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【カトリック信仰】赤坂TBSのクリスマス・イブ(2023年12月24日 安息日)

「クリスマス・イブの黙示録」

天軍九隊 celéstial híerarchy

celéstial híerarchy
[the] 〖キ教〗 天軍九隊,聖秩.〓〓
★天使の 9 階級は上から seraphim, cherubim, thrones (上級三隊), dominions [dominations], virtues, powers (中級三隊), principalities, archangels, angels (下級三隊) 《virtues と principalities は入れ替わりがある》.

『リーダーズ英和辞典(第3版)』 研究社

天軍九隊 上級三隊

ser・aph /sέrəf/
―n. (pl. ~s, ser・a・phim /sέrəfÌm/)
1 〖聖書〗 セラピム⦅人間に似た姿をして 6 つの翼を備えた神の前に立つ天使; cf. Isa. 6: 2, 6⦆.
2 〖神学〗 熾(し)天使⦅天使の九階級中第一階級の天使; しばしば子供の顔の周囲を 4 枚の翼で囲んだように表される; cf. angel 1⦆.
〖⦅1667⦆ ⦅逆成⦆ ՟ seraphim (pl.) < ME seraphin < OE ▭ LL seraphin, seraphim ▭ Heb. śᵉrāphīm (pl.) ՟ śārāph ⦅原義⦆ the burning one〗

『新英和大辞典 第6版』 研究社

ケルビム
cherubim
ヘブライ語 cherubの複数形。人面または獣面で翼をもった旧約聖書の超人的存在。神の玉座や聖なる場所を守衛すると信じられ,⇨契約の櫃には黄金のケルビムが配置されていた。アッシリアの神殿を守護した,人面,雄牛の身体,ライオンの尾,翼をもったケルブ(ケラブ)が取入れられたものと思われる。キリスト教(特にカトリック)では智天使と訳し,天使の一つとしている。美術では頭と翼だけの幼児に描かれる。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

throne /ѲróUn/
―n
1a 《公けの式典などの際の》王[君主,枢機卿,司教など]の座席,王座,玉座,(教皇)聖座,司教[主教]座;神の御座(みざ):〓
b [the] 王位,帝権;司教[主教]の職[権能]〓
2 [pl] 〖キ教〗 座天使《九天使中の第 3 位;⇒CELESTIAL HIERARCHY》.
3 [the] 《口》 便座,トイレ:〓
―vt throne にすわらせる;王座[王位]につかせる,…に王権を与える.
―vi throne にすわる;王座につく.
~・less a
[OF,<Gk=high seat]

『リーダーズ英和辞典(第3版)』 研究社

天軍九隊 中級三隊

do・min・ion /dəmÍnjən | ―njən, ―niən/
―n.
1 支配力, 統治権, 主権 (sovereignty); 支配, 統治 (rule)〓
2a (国家の)領土, 領地 (territory)〓
b (封建領主などの)所領 (domain).
3 [the D―] (英連邦の)自治領の旧称〓
4 〖法律〗 (土地の絶対的)所有権.
5 [しばしば Dominions] 〖神学〗 主天使 (Dominations) ⦅天使の九階級中, 第四階級の天使; ⇨angel 1 a ⋆⦆.
〖⦅a1338⦆ ▭ (O)F ~ ▭ ML dominiō(n―) ՟ L dominium lordship, ownership ՟ dominus lord: ⇨don², ―ion〗

a 天使, 神の御使⦅天使の九階級中, 第九階級の天使⦆. ⋆中世では上から下へ次の九階級に分けられていた: 上級三隊̶seraphim (熾(し)天使), cherubim (智天使), thrones (座天使); 中級三隊̶dominions [dominations] (主天使), virtues (力天使), powers (能天使); 下級三隊̶principalities [princedoms] (権天使), archangels (大天使), angels (天使); なおこのほかに virtues と principalities [princedoms] とを入れ替えた序列も行われた〓
b 超自然的な能力をもった人.
c ⦅廃⦆ 堕落天使〓
2 〖美術〗 天使の像⦅通例翼をつけ白衣をまとっている⦆.
3 天使のような人⦅心も姿も美しい女性・可憐(れん)な子供など⦆; 親切な人〓
4 ⦅口語⦆ (演劇・催しなどの)財政上の後援者, パトロン.
5 ⦅詩⦆ 使者, 先触れ (messenger)〓
6 守護神 (attendant spirit)〓
7 昇天した[天に召された]故人.
8 エンジェル金貨⦅1470 年 Edward 四世が初めて鋳造し, 1634 年まで鋳造が続いた英国の金貨; 大天使 Michael が竜を退治している姿がついていて当時 6s. 8d. から 10s. ほどの価値があった; angel―noble ともいう⦆.
9 〖通信〗 (レーダーに映る)異物像.
10 ⦅俗⦆ 〖海事〗 =jolly jumper.
ángels on hórseback
=angels―on―horseback.
〖⦅13C⦆ aungel ▭ OF angele (F ange) ▭ LL angelus ▭ Gk ággelos messenger ⦅なぞり⦆ ՟ Heb. mal’ākh ∽ ME & OE engel ՟ Gmc (Du. engel / G Engel) ▭ LL angelus: cf. angary〗

『新英和大辞典 第6版』 研究社

vir・tue [vəːrtʃuː]〓
―n.
1 美徳,徳,善,正しさ(↔vice)⇨GOODNESS〓:〓
2 道徳的な生き方,善行,正直,廉潔:〓
3 (特に女性の)貞節,操,貞操,純潔;婦道:〓
4 (個々の)徳,美徳,道徳的美点,徳目:CARDINAL VIRTUE/NATURAL VIRTUE/THEOLOGICAL VIRTUE:〓
5 (物事・性格などの)長所,美点;価値:〓
6 ⦅古⦆ (ある結果を生み出す)力,効力;(薬などの)効きめ,効能;潜在能力:〓
7 ⦅古⦆ (神の)奇跡の力,(神が与え給う)影響力.
8 ⦅virtues⦆ 力天使:天使の9階級中の5番目の天使. cf. ANGEL 1.
9 ⦅古⦆ 男らしさ,武勇,勇猛(valor):〓
[1225年以前. 中期英語 vertu(ラテン語からの i がついて)<古期フランス語<ラテン語 virtūs 男らしさ,価値,徳(vir「男」より;⇀VIRILE)]
vir・tue・less
―adj.
vir・tue・less・ness
―n.

1 天使:天国で神に仕える霊的存在.
▶中世キリスト教の天使論では,seraphim(熾(し)天使),cherubim(智(ち)天使),thrones(座天使)の上級三隊,dominations or dominions(主天使),virtues(力天使),powers(能天使)の中級三隊,principalities or princedoms(権天使),archangels(大天使),angels(天使)の下級三隊の9階級(celestial hierarchy)のうちの最下位. ユダヤ教では Michael,Raphael,Gabriel,Uriel の四天使が有名:〓
2 ⦅廃⦆ 堕天使(▶hell’s angel「地獄の天使」,「暴走族」は現用).
3 (翼をつけ,通例,白衣をまとった)天使の像.
4 (特に神の)使者,先駆(messenger);⦅比喩的⦆ 神に遣わされたような人:〓
5
(1)天使のような(美しい,純粋な,親切な,高潔な)人:〓
(2)⦅米話⦆ いとしい人,恋人;⦅呼びかけとして⦆ お前,あなた.
6 守護神,守り神;⦅A―⦆ =Guardian Angel.:〓
7 死後魂が天国に受け入れられた人.
8 ⦅話⦆ (演劇・政治運動などの)後援者,パトロン.
9 (またángel―nóble)エンゼル金貨:1470-1634年に発行された英国の金貨;価値は6シリング8ペンスから10シリングの間を変動;大天使 Michael が竜を退治している図がある.
10 ⦅俗⦆ (鳥など)低空を飛行する物体のレーダー像.
11 ⦅俗⦆ 〖海事〗 =jolly jumper.
12 ⦅米俗⦆ 女性役を演じるホモ:〓
13 〖クリスチャンサイエンス〗 真理と愛のお告げ.
14 ⦅米暗黒街俗⦆ (泥棒やぺてん師などの)えじき,「かも」.
15 ⦅通例 angels⦆ 〖英空軍〗 高度(特に高度1,000フィート).
16 ⦅米海軍俗⦆ (空母の近くを飛ぶ)救難用ヘリコプター(▶ベトナム戦争当時に用いられた).
17 ⦅米麻薬俗⦆
(1)コカイン.
(2)=phencyclidine.
18 ⦅英俗⦆ 看護婦.
19 ⦅the Angels⦆ 米国大リーグ American League の球団 California Angels.
―v.t. ⦅主に米俗⦆ 〈演劇・政治運動などに〉経済的援助を与える.
―v.i. ⦅英空軍俗⦆ 高度を上げる:〓
◊[文学]Angel Pavement『エンジェル小路』J.B.Priestley の小説(1930).
[音楽][演劇]Angels (We Have Heard) on High グロリア賛美歌.Angel Street 米国の劇.
[映画]Angel Heart『エンゼルハート』Alan Parker 監督(1987,米)
[映画]Angels with Dirty Faces『汚れた顔の天使』M.Curtis 監督,James Cagney,H.Bogart 主演(1938,米).
[950年以前. 中期英語 a(u)ngel<後期ラテン語 angelus<新約聖書ギリシア ángelos 神の使者(ギリシャ語 ángelos「使者」の特殊用法);古期英語 engel に取って代わる]

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

能天使《九天使中の第 6 位⇒CELESTIAL HIERARCHY》(第六天魔王)

名詞

  1. 天使の集合体(天軍九隊)

the collective body of angels.
天使の集合体。

pow・er /páUər/
―n
1a 力 (force);能力;[ᴼpl] (特殊な)能力,体力,知力;力,活力,精力;〖野〗 長打力〓
b 〖機〗 動力,工程力,性能;物理的[機械的]エネルギー源,《特に》電力;〖理〗 仕事率;*《俗》 爆薬〓
2 権力,勢力,支配力,権限〈over〉;政権 (=political ~),体制;委任された権力,委任(状)〓
3 有力な人[もの],権力者,強国;《古》 軍隊;[ᴼpl] 神;[pl] 能天使《九天使中の第 6 位;⇒CELESTIAL HIERARCHY》〓
4 《口・方》 多数,多量〓
5 〖数〗 羃(べき),累乗;〖数〗 集合数,カージナル数 (cardinal number);〖統〗 検出力;〖光〗 《レンズの》倍率〓
―a 権力の;電力[原動機]で作動する,電動[動力]の;発電の,送電の;《口》 力を誇示する,有力者の[が関係する,に特有の];有力な,大物の〓
―vt …に動力を供給する[発動機を備える],動かす〈with〉;促進する,拍車をかける,駆りたてる,〈ボールを〉たたき込む.
―vi 動力を使って進む;力強く進む,疾走する.
[AF poer<L;⇒POSSE]

『リーダーズ英和辞典(第3版)』 研究社

天軍九隊 下級三隊

principalities
霊力
〈91学術・キリスト教〉

『人文社会37万語対訳大辞典』 日外アソシエーツ

prin・ci・pal・i・ty /prÌnsəpǽləṭi | ―sᶦəpǽlᶦəti/
―n.
1 prince が支配する国, 公国.
2 [the P―] ⦅英⦆ =Wales.
3 公国君主の地位; その支配権, 主権.
4 校長[学長]の地位.
5 〖神学〗
a [pl.] 権(けん)天使 (princedoms) ⦅天使の九階級中第七階級の天使 (cf. Rom. 8: 38); cf. angel, principate 3⦆.
b 霊力.
6 ⦅廃⦆ 優位, 卓越 (preeminence).
〖⦅c1350⦆ principal(i)te ▭ OF principalite (F principauté) dominion ▭ LL prīncipālitātem: ⇨principal (adj.), ―ity〗

『新英和大辞典 第6版』 研究社

arch・an・gel [áːrkèindʒəl]〓
―n.
1 〖神学〗 (ローマカトリックで)大天使,(ギリシア正教で)天使長:天使の9階級の第8番に位する. cf. ANGEL 1.
2 =angelica 1.
3 欧州産のオドリコソウ属の黄色い花の多年草(yellow archangel).
4 黒斑のある青銅色のイエバト.
[1200年以前? 中期英語 arc(h)angel<アングロフランス語,古期フランス語 arc(h)ang(e)l(e)<後期ラテン語 archangelus<ギリシャ語 archángelos]
arch・an・gel・ic [ɑːrkændʒélik]
―adj.
àrch・an・gél・i・cal
―adj.

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

árch・àngel /áːrk―/
―n
1 〖神学〗 大天使,〖東方正教会〗 天使長《天使の階級の第 8 位;⇒CELESTIAL HIERARCHY》.
2a 〖植〗 シシウド属の草本,アンゼリカ (angelica).
b YELLOW ARCHANGEL.
3 アークエンジェル《青銅色で黒斑のあるイエバト》.
àrch・angélic a 大天使[天使長]の(ような).
[OE,<Gk (arch―¹)]

『リーダーズ英和辞典(第3版)』 研究社

Angels
天使
[文化]

『人文社会37万語対訳大辞典』 日外アソシエーツ

てんし【天使】
angel
宗教において神と人間との中間におかれる霊的存在。 angelの語はギリシア語 angelos,すなわち「使者」に由来するように,一般に神意の伝達者をいう。このような中間者としての天使の観念は多くの未開宗教にみられるが,ことにグノーシス,ゾロアスター教などペルシア宗教で発展し,ユダヤ教,キリスト教(その直接的影響によってイスラム)に取入れられた。ユダヤ教では天使に階層がつけられ,ミカエル,ガブリエルなど七柱の大天使のもとに職能別に分けられた。キリスト教における天使崇敬は4世紀ごろ盛んになり,多くの天使論が著わされたが,近代にいたって下火になった。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

an・gel [éindʒəl]〓
―n.
1 天使:天国で神に仕える霊的存在.
▶中世キリスト教の天使論では,seraphim(熾(し)天使),cherubim(智(ち)天使),thrones(座天使)の上級三隊,dominations or dominions(主天使),virtues(力天使),powers(能天使)の中級三隊,principalities or princedoms(権天使),archangels(大天使),angels(天使)の下級三隊の9階級(celestial hierarchy)のうちの最下位. ユダヤ教では Michael,Raphael,Gabriel,Uriel の四天使が有名:〓
2 ⦅廃⦆ 堕天使(▶hell’s angel「地獄の天使」,「暴走族」は現用).
3 (翼をつけ,通例,白衣をまとった)天使の像.
4 (特に神の)使者,先駆(messenger);⦅比喩的⦆ 神に遣わされたような人:〓
5
(1)天使のような(美しい,純粋な,親切な,高潔な)人:〓
(2)⦅米話⦆ いとしい人,恋人;⦅呼びかけとして⦆ お前,あなた.
6 守護神,守り神;⦅A―⦆ =Guardian Angel.:〓
7 死後魂が天国に受け入れられた人.
8 ⦅話⦆ (演劇・政治運動などの)後援者,パトロン.
9 (またángel―nóble)エンゼル金貨:1470-1634年に発行された英国の金貨;価値は6シリング8ペンスから10シリングの間を変動;大天使 Michael が竜を退治している図がある.
10 ⦅俗⦆ (鳥など)低空を飛行する物体のレーダー像.
11 ⦅俗⦆ 〖海事〗 =jolly jumper.
12 ⦅米俗⦆ 女性役を演じるホモ:〓
13 〖クリスチャンサイエンス〗 真理と愛のお告げ.
14 ⦅米暗黒街俗⦆ (泥棒やぺてん師などの)えじき,「かも」.
15 ⦅通例 angels⦆ 〖英空軍〗 高度(特に高度1,000フィート).
16 ⦅米海軍俗⦆ (空母の近くを飛ぶ)救難用ヘリコプター(▶ベトナム戦争当時に用いられた).
17 ⦅米麻薬俗⦆
(1)コカイン.
(2)=phencyclidine.
18 ⦅英俗⦆ 看護婦.
19 ⦅the Angels⦆ 米国大リーグ American League の球団 California Angels.
―v.t. ⦅主に米俗⦆ 〈演劇・政治運動などに〉経済的援助を与える.
―v.i. ⦅英空軍俗⦆ 高度を上げる:〓
◊[文学]Angel Pavement『エンジェル小路』J.B.Priestley の小説(1930).
[音楽][演劇]Angels (We Have Heard) on High グロリア賛美歌.Angel Street 米国の劇.
[映画]Angel Heart『エンゼルハート』Alan Parker 監督(1987,米)
[映画]Angels with Dirty Faces『汚れた顔の天使』M.Curtis 監督,James Cagney,H.Bogart 主演(1938,米).
[950年以前. 中期英語 a(u)ngel<後期ラテン語 angelus<新約聖書ギリシア ángelos 神の使者(ギリシャ語 ángelos「使者」の特殊用法);古期英語 engel に取って代わる]

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

ユダヤ教(Michael、Raphael、Gabriel、Uriel の四天使)

ミカエル
Mikha’el; Michael
ユダヤ教,キリスト教における大天使の一人。天使長ともいう。ヘブライ語で「たれか神のごとき?」を意味するが,伝承によれば,悪魔の長ルキフェルが神に反逆したとき,天使の長ミカエルはこの語を叫んで悪魔と戦い,勝利を得たといわれる。天軍の総司令官とみなされ,イスラエルの民の守護者とされた。またキリスト教でも悪魔の軍勢と戦う天使軍の長とあがめられ,異教徒に対するキリスト教軍の総帥とされた。また戦争や災難のときに出現して,キリスト教徒の危機を救うとの信仰から,出現物語が各地に伝承され,記念の聖堂,修道院などが建てられている。特にローマ・カトリックとギリシア正教で広く崇敬されている。イスラム教でも信仰を擁護する大天使としてミカエルを尊崇する。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

Raph・a・el [rǽfiəl,réif―,rɑːfaiél|rǽfeiəl]〓
―n.
1 ラファエロ:(Raffaello Santi or Sanzio),(1483-1520):イタリアの画家・建築家;盛期ルネサンスの Florence 派の巨匠;聖母子像で有名.
2 ラファエロ:大天使(archangel)の一人,旧約外典のトビト書(Tobit)に登場し,聖徒の祈りを聴いて神に執りなす.
3 ラファエロ:男子の名(▶ヘブライ語で“healing of the Lord”の意).

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

Raph・a・el¹ /rǽfiəɫ, réɪf―, réɪfɫ, rǽfeɪɫ | rǽfeɪəɫ, ―feɪɫ, ―fiəl, réɪfɫ; F. 〓afaɛl/
―n. ラファエル⦅男性名⦆.
〖▭ LL Raphaēl ▭ Gk Raphaḗl ▭ Heb. Rᵉphā’ḗl ⦅原義⦆ God has healed〗

『新英和大辞典 第6版』 研究社

ガブリエル
Gabriel
ヘブライ語で「神の人」の意。大天使の一人。旧約聖書では預言者ダニエルに現れて幻の意味を説明し(ダニエル書9・21~23),新約聖書ではザカリヤにバプテスマのヨハネの誕生を告げ(ルカ福音書1・19),また処女マリアに現れてイエス・キリストについての受胎告知をした(同1・26)。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

U・ri・el [júəriəl]
―n.
1 ウリエル:大天使の一人. cf.〖聖書〗 2 Esdras 4.
2 男子の名.

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

U・ri・el /jÚɚriəɫ | jÚər―, jɔːr―/
―n.
1 ユリエル⦅男性名⦆.
2 ウリエル⦅七または四大天使の一人⦆.
〖▭ Heb. Urīḗl ⦅原義⦆ God is my light〗

『新英和大辞典 第6版』 研究社

U‐ri‐el/jʊɚriəl/
〓〖ユダヤ教〗ウリエル《旧約聖書外典[偽典]に出てくる四大天使の1人(Ezra. 4-5)》.

『ジーニアス英和大辞典 用例プラス』 大修館書店

Uri・el /jÚəriəl/
1 ユリエル《男子名》.
2 〖聖〗 ウリエル《大天使の一人》.
[Heb=light of God]

『リーダーズ英和辞典(第3版)』 研究社

ゲオルギウス
Georgius
[生] 270頃.カッパドキア
[没] 303頃.ディオスポリス
ローマの軍人,14⇨救難聖人の一人。ディオクレチアヌス帝の迫害で殉教。中世(12世紀)以降,悪竜を退治した伝説上の勇士としても有名。イギリスで特に親しまれ,オックスフォード教会会議(1222)後,イギリスの守護聖人。祝日は4月 23日。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

黙示録(終末論)と末法思想

「終末論」は「黙示録」と同等であるだろう。
しかし「末法思想」という「カトリックロゴス感覚への信仰の廃れ」が存在すると言われている。
「カトリックロゴス感覚への信仰」が「信仰弾圧」や「時の経過」(時代の変遷)によって廃れ、「末法思想」という新宗教が勃興すると言われている。
その代表例は「聖織田信長」が死闘を繰り広げたと伝えられる「日本の一向宗徒」である。
「一向宗徒」の特徴は「カトリックロゴス感覚への信仰」を一切排斥した「念仏」によっている。
要は「カトリックロゴス感覚への信仰」を倒錯対象とした「黒ミサの儀式」が「一向宗徒」の正体(念仏)だったのです。

※念仏とは 「バフォメットの呪術崇拝」(バフォメットの偶像崇拝)を示しています。

ここで示されることは「終末論」とは「黙示録」であり、一方で「末法思想」とは「カトリックロゴス感覚への信仰の廃れ」を意味しています。

「黙示録」とは「強烈なカトリックロゴス感覚への信仰生活」を示している。
何故ならば「黙示録」とは「カトリックロゴス感覚への信仰者」を救済することを示しているからです。
「カトリックロゴス感覚への信仰者」は必ず救われるとされています。
これは「カトリックロゴス感覚への信仰者」が持つ「救済本願」のあり方です。

しかし「末法思想」は「カトリックロゴス感覚への信仰の廃れ」を意味し「カトリックロゴス感覚への信仰」を倒錯対象とした「黒ミサの儀式」の執行によって「救済本願」を実現します。
それは現世の「救済本願」を放棄することで、「極楽浄土」での「救済本願」が実現することを意味しています。

「カトリックロゴス感覚への信仰」に於ける「天国」とは「神の王国の到来」と言えますが、「黒ミサの儀式」に於ける「天国」は「彼の世」の「極楽浄土」だったわけです。

「死後はハーレムです!」とはイスラム過激派が謳ったテロリズム実行犯への洗脳教育ですが、それと「一向宗徒」が崇拝する「極楽浄土」とは非常によく似ています。

ただ「彼の世」の「極楽浄土」って何ですかね?

