【カトリックアニメ信仰】④現代のトップクリエーター|庵野秀明による「偽善(俗と悪)なヲタク善人の面子」のイメージ操作について
宮崎駿と庵野秀明の「確執」の在り処とは?
庵野秀明の「偽善(俗と悪)なヲタク善人の面子」は性悪すぎる!
しかし宮崎駿は「庵野秀明」と「安野モヨコ」の仲人という噂があった。
実際はどうか知らない。
これは庵野秀明らのイメージ操作であるように感じる。
私は庵野秀明という人物は実際かなり穢いキャラクターであるという見立を持っている。
何故なら庵野秀明による「偽善(俗と悪)なヲタク善人の面子」のイメージ操作が露骨になり過ぎてネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)の様相を呈しているからです。
このような「偽善(俗と悪)なヲタク善人の面子」とはヲタ芸(cult)の人間関係で祀り上げた作為の賜物であるだろう!
最高善信仰(俗と善)とは「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を持つことを示している。
偽善(俗と悪)とは「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」はなくヲタ芸(cult)の人間関係で祀り上げたあり方を示している。
受験知識人は「偽善(俗と悪)なヲタク善人の面子」だった
例えば超一流大学(マウンティング)へ合格した受験生は試験の回答を知っていただけだと言えます。
その回答に「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」がなくても過去問の傾向と対策を記憶力で覚えていれば受験知識となって合格する可能性は高いのです。
そういった過去問の傾向と対策も受験予備校などの指示に従えば良いだけだと思うのです。
「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」がなくても回答を丸暗記すれば合格は可能と言えます。
肝心なことはそのような受験知識に「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」がなくても超一流大学(マウンティング)へ合格すればエリートとされます。
それはエリートではなく特権を得た特権階級を意味しているに過ぎない。
又、その肝心の超一流大学(マウンティング)の根拠にカトリックロゴスが果たしてあるだろうか?
今日もTBS(東京放送)の「THE TIME」で東大と京大の合格者数を誇る高等学校を紹介していました。
私の母校である千葉県立船橋旭高等学校には多分過去から数えても一人もいないのではないでしょうか・・・。
もしかしたら過去から数えて一人や二人ぐらい居たかもしれません。
果たして東大と京大の合格者数がエリート校を根拠付けるカトリックロゴスとなるでしょうか?
これは日本の大学のレベルの低さを物語っているのです。
例えば東大と京大とは学問というより官僚養成機関だったのです。
明治維新によって発足した官僚組織のための養成学校だった筈なのです。
だからいつからか「学者は東大!」と言われていますがそれは官僚組織の権威のあり方でしかなく学問を究めたマスター(学者)のことではないのです。
官僚組織の権威の頂点にカトリックロゴスによって世界を根拠付けるマスター(学者)は存在していません。
彼らはカトリックロゴスによって世界を根拠付けるマスター(学者)を経ずして官僚組織の権威の頂点である「国立大学のプロフェッサー」となるのです。
マスター(学者)を経ずしてプロフェッサーとなった存在は中身のない偶像を意味しています。
カトリックロゴスで根拠付ける才能(イマーゴ)を持っていないプロフェッサーなのです。
それは学者(マスター)の能力を持っていないプロフェッサーを言い「偽善(俗と悪)なヲタク善人の面子」と同様です。
ヲタ芸(cult)で祀り上がっただけの「邪悪」なのです。
まさに「バフォメットの異端教団」(明けの明星)であり「堕天使ルシフェルの召喚」です。
そのような存在へ「フランス革命」が起こる可能性があります。
革命のカード
東大のプロフェッサー|安藤忠雄
一見例外に思える存在もいます。
安藤忠雄は東大のプロフェッサーになりました。
しかしここでも安藤忠雄はカトリックロゴスによって世界を根拠付けるマスター(学者)を経ずして官僚組織の権威の頂点である東大のプロフェッサーとなった。
何故ならば安藤忠雄はカトリックロゴスで世界を根拠付けるどころか「バフォメットの偶像」を建てて回っている建築家だからです。
だから彼は「偽善(俗と悪)なヲタク善人の面子」の代表として東大のプロフェッサーとなった訳です。
これも又「バフォメットの異端教団」(明けの明星)であり「堕天使ルシフェルの召喚」と言えるものです。
「安藤忠雄の建築」がバフォメット建築である理由を教えましょう
先ず安藤忠雄の建築には「無理を超越する。」(マウンティング)というコンセプトがあります。
例を挙げれば「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰のある建築家|ル・コルビュジェ」に対する真逆の姿勢です。
安藤忠雄はル・コルビジェを「我が師」と仰ぎ「愛犬」にその名を命名したという有名なエピソードを持っています。
しかしその意味は完全なバフォメットだったのです。
安藤忠雄は「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」へ一々敵対することを「無理を超越する。」(マウンティング)としてそれを実現し高評価されています。
しかしそれは安藤忠雄の建築が「バフォメットの偶像崇拝」であることの思想的根拠となります。
何故なら「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を持った建築が正統な「カトリック建築」だからです。
だからそれへ敵対することは須らくバフォメットと見做されるのです。
そういう意味でル・コルビジェの建築は「カトリック建築」を理想としたものでした。
又、そういった「カトリック建築」と言う「理想の実現」がル・コルビジェの建築であり建築家の才能(イマーゴ)の証だった訳です。
しかし安藤忠雄の建築が持つ「無理を超越する。」(マウンティング)と言ったコンセプトは「doxaの実現」と言う反知性主義であった訳です。
それは単純に「思い込みの実現」を指します。
「理想の実現」を目指したル・コルビジェの建築はまさに「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を持った「超越論的な奇跡」だったと言えます。
それが建築家としての才能(イマーゴ)です。
しかし「doxaの実現」を目指した安藤忠雄の建築の正体は「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」へ一々敵対することで得られる「超越感」(マウンティング)であって「バフォメットの異端教団」(明けの明星)だった。
そう言った「堕天使ルシフェルの召喚」は建築家としての才能(イマーゴ)の欠落によっています。
そして「カトリック信仰」のル・コルビジェへ一々敵対する安藤忠雄はル・コルビジェの弟子ではなく「バフォメットの異端教団」(明けの明星)の構成員だったことが明らかになります。
そういう意味で「才能(イマーゴ)のないアドルフ・ヒットラー」を崇拝した「ネオ・ナチズム」(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)と同様です。
アドルフ・ヒットラーの描いた絵画は描写ばかりで「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を見い出せません。
これは典型的な凡才です。
これは「芥川賞作家|石原慎太郎」や「芥川賞作家|綿矢りさ」も同様です。
