「クリスマス・イブの黙示録」
天軍九隊 celéstial híerarchy
天軍九隊 上級三隊
天軍九隊 中級三隊
能天使《九天使中の第 6 位⇒CELESTIAL HIERARCHY》(第六天魔王)
名詞
天使の集合体(天軍九隊)
the collective body of angels.
天使の集合体。
天軍九隊 下級三隊
ユダヤ教(Michael、Raphael、Gabriel、Uriel の四天使)
黙示録(終末論)と末法思想
「終末論」は「黙示録」と同等であるだろう。
しかし「末法思想」という「カトリックロゴス感覚への信仰の廃れ」が存在すると言われている。
「カトリックロゴス感覚への信仰」が「信仰弾圧」や「時の経過」(時代の変遷)によって廃れ、「末法思想」という新宗教が勃興すると言われている。
その代表例は「聖織田信長」が死闘を繰り広げたと伝えられる「日本の一向宗徒」である。
「一向宗徒」の特徴は「カトリックロゴス感覚への信仰」を一切排斥した「念仏」によっている。
要は「カトリックロゴス感覚への信仰」を倒錯対象とした「黒ミサの儀式」が「一向宗徒」の正体(念仏)だったのです。
※念仏とは 「バフォメットの呪術崇拝」(バフォメットの偶像崇拝)を示しています。
ここで示されることは「終末論」とは「黙示録」であり、一方で「末法思想」とは「カトリックロゴス感覚への信仰の廃れ」を意味しています。
「黙示録」とは「強烈なカトリックロゴス感覚への信仰生活」を示している。
何故ならば「黙示録」とは「カトリックロゴス感覚への信仰者」を救済することを示しているからです。
「カトリックロゴス感覚への信仰者」は必ず救われるとされています。
これは「カトリックロゴス感覚への信仰者」が持つ「救済本願」のあり方です。
しかし「末法思想」は「カトリックロゴス感覚への信仰の廃れ」を意味し「カトリックロゴス感覚への信仰」を倒錯対象とした「黒ミサの儀式」の執行によって「救済本願」を実現します。
それは現世の「救済本願」を放棄することで、「極楽浄土」での「救済本願」が実現することを意味しています。
「カトリックロゴス感覚への信仰」に於ける「天国」とは「神の王国の到来」と言えますが、「黒ミサの儀式」に於ける「天国」は「彼の世」の「極楽浄土」だったわけです。
「死後はハーレムです!」とはイスラム過激派が謳ったテロリズム実行犯への洗脳教育ですが、それと「一向宗徒」が崇拝する「極楽浄土」とは非常によく似ています。
ただ「彼の世」の「極楽浄土」って何ですかね?
私には理解出来ません。
何故なら「インフォームド・コンセント」を一切拒否した「神の門」(バベルの塔)が「密室の形成」(密室の邪神)だったからです。
「カトリックロゴス感覚への信仰」を倒錯対象とする「密室の形成」(密室の邪神)が「黒ミサの儀式」として執行されます。
そうして「密室の形成」(密室の邪神)は「インフォームド・コンセント」を一切拒否して一方的に他者を勘繰り続けるのです。
そのような「一方的に他者を勘繰る行為」を「密室の形成」(密室の邪神)により執行するのが「一向宗徒の特徴」であり「早稲田大学スーパーフリーサークル事件の構図」だったわけです。
要は「密室の形成」(密室の邪神)が「他者との同意」を一方的に勘繰り続けて強硬に主張していくわけです。
多くの女子学生を明らかに強姦された凶悪犯罪が「和姦」とされ早稲田大学学生は「ハンカチ王子」とされたわけです。
世界的に見れば全くの気違い沙汰ですが「STAP細胞事件」も「カミオカンデのニュートリノ観測」も同様に「密室の形成」(密室の邪神)による「一方的に他者を勘繰る行為」として執行されました。
それが「日本的な他者との同意の形成」なのです。
これが「一向宗徒の特徴」です。
頭の悪いバカそのものであり「牧羊犬」(善き羊飼いの僕)を噛み殺す「バカ犬」(犬と豚)と言えるわけです。
「彼の世」の「極楽浄土」とは、少なくとも「黙示録」でもなく、「カトリックロゴス感覚への信仰」でもありません。
このようにイスラム過激派は「一向宗徒」と非常によく似ています。
そういう意味で「一向宗徒」は「堕天使ルシファー召喚」を崇拝している。
何故ならば「カトリックロゴス感覚への信仰」は「神のことば」を受肉することを最良としているからです。
一方で「一向宗徒」は「神のことば」を倒錯対象として完全に反逆した「堕天使ルシファー召喚」と見做せるからです。
そういう意味で「一向宗徒」とは「サタン崇拝」であったのです。
最近、「終末論」を語る識者をよく見掛けます。
その多くは「終末論」を「末法思想」と見做しています。
しかしそれは完全に誤りである。
「終末論」は「黙示録」と同等であり、「究極のカトリックロゴス感覚への信仰」を指し示しています。
一方で「末法思想」とは「カトリックロゴス感覚への信仰の廃れ」であり、「カトリックロゴス感覚への信仰」を倒錯対象とする「黒ミサの儀式」の執行を意味しています。
「黙示録」(終末論)と「末法思想」は仇敵の間柄というわけです。
クリスマスメッセージ
正鵠を射る
私が制作したTBS企業ロゴ案
筆記体の「T」の形が「7」を暗示させ「七元徳」を示している。
アルファベットの「T」が「Jesus’ teaching(s)」を示している。
アルファベットの「B」が「BIBLE」を示している。
筆記体の「S」の形が「方舟」を暗示させ「聖櫃」(ark)を示している。
アルファベットの「S」が「Scripture」を示している。
スリースターズが「三対神徳」を暗示させ「愛徳|望徳|信徳」を示している。
神学者達は「信徳は精神的建物の土台を作り、望徳はそれを建て、愛徳は屋根をつける」と各役割を説明する
※TBS今道潤三からインスパイアされた。
皆さん!
今日は「安息日|7日目」でした。
「安息日|7日目」とは休日の日というより信仰の日であると私は考えています。
そして私は常々TBS(東京放送)のカトリック信仰へ共感しておりました。
そういった経緯で私はクリスマス・イブの「安息日|7日目」に赤坂TBSを訪れることにしたのです。
Harry Potter
赤坂駅から上がっていく階段
IT'S TIME TO BELIEVE IN MAGIC
Harry Potter クリスマスツリー
皆さんフォトを撮っていました。
聖歌について
CDTVライブ!ライブ!クリスマス4時間半SPでキタニタツヤさんがこのクリスマスツリーの前で「青のすみか」を歌っていました。
MUSIC(聖なる音楽)の成立とは一体何だろうか?
私は考えてしまいました。
私は「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を持った音声をMUSIC(聖なる音楽)と言うのだろうと思いました。
では音楽に於ける「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」とは如何なるものでしょうか?
「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を一々きちんと持っていることであり、他のカトリックのあり方と同様であるだろうと思います。
坂本龍一の「戦場のメリークリスマス」はMUSIC(聖なる音楽)の成立と言えるのだろうか?
一つ例を示します。
「坂本龍一」は活動当初(YMO等)に於いて自身の音楽を時間的経過(技術革新)と定義していました。
だからテクノポップで華麗にデビューし活躍できた訳です。
坂本龍一に言わせれば「ビートルズ」もエレキギターと言う時間的経過(技術革新)の賜物であった訳です。
坂本龍一は音楽のあり方を時間的経過(技術革新)であると定義し自身の超然とした立ち位置をキープし続けました。
だから坂本龍一が下す「ビートルズ評」にジョン・レノンのカトリックロゴス感覚(黙示録)への高評価は存在していません。
逆に坂本龍一の主張はジョン・レノンのカトリックロゴス感覚(黙示録)を完全否定していた。
坂本龍一のジョン・レノンへの評価は著しく低くなっているのです。
坂本龍一は奇妙なクール・ジャパンなのです。
何故なら「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」へ一々敵対する行為を格好良くやって見せているからです。
それが坂本龍一教授のフォトが示す「バフォメットの偶像崇拝」なのです。
坂本龍一教授は「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様となっていた訳です。
坂本龍一とはジョン・レノンのカトリックロゴス感覚(黙示録)へ一々敵対したポピュリズム音声制作者(扇動音声制作者)だった訳なのです。
坂本龍一自身の音声は「シンセサイザーの演奏」と「デジタルミキシング編集」と言った時間的経過(技術革新)の賜物であった。
そこにカトリックロゴス感覚(黙示録)は全く無かった訳です。
坂本龍一は晩年「ピアノの演奏」と「オーケストラの演奏」に拘りました。
しかしそれは「ピアノ協奏曲」とはならなかった。
そうやって坂本龍一は自身の音声を「メロディ」(Satanic Parody制作)と定義して行く。
しかしその肝心要の坂本龍一本人が作曲した「メロディ」(Satanic Parody制作)に「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」は果たして少しでもあったのだろうか?