私には理解出来ません。

何故なら「インフォームド・コンセント」を一切拒否した「神の門」(バベルの塔)が「密室の形成」(密室の邪神)だったからです。
「カトリックロゴス感覚への信仰」を倒錯対象とする「密室の形成」(密室の邪神)が「黒ミサの儀式」として執行されます。
そうして「密室の形成」(密室の邪神)は「インフォームド・コンセント」を一切拒否して一方的に他者を勘繰り続けるのです。
そのような「一方的に他者を勘繰る行為」を「密室の形成」(密室の邪神)により執行するのが「一向宗徒の特徴」であり「早稲田大学スーパーフリーサークル事件の構図」だったわけです。
要は「密室の形成」(密室の邪神)が「他者との同意」を一方的に勘繰り続けて強硬に主張していくわけです。
多くの女子学生を明らかに強姦された凶悪犯罪が「和姦」とされ早稲田大学学生は「ハンカチ王子」とされたわけです。
世界的に見れば全くの気違い沙汰ですが「STAP細胞事件」も「カミオカンデのニュートリノ観測」も同様に「密室の形成」(密室の邪神)による「一方的に他者を勘繰る行為」として執行されました。
それが「日本的な他者との同意の形成」なのです。
これが「一向宗徒の特徴」です。
頭の悪いバカそのものであり「牧羊犬」(善き羊飼いの僕)を噛み殺す「バカ犬」(犬と豚)と言えるわけです。

「彼の世」の「極楽浄土」とは、少なくとも「黙示録」でもなく、「カトリックロゴス感覚への信仰」でもありません。

このようにイスラム過激派は「一向宗徒」と非常によく似ています。

そういう意味で「一向宗徒」は「堕天使ルシファー召喚」を崇拝している。
何故ならば「カトリックロゴス感覚への信仰」は「神のことば」を受肉することを最良としているからです。
一方で「一向宗徒」は「神のことば」を倒錯対象として完全に反逆した「堕天使ルシファー召喚」と見做せるからです。
そういう意味で「一向宗徒」とは「サタン崇拝」であったのです。

最近、「終末論」を語る識者をよく見掛けます。
その多くは「終末論」を「末法思想」と見做しています。
しかしそれは完全に誤りである。

「終末論」は「黙示録」と同等であり、「究極のカトリックロゴス感覚への信仰」を指し示しています。

一方で「末法思想」とは「カトリックロゴス感覚への信仰の廃れ」であり、「カトリックロゴス感覚への信仰」を倒錯対象とする「黒ミサの儀式」の執行を意味しています。

「黙示録」(終末論)と「末法思想」は仇敵の間柄というわけです。

しゅうまつろん【終末論】
Eschatology
語義は「終末における事物 eschaton(すなわち世界と人類の逢着する究極的な運命)についての教え」の意。終末論的発想は仏教の⇨末法思想やそのほかさまざまな宗教,思想,文学に見出されるが,その典型は最も包括的な終末論を教義とするユダヤ教,キリスト教に見出される。終末論は旧約聖書を貫く歴史観である。それによれば,世界の歴史は終末に向って進んでおり,この終末において人類の諸民族に究極的な神の審判が下り,試練によって清められたイスラエルの民には救済がもたらされるとともに,人類史が完成に到達するものと考えられた。イスラエルに救いをもたらすメシア待望の思想も,終末をメシア出現の時とするもので,ユダヤ教終末論の一部をなすものであった。キリスト教はユダヤ教の終末論に独自の解釈を与え,キリスト教とともに救いの時である終末がすでに始ったとして旧約聖書において預言されていた終末と救いをキリストの生涯,死,復活のうちに見出すものであるが,さらに究極的な世界史の完成と神の国の到来をキリストが人類の審判者として来る再臨の時として未来に待望する。ユダヤ教の終末論はイスラエルの民(ユダヤ人)を苦難の運命のなかで支える力となったが,同様にキリスト再臨の待望は人類の歴史の支配者としての神に対する不断の希望を生み出し,不条理や苦難に満ちた人生を生きる勇気の根源として,キリスト教信仰に不可欠なものとされている。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

もくしぶんがく【黙示文学】
apocalyptic literature
前 200年頃~200年頃にユダヤ・キリスト教文化圏で書かれた一連の宗教的文学ジャンルの総称。未来の出来事,特にこの世の終末のときのありさまについての秘密の知識を超人間的な手段で知り,これを象徴によって人々に語り,最後まで忠実である人々を神が劇的に救済するという匿名の(ときに高名な預言者の名を借りた)書物が中心。宗教的圧迫や政治的苦難を社会的背景として生れ,民衆の間に広がった。また⇨エッセネ派や原始キリスト教に深い影響を与えた。聖書正典としては旧約の『ダニエル書』,新約の『ヨハネの黙示録』が代表的。その他聖書,外典を問わずこの文学に属する文書または断片は少くない。これらの文学の解釈をめぐっては,未来を預言するとするもの,荒唐無稽とするものなどさまざまな立場がある。 19世紀以来この種の文学が復活し,現代の SFにもこの傾向がみられる。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

ほんがん【本願】
仏陀や菩薩が修行中に立てた衆生救済の誓願。薬師仏の十二願,釈迦仏の五百大願などがあるが,特に阿弥陀仏が過去世で法蔵比丘であったときに立てた四十八願が著名。浄土教では,このなかの第十八願(念仏往生の願)を本願と呼び,教義の根本においている。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

まっぽうしそう【末法思想】
釈尊の入滅後,年代がたつにつれて正しい教法が衰滅することを説いた仏教の予言,およびそれに基づく思想。⇨正法,⇨像法の時代を経て,教えのみ残り,修行も悟りも得られなくなる末法に入るとされる。釈尊の入滅およびそれ以後の⇨正像末の年数に関しては異説があるが,平安時代末期に,釈尊入滅を壬申の年(前 949)とし,正法 1000年,像法 1000年ののち永承7(1052)年に末法を迎えるとする説が行われた。末法思想は当時の思想の指導的原理となって,それを乗越えたところに新しい宗教が起ることとなった。末法思想はすでに早く中国において注目されていたが,特に唐の道綽,善導などは末法に相応する教法は浄土教のみであると主張し,日本の源信,源空などもこれを受けて浄土思想を鼓吹した。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

まっぽう‐しそう【末法思想】マツポフシサウ
仏教の歴史観の一。末法に入ると仏教が衰えるとする思想。日本では、平安後期から鎌倉時代にかけて流行。平安末期の説によれば、永承7年(1052)に末法の世を迎えるとした。

『大辞泉 第二版』 小学館

一向宗
(イッコウシュウ)
〓鎌倉時代、親鸞上人(シンランショウニン)が開いた、浄土宗の一派。浄土真宗。一向は、ひたすらの意味で、ただひたすらに念仏を唱えるからいう。

『新漢語林』 大修館書店

いっこう‐しゅう【一向宗】イツカウ‐
《一向(ひたすら)に阿弥陀仏を念ずる宗派の意から》浄土真宗。主として他宗派からの呼び名。一向一念宗。門徒宗。

『大辞泉 第二版』 小学館

さん‐した【三下】
〘名・形動〙
〓ばくち打ちの仲間で下っ端の者。三下奴(さんしたやっこ)。
〓取るに足らない者。下っ端の者。また、取るに足らないさま。「見栄を並べる、―な屋郎(やらう)たあ違ふによ」〈洒・船頭部屋〉
◈ばくちで、賽(さい)の目数が三より下の場合には、まず勝ちめがないというところから言いはじめたという。

『大辞泉 第二版』 小学館

クリスマスメッセージ

正鵠を射る

○正鵠(せいこく)を˳射る
物事の急所を正確につく。正鵠を得る。「―˳射た指摘」

『大辞泉 第二版』 小学館

私が制作したTBS企業ロゴ案

筆記体の「T」の形が「7」を暗示させ「七元徳」を示している。

ここにタロットカードの「8」(JUSTICE)と「11」(STRENGTH)と「12」(THE HANGED MAN)と「14」(TEMPERANCE)を示したいと思います。
古代ギリシャの影響|枢要徳「正義|勇気|知恵|節制」を示します。

げん‐とく【元徳】
たくさんの徳の中で最も根本となるもの。プラトンは知恵・勇気・節制・正義の四徳をあげ、中世キリスト教の支配した時代には信仰・希望・愛の神学的三徳をいった。主徳。

『大辞泉 第二版』 小学館

すうよう‐とく【枢要徳】 ‥エウ‥
〔哲〕(cardinal virtues)もろもろの徳を集大成する最も根本的な徳。アリストテレス以来、賢慮・勇気・節制・正義の四徳が枢要徳として重視され、キリスト教、特にカトリシズムでは、信仰・愛・希望の神学的徳(対神徳)が枢要徳を完成するとしている。元徳。主徳。

『広辞苑 第六版』 岩波書店


アルファベットの「T」が「Jesus’ teaching(s)」を示している。

◾イエスの~
the teaching(s) of Jesus; Jesus’ teaching(s).

『新和英大辞典 電子増補版』 研究社

アルファベットの「B」が「BIBLE」を示している。

⁑Bi・ble/báɪbḷ/〓
〖初14c;ギリシア語 biblia(本=books)より〗
―〓
1 the ~聖書, バイブル(the (Holy) Scripture(s))《◆(1)旧約(the Old Testament)と新約(the New Testament)から成る;聖書の英訳としては, 欽定訳聖書(Authorized Version), 改訳聖書(Revised Version), 改訳標準聖書(Revised Standard Version)などがある;〓 B., Bib. (2)˟‘the Bible’(引用符つき)とか ˟the Bible (斜字体)とかにしない. (3)ユダヤ教では旧約のみを聖典とし, Tanach, Tanakh と呼ぶ》;〓(1冊の)聖書〓
2 [しばしば b~]〓(一般に)聖典.〓
3 [b~]〓⦅略式⦆(聖書のように)権威ある書物, 必読書〓
4 [b~]〓⦅廃⦆本.
5 [b~] 〓〖海事〗小型甲板みがき石.
6 [b~]〓〖動〗反芻(はんすう)類の第三胃, 葉胃(ようい)(omasum).

『ジーニアス英和大辞典 用例プラス』 大修館書店

筆記体の「S」の形が「方舟」を暗示させ「聖櫃」(ark)を示している。

ark/áɚk|áːk/〓
〖初12c以前;ラテン語 arca (箱)〗

1 〖旧約〗[the ~;時に the A~] ノアの箱舟(Noah’s ~)《◆Gen. 6-9》〓
2 安全な避難所.
3 ⦅米⦆大型の平底船(flatboat);⦅略式⦆大型のぶかっこうな船[乗物];古い車.
4 ⦅米⦆大きな変な家.
5 [the A~]〖ユダヤ教〗
a聖櫃(ひつ)(Holy Ark)《ユダヤ教会礼拝堂のエルサレムに向いた壁にある Moses の五書トーラー(Torah)を納めた箱》.
b契約の箱, 約櫃(the Ark of the Covenant)《Moses の十戒を刻んだ石板を納めた櫃(Exod. 25:10-22)》.
6 ⦅古・詩・方言⦆箱, 櫃.
7 =~ shell.

『ジーニアス英和大辞典 用例プラス』 大修館書店

アルファベットの「S」が「Scripture」を示している。

Scrip・ture [skríptʃər]〓
―n.
1 ⦅the Scripture⦆ ⦅しばしば Scriptures⦆ 聖書(旧約聖書か新約聖書またはその両者).
▶Holy Scripture,Holy Scriptures,Holy Writ ともいう. 略:Script.
2 ⦅しばしば s―⦆ 書き物,書物;(キリスト教以外の)経典,聖典:〓
3 聖書から引用したある特定の一節;聖句.
4 (学校の授業課目としての)聖書(の時間)(scripture lesson):聖書およびキリスト教を勉強する時間.
[1325年以前. 中期英語<ラテン語 scrīptūra 書き物.⇀SCRIPT]

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

スリースターズが「三対神徳」を暗示させ「愛徳|望徳|信徳」を示している。

ここにタロットカードの「2」(THE HIGH PRIESTESS)と「5」(THE HIEROPHANT)と「17」(THE STAR)を示したいと思います。
カトリック神学|3対神徳「愛徳|望徳|信徳」を示します。

あいとく【愛徳】
caritas
カトリック神学で三対神徳(信徳,望徳,愛徳)の一つとされるもの。新約聖書のなかにあるギリシア語の agapēの翻訳であるが,カトリック神学の概念としては,神の愛が人間に与えられるのに呼応した,神に対する人間の愛をいう。⇨アウグスチヌスは,愛徳を人間を神へと統合させる徳とし,中世神学者,特に⇨トマス・アクィナスは,愛徳を他のすべての徳の基礎であり根拠であるとした。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

神学者達は「信徳は精神的建物の土台を作り、望徳はそれを建て、愛徳は屋根をつける」と各役割を説明する

※TBS今道潤三からインスパイアされた。

柳田国男
人を知る為に


そんなら以前はそれ程面倒であり又厄介であった予行に、或いは好き好んで一生の半分を費やし、又は旅をすればする程、次第に旅行ずきになる人が中々多かったのはどうしたわけか。是は社会心理学という学問で、是から後研究せらるべき面白い問題の一つである。早い話が鳥や獣はいつでも閑で、又一時もぢつとして居られぬものだが、ついぞ其の群を離れて一人で奮発して遠くへ行くといふことは無い。人の中でも野蛮人などといはれる者には、逐われて生命の危い時でも無いと、知らぬ人の中へ入って行こうとはせぬ。又盲や聾もあまり旅行をしない。其以外の人だけが、何かといふとよく出あるくのは、単純なる好奇心というよりも、今一層強い具体的の目的が、知らず識らずの中に誘うてゐるのではないか。即ち旅をすれば「人」を知るから、而うして「人」はいつでも我々にとって、興味深き題目であるから、うつかりと引付けられるのではなかろうか。

我々は古くから此の漠然としたあるものを、世間と謂ひ、又は他人の中などと謂って居た。つまりは多くの場合には斯んな語に当たるものが、旅行をした時ばかりは特に我々とぶつっかるのである。魚が水に居り人が空気の中に住んで、水空気に馴れて感ぜぬ如く、生まれたときから周囲の人ばかりと接して居ては何とも思わなかったものが、一旦其間から抜け出して振返り、或は前と後とを比較して見る時に、始めて少しづつ自分と周囲との関係が分かって来る。是が所謂旅をさせよの意味であったと思ふ。子供が始めて学校へ行き出した時、又は久しく来ぬ叔父叔母などが尋ねて来た時に抱く所の感じを、稍拡大したものが旅行であって、結局は字が読めるようになると本を開いて見たくなり、本が沢山あれば其中の一番面白さうなものを先づ手に取るのと、おなじような心持から起る人の行為であろうと思う。

ものそうだとすれば若いうちによく考へて見なければならぬ。無闇にやたらに何でもかでも、そこらにある本を読み散らして居ても,それ相応には役に立つかも知らぬが、実は学問の真の意味を解し、一定の方針を立てて読書する人だけが、之によって生涯を正しく導き得ると同じ様に、この旅行といふものの意味をよく知つて、短い一日二日の旅行でも心を留めて見てあるく人が、時即ち人生を一番良く使った理想的の旅人といふことになるのである。

但し私の今日の話は諸君を旅行ずきにして見たいといふ考からでは無い。寧ろ之とは反対に、書籍は図書館か友人の蔵書家か、又は本屋のある町まで行かぬとどうしても手に入らぬが、旅行の方は其目的とする人間研究には、必ずしもそれだけの手数は要しない。我々の心掛け又人に対する態度如何によっては、今まで見馴れ住馴れて居る最も狭い周囲に於てすらも、同じだけの興味と教訓が得られる。それ程に材料が手近に完備して居るのだから、必ずしも旅行に由らざれば得られぬものではないといふこと、今一つにはそれだけの用意も無く又経験も無い人々の旅行が徒に萍草の如き軽くして根の無いもの、生活とは縁の薄い誠に不経済な辛労に終るかも知れぬことを、少しばかり説いて見たいのである。私のような境遇の者には非常に無理な都合をして十日とか、わざわざ遠くまで出かけ漸く得られるような大切な智識が、諸君ならば至って手軽に、たとえば泉から清水を汲む如く自由自在に求め得られるのだといふことを、篤と諸君の為に説いて見たいと思うふのである。

筑摩書房「柳田国男全集」より

皆さん!
今日は「安息日|7日目」でした。
「安息日|7日目」とは休日の日というより信仰の日であると私は考えています。

そして私は常々TBS(東京放送)のカトリック信仰へ共感しておりました。
そういった経緯で私はクリスマス・イブの「安息日|7日目」に赤坂TBSを訪れることにしたのです。

諸君の故郷の氏神様には、年に五十度七十度といふほど、数多い祭があることを報告せられて居る御社もあるに拘らず、通例マツリの概念として胸に浮かぶのは、小さな頃に目を見張った「祭礼」の光景ばかりで、たまたま田舎をあるいて、是でもマツリだろうかと思うような静かな質素な小社な祭を見ると、あれは信徒に力が乏しくて、万ず簡略を旨とし、ただ形ばかりを行うて居るのだろうという想像も起こりがちだが、それは今一つ他の一面に、「祭礼」の方が後に色々の趣向を凝らし、新たな催し物などを附け添えて、斯ういふ花々しいものにしたのだろうといふ見方も成立つので、実際は其方が多く当って居るのである。

柳田国男全集「祭から祭礼へ/日本の祭」

Chrístmas Éve〓
クリスマスイブ,クリスマス前夜[前日].
[1300年以前? 中期英語]

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

eve /íːv/
―n.
1 [しばしば E―] 宵(よい)祭, (祭日など特別の日の)前夜, 前日 (cf. night 2 b)
2 (重要事件などの)直前
3 ⦅古⦆ 晩, 夕 (evening) (cf. morrow).
〖⦅c1250⦆ ⦅異形⦆ ՟ EVEN²〗

『新英和大辞典 第6版』 研究社

キリストこうたんさい【キリスト降誕祭】
Festum nativitatis Domini nostri Jesu Christi; Christmas
クリスマス。 12月 25日に行われるキリストの誕生を記念する祝日。教会暦では1月6日の⇨公現祭の前日までを降誕節とする。⇨復活祭と並んで最も盛大に祝われるキリスト教の祝日。祝日が 12月 25日となったのは,4世紀中頃の西方において異教徒が冬至に定めた太陽崇拝の祭日に,キリストの誕生を結びつけたからで,東方ではそれまで公現祭のほうが重要であった。一般的な行事としては,知友の間でクリスマス・カードを交換して平安を祈り,家庭でもクリスマス・ツリーを飾り,家族や親しいものの間で贈り物をする風習がある。アメリカでは清教徒の反対のため遅れ,一般化したのは 19世紀中頃。スコットランドの長老派もクリスマスを完全に禁止したことがある。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
クリスマスを祝うため,ウィンザー城につどうビクトリア女王,アルベルト公らイギリス王室一家.『ロンドン・イラストレイティッド・ニュース』(1848)より

Harry Potter

赤坂駅から上がっていく階段

IT'S TIME TO BELIEVE IN MAGIC

Harry Potter クリスマスツリー

皆さんフォトを撮っていました。

聖歌について

CDTVライブ!ライブ!クリスマス4時間半SPでキタニタツヤさんがこのクリスマスツリーの前で「青のすみか」を歌っていました。

MUSIC(聖なる音楽)の成立とは一体何だろうか?

私は考えてしまいました。
私は「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を持った音声をMUSIC(聖なる音楽)と言うのだろうと思いました。

では音楽に於ける「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」とは如何なるものでしょうか?

「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を一々きちんと持っていることであり、他のカトリックのあり方と同様であるだろうと思います。

おんがく【音楽】
music
ムシカ,ミュージックなどの言葉はギリシア神話の9人の女神(ムーサ)たちが行う活動(言語,詩,音楽,舞踊などを統御する)を意味するギリシア語のムシケ mousikēに由来する。東洋および日本における音楽という言葉の定義は時代によってさまざまである。ヨーロッパにおいては,古代,中世では音楽を自由7科 septem artes liberalesのなかの数に関する4科の一つとして位置づけ,学や知識あるいは技術としてとらえたが,今日では音楽を実践にかかわりをもつものとして定義するほうが支配的である。すなわち,音楽は音(主として楽音,現代のミュジック・コンクレートや電子音楽では必ずしもそうではない)を素材とし,その組合せによって成立する芸術であり,その素材の性質上,音楽は絵画,彫刻,建築などの空間芸術(造形芸術)とは異なり時間的な性格を有する。したがって音楽は実際に音として鳴り響き,それが聞かれるときに初めて成立するものであり,今日ではそれは作曲,演奏,鑑賞享受という形で行われている。作曲家によって作曲されたものを演奏家が演奏する形態から,再現芸術ともいわれる。なお音楽の起源については,J.-J.ルソーの言語起源論,ダーウィンの進化論的起源論など多くの仮説が出されている。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

坂本龍一の「戦場のメリークリスマス」はMUSIC(聖なる音楽)の成立と言えるのだろうか?

音楽坂本龍一。坂本にとって初のサウンドトラックアルバム。映画自体のある種の非現実感から影響を受けて、西洋から見ても東洋から見ても“どこでもないどこか”、そして“いつでもない時間”をコンセプトに作られた[2]

ウィキペディア

一つ例を示します。
「坂本龍一」は活動当初(YMO等)に於いて自身の音楽を時間的経過(技術革新)と定義していました。
だからテクノポップで華麗にデビューし活躍できた訳です。

坂本龍一に言わせれば「ビートルズ」もエレキギターと言う時間的経過(技術革新)の賜物であった訳です。
坂本龍一は音楽のあり方を時間的経過(技術革新)であると定義し自身の超然とした立ち位置をキープし続けました。
だから坂本龍一が下す「ビートルズ評」にジョン・レノンのカトリックロゴス感覚(黙示録)への高評価は存在していません。

逆に坂本龍一の主張はジョン・レノンのカトリックロゴス感覚(黙示録)を完全否定していた。
坂本龍一のジョン・レノンへの評価は著しく低くなっているのです。

坂本龍一は奇妙なクール・ジャパンなのです。
何故なら「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」へ一々敵対する行為を格好良くやって見せているからです。

それが坂本龍一教授のフォトが示す「バフォメットの偶像崇拝」なのです。
坂本龍一教授は「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様となっていた訳です。

坂本龍一とはジョン・レノンのカトリックロゴス感覚(黙示録)へ一々敵対したポピュリズム音声制作者(扇動音声制作者)だった訳なのです。

坂本龍一自身の音声は「シンセサイザーの演奏」と「デジタルミキシング編集」と言った時間的経過(技術革新)の賜物であった。
そこにカトリックロゴス感覚(黙示録)は全く無かった訳です。

坂本龍一は晩年「ピアノの演奏」と「オーケストラの演奏」に拘りました。
しかしそれは「ピアノ協奏曲」とはならなかった。
そうやって坂本龍一は自身の音声を「メロディ」(Satanic Parody制作)と定義して行く。

しかしその肝心要の坂本龍一本人が作曲した「メロディ」(Satanic Parody制作)に「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」は果たして少しでもあったのだろうか?

ここが重要です。
坂本龍一は「”どこでもないどこか”、そして”いつでもない時間”」をコンセプトとしている。
これは坂本龍一が「アンチカトリック」を楽曲のコンセプトとしていた絶対の証拠となっているのです。
坂本龍一教授のフォトが示す彼の「偶像崇拝」は「堕天使ルシファー」(明けの明星)であり「バフォメットの偶像崇拝」を表していたのです。
彼の楽曲は音声ではあった。
しかし彼の楽曲は音楽ではなかった。
致命的な欠陥を持った世界的音楽家が坂本龍一教授だったのです。

結局文明のDiabolism(釈迦如来信仰の救済求道精神)に対しSatanic Parodyをすることによってその救済求道精神を打ち消しディストピアを形成する。
そのディストピアに現れるのが金色に輝く「阿弥陀如来崇拝の理想偶像(倒錯偶像)」(ルシファー)なのです。
それはピカピカの新世代です。
ニュージェネレーションの希望と言われます。
しかしそれは新世代詐欺なのです。

釈迦如来信仰の救済求道精神はイマーゴ(神の似姿)があることを示している。
一方で「阿弥陀如来崇拝の理想偶像(倒錯偶像)」(ルシファー)はイマーゴ(神の似姿)をSatanic Parodyで貶めることによって自らをカリスマとして提示する。

イマーゴ(神の似姿)とカリスマの違いは神とルシファー(明けの明星)の違いとなる。

ここで大きな誤解を招くだろうから敢えて指摘しておきます

「神に愛されるカリスマ」と「人に愛されるカリスマ」

簡単に定義すると「イマーゴ(神の似姿)を持ったカリスマ」と「イマーゴ(神の似姿)を貶め自らを誇るカリスマ」が存在する。
前者は神に愛され、後者は人に愛されるだろう。

黙示録的芸術家

しかし「イマーゴ(神の似姿)を持ったカリスマ」こそ本物です。
何故なら「どんなに俗であっても、悪を嫌悪する聖俗」とは芸術家の在り方と共に聖性の在り処となっているからです。
それは「黙示録的芸術家」と呼ばれます。
この作家が制作する黙示録作品に於いてはどんな悲劇的な状況であっても善への救済求道精神が存在します。

末法思想的芸術家

一方で「イマーゴ(神の似姿)を貶め自らを誇ったカリスマ」は特殊詐欺でしかありません。
イマーゴ(神の似姿)を貶めることは「ドクサの勝利」を示しているからです。

しかしそうやって成立した「ドクサのカリスマ」は偽物なのです。
何故ならばそれは芸術家ではなく偽善(俗と悪)となっているからです。
それは「末法思想的芸術家」と呼ばれます。
この作家が制作する末法思想作品に於いて善への救済求道精神は弾圧されデマゴーグが「阿弥陀如来崇拝の理想偶像(倒錯偶像)」(ルシファー)として出現します。

それは「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様となることを示しています。
「おいしい生活。」や「生きろ。」と同様の扇動です。
それは「前衛芸術の成立」を装うコンプレックスです。
イマーゴ(神の似姿)へ一々敵対する「コンプレックス」は「倒錯感覚」を昇華して全肯定します。
ネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)の活動なのです。

TBS今道潤三のカトリックロゴス感覚を考察する

「番組の制作とは 同時に社会道義を制作することである」
一般に俗悪番組(俗番組と悪番組)と決めつけてるけど、どういうわけで俗悪(俗と悪)なのか、評論家は、ひとつもいわぬ。おかしいじゃないか。ぼくは悪ではいかぬが、俗であっていいと思ってる。民放は、過去、現在、将来とも、俗を尊重し、俗でありたい、俗を代表してものをいい、俗とともに番組をつくりたいと思っている。
俗ということを悪くとらないでくださいよ。俗ということに大変意味がある。たとえば、もしドラマが俗だとして軽蔑したら、大変なことだね。大部分の日本人が享楽しているのは教養番組、報道番組ではなく、俗番組なんです。俗番組こそ、最も大きなボリュームで、国民に対し放送の恩恵を与えているわけです。
(今道潤三のカトリックロゴス感覚)

近代日本メディア人物誌 創始者・経営者編

今道潤三の譬え

「どんな酷い低俗であっても、悪を絶対に嫌悪する聖俗」とは最高善信仰(俗と善)の在り方です。
「非常に酷い低俗であり、又同時にただ善行(責任)を主張するだけで、悪を絶対に嫌悪しない邪悪さ」とは偽善(俗と悪)の在り方となります。

「どんな酷い低俗であっても、悪を絶対に嫌悪する聖俗」は「聖性を帯びる最高善信仰(俗と善)」となります。
「非常に酷い低俗であり、又同時にただ善行(責任)を主張するだけで、悪を絶対に嫌悪しない邪悪さ」とは「偽善(俗と悪)を愛するルシファー(明けの明星)」となります。

「どんな酷い低俗であっても悪を絶対に嫌悪する在り方」は最高善信仰(俗と善)となり「聖性」へ人々を導きます。
何故なら最高善信仰(俗と善)によって「低俗」は「聖俗」へ高められるからです。
それが「天使の両翼」なのです。
最高善信仰(俗と善)に於いて偽善(俗と悪)の在り方は絶対に嫌悪されます。

しかし「非常に酷い低俗であり、又同時にただ善行(責任)を主張するだけで、悪を絶対に嫌悪しない在り方」は最高善信仰(俗と善)を装っているだけの偽善(俗と悪)なのです。
何故ならばここに見られるように自らの善行(責任)を主張しながら、悪を絶対に嫌悪しない在り方が偽善(俗と悪)の正体であり、悪意の正当化となっているからです。
そのような悪意の正当化は最悪の邪となります。
最高悪サタンの露悪趣味です。
最高悪サタンとは「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様となることです。