若者の生態描写を官能的に描き評価されましたが「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」は全くありませんでした。
逆に「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」に一々敵対した「超越感」(マウンティング)を制作している。
だからそのような凡才を崇拝する日本の文学賞は「バフォメットの異端教団」(明けの明星)であり「ネオ・ナチズム」(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)なのです。
日本に於けるル・コルビジェ信仰の正当な後継者は前川國男だった
磯崎新も前川國男の系譜だろうと思います。
何故なら「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を持った建築を理想としたからです。
磯崎新が愛用した「雲形定規」はマリリン・モンローの曲線美から制作されている。
だから磯崎新の建築に見られる曲線の多くはマリリン・モンローの曲線美となっている。
モンロー曲線とゴシップ
ここでゴシップを少しだけ話します。
ケネディ大統領とマリリン・モンローの密会がマスメディアで「宣伝|報道」されています。
私にはその真偽の判断はできない。
何故ならばケネディ大統領の私生活を知り得ない上にケネディ大統領へのネガティブキャンペーンも酷いと感じているからです。
この状況では正当に真偽を判断することは不可能だと思いました。
ケネディ大統領はアイルランド系富豪の家系であり完全なカトリック信徒だった。
そしてケネディ大統領本人はピューリッツア賞を受賞した経歴を持っている。
そこから考えてみるとケネディ大統領には「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を持った才能(イマーゴ)があっただろうと私は推察している。
そしてケネディ大統領の密会相手とされたマリリン・モンローも実はカトリック信仰を持っていて、更にケネディ大統領と同様に「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を持った才能(イマーゴ)があったのではないかと思われるのです。
だからこのようなゴシップが「宣伝|報道」されているのではないだろうかと邪推してしまうのです。
それは磯崎新がマリリン・モンローの曲線美に過剰に拘ったことの異常性がカトリックメッセージとなっているように感じられるところから来ている。
これはマリリン・モンローの曲線美を使用した磯崎新のカトリックメッセージとカトリックコミュニケーションであると言えるのです。
それがモンロー曲線と言われる「マリリン・モンローの曲線美から制作された雲形定規」の存在なのです。
私は東京工科専門学校建築科二年制を卒業した。
入学時に製図道具一式を購入し毎日持ってくることになった。
当時はT定規を使用した手描きでありテンプレートなど様々な製図道具があった。
私たちには平行定規の使用は許されていなかった。
その中で異様に感じた製図道具が一つあった。
それが「雲形定規」だった。
それは根拠のない曲線を描くための定規であった。
私にはどうしてそのような曲線になっているのか理解できなかった。
だから私は一回もその定規を使用しなかった。
意味不明な曲線を持った「雲形定規」が何故か非常に気持ち悪く感じていた。
要は「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を持たない「雲形定規」だったからだと思います。
だから磯崎新は「雲形定規」へマリリン・モンローの曲線美という根拠付けを敢えて与えたのだろうと思った。
私にはそれが理解できる。
それが「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を理想とした信仰なのです。
そしてそのモンロー曲線が磯崎新の建築のカトリックメッセージとカトリックコミュニケーションとなって実際に建造されている。
それを考えると磯崎新とはかなり面白い人物だったと言えるのです。
そして磯崎新が残した建築物はそういう意味で「カトリック建築」だと言えるのではないでしょうか?
私は磯崎新を実際に見たことあります
一回目は近畿大学東京コミュニティカレッジ(四ツ谷)でイベントがあった時です。
その時、磯崎新はプロジェクターで当時中華民国で計画中の物件を紹介していました。
又、同時に立食パーティが開催されていました。
私はチーズを摘んだように記憶しています。
それが一番近くで磯崎新を拝見した時でした。
二回目は反原発シンポジウムが紀伊國屋ホールで開催された時に壇上で発言していました。
磯崎新は動画を制作して大画面で公開していました。
それは国会議事堂が菊の御紋に囲まれて福島原発まで移動するという奇想天外な動画でした。
そして「アドルフ・ヒットラー」と「逆鉤十字」がサブリミナルのように登場していたと思います。
磯崎新は「アーキテクト!」と盛んに発言していました。
「アーキテクト!」は「カトリック信仰」へ敵対する勢力を指しているようでした。
磯崎新は去年(2022年12月28日)亡くなりました。
磯崎新と丹下健三
磯崎新は丹下健三の弟子とされていますが実際はカトリック建築の「理想の実現」を信仰していたと思います。
ただ磯崎新の師であった丹下健三の方はカトリック建築の「理想の実現」へ一々敵対した「doxaの実現」であって「バフォメットの異端教団」(明けの明星)だったと思います。
何故なら丹下健三の建築に「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を見い出せないからです。
そうなると丹下健三もネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)と言えるかもしれません。
※私は「マスターとプロフェッサーをカトリックロゴスで根拠付けする」を勝鹿北星(きむら はじめ)の「MASTERキートン」を読み理解した。又、「超越論的奇跡と超越感(マウンティング)の違い」を柄谷行人の名著「探求」から学んだ。
※私は二級建築士を持っています。
現代社会の最重要課題
最高善信仰の宮崎駿が嫌悪する「偽善」とはそのような「偽善(俗と悪)なヲタク善人の面子」の性悪さなのです。
宮崎駿は「最高善信仰」であって「最高善信仰作品(俗と善)」を制作します。
一方で庵野秀明は「偽善(俗と悪)なヲタク善人の面子」であって「偽善作品(俗と悪)」を平気で制作します。
この両者の黙示録(revelation)が現代社会の最重要課題と言えます。
サブカルチャーからカルチャーへ向かうのです
それが「最高善信仰(俗と善)」であって「ウィリアム・シェイクスピア」も「サー・アーサー・コナン・ドイル」も「葛飾北斎」もそうであった。
特に「ゴッホ」や「シャガール」は聖書を題材にしている。
そして宮崎駿も同様です。
彼らは最高善信仰なのです。
彼らはイマーゴ(真善美の回復)を持った「Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty.」であって「至高の抽象化の高み」と言えます。
そういった「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を持った作品は最高善信仰作品(俗と善)と言え芸術作品(カトリックロゴスによって根拠付ける信仰)と見做される。
一方で「偽善(俗と悪)なヲタク善人の面子」の庵野秀明はイメージ操作に終止する偽善番組(俗と悪)でしかない。
これは「ピカソ」に似ている。
私には「ピカソ」に最高善信仰(俗と善)を感じることができない。
何故なら「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」が見い出せないからです。
「ピカソ」の絵画は特殊詐欺(神演出)の偽善作品(俗と悪)と言えヲタク芸術作品と見做せます。
※「新世紀エヴァンゲリオン」の終盤に於ける意味不明な「前衛芸術の成立」(前衛詐欺)はピカソ「ゲルニカ」(神演出)と同じです。