ここが重要です。
坂本龍一は「”どこでもないどこか”、そして”いつでもない時間”」をコンセプトとしている。
これは坂本龍一が「アンチカトリック」を楽曲のコンセプトとしていた絶対の証拠となっているのです。
坂本龍一教授のフォトが示す彼の「偶像崇拝」は「堕天使ルシファー」(明けの明星)であり「バフォメットの偶像崇拝」を表していたのです。
彼の楽曲は音声ではあった。
しかし彼の楽曲は音楽ではなかった。
致命的な欠陥を持った世界的音楽家が坂本龍一教授だったのです。
結局文明のDiabolism(釈迦如来信仰の救済求道精神)に対しSatanic Parodyをすることによってその救済求道精神を打ち消しディストピアを形成する。
そのディストピアに現れるのが金色に輝く「阿弥陀如来崇拝の理想偶像(倒錯偶像)」(ルシファー)なのです。
それはピカピカの新世代です。
ニュージェネレーションの希望と言われます。
しかしそれは新世代詐欺なのです。
釈迦如来信仰の救済求道精神はイマーゴ(神の似姿)があることを示している。
一方で「阿弥陀如来崇拝の理想偶像(倒錯偶像)」(ルシファー)はイマーゴ(神の似姿)をSatanic Parodyで貶めることによって自らをカリスマとして提示する。
イマーゴ(神の似姿)とカリスマの違いは神とルシファー(明けの明星)の違いとなる。
ここで大きな誤解を招くだろうから敢えて指摘しておきます
「神に愛されるカリスマ」と「人に愛されるカリスマ」
簡単に定義すると「イマーゴ(神の似姿)を持ったカリスマ」と「イマーゴ(神の似姿)を貶め自らを誇るカリスマ」が存在する。
前者は神に愛され、後者は人に愛されるだろう。
黙示録的芸術家
しかし「イマーゴ(神の似姿)を持ったカリスマ」こそ本物です。
何故なら「どんなに俗であっても、悪を嫌悪する聖俗」とは芸術家の在り方と共に聖性の在り処となっているからです。
それは「黙示録的芸術家」と呼ばれます。
この作家が制作する黙示録作品に於いてはどんな悲劇的な状況であっても善への救済求道精神が存在します。
末法思想的芸術家
一方で「イマーゴ(神の似姿)を貶め自らを誇ったカリスマ」は特殊詐欺でしかありません。
イマーゴ(神の似姿)を貶めることは「ドクサの勝利」を示しているからです。
しかしそうやって成立した「ドクサのカリスマ」は偽物なのです。
何故ならばそれは芸術家ではなく偽善(俗と悪)となっているからです。
それは「末法思想的芸術家」と呼ばれます。
この作家が制作する末法思想作品に於いて善への救済求道精神は弾圧されデマゴーグが「阿弥陀如来崇拝の理想偶像(倒錯偶像)」(ルシファー)として出現します。
それは「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様となることを示しています。
「おいしい生活。」や「生きろ。」と同様の扇動です。
それは「前衛芸術の成立」を装うコンプレックスです。
イマーゴ(神の似姿)へ一々敵対する「コンプレックス」は「倒錯感覚」を昇華して全肯定します。
ネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)の活動なのです。
TBS今道潤三のカトリックロゴス感覚を考察する
今道潤三の譬え
「どんな酷い低俗であっても、悪を絶対に嫌悪する聖俗」とは最高善信仰(俗と善)の在り方です。
「非常に酷い低俗であり、又同時にただ善行(責任)を主張するだけで、悪を絶対に嫌悪しない邪悪さ」とは偽善(俗と悪)の在り方となります。
「どんな酷い低俗であっても、悪を絶対に嫌悪する聖俗」は「聖性を帯びる最高善信仰(俗と善)」となります。
「非常に酷い低俗であり、又同時にただ善行(責任)を主張するだけで、悪を絶対に嫌悪しない邪悪さ」とは「偽善(俗と悪)を愛するルシファー(明けの明星)」となります。
「どんな酷い低俗であっても悪を絶対に嫌悪する在り方」は最高善信仰(俗と善)となり「聖性」へ人々を導きます。
何故なら最高善信仰(俗と善)によって「低俗」は「聖俗」へ高められるからです。
それが「天使の両翼」なのです。
最高善信仰(俗と善)に於いて偽善(俗と悪)の在り方は絶対に嫌悪されます。
しかし「非常に酷い低俗であり、又同時にただ善行(責任)を主張するだけで、悪を絶対に嫌悪しない在り方」は最高善信仰(俗と善)を装っているだけの偽善(俗と悪)なのです。
何故ならばここに見られるように自らの善行(責任)を主張しながら、悪を絶対に嫌悪しない在り方が偽善(俗と悪)の正体であり、悪意の正当化となっているからです。
そのような悪意の正当化は最悪の邪となります。
最高悪サタンの露悪趣味です。
最高悪サタンとは「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様となることです。
最高善信仰(俗と善)と最高悪崇拝(俗と悪)の対立は聖戦となって表出します。
これは「聖俗」と「邪悪」の対立であり善悪の意味となっています。
イマーゴ(神の似姿)とは最高善信仰(俗と善)から受肉する聖性なのです。
これは私見だが『今道潤三』とはTBS(東京放送)内に於いて使用された『鹿倉吉次』の「ペンネーム」(影武者)だろう。
今道潤三は鹿倉吉次の影武者(ダミー)だった。
鹿倉吉次はTBS(東京放送)の影武者(黒幕)だった。
アリアとメロディ
「アリア」
「メロディ」
坂本龍一楽曲の「メロディ」(Satanic Parody制作)は末法思想
坂本龍一の作曲した「メロディ」(Satanic Parody制作)があります。
坂本龍一楽曲の「メロディ」(Satanic Parody制作)は「アリア」(黙示録)ではないのです。
「アリア」(黙示録)とは「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を持った音声を示しています。
「アリア」(黙示録)と名乗るにはカトリック信仰を持って作曲しなければなりません。
しかし坂本龍一は自身の楽曲を「メロディ」(Satanic Parody制作)として誇らしげに示し得意げに格好良くやって見せていた。
それはただ音声技術を誇ったネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)でした。
坂本龍一の「メロディ」(Satanic Parody制作)は末法思想でした。
YMOについて
「YMO」は細野晴臣、高橋幸宏、坂本龍一の三人組でした。
他に参加したミュージシャンは矢野顕子など居たかもしれません。
私は全てを把握してはいません。
ただ彼等の音声は「アリア」(黙示録)ではなかった。
「アリア」(黙示録)に対して敵対的に「リズム、メロディ、コンセプト」を祀り上げた楽曲を「新世代の音楽|テクノポップ(クラシック)」として演奏していた。
テクノポップとクラシックの違いは手段としての楽器の違いに過ぎない。
電子音源だろうがクラヴィーアだろうが手段としての楽器に大した違いはなかった。
ただの音声発生源だったからです。
そこに「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」がないなら単なる音声に過ぎなかったのです。
雑音でも騒音でも同じことです。
音声の価値は「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」にあった。
それが音楽だった。
しかしYMOにとって楽曲の基本は「リズム、メロディ、コンセプト」とされていました。
しかしそれは音声に過ぎない。
「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を絶対に必要とする「アリア」(黙示録)へ一々敵対したSatanic ParodyがYMOの楽曲の正体だった。
それ故に或る事件が起こりました。
細野晴臣の「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様が出現するあり方が宮崎駿のカトリック信仰と決定的に対立したことによって起こりました。
※映画「風の谷のナウシカ」音響監督の電撃交代劇について
それは細野晴臣が担当予定だった宮崎駿監督作品「風の谷のナウシカ」の音響監督交代劇です。
当初スター級とされていた細野晴臣が「風の谷のナウシカ」の音楽を担当する予定だった。
しかし細野晴臣は電撃的に降板となった。
安田成美「風の谷のナウシカ」はその時の名残です。
何故か宮崎駿が難色を示したと言われている。
ただその理由は明らかだった。
細野晴臣の楽曲は「アリア」(黙示録)を否定するSatanic Parodyだった。
細野晴臣の楽曲は宮崎駿の「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」へ敵対する楽曲と見做すことができる。
それは映画が音響監督で潰れてしまうことを意味しています。
細野晴臣は「風の谷のナウシカ」の「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」へ敵対しSatanic Parodyの宣伝をしているようにも見えます。
細野晴臣の楽曲は宮崎駿にとって最悪と思えたのでしょう。
そして久石譲が細野晴臣の代わりに音響監督に大抜擢されそれ以降、宮崎駿映画の音響担当となっていきます。
久石譲の発言を聞くと問題発言が多く私はあまり好印象は持てません。
しかし久石譲の楽曲に「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を否定する要素はなく宮崎駿の「アリア」(黙示録)を引き立てています。
要は久石譲自体に「アリア」(黙示録)はないかもしれないが彼の映画音楽は「アリア」(黙示録)の否定を全くしないのです。
少なくとも久石譲は映画監督の「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」へ敵対するような最悪な音響監督とはならない。
久石譲本人に「アリア」(黙示録)はなくても映画音楽の才能(イマーゴ)はあった。
彼は映画の「アリア」(黙示録)に傷を付けなかった。
久石譲には「最低限の倫理観」はあったと言えるのです。
それは映画音楽にとって最重要の資質であり、その音響担当者が「最低限の倫理観」を持っている証となっているのです。
そこが「細野晴臣のSatanic Parody」(末法思想)と「総合芸術のアリア」(黙示録)の違いだった。
逆に言えば細野晴臣の映画音楽には「最低限の倫理観」すらなかった。
「アリア」(黙示録)を守護しない音響監督にカトリック信仰の映画制作は絶対に無理な訳です。
細野晴臣にはカトリック信仰の映画音楽が全く解かっていなかった訳です。
当然といえば当然です。
細野晴臣の手法は「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様を出現させることにあったからです。
アニメ映画「銀河鉄道の夜」について
アニメ映画「銀河鉄道の夜」の音響監督を細野晴臣は担当しました。
このサウンドトラックは私も購入しました。
このジャケットの題字はエスペラント語で書かれていました。
非常に印象深いです。
ただこのサウンドトラックが宮沢賢治の「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を守護しているどうかと言えば疑問を感じました。
宮沢賢治の「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」へ敵対した楽曲であるように感じます。
細野晴臣の楽曲は宮沢賢治の「アリア」(黙示録)を打消しSatanic Parodyとしている。
要は救済求道精神の道を閉ざしている。
この楽曲は才能(イマーゴ)がない人間の屁理屈の産物だった。
確かに神秘的な音声で印象深いのですが宮沢賢治の「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」へ一々敵対し映画を台無しにしているようにも思えます。
宮沢賢治著「銀河鉄道の夜」の「アリア」(黙示録)を台無しにしていた。
それは宮沢賢治著「銀河鉄道の夜」にある大事なカトリックメッセージと大事なカトリックコミュニケーションを台無しにしていたと言えます。
これも細野晴臣の手法が「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様を出現させることにあったからです。
もし坂本龍一が「風の谷のナウシカ」の音響監督になっていたら?
又、大島渚監督作品「戦場のメリークリスマス」のようなSatanic Parodyと宮崎駿監督作品「風の谷のナウシカ」のカトリック信仰の違いはあまりにも大きかった。
大島渚監督作品「戦場のメリークリスマス」も「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様を出現させることにあったからです。
もし坂本龍一が「風の谷のナウシカ」の音響監督になっていても交代劇は起こっていたと思います。
「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を持った「カトリック信仰音楽」(黙示録)を全否定するYMOには宮崎駿映画の音楽は担当できないからです。
YMOは扇動音声技術であった。
しかしYMOに「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」はなかった。
何故なら「カトリック信仰音楽」(黙示録)の否定こそが坂本龍一等が「新世代楽曲」であったことの証明とされていたからです。
彼等は最初から駄目な連中だったことがここに明らかとなりました。
彼等の新世代楽曲は音楽ではなかった。
音楽とは「アリア」(黙示録)だった。
それは「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を持った音声を言う。
よって「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」のない扇動音声は音楽ではない。
YMOはSatanic Parodyのポピュリズム音声技術だった。
それは音楽ではなかった。
坂本龍一がライブで「音楽!」と叫んでいたがインチキだった。
それはただのネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)だった。
YMOはネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)へ盲従する聴衆の完全奴隷化を賛美する。
しかしそれはイエス・キリスト(神の似姿)の言う「盲目の道案内」だろう。
盲人が盲人を手引しても須らく溝に落ちてしまう。
YMOのメンバーはどれをとっても似たようなものだ。
坂本龍一は特にスター級の扱いとなっていたがカトリック信仰がない以上Satanic Parodyの扇動音声技術となるしかなかった訳です。
坂本龍一は才能(イマーゴ)がなかったが「才能」(捏造)を評価された。
何故だろうか?
ヨーゼフ・ゲッベルスの崇拝者は多いからです。
ネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)は扇動の賜物であって堕天使ルシファー(明けの明星)の召喚だった。
村上春樹小説の宣伝も巧みな扇動によっている。
それは「神とキリストの右側」(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)からデマゴギーによって「マス」の扇動をしていく。
※「盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭」に関して「天の私の父が植えられたのではない植物はすべて、根こそぎにされるであろう。」と「神の右側、ことばの始まり」の目次を参照せよ!
それは聖書の黙示録の救済求道精神をSatanic Parodyで打ち消し形成した末法思想の中で自らの存在を誇ったカリスマアイドルの真の姿でした。
「YMO」は気色悪い極右グループだった訳なのです。
それは末法思想の中で輝く一番星であり「ルシファー」(明けの明星)と呼ばれます。
当然に彼等は「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて出現する異端の神様だからです。
「明けの明星」(新世代音楽)とは末法思想に中で輝く一番星であって「阿弥陀如来崇拝の理想偶像(倒錯偶像)」(ルシファー)と同一視される。
新世代や最新鋭、最先端とは一言で評し「前衛芸術の成立」(前衛詐欺)で括られる。
「前衛芸術の成立」(コンプレックス)が「明けの明星」であるなら、それはルシファー(ピカソ)と言えます。
それは「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」に対する全否定であり、その正体は芸術に敵対するコンプレックスだった訳です。
そういったコンプレックスに芸術に対する「HOMMAGE(尊敬)」は存在する筈がありません。
それがYMO楽曲「君に胸キュン」(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)でありました
「君に胸キュン」は「明けの明星」(ルシファー)であり、「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」は存在していない。
「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」へ敵対する超感覚派の扇動であるだろう。
「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」はマス・コミュニケーションです。
それは「アリア」(黙示録)だった。
しかし扇動音声はマス・メディアの技術だった。
ただこういった技術に「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」がないならネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)でしか無い。
マス・コミュニケーションとはイエス・キリスト(神の似姿)の黙示です。
マス・メディアはネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)と言えます。
ポピュリズム音声(扇動音声)は超危険な末法思想へあなたを陥れるでしょう。
末法思想はDiabolism(釈迦如来信仰の救済求道精神)へのSatanic Parodyによりその救済求道精神を打ち消しディストピアを形成していくことで金色に輝く「阿弥陀如来崇拝の理想偶像(倒錯偶像)」(ルシファー)を祀る。
そうやって「マス」を扇動する。
金色に輝いた「阿弥陀如来崇拝の理想偶像(倒錯偶像)」(ルシファー)はネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)となる訳です。
それが「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様を出現させる手法です。
「明けの明星」(ルシファー)の召喚だった有名楽曲「Energy Flow」
坂本龍一の有名楽曲「Energy Flow」とはそういう意味で「アリア」(黙示録)へのSatanic Parodyによって形成されたディストピアに出現する金色に輝いた「阿弥陀如来崇拝の理想偶像(倒錯偶像)」(ルシファー)でした。
この坂本龍一楽曲は「三共『リゲインEB錠』CM Ver.」として使用された。
三共『リゲイン』といえば「24時間戦えますか」のフレーズで有名です。
1989年に於ける有名楽曲「勇気のしるし」から1999年に於ける坂本龍一の有名癒やし楽曲「Energy Flow」へイメージ操作を行った訳なのです。
それは奇妙に大ヒットした坂本龍一の「癒やし」楽曲の意味なのです。
坂本龍一にはDiabolism(釈迦如来信仰の救済求道精神)がなかった。
彼はDiabolism(釈迦如来信仰の救済求道精神)の否定により自らを誇っていた。
しかしそれは偽物を意味している。
坂本龍一はネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)でした。
細野晴臣も宮沢賢治著「銀河鉄道の夜」の「アリア」(黙示録)へのSatanic Parodyによって形成した閉塞感(ディストピア)へ耽美的な音声を出現させることで「阿弥陀如来崇拝の理想偶像(倒錯偶像)」(ルシファー)の扇動している。
それもネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)です。
これらは金色に輝いた「阿弥陀如来崇拝の理想偶像(倒錯偶像)」(ルシファー)が「ネオ・ナチズム」(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)であることを示しています。
それは超危険状態なのです。
ルシファー(明けの明星)の召喚が行われているのです。
これらは「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様を出現させる手法なのです。
皆さん注意してください!