最高善信仰(俗と善)と最高悪崇拝(俗と悪)の対立は聖戦となって表出します。
これは「聖俗」と「邪悪」の対立であり善悪の意味となっています。

イマーゴ(神の似姿)とは最高善信仰(俗と善)から受肉する聖性なのです。

1979年(昭和54年)5月25日、胃潰瘍のために東京都の順天堂病院で死去[5]。78歳没。
1969年(昭和44年)10月23日、心不全のために東京都内の自宅で死去[6]。84歳没。
死没 1973年3月29日(90歳没)

これは私見だが『今道潤三いまみちじゅんぞう』とはTBS(東京放送)内に於いて使用された『鹿倉吉次しかくらきちじ』の「ペンネーム」(影武者)だろう。

かげ‐むしゃ【影武者・陰武者】

〓敵の目を欺くために、大将などと同じ服装をさせた身代わりの武者。
〓陰にあって、表面にいる人の働きを助ける人。または、表面の人を操る人。黒幕。

『大辞泉 第二版』 小学館

ダミー〖dummy〗
〓本物の替わりとなるもの。見本。模型。また、模造品。
〓モデル人形。替え玉人形。映画のトリック撮影、衝突や落下などの実験、射撃やフットボールの練習などに用いる。
〓洋装店などで、衣装を着せておく人台(ボディー)やマネキン人形。
〓同一の企業であるが、便宜上別名にしている身代わり会社。ダミー会社。
〓ラグビーなどで、球をパスするように見せながらボールを離さず、ふいにからだをかわして相手を抜く方法。
⇀ダミー‐ガバメント〖dummy government〗
⇀ダミー‐ヘッド〖dummy head〗

『大辞泉 第二版』 小学館

ダミー
dummy
カードゲームの一種である⇨コントラクトブリッジで「せり」に勝った親のパートナー。持札を全部さらして,この札を親が自分のものとみなしてプレーする。語意の「影武者」のように,ダミーは何も意志表示をしてはいけない。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

替え玉[かえだま]
身代わり[みがわり] / 形代[かたしろ] / スケープゴート / ダミー
【共通する意味】
本人の代わりに、本人に見せかけて用いるにせもの。
【使い方の例】
〖替え玉〗替え玉だと見破られる / 替え玉受験
〖身代わり〗社長の身代わりにされる
〖形代〗形代を立ててごまかす
〖スケープゴート〗社内のスケープゴートにされる
〖ダミー〗ダミー会社
【それぞれの意味と使い分け】
(1)五語の中では、「替え玉」の用法が最も広い。本人の代わりの人、という意味では広く用いられる。【英】a dummy
(2)「身代わり」は、「替え玉」と用法はほぼ同じだが、その本人の代わりの人がなんらかの不利益を被るという意味が込められている。【英】a scapegoat
(3)「形代」は、ある特定の人間に見せかけた別人を表わす。祭りのとき、神の代わりとして拝んだり、みそぎに使ったりする人形[ひとがた]のこともいう。
(4)「スケープゴート」は、いけにえのヤギの意。ある事件の最も重大な責任者の代わりに責任や罪を負う、その事件の関係者をいう。
(5)「ダミー」は、最終的には実際に使う意志がなく、見せかけのために名義だけ出される人、あるいは物を表わす。人間の代わりの人形を表わすこともある。

『使い方の分かる類語例解辞典』 小学館

dum・my [dʌmi]〓
―n. (pl. ―mies)
1 模型,型見本:〓
2 (ショーウインドーなどの衣装展示用の)マネキン,ダミー;(射撃・アメリカンフットボールの練習,腹話術などに用いる)人形,人体模型:〓
3 ⦅話⦆ ばか,のろま,とんま,まぬけ;⦅俗⦆ 狂人.
4 ⦅話⦆ 何も発言しない人,積極的な役割をしない人.
5 (他人の)手先,ロボット的存在,替え玉;代理の出席者:〓
6 ⦅俗⦆
(1)⦅軽蔑的⦆ 口の利けない人.
(2)無口の人,だんまり屋;口が利けない振りをする物ごい.
7 〖トランプ〗 (ブリッジで)ダミー.
(1)declarer のパートナー;競りのあと自分の手札をさらして declarer にプレーさせ,自分はその回ゲームに参加しない.
(2)(1)のさらした手札.
(3)(1)のいるゲーム.
(4)3人で行う変則的ゲームにおける4人目の仮想プレーヤー;ここの手はテーブル上に表向きにして置かれる.
8 ⦅英⦆ (赤ん坊の)おしゃぶり,ゴム製乳首(⦅米⦆ pacifier).
9 〖印刷〗 (本の)体裁見本,束(つか)見本,見本刷り.
10 〖図書館学〗 代本板:取り出した本の代わりに置いておく板.
11 (鉛のパイプのへこみを押し出す)突き棒(rammer).
12 〖コンピュータ〗 ダミー:ある事象と見かけは同じであるが,特に機能は持っていないもの;スペースの必要からコンピュータに与える形式的なアドレスなど.
13 〖軍事〗 擬製弾(dummy ammunition [projectile]):演習用の不発性爆弾:〓
14 〖歯科〗 =pontic.
15 〖言語〗 代役記号(dummy symbol):生成過程で,ある要素に取って代わられるか,削除されるもの;それ自体は文の表面に出ない.
▶△の記号で表す.
16 ⦅米・カナダ俗⦆ パン(bread).
17 ⦅俗⦆ 薄めた麻薬;偽物のヘロイン[麻薬];(麻薬の)PCP.
18 ⦅俗⦆ 男性器,ペニス:〓
19 ⦅米鉄道俗⦆ 鉄道従業員を運ぶ列車;⦅米南部⦆ 支線(dummy line);小列車.
20 ⦅米俗⦆ 酒[ビール]の空瓶.
21 タバコの吸いさし.
22 ⦅話⦆ (ラグビー・サッカーなどで)パスする振り,フェイント:〓
23 ⦅英俗⦆ 財布.
―adj.
1 模型の,人工の:〓
2 偽の,まがいの,ごまかしの,虚構の:〓
3 人の手先になっている;名目[看板]だけの,架空の:〓
4 〖トランプ〗 ダミーのある.
―v.t. (―mied,dum・my・ing)
1 〖印刷〗 〈本の〉体裁[束]見本を作る⦅up⦆.
2 …を模型で見せる,の見本を示す⦅in⦆:〓
―v.i. (―mied,dum・my・ing) 〖ラグビー〗 〈ボールを持った選手が〉あるプレーをすると見せかけて相手をだます.
[1598.米語;DUMB+―Y³]

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

今道潤三は鹿倉吉次の影武者(ダミー)だった。
鹿倉吉次はTBS(東京放送)の影武者(黒幕)だった。

imago Dei 〔L.〕
神の似姿〔カトリック教会〕
〈91学術・キリスト教〉

『人文社会37万語対訳大辞典』 日外アソシエーツ

ドクサ
doxa
「臆見」を意味するギリシア語。⇨エピステメの対立概念。低次の認識を意味する語としてドクサを初めて使ったのはクセノファネスであるが,永遠不変の存在についての真なる確証に対して,感覚に基づくドクサを立てたのはパルメニデスである。プラトンは後者の思想をうけて,真実在についての知識(エピステメ)と感覚的事象を対象とするドクサを認識論的存在論的に峻別,さらにドクサを感覚的個物に対する確証と感覚的個物の似像に対するエイカシアに区別した。アリストテレスはこれに対して存在論的区別を退け,エピステメを一般者ないし必然的なものについての判断とし,ドクサを感覚的個物にかかわるものとしている。エピクロス派では感覚そのものは真と認めるが,感覚に近い自発的な精神作用であるドクサには感覚の明証性の限界を踏越えて誤謬の可能性があるとしている。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

カリスマ〖(ドイツ)Charisma〗
〓《ギリシャ語で、神の賜物の0超自然的、超人間的な力をもつ資質。預言者・呪術(じゅじゅつ)者・軍事的英雄などにみられる、天与の非日常的な力。この資質をもつ者による支配をマックス=ウェーバーはカリスマ的支配と名づけ、三つの支配類型の一つとした。
〓人々の心を引きつけるような強い魅力。また、それをもつ人。「―性のある人物」「ファッション界の―」
⇀カリスマ‐せい【カリスマ♡性】

『大辞泉 第二版』 小学館

cha・ris・ma /kərÍzmə/
―n. (pl. ~・ta /~ṭə | ~tə/)
1a (一般大衆の支持を得る)非凡な能力, カリスマ的才能, 大衆を服させる資質, 非凡な統率力.
b 魔術的[超人的]魅力, 大衆を引きつける力.
2 〖神学〗 (信仰者に特に与えられる)神の恩寵, (神からの)賜物, カリスマ⦅初期キリスト教では病気を治す力や予言能力などにいう⦆.
〖⦅a1641⦆ ▭ Gk khárisma (pl. ―mata) gift ՟ kharízethai to show favour ՟kháris grace ՟ IE *gher― to want〗

『新英和大辞典 第6版』 研究社

カリスマ
charisma
語源はギリシア語の kharismaで,非凡な精神力とか,奇跡を行い予言をする神賦の能力を意味するが,これを科学的概念として提起し,普遍化したのはドイツの社会学者 M.⇨ウェーバーである。彼は『経済と社会』(1921~22)のなかで,支配は支配者と被支配者とにおいて権利根拠,つまり支配の「⇨正統性」の根拠によって内面的に支えられるのが常であるとし,その正統性には純粋な類型として,(1)制定規則による合法的支配,(2)伝統的支配,(3)支配者の人と,この人のもつ天与の資質,とりわけ呪術的能力,啓示や英雄性,精神や弁説の力とに対する情緒的帰依によって成立するカリスマ的支配の3つがあると定式化している。この説からカリスマという言葉が一般に用いられるようになった。さらに,最も純粋なカリスマ的指導者のタイプとして予言者,軍事的英雄,偉大なデマゴーグをあげている。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

アリアとメロディ

「アリア」

アリア
aria
オペラ,オラトリオ,カンタータなどのなかに現れるはなやかな旋律の独唱曲をさす。 17~18世紀のイタリア・オペラの発展とともに,抒情的表現をねらったアリア・カンタービレ,技巧的なアリア・ディ・ブラブーラ,語るような口調のアリア・パルランテなど,さまざまのタイプのものが生れ,オペラの音楽的興味を独占した。グルックによるオペラ改革以降,次第にこの優先的地位を失うが,イタリアではなおプッチーニにいたるまで,アリアが重要な機能を帯びている。独立して作曲されたアリアを演奏会用アリアという。また,歌うような曲想の器楽曲も,ときにアリアと呼ばれることがある(例:『G線上のアリア』)。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
ここにタロットカードの「20」(JUDGEMENT)と「21」(THE WORLD)を示したいと思います。
この2つのカードは黙示録(revelation)を示しています。
これは「釈迦如来信仰の救済求道精神」とも言えます。
これらのタロットカードはメシアが齎す「ホワイト・マジック・オーケストラ」(自然林の回復)を示している訳です。
このような楽曲を「アリア」と言うのです。

「メロディ」

せんりつ【旋律】
melody
種々の音高と長短をもった音を横に結びつけて形成する音の線的つながり。一般に和声,リズムと並んで音楽構成上の3要素とされているが,旋律形成に際してはすでにリズムが不可避であるので,厳密には旋律とリズムを分離することはできない。理論的には以上の条件をそなえているだけで足りるが,実際に楽曲内では表現上また形式構成上,あるまとまりをもち独立した役割を果す場合に旋律と呼ぶ。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
ここにタロットカードの「15」(THE DEVIL)を示したいと思います。
このカードは「バフォメットの偶像崇拝」を示しています。
「バフォメット」は「カトリックミサ」へ一々敵対する「黒ミサ」を司っています。
そのようなカルトを「バフォメットの異端教団」(明けの明星)と言います。
まさに坂本龍一です。
それは「坂本龍一教授のフォト」のように「阿弥陀如来崇拝の理想偶像(倒錯偶像)」となるのです。
坂本龍一は「ホワイト・マジック・オーケストラ」(自然林の回復)ではなく「ブラック・マジック・オーケストラ」(人工林の植樹)だった訳です。
彼等の「イエロー・マジック・オーケストラ」は「ドクサ」を「絶対知(特権知)」とする「屁理屈」であり、「ブラック・マジック・オーケストラ」(人工林の植樹)であった訳です。
このような楽曲を「メロディ」と言うのです。

坂本龍一楽曲の「メロディ」(Satanic Parody制作)は末法思想

坂本龍一の作曲した「メロディ」(Satanic Parody制作)があります。

坂本龍一楽曲の「メロディ」(Satanic Parody制作)は「アリア」(黙示録)ではないのです。
「アリア」(黙示録)とは「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を持った音声を示しています。
「アリア」(黙示録)と名乗るにはカトリック信仰を持って作曲しなければなりません。

しかし坂本龍一は自身の楽曲を「メロディ」(Satanic Parody制作)として誇らしげに示し得意げに格好良くやって見せていた。
それはただ音声技術を誇ったネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)でした。
坂本龍一の「メロディ」(Satanic Parody制作)は末法思想でした。

YMOについて

「YMO」は細野晴臣、高橋幸宏、坂本龍一の三人組でした。
他に参加したミュージシャンは矢野顕子など居たかもしれません。
私は全てを把握してはいません。

ただ彼等の音声は「アリア」(黙示録)ではなかった。
「アリア」(黙示録)に対して敵対的に「リズム、メロディ、コンセプト」を祀り上げた楽曲を「新世代の音楽|テクノポップ(クラシック)」として演奏していた。
テクノポップとクラシックの違いは手段としての楽器の違いに過ぎない。
電子音源だろうがクラヴィーアだろうが手段としての楽器に大した違いはなかった。
ただの音声発生源だったからです。
そこに「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」がないなら単なる音声に過ぎなかったのです。
雑音でも騒音でも同じことです。

音声の価値は「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」にあった。
それが音楽だった。

しかしYMOにとって楽曲の基本は「リズム、メロディ、コンセプト」とされていました。
しかしそれは音声に過ぎない。
「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を絶対に必要とする「アリア」(黙示録)へ一々敵対したSatanic ParodyがYMOの楽曲の正体だった。
それ故に或る事件が起こりました。

細野晴臣の「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様が出現するあり方が宮崎駿のカトリック信仰と決定的に対立したことによって起こりました。

※映画「風の谷のナウシカ」音響監督の電撃交代劇について

それは細野晴臣が担当予定だった宮崎駿監督作品「風の谷のナウシカ」の音響監督交代劇です。
当初スター級とされていた細野晴臣が「風の谷のナウシカ」の音楽を担当する予定だった。
しかし細野晴臣は電撃的に降板となった。

安田成美「風の谷のナウシカ」はその時の名残です。

何故か宮崎駿が難色を示したと言われている。
ただその理由は明らかだった。

細野晴臣の楽曲は「アリア」(黙示録)を否定するSatanic Parodyだった。
細野晴臣の楽曲は宮崎駿の「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」へ敵対する楽曲と見做すことができる。
それは映画が音響監督で潰れてしまうことを意味しています。
細野晴臣は「風の谷のナウシカ」の「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」へ敵対しSatanic Parodyの宣伝をしているようにも見えます。
細野晴臣の楽曲は宮崎駿にとって最悪と思えたのでしょう。

細野さんが映画本編の音楽を担当するのは既定路線でした。メディアミックス戦略を推進する徳間書店グループ徳間ジャパンとしては、知名度のある細野さんを音楽に起用したいという考えは当然でしょう。

 しかし、83年12月になっても音楽担当者は決まりませんでした。公開は84年3月。もう時間がありません。それでも宮崎監督と高畑さんは首を縦に振りませんでした。ふたりは細野さんのこれまでの曲を聴き、『ナウシカ』には合わないと感じていたのです。

 音楽は細野さんではなく、久石さんが担当することになりました。84年1月のことです。決断を下したのは高畑さんです。当時、徳間書店に在籍していた鈴木敏夫さんは、当時の高畑さんの言葉を次のように振り返っています。

「細野さんも大変な才能の持ち主だけど、ナウシカに合うかといえば違うんじゃないか。この人は夏のけだるさを表現したら得意な人で、情熱的な曲は作らないだろう。宮さんは熱血漢だから、熱い曲を作る人のほうがいい」(『ジブリの教科書I  風の谷のナウシカ』文春文庫)

風の谷のナウシカ(1984)
Nausicaä of the Valley of the Wind
原作・脚本・監督
宮﨑 駿
プロデューサー
高畑 勲
音楽
久石 譲
声の出演
島本須美 ⋅ 納谷悟朗 ⋅ 松田洋治 ⋅ 永井一郎 ⋅ 榊原良子 ⋅ 家弓家正
上映時間
約116分
配給
東映
公開日
1984.3.11(日)
※制作はトップクラフトです。

マグミクスより参照

そして久石譲が細野晴臣の代わりに音響監督に大抜擢されそれ以降、宮崎駿映画の音響担当となっていきます。
久石譲の発言を聞くと問題発言が多く私はあまり好印象は持てません。
しかし久石譲の楽曲に「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を否定する要素はなく宮崎駿の「アリア」(黙示録)を引き立てています。
要は久石譲自体に「アリア」(黙示録)はないかもしれないが彼の映画音楽は「アリア」(黙示録)の否定を全くしないのです。
少なくとも久石譲は映画監督の「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」へ敵対するような最悪な音響監督とはならない。
久石譲本人に「アリア」(黙示録)はなくても映画音楽の才能(イマーゴ)はあった。
彼は映画の「アリア」(黙示録)に傷を付けなかった。
久石譲には「最低限の倫理観」はあったと言えるのです。
それは映画音楽にとって最重要の資質であり、その音響担当者が「最低限の倫理観」を持っている証となっているのです。
そこが「細野晴臣のSatanic Parody」(末法思想)と「総合芸術のアリア」(黙示録)の違いだった。
逆に言えば細野晴臣の映画音楽には「最低限の倫理観」すらなかった。
「アリア」(黙示録)を守護しない音響監督にカトリック信仰の映画制作は絶対に無理な訳です。
細野晴臣にはカトリック信仰の映画音楽が全く解かっていなかった訳です。
当然といえば当然です。
細野晴臣の手法は「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様を出現させることにあったからです。

アニメ映画「銀河鉄道の夜」について

アニメ映画「銀河鉄道の夜」の音響監督を細野晴臣は担当しました。
このサウンドトラックは私も購入しました。
このジャケットの題字はエスペラント語で書かれていました。
非常に印象深いです。
ただこのサウンドトラックが宮沢賢治の「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を守護しているどうかと言えば疑問を感じました。
宮沢賢治の「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」へ敵対した楽曲であるように感じます。
細野晴臣の楽曲は宮沢賢治の「アリア」(黙示録)を打消しSatanic Parodyとしている。
要は救済求道精神の道を閉ざしている。
この楽曲は才能(イマーゴ)がない人間の屁理屈の産物だった。
確かに神秘的な音声で印象深いのですが宮沢賢治の「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」へ一々敵対し映画を台無しにしているようにも思えます。
宮沢賢治著「銀河鉄道の夜」の「アリア」(黙示録)を台無しにしていた。
それは宮沢賢治著「銀河鉄道の夜」にある大事なカトリックメッセージと大事なカトリックコミュニケーションを台無しにしていたと言えます。
これも細野晴臣の手法が「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様を出現させることにあったからです。

もし坂本龍一が「風の谷のナウシカ」の音響監督になっていたら?

又、大島渚監督作品「戦場のメリークリスマス」のようなSatanic Parodyと宮崎駿監督作品「風の谷のナウシカ」のカトリック信仰の違いはあまりにも大きかった。
大島渚監督作品「戦場のメリークリスマス」も「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様を出現させることにあったからです。

もし坂本龍一が「風の谷のナウシカ」の音響監督になっていても交代劇は起こっていたと思います。
「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を持った「カトリック信仰音楽」(黙示録)を全否定するYMOには宮崎駿映画の音楽は担当できないからです。
YMOは扇動音声技術であった。
しかしYMOに「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」はなかった。
何故なら「カトリック信仰音楽」(黙示録)の否定こそが坂本龍一等が「新世代楽曲」であったことの証明とされていたからです。
彼等は最初から駄目な連中だったことがここに明らかとなりました。
彼等の新世代楽曲は音楽ではなかった。

音楽とは「アリア」(黙示録)だった。
それは「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を持った音声を言う。

よって「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」のない扇動音声は音楽ではない。
YMOはSatanic Parodyのポピュリズム音声技術だった。
それは音楽ではなかった。

坂本龍一がライブで「音楽!」と叫んでいたがインチキだった。
それはただのネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)だった。

YMOはネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)へ盲従する聴衆の完全奴隷化を賛美する。
しかしそれはイエス・キリスト(神の似姿)の言う「盲目の道案内」だろう。
盲人が盲人を手引しても須らく溝に落ちてしまう。
YMOのメンバーはどれをとっても似たようなものだ。
坂本龍一は特にスター級の扱いとなっていたがカトリック信仰がない以上Satanic Parodyの扇動音声技術となるしかなかった訳です。
坂本龍一は才能(イマーゴ)がなかったが「才能」(捏造)を評価された。

何故だろうか?

ヨーゼフ・ゲッベルスの崇拝者は多いからです。
ネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)は扇動の賜物であって堕天使ルシファー(明けの明星)の召喚だった。
村上春樹小説の宣伝も巧みな扇動によっている。
それは「神とキリストの右側」(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)からデマゴギーによって「マス」の扇動をしていく。

※「盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭」に関して「天の私の父が植えられたのではない植物はすべて、根こそぎにされるであろう。」と「神の右側、ことばの始まり」の目次を参照せよ!

それは聖書の黙示録の救済求道精神をSatanic Parodyで打ち消し形成した末法思想の中で自らの存在を誇ったカリスマアイドルの真の姿でした。

「YMO」は気色悪い極右グループだった訳なのです。
それは末法思想の中で輝く一番星であり「ルシファー」(明けの明星)と呼ばれます。
当然に彼等は「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて出現する異端の神様だからです。

ルキフェル
Lucifer
ギリシアのフォスフォロスのローマ名で,明けの明星。曙女神の息子とみなされ,通常,たいまつを手にした青年の姿で表わされ,キリスト教の伝承では,ルキフェルは,「黎明の子,明けの明星よ,あなたは天から落ちてしまった」という『イザヤ書』 14章 12の章句に基づいて,堕天使の頭サタンと同一視され,もっぱらその別名として用いられるようになった。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

「明けの明星」(新世代音楽)とは末法思想に中で輝く一番星であって「阿弥陀如来崇拝の理想偶像(倒錯偶像)」(ルシファー)と同一視される。
新世代や最新鋭、最先端とは一言で評し「前衛芸術の成立」(前衛詐欺)で括られる。
「前衛芸術の成立」(コンプレックス)が「明けの明星」であるなら、それはルシファー(ピカソ)と言えます。
それは「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」に対する全否定であり、その正体は芸術に敵対するコンプレックスだった訳です。
そういったコンプレックスに芸術に対する「HOMMAGE(尊敬)」は存在する筈がありません。

それがYMO楽曲「君に胸キュン」(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)でありました

「君に胸キュン」は「明けの明星」(ルシファー)であり、「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」は存在していない。
「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」へ敵対する超感覚派の扇動であるだろう。

「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」はマス・コミュニケーションです。
それは「アリア」(黙示録)だった。

しかし扇動音声はマス・メディアの技術だった。
ただこういった技術に「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」がないならネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)でしか無い。

マス・コミュニケーションとはイエス・キリスト(神の似姿)の黙示です。

マス・メディアはネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)と言えます。

ポピュリズム音声(扇動音声)は超危険な末法思想へあなたを陥れるでしょう。

末法思想はDiabolism(釈迦如来信仰の救済求道精神)へのSatanic Parodyによりその救済求道精神を打ち消しディストピアを形成していくことで金色に輝く「阿弥陀如来崇拝の理想偶像(倒錯偶像)」(ルシファー)を祀る。

そうやって「マス」を扇動する。
金色に輝いた「阿弥陀如来崇拝の理想偶像(倒錯偶像)」(ルシファー)はネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)となる訳です。
それが「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様を出現させる手法です。

「明けの明星」(ルシファー)の召喚だった有名楽曲「Energy Flow」

坂本龍一の有名楽曲「Energy Flow」とはそういう意味で「アリア」(黙示録)へのSatanic Parodyによって形成されたディストピアに出現する金色に輝いた「阿弥陀如来崇拝の理想偶像(倒錯偶像)」(ルシファー)でした。

この坂本龍一楽曲は「三共『リゲインEB錠』CM Ver.」として使用された。
三共『リゲイン』といえば「24時間戦えますか」のフレーズで有名です。
1989年に於ける有名楽曲「勇気のしるし」から1999年に於ける坂本龍一の有名癒やし楽曲「Energy Flow」へイメージ操作を行った訳なのです。

それは奇妙に大ヒットした坂本龍一の「癒やし」楽曲の意味なのです。
坂本龍一にはDiabolism(釈迦如来信仰の救済求道精神)がなかった。
彼はDiabolism(釈迦如来信仰の救済求道精神)の否定により自らを誇っていた。
しかしそれは偽物を意味している。
坂本龍一はネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)でした。

細野晴臣も宮沢賢治著「銀河鉄道の夜」の「アリア」(黙示録)へのSatanic Parodyによって形成した閉塞感(ディストピア)へ耽美的な音声を出現させることで「阿弥陀如来崇拝の理想偶像(倒錯偶像)」(ルシファー)の扇動している。
それもネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)です。

これらは金色に輝いた「阿弥陀如来崇拝の理想偶像(倒錯偶像)」(ルシファー)が「ネオ・ナチズム」(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)であることを示しています。
それは超危険状態なのです。
ルシファー(明けの明星)の召喚が行われているのです。
これらは「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様を出現させる手法なのです。
皆さん注意してください!

