聖宮崎駿ルパン三世作品論集成 第6回「聖アニメーション論」
【カトリックアニメ信仰】
イマーゴ信仰(オマージュ信仰)が受肉した名シーン
天軍七隊 権天使(Principalities)
ヨハネによる福音書の冒頭に出てくる「はじめに、ことばがいた。」の「はじめ」にあたる言葉である。
「ルパン三世の殉教者(確信性の確保)」を考察する
副題 聖宮崎駿の「エチカ(倫理学)」とは?
「はじめに拘る人」を「倒錯対象」とするコンフィデンスマン(倒錯性の支配)
この聖宮崎駿ルパン三世作品論集成も残すところ後2回です。
ここまで指摘してきました要点を整理したいと思います。
「聖書」を「倒錯対象」とするコンフィデンスマン(倒錯性の支配)が賛美される時代に「黙示録」と「末法思想」の間に於いて「最後の審判」の必要性を感じる。
「末法思想」は「黙示録」を「倒錯対象」とするコンフィデンスマン(倒錯性の支配)である。
何故ならば「神とことば」を最も穢すのが「末法思想」であるからである。
「ヲタク人(黒魔女)」の「倒錯対象」とは「ヨハネによる福音書」の「序文」だった。
「神とことば」を「倒錯対象」とした「呪術崇拝と偶像崇拝」とは最強のコンフィデンスマン(倒錯性の支配)でした。
「はじめ」を「倒錯対象」とするコンフィデンスマン(倒錯性の支配)は「おわりに拘る人(黒魔女)」です。
「はじめ」を「倒錯対象」とする「おわり」が行われる。
「はじめ」とは「ヨハネによる福音書」の「神とことば」でありました。
そして「おわり」とは「神とことば」を「倒錯対象」とする「呪術崇拝と偶像崇拝」です。
そして「呪術崇拝と偶像崇拝」とは「末法思想」を意味しています。
そういう意味で「はじめに拘る人(白魔女)」は「ペルソナ(オリジナル)」の形成と見做されます。
何故ならば「神とことば」の殉教者(確信性の確保)とは「イマーゴ(神の似姿)とロゴス(恵みと真理)」を受肉しているからです。
又、「神とことば」は「イマーゴ(神の似姿)とロゴス(恵みと真理)」でありイエス・キリストを介して来るとされています。
そういう意味で「はじめに拘る人(白魔女)」は全てキリスト者です。
このように「はじめに拘る人(白魔女)」は殉教者(確信性の確保)であり得るだろう人物と思われます。
そういった人はホワイトマジシャンであり文化社会を守護し形成していきます。
「はじめに拘る人(白魔女)」は「守護聖人」と言えるのです。
そして「はじめに拘る人(白魔女)」の「黙示録」とは「最後の審判」なのです。
「はじめに拘る人(白魔女)」は「最後の審判」の殉教者(確信性の確保)であり得るだろう。
「おわりに拘る人(黒魔女)」は「末法思想」のコンフィデンスマン(倒錯性の支配)であるだろう。
しかし「神とことば」を「倒錯対象」としたコンフィデンスマン(倒錯性の支配)は「最大の罪」です。
その罪に対し「はじめに拘る人(白魔女)」の「最後の審判」がなされ「最大の罰」が下るだろうと予想されます。
そのことは「ヨハネの黙示録」に記されています。
一方で「はじめに拘る人(白魔女)」を「倒錯対象」としたコンフィデンスマン(倒錯性の支配)が賛美されていきます。
それは「おわりに拘る人(黒魔女)」の「末法思想」となっています。
「末法思想」とはイエス・キリストを「倒錯対象」とするコンフィデンスマン(倒錯性の支配)を賛美していくことを示しています。
そのようなアンチキリストはブラックマジシャンであり文化破壊を齎し世界を破滅へ導いていきます。
「おわりに拘る人(黒魔女)」の「末法思想」とは「黒ミサの儀式」です。
それは「おわりに拘る人(黒魔女)」によった「世界の破滅」であって「最後の審判」の不可能性を示しています。
ハルマゲドンとは「はじめに拘る人(白魔女)」と「おわりに拘る人(黒魔女)」の聖戦のことを指し示しています。
「最後の審判」の阻止を謀った「末法思想」と言えるでしょう。
一方で「末法思想」に対する「最後の審判」が「黙示録」と言えるでしょう。
SONYとは「はじめに拘る人(白魔女)」であった
例えば井深大が社長を務めたSONYは「はじめに拘る人(白魔女)」であった。
井深大自身はキリスト教徒であったらしい。
ソニーグループは事業拡大によって多岐に渡る一大グループとなっている。
