選挙に行った。

「男だから、自分より若い女性にお金を出させるわけにはいかない。」


「”二人きりで星を見に行こう、いい場所を知ってるんだ”って誘われたら告白されると思うじゃん。」


「部長なんだから、試合中の声出しもっと頑張ってよ。」


「店員なのにこんなこともわからないの?」


「あたしはもう80だからやり方わからないんだよ、ごめんね。教えてくれてありがとね。」


「渋谷ハロウィンに行く奴、全員ゴミだろ。」


「選挙でA議員に入れた人間はバカ。」




これは私じゃない誰かが放った言葉。
その言葉は鋭利な刃となって、私の心へと深々と突き刺す。
その中には別に傷つけようと思って放った言葉ではないのも理解はできている。ただ、他人よりちょっと耳がいいだけ。ちょっと私の心がむき出しになってるだけ。

私は、この日本という国で、20年以上は生きてきた。それをこの国では成人済みと呼び、一般的には大人と呼ぶ。

私は、大人という言葉が嫌いだ。
私は、性別や年齢を主語にして話さないようにしている。
私は、人のことを立場ではなく、名前を呼びたい。
私は、条件だけ見て人を判断したくない。
私は、自分に関わる人全ては、思考、気持ち、生き方、信念、環境、性別、経験の全部が違うと思っている。
だから、誰かを評価する時に、主語を「人の名前」ではなく、「性別」「年齢」「住んでる場所」「肌の色」「行動」「立場」の”特性”を主語にするのは良くないことだと思う。
一人一人違う人間なのだから、特性だけではなく、ちゃんとその人、本人をよく見たい。

そうやって人と関わっていきたい。


でも、疲れてしまった。
多くの人たちがどうして特性で人を判断するのか、理由は明快だ。
それが楽だからだ。
人間一人を理解するのは、とてつもない労力がかかる。自分と違うものを理解するのに、時間と気力がかかる。
楽な方へ逃げたくなるのは、人間の特性だろう。


ほら、気付けば私だって人間という大きな括りで結論を出そうとしてしまう。
結局私だって人間という生き物なのだ。

人類は多い。81億1900万人いる。私は81億1900万パターンを導き出すことを理想として掲げている。
この理想は叶わない。不可能だ。
そもそも、私は全人類と関わりを持てるとは思ってない。

では私が関わってきた人だけなら?
私が生きている間に関わる人の数の予測は3300人から10400人程度らしい。

うん、不可能だ。
理想を叶える前に脳が働かなくなるか、精神が擦り切れそうだ。現にもう疲れている。

不可能だとわかっていても、特性を主語にして人を評価することはやはり間違っていると思う。
人を選ぶことが必要だとわかっているつもりではある。


国を動かす人を選ぶのが選挙だ。自分の未来がかかっている。
そう思って、”人”を見ようと思っても、”評価”ばかり出てくる。
私はそれを見ていると何が正しくて、何を信じるべきでなのかわからなくなる。
苦しい、と思ってしまった。

投票した後に、情報を入手しようとしても、また評価が行き交っているのを見ているだけになってしまった。
とある人に投票した人間にまで非があると言っている。

そうやって、誰かに投票したという特性だけで人を評価されているのを見ると、私は。


10400パターンを理解する方が、楽なように思えた。








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