※「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に」事件

ここで大事件が起こりました。
「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に」です。
この映画は庵野秀明監督の超有名ヒット作品です。
そしてこの作品の音響監督は「鷺巣詩郎」でした。
絵コンテを読む限りBGMの選択の指示は庵野秀明監督からはなされていない。
鷺巣詩郎音響監督が庵野秀明監督の意図を汲んでBGMを選択したと思われる。

しかしこの作品では「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」へ一々敵対するバフォメットを祀り上げていく異常感覚が賛美されそれが新世代の証だとされていました。
彼等ヲタク世代は新世代であってカトリック信仰へマウンティングすることを美徳だと定義していた訳です。

しかしこれは一言で評して「堕落」です。
ここで「堕天使ルシファー」(明けの明星)が出現します。

エヴァ弐号機とエヴァシリーズの破廉恥シーンに於けるバッハ「G線上のアリア」

この映画に或るシーンがありました。
それはバッハ「G線上のアリア」が使用された破廉恥シーンです。

ジーせんじょうのアリア【G線上のアリア】
バイオリン曲。バッハの管弦楽組曲第3番ニ長調の第2楽章アリアを,バイオリン奏者 A.ウィルヘルミ(1845~1908)がバイオリンの最低弦G線だけで演奏できるように編曲した。 1871年出版。

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このシーンは「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」へ一々敵対したSatanic Parody制作でした。

例えばエヴァシリーズはエヴァ弐号機の電源を遮断した時点でエヴァ弐号機の活動停止まで自身の両翼で空中に飛んでいればよかった。
※エヴァシリーズの両翼の形状も決して天使の羽根は生えていません。

又、エヴァシリーズが投入された後に彼等が敢えて行った戦闘行為に於いてエヴァ弐号機からほぼ一方的な攻撃を受けることになりますがその道理がどこにも見当たりません。
これは何でやったのか理解できない戦闘行為でした。
しかし何故かエヴァシリーズはエヴァ弐号機に一方的に攻撃され全機尽く殲滅される事態となっていきます。
そしてエヴァ弐号機の活動停止の後、謎の再起動により復活したエヴァシリーズはエヴァ弐号機へ百倍返しの復讐をしていく訳です。
生きたアスカが搭乗した儘なのに無惨にも「鳥葬リンチ」されていくエヴァ弐号機は腸を食いちぎられ眼球を抉られボロボロにされていく。
その過程を残酷にもアスカを愛する視聴者に晒していく訳です。
このシーンは「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」へ一々敵対した破廉恥シーンでした。
これは「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を持つ道理へ一々敵対するためだけの目的で制作された超残虐シーンなのです。

神聖な「鳥葬にあるカトリック信仰」を穢すことを目的としている。
その悪しき意図がこのシーンに完全に垣間見られます。
これでは「イエス・キリスト(神の似姿)のカトリックロゴスによって根拠付ける教え」どころか「ハンムラビ法典のカトリックロゴスによって根拠付ける信仰」」にさえ一々敵対していることが明らかとなっています。

そしてその殺戮凌辱シーンのBGMがバッハ「G線上のアリア」だった訳です。
それはバッハ「G線上のアリア」が持った「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」に対しての最強の冒涜であり最強の攻撃だった。
「新世紀エヴァンゲリオン」の制作者達はバッハ「G線上のアリア」を全く愛していないのです。

その残虐行為を目の当たりにしてエヴァ初号機(碇シンジ)は悪魔として覚醒します。
悪魔として覚醒したエヴァ初号機は意味不明な「前衛芸術の成立」(前衛詐欺)で描かれた映画最終盤を経て行くことで奇妙な結末を持つことになります。
それは「聖書 創世記」を想起させた「アスカとシンジ」の「末法思想」となっていました。
「末法思想」の「アダムとイブ」なのです。
Satanic Parody制作なのです。
それが「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様を出現させる手法です。

しかし本来の「聖書 創世記」は「善悪を知る木」から「知恵の実」を食べることによって「黙示録」(revelation)の世界となる訳です。
これは黙示録(revelation)の「アダムとイブ」なのです。
そして本来の「聖書」は宮崎駿の考え方と同じです。
「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」なのです。
それはカトリック信仰です。

「俗であれ!しかし悪を嫌悪せよ!」とは聖性(俗と善)の在り処、それは偽善(俗と悪)との違いを如実に示す(「風の谷のナウシカ」を愛するカトリック信仰者からの進言)

聖性と邪悪

才能(イマーゴ)とは、如何に「俗」であっても「悪」を嫌悪する「最低限の倫理観」のことであり「天使の両翼」(聖性)と言えるものです。

しかし「他者へ罪を擦り付ける生贄行為」とは「最大の悪意」であり「悪魔の所業」(邪悪)と言えるものです。

天才ピカソの正体

宮崎駿の「風の谷のナウシカ」は「黙示録」(revelation)なのです。
しかし鈴木敏夫や日本テレビ放送網の画策によって庵野秀明が「風の谷のナウシカ」の続編を制作するならそれはSatanic Parody制作となり「末法思想」の「風の谷のナウシカ」となるでしょう。
そこで庵野秀明は金色に輝いた「阿弥陀如来崇拝の理想偶像(倒錯偶像)」(ルシファー)となりネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)の扇動となる訳です。

そういった意味でパブロ・ピカソが描いた末法思想的絵画「ゲルニカ」も同様です。
パブロ・ピカソ「ゲルニカ」に於いてDiabolism(釈迦如来信仰の救済求道精神)は否定されています。
パブロ・ピカソ「ゲルニカ」とはSatanic Parodyにより形成した閉塞感(ディストピア)の中で「コンプレックス」が「前衛芸術の成立」(前衛詐欺)として描かれた作品です。
それがパブロ・ピカソ「ゲルニカ」の正体でした。
ただそれは「倒錯感覚」でしかなかった。
そういった「倒錯感覚」を賛美して芸術とすることは「詐欺」だったのです。
それは「阿弥陀如来崇拝の理想偶像(倒錯偶像)」(ルシファー)と同様であったのです。

それは「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様を出現させる手法なのです。

パブロ・ピカソ「ゲルニカ」は「コンプレックス」だった。
そしてそれは「倒錯感覚」の昇華として行われた。
そういった「倒錯感覚」の昇華は庵野秀明の手法と同様の「末法思想」と同じでした。
庵野秀明の場合は他者の作品を一々穢していきます。
そうやって「末法思想」を形成し「前衛芸術の成立」(前衛詐欺)となっていくのです。
しかし庵野秀明は重要なことを隠している。
それは「黙示録」(revelation)が芸術であり、「末法思想」は芸術に対するコンプレックスであるという事実です。

ここで言えることは庵野秀明にしろパブロ・ピカソにしろ・・・彼等にはイマーゴ(神の似姿)がなかったということなのです。
カトリックロゴス感覚にはイマーゴ(神の似姿)が絶対に必要です。
彼等の作品はイマーゴ(才能)がないクリエーターのコンプレックスの産物だった。
そして芸術に対する自らのコンプレックスから制作した「前衛芸術の成立」(前衛詐欺)が意味不明なエニグマ作品となっている。
しかしそれは「前衛芸術の成立」(前衛詐欺)と言う「詐術」でしかない。

※このようなパブロ・ピカソのコンプレックスはネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)を示しています。

安藤忠雄の正体

鈴木敏夫(ジブリ)も宮崎駿のDiabolism(釈迦如来信仰の救済求道精神)へSatanic Parodyをすることで形成した閉塞感(ディストピア)の中で存在する金色に輝いた「阿弥陀如来崇拝の理想偶像(倒錯偶像)」(ルシファー)でした。
それも又、ネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)だった訳です。

これは有名建築家安藤忠雄も同様です。
安藤忠雄はル・コルビュジエのDiabolism(釈迦如来信仰の救済求道精神)をSatanic Parodyで打ち消すことで閉塞感(ディストピア)を形成する。
そこで安藤忠雄は「無理を超越する。」と称して金色に輝いた「阿弥陀如来崇拝の理想偶像(倒錯偶像)」(ルシファー)を建立していく。
それが「安藤忠雄の建築」であって「バフォメットの偶像崇拝」であった。
そういった「バフォメットの異端教団」(明けの明星)ではネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)の扇動があり超危険状態となっている訳です。

これも「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様を出現させる手法です。

ただ言えることは「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を持った建立が「建築」であるなら、Satanic Parodyの建立は「バフォメットの偶像崇拝」のあり方です。

その違いはなんだろうか?

「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を持たない偶像崇拝は「特殊詐欺」でしか無いのです。

さぎ【詐欺】
他人をだまして錯誤に陥れる違法な行為をいう。他人をだますというのは,真実でないことを真実であるとして伝える場合のほかに,真実をあえて隠す場合も含む。もっとも,後者の場合にはそれが社会観念上違法とされるものでなければならない。(1)民法上の詐欺 詐欺によって意思表示した者は,これを取消すことができる。ただし,その取消しは⇨善意の第三者に対抗することはできない(96条1項,3項)。なお詐欺によって生じた損害は,不法行為として詐欺者に損害賠償させることができる。(2)刑法上の詐欺 人をだまして財物を取得したり,財産的利益を得たりした者(だました者以外の他人が取得する場合も含む)は,詐欺罪で罰せられる(246条1項,2項)。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

れいかん‐しょうほう【霊感商法】 ‥シヤウハフ
商品に超自然的な霊力があるかのように思いこませて、高い値段で販売する方法。

『広辞苑 第六版』 岩波書店

「黙示録」と「末法思想」

庵野秀明は宮崎駿の「黙示録」(revelation)へ一々敵対する「末法思想」でしかありません。
それは庵野秀明が宮崎駿の「黙示録」(revelation)を継承していないことを如実に示しています。
庵野秀明は宮崎駿の弟子では全くない訳です。
弟子を名乗るなら「黙示録」(revelation)の継承が第一条件でしょう。
庵野秀明は「黙示録」(revelation)へ敵対して「末法思想」を制作しています。
それがSatanic Parody制作です。

それはカトリック信仰に敵対することで存在する「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様を出現させる手法と言えます。

「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に」に於ける聖書の末法思想然り、「風の谷のナウシカ続編プラン」に於ける末法思想然り、「鳥葬リンチ」の於ける末法思想然りです。
「黙示録」(revelation)であったものへバフォメットカルトにより「黒ミサ」を仕掛けている訳です。
それは「ドクサ」を「絶対知(特権知)」とする「屁理屈」の形成となります。
そういった「黙示録」(revelation)への「黒ミサ」は暗黒卿(ディストピア)となります。
暗黒卿(ディストピア)はSatanic School(阿弥陀如来崇拝の異端教団)によっている。
しかし宮崎駿はDiabolism(釈迦如来信仰の救済求道精神文学)であった。
Diabolism(釈迦如来信仰の救済求道精神)とSatanic School(阿弥陀如来崇拝の異端教団)の違いはユートピアとディストピアの違いとなって決定的なものとなります。
宮崎駿が「神の死んだ」世界における「天上世界」への求道精神の逆説的表明であるなら、庵野秀明は「Satanic School」(阿弥陀如来崇拝の異端教団)によって全てを貶め「ディストピア」を描きます。
解り易く言って宮崎駿は「鳥葬」の「黙示録」(revelation)であり、庵野秀明は「鳥葬リンチ」の「末法思想」であった。
これは「ユートピア思想」と「Satanic 思想」(ディストピア思想)の間の決定的違いとなった。

※「鳥葬リンチ」は伊坂幸太郎「アヒルと鴨のコインロッカー」にも登場する。

才能(イマーゴ)とは?

真のカルチャーの停滞時期

庵野秀明は「オマージュ」と称して過去の名作の引用を多用しますが実際は「Satanic Parody」だった。
カトリック信仰に敵対することで存在する「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様を出現させる手法です。

宮崎駿は庵野秀明の師であって、庵野秀明は宮崎駿の後継者(継承者)であるという「報道」があります。
しかしこれは全くの「誤報」だと思います。
このような「報道」をしたマスメディアは須らく「誤報」を認め視聴者へ謝罪すべきだと私は思います。
私は「謝罪文」を「誤報マスメディア」へ要求します!

これは「誤報」ではなく「悪質なデマゴギー」であるかもしれない。
もしそうならば「犯罪」です!

その意図は何だろうか?

Satanic の扇動です!
Diabolism(釈迦如来信仰の救済求道精神)をSatanic Parodyによって貶め制作した作品が庵野秀明の「シン・シリーズ」です。
庵野秀明はDiabolism(釈迦如来信仰の救済求道精神)が持つ救済への求道精神の逆説的表明に対しSatanic Parodyで徹底的に打ち消していく。
庵野秀明はDiabolism(釈迦如来信仰の救済求道精神)の救済求道精神を徹底的に打ち消すことで「救済求道精神の無い暗黒卿」(ディストピア)をSatanic Parody芸術として出現させる。
それが日本サブカルチャーが謳う「ヲタクアート」の正体です。

村上隆や庵野秀明、浦沢直樹等が代表する日本サブカルチャーのスター軍団は実際はDiabolism(釈迦如来信仰の救済求道精神作品)が持つ救済への求道精神の逆説的表明を打ち消し成立した悪意のSatanic School(阿弥陀如来崇拝の異端教団)だった。

しかしDiabolism(釈迦如来信仰の救済求道精神作品)が真のカルチャーなのです。
それはカトリック信仰です。

そして日本サブカルチャーはカルチャーを打ち消して悪意のSatanic School(阿弥陀如来崇拝の異端教団)を形成していく。
それがカトリック信仰に敵対することで存在する「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様を出現させる手法と言えます。

そうやって真のカルチャーの停滞時期が判明になっていきます。

芸術性の才能(イマーゴ)への深い理解

しかし真のカルチャーとはカトリックロゴス信仰なのです。
才能(イマーゴ)を必要とするカルチャーの避けられない陥穽はカトリックロゴス信仰が持つイマーゴ(神の似姿)のあり方に示されている。

イマーゴ(神の似姿)を持たない作品が社会的地位(倒錯偶像)を獲得することで芸術性の再定義が強行されていく。
それによってイマーゴ(神の似姿)を持たない後継者が社会的地位(倒錯偶像)を形成しカルチャーへ降臨する。
そして才能(イマーゴ)を持たない者によった統治が始まる。
その弊害は才能(イマーゴ)を持たないクリエーターの社会的出世(倒錯感覚)として表出します。
当然の如くカトリックロゴス信仰を解せない後継者の主張により芸術性が再定義されその中身が貶められることにより作品が劣化していくことになる。

それがカルチャーの停滞時期です。

貴乃花の息子だって一流芸術家です。
「誰でもピカソ」です。
確かにピカソにも才能(イマーゴ)はありませんでした。

要はイマーゴ(神の似姿)を持たないクリエーターが芸術家の後継者を主張する。

「幼い頃からの夢と称して・・・」

彼等は幼少時の夢をイマーゴ(夢の実現)だと主張する。
確かにユング心理学のイマーゴ(夢の実現)はそのような「理想の社会的面子(倒錯偶像)」を示している。
しかしそれは芸術家のイマーゴ(神の似姿)とは違う。
そのようなユング心理学のイマーゴ(夢の実現)とは「ドクサの実現」のために汎ゆる手段を容認することを意味している。
それは「最低限の倫理観」すら否定した「ルシファー」(明けの明星)を意味している。
ユング心理学のイマーゴ(ドクサの実現)はネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)によって扇動されていく。
それがアドルフ・ヒットラーの「末法思想的芸術」である。
そういう意味でユング心理学のイマーゴ(ドクサの実現)とは「明けの明星」(ルシファー)であり「阿弥陀亜如来崇拝の理想偶像(倒錯偶像)」だった。
カトリック信仰に敵対することで存在する「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様を出現させる手法です。
特殊詐欺の手法だった。

芸術家の才能(イマーゴ)は「神の似姿」として顕現する。
「神の似姿」とはフロイト精神分析のイマーゴ(神の似姿)を示しています。

ユング心理学のイマーゴ(人の理想偶像)とはカルトによって形成した「芸術家の社会的地位(倒錯偶像)」であり真の芸術家のイマーゴ(神の似姿)を持っていなかった。
要は彼等はただ威張りたい存在なのです。
それが彼等の「ドクサの実現」です。
このような「ドクサ」を「絶対知(特権知)」とする「屁理屈」の形成により「カルト」は根拠付けられます。
そうやって異端教団は出現します。
しかしその根拠は「屁理屈」と「虚偽」でしかありません。

彼等にカトリックロゴス感覚は一々敵対されます。
当然ですが「ドクサ」にとってカトリックロゴス感覚は「絶対の敵」となります。
カトリックロゴス感覚は「カルトの敵」となるのです。
ソクラテスの処刑とは「ドクサ」を「無知の知」で啓蒙していたソクラテスへのカルト集団による貶めであったのです。
ここで解るようにソクラテスとはカトリックロゴス信仰でした。
彼等カルト集団は猿山のお猿さん並の存在なのです。
お猿さんにカトリックロゴス感覚があればカルト集団はお猿さんより劣ります。

しかし宮崎駿のイマーゴ(神の似姿)は芸術性の創造です。
芸術作品の制作には「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」が必要です。

宮崎駿の弟子を名乗った庵野秀明にしろ、息子だと主張する宮崎吾朗にしろ、崇拝者として振る舞う新海誠にしろ、誰一人「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を信仰していない。
それは彼等に宮崎駿の持つカトリックロゴス信仰の後継者となる資格がないことを示している。

敢えて好意的に指摘して庵野秀明と新海誠の両者はアニメ作品のヒットメーカーの後継者とは言えるかもしれない。
しかしそれはアニメ作家というより「商品のヒットメーカー」(ヲタクアートのヒットメーカー)としての後継者に過ぎない。

両者の作品に「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を持った芸術性は存在していない。
酷い言い方をすると彼等は「スプラッター映画」と「エロゲーム」(恋愛ゲーム)のヒットメーカーと大して変わらない。
彼等は芸術性を否定した「商品のヒットメーカー」(ヲタクアートのヒットメーカー)でしかないのです。

しかし宮崎駿の存在が「アニメアートのヒットメーカー」とされたことで彼等自身も宮崎駿と同等だと主張できる社会的錯誤(倒錯偶像)が容認されてしまった。

ただ彼等に「最低限の倫理観」があるならそのような悪意は慎むべきだろう。

彼等にイマーゴ(神の似姿)があればそのような悪意は自ら慎むだろうが・・・彼等に「最低限の倫理観」がないからには無理な話だった。
そうなると「ルシファー」(明けの明星)を撃たなければなりません。

「神の天使」と「ルシファー(明けの明星)の群れ」の間に必然的に生じる「聖戦」が「黙示録」となって始まっている。

芸術(神の似姿)への「hommage」(尊敬)とルシファー(明けの明星)への「homage」(忠誠誓約)の違いを理解しなければならない

彼等にはイマーゴ(神の似姿)を持った「hommage」(尊敬)は存在していない。
「イマーゴ(神の似姿)を持つ『hommage』(尊敬)」と「イマーゴ(神の似姿)へ敵対する『homage』(忠誠誓約)」が存在する。

ここで重要なのは芸術性の才能(イマーゴ)への深い理解なのです。

芸術(神の似姿)への「hommage」(尊敬)とルシファー(明けの明星)への「homage」(忠誠誓約)の違いを理解しなければならない。

※「homage」(忠誠誓約)は「cult」と同様だと言えます。

オマージュ
hommage, homage

『カタカナで引くスペリング辞典』 研究社

imago Dei 〔L.〕
神の似姿〔カトリック教会〕
〈91学術・キリスト教〉

『人文社会37万語対訳大辞典』 日外アソシエーツ

hom・mage /F ᴐmaːʒ/
—n.
敬意 (homage); オマージュ ⦅芸術作品の中で他の特定の芸術家への賛辞としてその作品の一節や表現法・設定などをそれとなく挿入・引用・暗示・踏襲すること⦆.

『リーダーズ・プラス』 研究社

hom・mage [Fr. ᴐmaːʒ]
―n. ⦅フランス語⦆ オマージュ:芸術家・作家などへささげる敬意,またそれを表すための芸術作品の献呈. cf. HOMAGE

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

ちゅうせいせいやく【忠誠誓約】
homage
封臣誓約とも呼ばれる。ヨーロッパ中世封建社会において,家臣として主君に奉仕することを誓約(→託身)する儀式。封建君主に対する家臣契約の標識となるもので,誓約者は無帽,無装備でひざまずいて両手を差出し,主君はこれを両手で受け,家臣として認める旨の宣言を行う。次いで誓約者は起立し,聖書に右手を置き,生涯の忠誠を誓った。身分制国家においては,君主の登位に際して諸身分が集団的にこれを行い,君主の側はその条件として諸身分の特権を確認する慣習があった。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

hom・age [hámidʒ,ám―|hɔm―]〓
―n.
1 尊敬,敬意:〓
2 (封建時代の)臣従の礼,(臣下としての)忠順の誓い:〓
3 (2によって生じる)主従の関係(↔disloyalty).
4 (臣下としてする)奉仕行為,献上物:〓
―v.t. 〈人に〉尊敬[忠順]の意を表す.
◊[文学・著作物]Homage to Catalonia『カタロニア讃歌』G.Orwell のスペイン戦争従軍記(1938).
[c1225? 中期英語(h)omage<古期フランス語,(h)ome「家臣」(<ラテン語 homō;⇀HOMO)より]

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

cult (kŭlt)〓
[L. cultus, an honoring, adoration].祭儀,礼拝形式,祈祷療法(教義または宗教的な教えに基づく体系化された信仰および儀式.従順な献身的な信者,指導者の非現実的な理想化,個人的な欲望や目的の放棄および伝統的な社会価値観の排除などの特徴がある).

『ステッドマン医学大辞典』 メジカルビュー社

才能(イマーゴ)に関する残酷で当然な審判

先程から繰り返し指摘していますが才能(イマーゴ)とは「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」なのです。
ここで判明になるのは「アニメアート」と「商品としてのヲタクアート」の絶対的違いであるでしょう。

アニメアートはイマーゴ(神の似姿)を必要とする。

ヲタクアートはセックス・シンボルによって商売をする。
恋愛描写もセックス・シンボルによっています。
そういったセックス・シンボルによるヲタクアートはカトリック信仰に敵対することで存在する「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様を出現させる手法と同じです。

しかし才能(イマーゴ)を持った稀有なクリエーターが芸術家なのです。

どちらもヒットメーカーとなるがその中身の価値は大きく違っている。
中身の違いと価値が解らない鈴木敏夫は才能(イマーゴ)を持たないプロデューサーであったのです。

才能(イマーゴ)とはそのようにして残酷に顕現する。
それは或る意味、残酷で当然な審判を必要とします。

「君には才能(イマーゴ)がない!」
※「電脳コイル」参照

才能(イマーゴ)を持たない彼等は芸術性を「スプラッター映画」と「エロゲーム」(恋愛ゲーム)まで堕落させ再定義し自己肯定する。

そうやって宮崎駿の最悪の後継者が誕生するだろう。
しかしそれはカトリックロゴス信仰の後継者ではない。
才能(イマーゴ)を持たないガラクタです。

宮崎吾朗は宮崎駿の息子としてスタジオジブリ関連の事業に於いて今のところ確固たる地位を築いているらしい。
しかし宮崎吾朗もアニメ作家というより息子という社会的地位(倒錯偶像)でしかないのです。

そのようにして「サブカルチャー」は「超カルチャー」として現代日本に君臨しています。
現代日本社会では「超カルチャー」(サブカルチャー)が「カルチャー」に対して優位とされています。
それは狂気のネオ・ナチズムの蛮行と同じです。
ネオ・ナチズムはカルチャーを抹殺するために「良書」を焼き払い、そして「信仰の民|ユダヤ人」を大虐殺しました。
このようなネオ・ナチズムの「焚書坑儒」はあまりにも有名です。

カトリック信仰に敵対することで存在する「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様が出現することを賛美している有り様なのです。

ふんしょこうじゅ【焚書坑儒】
Fen-shu Keng-ru; Fen-shu Kˋeng-ju
中国,秦の⇨始皇帝が,始皇 34(前 213)年丞相李斯の上言によって,みずからの専制支配を貫徹するために,民間にあった医学,占術,農学以外のすべての書物を焼かせ(焚書),翌年帝を非難する儒者 460人を咸陽で生埋めにした(坑儒)こと。⇨司馬遷の『⇨史記』に記述がみえ,秦の苛政を象徴するものとして漢以後の儒者からきびしい非難を受けたが,この『史記』の記述の信憑性については,疑問をもつ学者もいる。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

悪意の作品

Diabolism(釈迦如来信仰の救済求道精神作品)だった「ゴジラ」(円谷英二)はSatanic Parodyによって救済求道のないSatanic School(阿弥陀如来崇拝の異端教団作品)の「シン・ゴジラ」(庵野秀明)となった。
彼等ヲタクアートの作品制作は他者が制作した「Diabolism」(釈迦如来信仰の救済求道精神作品)が持つ救済への求道精神の逆説的表明を一々打ち消していくだけであった。
それは悪意のSatanic School(阿弥陀如来崇拝の異端教団)として存在する。
又、そういった悪意の作品は才能(イマーゴ)へ敵対する最悪の悪意さえあれば制作できます。
そういったヲタクアートの制作に才能(イマーゴ)は必要ありません。
ただ邪悪な人々だった。

浦沢直樹はキャラクターを自分で描いていところを「YOUTUBE」で公開しています。

その意味は何でしょうか?