その中で私はソニー・ミュージックに所属する女性アイドルグループに興味深い現象を見出した。
例えばその先発の女性アイドルグループで有名だった「AKB48」はソニー・ミュージックの所属ではない。
しかしその後発の「乃木坂46」はソニー・ミュージックであった。
ここだけを見るとソニー・ミュージックは決して「はじめに拘る人(白魔女)」ではないように見える。
明らかに「AKB48」の方が先発でした。
しかし「はじめに拘る人(白魔女)」とは一体何であるかが問われるだろう。
「AKB48」の大成功が「大人数の女性アイドルグループ」にあるのならそれは「設定のアイデア」に過ぎなかった。
そういった「全知全能感」を伴った「設定のアイデア」に「根拠付け」はなく「情勢論とアジテーション」が「その場」を支配する。
「根拠付け」はなくとも「情勢論とアジテーション」によって支配が確立されるのです。
「乃木坂46」は「設定のアイデア」ではない。
「乃木坂46」は「神とことば」であり、「イマーゴ(神の似姿)とロゴス(恵みと真理)」を持っている。
そこでは「全知全能感」のコンフィデンスマン(倒錯性の支配)を禁忌とすることで「一定の根拠付け」が必要とされている。
「乃木坂46」には「情勢論とアジテーション」による支配ではなく「一定の根拠付け」が「インテリジェンス」として必要とされる。
賛否があるのは承知していますが以前「動物虐待事件」を起こしたSONY社員の主張に「理性の欠落」がありました。
それは「理性のない動物」に対する「動物虐待」の不成立の主張でした。
ただ「理性」とは殉教者(確信性の確保)であり得るだろう。
そして「理性の欠落」とはコンフィデンスマン(倒錯性の支配)であるだろう。
それは「フィレットやヒト」と言った「呪術崇拝と偶像崇拝」では判断できないことを示している。
よってこのSONY社員の主張は「理性の欠落」でありコンフィデンスマン(倒錯性の支配)であったと言える。
このあり方は「情勢論とアジテーション」と「OSINT (Open Source Intelligence)」の違いとして有名である。
ソニー・ミュージックが拘った「はじめ」とは「神とことば」であり「イマーゴ(神の似姿)とロゴス(恵みと真理)」にあったと言える。
ソニー・ミュージックとはその証しのために来たヨハネのことであるだろう。
ソニー・ミュージックとは聖書に記された証しのための役目を帯びているように感じる。
それがソニー・ミュージックの「OSINT (Open Source Intelligence)」である。
そうなると逆に「AKB48」の方が「神とことば」である「イマーゴ(神の似姿)とロゴス(恵みと真理)」を「倒錯対象」としたコンフィデンスマン(倒錯性の支配)であるように見えます。
「AKB46」は「情勢論とアジテーション」であって「神とことば」ではない。
「AKB48」は実際には先発ではなく後発だった。
よって「乃木坂46」は「神とことば」に拘りを持った先発と言えるのです。
要はソニー・ミュージックは殉教者(確信性の確保)であったと言えるのです。
「神とことば」の殉教者(確信性の確保)
ここで軽くSONYが殉教者(確信性の確保)であり得るだろう理由を考察します。
SONYとはSON(神の子)を示しイエス・キリストを暗示している。
またヘブライ語に於いて右からアルファベットが綴られる。
ことばの始まりに関して右側とされる理由とは旧約聖書がヘブライ語で書かれたためであろう。
神が右側である理由とはヘブライ語に於いてのアルファベット(ことば)の始まりを示していると想像される。
そういったヘブライズム(古代ユダヤ教)はヘレニズム(ギリシャ文化)を介してヨーロッパに広まった。
アドルフ・ヒットラーが主張したアーリア人とはヘブライズムに対するヘレニズムの優位性を捏造したものだった。
それによってヘブライズムに対するヘレニズムの大虐殺が起こった。
先ずヘブライ語の聖書原典がギリシャ語へ翻訳される。
その後ギリシャ語の翻訳聖書又はヘブライ語の聖書原典がラテン語に翻訳されていく。
ラテン語の原典聖書について私は詳細に知らない。
