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20241102-1 教養って自分なりの違和感のことちゃうん?~24兵庫県知事選に思う~

なんだか、自分のなかの何かが「書け」と言ってる気がしてしかたがないので、こんな時間にもぞもぞと起き出して書く。後で書いておけばよかったと後悔するような気がするので書く。政治に触れることだから勇気がいるけど、無党派層の構成員の端くれとして書く。

ちなみに私がいう無党派というのは、選挙のたびに政策を是々非々で真剣に検討して投票先を選択する人たちのことだ。昔の私のような「アントニオ猪木が好きだからスポーツ平和党に入れた」ような反知性とは真逆の姿勢。そんな私も、自党と相容れない政党だからという属性だけで、政策論議をせずになんでもかんでも「ヒヒヒ」と反対する姿勢には、違和感を通り越して嫌悪感を抱く程度には成長したつもりだ。それなりに成長したはずの私の違和感を書き残しておく。

先日藤田菜七子騎手の突然の引退に触れてこんなことを書いた。

そこではAmazonに書いたレビューを引いた。

バッシングされまくっている斎藤知事にも触れた。

(略)
何かから撤退した後に訪れるであろう幾許(いくばく)かの後悔、いわゆるタラレバに、自分で落とし前をつける理路を本書はもたらせてくれるかもしれない。撤退を知性的な行為としてとらえ、その選択をそっと肯定してくれるかもしれない。本書はそんなやさしさで紡がれる。

たとえば企業社会にあるならば、開発/開拓競争からの撤退だってあって良いし、実際にあるだろう。だけど、それによってもたらされる成功物語はなかなか人の目には触れない。「プロフェッショナル」、「プロジェクトX」や「情熱大陸」。私が好んで見るドキュメンタリーも撤退と真反対のテーマが続く。脱成長主義による成功物語は決して賞賛の対象にはなり得ない。

だが、果たしてこれで幸せか。

過剰ともいえるスペックの開発コストを安易に製品に転嫁する世界よりも、まさに字義どおりの適当なスペックを安価に提供する世界の方が幸せなことだってたくさんあるはずなのに。誰のための開発/開拓なのか。人間の、社会のゆたかさって何なのか。本書はそんな自問に読者を誘う哲学書でもある。

そんな問いに立てば、いま話題の兵庫県斎藤知事を取り巻く問題も撤退学の枠組で説明可能だ。豪華な庁舎建築計画から撤退し、その麗沢な予算を古くなった県立高校の空調やトイレの整備に回す。あるいは県立大学の授業料の無償化(一部)に回す。これまでの為政の惰性・慣性を知性を持って断ち切る撤退政治。

持続不可能なシステム、そこから撤退すべきシステムを持続させようとするときに、政治家たちが語り始める神話(p.14)と筆者が揶揄する反知性と真逆の知性をここに見る。

それなのに、マスコミのミスリードや悪意を隠そうともしないSNSで形成された世論によって知性ある撤退のリーダーが叩かれる。

社会に知性を取り戻したい。


「ホモ・サピエンスよ、その名に値するまであと一歩だ」(表紙コピー)って評価は高すぎだ。あと一歩どころじゃない。一部のSNSが無責任に、一部のマスコミが悪意を持って巻き散らかす言説を安易に取り込む社会の構成員は、ますますホモ・サピエンスの名前から遠ざかる。

だからこそ本書が必要なのだ。

2024/10/5 Amazonブックレビュー©良心の備忘録

ちょうど1か月前。まさにフルボッコの渦中にある氏の擁護論のようなものを書いていたのは、自分の中の違和感が大きくなっていたからだ。社会にもそんな違和感が広まったのか、この1か月でさいとう元知事を取り巻く流れが真逆に振れてきたように思う。

何が本当のことなのか。外野にはわからない。特に知性から遠い位置にある私にはわからないことも少なくないけど、わかったふりをせずに、わかろうとする姿勢だけは持ち続けたい。悪意のある偏向報道にだまされない知性を身につけたい。

偏向報道と書いて思い出したのは、遠い昔に書いた卒業論文のテーマだ。刑事政策のゼミで、指導教官の優しさでどんなテーマだって取り上げることができた中、私が選んだのは「犯罪報道の犯罪」だった。それをもじれば、今まさに「偏向報道の犯罪」とでもいえるような風潮を憂う。

このたびの異例の兵庫県知事選。投票権はないけども、自分なりにわかろうとしてきた。そんな私が持つ違和感を、自分の中にとどめ切れないからこうして政治に触れることを書いている。いつか「こんな違和感のことを教養って言うんだよ」と、堂々と語れるような知性を身につけたいと思いながら書いた。

書き残しておきたいというよりも、元知事ご本人に、元知事を応援する人たちにこんなことを書いた人間もいると知ってほしくて書いているのだと気づいた。知性と勇気ある人たちへの私なりのエールかもしれない。


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