彼は自分の作品のキャラクターがオリジナルであると盛んに主張している訳です。
でもそれは違っていた。
浦沢直樹のキャラクターは実は「唯一性のペルソナの確立」がない訳です。
それは「Masterキートン」に於いて「ジャン・レノ」が登場したシーンで明らかになりました。
それは明らかな形態模写でしかなく「カトリック信仰から形成されたオリジナル」ではなかった。
「三位一体のペルソナ」ではなかった訳です。
そこで浦沢直樹の正体がバレてしまった。
「Masterキートン」は浦沢直樹の作品ではなく「勝鹿北星」(きむら はじめ)の作品だった。

露馬脚
(バキャクをあらわ(は)す)
真相をあらわす。

『新漢語林』 大修館書店

「シン・シリーズ」は善人面(ヲタク責任者)の悪意の作品群

そして庵野秀明監督作品「シン・シリーズ」はDiabolism(釈迦如来信仰の救済求道精神)への悪意のSatanic Parodyだった。
だから如何にアニメアートだと主張しても他者の持つ救済への求道精神の逆説的表明を打ち消す悪意のクリエーターに真のアニメアートとなる資格はなかった。
彼等はアニメアートを騙った特殊詐欺師だった。

そしてそういった新世代の概念は「前衛芸術の成立」(前衛詐欺)として理解し難いものとされている。
しかしそのような「前衛芸術の成立」(前衛詐欺)は古典的詐欺であって前衛詐欺と言えるものだった。
そしてそういった芸術は特効薬詐欺としてアベノミクスを実現する。
それは異端国家の特殊詐欺礼賛となっている。
結局はカトリック信仰を弾圧するヲタクアートはアベノミクスと同じカトリック信仰弾圧のSatanic Parodyであって救済求道精神のない末法思想へ向かう。

それは一言で評し「暗黒郷」(ディストピア)であるが具体的に何だろうか?

それはネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)への盲従であるだろう。
しかしイエス・キリスト(神の似姿)はこの様に言われている。

彼らは[盲人〔を導く〕]盲目の道案内どもだ。しかし、もし盲人が盲人の道案内をするなら、両者とも溝に落ち込んでしまうであろう

私にとって庵野秀明の「シン・シリーズ」は「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に」の鑑賞後発症したPTSD(posttraumatic stress disorder)により視聴困難だったため殆ど見ていない。
だから私はもう庵野秀明作品を生理的に観れません。
才能(イマーゴ)とはSatanic ParodyではなくDiabolism(釈迦如来信仰の救済求道精神)が内包する救済への求道精神の逆説的表明な訳です。

才能(イマーゴ)とは庵野秀明の悪意ではなく宮崎駿の善意です。
それは作品を観れば明らかです。
「俗であれ!しかし悪ではならぬ!」が「最低限の倫理観」です。
それは宮崎駿の善意であり「天使の両翼」です。
そしてそれが才能(イマーゴ)なのです。

「ヲタク善人の面子」(ヲタ芸責任者)は豊臣秀吉であり「猿」の正体だった

庵野秀明は安野モヨコとおしどり夫婦を演じ「ヲタク善人の面子」(ヲタ芸責任者)と言った奇妙なキャラクターの社会的面子(倒錯偶像)を付けています。
しかし庵野秀明の作品は救済への求道精神の逆説的表明を打ち消す悪意の賜物であり、そのような彼の持つ「ヲタク善人の面子」(ヲタ芸責任者)の社会的面子(倒錯偶像)は偽善(俗と悪)でしかありません。
庵野秀明は実際かなり「たちが悪い」と思います。
自分の行為の責任転嫁を「最大の悪意」を持って行う「悪魔の所業」が「たちが悪い」と言うことを示しています。
「ヲタク善人の面子」(ヲタ芸責任者)を造って責任転嫁をしてくることは社会的詐術(倒錯偶像)の常套手段です。
これは古典的手法です。
庵野秀明は「新世紀エヴァンゲリオン」等で犯した罪の責任転嫁のための「ヲタク善人の面子」(ヲタ芸責任者)を社会的地位(倒錯偶像)として形成している。
庵野秀明が狙う責任転嫁の犯行準備は万端となったと言えるでしょう。
庵野秀明による責任転嫁はきっと起こる。

ただそれが成功するかどうかは黙示録(revelation)に掛かっている。

才能(イマーゴ)が無いことが無知無教養な阿呆を示し、それが「救いようのないペテン師」を示すと暴露された時点で、「最悪の劣等」が存在証明されたと見做される。
その時、真逆にも豊臣秀吉の様な「猿」の方が祀り上がりカトリックへ一々敵対するカルトを形成したのです。
それが「ルシファー」(明けの明星)です。
ネオ・ナチズムも「ルシファー」(明けの明星)と同じであった。
豊臣秀吉はネオ・ナチズムであって「ルシファー」(明けの明星)でした。
カトリック信仰に敵対することで存在する「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様を出現させるた訳です。
「明けの明星」(豊臣秀吉)は「太陽の子」(日ノ本)となった訳です。
皆さん気をつけた方がいいです。

※宮崎駿最新作「君たちはどう生きるか」はDiabolism(釈迦如来信仰の救済求道精神)の作品です。

※萩尾望都「トーマの心臓」はDiabolism(釈迦如来信仰の救済求道精神)であり「神の死んだ」世界における「天上世界」への求道精神の逆説的表明であった。(1989/12/18の事件はそういったDiabolism(釈迦如来信仰の救済求道精神)の内包する「殉愛|純愛」だったと私は思う。)

※萩尾望都が「トーマの心臓」の後に描いた受賞作品「ポーの一族」はエドガー・アラン・ポーの名前をそれぞれ持った登場人物となっていてDiabolism(釈迦如来信仰の救済求道精神)を暗示しています。(私は拓殖大学八王子キャンパス購買部で行われた古本即売会で「ポオ全集(谷崎精二翻訳)」を購入し完読しました。)

「ヤンキー精神(倒錯感覚)」の「美」は「阿弥陀如来崇拝の理想偶像(倒錯偶像)」(ルシファー)だった

庵野秀明を祀り上げているヲタク新世代主義はカトリックの撃墜を狙った「ヤンキー精神(倒錯感覚)」だった。
ただ日本の「ヤンキー暴走族」は私にとって謎の存在です。
私はそのような「ヤンキー精神(倒錯感覚)」と馬が合わなかった。
だから「ヤンキー精神(倒錯感覚)」(ヲタク)から因縁を付けられることがあっても影響は受けなかった。

日本のエリートがカトリックではないと言う異常性の謎はエコノミックアニマルにあったと言えます。
それはカトリック信仰ではなく特殊詐欺礼賛の日本産業経済界にあった。
その為に日本カトリック信仰は激しい弾圧にあっている訳なのです。
インチキ日本経済だった訳です。

しかしカトリック信仰の教えは「聖書」(黙示録)にある。
だから現実世界はカトリックの下に降ってある筈なのです。
日本産業経済界も例外なくカトリックの下に降らなければなりません。
いつまでも異端教徒として振る舞っていてはカトリック世界の中の嫌われ者となるしかないでしょう。
それはいつか来る神罰を予感させます。

日本国家は「カトリック国家」から差別されているのではなくカトリック信仰を弾圧している異端国家なのです。
異端国家が「カトリック国家」から嫌われるのは当然です。
だから日本国家が弱体化した真の要因と言えば、いつまでもカトリックの下へ降らず異端国家を当然として振る舞っていた傲慢さからでしょう。

そのような異端国家は神罰を受けたとしても一体誰が同情してくれますか?

少なくとも「カトリック国家」は異端国家を真に救済できるでしょうか?

何故なら救済求道精神とは異端国家をカトリック信仰へ導くことだからです。
そういう意味で現在の日本国家は「異端国家」であり「堕落国家」でしかない。
そのような日本国家は「カトリック国家」となることでしか救済されません。

日本が「美しい国」というのは「カトリック国家」ではなく異端国家の詐術の証だった。

「美」とは何でしょうか?

imago Dei 〔L.〕
神の似姿〔カトリック教会〕
〈91学術・キリスト教〉

『人文社会37万語対訳大辞典』 日外アソシエーツ

末法思想の一向宗

カトリック信仰を信仰弾圧する異端国家に「神の似姿」はなかった。
異端国家の「美」は水玉模様(草間彌生)なのでしょう。

そして綾波レイです。
綾波レイや惣流・アスカ・ラングレイは実際の中学生を参考に形態描写された産物でありペルソナはない。
彼女らはロリータ・コンプレックスの性的商品だった訳です。
庵野秀明達は若い女を売春宿で働かせて金儲けをしていたに過ぎなかった。
ガイナックスもスタジオカラーもロリコン売春宿のようなものでしょう。
フィリピンで働かされている少女売春です。
私は庵野秀明の感覚を分析してみました。
彼等はアニメを性的商品にして金儲けをしただけだろうと思いました。
ディストピアの売春宿です。

庵野秀明とはネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)を盲信する奴隷状態の賛美です。

そういう意味で新海誠の「嘘のない言葉」も同様です。
まさに一向宗です。

織田信長はそのような一向宗を滅ぼしカトリック信仰による救済求道精神を目指したのだと思います。

いっこう‐しゅう【一向宗】イツカウ‐
《一向(ひたすら)に阿弥陀仏を念ずる宗派の意から》浄土真宗。主として他宗派からの呼び名。一向一念宗。門徒宗。

『大辞泉 第二版』 小学館

いっこういっき【一向一揆】
室町時代中期以降,特に応仁・文明の大乱(→応仁の乱)以降,1世紀にわたって頻発した一向宗門徒の一揆をいう。一向一揆は寛正年間(1460~66)にすでに散見され,本願寺第8世⇨蓮如の出現によって,荘園制の崩壊に伴って起った在地地侍,国人,名主を中心とする惣(そう)村的結合のもとに,一向宗の教団組織の強化が進められ,守護大名の領国支配と対立した。一向一揆はおもに社会的,経済的に進んだ畿内,東海,北陸などの各所で展開された。長享2(88)年には,加賀守護⇨富樫政親を高尾城に囲んで自殺させ,以後九十余年にわたって加賀一国を支配した。明応3(94)年以来,越前国では朝倉氏と,摂津国では細川氏と戦い,加賀,越中などでは上杉氏と対立した。戦国大名の領国形成にとっては,一向一揆は最大の試練であった。徳川家康は,永禄6(1563)年の三河の一向一揆には手を焼き,越前北庄に配された柴田勝家も同様であった。天下統一を目指す織田信長も,元亀1(70)年の長島,天正3(75)年の越前,同5年の雑賀(さいが)などの一向一揆と戦った。その中心は石山本願寺であり,本願寺第 11世⇨顕如であった。いわゆる元亀1~天正8年の 11年間にわたる⇨石山合戦である。一向一揆の終末は,戦国大名の統一政権成立への第一歩であった。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

※毎日新聞社の経営危機は特殊詐欺礼賛の日本産業経済界で起こったカトリック信仰の悲劇だったと言える訳です。(異端国家の中で起こったカトリック信仰の悲劇とも言えます。)

「トーマの心臓」譚

マンション屋上から飛び降り 船橋・女子中生自殺

十八日午前八時十五分ごろ、船橋市緑台(通称・船橋グリーンハイツ)二の十一階建てマンション北側のコンクリート通路上に、制服、コート姿の女子中学生が倒れて死んでいるのを、同ハイツ管理事務所の職員(七五)が見つけ、一一〇番通報した。
船橋西署の調べによると、この女子中学生は同市内の中学二年、A子さん(一四)。同マンション北側の非常階段を登った屋上にA子さんの紺色のスクールバックがあり、バックの中から両親と友人五人にあてた遺書二通がみつかった。遺書には友人関係についての悩みが記されており、同署はA子さんがこれを苦に屋上から三一・二メートル下の通路に飛び降り自殺したらしい。

一九八九年十二月一九日(火曜日) 朝刊千葉県欄 毎日新聞社
トーマの心臓(プレミアムエディション)より

ぼくは ほぼ半年のあいだずっと考え続けていた
ぼくの生と死と それからひとりの友人について

ぼくは成熟しただけの子どもだ ということはじゅうぶんわかっているし
だから この少年の時としての愛が
性もなく正体もわからないなにか透明なものに向かって
投げだされるのだということも知っている。

これは単純なカケなぞじゃない
それから ぼくが彼を愛したことが問題なのじゃない
彼がぼくを愛さなければならないのだ
どうしても

いま彼は死んでいるも同然だ
そして彼を生かすために
ぼくはぼくのからだが打ちくずれるのなんか なんとも思わない

人は二度死ぬという まず自己の死 そしてのち 友人に忘れ去られることの死

それなら永遠に
ぼくには二度目の死はないのだ(彼は死んでもぼくを忘れまい)
そうして
ぼくはずっと生きている
彼の目の上に

萩尾望都「トーマの心臓」

あくましゅぎ【悪魔主義】
diabolism
すべてを破壊し否定する悪魔的精神により,人間の暗黒面を追求,その表現に美を見出そうとする文学上の傾向。世紀末の⇨デカダンスはその顕著な実例で,ポー,ボードレール,ワイルドらがその代表者。しかしワイルドの『⇨深淵より』にはキリストへの訴えがあり,ボードレールの『⇨悪の華』はキリスト教への裏面からの接近ともみられ,ポーの究極目標が「天上世界」であったとすれば,悪魔主義は「神の死んだ」世界における求道精神の逆説的表明であるともいえる。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

Sa・tan・ism [séitənìzm]〓
―n.
1 悪魔[魔力]崇拝.
2 悪魔教:キリスト教の礼拝様式をそのまま取り入れて,悪魔を神として拝むこと.
3 悪魔主義:悪魔的な思想傾向,信念,態度,行動など.
4 悪魔派(Satanic school)の特徴.
[1565]
Sá・tan・ist〓
―n.
Sá・tan・ìze
―v.t.

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

Sá・tan・ìsm, s― /―ṭənÌzṃ, ―tṇ― | ―tən―, ―tṇ―/
―n.
1 悪魔主義 (diabolism), 悪魔崇拝; 悪魔的行為[傾向].
2 悪魔教, 悪魔崇拝⦅特に, 19 世紀後半のフランスで悪魔を神としてキリスト教をあざけり, その典礼を滑稽に模倣して黒ミサ (Black Mass) と称する儀式を行って神を冒涜(ぼうとく)したこと⦆.
3 悪魔派 (Satanic school) の特徴.
〖⦅1565⦆: ⇨―ism〗

『新英和大辞典 第6版』 研究社

Sa・tan・ism/séɪtənìzṃ/〓

1 〖歴史〗(特に19世紀フランスでの)悪魔主義[崇拝](cf. diabolism).
2 (キリスト教への) 冒涜, パロディ;悪業, わいせつ (行為).
3 [s~] ひどい不道徳.

『ジーニアス英和大辞典 用例プラス』 大修館書店

satanism
◆noun the worship of Satan, typically involving a travesty of Christian symbols and practices.
―DERIVATIVES
satanist noun & adjective

『The Concise Oxford English Dictionary, Eleventh Edition』 Oxford University Press

⁺sa・tan・ic /sətǽnɪk, seɪ‐/
—〓 (〓 Sátan) 〓
1 [しばしば S―] 魔王の, サタンの; 悪魔崇拝の.〓
2 ⦅主に文⦆ 悪魔のような, 凶悪な.
―tan・i・cal・ly /‐kəli/
〓 悪魔のように.

『ルミナス英和辞典(第3版)』 研究社

sa・tan・ic /sətǽnɪk, seɪ―/
―adj.
1 [時に S―] サタンの, 悪魔の〓
2a 悪魔のような (devilish); (風采が)悪魔的な〓
b 〈笑いなど〉嘲笑的な〓
c 残忍な, 極悪非道な, 凶悪な〓
d 異常な, 恐ろしい〓
e ぞっとする, 嫌な (hellish)〓
3 悪魔派の[から成る] (cf. Satanic school).
〖⦅1667⦆ ▭ LGk satanikós: ⇨Satan, ―ic¹〗

『新英和大辞典 第6版』 研究社

par・o・dy [pǽrədi]〓
―n. (pl. ―dies)
1 もじり詩文,パロディー:著名な文学作品などをこっけいにまたは風刺的にまねたもの. cf. BURLESQUE:〓
2 (…の)替え歌⦅of,on ...⦆.
3 こっけいな人まね,(事件などの)風刺的なまね.
4 パロディーミサ曲(parody Mass).
5 拙劣な模倣,上辺だけの類似.
―v.t. (―died,par・o・dy・ing)
1 〈文学作品・作家などを〉風刺して模倣する,パロディー化する,もじる;〈楽曲を〉替え歌にする.
2 〈身ぶりなどを〉下手にまねる,こっけいにまねる.
[1598.<ラテン語 parōdia パロディー<ギリシャ語 parōidía 戯画的な歌または詩.⇀PAR―,ODE,―Y³]
pár・o・di・a・ble
―adj.

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館


バッハ「G線上のアリア」の選曲理由はイマーゴ(神の似姿)を貶めることによる「前衛芸術の成立」(前衛詐欺)の詐術でした

庵野秀明達は「聖書」の「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」へ一々敵対することで作品(Satanic Parody)を作って行った。
それはSatanic Parody制作と言える訳です。
だからバッハ「G線上のアリア」は最も最悪なシーンで使用された。
はっきり言えば庵野秀明達はこの映画で最悪の醜悪を制作した。
彼等には全くイマーゴ(神の似姿)がなかった。
イマーゴ(神の似姿)を貶めることを「前衛芸術の成立」(前衛詐欺)とした訳です。
それは「ヲタクアートの旗手|村上隆」と同様です。

私はこの作品を観てPTSD(posttraumatic stress disorder)となりました。

ちょうそう【鳥葬】
遺体の処理を鳥類にゆだねる葬法。インドのゾロアスター教徒(→パールシー)や⇨チベット人のものが有名である。パールシーは,大地と火をけがさないために,塔の上(⇨沈黙の塔)に遺体を置いて鳥に食べさせる。この葬法は,台や木の上に遺体を葬る⇨台上葬,⇨樹上葬と関連があるとされている。チベットでは,ラマ教やボン教の僧侶が遺体を解体し,鳥が食べ残さないようにうまく処理する。死者の肉体と霊魂は鳥に食べられて天に運ばれると信じられているからである。スリランカの⇨ベッダ族,東アフリカの⇨マサイ族は⇨死体放棄を行い,ハイエナやハゲタカのえじきとなるにまかせるが,これは鳥葬の一変形とも,原初形態ともみられる。しかしパールシーやチベット人のような天上他界観念はみられない。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

ハンムラビ法典(ハンムラビホウテン)
[英] Code of Hammurabi
紀元前1750頃。バビロン第一王朝ハンムラビ王による「法典」。従来世界最古の「法典」とされてきたが,今日ではウルナンム「法典」(シュメール語),エシュヌンナ「法典」(アッカド語)などメソポタミアの先行の諸「法典」の伝統を引き継ぐものとされている。医師の身分,医療費,医療過誤の処罰なども規定している。有名な「目には目を,歯に歯を」の処罰法も社会階層間の格差もあり,画一的に行われたわけではない。ハンムラビ=ハムラビ。
(671032)

『医学書院 医学大辞典』 医学書院

ハンムラビほうてん【ハンムラビ法典】
Code of Hammurabi
前 18世紀頃,⇨バビロン第1王朝の王⇨ハンムラビによって制定された法典。「目には目を歯には歯を」で名高い。高さ 183cm弱の閃緑岩碑に集大成されて,⇨シッパルのシャマシュ神殿内に建立された。石碑は前 12世紀頃侵入してきたエラム人らによってスーサへ持ち去られ,その地で 1901~02年にフランスの考古学者らに発見された。パリのルーブル美術館所蔵。原型のまま残っているものとしては,世界最古の法典である。前代の諸法,特にアッカド法,シュメール法の影響を受けながら,これらを集成したもので,神授法典であることを示す序文,282条の本文,法典の規定に違反した者に神の呪(のろい)と懲罰が与えられる旨を記した跋(ばつ)文とからなる。本文には,裁判組織および手続き,刑罰,行政区画ならびに行政制度,契約上の諸原則(契約自由の原則もみられる),親族,相続などに関する具体的規定などが盛り込まれている。ヘレニズム時代前のオリエント全域の法に強い影響を与えた。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

ハムラビ‐ほうてん【ハムラビ法典】 ‥ハフ‥
ハムラビが発布した法典。完全な形で残る最古の法典。慣習法を成文化したもの282条から成る。以後の楔形(くさびがた)文字法の基本。1901年、閃緑岩に刻まれたものがイランのスーサで発見。

『広辞苑 第六版』 岩波書店

外傷後ストレス障害(ガイショウゴストレスショウガイ)
[英] posttraumatic stress disorder;PTSD
[同義語] 【心的外傷後ストレス障害,外傷神経症(外傷性神経症) traumatic neurosis】
1980年に米国精神医学会が発表したDSM-Ⅲの中に,不安障害の下位カテゴリーとして登場した概念。従来の外傷後神経症,戦争神経症と関係する。本障害研究の大きな進展の契機となったものとして,米国におけるベトナム帰還兵の社会不適応や,性的虐待の被害者の存在が挙げられる。診断されるには,誰にとっても外傷的となりうる強さのストレスに曝されなければならない。特異的な症状として,侵入的思考,過覚醒,フラッシュバック,悪夢,睡眠障害,記憶と集中力の変調,驚愕反応などがあり,その症状はストレスが誘発する脳の構造と機能の変化の表れであるとも考えられている。
(511037)

『医学書院 医学大辞典』 医学書院

坂本龍一達の「イエロー・マジック・オーケストラ」は「ブラック・マジック・オーケストラ」(人工林の植樹)だった

当初から解っているように坂本龍一の「メロディ」(Satanic Parody制作)に「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」が全くありませんでした。
坂本龍一も庵野秀明達と全く同様に「アリア」(黙示録)へ一々敵対する「メロディ」(Satanic Parody)を制作した訳です。
それらも又、最も下劣なSatanic Parody制作だった訳なのです。
坂本龍一の様にカトリック信仰へ一々敵対することを楽曲のコンセプトとした存在が「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を持っている訳がないのは明らかでした。

そこで坂本龍一は時間的経過(技術革新)の楽曲定義を放棄しなければならない段階になってクラシック音楽へ回帰しているようなイメージ操作を行いました。

それは当然の屁理屈バレだったからです。
屁理屈とは「ドクサ」を「絶対知(特権知)」とする「ブラック・マジック・オーケストラ」(イエロー・マジック・オーケストラ)なのです。

坂本龍一は自らの楽曲のピアノ・ソロ及びオーケストラ指揮を「前衛芸術の成立」(前衛詐欺)として提示した訳です。
それは末法思想の中で光り輝く音声を前衛音楽だとする立ち位置でありそれを坂本龍一の楽曲として提示している。
そのようにして坂本龍一はカリスマの立ち位置を維持し続けている。
しかしそもそも前衛音楽とは「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を持つことで成立する筈です。
そうなると坂本龍一の楽曲は「阿弥陀如来崇拝の理想偶像(倒錯偶像)」(ルシファー)の立ち位置を主張するだけであって「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を持っていなかった。
それ故に坂本龍一の楽曲を「前衛音楽の成立」とは見做すことは出来ないのです。

だから坂本龍一とは前衛音楽を立ち位置を形成する人間関係により社会的地位(倒錯偶像)として成立させてしまった音声犯罪者と言える。
ただ立ち位置を形成する人間関係とは「前衛音楽の成立」を可能とするカトリックロゴス感覚に対してのコンプレックスとしてなされる。
坂本龍一の「前衛芸術の成立」(前衛詐欺)はコンプレックスとしてなされる。
カトリック信仰に敵対することで存在する「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いてコンプレックスを異端の神様として出現させた。
そういう意味で坂本龍一とはコンプレックスの塊だったのです。
そしてそれを「前衛芸術の成立」(前衛詐欺)として主張する。
それは完全な詐欺だったのです。
坂本龍一は完全犯罪を目指したのです。

浦沢直樹と坂本龍一が評価された「前衛芸術の成立」(前衛詐欺)とは「本物」への「コンプレックス」だった

例えば浦沢直樹の漫画キャラクターの特徴を言わせて貰うと「美人画」と「コンプレックス」の二分化で評せます。
「美人画」の漫画キャラクターは「雑誌モデルの写真」(アイドル写真)をコミカライズしただけであって、それ以外の漫画キャラクターは「コンプレックス」を「前衛芸術の成立」(前衛詐欺)とした凡庸なデザインであり詐術でしかなかった。

「美人画」の漫画キャラクターで言えば「YAWARA!」、「コンプレックス」の漫画キャラクターで言えば「20世紀少年」だったりする。
そして「PLUTO」は末法思想に於ける「阿弥陀如来崇拝の理想偶像(倒錯偶像)」(ルシファー)だった。
要は才能(神の似姿)に対するコンプレックスを「前衛芸術の成立」(前衛詐欺)とした訳です。
しかしそこにイマーゴ(神の似姿)はなく「芸術の成立」はなかった。

ただ浦沢直樹は数々の高名な漫画賞を受賞している。
知っての通り坂本龍一もアカデミー賞とグラミー賞を受賞した世界的音楽家とされている。
しかしこの数々の高名な賞を受賞した両名の手法は非常に近しく共通している。
それは「前衛芸術の成立」(前衛詐欺)で数々の高名な賞を受賞した在り方です。
しかしそれは才能(イマーゴ)を持たない人間のコンプレックスでしかなかった。
これはネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)の「バフォメットの偶像崇拝」だったと言えるのです。

では高名な賞とは一体なんだろうか?