私の推測だが翻訳聖書から聖書原典を遡っていけば「文化形成と国民国家形成」はよく理解されるだろうと思っている。
要は聖書のあり方が「文化形成と国民国家形成」を指し示しているからです。
そこからヨーロッパ各国の言語は翻訳聖書によって確立されていく。
ラテン系の言語の差異化は単なる方言ではなく翻訳聖書によって国民文学が形成されることで確立されていった。
ラテン系以外でも現代の国民国家の確立は翻訳聖書によって国民文学が形成された故であるだろう。
このように国民国家とは「神とことば」であり「イマーゴ(神の似姿)とロゴス(恵みと真理)」としてあった。
ただそういった「神とことば」を「倒錯対象」とするコンフィデンスマン(倒錯性の支配)が賛美され始める。
これはヲタク世代を標榜する「次世代」であった。
しかし「神とことば」の「イマーゴ(神の似姿)とロゴス(恵みと真理)」を「倒錯対象」とするコンフィデンスマン(倒錯性の支配)が「次世代」というのは奇妙であった。
結局は「ヨハネによる福音書」の通りイエス・キリストを証しする役目が「次世代」に於いて必要なのだろう。
「ヲタク世代」は「次世代」のフラッグシップではなかった
ヲタク芸術家で名を馳せている庵野秀明監督は「ヲタク世代」を標榜した「次世代」のフラッグシップでありました。
そして庵野秀明監督は「風の谷のナウシカ」に於いて名シーンとされる「巨神兵復活の原画」を担当しました。
彼は聖宮崎駿監督の東薫を受けたと言われています。
聖宮崎駿ファンの私にしてみれば羨ましい限りです。
しかし聖宮崎駿監督は「はじめ」の殉教者(確信性の確保)であり得るだろう。
一方で庵野秀明監督は「はじめ」を「倒錯対象」とするコンフィデンスマン(倒錯性の支配)でしかなかったのです。
「巨神兵復活の原画」はそれを象徴している。
聖宮崎駿監督は「風の谷のナウシカ」の「イマーゴ(神の似姿)とロゴス(恵みと真理)」を創作しました。
一方で庵野秀明監督は「イマーゴ(神の似姿)とロゴス(恵みと真理)」を「倒錯対象」とするコンフィデンスマン(倒錯性の支配)の象徴であった「巨神兵復活の原画」を担当しました。
結局、聖宮崎駿監督は庵野秀明監督に「ナウシカの原画」を担当させなかった。
それは英断でした。
何故ならナウシカを「倒錯対象」とするコンフィデンスマン(倒錯性の支配)に「ナウシカの原画」を担当させることはできないからです。
庵野秀明監督はこの事実を「倒錯対象」とするコンフィデンスマン(倒錯性の支配)となって自らを誇りました。
最も評価の低い意味があった「巨神兵復活の原画」を担当した事実を「風の谷のナウシカ」で最も評価の高いシーンとして大宣伝したのです。
この大宣伝は公共放送NHKで盛んに行われていました。
私は奇妙に感じていました。
私にしてみればナウシカがこの映画の魅力だった。
それがこの公共放送NHKの番組では「巨神兵復活の破壊シーン」が名シーンとされている。
私は公共放送NHKの番組を観て非常に驚いたことを覚えています。
この番組に登場した庵野秀明監督は聖宮崎駿監督から回転寿司でかっぱ巻きをごちそうされたエピソードを語りだしました。
しかしそれは「下種の謗り食い」でした。
庵野秀明監督によると「聖宮崎駿監督はエネルギーを補給するためだけに見え、ただがつがつ回転寿司をむさぼり食っていた。」と証言されていました。
一方で「庵野秀明監督はたいへん恐縮してかっぱ巻きを自ら選んで食べた。」と主張していた。
これらは庵野秀明監督の「美意識」と言えるだろう。
何故ならこの「美意識」は庵野秀明監督の「匙加減」によっていくらでも塩梅可能な認識と言えるからです。
だからこの庵野秀明監督の証言は全て倒錯している。
聖宮崎駿監督は美味しそうに回転寿司をたらふく食べたと見做せる。
一方で庵野秀明監督はなんだか不味そうに自ら選んだかっぱ巻きを聖宮崎駿監督から少しだけごちそうになったらしい。
感じが良いのは聖宮崎駿監督の方であり感じが悪いのは庵野秀明監督の方である。
聖宮崎駿監督の方が庵野秀明監督に不快を感じて当然だった。
これらはカトリックロゴス感覚から形成された「美学」のあり方と言えます。
ここに「美意識」と「美学」のあり方が如実に現れている。
「美意識」は三下奴の認識であり、「美学」は神の意志である。