この2人はかなり性悪であり「偽善(俗と悪)なヲタク善人の面子」なのです。
「偽善(俗と悪)なヲタク善人の面子」は「Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent.」であって「原始的段階に近い」と言えます。
宮崎駿は「芸術家」(カトリックロゴスによって根拠付ける信仰)であり庵野秀明は「ヲタク芸術家」なのです
「芸術家」(カトリックロゴスによって根拠付ける信仰)の成立には「カトリックロゴス信仰」(Holy Communion)を入れる場所の確保が「第一条件」となります。
しかし「ヲタク芸術」はその「信仰」へ一々敵対する「黒ミサ」を執行し「バフォメット作品」を制作します。
ここに「言葉のマジック」が存在します。
「ヲタクの二次創作」は過去の作品への「オマージュ」とされ一個の「芸術作品」(カトリックロゴスによって根拠付ける信仰)と認知されています。
それが「ヲタク芸術」です。
しかしそこに特殊詐欺(神演出)があります。
それは「オマージュ」ではなく「カトリック作品」へ一々敵対する「バフォメット作品」でしかないのです。
そういった「ヲタク芸術」は「カトリックミサ」に対する「黒ミサ」の執行でしかありません。
そこに見えるものは宮崎駿がキリスト者であるなら、そのカトリック信仰へ一々敵対するアンチキリストは庵野秀明であることだと言えます。
ではアンチキリストに「芸術作品」(カトリックロゴスによって根拠付ける信仰)が不可能である理由とは何かを明確にする必要があると思います。
その理由は「芸術作品」(カトリックロゴスによって根拠付ける信仰)に対する貶めと弾圧によって形成する「アンチ芸術」(ヲタク芸術)がヲタク(日本サブカルチャー)の正体だと指摘するだけで理解されるでしょう。
「アンチ芸術」(バフォメットカルチャー)が「芸術」(カトリックロゴスによって根拠付ける信仰)である訳がないのです。
この両者の転倒(黒ミサ)を司ったバフォメットは「サタン」(敵対する者)であり「最高悪」となります。
士郎正宗の奇跡
ブラックマジック M-66
「芸術作品」(カトリックロゴスによって根拠付ける信仰)と「ヲタク芸術」の違いを示す代表例として私は「士郎正宗」という漫画家が自身の原作漫画「ブラックマジック M-66」の「絵コンテ」を自ら書きOVAとした芸術作品(カトリックロゴスによって根拠付ける信仰)をここに挙げたいと思います。
私は当時千葉県立船橋旭高等学校在学中(1987.4~1990.3)でした。
※船橋旭高校は船橋西高校と統合し船橋啓明高校となっている。
船橋旭高校の文化祭で訪れた「マンガアニメ研究会」のイベントでこのOVAを鑑賞しすっかり気に入ってしまったのです。
その「マンガアニメ研究会」は有名アイドル「吉木りさ」が所属していたと後に知りました。
この事実は彼女のファンの間でよく知られていたらしい。
何故ならばそのような「マンガアニメ研究会」等の部活動は共感を呼ぶからです。
年齢はかなり離れていますが吉木りさは私の母校の後輩だったらしいのです。
そして私が士郎正宗のOVAでとても印象に残ったシーンがあったのです。
「神様は一体何してるの?!!」
フェリスを守るために死闘を繰り広げたシーベルは最後の賭けに出る。
しかしその切り札のトラップに小石が挟まり万事休すとなった。
シーベルは天を仰ぎ神に訴える!
「神様は一体何してるの?!!」
主人公たちが追い詰められた状況で「神様は一体何してるの?!!」と天を仰いで神に訴えるシーンである。
私がここに奇異を感じるのは庵野秀明の華麗な同期の人脈の中で士郎正宗は異色の存在であり庵野秀明との繋がりが不明という点です。
そしてこのOVAによると最高善信仰を持っているのは明らかに士郎正宗なのです。
庵野秀明らは最高善信仰へ一々敵対する「黒ミサ」を執行した「バフォメットの異端教団」(明けの明星)と思えます。
士郎正宗の作品は「カトリックロゴス信仰」(Holy Communion)の「最高善信仰」(俗と善)と言えます。
それは「芸術」(カトリックロゴスによって根拠付ける信仰)を示しています。
庵野秀明らはその完全弾圧として最高善信仰を大冒涜する「バフォメット作品」を制作しています。
庵野秀明の「バフォメット作品」の終末は当然のごとく「カトリックロゴス信仰」(Holy Communion)の「奇跡」は起こらず「doxa」を「絶対知」とするだけの「バッドエンド」又は「ハッピーエンド」となります。
その「エンド」には当然の如く「カトリックロゴス感覚」はありません。
それは本来であれば「才能(イマーゴ)の欠落」を示しています。
その例は「旧劇場版新世紀エヴァンゲリオン」でした。
ただ身勝手で最悪な特殊詐欺(神演出)に思えました。
「シン・エヴァンゲリオン」と「ふしぎの海のナディア」も同様に取って付けたような非常に身勝手な終わり方でした。
これも特殊詐欺(神演出)の形成に見えます。
決して「カトリックロゴス感覚」の大団円(Holy Communion)の制作とはなりません。
2つのコナンの謎
「名探偵コナン」の危険性
先ず青山剛晶「名探偵コナン」について指摘したいと思います。
「名探偵コナン」に「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」はあるだろうか?
全くありません。
何故ならば「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」(推理)と「doxa」を「絶対知」としていく「こじ付け」(推理)は全く違うからです。
シャーロック・ホームズは「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を持った「推理」を導き出します。
しかし名探偵コナンは「doxa」から「推理」(絶対知)を導き出します。
江戸川コナンは「超能力少年」(マウンティング)なのです。
それは「こじ付け」(推理)の才能(イマーゴ)です。
「こじ付け」(推理)の才能(イマーゴ)とは「バフォメットタレント」であり邪悪な偽善者を示しています。
何故ならば全てを擦り付け正当化していく「こじ付け」(推理)の才能(イマーゴ)だからです。
それは偽りの才能(イマーゴ)なのです。
要は「他者」を「身代りの生け贄」としている。
それが「バフォメットの異端教団」(明けの明星)です。
「生け贄の論理」です。
このような「生け贄の論理」は「バフォメットの異端教団」(明けの明星)の超危険性を示しています。
「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を信仰するには真の才能(イマーゴ)が必要です。
それはカトリック信仰により受肉します。
宮崎駿の「名探偵ホームズ」
そういう意味で「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」があるのはコナン・ドイル原作作品「シャーロック・ホームズの冒険」なのです。
アニメ「名探偵ホームズ」のホームズとワトソンとマリア
アニメ「名探偵ホームズ」のマリアの大活躍①
アニメ「名探偵ホームズ」のマリアの大活躍②
未来少年コナンの「大団円」
宮崎駿第1回監督作品「未来少年コナン」の最終話は「大団円」です。
それは「Holy Communion」となっています。
ここで指摘したいことは主人公コナンの「超人的活躍」です。
コナンの「超人的活躍」には「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」があるのです。
何故ならばコナンの「超人的活躍」は「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」によって可能となった奇跡であるからです。
コナンは決して「doxa」を「絶対知」とする超能力者(マウンティング)ではありません。
その存在は宮崎駿本人なのです。
ではラナの「超能力」はどうでしょうか?
