そんな幸せで充実した日々を過ごしていた私は、一方でモデルの夢をどうしようかと悩んでいた。 何故ならばアカデミーはコロナ禍で一時期オンラインレッスンのみになり、私もアパレルのお仕事と両立してまで遠方へと通うほどの体力は無く、アカデミーはもう退学してしまった。 アカデミーという経験はあれど、後ろ盾は無くなってしまい、コロナ禍でオーディションすら受けに行くのは危うい中、私はもう年齢が30歳。 「もう年齢的にもそろそろモデルを目指す事は諦めた方がいいのでは、、、」そう思い、諦めかけ
そのお店は大きなショッピングモールの中にあり、そこでは様々な催し物や、キャンペーンが日々開催されていた。 私が大好きだったキャラクターが催事で会いに来てくれたり、くじ引きでIRが当ったり、 そのショッピングモールは従業員への待遇もとても良く、従業員入口等でお正月は軽食が配られたり、お菓子が配られたり、サンプルが配られたり、とにかく人を大切にしてくれる場所だった。 私は昼休みはフードコートで過ごし、本を読んだり携帯で作詞何かをしたりして、好きに過ごして、またお店に戻って接客
そのお店は広くて高級感もあるけれど、お洋服はリーズナブルで、でも色んなジャンルの物が置いてあるお店だった。 カジュアルが主だったけれど、フェミニンなお洋服が好きだった私の好みにも合うお洋服がいっぱいあった。 自分で着る服は買わないといけなかったけれど、価格もそこまで高くないので可愛いお洋服を月に1、2着、必ず試着して吟味して買った。 大好きな雑誌に掲載されている物の中で、なるべく近いディテールの物を選んでは、コーディネートもそれに近づけて、、、。 人と話す事が好きだった私
コロナの到来により、求職活動は約3ヶ月位、色々な場所へと足を運んだ。 私の住んでいた場所は緊急事態宣言下でお店が休業の所が多く、住む場所より少し離れた遠方の場所でアパレルのお店を探そうと思い立った。 アパレルのお店を探している最中に「少し遠いけれどあそこのショッピングモールなら、電車で降りてすぐだから通勤もしやすいですよ」とアドバイスをしてくれたお店の方がいて、 私はその大きなショッピングモールの中で、短時間で、ネイルをする事も大好きだったので、ネイルをしても大丈夫な好条件
しっかりしたブランドのお洋服屋を解雇され、私はそれでもアパレルのお仕事をしたくて、家の近所から都会のアパレルブランドまで色んな所を転々と探しまくった。 もちろん求職活動は焦りもあったし、不安もたくさんあったけれど、病気で寝たきりだった日々のことを思い出し、「あの頃よりは、ずっと状況は良いはず」と思って、どこか良い所が見つかるはずだと信じて、面接に行く際のコーディネートやメイクをスケッチブックに事細かく描いて、この辛い状況でも楽しんで乗り越えようとしていた。 実際、求職活動
しかし、そんな大きな百貨店で働く日々も終わりを告げる事になる。 それが新型コロナウイルスの到来である。 百貨店は本当は忙しいはずなのに、どんどんと客足が減っていき、お店はガラガラの状態に。 お客さんよりも、スタッフの待機人数の方が圧倒的に多くなり、ついに正社員ではないアルバイトの私は退職を余儀なくされる。 「明日から、しばらく休んでもらって仕事は自分で探して。」 そう言われた時のショックは相当だった。 でも、接客業はお客さんがいないと成り立たない。 それは仕方が無い事だ
アカデミーの方は、アパレルのお仕事で手一杯になり、しばらく休んで慣れてきてから復帰しようと考えていた。 アパレルのお仕事は系列店が大きなショッピングモールのいたる所にあって、私は3カ所働かせてもらった。 始めは鞄屋さん、そのあとその鞄屋さんがあるショッピングモールの系列店のお洋服屋さん、そして大きな百貨店にある系列店のお洋服屋さんへと応援スタッフとして働かせてもらった。 病気であまり動けなくなった時に、「ここで働きたい」と思っていた夢を、実現出来た形になった。 そして
アパレルの世界へと進んだ私は、毎朝家を出るまでに4時間前に起きて、ストレッチ、筋トレをして、朝ごはんを食べて、メイクを1時間掛けてして、コーディネートを決めて、通勤するという日々を送った。 自分でもびっくりする位、介助士時代とは違い体力が付いていた。 普通の人よりは働けないけれど、寝たきりでいた状態からは考えられない位動けていた。 朝は好きな音楽をかけて、歌を歌いながら準備をしたり、服のほつれを縫ったり、とにかく朗らかに、やろうと思う事はしてちゃんとして、天真爛漫に過ごし