それは「バカ犬」(盲目の道案内)と「牧羊犬」(善き羊飼い)の違いと言えます。
庵野秀明監督は「下種の謗り食い」だった。
庵野秀明監督とはコミュニケーションが不可能な「倒錯動物」でした。
ヲタク人は「倒錯動物」だった。
ヲタク人は「人間動物(ペルソナ)」じゃなかった。
これは聖宮崎駿監督を「倒錯対象」とするコンフィデンスマン(倒錯性の支配)の一連の動きだった。
公共放送NHKの正体は「神とことば」を「倒錯対象」とするコンフィデンスマン(倒錯性の支配)だったのです。
それは露骨なデマゴーグだった。
私に言わせればNHKは全く公共放送ではなかった。
公共放送NHKとはコンフィデンスマン(倒錯性の支配)を大宣伝するデマゴーグだった。
「次世代」のフラッグシップとは殉教者(確信性の確保)であり得るだろう方を言います。
「ヲタク世代」は「神とことば」を「倒錯対象」とするコンフィデンスマン(倒錯性の支配)です。
だから「ヲタク世代」には殉教者(確信性の確保)は無理だった。
しかし実際に殉教者(確信性の確保)であり得るだろう「三位一体のペルソナ(オリジナル)」は存在している。
それは「唯一性」であって「フラッグシップ」ではない筈です。
「唯一性」はメシアとして人々を殉教者(確信性の確保)へ導くだろう。
真の「次世代」のフラッグシップとはそういった「唯一性」のメシアを示している。
殉教者(確信性の確保)の受肉と聖アニメーション
聖宮崎駿監督が創作したルパン三世はメシアとして大活躍する。
聖宮崎駿監督作品のルパン三世は一切の盗みはしなかった。
しかし聖宮崎駿監督作品のルパン三世が一つだけ盗んだものがあった。
それは「知識(心)」だった。
イマヌエル・カントは『したがってわたくしは、殉教者(確信性の確保)に余地を求めるために、知識を除去しなければならなかった。』と記している。
ルパン三世は殉教者(確信性の確保)に余地を求めるために「知識(心)」を盗んでいった。
そしてルパン三世に「知識(心)」を盗まれた人たちは殉教者(確信性の確保)であり得るだろう「余地」を得ることができたのです。
それによってその人は永遠の生命を得ることができます。
何故なら殉教者(確信性の確保)であり得るだろう生き様とは「私の肉、真実の食べ物」と「私の血、真実の飲み物」を持って生きていくことを示しているからです。
聖宮崎駿監督作品は視聴者とアニキャラの両者に永遠の生命を齎している。
聖宮崎駿監督作品とは最高の殉教者(確信性の確保)であり得るだろうアニメ作品でした。
それは「聖アニメーション」だったのです。
「パン(真実)」と「スカトロジー(デマゴーグ)」
一方で「パン(真実)」を「倒錯対象」とするコンフィデンスマン(倒錯性の支配)はデマゴーグを示しています。
又、このように「パン(真実)」を穢す行為とはスカトロジーを同時に示しています。
デマゴーグとはスカトロジーであったのです。
聖アニメーションを「倒錯対象」とするコンフィデンスマン(倒錯性の支配)とは「ヲタク人の正体」であった。
そういったヲタク人とはデマゴーグでありスカトロジーを趣味とした破廉恥漢だった。
ヲタク人はそのような穢らしい趣味を人々に押し付けているのです。
そういったヲタク思考とは「パン(真実)」を穢していくことを趣味としたアンチキリストとなっている。
これは非常に頭の悪いヲタク思考を他者へ強要することでありコンフィデンスマン(倒錯性の支配)でしかありません。
それは人間関係を「倒錯対象」としたコンフィデンスマン(倒錯性の支配)のあり方でした。
そのようなヲタク思考によってしか生きられない人の存在は迷惑でしかありません。
彼らヲタク人こそいい加減にするべきなのです。
テレビ局の場合
テレビ局で言えば「民間放送TBS系列局」は「パン(真実)」を食べて生きているレアなケースです。
しかし他の全てのテレビ局は全滅と言っていい状態です。
「公共放送NHK」も「民間放送系列局(TBS系列局を除く)」もデマゴーグでありスカトロジーだったのです。
彼らは視聴者を「倒錯対象」とするコンフィデンスマン(倒錯性の支配)でしかありません。
彼らの気持ち悪い笑顔を見ると吐き気がします。
いい加減厚化粧の作り笑いは止めて欲しいです。