ラナの「超能力」はテレパシーであって「メッセージとコミュニケーションの能力」となっています。
そのような「メッセージとコミュニケーションの能力」に「doxa」を「絶対知」とするあり方は不可能なのです。
何故ならば相手のある「メッセージとコミュニケーション」に於いて「doxa」を「絶対知」とすることは絶対のタブーなのです。
相手との相互性がラナの「超能力」のあり方なのです。
これは「超能力」(マウンティング)というより「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を示しています。
その存在も宮崎駿本人なのです。
「ダイスとモンスリーの結婚式」はまさに「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」からの「Holy Communion」の名シーンです。
そのような「自由の相互性」の象徴なのです。
この作品の「超人性」は「カトリックロゴス感覚」の奇跡によって制作されています。
それは「超能力」(マウンティング)では決して有りません。
新世紀エヴァンゲリオンの「超能力」(マウンティング)
しかし庵野秀明「新世紀エヴァンゲリオン」に於ける「謎の再起動」や「謎の回復」は「超能力」(マウンティング)です。
ただそうあっては「作者の匙加減」で幾らでも「超能力」(マウンティング)は起こり得るものです。
「doxa」を「絶対知」としていく波動砲(超兵器)を発射するだけなのです。
しかし波動砲(超兵器)には「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」があるかもしれません。
そういった設定には最低限の「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」が必要なのです。
それは「歴史」です。
「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を持った「歴史」が必要なのです。
それが「カトリック歴史信仰」です。
宇宙戦艦ヤマトはイスカンダルへ放射能除去装置を得るために旅立ったのです。
その時宇宙戦艦ヤマト建造に必要な技術をイスカンダルから教えられました。
その一つが波動砲(超兵器)だったのです。
作者の匙加減で「歴史」が改変されたらその作品の成立に必要な最低限の「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」はどうなりますか?
もし最低限の「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」が存在しないなら作品の成立は無効となります。
ピカソの偽善芸術(俗と悪)と同じです。
「前衛芸術の成立」(前衛詐欺)であり特殊詐欺(神演出)であり悪徳商法の異端教団です。
「doxa」を「絶対知」としたヲタ芸(cult)による祀り上げは「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」へ一々敵対した蛮行です。
そういった意味で鳥山明「ドラゴンボール」に於ける神龍の「超能力」(マウンティング)は驚異的でした。
しかしその根拠はナメック星人と言う「超能力」(マウンティング)を持った異星人でした。
そこに最低限の「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」はありません。
結局「超能力オンリー」(マウンティング)ですか?
それは何度死んでも蘇るアーケードゲームの裏技のようなものです。
「完全な子供騙し」でしか有りません。
「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を不可能とする「完全な子供騙し」の「超能力」(マウンティング)だったのです。
それは一体何ですか?
わからない・・・(作者すら)(そんなバカな・・・)
それは「何でも有り」の偽善(俗と悪)によって可能となるコンテンツです。
時間も巻き戻り何度でもやり直せます。
そうなったら「歴史」も何もあったものじゃない。
そのような作品からは何も学ぶことはできません。
「最も劣等なdoxa」を「絶対知」としたヲタ芸(cult)で祀り上がっているのです。
要はそのような作品から視聴者は何も学べず結局は制作者からバカにされているのが現実なのです。
きっと庵野秀明らは見えないところで視聴者を嘲笑っていると思います。
それが「偽善(俗と悪)なヲタク善人の面子」なのです。
彼らは視聴者に向かって何も教育する気はなく、ただ意味不明な紛い物を芸術(カトリックロゴスによって根拠付ける信仰)と偽称して売りつけているのです。
しかしその芸術(カトリックロゴスによって根拠付ける信仰)は屁理屈(マウンティング)なのです。
「信用詐欺」と「キリスト」
「誠実と真実」(信用)は「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」によって齎される。
しかし「カトリック信仰」へ「敵対する者」が存在し「誠実と真実」を装った「信用詐欺」が横行する。
少しでもその人を「ペルソナ」として扱えば「誠実と真実」を装って「信用詐欺」を行い当たり前 の様に人々を騙し始める。
彼らはまさに「サタンの襲来」である。
「サタンの襲来」と戦うのは「白馬に乗る誠実と真実の騎士」である。
それは「キリスト」と謂われる。
信用詐欺の天才|庵野秀明から何が学べますか?
特殊詐欺師(神演出家)とはそのような存在なのです。
要は「完全な子供騙し」の悪徳商法なのです。
庵野秀明は「古典的詐欺」のあり方です。
「新世紀エヴァンゲリオン」のセリフに見る呪術崇拝
私はここで庵野秀明の使用する「セリフ」に関して指摘すべきことがあります。
それは庵野秀明が使用する「ワンワード」に「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」が全く無いということなのです。
それはそのワンワードが超能力(マウンティング)で構成された「呪術」であってヲタ芸(cult)によって祀り上がる原始的劣等状態なのです。
「暴走」にしろ「A.T.フィールド」にしろ「左腕復元!」にしろ超能力(マウンティング)であり鳥山明「ドラゴンボール」のナメック星人と同じ様なものです。
「新世紀エヴァンゲリオン」は「聖書」を匂わせていますが実際はナメック星人だったのです!
これは酷い子供騙しだったのです。
このような子供騙しが社会現象を起こしたとされた背景に一体何があったのでしょうか?