例えば芥川賞や直木賞はどうだろうか?

これらは「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を持った「前衛芸術の成立」(前衛詐欺)ではない。
本物に対するコンプレックスを「前衛芸術の成立」(前衛詐欺)としただけの「偽物」であって特殊詐欺でしかなかった。

しかし幾らイメージ操作で「本物」に見せたとしても坂本龍一楽曲がポピュリズム音声(扇動音声)であることに変わりはありませんでした。
坂本龍一楽曲はポピュラー音楽ではなかった。
それは「偽物」であった。
それは「ホワイト・マジック・オーケストラ」(自然林の回復)ではなかった訳です。

しかしそれを覆すために坂本龍一は環境問題や社会運動へ得意げに格好良く参加して見せました。
それが「ホワイト・マジック・オーケストラ」(自然林の回復)に見えるからです。
坂本龍一はそのような善行(責任)の「何かやった感!|何もなかった感!」によってプラセボを形成し「ホワイト・マジック・オーケストラ」(自然林の回復)としました。
しかしそれは偽物であり特殊詐欺でしかなかった。
村上春樹の求道的マラソンも同様な「何かやった感!|何もなかった感!」によるプラセボの形成だった。
それは「ホワイト・マジック・オーケストラ」(自然林の回復)を装うイメージ操作の形成だった。
彼等は「霊感商法」の「偽善者」(俗と悪)だった訳です。

それはカトリック信仰に敵対することで存在する「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様を出現させる詐欺手法だった。

「ヤンキー精神(倒錯感覚)」による「神宮外苑の森林伐採問題」

最近有名になった環境問題がありました。
その一つが「神宮外苑の森林伐採問題」です。

これは「ホワイト・マジック・オーケストラ」(自然林の回復)でしょうか?

坂本龍一教授は環境問題で「ホワイト・マジック・オーケストラ」(自然林の回復)を装うイメージ操作をした訳です。
村上春樹も同様です。

私の感想を言わせて頂くと「神宮外苑の森林伐採問題」は「自然林」の問題ではなかったということなのです。
「神宮外苑の森林」とは明治維新後に植樹された「人工林」でしかありません。

ここに見られるように坂本龍一教授は「聖書の一節」へ「ヤンキー精神(倒錯感覚)」を持って敵対したと考えられます。
それはこの「聖書の一節」です。

穢れに関する論争(マタイ 一五)
「天の私の父が植えられたのではない植物はすべて、根こそぎにされるであろう。」

岩波書店「マタイによる福音書」

この一節によってみると明治維新後に植樹された人工林に関する「明治神宮外苑」の森林伐採はおかしな行為とは言えないのです。
何故なら「人工林は根こそぎにされて然るべし」だからです。

坂本龍一教授の狙いはここにあったのです。
この「聖書の一節」へ敵対し「ヤンキー精神(倒錯感覚)」を持って挑んだということです。
坂本龍一がアンチキリストである決定的な証拠です。
まー、「戦場のメリークリスマス」も似たような構造です。
そしてイマーゴ(神の似姿)へ敵対する「ヤンキー精神(倒錯感覚)」が坂本龍一教授の芸術だった。
それは「病的なコンプレックス」からの「パラノイア発症(倒錯感覚アーリア)」の全肯定だった。
「八百長」だった。
それが「バフォメットの偶像崇拝」です。
「ホワイト・マジック・オーケストラ」(自然林の回復)を装った「ブラック・マジック・オーケストラ」(人工林の植樹)なのです。
それが彼の「イエロー・マジック・オーケストラ」の正体だった。
坂本龍一教授とは「親切ごかし」で嫌らしい男なのです。

又、明治政府の要人賛美が坂本龍一の意図かもしれません。
何故なら天皇家は古来より京都の御所にお住まいで居られました。
それを東京へ強引に移したのが明治政府設立の倒幕派だったからです。
この「神宮外苑の森林伐採問題」は明治天皇陛下への不敬問題でもなく、明治政府要人賛美を目的としただけの「ブラック・マジック・オーケストラ」(人工林の植樹)に見えます。
地震後に熊本城の美しさを讃えていた村上春樹も同様に「ブラック・マジック・オーケストラ」(人工林の植樹)でしょう。
それも「人工林」と同じ構図です。
「聖書の一節」へ「ヤンキー精神(倒錯感覚)」で挑んでいる。
敵対者であるのです。
サタンです。
彼等は芸術家ではなく「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」へ敵対したアンチキリストであった。
そして「バフォメットの異端教団」の構成員だった。

カトリックロゴス信仰のキリストは「ホワイト・マジック・オーケストラ」(自然林の回復)だからアンチキリストの「ブラック・マジック・オーケストラ」(人工林の植樹)から狙い撃ちに遭います。

当初、私には坂本龍一が何故そこまで「神宮外苑の森林伐採問題」に拘っているのか理解できなかった。

高級住宅街の「住環境」がそんなに大事なのでしょうか?

不思議だった。

明治天皇陛下への不敬罪ですか?

どうもそうでもないらしい。
何故ならば場所が「神宮外苑」だからです。
これは完全に明治政府設立の倒幕派賛美を意図している。

「homage」(忠誠誓約)なのです。

これがカトリック信仰に敵対することで存在する「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様を出現させる詐欺手法でした。
だから坂本龍一教授は詐欺師だった訳です。

それが「ホワイト・マジック・オーケストラ」(自然林の回復)である訳がないと私は思いました。

ここで指摘したいことは明治政府設立の倒幕派賛美は「ホワイト・マジック・オーケストラ」(自然林の回復)と「ブラック・マジック・オーケストラ」(人工林の植樹)のどちらだろうかという疑問です。

それとも「イエロー・マジック・オーケストラ」でしょうか?

結局、明治維新には「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」がないという歴史的事実がこの「坂本龍一事件」にとって大きかったらしい。

明治維新に「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」がないなら「明治維新の要人」(倒幕派)は「明けの明星」(ルシファー)であった訳です。
それは偽物という訳です。

カトリック信仰に敵対することで存在する「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様を出現させる異端教団だった。

それは末法思想に於ける「阿弥陀如来崇拝の理想偶像(倒錯偶像)」(ルシファー)だった。
要は特殊詐欺だった訳です。

結局は「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰を持ったカリスマ」と「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰へ一々敵対したカリスマ」の在り方が基本的な人物評価となりえる。

その人を見て「才能」(イマーゴ)があるか?

そこが問われる。
あなたは本物を見出さなければならない。

坂本龍一の場合には大きなインチキがあった。
彼の場合には「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を装った屁理屈を「前衛音楽の成立」とした。
しかし当然に「ドクサ」を「絶対知(特権知)」とするカルトを形成するのが屁理屈であり、坂本龍一はカトリックロゴス感覚へ一々敵対する典型的な異端教団のカルト教祖だった。
要は天才ピカソと同様に幼少時から音楽教育(絵画教育)を受けた坂本龍一にはユング心理学のイマーゴ(人の理想偶像)があったらしい。
しかし彼には音楽的才能(イマーゴ)がなかった故に「前衛音楽の成立」をコンプレックスとした。
ただこれは明らかな詐術だった。
前衛音楽とは「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を持った音声制作であったからです。

ではコンプレックスとは一体何でしょうか?

それは何に対するコンプレックスであるかを問えば明確なのです。

「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰を可能とする才能(イマーゴ)」に対するコンプレックスだった訳です。

それは「フロイト精神分析学」に対する「ユング心理学」の強烈なコンプレックスとなっている。
「フロイト精神分析学」はイマーゴ(神の似姿)に対する「hommage」(尊敬)だった。
要はフロイトの才能(イマーゴ)に対しユングは強烈なコンプレックスを持った訳です。
それは本物に対する偽物のコンプレックスです。

「天使の両翼」に対するコンプレックスとは強烈な嫉妬となる。

それは才能(イマーゴ)に対する強烈なコンプレックスであり強烈な嫉妬となった。

坂本龍一は「アカデミー賞」や「グラミー賞」を受賞したらしいけれど、そういった「詐術」がバレてしまえば「凡庸なヲタク」に過ぎなかったことが明確になってしまいます。
それは彼が才能(イマーゴ)を持たない有名人程度の存在だったことの証明となります。
イマーゴ(神の似姿)を貶め「自らの似姿」をイマーゴとして宣伝し扇動する。
それが「坂本龍一教授のフォト」であり「阿弥陀如来崇拝の理想偶像(倒錯偶像)」(ルシファー)だった。

そして「オタキング岡田斗司夫の偶像崇拝」も同様です。

そういう意味でネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)とは「凡庸なヲタク集団」だった訳です。

「神の恵」は「イマーゴ(神の似姿)を持った才能」を言います

坂本龍一は最後までアンチカトリックであり最後までアンチキリストであった訳なのです。
どういうことかと言うとカトリックロゴスへ一々敵対する破廉恥男が坂本龍一の正体だった。
彼の死ぬ直前も、彼の死後も・・・

ちゅうたつ【仲達】
司馬懿(しばい)の字(あざな)。「死せる孔明、生ける—を走らす」

『広辞苑 第六版』 岩波書店

坂本龍一は死して尚欺き続けるつもりだった訳なのです。
カトリック信仰への彼の強烈な憎悪は彼のコンプレックスから来ている。
坂本龍一がいくら博学と勉強家を装ってもバカはバカだった訳です。
坂本龍一は「低脳な猿」(茶番劇)だったという訳なのです。
彼にとってそれがよっぽどコンプレックスだったのでしょう。
だから坂本龍一は最後に諸葛亮孔明となって天命すら欺こうとした。

「猿知恵(茶番劇)の策」によって行われた孔明(坂本龍一)の数々の有名な茶番劇は彼の命運を指し示している。
「死せる孔明、生ける仲達を走らす」等の「孔明の策」は猿知恵(茶番劇)だったからです。

そして「三国志演義」を読んでみるとカトリックロゴス信仰を持っていたのは関羽雲長であったことが明確となっています。
関羽雲長はイマーゴ(神の似姿)であり「天使の両翼」を持った「龍」とされたのです。
「龍」とは「皇帝」を示していると言われています。
「善政」は関羽雲長によって執り行われたのでしょう。
それが関羽廟(カトリックロゴス信仰)の存在理由です。

坂本龍一は死後に孔明廟(茶番劇)にはなれるかもしれません。
しかし坂本龍一は死後に関羽廟(カトリックロゴス信仰)には絶対になれないでしょう。

「騙し抜く前衛芸術家」(倒錯者のアーリア社会主義)は「末法思想的芸術家」だった訳です。
そして坂本龍一は何故かエリートで何故か指導者だと強行に主張している。
ご覧の通り坂本龍一はネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)だった訳です。

それが「明けの明星」(ルシファー)だった。
そしてそれは末法思想に於ける「阿弥陀如来崇拝の理想偶像(倒錯偶像)」(ルシファー)だった。
それはカトリック信仰に敵対することで存在する「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様が出現することを示している。

坂本龍一は「神の子」ではなかった。
彼に「神の恵」はなかった。

「神の恵」は「イマーゴ(神の似姿)を持った才能」を言います。
それは「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」より受肉する「天使の両翼」なのです。

坂本龍一は「明けの明星」(ルシファー)だった。

ルキフェル
Lucifer
ギリシアのフォスフォロスのローマ名で,明けの明星。曙女神の息子とみなされ,通常,たいまつを手にした青年の姿で表わされ,キリスト教の伝承では,ルキフェルは,「黎明の子,明けの明星よ,あなたは天から落ちてしまった」という『イザヤ書』 14章 12の章句に基づいて,堕天使の頭サタンと同一視され,もっぱらその別名として用いられるようになった。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

彼は「最も穢らわしい人物」だったと言える。
何故なら坂本龍一は「ブラック・マジック・オーケストラ」(人工林の植樹)だったからです。
彼等の「イエロー・マジック・オーケストラ」の正体とは「ブラック・マジック・オーケストラ」(人工林の植樹)だった訳なのです。

そして彼の完全犯罪の行方は・・・
僕は告発したよ!

宮崎駿の「ホワイト・マジック・オーケストラ」(自然林の回復)

例えば宮崎駿の環境問題への参加があります。
それは自然林に関するものでした。
そういった活動は「聖書」を暗示させます。
それによって宮崎駿の環境問題はカトリック信仰であると言える訳です。
宮崎駿は「ホワイト・マジック・オーケストラ」(自然林の回復)と言える。

フィオの「ホワイト・マジック・オーケストラ」(自然林の回復)

「天の私の父が植えられたのではない植物はすべて、根こそぎにされるであろう。」

穢れに関する論争(マタイ 一五 1-20)

そのあと、〔幾人かの〕ファリサイ人たちと律法学者たちとが、エルサレムからイエスのところにやって来て言う、「なぜお前の弟子たちは父祖たちの言い伝えを破るのか。彼らは、パンを食べるときに〔自分たちの〕手を洗わないではないか」。すると彼は答えて彼らに言った、「お前たちこそ、なぜお前たちの言い伝えで神の掟を破るのか。というのは、神は父と母を敬えと言い、父や母を呪うものは必ず死ぬべしと言われたにもかかわらず、お前たちは〔次のようなことを〕言っている、『父や母に対し、「あなたが差し上げるはずだったものは、供え物〔となります〕と言う者は、その父を敬う〔必要が〕ないであろう』、と。こうしてお前たちは、お前たちの言い伝えで神の言葉を台無しにしてしまった。偽善者どもよ、お前たちについて、イザヤはみごとにも預言して〔次のように〕言った、

この民は唇で私を敬うが、
その心は私からはるかに隔たっている。
彼らは私をいたずらに敬うが〔に過ぎない〕、
人間たちの〔さまざまな〕戒めを〔しょうこりもなく〕教えとして教えながら」。

そして群衆を呼び寄せ、彼らに言った、「聞け、そして悟れ。口の中に入って来るものは、人間を穢さない。むしろその口から出ていくもの、それこそが、その人間を穢すのだ」。
そのあと、弟子たちがやって来て彼に言う、「ファリサイ人たちが〔今の〕御言葉を聞いて躓いたのをご存じですか」。すると彼は答えて言った、「天の私の父が植えられたのではない植物はすべて、根こそぎにされるであろう。彼らをそのままにしておくがよい。彼らは[盲人〔を導く〕]盲目の道案内どもだ。しかし、もし盲人が盲人の道案内をするなら、両者とも溝に落ち込んでしまうであろう」。

するとぺトロが答えて彼に言った、「[この]譬を私たちに解釈してください」。すると彼は言った、「あなたたちも、悟りがないままなのか。すべて外から口の中に入って来るものは、腹の中に入って行き、便所へと出されてしまうことがわからないのか。しかし、口から出てくる〔もろもろの〕ものは、心の中から出て来る。それこそがその人間を穢すのだ。なぜならば、心の中からこそ、悪しき想い、殺人、姦淫、淫行、盗み、偽証、瀆言が出て来る。これらのものが、その人間を穢すものである。しかし、洗わない手で食べることがその人間を穢すことはない。

岩波書店「新約聖書 マタイによる福音書」

宮崎駿のカトリックアニメとスタジオジブリの違いは名称に表れている

ジブリという名前の由来は?
A

 ジブリの綴りは「GHIBLI」、サハラ砂漠に吹く熱風を意味するイタリア語です。第2次世界大戦中に使用されたイタリアの軍用偵察機の名前でもあり、飛行機マニアの宮崎監督が命名しました。日本のアニメーション界に熱風を起こそうという思いを込めたネーミングだそうです。

なお、本来イタリア語では「ジブリ」ではなく「ギブリ」と発音するのが正しいそうです。

スタジオジブリホームページより

ghib・li [ɡíbli]
―n. ギブレ:北アフリカの砂漠で吹く砂塵(さじん)を含んだ熱風.
[<アラビア語方言 gibli 南風]

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

ギーブリ
ghibli
リビアのキレナイカ地方の⇨局地風。冬から春にかけて吹く砂と塵を多く含んだ風。風速が毎秒 15mに達する。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

ghibli /ˈgɪbli/
▶noun
[mass noun] a hot, dry southerly wind of North Africa.〓
-ORIGIN
early 19th cent.: from Arabic qiblī ‘southern’.

●Oxford Dictionary of English, Second Edition revised

時の徴(ルカ 一二 54-56)

また、群衆にも言った、「あなたたちは、雲が西に出るのを見ると、すぐさま、「にわか雨が来るぞ」と言い、まさにそのようになる。そして南風が吹くと、あなたたちは、「熱風になるぞ」と言い、まさに〔そう〕なる。偽善者たちよ、あなたたちは、地と空との模様は吟味するすべを知っていて、どうして〔今の〕この時は吟味するすべを知らないのか。

岩波書店「ルカによる福音書」

坂本龍一の「屁理屈」は「ドクサ」を「絶対知(特権知)」とする「ブラック・マジック・オーケストラ」(人工林の植樹)であり「毒薬」でした

私には坂本龍一がポピュリズム音声(扇動音声)の「メロディ」(Satanic Parody制作)をハウツーで作曲している様に見えました。

ここで言えることはジョン・レノンはポピュラー音楽だった。
そしてジョン・レノンは「アリア」(黙示録)だった。
何故ならば「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を持った音声が「アリア」(黙示録)とされるからです。
「アリア」(黙示録)はポピュラー音楽です。
だからそれは「善き羊飼い」の「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を持った「ホワイト・マジック・オーケストラ」(自然林の回復)と言えた訳です。

しかし坂本龍一はポピュリズム音声(扇動音声)だった。
それは「アリア」(黙示録)以前の原始的音声に過ぎなかった。
だから坂本龍一はテクノポップで先進的音声(技術革新)を音楽と定義していた。
そして晩年にクラシック楽器(技術革新)の演奏を最高峰の音楽として再定義した。
坂本龍一は自ら下手なピアノを独奏しクラシックオーケストラで大袈裟に演奏してみせた訳です。
それは「何かやった感!|何もなかった感!」によってプラセボを形成し、同時に又音楽の定義を先進的音声(技術革新)から古典的音声(技術革新)ヘイメージ操作で路線変更して見せただけでした。
このように坂本龍一楽曲はどうやっても「アリア」(黙示録)を否定し自らの「メロディ」を肯定した。
それは今どきの言葉で「自己肯定感」とでも言うのでしょう。

ポピュラー音楽の「アリア」(黙示録)には「天使の両翼」を受肉させる「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」が存在している。
それは「ホワイト・マジック・オーケストラ」(自然林の回復)です。
それは白魔術師と言えます。

坂本龍一はネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)であった。
坂本龍一は他者の「天使の両翼」をもぎ取り、そして他者を盲人として服従させるのです。
坂本龍一にあったのはカトリックロゴス信仰に対し自らを誇るコンプレックスであり、他者を救済する求道はなかった訳なのです。
これは典型的にカトリック信仰に敵対することで存在する「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様を出現させる詐欺手法でした。

※こういう「ヤンキータイプ(倒錯感覚)」が医師になったら最悪です。

そういう坂本龍一とはネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)への盲従を賛美する「バフォメットの異端教団」(明けの明星)であり「ブラック・マジック・オーケストラ」(人工林の植樹)を司どった「魔女|魔術師」だった。
それは黒魔術師と言えます。

この決定的違いが大き過ぎる訳です。

坂本龍一等の「イエロー・マジック・オーケストラ」は完全な「屁理屈」だった。
それはSatanic Parody制作によった「ブラック・マジック・オーケストラ」(人工林の植樹)な訳です。

そのような「屁理屈」は「ドクサ」を「絶対知(特権知)」とする「毒薬」だった訳です。

「ブラック・マジック・オーケストラ」(人工林の植樹)は「毒薬」でした。

ポピュラー音楽は「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を持っています。
カトリック信仰であり「聖歌」と言えます。
それはMUSIC(聖なる音楽)の成立なのです。

ポピュリズム音声(扇動音声)は「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」へ一々敵対し「扇動|動員」のキャンペーン(宣伝活動)を行っている。
当初、坂本龍一等が結成していた「YMO」は「イエロー・マジック・オーケストラ」であり「屁理屈」の「ブラック・マジック・オーケストラ」(人工林の植樹)だった訳です。

それは「ドクサ」を「絶対知(特権知)」とする「毒薬」でした。

彼等は様々なキャンペーン(宣伝活動)による賜物だった訳です。

Yellow Magic Orchestra(イエロー・マジック・オーケストラ)という名称は、細野が1970年代後半に提唱していたコンセプト「イエローマジック」から来ている。これは白魔術(善や白人などの象徴。特に白人音楽)でも、黒魔術(悪や黒人などの象徴。主に黒人音楽)でも、そのどちらでもない黄色人種独自の音楽を作り上げるとして、魔術の色を人種の色にかけて提唱した「黄色魔術」(イエローマジック)である。細野がYMO以外で「イエローマジック」の名前を使用しているものとしてはティン・パン・アレーの曲「イエロー・マジック・カーニヴァル」、細野のアルバム『はらいそ』の作成者名義「ハリー細野とイエローマジックバンド[3]」が挙げられる。また坂本のアルバム『千のナイフ』のライナーノーツの細野の寄稿文でも、イエローマジックについての記述がある。

ウィキペディア


坂本龍一が作曲した「CM曲」は実際かなり多くあります。
「CM曲」はキャンペーン(宣伝活動)の要です。

坂本龍一は東京藝術大学でポピュリズム音声(扇動音声)の「メロディ作曲」(Satanic Parody制作)を学びました。
それを教えた有名な「師匠」が誰だったかいたらしいのです。
その「師匠」はポピュリズム音声(扇動音声)の「技術」を知っていたということです。
坂本龍一のポピュリズム音声(扇動音声)の「メロディ」(Satanic Parody制作)とはそういう意味でキャンペーン(宣伝活動)の「嵌め手」な訳です。

はめ‐て【▿填め手】
自分の術中に誘いいれるための手だて。主に囲碁・将棋などでいう。「―にかける」

『大辞泉 第二版』 小学館

これはMUSIC(聖なる音楽)の成立へ一々敵対することで形成されたポピュリズム音声(扇動音声)の「メロディ」(Satanic Parody制作)と言えます。
そしてポピュリズム音声(扇動音声)の「メロディ」(Satanic Parody制作)は「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」へ一々総攻撃を仕掛けるキャンペーン(宣伝活動)を張っていきます。

この意味はポピュリズム音声(扇動音声)の「メロディ」(Satanic Parody制作)の正体が極右の「軍歌」であったという「悲しい現実」を示しています。
坂本龍一「戦場のメリークリスマス」とはポピュリズム音声(扇動音声)の「軍歌」だった訳です。

そして大島渚監督作品「戦場のメリークリスマス」は「メリークリスマス」を「阿弥陀如来崇拝の理想偶像(倒錯偶像)」(ルシファー)として扱いました。
何故なら「メリークリスマス」が示す「イエス・キリスト(神の似姿)の誕生」を冒涜するためです。
それは最悪の冒涜だった。
彼等はイエス・キリスト(神の似姿)の誕生へSatanic Parodyを仕掛け大冒涜した訳です。
この映画は下品な冒涜映画であり最悪のクズ映画だった訳です。
まさにカトリック信仰に敵対することで存在する「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様を出現させる詐欺手法だった。

坂本龍一のキャンペーン(宣伝活動)に「癒やし」なんてある訳がなかった。
坂本龍一楽曲の「癒やし」の「嵌め手」は「ブラック・マジック・オーケストラ」(人工林の植樹)です。
Diabolism(釈迦如来信仰の救済求道精神)が内包する「天上世界」への求道精神の逆説的表明をSatanic Parodyで一々打ち消していく訳です。
その救済求道精神を打ち消された暗黒郷に坂本龍一は「癒やし」を提供する。
しかしそれは「救済求道精神」ではなかった。
その「癒やし」の正体は「霊感商品」によるプラセボだった。
救済求道精神を打消しディストピアへ陥れるSatanic School(阿弥陀如来崇拝の異端教団)であった訳です。
彼等は「霊感商法」だった。

極右のヴィム・ヴェンダース

そういう意味でヴィム・ヴェンダース監督作品も同様のSatanic School(阿弥陀如来崇拝の異端教団)で可能となった「霊感商法」です。
役所広司主演作品「PERFECT DAYS」もDiabolism(釈迦如来信仰の救済求道精神)を否定したSatanic School(阿弥陀如来崇拝の異端教団)で可能となった「霊感商法」でありネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)の扇動な訳です。
それはネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)のドイツ人ヴィム・ヴェンダースを祀り上げる極右活動だった。
それは「神の右側、ことばの始まり」ヘのSatanic Parodyを形成する極右思想だった訳です。
ハーケンクロイツ(逆鍵十字)はそれを示しています。
ヴィム・ヴェンダースにはその烙印が何処かに捺されている。
狂気のネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)がヴィム・ヴェンダース監督の正体だった訳です。
カトリック信仰に敵対することで存在する「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様を出現させる詐欺手法だった。
「ハイル・ヒトラー」のヴィム・ヴェンダースです。

「神の右側、ことばの始まり」

序文(ヨハネ 一 1-18)

はじめに、ことばがいた。
ことばは、神のもとにいた。
ことばは、神であった。

岩波書店「ヨハネによる福音書」

セプトゥアギンタ
Septuaginta
旧約聖書の最古のギリシア語訳。正式名は Interpretatio Septuaginta Virorum。「七十人訳聖書」もしくは「ギリシア語訳旧約聖書」ともいう。旧約聖書偽典『アリステアス書簡』に,前3世紀プトレマイオス2世フィラデルフォスの命により 72人のユダヤ人の学者が 72日間で完成したとあるところからこの名がある(307節)。しかし実際は少数集団によってエジプトのアレクサンドリアで,ディアスポラのユダヤ人の要求に応じて,まず律法の部分が訳され,その後1世紀かけて現行正典の大部分が訳された。原典にない多くの文書も含まれて区分配列も現行聖書とは異なっている。諸古代語訳中最も重要なもので,ヘブライ語原典のテキスト・クリティークの重要資料であるだけでなく,コイネー(共通の)・ギリシア語文書として言語学的にも貴重。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

