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ポケットのない服

 私の躁鬱病の母は、普段は布団を被って寝ていたが、時々元気になると、私に服を作ってくれた。端切れや、セール品300円くらいの大人の服を縮めて子供服に作り直した。私は、ワクワクして嬉しかった。イメージは映画からとられたり、流行から。時代は、1970年から1972年。全共闘やサイケ調が流行っていた時代。春は、グリーンのシフォンのブラウスに、エナメルの真っ赤なミニスカート。夏は、アメリカンスリーブの紫のワンピース、秋はワインレッドのマキシスカート、冬はジーンズかサロペット。もちろん小学校に着ていく。周りの子供達はびっくり。それが、地方にある学校の小3の悪ガキ揃いのクラスではイジメにつながるのは、大人なら想像つく。母も私もわからなかった。悪の影は虎視眈々と私に近づいていた…。
 幕開けは、水曜朝の衛生検査で始まった。爪、ハンカチ、ちり紙検査。手作りの服にはポケットがなく、毎回、検査が通らず私は黒板前に立たされた。私の頭上には、ご丁寧に先生が「ふけつな人」と書いた。私にはハンカチを持ってこないとなぜふけつな人になるのか理解できなかった。毎回忘れた。ある日、25歳で専門商社を経て先生1年目の担任男性は、また、忘れたのかと私を殴った。泣いた。体重15、6キロくらいの、マザーに出てた頃の芦田愛菜ちゃんみたいな背格好の私を殴った。多分、子供を殴ったのは、最初だったと思う。それからは、悪ガキの大橋君と金子君が先生の真似して殴る。蹴る。髪の毛を引っ張る。私が泣く。阿鼻叫喚のクラスになった。ご丁寧に、先生は私を大橋君の隣にした。
 クライマックスは見えてる。私は不登校になるか、蹴られて、打ちどころが悪く死んでしまうか。
 だけど、覚えているだろうか?私は、ADHD。他人のことは大して興味がない。翌朝は殴られたこと忘れて登校する。また、阿鼻叫喚が繰り返される。
 そんな秋の日。優等生のH君が学校に来なくなった。私が毎日殴られ、髪の毛を掴んで教室中ひっぱり回されるのを見てつらくて、でも助けてあげられなくて苦しいと。彼の母親が学級懇談会で話し、大問題になった。すぐに市の教育委員会の人達が来て、先生は担任を外された。代わりの松本校長は、私を一番前の席にし、いつも1人ぼっちの私に、1人でもいいんだよと優しく伝えてくれた。母は、学校でイジメの話しを聞いて、ある日の夕方、団地の部屋の片隅で辛かったねって、初めて私に共感してくれた。嬉しかった。翌日、デパートの子供服売り場で、紺色のスモックワンピースを買ってくれた。てんとう虫とポケットが付いてた。

写真は、今日の職場の私の机の上。大体こんな感じ。片付けると、一切忘れてしまうから。
だけど、私は、なんやかんや、人生の中でADHDに助けられてきた。