それは「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を持ったプロトカルチャーへの信仰弾圧だったと言えます。
簡単に言えばカトリックカルチャーへの信仰弾圧が激しかったのです。
それがバフォメットカルチャーです。
そのような日本文化がバフォメットカルチャーへ陥っていく分岐点に「言霊」があります。
この場合に指摘できることは「doxa」を込めた「言霊」を祀り上げる「ヲタ芸(cult)」が「呪術崇拝」への陥穽となっているところです。
それは「思い込み」を「ワンワールド」に込めた「言霊」であり「呪文」の発生となっています。
「ハンカチ王子」のようなものです。
又このような「言霊」(呪文)はシンプルに言ってデマゴギーによる詐欺行為とも見做されます。
ここで指摘できる人物は「斎藤一人」が有名でしょう。
私の知人も「蟻」の入った練り物を飲んで崇拝していました。
その知人によると斎藤一人は漢方などを独自に勉強し商品を開発したそうです。
彼を心酔する弟子も多く巨万の富を築いたとされています。
私もその知人に勧められて彼が持っていた商品を一粒飲んでみました。
すぐにお腹が悪くなりそうでした。
私なら斎藤一人のような怪しげな人物の処方ではなくシンプルに漢方の処方を飲みたいと思いました。
しかしその知人は「ついてる!ついてる!」(ラッキー!ラッキー!)とキチガイみたいに連呼していました。
そのような「言霊」(呪文)はコピーライターの糸井重里にも顕著です。
彼の場合は広告宣伝で「ワンワード」を巧みに使用しました。
ただそれはデマによる扇動でしかなかったと思います。
例を挙げれば「おいしい生活。」や「生きろ。」のコピーライトです。
ただ私は「言霊」(呪文)は悪だと思いますが「言霊」(カトリックロゴスによって根拠付ける信仰)は善だと思っています。
ここに例があります。
志貴嶋倭国者事霊之所佐国叙真福在与具
磯城島の大和の国は言霊の助くる国ぞま幸くありこそ
磯城島の日本の国はことばの魂が人を助ける国であるよ。無事であってほしい。
(柿本人麻呂 巻十三 三二五四)
これは万葉集|柿本人麻呂の歌です。
ここにある「ことばの魂が人を助ける国」とは「言霊」(カトリックロゴスによって根拠付ける信仰)が「最高善信仰」の「天使の両翼」となって「神の王国の到来」へ導くことだと私は思いました。
このように「言霊」でも「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」となるものと「呪術崇拝」となるもので「善悪」と「優劣」が違ってくるのです。
宮崎駿は「学」として成立します。
しかし「庵野秀明|糸井重里|斎藤一人」などはデマゴギーで扇動する「特殊詐欺師」でしかないでしょう。
このような「ワンワード|ワンフレーズ」で扇動する手法は(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)のヨーゼフ・ゲッペルズと同じです。
若い頃に私は神田古本屋街でヨーゼフ・ゲッペルズ全集を見つけました。
私はマスメディアも含め多くの特殊詐欺師がこの本を参考にして謀略を行なっていると直観しました。
「学」なら叡智を得ることができます。
一方で謀略による「特殊詐欺」は全てを失うだけだと思います。
あなたは「特殊詐欺」により神すらも永遠と騙し抜いて行けると思いますか?
庵野秀明監督作品「新世紀エヴァンゲリオン」が最悪だったのは「聖書」(カトリックロゴスによって根拠付ける信仰)を「羊頭狗肉」としたところです。
要は「聖書」(カトリックロゴスによって根拠付ける信仰)ではなく「聖書」(呪術崇拝)を売りつけたのです。
これは文鮮明「統一教会」と同じです。
「統一教会」も「聖書」(カトリックロゴスによって根拠付ける信仰)ではなく「聖書」(呪術崇拝)を売りつける「羊頭狗肉」をしていたからです。
「統一教会」は最悪宗教です。
そういう意味で「新世紀エヴァンゲリオン」も最悪アニメだったのです。
「新世紀エヴァンゲリオン」のロンギヌスの槍は「羊頭狗肉」だった
ロンギヌスの槍とはキリスト教に於ける「聖槍」である。
何故「聖槍」であるかを少し説明します。
イエス・キリスト(神の似姿)は磔刑に処され絶命したとされる。
ローマ兵の一人であったロンギヌスがイエス・キリスト(神の似姿)の死亡を確認するため磔刑にされているイエス・キリスト(神の似姿)の身体を槍で刺したのです。
その時に死んでいるはずのイエス・キリスト(神の似姿)の身体から瑞々しい血液が迸り出てローマ兵ロンギヌスの目に入り病んでいたその目が治癒したとされている。
それはイエス・キリスト(神の似姿)の血液が起こした奇跡なのです。
それが聖槍|ロンギヌスの槍の伝説と言います。
だから簡単に指摘して奇跡を起こしたのは聖槍|ロンギヌスの槍ではなくイエス・キリスト(神の似姿)の血液であったのです。
だから「新世紀エヴァンゲリオン」に於けるロンギヌスの槍は特殊な超能力(マウンティング)を帯びた存在ですがキリスト教に於いてはイエス・キリスト(神の似姿)の血液こそが超能力であったと言えるのです。
この両者の超能力に於いて「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」によって洗礼しているのはイエス・キリスト(神の似姿)の血液と言えます。
何故ならば「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」は「聖書」にあるからです。
いくら「新世紀エヴァンゲリオン」が「ロンギヌスの槍」の名前を偽称してもこの作品に「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」はないのです。
これもロンギヌスの槍を使用した「羊頭狗肉」と言えます。
「無理を超越した奇跡」(マウンティング)のデマ
士郎正宗と違って庵野秀明には最高善信仰が全く見られないのです。
そこにあるのは「カトリックロゴス信仰」(Holy Communion)の奇跡を抹殺する完全弾圧です。
それを「無理を超越した奇跡」(マウンティング)と定義しています。
しかしそのような奇跡は「何でも有り」の漫画作品であって「カトリック漫画」へ一々敵対した「バフォメット漫画」と見做されます。
「doxa」を「絶対知」とする「偽善(俗と悪)」なのです。
そのような「バフォメット漫画」に「害」はあっても「価値」はありません。
特殊詐欺(神演出)の被害者続出なのです。
「カトリックロゴス信仰」(Holy Communion)への完全弾圧とは庵野秀明らの強烈な劣等感から来る「サタンの烙印」です。
庵野秀明らはそのような「サタンの烙印」が捺されたアンチカトリック(敵対する者)であり「悪魔の群れ」なのです。
そして庵野秀明は「偽善(俗と悪)なヲタク善人の面子」という奇妙なアンチキャラ(敵対する者)を正当化し盛んにカルチャーとして宣伝している。
しかしそれは日本サブカルチャー(バフォメットカルチャー)でしかありません。
「完全な偽善者」なのです。
TBS(東京放送)の今道潤三が持ったカトリックロゴス信仰(奇跡)
毎日新聞出身の鹿倉吉次と大阪商船出身の今道潤三は「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」によってテレビ文化のプロトカルチャーの創造を担ったと言えます。
今道潤三はTBS(東京放送)のテレビ事業への積極参加を推進したと言われている。
テレビ文化のプロトカルチャーを指導したのはこの両者だった。
特に今道潤三のカトリックロゴス感覚が日本テレビ文化の形成に大きな役割を果たしたと言えるのです。
「番組の制作とは 同時に社会道義を制作することである」
1979年(昭和54年)5月25日(金曜日)に今道潤三は死去する。
そしてTBS(東京放送)の黄金時代は終焉しフジテレビのサブカルチャー時代が到来する。