内容
「この映画は、飛行艇時代の地中海を舞台に、誇りと女と金をかけて空中海賊と戦い、紅の豚とよばれた一匹の豚の物語である。」

スタジオジブリ絵コンテ全集7「紅の豚」

ダビデの子キリスト論への反論(ルカ 二〇 41-44)

すると彼は、彼らに対して言った、「何故彼らは、キリストがダビデの子だと言うのか。実際、ダビデ自身が詩篇の書で言っている、
主はわが主に言われた、
「私の右に座せ、
私がお前の敵どもをお前の足台として据えるまで」。

そこでダビデ自身が彼を「主」と呼んでいる。それなら彼はどうしてダビデの子なのか」。

岩波書店「ルカによる福音書」

詩篇 (百十 1-7)

ダビデの。歌。

わが主君へのヤハウェの御告げ、ー
「わが右に座せよ、
わたしがお前の敵どもを
お前の両足の足台とするまで」。

あなたの力の杖を
ヤハウェは差し出す、シオンから。
支配せよ、あなたの敵どもの真ん中で。
あなたの民は欣んであなたにつく、
あなたの兵力の日に。
聖なる栄誉の中で
曙の胎から
あなたには露があなたの若者たち。

ヤハウェは誓って、後悔しない、
あなたはとこしえに祭司、
メルキツェデクのようにして。
わが主はあなたの右に立ち
かれの怒りの日に王たちをくだき、
諸国民を審き、
屍で満たし、
頭をくだいた、
広大な地の上で。
中途の川から彼は〔水を〕飲み、
それ故に彼は頭をもたげる。

岩波書店「旧約聖書 詩篇」

れいかん‐しょうほう【霊感商法】 ‥シヤウハフ
商品に超自然的な霊力があるかのように思いこませて、高い値段で販売する方法。

『広辞苑 第六版』 岩波書店

◗霊感商法
the spiritual―pressure sales method [ploy]; so―called “spiritual sales”

『プログレッシブ和英中辞典(第3版)』 小学館

プラセボ
[英] placebo
[同義語] 【プラシーボ,偽薬】
薬効評価の対照に用いられる,あるいは症状を解消したり患者の要求に応えるために処方される,薬理学的活性がないとされる物質。慢性疾患や精神状態が影響を及ぼしやすい疾患に対しては,まったく作用のない物質を投与しても高い治療効果が認められる場合があり,これをプラセボ効果という。プラセボ反応者(p. reactor)とプラセボ非反応者(p. nonreactor)とでは,医師や薬に対する信頼感などの心理的状態が異なると考えられる。時にはプラセボの与薬によって嘔吐・発疹・頭痛などのプラセボ副作用(negative p. response)が発現することがある。薬効評価試験の対照薬として無作用(純粋)プラセボ(inert p.,inactive p.,dummy p.,pure p.)を用いることに関しては倫理的問題が生じるため,被験薬と類似作用をもつ薬品がすでにある場合には,それを標準薬すなわち陽性プラセボ(positive p.)として二重盲検法が行われるようになっている。治療的応用として,連用による薬物依存の発現を防止するためにプラセボを与薬する場合がある。
(101007)

『医学書院 医学大辞典』 医学書院

placebo (plă‐sē′bō)〓
[L. I will please, placeoの未来形].プラセボ,プラシーボ,偽薬,気休め薬(①暗示効果をねらって薬剤として与えられる不活性な物質.②実験的研究で試験される物質と外見上同じであるが,医師あるいは患者には知らされておらず,研究中の物質の薬理作用と暗示的な効果を区別するために投与される).=active placebo
→active placebo

『ステッドマン医学大辞典』 メジカルビュー社

「ホワイト・マジック・オーケストラ」(自然林の回復)について

真の「癒やし」とは「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」によって可能となる治療です。
それは「天上世界」への求道精神の逆説的表明を形成する「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」です。
Diabolism(釈迦如来信仰の救済求道精神)とは真の「救済求道精神」がある訳です。
このようなカトリック信仰の「癒やし」は「ホワイト・マジック・オーケストラ」(自然林の回復)なのです。

Diabolism(釈迦如来信仰の救済求道精神)|Satanic School(阿弥陀如来崇拝の異端教団)
「善き羊飼い」|「堕天使ルシファー」(明けの明星)
「知の廃棄」|「知の鵜呑み」
「黙示録」とは「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」です|それに対しネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)の扇動があり彼等は末法思想を盛んに訴える

ネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)

救済求道精神のない世界で自らの偶像を誇らしげに示す坂本龍一教授のフォトはまるで金色に輝いた「阿弥陀如来崇拝の理想偶像(倒錯偶像)」(ルシファー)です。
一向宗のあり方を想起させます。
ネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)への盲従によった奴隷化の賛美でした。
坂本龍一の宣伝活動は「阿弥陀如来崇拝の理想偶像(倒錯偶像)」(ルシファー)だった。
そして末法思想の一向宗だった。

「屁理屈」を「理性的パフォーマンス」とする

これは国立千葉大学医学部附属病院精神神経科医師と同じであった。
彼等医師は金色に輝いた「阿弥陀如来崇拝の理想偶像(倒錯偶像)」(ルシファー)として患者に対し君臨している訳です。
これはインフォームド・コンセントを医師が拒否したことから証明されます。
それは医師へ盲従する奴隷化の賛美だけが彼等の為す治療であり、患者を救済求道する精神を毛頭持っていない鬼畜医師の真の姿でした。

インフォームド・コンセントを否定するSatanic Parodyによって形成された閉塞空間(ディストピア)に金色に輝いた「精神薬理学」が出現する。
その実態は先程指摘したようにインフォームド・コンセントの否定によって患者は知ることが出来ない。

しかし医学文献で調べてみるとどうやら「精神薬理学」は「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を持っていないらしいのです。

最重要の「脳内物質説」にしても仮説でしかなかった。
要は一部の「脳内物質」の発見が確認されたという事実から全てをそれで根拠付けてしまった。
「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」ではなく「ゴッドハンドによって根拠付ける崇拝」を行っていたのでした。
それは「ドクサ」であり「絶対知」であり「パラノイア発症(倒錯感覚アーリア)」であった。
ここで言えることは「脳内物質」のあり方への「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を持たないならば「精神病理学」として成立しない訳です。
要は「理性的パフォーマンス」とは言えない訳です。
「脳内物質」の発見と存在を医師が幾ら強調してもそこに「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を持てないならば「病理学」として成立はしないのです。
それは完全な「カルト医術」であるからです。
「カルト医術」とは「パラノイア発症(倒錯感覚アーリア)」を「理性的パフォーマンス」とする「バフォメット」なのです。
彼等医師の診断は「ドクサ」を「絶対知(特権知)」とする「屁理屈」によっています。

彼等医師は「屁理屈」を「理性的パフォーマンス」としている訳なのです。

「特殊詐欺師」と同じですね。

それは「ドクサ」を「絶対知(特権知)」とする「毒薬」でした。

危険な病理学なのです。
彼等のカルト医術は「毒薬」となって人を貶めます。
それを国立大学と言うアンチカトリックが支えているのです。
国立大学カルトは日本に於いて超強力なのです。

その示すところは「精神薬理学」が金色に輝いた「阿弥陀如来崇拝の理想偶像(倒錯偶像)」(ルシファー)であるということなのです。
「精神薬理学」は「何かやった感!|何もなかった感!」によって起こるプラセボの形成であった。
その実態は「霊感商法」と同じであった訳です。

彼等医師が「屁理屈」を「理性的パフォーマンス」としている「霊感商法」とは「カルト医術」の正体であった訳です。

医師はネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)であった訳なのです。
それはカトリック信仰に敵対することで存在する「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様を出現させる詐欺手法だった。

「医師のゴッドハンド」と「ハロウィンパーティー」

「最高善の神」へ宣誓しない医師は全てを自らの虚偽(嘘)で覆してしまいます。
それは医師の「何でもあり」を示しています。
医師は全てを虚偽(嘘)で覆すゴッドハンドを持っている訳です。

ゴッドハンドとは「ドクサ」を「絶対知(特権知)」とする「毒薬」でした。

医師のゴッドハンドを虚偽(嘘)だと証明できるのは「最高善の神」でしかないでしょう。
だから「最高善の神」に背いた医師へ審判が下り神罰を彼等へ齎すかもしれません。

しかし以前、毎日新聞のスクープがありました。
ゴッドハンドと呼ばれた考古学者が発掘中に遺跡を露骨に捏造している現場を毎日新聞の記者がカメラで撮影したのです。
それは偶然ではなく狙った撮影でした。
以前からゴッドハンドを怪しいと感じていた毎日新聞が狙っていた訳です。

この捏造事件はショッキングであり影響も大きく大変な話題となりました。
しかし実は私も怪しいと思っていました。
後出しジャンケンではなく「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」で見ていくと怪しいと直観できるのです。

当初話題となっていたゴッドハンドによった遺跡発見は日本の歴史を「超国家像」として提示するものとなり国家発揚に大きく貢献する歴史的発見となっていました。
しかし歴史的発見に必要な「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」の否定が透けて見えていた。
ゴッドハンドによる発見が「超国家像」を根拠付けていいる。
しかしそこに「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」は全く無い。
それは「ゴッドハンドによって根拠付ける崇拝」を示していました。
そういった「盲目的崇拝」は「ドクサ」であり「絶対知」であって「パラノイア発症(倒錯感覚アーリア)」でした。
それが如何に考古学的大発見だと宣伝されていても「理性的パフォーマンス」には見えなかった訳です。
だから私はこの大発見に大きな違和感が感じていました。
それはどうあってもありえない事実に思えたのです。

そのようなカトリックロゴス感覚を否定したドクサによってネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)が発揚され「超国家像」を形成していたのです。
それは当時NHK放送の武田真一アナウンサーの出演番組で放送されていました。
しかしそれはどう見てもドクサによるネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)でした。
そして武田真一アナウンサーはどうみても愚者にしか見えなかった。

案の定、毎日新聞のスクープが「善き羊飼い」(ホワイト・マジック・オーケストラ)となりました。
その後のNHK放送番組での武田真一アナウンサーの醜態は非常に酷いものでした。
彼は悪い意味の愚者でした。

ただ疑問なのは毎日新聞以外のマス・コミュニケーションは一体何をしていたのでしょうか?

NHK放送だってそうです!

寝惚けていたのですか?

遺跡捏造発覚によってそれまで正統とされて来た日本考古学は大きく書き変わることになりました。
しかしそれは後退ではなく正常へ舞い戻ったと言えます。
それはそれで良かったのです。
それこそ「神の意志」です。

毎日新聞は「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を信仰する日本マス・コミュニケーションの最高峰です。
だから毎日新聞のスクープになった訳です。
NHK放送がスクープをする訳がありません。

ここでも如何にカトリックロゴス感覚が大切であるか理解されます。

インチキの歴史観を持った国家は国家の体を為していないと見做されます。
捏造した歴史で「超国家像」を主張する様では超サイヤ人とナメック星人の超能力を信じている漫画を読み過ぎたバカと同様なのです。

カトリック信仰に敵対することで存在する「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様を出現させる詐欺手法を賛美するのは「バフォメットの異端教団」です。

毎日新聞のカトリック信仰へゴッドハンドは降らなければなりません。
それがハロウィンパーティーなのです。

「超国家像」と「蛇行剣」

最近私がマークしている事件は「蛇行剣」の発見です。
何故なら日本を超国家像として提示する歴史的発見というあり方が国家発揚を目的とした捏造を予感させているからです。

ゴッドハンドと称して「ドクサ」を「絶対知(特権知)」とする「毒薬」を患者(視聴者)に飲ませていた訳です。

ここに見る蛇行剣の実物はよく出来ているように見えます。
しかし蛇行剣を捏造した可能性を大きく感じさせています。
要は遺跡発見で最も大事なのはゴッドハンドではなく「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」だからです。
この蛇行剣発見もゴッドハンドであって「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」とはなっていない。
これは致命的な欠陥なのです。
又、一騒動ゴッドハンド事件があるかもしれません。

日本の特殊性は超国家像の形成のために歴史を捏造する病的なコンプレックスにあります。
超歴史と言われる捏造歴史を誇っている。
結局カトリックロゴス信仰に対する自らのコンプレックスから捏造した優性民族主義が超国家像の正体であった訳です。
それはネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)のドイツと全く同じであった。

これもカトリック信仰に敵対することで存在する「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様を出現させる詐欺手法だった。
「バカに従え!」という訳です。

コンプライアンス
[英] compliance
[同義語] 【服薬忠実度,服薬遵守,ドラッグコンプライアンス drug compliance】
患者が実際に医師の指示どおりに薬を使用しているかどうかをいう。内服薬にかぎらず他の用法の薬剤全般についてもいう。コンプライアンスを高めるためには,処方された薬品の作用,副作用や,その薬物療法についての説明といった服薬指導が重要といわれる。
(271020)

『医学書院 医学大辞典』 医学書院

コンプライアンス《精神科における》
[英] compliance
[同義語] 【服薬忠実度,服薬遵守】
精神科においては,統合失調症やてんかんのように,長期の確実な服薬が必要な疾患での怠薬あるいは服薬指示違反(ノンコンプライアンスnon-compliance)によって,症状悪化や発作の出現の危険性がある場合に問題となる。特に統合失調症では怠薬や服薬中断はほぼ確実に症状悪化を来すので,有害事象が少なく,服用しやすい非定型抗精神病薬中心の治療を展開すべきである。血中濃度測定は,有効濃度の維持や副作用発現との関連のみならず,確実に服薬されているか否かを知るためのものでもある。近年,服従を強いる印象を与えるコンプライアンスに代わって,患者が自分の意志で服薬治療に参加するという意味をもつアドヒアランス(adherence)が好んで用いられる。
(511056)

『医学書院 医学大辞典』 医学書院

コンプライアンス《看護における》
[英] compliance
患者が医療従事者の指示に従い,それを遵守すること。しかし,近年では対象者の意志が尊重される傾向にあり,ドゥラカップ(Dracup K)らはコンプライアンスを,医療従事者と患者との共同的な了解に基づく臨床処方にどこまで沿うかという個人の選択の範囲,というように定義づけている。コンプライアンスに関連する因子としては,知識,認知・学習能力,動機づけ,社会的支援などがある。知識は,患者が疾患の重篤さを認識し,治療を受けようとするか否かに関連する。認知・学習能力は新しい知識や技能を学習する際に必要な能力であり,身体的問題や知的障害,心理的障害,教育の機会を奪われたなどの場合は,コンプライアンス不良になる可能性がある。動機づけは,治療に対するメリットがあると考えるか否かで,社会的支援は自己管理を継続していく際に,家族や医療従事者などの支援があると継続しやすい。
(651004)

『医学書院 医学大辞典』 医学書院

インフォームド・コンセント
[英] informed consent
[同義語] 【説明と同意】
〓医療における患者の自己決定を実現し,その利益を保護するための過程。基本的には,医師が患者の病状,予想される予後,適応のある診断方法,治療方針,成功率,不確実性,診療行為に伴う副作用や合併症などを患者に説明し,患者がそれらを十分理解したうえで,自らの価値観や希望に沿った決定を下す過程である。また医師は,医療が最善と考える診療方針を推薦する他に,代替案の掲示も行わなくてはならないとされる。さらに患者が決定を下す際に,外部からの強制や不当な介入がないことが条件となる。インフォームド・コンセント取得が治療方針決定に際して例外的に必要ないとされる状況として,患者が緊急な医学的処置を必要とする場合,患者に十分な判断能力がなく自己決定を下せない場合,患者が自己決定や詳細な説明を希望しない場合,さらに患者に対する説明が非常に高い確率で患者に害を与えると予想される場合がある。
〓精神科臨床においては,①統合失調症などの病名を告知しないで治療が行われていることが多いこと,②患者が自覚する疾患あるいは病状と周囲の人が感じるそれとの間に相違があること,③患者の同意能力に欠陥がある場合があること,④治療法の中に患者の社会的権利の制限を伴うようなものがあることなどのために,インフォームド・コンセントに関わる問題は,他の身体疾患の場合と比較して複雑な課題を多く含んでいる。
(271001)(511028)

『医学書院 医学大辞典』 医学書院

informed consent (in‐fōrmd′ kŏn‐sent′).
インフォームドコンセント(目的,方法,手段,有益性およびリスクについて説明を受けた後に,ある調査,ワクチン接種計画,治験,侵襲的医療などへの参加に対し,ある個人ないし患者の法的代理人(親など)によって行われる任意の同意.インフォームドコンセントの必須の条件は,本人が知識と理解の両者をもつこと,同意は強制や不当な圧力なしで自由に行われること,いつでも中止できる権利があることを患者に伝えてあることである.疫学的および生物医学的な研究に関連したその他のインフォームドコンセントの内容,およびそれを得る際に直面する条件についてはInternational Guidelines for Ethical Review of Epidemiologic Studies (Geneva: CIOMS/WHO 1991)およびInternational Ethical Guidelines for Biomedical Research Involving Human Subjects (Geneva: CIOMS/WHO 1993)に示されている).

『ステッドマン医学大辞典』 メジカルビュー社

私は若い頃に「坂本龍一ライブ」を2回も武道館で鑑賞しました。
又「YMOの復活コンサート」も東京ドームで鑑賞しました。
その時に当時TBS「NEWS23」のキャスターだった筑紫哲也が会場を歩いているのを見掛けました。
彼等の楽曲はシンセサイザー等の電子音声によった自動再現演奏でした。
言ってしまえば「録音再生」と同じです。
これでは今で言って秋元康が主催するアイドルグループの口パクパフォーマンスと同じ様なものでした。
「YMOは楽な仕事している。」と思いました。
私はかなりガッカリしていました。
これは私が鑑賞した「坂本龍一ライブ」への冷ややかな感想です。

坂本龍一のライブ

坂本龍一の人物像

東京藝術大学のポピュリズム音声(扇動音声)の「技術」とは「軍歌」により大衆を「扇動|動員」していくネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)と同じキャンペーン(宣伝活動)の役割を果たしていると言える訳です。

ヨーゼフ・ゲッベルスの子弟こそが坂本龍一の正体だった訳なのです。
かなり頭が悪い上にかなりのキチガイであったというのが真相だったと言えるのではないでしょうか!
簡単に言って坂本龍一は「阿弥陀如来崇拝の理想偶像(倒錯偶像)」(ルシファー)を賛美するタイプだった訳です。
綿矢りさのような人物だったのでしょう。
まさにカトリック信仰に敵対することで存在する「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様を出現させる詐欺手法だった。

2023年12月24日 「安息日|7日目」に私は赤坂TBSを観光していました。
そこには多くの多国籍の客がいました。
そんな中で右翼の街宣車が襲来し大音量で何かを盛んに訴え始めました。
演説の内容は音声がうるさ過ぎてよく聞き取れませんでした。
ただ盛んにアメリカについての何かを強烈に訴えている様でした。
しかしクリスマス・イブぐらい静かにしているべきだと私は思いました。
ワザとなら酷い話です。

クリスマス・イブのTBSへやって来た右翼の街宣車

ゲッベルス
Goebbels, Paul Joseph
[生] 1897.10.29. ラインラント,ライト
[没] 1945.5.1. ベルリン
ナチス・ドイツの宣伝相。織物工場の職工長の家に育ち,事務所の給仕をするなど不遇な少年時代を過し,また小児麻痺のため下肢が不自由になり,兵役を拒否された。カトリック財団の奨学金を得て,ボン,ハイデルベルク大学などに学び,1922年ドイツ哲学の研究で博士号を得た。 25年にナチス党左派指導者 G.シュトラッサーの秘書となり,26年入党,ルール地区の指導者となった。シュトラッサーと A.ヒトラーとの対立が深まるとともに,同年末にはヒトラーに忠誠を誓うようになり,ベルリン地方の党指導者に任命され,シュトラッサーから離れた。 28年国会議員,29年党宣伝部長として,新しい宣伝手段を駆使し,巧みなデマゴギー(→デマゴーグ)を使い,30年代の党勢拡大に大きく寄与した。 33年にナチスが政権をとると,国民啓発宣伝相,文化院総裁として文化面を完全に統制し,国民を戦争に動員した。最後までヒトラーに忠実で,彼が自殺した翌日,首相官邸の地下壕で妻子とともに自殺した。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
ゲッベルス(1935頃)

「AKASAKA」オブジェ

ここから生中継するところを何度か見たことがあります。

番組出演者の絵馬

TBS赤坂ACTシアターに併設されている施設に番組出演者の絵馬やTBSの過去のロゴマークなどが展示されていました。

TBSのオブジェにサインが書かれていました。
しかし誰のものか判別不能でした。

広瀬アリスさんの字は意外と真面目そうだった!

伊原六花さんの字はアイドル級にサイン慣れした感じが強いです。

  • 鈴木亮平さんの字は男らしさをアピールしているようでして、しっかりした書体で書かれています。

  • 黒木華さんの字は意外と丸っこい字を書いていましたが、サイン自体はわかり易くきれいです。

BLITZ STUDIOも少しだけ見学できました。

舞台 Harry Potter and THE CURSED CHILD

SASUKEのイベントをやっていました

Harry Potter SHOP

ハリー・ポッターの判じ絵の解読を試みる!

はんじ‐え【判じ絵】‐ヱ
判じ物にした絵。

『大辞泉 第二版』 小学館

はんじえ【判じ絵】
a picture [pictorial] puzzle

『プログレッシブ和英中辞典(第3版)』 小学館

はんじ‐もの【判じ物】
文字や絵画に、ある意味を隠しておき、それを当てさせるようにしたもの。また、その遊び。

『大辞泉 第二版』 小学館

私は入院中の友人へ贈るクリスマスプレゼントのため『ノートカード』を購入しました。

多くの中から神のメッセージを見い出す才能(イマーゴ)はカトリック信仰を示している

「ハリーと手紙と九羽の梟で描かれたカード」は一体どういった判じ絵なのだろうか?

私は少し考えてみた。
ハリーで描いているものは「メッセージとコミュニケーション」だろうと思った。
何故ならば多くの手紙の中から「カトリックメッセージ」を見い出すことを示しているからです。

ハリーの梟は鳩だった!

では九羽の梟が示しているものはなんだろうか?

これはよく解らなかった。
ただ日本の謎々でこのような回答があった。
九羽の鳥は「九」+「鳥」=「鳩」を示す・・・。

鳩がキリスト教圏で意味しているものはなんだろうか?

鳩はカトリック信仰に於ける「聖霊」だろう。

はと【鳩】
〔野鳩〕 a dove; 〔飼い鳩〕 a pigeon.

『新和英大辞典 電子増補版』 研究社

dove¹ [dʌv]〓
―n.
1 ハト:ハト科 Columbidae の鳥の総称;特に,尾のとがった小形の種類. cf. PIGEON n.1.
2 (純潔・柔和・愛情・平和の象徴としての)白ハト.
3 ⦅D―⦆ (象徴として)聖霊(Holy Ghost). cf.〖聖書〗 Matt.3:16.

4 純潔な[無邪気な,柔和な]人;⦅呼びかけに用いて⦆ ねえ,君,あなた(honey):〓
5 ⦅主に米⦆ はと派の人,平和主義者. cf. HAWK¹ n.3(▶peace dove ともいう).
6 =dove color.
7 はと色の大理石(dove―marble).
8 ⦅the D―⦆ 〖天文〗 はと(鳩)座(Columba).
9 ⦅D―⦆ ⦅商標⦆ 米国製の石けん.
[1200年以前? 中期英語;古期英語 dūfe―(dūfedoppa「水に潜る鳥」の前半要素);ドイツ語 Taube と同語源]
dóv・ish〓
―adj.
dóv・ish・ness
―n.