※「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に」事件
ここで大事件が起こりました。
「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に」です。
この映画は庵野秀明監督の超有名ヒット作品です。
そしてこの作品の音響監督は「鷺巣詩郎」でした。
絵コンテを読む限りBGMの選択の指示は庵野秀明監督からはなされていない。
鷺巣詩郎音響監督が庵野秀明監督の意図を汲んでBGMを選択したと思われる。
しかしこの作品では「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」へ一々敵対するバフォメットを祀り上げていく異常感覚が賛美されそれが新世代の証だとされていました。
彼等ヲタク世代は新世代であってカトリック信仰へマウンティングすることを美徳だと定義していた訳です。
しかしこれは一言で評して「堕落」です。
ここで「堕天使ルシファー」(明けの明星)が出現します。
エヴァ弐号機とエヴァシリーズの破廉恥シーンに於けるバッハ「G線上のアリア」
この映画に或るシーンがありました。
それはバッハ「G線上のアリア」が使用された破廉恥シーンです。
このシーンは「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」へ一々敵対したSatanic Parody制作でした。
例えばエヴァシリーズはエヴァ弐号機の電源を遮断した時点でエヴァ弐号機の活動停止まで自身の両翼で空中に飛んでいればよかった。
※エヴァシリーズの両翼の形状も決して天使の羽根は生えていません。
又、エヴァシリーズが投入された後に彼等が敢えて行った戦闘行為に於いてエヴァ弐号機からほぼ一方的な攻撃を受けることになりますがその道理がどこにも見当たりません。
これは何でやったのか理解できない戦闘行為でした。
しかし何故かエヴァシリーズはエヴァ弐号機に一方的に攻撃され全機尽く殲滅される事態となっていきます。
そしてエヴァ弐号機の活動停止の後、謎の再起動により復活したエヴァシリーズはエヴァ弐号機へ百倍返しの復讐をしていく訳です。
生きたアスカが搭乗した儘なのに無惨にも「鳥葬リンチ」されていくエヴァ弐号機は腸を食いちぎられ眼球を抉られボロボロにされていく。
その過程を残酷にもアスカを愛する視聴者に晒していく訳です。
このシーンは「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」へ一々敵対した破廉恥シーンでした。
これは「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を持つ道理へ一々敵対するためだけの目的で制作された超残虐シーンなのです。
神聖な「鳥葬にあるカトリック信仰」を穢すことを目的としている。
その悪しき意図がこのシーンに完全に垣間見られます。
これでは「イエス・キリスト(神の似姿)のカトリックロゴスによって根拠付ける教え」どころか「ハンムラビ法典のカトリックロゴスによって根拠付ける信仰」」にさえ一々敵対していることが明らかとなっています。
そしてその殺戮凌辱シーンのBGMがバッハ「G線上のアリア」だった訳です。
それはバッハ「G線上のアリア」が持った「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」に対しての最強の冒涜であり最強の攻撃だった。
「新世紀エヴァンゲリオン」の制作者達はバッハ「G線上のアリア」を全く愛していないのです。
その残虐行為を目の当たりにしてエヴァ初号機(碇シンジ)は悪魔として覚醒します。
悪魔として覚醒したエヴァ初号機は意味不明な「前衛芸術の成立」(前衛詐欺)で描かれた映画最終盤を経て行くことで奇妙な結末を持つことになります。
それは「聖書 創世記」を想起させた「アスカとシンジ」の「末法思想」となっていました。
「末法思想」の「アダムとイブ」なのです。
Satanic Parody制作なのです。
それが「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様を出現させる手法です。
しかし本来の「聖書 創世記」は「善悪を知る木」から「知恵の実」を食べることによって「黙示録」(revelation)の世界となる訳です。
これは黙示録(revelation)の「アダムとイブ」なのです。
そして本来の「聖書」は宮崎駿の考え方と同じです。
「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」なのです。
それはカトリック信仰です。
「俗であれ!しかし悪を嫌悪せよ!」とは聖性(俗と善)の在り処、それは偽善(俗と悪)との違いを如実に示す(「風の谷のナウシカ」を愛するカトリック信仰者からの進言)
聖性と邪悪
才能(イマーゴ)とは、如何に「俗」であっても「悪」を嫌悪する「最低限の倫理観」のことであり「天使の両翼」(聖性)と言えるものです。
しかし「他者へ罪を擦り付ける生贄行為」とは「最大の悪意」であり「悪魔の所業」(邪悪)と言えるものです。
天才ピカソの正体
宮崎駿の「風の谷のナウシカ」は「黙示録」(revelation)なのです。
しかし鈴木敏夫や日本テレビ放送網の画策によって庵野秀明が「風の谷のナウシカ」の続編を制作するならそれはSatanic Parody制作となり「末法思想」の「風の谷のナウシカ」となるでしょう。
そこで庵野秀明は金色に輝いた「阿弥陀如来崇拝の理想偶像(倒錯偶像)」(ルシファー)となりネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)の扇動となる訳です。
そういった意味でパブロ・ピカソが描いた末法思想的絵画「ゲルニカ」も同様です。
パブロ・ピカソ「ゲルニカ」に於いてDiabolism(釈迦如来信仰の救済求道精神)は否定されています。
パブロ・ピカソ「ゲルニカ」とはSatanic Parodyにより形成した閉塞感(ディストピア)の中で「コンプレックス」が「前衛芸術の成立」(前衛詐欺)として描かれた作品です。
それがパブロ・ピカソ「ゲルニカ」の正体でした。
ただそれは「倒錯感覚」でしかなかった。
そういった「倒錯感覚」を賛美して芸術とすることは「詐欺」だったのです。
それは「阿弥陀如来崇拝の理想偶像(倒錯偶像)」(ルシファー)と同様であったのです。
それは「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様を出現させる手法なのです。
パブロ・ピカソ「ゲルニカ」は「コンプレックス」だった。
そしてそれは「倒錯感覚」の昇華として行われた。
そういった「倒錯感覚」の昇華は庵野秀明の手法と同様の「末法思想」と同じでした。
庵野秀明の場合は他者の作品を一々穢していきます。
そうやって「末法思想」を形成し「前衛芸術の成立」(前衛詐欺)となっていくのです。
しかし庵野秀明は重要なことを隠している。
それは「黙示録」(revelation)が芸術であり、「末法思想」は芸術に対するコンプレックスであるという事実です。
ここで言えることは庵野秀明にしろパブロ・ピカソにしろ・・・彼等にはイマーゴ(神の似姿)がなかったということなのです。
カトリックロゴス感覚にはイマーゴ(神の似姿)が絶対に必要です。
彼等の作品はイマーゴ(才能)がないクリエーターのコンプレックスの産物だった。
そして芸術に対する自らのコンプレックスから制作した「前衛芸術の成立」(前衛詐欺)が意味不明なエニグマ作品となっている。
しかしそれは「前衛芸術の成立」(前衛詐欺)と言う「詐術」でしかない。
※このようなパブロ・ピカソのコンプレックスはネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)を示しています。
安藤忠雄の正体
鈴木敏夫(ジブリ)も宮崎駿のDiabolism(釈迦如来信仰の救済求道精神)へSatanic Parodyをすることで形成した閉塞感(ディストピア)の中で存在する金色に輝いた「阿弥陀如来崇拝の理想偶像(倒錯偶像)」(ルシファー)でした。
それも又、ネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)だった訳です。
これは有名建築家安藤忠雄も同様です。
安藤忠雄はル・コルビュジエのDiabolism(釈迦如来信仰の救済求道精神)をSatanic Parodyで打ち消すことで閉塞感(ディストピア)を形成する。
そこで安藤忠雄は「無理を超越する。」と称して金色に輝いた「阿弥陀如来崇拝の理想偶像(倒錯偶像)」(ルシファー)を建立していく。
それが「安藤忠雄の建築」であって「バフォメットの偶像崇拝」であった。
そういった「バフォメットの異端教団」(明けの明星)ではネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)の扇動があり超危険状態となっている訳です。
これも「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様を出現させる手法です。
ただ言えることは「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を持った建立が「建築」であるなら、Satanic Parodyの建立は「バフォメットの偶像崇拝」のあり方です。
その違いはなんだろうか?
「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を持たない偶像崇拝は「特殊詐欺」でしか無いのです。
「黙示録」と「末法思想」
庵野秀明は宮崎駿の「黙示録」(revelation)へ一々敵対する「末法思想」でしかありません。
それは庵野秀明が宮崎駿の「黙示録」(revelation)を継承していないことを如実に示しています。
庵野秀明は宮崎駿の弟子では全くない訳です。
弟子を名乗るなら「黙示録」(revelation)の継承が第一条件でしょう。
庵野秀明は「黙示録」(revelation)へ敵対して「末法思想」を制作しています。
それがSatanic Parody制作です。
それはカトリック信仰に敵対することで存在する「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様を出現させる手法と言えます。
「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に」に於ける聖書の末法思想然り、「風の谷のナウシカ続編プラン」に於ける末法思想然り、「鳥葬リンチ」の於ける末法思想然りです。
「黙示録」(revelation)であったものへバフォメットカルトにより「黒ミサ」を仕掛けている訳です。
それは「ドクサ」を「絶対知(特権知)」とする「屁理屈」の形成となります。
そういった「黙示録」(revelation)への「黒ミサ」は暗黒卿(ディストピア)となります。
暗黒卿(ディストピア)はSatanic School(阿弥陀如来崇拝の異端教団)によっている。
しかし宮崎駿はDiabolism(釈迦如来信仰の救済求道精神文学)であった。
Diabolism(釈迦如来信仰の救済求道精神)とSatanic School(阿弥陀如来崇拝の異端教団)の違いはユートピアとディストピアの違いとなって決定的なものとなります。
宮崎駿が「神の死んだ」世界における「天上世界」への求道精神の逆説的表明であるなら、庵野秀明は「Satanic School」(阿弥陀如来崇拝の異端教団)によって全てを貶め「ディストピア」を描きます。
解り易く言って宮崎駿は「鳥葬」の「黙示録」(revelation)であり、庵野秀明は「鳥葬リンチ」の「末法思想」であった。
これは「ユートピア思想」と「Satanic 思想」(ディストピア思想)の間の決定的違いとなった。
※「鳥葬リンチ」は伊坂幸太郎「アヒルと鴨のコインロッカー」にも登場する。
才能(イマーゴ)とは?
真のカルチャーの停滞時期
庵野秀明は「オマージュ」と称して過去の名作の引用を多用しますが実際は「Satanic Parody」だった。
カトリック信仰に敵対することで存在する「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様を出現させる手法です。
宮崎駿は庵野秀明の師であって、庵野秀明は宮崎駿の後継者(継承者)であるという「報道」があります。
しかしこれは全くの「誤報」だと思います。
このような「報道」をしたマスメディアは須らく「誤報」を認め視聴者へ謝罪すべきだと私は思います。
私は「謝罪文」を「誤報マスメディア」へ要求します!
これは「誤報」ではなく「悪質なデマゴギー」であるかもしれない。
もしそうならば「犯罪」です!
その意図は何だろうか?
Satanic の扇動です!