ただこの勝負に勝利したフジテレビを人は高く評価するかもしれない。
しかし神はフジテレビを高く評価しないだろう。
何故ならばTBS(東京放送)は俗であっても善であったからです。
最高善信仰(俗と善)とはサブカルチャー(低俗)であってもカルチャー(聖俗)へ高めていくことを言います。
そしてフジテレビとは同じように俗を主張しましたが悪であったのです。
偽善(俗と悪)とはカルチャー(聖俗)へ一々敵対しサブカルチャー(低俗)へ貶めていく事を言います。
そういう意味でTBS(東京放送)は最高善信仰(俗と善)だったと思う。
そしてフジテレビは偽善(俗と悪)だったと思う。
人は勝者|フジテレビの偽善(俗と悪)を讃えるだろう。
しかし神は敗者|TBS(東京放送)の最高善信仰(俗と善)を讃えるだろう。
庵野秀明が代表する日本サブカルチャー(ヲタク芸術)は「バフォメットの異端教団」(明けの明星)であり最悪の偽善者です。
それは「偽善(俗と悪)」なのです。
そして庵野秀明はそれを「芸術家」(カトリックロゴスによって根拠付ける信仰)と定義しています。
それは「トートロジーと循環論証」を「芸術」(カトリックロゴスによって根拠付ける信仰)と定義した高橋源一郎と同様です。
循環論証
「バフォメット作品」の制作が庵野秀明の特徴と言えます。
「偽善(俗と悪)なヲタク善人の面子」なのです。
それはアンチカトリック(敵対する者)なのです。
カトリック信仰の奇跡へ一々敵対するアンチカトリックは「末法思想」を唱え「一億玉砕」へ向かうのです。
要は「バカの見本」です。
「芸術」(カトリックロゴスによって根拠付ける信仰)とはマス・コミュニケーションである
作品制作に於いての最重要はマス・コミュニケーションである。
それはその作品のメッセージとコミュニケーションの在り処となっているからです。
それは「カトリックロゴス感覚」です。
そのアニメ映画が「唯一性のペルソナの確立」(カトリック信仰から形成されたオリジナル)として芸術(カトリックロゴスによって根拠付ける信仰)足り得るかどうかを判断するにはその「カトリックロゴス感覚」の有無にかかっています。
宮崎駿が参加したアニメ制作に於いてその「カトリックロゴス感覚」を発しているのは明らかに宮崎駿本人なのです。
宮崎駿の「絵コンテ」はアニメ制作においてその制作の意図(カトリックロゴス感覚)を発していることを明確に示しています。
それはアニメ作品制作における「カトリックロゴス感覚」であり「芸術家」(カトリックロゴスによって根拠付ける信仰)の在り処を示しているのです。
しかし庵野秀明は宮崎駿(カトリックアニメ)へ敵対する「バフォメットアニメ」を制作する。
それは制作の意図(カトリックロゴス感覚)を発するのではなくアンチカトリック(敵対する者)を扇動するデマゴーグとなっている。
だから庵野秀明の代表作品「新世紀エヴァンゲリオン」は「バフォメットアニメ」でありアンチカトリック(敵対する者)を扇動するデマゴーグとなっています。
それが社会現象を引き起こしたと持て囃された訳です。
庵野秀明は宮崎駿が発した「カトリックロゴス感覚」が理解できないのだろうと思います。
ただここで一言発言させてください。
ある「ビースト」が「唯一性のペルソナの確立」(カトリック信仰から形成されたオリジナル)を持っているのならその「ビースト」は「神の王国の住人」です。
「天使の両翼」を持った「ビースト」(ペルソナ)であるのです。
しかし映画「風の谷のナウシカ」に於ける庵野秀明の作画担当部分は「暴力」を美化したヒーロー(ダークヒーロー)が形成されています。
庵野秀明には「唯一性のペルソナの確立」(信仰から形成されたオリジナル)が全くありません。
庵野秀明は宮崎駿が描く「風の谷のナウシカ」の「愛の賛美」へ一々敵対する「黒ミサ」を執行します。
孔子「論語」は「カトリックロゴス感覚」です。
しかし「カトリックロゴス感覚」を理解できない存在はその冒涜を可能とする「超感覚」(マウンティング)を形成しています。
それが「無理を超越する。」(マウンティング)です
「カトリックロゴス感覚」を解せない「ビースト」は「無理を超越する。」(マウンティング)と称して「超感覚」(超能力)を掲げるのです。
それは「バフォメットの異端教団」(明けの明星)の在り処となっています。
又、その超能力(マウンティング)の正体は「バフォメットの呪術崇拝」と「バフォメットの偶像崇拝」が形成するヲタ芸(cult)の祀り上げでしかありません。
「バフォメットの異端教団」(明けの明星)は「Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent.」です。
それは「カトリックロゴス感覚」と「doxa(絶対知)」を入れ替え逆転させる「黒ミサ」です。
「名作」に見る「カトリックロゴス感覚」と「バフォメットの異端教団」(明けの明星)
「機動戦士ガンダム」に於いて「芸術」(カトリックロゴスによって根拠付ける信仰)を制作したのは安彦良和です。
しかし一般に「機動戦士ガンダム」の生みの親と言われている「富野由悠季」は「庵野秀明」と同様に「バフォメットの異端教団」(明けの明星)です。
安彦良和は宮崎駿にような「絵コンテ」ではなく「原画」によって「カトリックロゴス感覚」を発していたのです。
安彦良和の「原画」と宮崎駿の「絵コンテ」は「カトリックロゴス感覚」のあり方として共通しています。
又「魔法の天使クリィミーマミ」はそういった意味で「伊藤和典」が「カトリックロゴス感覚」を発していたのです。
伊藤和典は「芸術家」(カトリックロゴスによって根拠付ける信仰)と言えるのです。
伊藤和典のカトリックロゴス感覚が「魔法の天使クリィミーマミ」と言う大傑作を生んだのです。
そして押井守作品も伊藤和典の脚本で制作した映画が高く評価されています。
それは伊藤和典の「カトリックロゴス感覚」があったからです。
映画監督として高く評価された「押井守」は「庵野秀明」と同様に「バフォメットの異端教団」(明けの明星)だったのです。
そこに「芸術家」(カトリックロゴスによって根拠付ける信仰)の「真偽」を評価する「バフォメットの異端教団」(明けの明星)が生まれてしまいました。
それがヲタク芸術(日本サブカルチャー)の隆盛です。
ここで言えることは宮崎駿も安彦良和も伊藤和典もヲタク芸術(日本サブカルチャー)ではなかったのです。
その黙示録(revelation)が現代の課題です。
「金子修介」のガメラシリーズも伊藤和典が脚本を書きました。
同様にその成功は伊藤和典の「カトリックロゴス感覚」にあり、その失敗は「金子修介」の「バフォメットの異端教団」(明けの明星)にあったのです。
そしてそこにおける「芸術家」(カトリックロゴスによって根拠付ける信仰)の真偽の判定も「バフォメットの異端教団」(明けの明星)が起こってしまったのです。
金子修介「1999年の夏休み」のバフォメット
それは金子修介「1999年の夏休み」を鑑賞するとわかり易いです。
何故ならば萩尾望都「トーマの心臓」を原作としたこの映画は全寮制のギムナジウムを舞台としているからです。
それは登場人物がほとんど男子学生であることを示しています。
しかし金子修介は男子学生役に「女優」を起用したのです。
それは有名な事実です。
登場する男子学生全員を女優たちが演じた訳です。
わかり易く言ってこれは「カトリック信仰」へ一々敵対した「バフォメットの異端教団」(明けの明星)の「日本サブカルチャー」による演出です。
同様に「バフォメットの呪術崇拝」であり「バフォメットの偶像崇拝」のヲタク芸術作品だった。
しかし萩尾望都「トーマの心臓」はカトリック信仰の芸術作品だった。
これではそのイマーゴ(真善美の回復)が示す「善悪」|「真偽」|「美醜」の概念へ一々敵対した「黒ミサ」が執行されてしまいます。
又はそれだけのバフォメット映画となってしまいます。
萩尾望都「トーマの心臓」は何処へ行ってしまったのか?