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

pi・geon¹ [pídʒən]〓
―n. (pl. pi・geons,⦅集合的⦆ pi・geon)
1 ハト:ハト科 Columbidae の鳥の総称;(特に)大形種のハト. cf. DOVE¹ 1.
2 イエバト:カワラバト(rock dove)を改良したもの:〓
3 ⦅俗⦆
(1)(通例,魅力的な)若い女の子.
(2)だまされやすい人,かも:〓
4 ⦅米暗黒街俗⦆ 密告者(stool pigeon).
5 ⦅トランプ俗⦆ (ポーカーで,引いてきた)絶好のカード.
6 〖射撃〗 =clay pigeon.
7 ⦅主に英話⦆ 仕事,商売;関心事(pidgin).
8 紫がかった濃い灰色.
9 ⦅米俗⦆ 失効[使用済]の偽券[切符];偽の当たり馬券[くじ].
10 ⦅米俗⦆ 引受人の保護下にあるもとアルコール中毒患者.
―v.t.
1 …をかもにする,かもる.
2 〈通信を〉伝書バトで送る.
[1373.中期英語 pejon 若いハト<中期フランス語 pijon<後期ラテン語 pīpiō ひなバト(pīpīre,pīpāre「さえずる」と同根)]

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

イエスの受洗(マタイ 三 13-17)

そのとき、イエスがガリラヤから、ヨルダン河のヨハネのもとに現れる。彼から洗礼を受けるためである。しかしヨハネは、彼を思いとどまらせようとして言った、「この私こそ、あなたから洗礼を受ける必要があるのに、あなたの方が私のもとに来られるのですか」。しかしイエスは答えて彼に言った、「今はそうさせてくれ。このようにすべての義を満たすのは、私たちにとってふさわしいことだから」。そのあと、ヨハネは彼の言うとおりにさせる。そこでイエスは洗礼を受けると、すぐに水から上がった。すると見よ、天が〔彼のために〕開き、そしてイエスは神の霊があたかも鳩のように降って、〔そして〕、彼の上にやって来るのを見た。すると見よ、天から声が〔あって〕言う、
「この者は私の愛する子、彼は私の意にかなった」。

岩波書店「マタイによる福音書」

ただこれは漢字に関する謎々であってアルファベットで書かれた「ハリー・ポッター」とは無縁と感じた。

しかし梟の英語名「owl」で調べてみると「梟に似た顔つきをした鳩の品種の総称」とされている。
梟は鳩の品種も同時に示しているらしい。
そうなると「owl」はカトリック信仰の「神の霊」を示していると言えるかもしれない。
ハリーの梟は鳩(聖霊)だったのだろう。

ハリーの鳩(聖霊)が運んできたのは魔法学校入学に関する文書だった。
これはカトリックメッセージのカトリックコミュニケーションを示しているのだろう。

*owl/áʊl/〓
〖初12c以前;古英語 ūle (フクロウ) 〗
〓〓
1 〖鳥〗
aフクロウ《フクロウ目(Strigiformes)に属する大部分の種が夜行性の猛禽(もうきん)の総称;鳴き声は hoot, 子は owlet;不気味な情景・死の世界・英知などを連想する》〓
bオウル《フクロウに似た顔つきをしたハトの品種の総称;特に African ~, Chinese ~, English ~》.
2 ⦅略式⦆まじめくさった人, もったいぶった人, 賢そうな人.
3 夜ふかしする人(⦅略式⦆ night ~).
4 ⦅俗⦆(1000年後に)この世の終りが来ると信じている人, 審判の日予言者.
―〓夜間営業の, 終夜運転の〓

『ジーニアス英和大辞典 用例プラス』 大修館書店

owl /áUɫ/
―n.
2 (頭がフクロウに似た)家バト⦅owl pigeon ともいう⦆.

『新英和大辞典 第6版』 研究社

又、一般に「梟」は「ミネルヴァの梟」と言われることが多い。
日本の比較的硬派な出版社でミネルヴァ書房がある。
そのロゴは「ミネルヴァの梟」となっている。

*owl /áUl/
—〓 (~s /~z/) 〓
1 ふくろう ⦅知恵の象徴とされている; 子は owlet⦆.
2 みみずく (horned owl). ★鳴き声については ☞cry 表.
3 ⦅略式⦆ =night owl.

『ルミナス英和辞典(第3版)』 研究社

Mi・ner・va [minəːrvə]〓
―n.
1 ミネルバ:古代ローマの知恵・工芸・芸術・戦術の女神;ギリシア神話の Athena と同一視される.
2 (一般に)知恵の優れた女性,学識のある女性.
3 女子の名.

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

ここに見られるように「ミネルヴァの梟」は「叡智の象徴」とされている。

「ノベナ:Novena」

ではカトリック信仰における「9」は一体何を示しているのだろうか?

no・ve・na [nouvíːnə,nə―]
―n. (pl. ―nae[―niː],no・ve・nas) 〖ローマカトリック〗 九日間の祈り:9日間行われる祈祷または奉事式から成る信心修行.
[1853.<中世ラテン語 novēna(ラテン語 novēnus「9ずつの」の名詞用法)]

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

novena /nə(ʊ)ʼvi:nə/
◆noun (in the Roman Catholic Church) a form of worship consisting of special prayers or services on nine successive days.
―ORIGIN
C19: from med. L., from L. novem ‘nine’.

『The Concise Oxford English Dictionary, Eleventh Edition』 Oxford University Press

ノベナ (ラテン語: Novena)とは、17世紀にキリスト教で始まった信心業で[1][2]、神が恵みを与えてくれるように願うこと、または、聖母や聖人など、特定の崇敬対象に対して、神への執り成しをしてくれるよう願うこと、9日間に渡り、連続して行うこと、以上の特徴を持った祈祷の信心業をいう。これは個人的な祈祷や、公けに集団での祈祷がある[3]

概要
「ノベナ:Novena」は、ラテン語の「9つの」を意味する形容詞に由来する。日本ではその訳として、「9日間の祈り」「9日祈祷」「9日特祷」があてられており、連続して9日間祈ることを意味する[1]

ウィキペディア

幾らか調べてみたのですが「ノベナ:Novena」しか見当たりません。

ここまで検討してきてこのノートカードの判じ絵が示しているものは「ハリー」への「ノベナ:Novena」と言えるかもしれない。

「バプテスマ:baptisma」

判じ絵をまとめてみます。
ハリーは自らのカトリック信仰によって神のメッセージを見い出している。
そしてそれを9羽の鳩(聖霊)が取り囲んでいる。
それは「ノベナ:Novena」を示していると思われる。
これは最強のメシアの誕生を示している。
この判じ絵は最強のメシアが誕生した時のバプテスマを描いている。

受胎告知(ルカ 一 26-38)

じゅたいこくち【受胎告知】
Annunciation
新約聖書に記されている処女マリアの懐胎とイエス生誕に関する神の告知。この告知は神意の啓示者天使ガブリエルによってダビデ家のヨセフの許婚処女マリアに与えられ,マリアが神の恩恵によりやがて「大いなる者,いと高き者の子」と呼ばれるべき男の子を産むこと,それが聖霊の力,「いと高きものの力」によるものであり,それゆえ生れ出る子は聖なる者,「神の子」ととなえられるべきことが教えられる。マリアは初めいぶかるが,すぐこの告知を受入れ,「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」と答える(ルカ福音書1・26~38)。新約聖書中最も重要な証言の一つである。フラ・アンジェリコ,エル・グレコなどにみるように美術史上のテーマの一つとなっている。

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せんれい【洗礼】
baptisma; baptism
キリスト教で,水によって神の名(普通は三位一体の名)において原罪,自罪とそれによる罰を許し,人を神と教会の子,すなわちキリスト教徒とする⇨サクラメント。「浸す」というギリシア語 baptizōの名詞形。水を用いての清め,あるいは新生を与えるという思想は,古代東方諸宗教をはじめ旧約聖書にもみられるが,教団入信の儀式としての確立はユダヤ教への改宗者に対してなされたものによる。イエスもヨハネから洗礼を受けたが,ヨハネのものは,すべての人に要求された終末的悔い改めの洗礼であったのに対し,イエスが命じた洗礼は,罪の許しと永遠の命を得させるものとなった。イエスが復活後,弟子たちに命じたことに基づいて,洗礼は聖霊の力によって「イエスとともに死に,ともに新しい命に生きる」契機となり,復活のイエスのからだである教会の肢となることを意味する公の礼典となった。 12世紀頃までは全身を水に浸したが,今日では頭部への灌水が一般的。初代教会以来,受洗には信仰告白が前提であったが,2世紀に⇨幼児洗礼が確立。⇨バプテスト派は幼児洗礼を認めず,自覚的信仰告白に基づく浸礼を主張。

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最後に『聖なる数字のエトセトラ』

最後に数字に関する感想を少し述べさせていただきます。

「7」は安息日であって「信仰」を示しています。

ここにタロットカードの「7」(THE CHARIOT)を示したいと思います。
タロットカードの「7」(THE CHARIOT)はその構図から「三位一体」を示しているとも言われています。
「三位一体」は「ペルソナ」を示しています。

さんみいったい【三位一体】
Trinitas; Trinity
キリスト教の教理で,一つの神格にある三位格(→ペルソナ)としての父と子と聖霊のまとまりをさす。三位一体という言葉も,この教理を明記した個所も新約聖書の中には出てこない。また,イエスもその弟子たちにも以下のように旧約聖書の中で記されている神の唯一性を否定しようという意図は見られなかった。「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである」(申命記6・4)。しかし,初代キリスト教会はキリストの再臨と想定されていた霊が来ることと神の力とのかかわりあいについて対処しなければならなかった。つまり,聖霊にかかわる問題であり,聖霊が来ることは,ペンテコステ(→五旬節)の祝いと関係している。父と子と聖霊の関係は,大宣教命令として知られる次の新約聖書の個所でも関連づけられている。「それゆえ,あなたがたは行って,あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして,父,子,聖霊の御名によってバプテスマを授け(なさい)」(マタイ 28・19),そしてパウロによる祝祷である「主イエス・キリストの恵み,神の愛,聖霊の交わりが,あなたがたすべてとともにありますように」(IIコリント 13・13)。このように,新約聖書は三位一体の教理の基礎を確立している。
この教理は何世紀にもわたり,多くの論争を引起しながら徐々に形づくられていった。当初,旧約聖書から受け継いだ一神教的要求と聖書の教えをギリシア=ローマ的宗教に解釈する必要性から⇨ロゴス(言葉)としてのキリストの神性は頂点に立つ神の下に位置するものと解釈されていた。また一方,父,子,聖霊は一つの神のうちにある三つの位格をそれぞれ啓示しているが,神そのものが分れて存在するものではないとする別の解釈もあった。前者には父,子,聖霊にはっきりとした区別を認め,それぞれが同等ではなく,したがって神の単一性も否定(聖子従属説)し,後者には神の単一性を認めるが,それぞれの位格が異なる(様態説)という特徴がある。父,子,聖霊の違いと単一性の論争が,一つの実体において三つの位格が存在するという教理にまとめられ,一般に認められるようになったのは4世紀になってからである。
325年の⇨ニカイア公会議は,聖霊についてはほとんど言及されなかったが,子は父とは本質において同一である(ホモウシオス)という,教理解釈にとって重要な信条を発表した。その後の半世紀の間,⇨アタナシウスはこの⇨ニカイア信条を擁護し,さらに教理を掘り下げたが,4世紀の終りになり,⇨カエサレア(カッパドキアの)の⇨バシレイオス,ニュッサのグレゴリオス,およびナジアンゾスのグレゴリオス(→カッパドキアの3教父)の指導の下,三位一体の教理は本質的に現在と同じ枠組みをとるようになった。

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ペルソナ
persona; person
位格ともいう。本来の意味は俳優のかぶる仮面。そこから奥にある実体を意味することになり,個的人格 personの意となる。キリスト教神学におけるペルソナ(位格)とは,⇨三位一体論に関して,神の唯一の神性のなかの三つの「私」といえる基体の意であり,客観的に1個のそれ自体で完結している全体,直接神に向ってつくられた唯一のものとして,それ自体で完成した理性的な単一実体 substantiaを意味する。これはテルトゥリアヌスによるとされ,以後この語は西欧神学,哲学において,認識と愛とをそなえた精神的実体の意で用いられた。⇨ユングの心理学では,表に現れた仮面として,社会的な⇨パーソナリティを意味する。

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「6」は「信仰」の「7」から「1」を減らした数字であり「信仰」への敵対を示す場合が多い。
例えば映画「オーメン」のダミアンの頭には「666」の痣があることは有名です。

ただ私は「6」がアンチ信仰とされる理由にそれほど納得できていない。
映画「オーメン」はそれなりにSatanic School(阿弥陀如来崇拝の異端教団)によって可能となった観点から鑑賞して面白い作品であった。
しかしやはりこの作品も結局はSatanic Parodyでしかなかったかもしれない。
そうなると「666」もSatanic Parodyの産物であって「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」のない「紛い物」と言える。
これは憶測の域を出ない仮説であるがそういった意味で「6」はおかしな数字であった。
もしかしたらタロットカードの「6」(THE LOVERS)へのSatanic Parodyかもしれない。

幾らか考えてみて「タロットカード」への「Satanic Parody」が芸術文化の陥穽であったと想像される

それはまさにタロットカードへの倒錯感覚(循環論証)から形成される無根拠の扇動状態であって「カトリックロゴス」の受肉と絶対対立する。

カトリックタロットへ敵対する倒錯感覚(循環論証)が形成した無根拠の扇動状態の中でタロット占術が為され「カトリックロゴス」の受肉がなされる。

無根拠の扇動状態の中で「カトリックロゴス」を見い出すか?
無根拠の扇動状態の中で「倒錯偶像」を見い出すか?

そのどちらかによっている。

ここで言えることは「善」と「真実」の信仰を持った者にはタロット占術が可能であると言うことです。
何故なら無根拠の扇動状態の中でも「カトリックロゴス」を受肉することが可能だからです。
「タロットカード」は「信仰」を持った「占者」へ「カトリックロゴス」を黙示する「聖具」と言えます。

一方で「信仰」を冒涜する者は英語で「ビッチ」と呼ばれ、日本語で「あばずれ」と呼ばれる訳です。
そういった人は無根拠の扇動状態の中で「倒錯偶像」を崇拝する。
「バフォメットの偶像崇拝」です。
これはタロットカードの「15」(THE DEVIL)を黙示しています。

タロット
Tarot
タローともいう。 14世紀初頭イタリアで占いに使われていたといわれる特殊なカード。0から 21まで番号を打った,宗教画をデザインした 22枚のカードで,1枚ずつまたは2枚以上の組合せで特別な意味をもたせてある。ほかに4種のマーク各 14枚で計 56枚のカードを組合せたものもある。現在も占いの世界では「タロット占い」として行われている。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.
ここにタロットカードの「18」(THE MOON)と「12」(THE HANGED MAN)と「13」(DEATH)を示したいと思います。
ここにタロットカードの「6」(THE LOVERS)を示したいと思います。
「6」はTBSのチャンネル番号です。
ただ意外にも「アンチ信仰」の数字です。
しかしそのアンチ信仰はタロットカードの「6」(THE LOVERS)へのSatanic Parodyとして制作されたデマゴギーかもしれない。
私はチャンネル番号決定の経緯を幾らか調べてみました。
しかし決定的な情報はありませんでした。
TBSは「6」ですが系列局では其々違う様です。
ただ民放のチャンネル番号はテレビ事業へ参加した順番によって小さい方から偶数番号で振り分けられた様です。
だから公共放送NHKは先ず最初に振り分けられ、次いで民放の出願順番で「日本テレビ(4)|東京放送(6)|フジテレビ(8)|NET(テレビ朝日)(10)|テレビ東京(12)」と振り分けられた様です。
近年はデジタル放送移行に伴いチャンネル番号の改変が行われました。
奇数番号で改めて振り分けられた様です。

そしてカトリックを示す数字は「10」であったり「12」であったりするらしい。

何故ならば「10」は「完全数」だからです。
「10」は十進法の基本であって手足の指の本数も10本です。

また「12」も「完全数」と言えます。
何故ならば一年間の月の満ち欠けは12回あり12ヶ月が基本となっているからです。

そういう意味で「10」と「12」はカトリックを示す「完全数」と言えます。

ここにタロットカードの「10」(WHEEL of FORTUNE)と「12」(THE HANGED MAN)を示したいと思います。
「完全数」はカトリックを示しています。
そういう意味で神の子は「完全数」で表されるかもしれません。
この2つのカードから連想する人物は「ハリー・ポッター」です。

カトリック
catholic church
語源はギリシア語の katholikosで,普遍的,世界的,全体的の意。アンチオキアのイグナチオスが初めてこの語を『スミュルナ人への手紙』でキリストによる教会の特徴的形容に用い,以来「カトリック教会」は万人万代を包括する普遍的教会,また異端離教に対する真の教会の意に用いられた。この原義は教会の公性 catholicitasとしてニカイア信条でキリスト教の根本性格の一つにあげられ,アウグスチヌスもこれを強調した。公性は同一性と普遍性をその特徴とするが,歴史上その具現は教皇を可見的首長とする統一組織,ローマ・カトリック教会においてなされたとするのがローマ・カトリック教会の主張であり,歴史的にもローマ・カトリック教会に対して「カトリック」が一般的な呼び名となっている。ギリシア正教会,一部のプロテスタント教会も真のカトリック教会を自負している。

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かみのこ【神の子】
Filius Dei; Son of God
キリスト教の母体である旧約聖書とユダヤ教においてイスラエル民族や神から選ばれた王位への即位者が神の特別の恵みの対象として神の子と呼ばれていたが,この伝統に加え,イエス・キリスト自身が神に親しく「父よ」と呼びかけ,またみずからをその子として示したことによって,イエスの弟子たちは救い主として神からつかわされたイエスを特別の意味で神の子と理解するようになった。同時に神の子としてのイエスは神に等しい神的存在であるとする教理的思弁が進み,これとともに神の子は父,子,聖霊の⇨三位一体の神において第二の位格をなすものとして把握された。ここから神の子はイエスと父なる神との親密な一致,キリストの超人間的・神的性質,三位の位格神としての存在などの意味表現を含むイエス・キリストへの呼び名となった。

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そして人の存在は「完全数」には及ばないがそれに寄り添い信仰する数字として表されます。
その数字が「9」と「11」となる訳です。

先程指摘した「信仰」の「7」と合わせてこれらの3つの数字はカトリックに於ける最善の意味があるらしいのです。
※これは飽くまで私の「仮説」です。

ここにタロットカードの「8」(JUSTICE)と「9」(THE HERMIT)と「11」(STRENGTH)を示したいと思います。
※「8」(JUSTICE)と「11」(STRENGTH)はタロットカードの種類によって順番が入れ替わる場合があります。
ここにタロットカードの「9」(THE HERMIT)と「11」(STRENGTH)を示したいと思います。
※「11」(STRENGTH)と「8」(JUSTICE)はタロットカードの種類によって順番が入れ替わる場合があります。
「11」(JUSTICE)となり「8」(STRENGTH)となる場合があるのです。
ここにタロットカードの「9」(THE HERMIT)と「8」(JUSTICE)を示したいと思います。
※「8」(JUSTICE)と「11」(STRENGTH)はタロットカードの種類によって順番が入れ替わる場合があります。
「8」(STRENGTH)となり「11」(JUSTICE)となる場合があるのです。

ベースボールは9人制です。
サッカーは11人制です。

他の様々な競技で人数制が設定されています。
人数性の根拠は「完全数」と「信仰」によって構成されているようです。

そしてタブーの数字は「アンチ信仰の数字」と「カトリックを示す完全数」であるらしいのです。
「アンチ信仰」は当然として「完全数」も「カトリックの数字」であり人間が付けるべきではないらしい。

ただ神の子は別な訳です。
「この者は私の愛する子、彼は私の意にかなった」
それが「ハリー・ポッター」です。

しかし悪い魔法使いが自分を神格化し「完全数」を偽称する。
それが「ヴォルデモート卿」です。

そうなると「完全数」を名乗った人間は自分を神格化した「信用詐欺師」と見做されるでしょう。
「異端カルト教団」は「完全数」を偽称します。
それは「ドクサ」を「絶対知(特権知)」とする「屁理屈」です。
それによって彼等は自らを神格化していきます。
しかし彼等の正体は「アンチ信仰」の「Satanic Parody」となります。

ただ彼等異端児本人達は「信仰」の「7」を偽称していきます。
彼等の正体は「アンチ信仰」の「Satanic Parody」でしかありません。
異端児達は「完全数」と「信仰」の「7」によって「循環論証」(Satanic Parody)を形成していきます。

循環論証(Satanic Parody)

論理上の虚偽の一つ。Aの事柄を論証するための論拠として用いられるBの事柄が、Aを論拠としていなければ論証できないという場合をいう。
例えば〈神は存在するということは聖書に書いてある。しかるに聖書は神の言葉である。ゆえに神は存在する〉という類の論証

『岩波哲学小辞典』 岩波書店

では「信用詐欺」の「循環論証」へどう対処すればいいのでしょうか?

「循環論証」は「虚偽」でしかありません。

だから「循環論証」であれば「信用詐欺」な訳です。
その逆も然り、「信用詐欺」であれば「循環論証」な訳です。

しかし社会的理想偶像(倒錯偶像)によって形成された「循環論証|信用詐欺」は最強の「特殊詐欺」です。
そういった「循環論証|信用詐欺」への対処法が一つだけあります。
それは「カトリックの領域展開」です。

五条悟です。

そしてそれは黙示録(revelation)です。

最後に聖なる数字のまとめをします

神の子の数字は「完全数」の「10」と「12」で表されるかもしれない。

又、神の子は「三位一体のペルソナ」とも言われます。
神の子の数字は「三位一体のペルソナ」を構成する「3」で表わされるかもしれない。

そして「信仰者」の数字は「完全数」には及ばないがそれに寄り添い信仰する「9」と「11」で表されるかもしれない。
同じあり方で「信仰者」の数字は「三位一体のペルソナ」には及ばないがそれに寄り添い信仰する「2」で表されるかもしれない。

最後に基本的な「信仰」の数字は「安息日|7日目」を示す「7」で表されるかもしれない。

そして「3対神徳|枢要徳|7元徳」も最重要です。
「3」と「4」と「7」は「美徳」を示しています。

ここにタロットカードの「2」(THE HIGH PRIESTESS)を示したいと思います。
「カトリック神学|3対神徳」の一つ「愛徳」を示しています。

あいとく【愛徳】
caritas
カトリック神学で三対神徳(信徳,望徳,愛徳)の一つとされるもの。新約聖書のなかにあるギリシア語の agapēの翻訳であるが,カトリック神学の概念としては,神の愛が人間に与えられるのに呼応した,神に対する人間の愛をいう。⇨アウグスチヌスは,愛徳を人間を神へと統合させる徳とし,中世神学者,特に⇨トマス・アクィナスは,愛徳を他のすべての徳の基礎であり根拠であるとした。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

car‐i・tas/kǽɚrətæs|kǽr―/
〓〖神学〗カリタス《愛, 慈善の行為;キリスト者の隣人愛》.

『ジーニアス英和大辞典 用例プラス』 大修館書店
ここにタロットカードの「3」(THE EMPRESS)と「4」(THE EMPEROR)と「7」(THE CHARIOT)を示したいと思います。
ここにタロットカードの「2」(THE HIGH PRIESTESS)と「5」(THE HIEROPHANT)と「7」(THE CHARIOT)を示したいと思います。
ここにタロットカードの「2」(THE HIGH PRIESTESS)と「5」(THE HIEROPHANT)と「17」(THE STAR)を示したいと思います。
カトリック神学|3対神徳「愛徳|望徳|信徳」を示します。
ここにタロットカードの「8」(JUSTICE)と「11」(STRENGTH)と「12」(THE HANGED MAN)と「14」(TEMPERANCE)を示したいと思います。
古代ギリシャの影響|枢要徳「正義|勇気|知恵|節制」を示します。

タロットカードには「カトリック神学|3対神徳」と「信仰」のカードに大きな意味がある。
そして「枢要徳」も「3対神徳」と共に「7元徳」を構成しています。

それらは「神の王国の到来」ヘの「カトリック信仰」と言えます。

神の王国の到来

譬とは解るようにしてあげることです。

譬で語る意義
彼らは見ることは見るが、認めない。
また、聞くことは聞くが、悟らない。

岩波書店「ルカによる福音書」

rev・e・la・tion [rèvəléiʃən]〓
―n.
1 (隠れていたものを)見せること,暴露,口外,すっぱ抜き;発覚.
2 暴露された事物;(人にとって)驚くべき[予想外の]新事実,思い掛けないこと⦅to ...⦆:〓
3 〖神学〗
(1)啓示,天啓,黙示.
(2)啓示されたこと,お告げ:〓
(3)啓示を述べているもの(聖書など).
4 ⦅時に the Revelations⦆ ヨハネの黙示録(The Revelation of St.John the Divine,the Apocalypse). 略:Rev.
5 ⦅R―⦆ ⦅商標⦆ リヴェレイション:米国のパイプタバコ.
[c1303.中期英語 revelacion<後期ラテン語 revēlātio〔ラテン語 revēlāre「明らかにする(REVEAL)」より〕]
rev・e・la・tion・al
―adj.

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館

もくしぶんがく【黙示文学】
apocalyptic literature
前 200年頃~200年頃にユダヤ・キリスト教文化圏で書かれた一連の宗教的文学ジャンルの総称。未来の出来事,特にこの世の終末のときのありさまについての秘密の知識を超人間的な手段で知り,これを象徴によって人々に語り,最後まで忠実である人々を神が劇的に救済するという匿名の(ときに高名な預言者の名を借りた)書物が中心。宗教的圧迫や政治的苦難を社会的背景として生れ,民衆の間に広がった。また⇨エッセネ派や原始キリスト教に深い影響を与えた。聖書正典としては旧約の『ダニエル書』,新約の『ヨハネの黙示録』が代表的。その他聖書,外典を問わずこの文学に属する文書または断片は少くない。これらの文学の解釈をめぐっては,未来を預言するとするもの,荒唐無稽とするものなどさまざまな立場がある。 19世紀以来この種の文学が復活し,現代の SFにもこの傾向がみられる。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

けいじ【啓示】
revelatio; revelation
神あるいは超越的存在が,一般的意味において人間自身の力では認識できない秘密,特に神が人間の理解をこえて実在する本質が,いわば逆説的な緊張関係においてあらわにされることをいう。人はこの啓示によって神との交わりに入ることを許される。啓示は人間の予測をこえてただ神の側から一方的に訪れるものであるから,キリスト教では,救いを目的とした神の恩寵としての奇跡的行為とみなされる。また神と交わるということは人が神と同化するというのではなくて,むしろ逆説的にみずからの罪と卑小さを悟り真に神を信じ,神を恐れ,救いを待つという意味での人間的関係を神と結ぶことを意味する。キリスト教における啓示は一度限りの決定的な出来事,すなわち神の言葉の受肉としてイエス・キリストにおいて現れたとされるが,このキリストにおける特殊啓示だけを排他的に主張する立場(K.バルト),神の被造物における一般啓示をも認める立場(自然神学)などがある。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

では良いクリスマスを!

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