マルチネーム制度 【ショートショート】

あるかもしれない未来の日本の話。




「えぇ!?お菊が子供の頃は本名しかなかったの!?」
そう言ってお菊と呼ばれた女性に対し、もう一人の少女は目を見開いて驚いていた。
「そうなんじゃよ。皆薄々気づいてはいたんじゃが、いざ自分の本名とは違う名を名乗ることに抵抗があったんじゃ。」
「いやいや、本名を常に公表してるなんて犯罪に使ってくださいって言ってるようなもんじゃん!そんなの服着ないで下着で外に出てるのと一緒だよ〜。」
「ほっほっほ。正にそうじゃのう……。今から考えてみると孫のメリ子に名前を呼んでもらうのも新鮮じゃのう。」
メリ子はきょとんとなる。お菊の言ってる意味がわからなかったのだろう。それを察したお菊は続けた。
「わたしがまだ子供の頃は祖母のことを名前ではなく“おばあちゃん“と呼んでいたんじゃよ。」
「えぇぇーー!?それじゃどの個体に言ってるかわかんないじゃん!学校の授業でおばあさんって言うのは年老いた女性の総称であって名前じゃないもん。」
「でも元の語源を辿れば、祖母の慣れしたまれた呼び方なんじゃよ。」
「ふーん、じゃあお菊のおばあさん?の名前は何なの?」
メリ子に投げかけらた質問にお菊は今までスラスラと答えてきたが、ここで目を閉じて長考する。
「うーん、わからんな。」
「えっ覚えてないんじゃなくて?」
「うむ、覚えてないのではなく分からないが正確じゃな。」
「そんなの酷いよ!何で!?」
孫からの容赦のない言葉に愛想笑いを浮かべながらお菊は思い出す。
「そうじゃなぁ……そもそもわたしの世代の人間は皆両親や祖父母の名前は呼ばない時代だったんじゃよ。母のことはママやお母さん、姉や兄のことはお兄さん、お姉さんと呼んでおったんじゃ。」
「うっそー!そんなの変!呼び名が総称だなんてわかりづらすぎるよ〜。」
「昔は家族という枠組みを大事にしておったからのぅ。一つ屋根の下で家族みんなで暮らす、それが良いとされていたんじゃ。」
「うーん、それっていつ政府からPSを貰えたの?」
「パーソナルステーション自体まだ50年ほど前に開発されたばかりじゃ。今もまだ発展段階じゃからのう。今もまだ同じ屋根の下で暮らす家族はおるじゃろうて。」
メリ子はふーん、と突然興味を失った。そしてお菊の奥にある時計を見て立ち上がる。
「やっば!もうこんな時間!」
そう言って彼女は慌てて出口へと向かう。
「ふふふ、“やばい“なんて言葉いまだにつかっているのかい?」
「いや、これはお菊が良く使ってたから覚えちゃって。ゆーみんにも07kにも笑われるんだよね。」
「便利な言葉じゃからのう、やばいの使いすぎには気をつけないとやばいぞ。」
「あー!お菊もまた使ってる!って時間ないんだった!またね!」
メリ子はドタバタと慌てながら外へ出ていく。そして彼女の胸元についていた名前はメリ子からメイ・リーンに変わっていた。
「ふぅ、便利な時代になったものね。」
お菊の名前も徐々に変わっていき、左胸には瑠璃川という表記に変わっていた。
「祖母の時はお菊、執筆の時は瑠璃川、本名は……。」
彼女は部屋の中の監視カメラをチラリと見てその先の言葉を飲み込んだ。
「さーて、一服でもして作業に戻るかの……じゃなくて、戻る、かな?」

「ふふ、まだまだ難しいわね。名前をコロコロ変えるのは。」



20xx年。
現代日本では、マルチネーム制度が各地域で取り入れられている。まだ日本全域でこの制度が通っているわけではないが、マルチネームは既に国民の間で浸透しており、まだ制度の方が追いついていないのが現状である。

マルチネームとは。夫婦別姓、マイナンバーカードの存在、そしてSNSの普及による時代の流れから生まれたあらゆる場所で使用している「偽名」「あだ名」「芸名」などを戸籍謄本に登録してある「本名」とほぼ同列に扱うことを強く願う声から生まれた。
初めは、人と接する仕事の中には本名を晒しながら接客したり、名刺に本名を書いていたり、レシートに記名してあったりすることで、本名を使うことで生じるデメリットをオフィシャルネームという新たな名前を使用することで打ち消そうとしたことだった。
オフィシャルネームは結婚して戸籍の本名が変わろうともそのままであったり、SNSでの名前をそのまま引用することで仕事とSNSでのつながりを明確化できたり、性自認の問題やセクハラに対する予防策としても活躍した。
人々はさまざまな名前を持つ前から、幾つもの顔を持っていると自覚があった。例えば一男性の例を上げよう。
仕事で上司としての顔、父親としての顔、学生の頃の友達と会う顔、母親に会いにいく時の息子の顔、愛する妻がいる夫の顔。それぞれの場面で、同じ人間でも声色や態度、言葉遣いなどを変えていく日本の風潮にさらにそれぞれの顔に名前をつける事で、さらにそれを区分化した。そうしてオフィシャルネーム以外にもプライベートネーム、ファミリーネーム、フレンドリーネーム等あらゆる個人名を人々は使い分けるようになった。
行く場所や気温、天気や立場によって着る服を変えるように、名前もまた着替えるものへと変貌した。
そうすることで、本名の役割を分けることにより個人のセキュリティを向上させ、今までであればメールアドレスやパスワードに本名に関わるようなものから離れていくようになった。

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