又、このバフォメット映画を賛美することは「芸術家」(カトリックロゴスによって根拠付ける信仰)の真偽の判定への「黒ミサ」を如実に物語っています。
映画賞が「バフォメットの異端教団」(明けの明星)とされているのもこれが理由です。
今の映画界は一部を除いて「バフォメットの異端教団」(明けの明星)です。
一部とはアメリカのアカデミー賞と考えています。
カトリック信仰の浄化作用
アカデミー賞には何故か浄化作用があるように感じます。
浄化作用とは〈「悔い改め」とそれに対する「隣人愛」〉です。
アメリカ文化にはカトリック信仰が根付いているのでしょう。
ただそうなるとアメリカ文化は本物と言えます。
そして他の文化は偽物と見做せます。
ヨーロッパ文化も文化的劣等と見做されます。
当然日本文化も文化的劣等と見做されます。
浄化作用の有無が大きいのです。
浄化作用とはカトリック信仰のあり方です。
アメリカ文化の特異性はカトリック文化の存在感にあります。
特異性がカトリック文化とは矛盾した言い方です。
何故ならカトリックと特異性(スペシャル)は意味が真逆だからです。
しかしそれは本物を示しているのです。
私は「カトリックロゴス感覚」でこれを書いています。
「カトリックロゴス感覚」とは「Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty.」です。
庵野秀明のヒーロー「巨神兵」の「破壊|爆破|弾圧」と宮崎駿のメシア「風の谷のナウシカ」の「政治的最高善|永遠平和」の間の聖戦となっている
私はこのデザインのポスターを中学時代訪れた軟式テニス部の知人の家で初めてみました。
そしてすっかり気に入ってしまったのです。
そしてこのポスターがコミック版ナウシカに付録として付いていることを知りすぐに購入しました。
今でもそのポスターは所有しています。
1986年の当時、コミック版ナウシカは3巻までしか出版されていなかったと記憶しています。
私は高根公団駅の駅前にある本屋で1巻から3巻まで纏めて購入しました。
その近辺には早稲田育英という学習塾があり中学3年生から通っていました。
確か学習塾のついでに購入したと記憶しています。
私はその頃から月刊アニメージュで「風の谷のナウシカ」の連載を楽しみにしていました。
しかし月刊誌であり休載も多く遅々として連載は進みませんでした。
当時はナウシカの続編の映画も期待していました。
しかしそれは宮崎駿本人によるものです。
何故ナウシカの続編に巨神兵の作画をした庵野秀明がしゃしゃり出るのか理解できません。
ナウシカが良かったのに何故か巨神兵が良かったことにされている。
それは「バフォメットの異端教団」(明けの明星)の作為だと思います。
私は庵野秀明に対する過剰な過大評価に歪なものを感じていました。
そのような「ヲタクの神々」のアンチカトリック(敵対する者)とは「悪魔の反吐」のようなものなのです。
「ヲタク芸術」とは「悪魔の反吐」なのです。
宮崎駿監督の「作画」
宮崎駿による素晴らしいナウシカの作画
私は庵野秀明が目論む「ナウシカ続編」(バフォメットアニメ)制作は阻止すべきだとする主張を持っています。
庵野秀明らの「ナウシカ続編」(バフォメットアニメ)制作の存在は「カトリックミサ」に対して公然と「黒ミサ」を執行する悪意を示しています。
それは「バフォメットの異端教団」(明けの明星)以外の何ものでもないのです。
「アンチカトリック」であり「アンチ聖書」となる。
それは「カトリックロゴス感覚」へ汚い唾(悪魔の反吐)を吐く冒涜行為でしかないのです。
総論
「カトリックロゴス感覚」とはイマーゴ(真善美の回復)のことを示しています。
イマーゴ(真善美の回復)を持つことによって「魂の浄化」(カタルシス)は得られるのです。
これが精神神経科治療のイマーゴ(真善美の回復)なのです。
カトリック信仰の浄化作用と同じ仕組みです。
「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」が浄化作用となります。
「doxaへ合わせろ」と主張し「doxaへ合わせた」と主張する人間関係とはヲタ芸(cult)によって「doxa」を祀り上げた偽善(俗と悪)の「バフォメット異端教団」(明けの明星)のあり方なのです。
それは偽善(俗と悪)の「doxa」と言えます。
偽善(俗と悪)の「doxa」は「原始的段階に近い」と言われネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)と見做されます。
何故ならば偽善(俗と悪)の「doxa」とは「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」のない「doxa」となっているからです。
カタルシスのない穢れた「doxa」なのです。
一方で「カトリックロゴス感覚」とはイマーゴ(真善美の回復)を持った「至高の抽象化の高み」と言われます。
それは最高善信仰(俗と善)の「doxa」と言えます。
最高善信仰(俗と善)の「doxa」とは「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を持っていることを示しています。
最高善信仰(俗と善)の「doxa」は「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を持つことにより見出されるのです。
これはカトリック信仰のあり方なのです。
カタルシスのある聖なる「doxa」なのです。
アニメ「電脳コイル」の謎と面白さは偽善(俗と悪)の「doxa」の世界観を描きながら最高善信仰(俗と善)の「doxa」をイマーゴ(真善美の回復)として提示したところにあります。
それは「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を持った「doxa」のあり方です。
徳間アニメとは「風の谷のナウシカ」も同様に「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」からのカタルシスを持つ聖なる「doxa」の作品が多く最高善信仰芸術(俗と善)となっています。
徳間書店と言えばアニメ月刊誌「アニメージュ」も発行していました。
宮崎駿「風の谷のナウシカ」の連載は徳間書店だったのです。
しかしその編集長だった鈴木敏夫は日本テレビ放送網の走狗となり果てています。
ただカトリックロゴス信仰を持っていたのは日本テレビ放送網ではなく徳間書店であったと考えています。
それは徳間康快を指し示していると思います。
ここで何故宮崎駿が読売系日本テレビ放送網であって毎日系TBS(東京放送)系列ではなかったのかを少し考えたいと思います。
徳間康快という人物が読売新聞出身であったからです。
彼はある意味ワンマンの実力者でありウィキペディアにも指摘がありますが宮崎駿を高く評価しその実力を認めた人物です。
ではそのような人物が何故毎日系TBS(東京放送)系列に存在しなかったのでしょうか?
