【カトリックアニメ信仰】⑤巨神兵のカトリックロゴスとは?
宮崎駿の「絵コンテ」と庵野秀明の「作画」を考察する
私のナウシカ愛はカトリックロゴス信仰としてある
宮崎駿と庵野秀明の「確執」の在り処
私は宮崎駿監督映画「風の谷のナウシカ」を愛している。
私が人生で一番多く鑑賞した映画は「風の谷のナウシカ」なのです。
そして「巨神兵が最強兵器として実戦で使用され王蟲の群れを薙ぎ倒していくシーン」の作画を担当したのが寄せ集め集団だった「トップクラフト」のスタッフ庵野秀明であったのです。
※彼は「風の谷のナウシカ」のDVDにコメンテーターとしてしゃしゃり出ている。
私は宮崎駿監督映画「風の谷のナウシカ」の「絵コンテ集」を読みました。
庵野秀明が宮崎駿監督の描いた「絵コンテ」を迫力ある色使いで表現していることが解ります。
これは果たして「宮崎駿監督」の「絵コンテ」の才能なのだろうか?
それとも「庵野秀明」の「作画」の才能なのだろうか?
この映画が最高善信仰芸術(俗と善)である核心は「宮崎駿監督」の「絵コンテ」が「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」であったことによっています。
要は庵野秀明の才能ではなく明らかに宮崎駿のカトリックロゴスの才能なのです。
「風の谷のナウシカ」の「玉に瑕」
この「巨神兵が最強兵器として実戦で使用され王蟲の群れを薙ぎ倒していくシーン」は宮崎駿監督映画「風の谷のナウシカ」の中で過剰に刺激が強く嫌悪を感じます。
カトリックロゴス感覚(Holy Communion)から受肉した「叡智」を齎していないからです。
宮崎駿の「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」が庵野秀明によって否定されているのです。
「叡智」とは「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」があっての「学の成立」を意味しています。
それは宮崎駿の「学の形成」となっているのです。
しかし庵野秀明はただ「破壊」と「爆破」と「弾圧」の描写シーンばかりを描きそれ以外を「雑」に描いています。
先程指摘しましたが庵野秀明には「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」からの演出が出来ていないのです。
だから彼は「破壊」と「爆破」と「弾圧」の描写シーンばかりに拘っていて才能を全く感じることができないのです。
庵野秀明は大げさな演出を神演出(特殊詐欺)として好む米津玄師と似ています。
彼らからはただ派手な演出だけで「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」を見い出すことができません。
庵野秀明にとって宮崎駿監督映画「風の谷のナウシカ」は「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」からの最高善信仰芸術(俗と善)ではなく「破壊」と「爆破」と「弾圧」の偽善芸術(俗と悪)でしかないのでしょう。
庵野秀明の手法は宮崎駿の「カトリック信仰から形成されるオリジナル」へ一々敵対し「特別扱い」の「ヒーロー(ダークヒーロー)」の存在を創造することです。
ここで言えば「巨神兵」が「特別扱い」の「ヒーロー(ダークヒーロー)」の存在と庵野秀明によってされています。
庵野秀明の「特別扱い」とは「暴力」を立てた「ヒーロー(ダークヒーロー)」の存在です。
それは「堕天使ルシフェルの召喚」です。
宮崎駿による庵野秀明の評価とは?
庵野秀明が監督して制作された「シン・仮面ライダー」の「ライダーキック」も「シンウルトラマン」の「スぺシュウム光線」もそういう意味で「堕天使ルシフェルの召喚」なのです。
それは「暴力」を「ヒーロー(ダークヒーロー)」とする「暴力」の美化でしかありません。
しかし宮崎駿の「カトリック信仰から形成されるオリジナル」は「風の谷のナウシカ」です。
それは「愛の賛美」なのです。
その示すところは何だろうか?
カトリック信仰へ一々敵対し弾圧することで他者の作品を穢す庵野秀明というスタッフは宮崎駿にとって偽善(俗と悪)なスタッフだったということになるのです。
「密室の邪神(偽善(俗と悪)なヲタク善人)」とは彼の存在だった。
「ヲタクのポピュリズム」の勝利
しかし何故彼の「ヲタクのポピュリズム」が優ったのだろうか?
