20241102-1 教養って自分なりの違和感のことちゃうん?~24兵庫県知事選に思う~
なんだか、自分のなかの何かが「書け」と言ってる気がしてしかたがないので、こんな時間にもぞもぞと起き出して書く。後で書いておけばよかったと後悔するような気がするので書く。政治に触れることだから勇気がいるけど、無党派層の構成員の端くれとして書く。
ちなみに私がいう無党派というのは、選挙のたびに政策を是々非々で真剣に検討して投票先を選択する人たちのことだ。昔の私のような「アントニオ猪木が好きだからスポーツ平和党に入れた」ような反知性とは真逆の姿勢。そんな私も、自党と相容れない政党だからという属性だけで、政策論議をせずになんでもかんでも「ヒヒヒ」と反対する姿勢には、違和感を通り越して嫌悪感を抱く程度には成長したつもりだ。それなりに成長したはずの私の違和感を書き残しておく。
先日藤田菜七子騎手の突然の引退に触れてこんなことを書いた。
そこではAmazonに書いたレビューを引いた。
バッシングされまくっている斎藤知事にも触れた。
ちょうど1か月前。まさにフルボッコの渦中にある氏の擁護論のようなものを書いていたのは、自分の中の違和感が大きくなっていたからだ。社会にもそんな違和感が広まったのか、この1か月でさいとう元知事を取り巻く流れが真逆に振れてきたように思う。
何が本当のことなのか。外野にはわからない。特に知性から遠い位置にある私にはわからないことも少なくないけど、わかったふりをせずに、わかろうとする姿勢だけは持ち続けたい。悪意のある偏向報道にだまされない知性を身につけたい。
偏向報道と書いて思い出したのは、遠い昔に書いた卒業論文のテーマだ。刑事政策のゼミで、指導教官の優しさでどんなテーマだって取り上げることができた中、私が選んだのは「犯罪報道の犯罪」だった。それをもじれば、今まさに「偏向報道の犯罪」とでもいえるような風潮を憂う。
このたびの異例の兵庫県知事選。投票権はないけども、自分なりにわかろうとしてきた。そんな私が持つ違和感を、自分の中にとどめ切れないからこうして政治に触れることを書いている。いつか「こんな違和感のことを教養って言うんだよ」と、堂々と語れるような知性を身につけたいと思いながら書いた。
書き残しておきたいというよりも、元知事ご本人に、元知事を応援する人たちにこんなことを書いた人間もいると知ってほしくて書いているのだと気づいた。知性と勇気ある人たちへの私なりのエールかもしれない。