Diabolism(釈迦如来信仰の救済求道精神)をSatanic Parodyによって貶め制作した作品が庵野秀明の「シン・シリーズ」です。
庵野秀明はDiabolism(釈迦如来信仰の救済求道精神)が持つ救済への求道精神の逆説的表明に対しSatanic Parodyで徹底的に打ち消していく。
庵野秀明はDiabolism(釈迦如来信仰の救済求道精神)の救済求道精神を徹底的に打ち消すことで「救済求道精神の無い暗黒卿」(ディストピア)をSatanic Parody芸術として出現させる。
それが日本サブカルチャーが謳う「ヲタクアート」の正体です。
村上隆や庵野秀明、浦沢直樹等が代表する日本サブカルチャーのスター軍団は実際はDiabolism(釈迦如来信仰の救済求道精神作品)が持つ救済への求道精神の逆説的表明を打ち消し成立した悪意のSatanic School(阿弥陀如来崇拝の異端教団)だった。
しかしDiabolism(釈迦如来信仰の救済求道精神作品)が真のカルチャーなのです。
それはカトリック信仰です。
そして日本サブカルチャーはカルチャーを打ち消して悪意のSatanic School(阿弥陀如来崇拝の異端教団)を形成していく。
それがカトリック信仰に敵対することで存在する「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様を出現させる手法と言えます。
そうやって真のカルチャーの停滞時期が判明になっていきます。
芸術性の才能(イマーゴ)への深い理解
しかし真のカルチャーとはカトリックロゴス信仰なのです。
才能(イマーゴ)を必要とするカルチャーの避けられない陥穽はカトリックロゴス信仰が持つイマーゴ(神の似姿)のあり方に示されている。
イマーゴ(神の似姿)を持たない作品が社会的地位(倒錯偶像)を獲得することで芸術性の再定義が強行されていく。
それによってイマーゴ(神の似姿)を持たない後継者が社会的地位(倒錯偶像)を形成しカルチャーへ降臨する。
そして才能(イマーゴ)を持たない者によった統治が始まる。
その弊害は才能(イマーゴ)を持たないクリエーターの社会的出世(倒錯感覚)として表出します。
当然の如くカトリックロゴス信仰を解せない後継者の主張により芸術性が再定義されその中身が貶められることにより作品が劣化していくことになる。
それがカルチャーの停滞時期です。
貴乃花の息子だって一流芸術家です。
「誰でもピカソ」です。
確かにピカソにも才能(イマーゴ)はありませんでした。
要はイマーゴ(神の似姿)を持たないクリエーターが芸術家の後継者を主張する。
「幼い頃からの夢と称して・・・」
彼等は幼少時の夢をイマーゴ(夢の実現)だと主張する。
確かにユング心理学のイマーゴ(夢の実現)はそのような「理想の社会的面子(倒錯偶像)」を示している。
しかしそれは芸術家のイマーゴ(神の似姿)とは違う。
そのようなユング心理学のイマーゴ(夢の実現)とは「ドクサの実現」のために汎ゆる手段を容認することを意味している。
それは「最低限の倫理観」すら否定した「ルシファー」(明けの明星)を意味している。
ユング心理学のイマーゴ(ドクサの実現)はネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)によって扇動されていく。
それがアドルフ・ヒットラーの「末法思想的芸術」である。
そういう意味でユング心理学のイマーゴ(ドクサの実現)とは「明けの明星」(ルシファー)であり「阿弥陀亜如来崇拝の理想偶像(倒錯偶像)」だった。
カトリック信仰に敵対することで存在する「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様を出現させる手法です。
特殊詐欺の手法だった。
芸術家の才能(イマーゴ)は「神の似姿」として顕現する。
「神の似姿」とはフロイト精神分析のイマーゴ(神の似姿)を示しています。
ユング心理学のイマーゴ(人の理想偶像)とはカルトによって形成した「芸術家の社会的地位(倒錯偶像)」であり真の芸術家のイマーゴ(神の似姿)を持っていなかった。
要は彼等はただ威張りたい存在なのです。
それが彼等の「ドクサの実現」です。
このような「ドクサ」を「絶対知(特権知)」とする「屁理屈」の形成により「カルト」は根拠付けられます。
そうやって異端教団は出現します。
しかしその根拠は「屁理屈」と「虚偽」でしかありません。
彼等にカトリックロゴス感覚は一々敵対されます。
当然ですが「ドクサ」にとってカトリックロゴス感覚は「絶対の敵」となります。
カトリックロゴス感覚は「カルトの敵」となるのです。
ソクラテスの処刑とは「ドクサ」を「無知の知」で啓蒙していたソクラテスへのカルト集団による貶めであったのです。
ここで解るようにソクラテスとはカトリックロゴス信仰でした。
彼等カルト集団は猿山のお猿さん並の存在なのです。
お猿さんにカトリックロゴス感覚があればカルト集団はお猿さんより劣ります。
しかし宮崎駿のイマーゴ(神の似姿)は芸術性の創造です。
芸術作品の制作には「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」が必要です。
宮崎駿の弟子を名乗った庵野秀明にしろ、息子だと主張する宮崎吾朗にしろ、崇拝者として振る舞う新海誠にしろ、誰一人「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を信仰していない。
それは彼等に宮崎駿の持つカトリックロゴス信仰の後継者となる資格がないことを示している。
敢えて好意的に指摘して庵野秀明と新海誠の両者はアニメ作品のヒットメーカーの後継者とは言えるかもしれない。
しかしそれはアニメ作家というより「商品のヒットメーカー」(ヲタクアートのヒットメーカー)としての後継者に過ぎない。
両者の作品に「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を持った芸術性は存在していない。
酷い言い方をすると彼等は「スプラッター映画」と「エロゲーム」(恋愛ゲーム)のヒットメーカーと大して変わらない。
彼等は芸術性を否定した「商品のヒットメーカー」(ヲタクアートのヒットメーカー)でしかないのです。
しかし宮崎駿の存在が「アニメアートのヒットメーカー」とされたことで彼等自身も宮崎駿と同等だと主張できる社会的錯誤(倒錯偶像)が容認されてしまった。
ただ彼等に「最低限の倫理観」があるならそのような悪意は慎むべきだろう。
彼等にイマーゴ(神の似姿)があればそのような悪意は自ら慎むだろうが・・・彼等に「最低限の倫理観」がないからには無理な話だった。
そうなると「ルシファー」(明けの明星)を撃たなければなりません。
「神の天使」と「ルシファー(明けの明星)の群れ」の間に必然的に生じる「聖戦」が「黙示録」となって始まっている。
芸術(神の似姿)への「hommage」(尊敬)とルシファー(明けの明星)への「homage」(忠誠誓約)の違いを理解しなければならない
彼等にはイマーゴ(神の似姿)を持った「hommage」(尊敬)は存在していない。
「イマーゴ(神の似姿)を持つ『hommage』(尊敬)」と「イマーゴ(神の似姿)へ敵対する『homage』(忠誠誓約)」が存在する。
ここで重要なのは芸術性の才能(イマーゴ)への深い理解なのです。
芸術(神の似姿)への「hommage」(尊敬)とルシファー(明けの明星)への「homage」(忠誠誓約)の違いを理解しなければならない。
※「homage」(忠誠誓約)は「cult」と同様だと言えます。
才能(イマーゴ)に関する残酷で当然な審判
先程から繰り返し指摘していますが才能(イマーゴ)とは「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」なのです。
ここで判明になるのは「アニメアート」と「商品としてのヲタクアート」の絶対的違いであるでしょう。
アニメアートはイマーゴ(神の似姿)を必要とする。
ヲタクアートはセックス・シンボルによって商売をする。
恋愛描写もセックス・シンボルによっています。
そういったセックス・シンボルによるヲタクアートはカトリック信仰に敵対することで存在する「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様を出現させる手法と同じです。
しかし才能(イマーゴ)を持った稀有なクリエーターが芸術家なのです。
どちらもヒットメーカーとなるがその中身の価値は大きく違っている。
中身の違いと価値が解らない鈴木敏夫は才能(イマーゴ)を持たないプロデューサーであったのです。
才能(イマーゴ)とはそのようにして残酷に顕現する。
それは或る意味、残酷で当然な審判を必要とします。
「君には才能(イマーゴ)がない!」
※「電脳コイル」参照
才能(イマーゴ)を持たない彼等は芸術性を「スプラッター映画」と「エロゲーム」(恋愛ゲーム)まで堕落させ再定義し自己肯定する。
そうやって宮崎駿の最悪の後継者が誕生するだろう。
しかしそれはカトリックロゴス信仰の後継者ではない。
才能(イマーゴ)を持たないガラクタです。
宮崎吾朗は宮崎駿の息子としてスタジオジブリ関連の事業に於いて今のところ確固たる地位を築いているらしい。
しかし宮崎吾朗もアニメ作家というより息子という社会的地位(倒錯偶像)でしかないのです。
そのようにして「サブカルチャー」は「超カルチャー」として現代日本に君臨しています。
現代日本社会では「超カルチャー」(サブカルチャー)が「カルチャー」に対して優位とされています。
それは狂気のネオ・ナチズムの蛮行と同じです。
ネオ・ナチズムはカルチャーを抹殺するために「良書」を焼き払い、そして「信仰の民|ユダヤ人」を大虐殺しました。
このようなネオ・ナチズムの「焚書坑儒」はあまりにも有名です。
カトリック信仰に敵対することで存在する「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様が出現することを賛美している有り様なのです。
悪意の作品
Diabolism(釈迦如来信仰の救済求道精神作品)だった「ゴジラ」(円谷英二)はSatanic Parodyによって救済求道のないSatanic School(阿弥陀如来崇拝の異端教団作品)の「シン・ゴジラ」(庵野秀明)となった。
彼等ヲタクアートの作品制作は他者が制作した「Diabolism」(釈迦如来信仰の救済求道精神作品)が持つ救済への求道精神の逆説的表明を一々打ち消していくだけであった。
それは悪意のSatanic School(阿弥陀如来崇拝の異端教団)として存在する。
又、そういった悪意の作品は才能(イマーゴ)へ敵対する最悪の悪意さえあれば制作できます。
そういったヲタクアートの制作に才能(イマーゴ)は必要ありません。
ただ邪悪な人々だった。
浦沢直樹はキャラクターを自分で描いていところを「YOUTUBE」で公開しています。
その意味は何でしょうか?
彼は自分の作品のキャラクターがオリジナルであると盛んに主張している訳です。
でもそれは違っていた。
浦沢直樹のキャラクターは実は「唯一性のペルソナの確立」がない訳です。
それは「Masterキートン」に於いて「ジャン・レノ」が登場したシーンで明らかになりました。
それは明らかな形態模写でしかなく「カトリック信仰から形成されたオリジナル」ではなかった。
「三位一体のペルソナ」ではなかった訳です。
そこで浦沢直樹の正体がバレてしまった。
「Masterキートン」は浦沢直樹の作品ではなく「勝鹿北星」(きむら はじめ)の作品だった。
「シン・シリーズ」は善人面(ヲタク責任者)の悪意の作品群
そして庵野秀明監督作品「シン・シリーズ」はDiabolism(釈迦如来信仰の救済求道精神)への悪意のSatanic Parodyだった。
だから如何にアニメアートだと主張しても他者の持つ救済への求道精神の逆説的表明を打ち消す悪意のクリエーターに真のアニメアートとなる資格はなかった。
彼等はアニメアートを騙った特殊詐欺師だった。
そしてそういった新世代の概念は「前衛芸術の成立」(前衛詐欺)として理解し難いものとされている。
しかしそのような「前衛芸術の成立」(前衛詐欺)は古典的詐欺であって前衛詐欺と言えるものだった。
そしてそういった芸術は特効薬詐欺としてアベノミクスを実現する。
それは異端国家の特殊詐欺礼賛となっている。
結局はカトリック信仰を弾圧するヲタクアートはアベノミクスと同じカトリック信仰弾圧のSatanic Parodyであって救済求道精神のない末法思想へ向かう。
それは一言で評し「暗黒郷」(ディストピア)であるが具体的に何だろうか?
それはネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)への盲従であるだろう。
しかしイエス・キリスト(神の似姿)はこの様に言われている。
彼らは[盲人〔を導く〕]盲目の道案内どもだ。しかし、もし盲人が盲人の道案内をするなら、両者とも溝に落ち込んでしまうであろう
私にとって庵野秀明の「シン・シリーズ」は「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に」の鑑賞後発症したPTSD(posttraumatic stress disorder)により視聴困難だったため殆ど見ていない。
だから私はもう庵野秀明作品を生理的に観れません。
才能(イマーゴ)とはSatanic ParodyではなくDiabolism(釈迦如来信仰の救済求道精神)が内包する救済への求道精神の逆説的表明な訳です。
才能(イマーゴ)とは庵野秀明の悪意ではなく宮崎駿の善意です。
それは作品を観れば明らかです。
「俗であれ!しかし悪ではならぬ!」が「最低限の倫理観」です。
それは宮崎駿の善意であり「天使の両翼」です。
そしてそれが才能(イマーゴ)なのです。
「ヲタク善人の面子」(ヲタ芸責任者)は豊臣秀吉であり「猿」の正体だった
庵野秀明は安野モヨコとおしどり夫婦を演じ「ヲタク善人の面子」(ヲタ芸責任者)と言った奇妙なキャラクターの社会的面子(倒錯偶像)を付けています。
しかし庵野秀明の作品は救済への求道精神の逆説的表明を打ち消す悪意の賜物であり、そのような彼の持つ「ヲタク善人の面子」(ヲタ芸責任者)の社会的面子(倒錯偶像)は偽善(俗と悪)でしかありません。
庵野秀明は実際かなり「たちが悪い」と思います。
自分の行為の責任転嫁を「最大の悪意」を持って行う「悪魔の所業」が「たちが悪い」と言うことを示しています。
「ヲタク善人の面子」(ヲタ芸責任者)を造って責任転嫁をしてくることは社会的詐術(倒錯偶像)の常套手段です。
これは古典的手法です。
庵野秀明は「新世紀エヴァンゲリオン」等で犯した罪の責任転嫁のための「ヲタク善人の面子」(ヲタ芸責任者)を社会的地位(倒錯偶像)として形成している。
庵野秀明が狙う責任転嫁の犯行準備は万端となったと言えるでしょう。
庵野秀明による責任転嫁はきっと起こる。
ただそれが成功するかどうかは黙示録(revelation)に掛かっている。
才能(イマーゴ)が無いことが無知無教養な阿呆を示し、それが「救いようのないペテン師」を示すと暴露された時点で、「最悪の劣等」が存在証明されたと見做される。
その時、真逆にも豊臣秀吉の様な「猿」の方が祀り上がりカトリックへ一々敵対するカルトを形成したのです。
それが「ルシファー」(明けの明星)です。
ネオ・ナチズムも「ルシファー」(明けの明星)と同じであった。
豊臣秀吉はネオ・ナチズムであって「ルシファー」(明けの明星)でした。
カトリック信仰に敵対することで存在する「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様を出現させるた訳です。
「明けの明星」(豊臣秀吉)は「太陽の子」(日ノ本)となった訳です。
皆さん気をつけた方がいいです。
※宮崎駿最新作「君たちはどう生きるか」はDiabolism(釈迦如来信仰の救済求道精神)の作品です。
※萩尾望都「トーマの心臓」はDiabolism(釈迦如来信仰の救済求道精神)であり「神の死んだ」世界における「天上世界」への求道精神の逆説的表明であった。(1989/12/18の事件はそういったDiabolism(釈迦如来信仰の救済求道精神)の内包する「殉愛|純愛」だったと私は思う。)
※萩尾望都が「トーマの心臓」の後に描いた受賞作品「ポーの一族」はエドガー・アラン・ポーの名前をそれぞれ持った登場人物となっていてDiabolism(釈迦如来信仰の救済求道精神)を暗示しています。(私は拓殖大学八王子キャンパス購買部で行われた古本即売会で「ポオ全集(谷崎精二翻訳)」を購入し完読しました。)
「ヤンキー精神(倒錯感覚)」の「美」は「阿弥陀如来崇拝の理想偶像(倒錯偶像)」(ルシファー)だった
庵野秀明を祀り上げているヲタク新世代主義はカトリックの撃墜を狙った「ヤンキー精神(倒錯感覚)」だった。
ただ日本の「ヤンキー暴走族」は私にとって謎の存在です。
私はそのような「ヤンキー精神(倒錯感覚)」と馬が合わなかった。
だから「ヤンキー精神(倒錯感覚)」(ヲタク)から因縁を付けられることがあっても影響は受けなかった。
日本のエリートがカトリックではないと言う異常性の謎はエコノミックアニマルにあったと言えます。
それはカトリック信仰ではなく特殊詐欺礼賛の日本産業経済界にあった。
その為に日本カトリック信仰は激しい弾圧にあっている訳なのです。
インチキ日本経済だった訳です。
しかしカトリック信仰の教えは「聖書」(黙示録)にある。
だから現実世界はカトリックの下に降ってある筈なのです。
日本産業経済界も例外なくカトリックの下に降らなければなりません。
いつまでも異端教徒として振る舞っていてはカトリック世界の中の嫌われ者となるしかないでしょう。
それはいつか来る神罰を予感させます。
日本国家は「カトリック国家」から差別されているのではなくカトリック信仰を弾圧している異端国家なのです。
異端国家が「カトリック国家」から嫌われるのは当然です。
だから日本国家が弱体化した真の要因と言えば、いつまでもカトリックの下へ降らず異端国家を当然として振る舞っていた傲慢さからでしょう。
そのような異端国家は神罰を受けたとしても一体誰が同情してくれますか?
少なくとも「カトリック国家」は異端国家を真に救済できるでしょうか?
何故なら救済求道精神とは異端国家をカトリック信仰へ導くことだからです。
そういう意味で現在の日本国家は「異端国家」であり「堕落国家」でしかない。
そのような日本国家は「カトリック国家」となることでしか救済されません。
日本が「美しい国」というのは「カトリック国家」ではなく異端国家の詐術の証だった。
「美」とは何でしょうか?
末法思想の一向宗
カトリック信仰を信仰弾圧する異端国家に「神の似姿」はなかった。
異端国家の「美」は水玉模様(草間彌生)なのでしょう。
そして綾波レイです。
綾波レイや惣流・アスカ・ラングレイは実際の中学生を参考に形態描写された産物でありペルソナはない。
彼女らはロリータ・コンプレックスの性的商品だった訳です。
庵野秀明達は若い女を売春宿で働かせて金儲けをしていたに過ぎなかった。
ガイナックスもスタジオカラーもロリコン売春宿のようなものでしょう。
フィリピンで働かされている少女売春です。
私は庵野秀明の感覚を分析してみました。
彼等はアニメを性的商品にして金儲けをしただけだろうと思いました。
ディストピアの売春宿です。
庵野秀明とはネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)を盲信する奴隷状態の賛美です。
そういう意味で新海誠の「嘘のない言葉」も同様です。
まさに一向宗です。
織田信長はそのような一向宗を滅ぼしカトリック信仰による救済求道精神を目指したのだと思います。
※毎日新聞社の経営危機は特殊詐欺礼賛の日本産業経済界で起こったカトリック信仰の悲劇だったと言える訳です。(異端国家の中で起こったカトリック信仰の悲劇とも言えます。)
「トーマの心臓」譚
マンション屋上から飛び降り 船橋・女子中生自殺
バッハ「G線上のアリア」の選曲理由はイマーゴ(神の似姿)を貶めることによる「前衛芸術の成立」(前衛詐欺)の詐術でした
庵野秀明達は「聖書」の「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」へ一々敵対することで作品(Satanic Parody)を作って行った。
それはSatanic Parody制作と言える訳です。
だからバッハ「G線上のアリア」は最も最悪なシーンで使用された。
はっきり言えば庵野秀明達はこの映画で最悪の醜悪を制作した。
彼等には全くイマーゴ(神の似姿)がなかった。
イマーゴ(神の似姿)を貶めることを「前衛芸術の成立」(前衛詐欺)とした訳です。
それは「ヲタクアートの旗手|村上隆」と同様です。
私はこの作品を観てPTSD(posttraumatic stress disorder)となりました。
坂本龍一達の「イエロー・マジック・オーケストラ」は「ブラック・マジック・オーケストラ」(人工林の植樹)だった
当初から解っているように坂本龍一の「メロディ」(Satanic Parody制作)に「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」が全くありませんでした。
坂本龍一も庵野秀明達と全く同様に「アリア」(黙示録)へ一々敵対する「メロディ」(Satanic Parody)を制作した訳です。
それらも又、最も下劣なSatanic Parody制作だった訳なのです。
坂本龍一の様にカトリック信仰へ一々敵対することを楽曲のコンセプトとした存在が「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を持っている訳がないのは明らかでした。
そこで坂本龍一は時間的経過(技術革新)の楽曲定義を放棄しなければならない段階になってクラシック音楽へ回帰しているようなイメージ操作を行いました。
それは当然の屁理屈バレだったからです。
屁理屈とは「ドクサ」を「絶対知(特権知)」とする「ブラック・マジック・オーケストラ」(イエロー・マジック・オーケストラ)なのです。
坂本龍一は自らの楽曲のピアノ・ソロ及びオーケストラ指揮を「前衛芸術の成立」(前衛詐欺)として提示した訳です。
それは末法思想の中で光り輝く音声を前衛音楽だとする立ち位置でありそれを坂本龍一の楽曲として提示している。
そのようにして坂本龍一はカリスマの立ち位置を維持し続けている。
しかしそもそも前衛音楽とは「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を持つことで成立する筈です。
そうなると坂本龍一の楽曲は「阿弥陀如来崇拝の理想偶像(倒錯偶像)」(ルシファー)の立ち位置を主張するだけであって「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を持っていなかった。
それ故に坂本龍一の楽曲を「前衛音楽の成立」とは見做すことは出来ないのです。
だから坂本龍一とは前衛音楽を立ち位置を形成する人間関係により社会的地位(倒錯偶像)として成立させてしまった音声犯罪者と言える。
ただ立ち位置を形成する人間関係とは「前衛音楽の成立」を可能とするカトリックロゴス感覚に対してのコンプレックスとしてなされる。
坂本龍一の「前衛芸術の成立」(前衛詐欺)はコンプレックスとしてなされる。
カトリック信仰に敵対することで存在する「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いてコンプレックスを異端の神様として出現させた。
そういう意味で坂本龍一とはコンプレックスの塊だったのです。
そしてそれを「前衛芸術の成立」(前衛詐欺)として主張する。
それは完全な詐欺だったのです。
坂本龍一は完全犯罪を目指したのです。
浦沢直樹と坂本龍一が評価された「前衛芸術の成立」(前衛詐欺)とは「本物」への「コンプレックス」だった
例えば浦沢直樹の漫画キャラクターの特徴を言わせて貰うと「美人画」と「コンプレックス」の二分化で評せます。
「美人画」の漫画キャラクターは「雑誌モデルの写真」(アイドル写真)をコミカライズしただけであって、それ以外の漫画キャラクターは「コンプレックス」を「前衛芸術の成立」(前衛詐欺)とした凡庸なデザインであり詐術でしかなかった。
「美人画」の漫画キャラクターで言えば「YAWARA!」、「コンプレックス」の漫画キャラクターで言えば「20世紀少年」だったりする。
そして「PLUTO」は末法思想に於ける「阿弥陀如来崇拝の理想偶像(倒錯偶像)」(ルシファー)だった。
要は才能(神の似姿)に対するコンプレックスを「前衛芸術の成立」(前衛詐欺)とした訳です。
しかしそこにイマーゴ(神の似姿)はなく「芸術の成立」はなかった。
ただ浦沢直樹は数々の高名な漫画賞を受賞している。
知っての通り坂本龍一もアカデミー賞とグラミー賞を受賞した世界的音楽家とされている。
しかしこの数々の高名な賞を受賞した両名の手法は非常に近しく共通している。
それは「前衛芸術の成立」(前衛詐欺)で数々の高名な賞を受賞した在り方です。
しかしそれは才能(イマーゴ)を持たない人間のコンプレックスでしかなかった。
これはネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)の「バフォメットの偶像崇拝」だったと言えるのです。
では高名な賞とは一体なんだろうか?
例えば芥川賞や直木賞はどうだろうか?