彼のやり口は冒涜にあるからでしょう。
カトリックを信仰しない故に盲人を賛美するからです。
「ヲタクのポピュリズム」とはその様に発生します。
ヲタ芸(cult)で祀り上げることを「ヲタクのポピュリズム」と言うのです。
それは「回転寿司のエピソード」からも垣間見られます。
庵野秀明は宮崎駿監督から回転寿司(かっぱ巻き)を奢って貰いました。
しかし彼は宮崎駿の人物像を酷く貶めてNHK番組で証言を行いました。
この嫌らしさが庵野秀明のやり口なのです。
彼のやり口はカトリックロゴスへ一々敵対した「密室の邪神」を「ヲタクのポピュリズム」で祀り上げることで成立する。
カトリック信仰を冒涜することで堕落した人間から祭り上げられるあり方こそ庵野秀明なのです。
それは飼い犬に「ル・コルビュジエ」と名付ける安藤忠雄と同じです。
逆転したあり方がここに存在するのです。
彼らはかなり嫌な奴と言うことが判明します。
勘違いの「ヲタクエリート主義」なのです。
「ヲタクのポピュリスム」でエリートを主張する。
しかし「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」はありません。
それは人間のコネクションが勝利した証です・・・・。
庵野秀明を起用したのは何故だろうか?
では宮崎駿による庵野秀明の「巨神兵が最強兵器として実戦で使用され王蟲の群れを薙ぎ倒していくシーン」への起用は何故行われたのでしょうか?
これは謎ではあります。
本来このような「黒ミサ」のスタッフは使い物にならない。
しかし「巨神兵が最強兵器として実戦で使用され王蟲の群れを薙ぎ倒していくシーン」はある意味不毛なシーンなのです。
ただ巨神兵が自滅するだけですから!
ナウシカは一切関係していません。
「寄せ集め集団」の「トップクラフト」
そして庵野秀明を何故トップクラフトのスタッフとして採用されたかという「そもそも論」も出てきます。
しかしそれも「風の谷のナウシカ」を制作するために宮崎駿らが立ち上げた寄せ集め集団が「トップクラフト」だったことによっています。
「風の谷のナウシカ」はスタッフに拘った「スタジオジブリ」ではないのです。
要は庵野秀明らの多くはその後に設立された「スタジオジブリ」への落選組という意味があったのです。
そこでは「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」が問われるのでしょう!
ここに宮崎駿による庵野秀明への辛辣な評価が表れています。
宮崎駿は庵野秀明をアニメ制作スタッフには絶対に加えない。
「存在感」と言って「アニメ声優」として起用する。
最高善信仰芸術家(俗と善)と偽善芸術家(俗と悪)の間の露骨なやり合い(聖戦)が行われているのです。
宮崎駿監督作品「風立ちぬ」の主演声優|庵野秀明
何故、宮崎駿アニメ「風立ちぬ」において庵野秀明を「アニメ制作スタッフ」ではなく「アニメ声優」として起用したのでしょうか?
これは非常にモニュメンタルな出来事です。
宮崎駿は「起用理由」を庵野秀明の「声質」でもなく庵野秀明の「存在感」と言っています。
宮崎駿が指摘する庵野秀明の「存在感」とは何なのでしょうか?
宮崎駿にとっての「存在感」はサタン(敵対する者)を意味していると推察されます。
それはカトリック信仰へ弾圧を行うサタン(敵対する者)の存在です。
庵野秀明は宮崎駿の弟子ではなく敵対者である
庵野秀明は宮崎駿のカトリック信仰へ一々敵対しています。
宮崎駿の弟子どころかファンの一人でもないのです。
何故ならば宮崎駿の「カトリック信仰から形成されるオリジナル」へ一々敵対する「バフォメット異端教団」が庵野秀明のグループだからです。
庵野秀明にカトリック信仰を期待することは無理なことでしょう。
「ヒーロー(ダークヒーロー)」と最高善の神の愛徳を受ける「メシア」とは全く違うのです。
庵野秀明には「破壊」と「爆破」と「弾圧」の描写以外のことが見えていないのです。
「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」が全く理解できないのです。
宮崎駿はただ絵コンテの絵が上手いだけだといった発言をしています。
そこがわかっていないのです。
「風の谷のナウシカ」の魅力は何だろうか?
