他の誰でもないわたし~帰属意識・エンゲージメント・エンパシーという言葉から考えたこと~
あるときから、「帰属意識」について気にしなくなったように思います。
「自分はどこに属しているんだろう?」と悩むこともあったのですが、
今の僕にとっては、「帰属意識を持つこと」がそれほど重要な事ではなくなっています。
「帰属意識」と検索すると、関連ワードとして「高める」が出てきたり(「いらない」「気持ち悪い」も出ましたが)、検索結果も「高める方法」や「帰属意識が低いデメリット」のような記事が多くヒットします。
帰属意識と似た言葉で、「エンゲージメント」という言葉もあります。
こちらにも、「エンゲージメントは、企業・組織の業績に貢献しようという動機がセットになるため、業績との連動性が高いのが特徴」とあります。
確かに、組織において帰属意識が高い人は、「一体感」や「目標達成に向けた行動や責任」を持っているのかもしれません。
エンゲージメントが高い人は、「業績に貢献しよう」と思うのかもしれません。
ただ、僕が思うこととしては、
「帰属意識やエンゲージメントが、主従関係や同調圧力を育むものになってはいけない」ということと、
「エンパシーを発揮するためには、『どこにも属さないわたし』を持つこととセット」
ということです。
帰属意識やエンゲージメントが、主従関係や同調圧力を育むものになってはいけない
帰属意識やエンゲージメントの説明のどこにも、「主従」という言葉は見当たりませんでした。
でも、その響きには「主従」という意味が含まれてる気配を感じることがありますし、
「主従」や「同調圧力」を育む可能性もあると思います。
「その集団の一員であるという意識や感覚」。
「帰属意識」や「エンゲージメント」において、この感覚を「主体的に持っているか」が大事だと思います。
エンパシーを発揮するためには、『どこにも属さないわたし』を持つこととセット
エンパシーとは、「共感」と呼ばれたりします。
「多様性の時代」とも言われる現在において、「スキル」として必要という声もあるかもしれませんが、
個人的には、「誰かと共に生きるために大事な事」と捉えています。
個人的には、「アナーキック・エンパシー」を今年のテーマにもしていて、☟の記事にも色々書きました。
エンパシーは大事な事だけれど、その先には「自己の喪失」があるかもしれない。
だから、「アナーキー」とセットである必要があります。
その「アナーキー」というのが、「どこにも属さないわたし」です。
上の記事から引用すると、
このようなことです。
「アナーキー」とセットであるからこそ、「エンパシー」が闇落ちせずに発揮することができます。
「アナーキー」「どこにも属さないわたし」というのは、単に「個人主義」ということではありません。
「アナーキー」とは、「誰かと共に生きていくために大事な事」である「エンパシー」を発揮するために必要なのであり、
一人きりで生きるために必要な事ではないからです。
そして、
だと思います。
アナーキーが、「誰かと共に生きるため」に大事なように、
「帰属意識」「エンゲージメント」は、「一体感や貢献意欲を持つため」に大事な事です。
もしかすると、「帰属意識」「エンゲージメント」にこだわりすぎると、それは「貢献意欲を削ぐこと」に繋がってしまう場合もあるかもしれせん。
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色々と書いてきましたが、「どこにも属さないわたし」というのは、「他の誰でもないわたし」とも言えるのかもしれない、と思いました。
「人はカテゴライズを好む生き物」と聞いたことがあります。
生きていれば、自分も他人のことも、どこかにカテゴライズしていることが、意識的にも無意識にもあるかもしれません。
ただ、その組み合わせは誰にとっても自分にしかないものであり、それが「他の誰でもないわたし」と言えるのだと思います。
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