これらは「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を持った「前衛芸術の成立」(前衛詐欺)ではない。
本物に対するコンプレックスを「前衛芸術の成立」(前衛詐欺)としただけの「偽物」であって特殊詐欺でしかなかった。
しかし幾らイメージ操作で「本物」に見せたとしても坂本龍一楽曲がポピュリズム音声(扇動音声)であることに変わりはありませんでした。
坂本龍一楽曲はポピュラー音楽ではなかった。
それは「偽物」であった。
それは「ホワイト・マジック・オーケストラ」(自然林の回復)ではなかった訳です。
しかしそれを覆すために坂本龍一は環境問題や社会運動へ得意げに格好良く参加して見せました。
それが「ホワイト・マジック・オーケストラ」(自然林の回復)に見えるからです。
坂本龍一はそのような善行(責任)の「何かやった感!|何もなかった感!」によってプラセボを形成し「ホワイト・マジック・オーケストラ」(自然林の回復)としました。
しかしそれは偽物であり特殊詐欺でしかなかった。
村上春樹の求道的マラソンも同様な「何かやった感!|何もなかった感!」によるプラセボの形成だった。
それは「ホワイト・マジック・オーケストラ」(自然林の回復)を装うイメージ操作の形成だった。
彼等は「霊感商法」の「偽善者」(俗と悪)だった訳です。
それはカトリック信仰に敵対することで存在する「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様を出現させる詐欺手法だった。
「ヤンキー精神(倒錯感覚)」による「神宮外苑の森林伐採問題」
最近有名になった環境問題がありました。
その一つが「神宮外苑の森林伐採問題」です。
これは「ホワイト・マジック・オーケストラ」(自然林の回復)でしょうか?
坂本龍一教授は環境問題で「ホワイト・マジック・オーケストラ」(自然林の回復)を装うイメージ操作をした訳です。
村上春樹も同様です。
私の感想を言わせて頂くと「神宮外苑の森林伐採問題」は「自然林」の問題ではなかったということなのです。
「神宮外苑の森林」とは明治維新後に植樹された「人工林」でしかありません。
ここに見られるように坂本龍一教授は「聖書の一節」へ「ヤンキー精神(倒錯感覚)」を持って敵対したと考えられます。
それはこの「聖書の一節」です。
この一節によってみると明治維新後に植樹された人工林に関する「明治神宮外苑」の森林伐採はおかしな行為とは言えないのです。
何故なら「人工林は根こそぎにされて然るべし」だからです。
坂本龍一教授の狙いはここにあったのです。
この「聖書の一節」へ敵対し「ヤンキー精神(倒錯感覚)」を持って挑んだということです。
坂本龍一がアンチキリストである決定的な証拠です。
まー、「戦場のメリークリスマス」も似たような構造です。
そしてイマーゴ(神の似姿)へ敵対する「ヤンキー精神(倒錯感覚)」が坂本龍一教授の芸術だった。
それは「病的なコンプレックス」からの「パラノイア発症(倒錯感覚アーリア)」の全肯定だった。
「八百長」だった。
それが「バフォメットの偶像崇拝」です。
「ホワイト・マジック・オーケストラ」(自然林の回復)を装った「ブラック・マジック・オーケストラ」(人工林の植樹)なのです。
それが彼の「イエロー・マジック・オーケストラ」の正体だった。
坂本龍一教授とは「親切ごかし」で嫌らしい男なのです。
又、明治政府の要人賛美が坂本龍一の意図かもしれません。
何故なら天皇家は古来より京都の御所にお住まいで居られました。
それを東京へ強引に移したのが明治政府設立の倒幕派だったからです。
この「神宮外苑の森林伐採問題」は明治天皇陛下への不敬問題でもなく、明治政府要人賛美を目的としただけの「ブラック・マジック・オーケストラ」(人工林の植樹)に見えます。
地震後に熊本城の美しさを讃えていた村上春樹も同様に「ブラック・マジック・オーケストラ」(人工林の植樹)でしょう。
それも「人工林」と同じ構図です。
「聖書の一節」へ「ヤンキー精神(倒錯感覚)」で挑んでいる。
敵対者であるのです。
サタンです。
彼等は芸術家ではなく「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」へ敵対したアンチキリストであった。
そして「バフォメットの異端教団」の構成員だった。
カトリックロゴス信仰のキリストは「ホワイト・マジック・オーケストラ」(自然林の回復)だからアンチキリストの「ブラック・マジック・オーケストラ」(人工林の植樹)から狙い撃ちに遭います。
当初、私には坂本龍一が何故そこまで「神宮外苑の森林伐採問題」に拘っているのか理解できなかった。
高級住宅街の「住環境」がそんなに大事なのでしょうか?
不思議だった。
明治天皇陛下への不敬罪ですか?
どうもそうでもないらしい。
何故ならば場所が「神宮外苑」だからです。
これは完全に明治政府設立の倒幕派賛美を意図している。
「homage」(忠誠誓約)なのです。
これがカトリック信仰に敵対することで存在する「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様を出現させる詐欺手法でした。
だから坂本龍一教授は詐欺師だった訳です。
それが「ホワイト・マジック・オーケストラ」(自然林の回復)である訳がないと私は思いました。
ここで指摘したいことは明治政府設立の倒幕派賛美は「ホワイト・マジック・オーケストラ」(自然林の回復)と「ブラック・マジック・オーケストラ」(人工林の植樹)のどちらだろうかという疑問です。
それとも「イエロー・マジック・オーケストラ」でしょうか?
結局、明治維新には「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」がないという歴史的事実がこの「坂本龍一事件」にとって大きかったらしい。
明治維新に「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」がないなら「明治維新の要人」(倒幕派)は「明けの明星」(ルシファー)であった訳です。
それは偽物という訳です。
カトリック信仰に敵対することで存在する「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様を出現させる異端教団だった。
それは末法思想に於ける「阿弥陀如来崇拝の理想偶像(倒錯偶像)」(ルシファー)だった。
要は特殊詐欺だった訳です。
結局は「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰を持ったカリスマ」と「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰へ一々敵対したカリスマ」の在り方が基本的な人物評価となりえる。
その人を見て「才能」(イマーゴ)があるか?
そこが問われる。
あなたは本物を見出さなければならない。
坂本龍一の場合には大きなインチキがあった。
彼の場合には「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を装った屁理屈を「前衛音楽の成立」とした。
しかし当然に「ドクサ」を「絶対知(特権知)」とするカルトを形成するのが屁理屈であり、坂本龍一はカトリックロゴス感覚へ一々敵対する典型的な異端教団のカルト教祖だった。
要は天才ピカソと同様に幼少時から音楽教育(絵画教育)を受けた坂本龍一にはユング心理学のイマーゴ(人の理想偶像)があったらしい。
しかし彼には音楽的才能(イマーゴ)がなかった故に「前衛音楽の成立」をコンプレックスとした。
ただこれは明らかな詐術だった。
前衛音楽とは「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を持った音声制作であったからです。
ではコンプレックスとは一体何でしょうか?
それは何に対するコンプレックスであるかを問えば明確なのです。
「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰を可能とする才能(イマーゴ)」に対するコンプレックスだった訳です。
それは「フロイト精神分析学」に対する「ユング心理学」の強烈なコンプレックスとなっている。
「フロイト精神分析学」はイマーゴ(神の似姿)に対する「hommage」(尊敬)だった。
要はフロイトの才能(イマーゴ)に対しユングは強烈なコンプレックスを持った訳です。
それは本物に対する偽物のコンプレックスです。
「天使の両翼」に対するコンプレックスとは強烈な嫉妬となる。
それは才能(イマーゴ)に対する強烈なコンプレックスであり強烈な嫉妬となった。
坂本龍一は「アカデミー賞」や「グラミー賞」を受賞したらしいけれど、そういった「詐術」がバレてしまえば「凡庸なヲタク」に過ぎなかったことが明確になってしまいます。
それは彼が才能(イマーゴ)を持たない有名人程度の存在だったことの証明となります。
イマーゴ(神の似姿)を貶め「自らの似姿」をイマーゴとして宣伝し扇動する。
それが「坂本龍一教授のフォト」であり「阿弥陀如来崇拝の理想偶像(倒錯偶像)」(ルシファー)だった。
そして「オタキング岡田斗司夫の偶像崇拝」も同様です。
そういう意味でネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)とは「凡庸なヲタク集団」だった訳です。
「神の恵」は「イマーゴ(神の似姿)を持った才能」を言います
坂本龍一は最後までアンチカトリックであり最後までアンチキリストであった訳なのです。
どういうことかと言うとカトリックロゴスへ一々敵対する破廉恥男が坂本龍一の正体だった。
彼の死ぬ直前も、彼の死後も・・・
坂本龍一は死して尚欺き続けるつもりだった訳なのです。
カトリック信仰への彼の強烈な憎悪は彼のコンプレックスから来ている。
坂本龍一がいくら博学と勉強家を装ってもバカはバカだった訳です。
坂本龍一は「低脳な猿」(茶番劇)だったという訳なのです。
彼にとってそれがよっぽどコンプレックスだったのでしょう。
だから坂本龍一は最後に諸葛亮孔明となって天命すら欺こうとした。
「猿知恵(茶番劇)の策」によって行われた孔明(坂本龍一)の数々の有名な茶番劇は彼の命運を指し示している。
「死せる孔明、生ける仲達を走らす」等の「孔明の策」は猿知恵(茶番劇)だったからです。
そして「三国志演義」を読んでみるとカトリックロゴス信仰を持っていたのは関羽雲長であったことが明確となっています。
関羽雲長はイマーゴ(神の似姿)であり「天使の両翼」を持った「龍」とされたのです。
「龍」とは「皇帝」を示していると言われています。
「善政」は関羽雲長によって執り行われたのでしょう。
それが関羽廟(カトリックロゴス信仰)の存在理由です。
坂本龍一は死後に孔明廟(茶番劇)にはなれるかもしれません。
しかし坂本龍一は死後に関羽廟(カトリックロゴス信仰)には絶対になれないでしょう。
「騙し抜く前衛芸術家」(倒錯者のアーリア社会主義)は「末法思想的芸術家」だった訳です。
そして坂本龍一は何故かエリートで何故か指導者だと強行に主張している。
ご覧の通り坂本龍一はネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)だった訳です。
それが「明けの明星」(ルシファー)だった。
そしてそれは末法思想に於ける「阿弥陀如来崇拝の理想偶像(倒錯偶像)」(ルシファー)だった。
それはカトリック信仰に敵対することで存在する「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様が出現することを示している。
坂本龍一は「神の子」ではなかった。
彼に「神の恵」はなかった。
「神の恵」は「イマーゴ(神の似姿)を持った才能」を言います。
それは「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」より受肉する「天使の両翼」なのです。
坂本龍一は「明けの明星」(ルシファー)だった。
彼は「最も穢らわしい人物」だったと言える。
何故なら坂本龍一は「ブラック・マジック・オーケストラ」(人工林の植樹)だったからです。
彼等の「イエロー・マジック・オーケストラ」の正体とは「ブラック・マジック・オーケストラ」(人工林の植樹)だった訳なのです。
そして彼の完全犯罪の行方は・・・
僕は告発したよ!