このようにコンフィデンスマン(倒錯性の支配)が形成する「循環論証」によった視聴環境の中で「聖アニメーション」とは殉教者(確信性の確保)であり得るだろう「光」となっていたのです。
「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」、コンフィデンスマン(倒錯性の支配)のスカトロジー、「哲学(知を愛する)」
例を挙げるとすれば「マニア」とは「聖アニメファン」の資質であったのです。
一方で「マニア」とは「ヲタク人」の習性でもあった。
この2つの「マニア」は全く別物であり「似て非なり」であったのです。
前者の「マニア」は「神的霊感」であったり「神の贈り物」としての「神的狂気」を言った。
これは「皇室」の「マニア」を示していて、「カトリックエレクト」の資質であったのです。
そしてこのように「皇室」とは殉教者(確信性の確保)を根拠として形成されたのです。
殉教者(確信性の確保)であり得るだろう「聖アニメファン」とは「高度な精神的姿勢ユーモア」なのです。
後者の「マニア」は「熱中する人」や「躁うつ病」を示していた。
これはコンフィデンスマン(倒錯性の支配)の習性であった。
コンフィデンスマン(倒錯性の支配)である「ヲタク人」とは「お下劣」なのです。
「高度な精神的姿勢ユーモア」のあり方は「ヒポクラテスの誓い」としてもとても有名です。
Hippocratic Oath (hip′ō‐krat′ik ōth).
誓い
大槻マミ太郎 訳
後代きわめて重要視されるようにになった『誓い』も、文献上では、紀元一世紀のローマの医師スクリボニウス・ラルグスの言及がはじめてであり、紀元前に言及した人は一人もいなかった。しかもこの世紀は、大ローマ帝国の頽廃が底なしに進むか一方でこれと反比例したきびしい精神の再高揚がはかられ、医学精神のルネッサンスも行なわれた時代であった。しかもそれがヒポクラテスの名と結びついたのである。しかし実際は、『誓い』の前半部分の師弟の誓いと後半部分の医師の戒律・守秘義務は、全集の内容からみて、ヒポクラテス医学派内でとくにきびしく守られたとはどうしても考えられない。しかしここには、遠く古代ギリシアのホメロス以来高く評価されてきた医術とさらにその後の前六〜五世紀中心にギリシアをおそった精神革命の嵐のなかででき上がったヒポクラテス派の医学と、したものが誰かによって作成され、紀元一〜二世紀ローマ時代のヒポクラテス全集刊行時に全集の中に差し込まれたとみることもできよう。とにかく『誓い』には、かまびすしいソフィスト時代以前の古きギリシアの医学精神状況が基調になっていることは否定できない。
医神アポロン、アスクレピオス、ヒュギエイア、パナケイア、およびすべての男神・女神たちの御照覧をあおぎ、つぎの誓いと師弟誓約書の履行を、私は自分の能力と判断の及ぶかぎり全うすることを誓います。
この術を私に授けていただいた先生に対するときは、両親に対すると同様にし、共同生活者となり、何かが必要であれば私のものを分け、また先生の子息たちは兄弟同様に扱い、彼らが学習することを望むならば、報酬も師弟誓約書もとることなく教えます。また医師の心得、講義そのほかすべての学習事項を伝授する対象は、私の息子と、先生の息子と、医師の徒てに従い師弟誓約書を書き誓いを立てた門下生に限ることにし、彼ら以外の誰にも伝授はいたしません。
養生治療を施すにあたっては、能力と判断の及ぶかぎり患者の利益になることを考え、危害を加えたり不正を行なう目的で治療することはいたしません。
また求められても、致死薬を与えることはせず、そういう助言も致しません。同様に婦人に対し堕胎用のペッサリーを与えることもいたしません。私の生活と術ともに清浄かつ敬虚に守りとおします。
結石患者に対しては、決して切開手術は行なわず、それを専門の業とする人に任せます。
また、どの家にはいって行くにせよ、すべては患者の利益になることを考え、どんな意図的不正も害悪も加えません。とくに、男と女、自由人と奴隷のいかんをとわず、彼らの肉体に対して情欲をみたすことはいたしません。
治療のとき、または治療しないときも、人々の生活に関して見聞きすることで、およそ口外すべきではないものは、それを秘密事項と考え、口を閉ざすことにいたします。