プロのファッションモデルを目指すにはお洋服の事をもっと知りたい。 そう思い立ち、元の福祉の仕事ではなくアパレルのアルバイトを探す事にした。 もちろん普通の人よりも体力のない私は、フルタイムは無理だった。アパレルは長時間の求人が多くて苦戦したが、なんとかそれでもアパレルの仕事に就く事が出来た。 その仕事はバスと電車を乗り継いでの、大都会の中のショッピングモールにあるしっかりとしたブランドのお洋服屋さんで、有名な雑誌にも掲載される所だった。 働いている時の服も買わないといけな
オーディションを受けまくっていたが、結果は思わしくなく、また実家に住んでいたためそろそろ家を出てほしいと、ぽつりと母に言われる。 そのため、介助士の収入は少なかったが貯金を少しずつして引っ越し資金を貯め、 健康な人のようにフルタイムで働く事は出来ず、障害年金も取ることが出来なかったため、仕方なく生活保護を取って家を出ようとしたが、色々と問題があり失敗に終わる。 その当時28歳だったので、若い女性が生活保護を取って暮らすという事はリスクも高かった。 生活保護のソーシャルワー
とにかくアカデミーでレッスンは出来ても、プロの芸能事務所に入る事は容易ではなかった。 アカデミーでも芸能事務所の方がたまに来られるという噂はあれど、スカウトされるといった事は聞いた事が無かったから。 私はとにかく、また行動、行動、行動! でも、神経衰弱があるので、無理しすぎない程度に自分の体調を見ながら、行ける範囲のオーディションには片っ端から受けに行った。 年齢制限があれど、その当時は実年齢よりも相当若く見られる事を武器に、 時には27歳だったのを20歳だと言ってオーデ
モデルアカデミー時代で得た物はたくさんある。 それはある男性講師の方が言っていた「どんな容姿に生まれても、私は世界で一番可愛い」と思う事。 親からもらった容姿に文句を言わない、どんな姿でも私は可愛い。 そう唱える事が自信になり、現実になっていく。 だからその男性講師のレッスンでは常にポーズや表情のレッスン外で必ず1回は「私は世界で一番可愛い。素敵。」と全員で声を出して言う事が通例だった。 その言葉のおかげで、私は自分の容姿に子ども時代からいまいち自信が持てなかったが、家で手
モデルアカデミーでは、私が一番最年長だったはず。その時私は27歳位。 周りは12歳くらいから20歳前後の人たちばかりで、若くてお洒落に敏感な子達が集まっていた。 アカデミーは常に良い香りがしていて、レッスンの施設も教室は全部鏡張り。 講師の先生たちも厳しい先生もいたが、とにかくファッションモデルに本気でなろう!という熱心な指導に、何度も心が震え、そしてこんな素敵な場所でレッスンを受けれる事に心から感謝した。 「病気で寝たきりだった私が今こうしてここに立っていられる事。神様、
ヘアサロンモデルをしていて思い知ったのは、自分一人の独学では表情もポーズも限界がある、という事。 そこで私はファッションモデルの勉強をしようと思い、とりあえずファッションショーへと足を運んだ。 学生時代はファッションとは無縁で漫画家になる事一筋で生きてきた私にとって、初めて訪れたファッションショーは大きなもので、それは入場料も無料、有名な方々もたくさん出演される華やかなランウェイ、個別スペースにもファッションモデルの方々を直接見れる等、キラキラと輝く世界が待っていた。 そ
Diorのモデルになるには、どうすればいいのだろうか? そのためにはまずはモデルというものを知らなければ。 そう思い、身近に出来るモデルとは何だろうか?と考え始めた。 その時目にしたのがヘアサロンの広告モデル。もちろんお金等は出ないし、フリーだが、モデルをさせてもらえるならお金なんていらない。 それよりも写真を撮ってもらって、とにかく撮影の経験を積んで表情やポーズ等を研究してモデルをしてみよう。 初めはすぐにサロンの広告モデル、とはならなかったのでスタイリストの見習いの方が
介助士の仕事をする傍ら、私は双極性障害の薬が全く効かなくなってしまった時にお守りのようにしていたファッション雑誌をずっと定期的に読むようになっていった。 病気があり、あまり稼ぎが少なかったため毎月は買えなかったが季節ごとに雑誌を買っては、気になるポーズや表情のページに付箋を貼りまくり、ページをめくるのが大変な程付箋だらけの雑誌を見て、家族に驚かれる位隅々まで読み込んでは、コーディネートやメイクをプライベートで真似してみたりした。 その時人生で初めて付けた口紅は、母から貰った