それが不可能であった大きな理由を2つ挙げることができます。
一つ目は毎日新聞の経営危機です。
これは大事件でした。
この経営危機はある意味カトリック信仰への信仰弾圧としてあったと私は考えています。
そのような毎日新聞の経営危機によって毎日新聞系は衰退していったのです。
そしてTBS(東京放送)の最高善信仰番組(俗と善)に相応しいと思われる宮崎駿アニメは何故TBS(東京放送)アニメとならなかったのでしょうか?
それが2つ目の理由です。
これは上掲しました記事にあるように今道潤三の死去によってTBS(東京放送)の最高善信仰文化番組(俗と善)の衰退が明らかになっていく時期だったからです。
当時のTBS(東京放送)にとってアニメ映画事業は偽善(俗と悪)と見做されていたのではないでしょうか?
TBS(東京放送)は偽善(俗と悪)を嫌悪するあまり最高善信仰(俗と善)も見失っていくのです。
ここが今道潤三の卓越した指導力の喪失を明らかに示しています。
今道潤三はこう言いました。
俗であれ!
しかし悪ではいかぬ!
しかし最高善信仰番組(俗と善)を制作していく姿勢に俗への抵抗感が出てしまったのです。
妙な高尚ぶりが鼻について真面目なTBS(東京放送)と言われるようになりました。
(それでも私は嫌いではなかったです。何故ならば少なくとも偽善(俗と悪)を賛美しなかったからです。)
最高善信仰(俗と善)とは芸術制作でありそれを指導していくことは「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を持った「才能」(イマーゴ)を必要とします。
今道潤三にも徳間康快にも「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を持った「才能」(イマーゴ)があった訳です。
そのような「才能」(イマーゴ)は「電脳コイル」に出てくるセリフを想起させます。
「イマーゴがある!」
このアニメの設定では誰にでもイマーゴがある訳ではない。
神の恵みを受けた子供にだけイマーゴがあるのです。
私の記憶では二人の少女にイマーゴが存在しこのアニメの核心となっていました。
そういう意味で少なくとも今道潤三と徳間康快にはイマーゴがあったと想像されます。
しかし毎日系TBS(東京放送)系列にはそれ以降そのような「才能」(イマーゴ)が出現しませんでした。
それはカトリック信仰への信仰弾圧が大きいのかもしれません。
そういった「才能」(イマーゴ)のある人は潰されてしまうのです。
私は徳間書店の司馬遷「史記」を読み感動した体験を持っています。
理想主義とはイマーゴ(真善美の回復)を持ち「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を示しています。
それは「神の似姿」と言う「理想」を示しているのです。
一方で「非現実的な理想化」は「特効薬」を提供する「cult」のようなものです。
こういった「特効薬」は「霊感商法」が代表的存在だと思います。
何故ならば「プラシーボエフェクト」(偽薬効果)は「霊感商法」の理論と一致しているからです。
しかしこのような「プラシーボエフェクト」(偽薬効果)では「魂の浄化」(カタルシス)を得ることは出来ません。
このような「cult」は「特効薬詐欺」と見做されます。
ニセ札界のブラックホール
ニセ薬界のブラックホール
国立千葉大学医学部附属病院精神神経科は「特効薬詐欺」の震源地であった。
ルパンが云うにはニセ薬界のブラックホールである。
これは有名な伝説である。
医学とは「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を必要とする。
病理学とは病気の仕組みと治療の仕組みを根拠付けるカトリックロゴスのことを示している。
しかし私が病理学的説明を国立千葉大学病院精神神経科教授伊豫雅臣へ求めた時に彼は奇妙な返答をした。
彼はこのように真顔で返答した。
「私達の医療行為は医学(カトリックロゴス)ではなく医術(マニュアル)である。」
私はそれを聞いて呆気にとられた。
彼らの医療行為は「医学(カトリックロゴス)を根拠付ける信仰」のない「医術(マニュアル)」であるという主張であった。
私は彼らから当たり前のようにそのような主張を宣言されてしまった。
要は彼らの医術の根拠は先程指摘した「プラシーボエフェクト」(偽薬効果)でしかなく「霊感商法」に近しいものだったのです。
私は彼らの医療行為を幾らか観察してきた。
それは一言で評して「ガチャガチャポン」(何かやった感!|何もなかった感!)であった。
何故ならば精神薬理学(霊感商品)にしても電気治療(ショック療法)にしても「ガチャガチャポン」(何かやった感!|何もなかった感!)で「プラシーボエフェクト」(偽薬効果)を主張しているだけのように見えた。
そういったあり方は「霊感商法」と同じで異端教団の悪徳商法であり人間関係のヲタ芸(cult)で祀り上げた紛い物であった。
何故ならばイマーゴ(真善美の回復)がないからである。
彼の教授回診はヲタ芸(cult)の祀り上げイベントと化していた。
そこでは「偽善(俗と悪)なヲタク善人の面子」が医療関係者であり特に精神神経科の医師であった。
精神神経医学界の腐敗は目を覆うばかりの惨劇となっている。
それが現実であった。
これはニセ薬界のブラックホールである。
何故ならばニセ薬は最強のドル箱(a gold mine)であるからだ!
金儲けの種
日本サブカルチャーによる「バフォメット」を正当化する行為は日本カトリック芸術史(カトリックロゴスによって根拠付ける信仰)に於いて最大の汚点となるであろう
ただ言えることは抗議の意志を示すことは後世のために大切だろうと思う。
何故ならばそれが「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」となり得るからです。
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