それは「カトリックロゴス信仰」(Holy Communion)が起こす最高善信仰の「愛の奇跡」です。
庵野秀明にはこのアニメ映画「風の谷のナウシカ」の大切な「カトリックロゴス信仰」が見えていないように感じます。
庵野秀明は「カトリックロゴス信仰」(Holy Communion)を解せないのです。
欲望へストーカーするパラノイア|庵野秀明
ただ「欲望へストーカーするパラノイア」なのです。
要は欲望を煽り扇動するデマゴーグなのです。
ネオ・ナチズム(盲目の道案内|デマゴーグ|極右台頭)の政治的宣伝コンテンツと同様なのです。
だから私は「宮崎駿監督」の「絵コンテ」に「庵野秀明」が「作画担当」として行った「過剰演出」がこのアニメ映画の「玉に瑕」となっていると感じています。
それにこの巨神兵のシーンには私の大好きな「ナウシカ」がほとんど登場していないのです。
「宮崎駿監督」は「欲望へストーキングするパラノイア庵野秀明」に「カトリック信仰のナウシカ」を描かせなかった。
「カトリックロゴス信仰」(Holy Communion)のないナウシカの存在はこの作品の全弾圧だからです。
宮崎駿はこの映画の監督としてそれだけは絶対にしなかった。
〈「欲望へストーキングするパラノイア庵野秀明」には「信仰者ナウシカ」は描かせない!〉という宮崎駿の考えは非常に理解できます。
「欲望へストーキングするパラノイア」とは「カトリックロゴス信仰」(Holy Communion)へ一々敵対し冒涜するオマージュ(印象操作)なのです。
庵野秀明の「絵コンテ」も「作画」も「演出」もオマージュ(印象操作)なのです。
庵野秀明の作品は宮崎駿監督の「カトリックロゴス信仰」(Holy Communion)としてイマーゴ(真善美の回復)を受肉する作品とは相容れない。
宮崎駿監督の愛するイマーゴ(真善美の回復)と庵野秀明が弄するオマージュ(印象操作)は最も相性が悪いのです。
庵野秀明が現在「巨神兵のアイデアは自らの手柄であり、巨神兵は自らの作品である。」と振る舞っているのは何故だろうか?
庵野秀明が描いたのは「破壊」と「爆破」と「弾圧」の描写シーンだけである。
そこには「カトリックロゴス信仰」(Holy Communion)のイマーゴ(真善美の回復)の受肉は齎されていない。
そこに最高善の神の叡智(真理)がないのです。
唯の「破壊」と「爆破」と「弾圧」の描写シーンに「叡智」があるわけがない。
彼の「知識(doxa)」は「兵器の知識(「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」のない「doxa」)」です。
例えばそれは「新世紀エヴァンゲリオン」の「N2爆雷」であったりする。
果たして「兵器の知識(「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」のない「doxa」)」は「叡智」と言えるのか?
「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」のある「doxa」とはカトリック信仰を持つことでしかありえない。
庵野秀明の「兵器の知識(「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」のない「doxa」)」にも「カトリックロゴス信仰」(Holy Communion)は全くありません。
私にはカトリックロゴスを庵野秀明から見い出すことが出来ないからです。
仮面ライダーごっこをいい大人が真顔でしているのです。
ただの「破壊」と「爆破」と「弾圧」の描写シーンを好む「弾圧チンパンジー(狂ったビースト)」と彼は化しています。
「戦争」とは「政治的最高善」(永遠平和)の延長であり「聖戦」と言える
何故なら兵器を政治的に利用する「戦争」とはクラウゼヴィッツ「戦争論」となるからです。
それは『「戦争」は「政治」の延長である。』と言うことを示しています。
そして「カトリックロゴス信仰」(Holy Communion)のある「政治」とは「政治的最高善」でありそれは「永遠平和」を示しています。
これは「岩波書店イマヌエル・カント全集」に書いてありました。
私は岩波カント全集をすべて読んだので知っています。
よって「戦争」とは「政治的最高善」(永遠平和)の延長としての「聖戦」と言えるのです。
それは「偽善(俗と悪)」に対する「最高善信仰(俗と善)」の「聖戦」を示しています。
「弾圧チンパンジー(狂ったビースト)」
庵野秀明のように「破壊」と「爆破」と「弾圧」の描写シーンを好む「弾圧チンパンジー(狂ったビースト)」にはイマヌエル・カントの言う「カトリックロゴス信仰」(Holy Communion)を解する「理性」は存在していません。
「カトリックロゴス信仰」(Holy Communion)を入れる場所を確保した「理性」は最高善の神の叡智を最高とします。