宮崎駿の「ホワイト・マジック・オーケストラ」(自然林の回復)
例えば宮崎駿の環境問題への参加があります。
それは自然林に関するものでした。
そういった活動は「聖書」を暗示させます。
それによって宮崎駿の環境問題はカトリック信仰であると言える訳です。
宮崎駿は「ホワイト・マジック・オーケストラ」(自然林の回復)と言える。
「天の私の父が植えられたのではない植物はすべて、根こそぎにされるであろう。」
宮崎駿のカトリックアニメとスタジオジブリの違いは名称に表れている
坂本龍一の「屁理屈」は「ドクサ」を「絶対知(特権知)」とする「ブラック・マジック・オーケストラ」(人工林の植樹)であり「毒薬」でした
私には坂本龍一がポピュリズム音声(扇動音声)の「メロディ」(Satanic Parody制作)をハウツーで作曲している様に見えました。
ここで言えることはジョン・レノンはポピュラー音楽だった。
そしてジョン・レノンは「アリア」(黙示録)だった。
何故ならば「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を持った音声が「アリア」(黙示録)とされるからです。
「アリア」(黙示録)はポピュラー音楽です。
だからそれは「善き羊飼い」の「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を持った「ホワイト・マジック・オーケストラ」(自然林の回復)と言えた訳です。
しかし坂本龍一はポピュリズム音声(扇動音声)だった。
それは「アリア」(黙示録)以前の原始的音声に過ぎなかった。
だから坂本龍一はテクノポップで先進的音声(技術革新)を音楽と定義していた。
そして晩年にクラシック楽器(技術革新)の演奏を最高峰の音楽として再定義した。
坂本龍一は自ら下手なピアノを独奏しクラシックオーケストラで大袈裟に演奏してみせた訳です。
それは「何かやった感!|何もなかった感!」によってプラセボを形成し、同時に又音楽の定義を先進的音声(技術革新)から古典的音声(技術革新)ヘイメージ操作で路線変更して見せただけでした。
このように坂本龍一楽曲はどうやっても「アリア」(黙示録)を否定し自らの「メロディ」を肯定した。
それは今どきの言葉で「自己肯定感」とでも言うのでしょう。
ポピュラー音楽の「アリア」(黙示録)には「天使の両翼」を受肉させる「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」が存在している。
それは「ホワイト・マジック・オーケストラ」(自然林の回復)です。
それは白魔術師と言えます。
坂本龍一はネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)であった。
坂本龍一は他者の「天使の両翼」をもぎ取り、そして他者を盲人として服従させるのです。
坂本龍一にあったのはカトリックロゴス信仰に対し自らを誇るコンプレックスであり、他者を救済する求道はなかった訳なのです。
これは典型的にカトリック信仰に敵対することで存在する「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様を出現させる詐欺手法でした。
※こういう「ヤンキータイプ(倒錯感覚)」が医師になったら最悪です。
そういう坂本龍一とはネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)への盲従を賛美する「バフォメットの異端教団」(明けの明星)であり「ブラック・マジック・オーケストラ」(人工林の植樹)を司どった「魔女|魔術師」だった。
それは黒魔術師と言えます。
この決定的違いが大き過ぎる訳です。
坂本龍一等の「イエロー・マジック・オーケストラ」は完全な「屁理屈」だった。
それはSatanic Parody制作によった「ブラック・マジック・オーケストラ」(人工林の植樹)な訳です。
そのような「屁理屈」は「ドクサ」を「絶対知(特権知)」とする「毒薬」だった訳です。
「ブラック・マジック・オーケストラ」(人工林の植樹)は「毒薬」でした。
ポピュラー音楽は「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を持っています。
カトリック信仰であり「聖歌」と言えます。
それはMUSIC(聖なる音楽)の成立なのです。
ポピュリズム音声(扇動音声)は「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」へ一々敵対し「扇動|動員」のキャンペーン(宣伝活動)を行っている。
当初、坂本龍一等が結成していた「YMO」は「イエロー・マジック・オーケストラ」であり「屁理屈」の「ブラック・マジック・オーケストラ」(人工林の植樹)だった訳です。
それは「ドクサ」を「絶対知(特権知)」とする「毒薬」でした。
彼等は様々なキャンペーン(宣伝活動)による賜物だった訳です。
坂本龍一が作曲した「CM曲」は実際かなり多くあります。
「CM曲」はキャンペーン(宣伝活動)の要です。
坂本龍一は東京藝術大学でポピュリズム音声(扇動音声)の「メロディ作曲」(Satanic Parody制作)を学びました。
それを教えた有名な「師匠」が誰だったかいたらしいのです。
その「師匠」はポピュリズム音声(扇動音声)の「技術」を知っていたということです。
坂本龍一のポピュリズム音声(扇動音声)の「メロディ」(Satanic Parody制作)とはそういう意味でキャンペーン(宣伝活動)の「嵌め手」な訳です。
これはMUSIC(聖なる音楽)の成立へ一々敵対することで形成されたポピュリズム音声(扇動音声)の「メロディ」(Satanic Parody制作)と言えます。
そしてポピュリズム音声(扇動音声)の「メロディ」(Satanic Parody制作)は「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」へ一々総攻撃を仕掛けるキャンペーン(宣伝活動)を張っていきます。
この意味はポピュリズム音声(扇動音声)の「メロディ」(Satanic Parody制作)の正体が極右の「軍歌」であったという「悲しい現実」を示しています。
坂本龍一「戦場のメリークリスマス」とはポピュリズム音声(扇動音声)の「軍歌」だった訳です。
そして大島渚監督作品「戦場のメリークリスマス」は「メリークリスマス」を「阿弥陀如来崇拝の理想偶像(倒錯偶像)」(ルシファー)として扱いました。
何故なら「メリークリスマス」が示す「イエス・キリスト(神の似姿)の誕生」を冒涜するためです。
それは最悪の冒涜だった。
彼等はイエス・キリスト(神の似姿)の誕生へSatanic Parodyを仕掛け大冒涜した訳です。
この映画は下品な冒涜映画であり最悪のクズ映画だった訳です。
まさにカトリック信仰に敵対することで存在する「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様を出現させる詐欺手法だった。
坂本龍一のキャンペーン(宣伝活動)に「癒やし」なんてある訳がなかった。
坂本龍一楽曲の「癒やし」の「嵌め手」は「ブラック・マジック・オーケストラ」(人工林の植樹)です。
Diabolism(釈迦如来信仰の救済求道精神)が内包する「天上世界」への求道精神の逆説的表明をSatanic Parodyで一々打ち消していく訳です。
その救済求道精神を打ち消された暗黒郷に坂本龍一は「癒やし」を提供する。
しかしそれは「救済求道精神」ではなかった。
その「癒やし」の正体は「霊感商品」によるプラセボだった。
救済求道精神を打消しディストピアへ陥れるSatanic School(阿弥陀如来崇拝の異端教団)であった訳です。
彼等は「霊感商法」だった。
極右のヴィム・ヴェンダース
そういう意味でヴィム・ヴェンダース監督作品も同様のSatanic School(阿弥陀如来崇拝の異端教団)で可能となった「霊感商法」です。
役所広司主演作品「PERFECT DAYS」もDiabolism(釈迦如来信仰の救済求道精神)を否定したSatanic School(阿弥陀如来崇拝の異端教団)で可能となった「霊感商法」でありネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)の扇動な訳です。
それはネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)のドイツ人ヴィム・ヴェンダースを祀り上げる極右活動だった。
それは「神の右側、ことばの始まり」ヘのSatanic Parodyを形成する極右思想だった訳です。
ハーケンクロイツ(逆鍵十字)はそれを示しています。
ヴィム・ヴェンダースにはその烙印が何処かに捺されている。
狂気のネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)がヴィム・ヴェンダース監督の正体だった訳です。
カトリック信仰に敵対することで存在する「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様を出現させる詐欺手法だった。
「ハイル・ヒトラー」のヴィム・ヴェンダースです。
「神の右側、ことばの始まり」
「ホワイト・マジック・オーケストラ」(自然林の回復)について
真の「癒やし」とは「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」によって可能となる治療です。
それは「天上世界」への求道精神の逆説的表明を形成する「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」です。
Diabolism(釈迦如来信仰の救済求道精神)とは真の「救済求道精神」がある訳です。
このようなカトリック信仰の「癒やし」は「ホワイト・マジック・オーケストラ」(自然林の回復)なのです。
ネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)
救済求道精神のない世界で自らの偶像を誇らしげに示す坂本龍一教授のフォトはまるで金色に輝いた「阿弥陀如来崇拝の理想偶像(倒錯偶像)」(ルシファー)です。
一向宗のあり方を想起させます。
ネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)への盲従によった奴隷化の賛美でした。
坂本龍一の宣伝活動は「阿弥陀如来崇拝の理想偶像(倒錯偶像)」(ルシファー)だった。
そして末法思想の一向宗だった。
「屁理屈」を「理性的パフォーマンス」とする
これは国立千葉大学医学部附属病院精神神経科医師と同じであった。
彼等医師は金色に輝いた「阿弥陀如来崇拝の理想偶像(倒錯偶像)」(ルシファー)として患者に対し君臨している訳です。
これはインフォームド・コンセントを医師が拒否したことから証明されます。
それは医師へ盲従する奴隷化の賛美だけが彼等の為す治療であり、患者を救済求道する精神を毛頭持っていない鬼畜医師の真の姿でした。
インフォームド・コンセントを否定するSatanic Parodyによって形成された閉塞空間(ディストピア)に金色に輝いた「精神薬理学」が出現する。
その実態は先程指摘したようにインフォームド・コンセントの否定によって患者は知ることが出来ない。
しかし医学文献で調べてみるとどうやら「精神薬理学」は「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を持っていないらしいのです。
最重要の「脳内物質説」にしても仮説でしかなかった。
要は一部の「脳内物質」の発見が確認されたという事実から全てをそれで根拠付けてしまった。
「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」ではなく「ゴッドハンドによって根拠付ける崇拝」を行っていたのでした。
それは「ドクサ」であり「絶対知」であり「パラノイア発症(倒錯感覚アーリア)」であった。
ここで言えることは「脳内物質」のあり方への「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を持たないならば「精神病理学」として成立しない訳です。
要は「理性的パフォーマンス」とは言えない訳です。
「脳内物質」の発見と存在を医師が幾ら強調してもそこに「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を持てないならば「病理学」として成立はしないのです。
それは完全な「カルト医術」であるからです。
「カルト医術」とは「パラノイア発症(倒錯感覚アーリア)」を「理性的パフォーマンス」とする「バフォメット」なのです。
彼等医師の診断は「ドクサ」を「絶対知(特権知)」とする「屁理屈」によっています。
彼等医師は「屁理屈」を「理性的パフォーマンス」としている訳なのです。
「特殊詐欺師」と同じですね。
それは「ドクサ」を「絶対知(特権知)」とする「毒薬」でした。
危険な病理学なのです。
彼等のカルト医術は「毒薬」となって人を貶めます。
それを国立大学と言うアンチカトリックが支えているのです。
国立大学カルトは日本に於いて超強力なのです。
その示すところは「精神薬理学」が金色に輝いた「阿弥陀如来崇拝の理想偶像(倒錯偶像)」(ルシファー)であるということなのです。
「精神薬理学」は「何かやった感!|何もなかった感!」によって起こるプラセボの形成であった。
その実態は「霊感商法」と同じであった訳です。
彼等医師が「屁理屈」を「理性的パフォーマンス」としている「霊感商法」とは「カルト医術」の正体であった訳です。
医師はネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)であった訳なのです。
それはカトリック信仰に敵対することで存在する「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様を出現させる詐欺手法だった。
「医師のゴッドハンド」と「ハロウィンパーティー」
「最高善の神」へ宣誓しない医師は全てを自らの虚偽(嘘)で覆してしまいます。
それは医師の「何でもあり」を示しています。
医師は全てを虚偽(嘘)で覆すゴッドハンドを持っている訳です。
ゴッドハンドとは「ドクサ」を「絶対知(特権知)」とする「毒薬」でした。
医師のゴッドハンドを虚偽(嘘)だと証明できるのは「最高善の神」でしかないでしょう。
だから「最高善の神」に背いた医師へ審判が下り神罰を彼等へ齎すかもしれません。
しかし以前、毎日新聞のスクープがありました。
ゴッドハンドと呼ばれた考古学者が発掘中に遺跡を露骨に捏造している現場を毎日新聞の記者がカメラで撮影したのです。
それは偶然ではなく狙った撮影でした。
以前からゴッドハンドを怪しいと感じていた毎日新聞が狙っていた訳です。
この捏造事件はショッキングであり影響も大きく大変な話題となりました。
しかし実は私も怪しいと思っていました。
後出しジャンケンではなく「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」で見ていくと怪しいと直観できるのです。
当初話題となっていたゴッドハンドによった遺跡発見は日本の歴史を「超国家像」として提示するものとなり国家発揚に大きく貢献する歴史的発見となっていました。
しかし歴史的発見に必要な「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」の否定が透けて見えていた。
ゴッドハンドによる発見が「超国家像」を根拠付けていいる。
しかしそこに「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」は全く無い。
それは「ゴッドハンドによって根拠付ける崇拝」を示していました。
そういった「盲目的崇拝」は「ドクサ」であり「絶対知」であって「パラノイア発症(倒錯感覚アーリア)」でした。
それが如何に考古学的大発見だと宣伝されていても「理性的パフォーマンス」には見えなかった訳です。
だから私はこの大発見に大きな違和感が感じていました。
それはどうあってもありえない事実に思えたのです。
そのようなカトリックロゴス感覚を否定したドクサによってネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)が発揚され「超国家像」を形成していたのです。
それは当時NHK放送の武田真一アナウンサーの出演番組で放送されていました。
しかしそれはどう見てもドクサによるネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)でした。
そして武田真一アナウンサーはどうみても愚者にしか見えなかった。
案の定、毎日新聞のスクープが「善き羊飼い」(ホワイト・マジック・オーケストラ)となりました。
その後のNHK放送番組での武田真一アナウンサーの醜態は非常に酷いものでした。
彼は悪い意味の愚者でした。
ただ疑問なのは毎日新聞以外のマス・コミュニケーションは一体何をしていたのでしょうか?
