撃ち殺し黙示社会信仰者として生きていくストーリーがハリー・キャラハンの物語である「ダーティ・ハリー」だ!
この映画はカトリックロゴス感覚(Holy Communion)の黙示社会信仰者の話なのだ!
ゴリアテ(サタン)を「聖痕の徴」を受肉したメシアが討ち滅ぼす「古典的作品」であるが「古典」とは「最高峰」という意味でありそれはこの映画が「傑作芸術映画」であることを示している。
「ダーティ・ハリー」はただの「アクション映画」ではなく「芸術映画」だったのだ!
クリント・イーストウッドがこの映画を「ハマり役」として愛した理由がよく分かる。
この映画のために何本かの大作映画のオファーを断ったとされているがそれだけの価値はあるのだ。
(それはクリント・イーストウッドへの『躓きの石』として用意されていたのだ。)
クリント・イーストウッドは躓かなかったと言える。