そして「弾圧チンパンジー(狂ったビースト)」の「破壊」と「爆破」と「弾圧」の描写シーンと対立するのです。
「弾圧チンパンジー(狂ったビースト)」は最高善の神の叡智へ一々敵対しマウンティング(超越感)をするのです。
それはヲタ芸(cult)で祀り上げたマウンティング(超越感)なのです。
「ソクラテス」と「doxa」の関係然り「ナザレのイエス」と「doxa」の関係然りであるのです。
「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」のない「doxa」は「カトリックロゴス信仰」(Holy Communion)なき存在であり「理性のない動物」として処分されても仕方がないのです。
庵野秀明の「鬱病告白」に対し引退勧告を進言する
庵野秀明の弾圧性はサタン崇拝と言えます。
ただ〈「サタン」は「サタン」〉〈「最高善の神」は「最高善の神」〉であるならそれは「カトリックロゴス信仰」(Holy Communion)なのです。
しかし〈「サタン」は「最高善の神」〉〈「最高善の神」は「サタン」〉であるならそれは「バフォメット異端教団」なのです。
※『シン』とはアンチキリストのサタンの烙印
庵野秀明はこのような「バフォメット異端教団」を至上とする作品制作をすることでそれを恰も一個の芸術であるかのように「前衛芸術の成立」(前衛詐欺)を弄し悪徳商法を続けています。
そして彼は「鬱病」の罹患を告白し世間の同情を買っています。
私は彼に不信感を抱く。
宮崎駿の作品の最高善信仰に明らかに敵対する「バフォメット異端教団」の作品を制作しておきながらその「バフォメット異端教団」を批判される段階になると「鬱病」だと言い出した。
要は「前衛芸術の成立」(前衛詐欺)が発覚する段階で「鬱病」を告白して逃げ切ったのです。
私は庵野秀明が安野モヨコと「おしどり夫婦」をいくら演じて見せても「前衛芸術の成立」(前衛詐欺)だと見做します。
私は彼を悪徳商法だと思っています。
「バフォメット異端教団」で「前衛芸術の成立」(前衛詐欺)を弄し「鬱病」という精神疾患の「前衛芸術の成立」(前衛詐欺)で逃げ切りました。
逃げ切り騙し抜きの完全犯罪が庵野秀明の理想です。
私は彼に不信感しかない。
あんな奴に映画を撮らせるセンスが解らないのです。
庵野秀明は人の作品を弾圧的に乗っ取りを謀ります。
「弾圧チンパンジー(狂ったビースト)」です。
「印象」を利用し「酷いシナリオ」を「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」のない「画で魅せる手法」で呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)の作品を制作する。
彼らの手法に「カトリックロゴス信仰」(Holy Communion)を入れる場所は存在していない。
「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」のない「絵コンテ」の完成度を上げていくだけなのです。
作画集は「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」のないイラスト集のような出来具合となります。
それは本来お絵描きですがエロ本の様なものです。
要はラーメンとお昼寝とアダルトビデオです。
それで彼らは実際に商売をしています。
そして彼らがアニメーションを華麗に制作していく過程は「カトリックロゴスによって根拠付ける信仰」のないグラフィックデザイナーと同じです。
ただそこには「芸術作品」の証明としてある筈の「カトリックロゴス信仰」(Holy Communion)を入れる場所が確保されていない。
ただオマージュ(印象操作)で作品を制作しています。
それは最高善信仰作品(俗と善)へ一々敵対する偽善作品(俗と悪)であって害虫のような存在です。
ではその正体はなんだろうか?
結局は欲望へストーキングすることで執着(パラノイア)を形成している。
悪徳商法と同じなのです。
価値のない作品であり価値のない商品なのです。
価値の無いものを人に売りつけている。
それは詐欺師の詐術であり詐欺行為である。
それを前衛と称し「前衛芸術の成立」(前衛詐欺)で売りつけている。
そこには「カトリックロゴス信仰」(Holy Communion)を入れる場所を確保した理念も文化もない。
庵野秀明さん!
いい加減にして欲しい。
名作を趣味の悪い「呪術崇拝が形成する象徴(偶像崇拝)」で穢さないで欲しい。
あなたはサタンアニメ崇拝者です。
庵野秀明は名作アニメにサタンの烙印を捺して廻っている。
「バフォメット異端教団」の作品でしかなく害はあっても価値はない。
悪徳商法でしかないのです。
庵野秀明よ!もう引退してください・・・
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