NHK放送だってそうです!
寝惚けていたのですか?
遺跡捏造発覚によってそれまで正統とされて来た日本考古学は大きく書き変わることになりました。
しかしそれは後退ではなく正常へ舞い戻ったと言えます。
それはそれで良かったのです。
それこそ「神の意志」です。
毎日新聞は「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を信仰する日本マス・コミュニケーションの最高峰です。
だから毎日新聞のスクープになった訳です。
NHK放送がスクープをする訳がありません。
ここでも如何にカトリックロゴス感覚が大切であるか理解されます。
インチキの歴史観を持った国家は国家の体を為していないと見做されます。
捏造した歴史で「超国家像」を主張する様では超サイヤ人とナメック星人の超能力を信じている漫画を読み過ぎたバカと同様なのです。
カトリック信仰に敵対することで存在する「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様を出現させる詐欺手法を賛美するのは「バフォメットの異端教団」です。
毎日新聞のカトリック信仰へゴッドハンドは降らなければなりません。
それがハロウィンパーティーなのです。
「超国家像」と「蛇行剣」
最近私がマークしている事件は「蛇行剣」の発見です。
何故なら日本を超国家像として提示する歴史的発見というあり方が国家発揚を目的とした捏造を予感させているからです。
ゴッドハンドと称して「ドクサ」を「絶対知(特権知)」とする「毒薬」を患者(視聴者)に飲ませていた訳です。
ここに見る蛇行剣の実物はよく出来ているように見えます。
しかし蛇行剣を捏造した可能性を大きく感じさせています。
要は遺跡発見で最も大事なのはゴッドハンドではなく「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」だからです。
この蛇行剣発見もゴッドハンドであって「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」とはなっていない。
これは致命的な欠陥なのです。
又、一騒動ゴッドハンド事件があるかもしれません。
日本の特殊性は超国家像の形成のために歴史を捏造する病的なコンプレックスにあります。
超歴史と言われる捏造歴史を誇っている。
結局カトリックロゴス信仰に対する自らのコンプレックスから捏造した優性民族主義が超国家像の正体であった訳です。
それはネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)のドイツと全く同じであった。
これもカトリック信仰に敵対することで存在する「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様を出現させる詐欺手法だった。
「バカに従え!」という訳です。
坂本龍一の人物像
東京藝術大学のポピュリズム音声(扇動音声)の「技術」とは「軍歌」により大衆を「扇動|動員」していくネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)と同じキャンペーン(宣伝活動)の役割を果たしていると言える訳です。
ヨーゼフ・ゲッベルスの子弟こそが坂本龍一の正体だった訳なのです。
かなり頭が悪い上にかなりのキチガイであったというのが真相だったと言えるのではないでしょうか!
簡単に言って坂本龍一は「阿弥陀如来崇拝の理想偶像(倒錯偶像)」(ルシファー)を賛美するタイプだった訳です。
綿矢りさのような人物だったのでしょう。
まさにカトリック信仰に敵対することで存在する「倒錯感覚」(循環論証)から形成した無根拠の扇動状態に於いて異端の神様を出現させる詐欺手法だった。
「AKASAKA」オブジェ
ここから生中継するところを何度か見たことがあります。
番組出演者の絵馬
TBS赤坂ACTシアターに併設されている施設に番組出演者の絵馬やTBSの過去のロゴマークなどが展示されていました。
TBSのオブジェにサインが書かれていました。
しかし誰のものか判別不能でした。
広瀬アリスさんの字は意外と真面目そうだった!
伊原六花さんの字はアイドル級にサイン慣れした感じが強いです。
BLITZ STUDIOも少しだけ見学できました。
舞台 Harry Potter and THE CURSED CHILD
SASUKEのイベントをやっていました
Harry Potter SHOP
ハリー・ポッターの判じ絵の解読を試みる!
私は入院中の友人へ贈るクリスマスプレゼントのため『ノートカード』を購入しました。
多くの中から神のメッセージを見い出す才能(イマーゴ)はカトリック信仰を示している
「ハリーと手紙と九羽の梟で描かれたカード」は一体どういった判じ絵なのだろうか?
私は少し考えてみた。
ハリーで描いているものは「メッセージとコミュニケーション」だろうと思った。
何故ならば多くの手紙の中から「カトリックメッセージ」を見い出すことを示しているからです。
ハリーの梟は鳩だった!
では九羽の梟が示しているものはなんだろうか?
これはよく解らなかった。
ただ日本の謎々でこのような回答があった。
九羽の鳥は「九」+「鳥」=「鳩」を示す・・・。
鳩がキリスト教圏で意味しているものはなんだろうか?
鳩はカトリック信仰に於ける「聖霊」だろう。
ただこれは漢字に関する謎々であってアルファベットで書かれた「ハリー・ポッター」とは無縁と感じた。
しかし梟の英語名「owl」で調べてみると「梟に似た顔つきをした鳩の品種の総称」とされている。
梟は鳩の品種も同時に示しているらしい。
そうなると「owl」はカトリック信仰の「神の霊」を示していると言えるかもしれない。
ハリーの梟は鳩(聖霊)だったのだろう。
ハリーの鳩(聖霊)が運んできたのは魔法学校入学に関する文書だった。
これはカトリックメッセージのカトリックコミュニケーションを示しているのだろう。
又、一般に「梟」は「ミネルヴァの梟」と言われることが多い。
日本の比較的硬派な出版社でミネルヴァ書房がある。
そのロゴは「ミネルヴァの梟」となっている。
ここに見られるように「ミネルヴァの梟」は「叡智の象徴」とされている。
「ノベナ:Novena」
ではカトリック信仰における「9」は一体何を示しているのだろうか?
幾らか調べてみたのですが「ノベナ:Novena」しか見当たりません。
ここまで検討してきてこのノートカードの判じ絵が示しているものは「ハリー」への「ノベナ:Novena」と言えるかもしれない。
「バプテスマ:baptisma」
判じ絵をまとめてみます。
ハリーは自らのカトリック信仰によって神のメッセージを見い出している。
そしてそれを9羽の鳩(聖霊)が取り囲んでいる。
それは「ノベナ:Novena」を示していると思われる。
これは最強のメシアの誕生を示している。
この判じ絵は最強のメシアが誕生した時のバプテスマを描いている。
受胎告知(ルカ 一 26-38)
最後に『聖なる数字のエトセトラ』
最後に数字に関する感想を少し述べさせていただきます。
「7」は安息日であって「信仰」を示しています。
「6」は「信仰」の「7」から「1」を減らした数字であり「信仰」への敵対を示す場合が多い。
例えば映画「オーメン」のダミアンの頭には「666」の痣があることは有名です。
ただ私は「6」がアンチ信仰とされる理由にそれほど納得できていない。
映画「オーメン」はそれなりにSatanic School(阿弥陀如来崇拝の異端教団)によって可能となった観点から鑑賞して面白い作品であった。
しかしやはりこの作品も結局はSatanic Parodyでしかなかったかもしれない。
そうなると「666」もSatanic Parodyの産物であって「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」のない「紛い物」と言える。
これは憶測の域を出ない仮説であるがそういった意味で「6」はおかしな数字であった。
もしかしたらタロットカードの「6」(THE LOVERS)へのSatanic Parodyかもしれない。
幾らか考えてみて「タロットカード」への「Satanic Parody」が芸術文化の陥穽であったと想像される
それはまさにタロットカードへの倒錯感覚(循環論証)から形成される無根拠の扇動状態であって「カトリックロゴス」の受肉と絶対対立する。
カトリックタロットへ敵対する倒錯感覚(循環論証)が形成した無根拠の扇動状態の中でタロット占術が為され「カトリックロゴス」の受肉がなされる。
無根拠の扇動状態の中で「カトリックロゴス」を見い出すか?
無根拠の扇動状態の中で「倒錯偶像」を見い出すか?
そのどちらかによっている。
ここで言えることは「善」と「真実」の信仰を持った者にはタロット占術が可能であると言うことです。
何故なら無根拠の扇動状態の中でも「カトリックロゴス」を受肉することが可能だからです。
「タロットカード」は「信仰」を持った「占者」へ「カトリックロゴス」を黙示する「聖具」と言えます。
一方で「信仰」を冒涜する者は英語で「ビッチ」と呼ばれ、日本語で「あばずれ」と呼ばれる訳です。
そういった人は無根拠の扇動状態の中で「倒錯偶像」を崇拝する。
「バフォメットの偶像崇拝」です。
これはタロットカードの「15」(THE DEVIL)を黙示しています。
そしてカトリックを示す数字は「10」であったり「12」であったりするらしい。
何故ならば「10」は「完全数」だからです。
「10」は十進法の基本であって手足の指の本数も10本です。
また「12」も「完全数」と言えます。
何故ならば一年間の月の満ち欠けは12回あり12ヶ月が基本となっているからです。
そういう意味で「10」と「12」はカトリックを示す「完全数」と言えます。
そして人の存在は「完全数」には及ばないがそれに寄り添い信仰する数字として表されます。
その数字が「9」と「11」となる訳です。
先程指摘した「信仰」の「7」と合わせてこれらの3つの数字はカトリックに於ける最善の意味があるらしいのです。
※これは飽くまで私の「仮説」です。
ベースボールは9人制です。
サッカーは11人制です。
他の様々な競技で人数制が設定されています。
人数性の根拠は「完全数」と「信仰」によって構成されているようです。
そしてタブーの数字は「アンチ信仰の数字」と「カトリックを示す完全数」であるらしいのです。
「アンチ信仰」は当然として「完全数」も「カトリックの数字」であり人間が付けるべきではないらしい。
ただ神の子は別な訳です。
「この者は私の愛する子、彼は私の意にかなった」
それが「ハリー・ポッター」です。
しかし悪い魔法使いが自分を神格化し「完全数」を偽称する。
それが「ヴォルデモート卿」です。
そうなると「完全数」を名乗った人間は自分を神格化した「信用詐欺師」と見做されるでしょう。
「異端カルト教団」は「完全数」を偽称します。
それは「ドクサ」を「絶対知(特権知)」とする「屁理屈」です。
それによって彼等は自らを神格化していきます。
しかし彼等の正体は「アンチ信仰」の「Satanic Parody」となります。
ただ彼等異端児本人達は「信仰」の「7」を偽称していきます。
彼等の正体は「アンチ信仰」の「Satanic Parody」でしかありません。
異端児達は「完全数」と「信仰」の「7」によって「循環論証」(Satanic Parody)を形成していきます。
循環論証(Satanic Parody)
では「信用詐欺」の「循環論証」へどう対処すればいいのでしょうか?
「循環論証」は「虚偽」でしかありません。
だから「循環論証」であれば「信用詐欺」な訳です。
その逆も然り、「信用詐欺」であれば「循環論証」な訳です。
しかし社会的理想偶像(倒錯偶像)によって形成された「循環論証|信用詐欺」は最強の「特殊詐欺」です。
そういった「循環論証|信用詐欺」への対処法が一つだけあります。
それは「カトリックの領域展開」です。
五条悟です。
そしてそれは黙示録(revelation)です。
最後に聖なる数字のまとめをします
神の子の数字は「完全数」の「10」と「12」で表されるかもしれない。
又、神の子は「三位一体のペルソナ」とも言われます。
神の子の数字は「三位一体のペルソナ」を構成する「3」で表わされるかもしれない。
そして「信仰者」の数字は「完全数」には及ばないがそれに寄り添い信仰する「9」と「11」で表されるかもしれない。
同じあり方で「信仰者」の数字は「三位一体のペルソナ」には及ばないがそれに寄り添い信仰する「2」で表されるかもしれない。
最後に基本的な「信仰」の数字は「安息日|7日目」を示す「7」で表されるかもしれない。
そして「3対神徳|枢要徳|7元徳」も最重要です。
「3」と「4」と「7」は「美徳」を示しています。
タロットカードには「カトリック神学|3対神徳」と「信仰」のカードに大きな意味がある。
そして「枢要徳」も「3対神徳」と共に「7元徳」を構成しています。
それらは「神の王国の到来」ヘの「カトリック信仰」と言えます。
神の王国の到来
譬とは解るようにしてあげることです。
では良いクリスマスを!