以上の誓いを私が全うしこれを犯すことがないならば、すべての人々から永く名声を博し、生活と術のうえでの実りが得られますように。しかし誓いから道を踏みはずし偽誓などすることがあれば、逆の報いを受けますように。
出典 エンタプライズ1985「ヒポクラテス全集」
コンフィデンスマン(倒錯性の支配)を強制されることによって「心的外傷」を受け「PTSD」を発症することはフロイト精神分析のヒステリーと同じであるだろう。
このヒステリーは「聖アニメファン」に特有であり「ヲタク人」には発症しない。
ヲタク芸術は聖アニメーションを「倒錯対象」とするコンフィデンスマン(倒錯性の支配)です。
「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」へ穢いつばを吐いて侮辱するのがヲタク人なのです。
それは「神とことば」を倒錯することを意味しヲタク思考を示しています。
ヲタク思考とはコンフィデンスマン(倒錯性の支配)なのです。
一方で殉教者(確信性の確保)は「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」を創作します。
その「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」へ穢いつばを吐くヲタク人は完全な「ニセモノ」です。
そして殉教者(確信性の確保)であり得るだろう「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」に対して穢いつばを吐く行為は「神」を倒錯するコンフィデンスマン(倒錯性の支配)です。
だからそういった「神」に対する冒涜行為とはコンフィデンスマン(倒錯性の支配)であるとされるのです。
殉教者(確信性の確保)であり得るだろう「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」は「ホンモノ」です。
しかしコンフィデンスマン(倒錯性の支配)のスカトロジーをヲタク芸術と称して「ホンモノ」とする活動が近年盛んです。
村上隆や庵野秀明ら多くのヲタク芸術家が世を跋扈しています。
そういったコンフィデンスマン(倒錯性の支配)のスカトロジーのヲタク芸術には「ホンモノ」の証しはなく「ニセモノ」でしかありませんでした。
何故なら殉教者(確信性の確保)であり得るだろう「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」ではないからです。
ヲタク芸術の「芸術」とは有名無実なのです。
私は「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」があります。
一方で庵野秀明らはコンフィデンスマン(倒錯性の支配)のスカトロジーがあるのです。
例えば「哲学」は「知を愛すること」を意味しています。
「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」とは「哲学」なのです。
それは「皇室のマニア」です。
一方でコンフィデンスマン(倒錯性の支配)のスカトロジーに「哲学」はありません。
何故ならばコンフィデンスマン(倒錯性の支配)となった人に「知を愛する理由」はありません。
コンフィデンスマン(倒錯性の支配)のスカトロジーとは「哲学」を「倒錯対象」として出来た「お下劣のマニア」なのです。
「知」へ穢いつばを吐きつけ穢すことは「愛」ではなくコンフィデンスマン(倒錯性の支配)です。
ここから分かるように「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」を主張し「哲学」を持っているものは殉教者であり「真実と誠実」が齎らす「確信性の確保」となっています。
一方でコンフィデンスマン(倒錯性の支配)のスカトロジーを主張する庵野秀明らとは「哲学」を穢していくコンフィデンスマン(倒錯性の支配)でありデマゴーグと言う特殊詐欺師と言えるのです。
(再編集版)
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