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出発地点にふさわしい場所

全部を表そうとしたら1日がずれていくようです。
「頭の中の取捨選択」
昨日の朝(本当は「今朝」と書いていました)、寝ぼけながらスマホにメモした言葉です。
アウトプットが足りていないようなとき、寝ながらその形を探そうとしているのか、枕に頭を乗せたまま表してみたい言葉が浮かんでくることがあります。
一昨日(昨日と書いていた)は月1で設定している「読む日」であり、「最悪な子どもたち」もみて、自分の中で渋滞が生まれていたのかもしれません。

僕らは、自分の頭や心、意志のなかの何かを選び(隠し)ながら、表に出しているんだな、と思ったんですね。
自分を精一杯に使って表現するのはとても格好いいと感じることだけれど、それは「全部を表すこと」ではないのだと思います。
表そうと自分の外へ出してみたら全部は一部になってしまって、それは悲しいことかもしれないけれど、ただどうしようもないことでもあります。

「意味が分からないのに書けるなんて、自動筆記みたいで逆にすごいじゃないですか」

木偏の母/石沢麻依(すばる 2月号) 

言葉に意味を乗せて書くことと、そうではないこと、そしてそのどちらでもあることと、どちらでもないこと。
ある目的にどれにも「伝わっていくもの」があって、どれも素敵なことだと思います。

森鴎外は、「学問」をなにかの手段、とくに出世・成功のための手段とすることに反対で、そのことをくりかえし論じ、作品にも描いた。漱石も成功のために奮闘する成り上がり者に対して、辛辣な批判を浴びせている。

自己啓発のパラドックス/花村太郎(SPECTATOR 第51号

「幸せはいつから教わるものになったのか」
「哀れなるものたち」のあるシーンから起こされた言葉です。

「詩は難しい」「詩はわからない」とよく言われますが、わからなくてもいいのではないでしょうか。理解しにくかったり、何について書かれているのかすぐに見えてこなかったりするのは当然だと思います。わたしたちは物事に白黒をはっきりつけたがってしまい、わからないものを曖昧にしておくことが不安で苦手なのかもしれません。

そこがことばの国だから/語り手=原田里美(WORKSIGHT 21

今日(本当に今日)読んだのは、犬飼愛生・「手癖で愛すなよ」の中の「顔」という詩でした。
はたから見て可哀想だと思うことは、当人からすれば普通のことだったりするんだろうな、と思います。
わかり合うとか共感よりも、「きっとわからない」の方が果てしなく広がっていける気がします。
「わからない」ということが歩を進める源にもなるのだから。

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Rinfinity~食にたずさわる人の生き方~
料理人や農業従事者の方へのインタビュー記事を発信しています。
第7弾、名古屋の南インド食堂「チェケレ」の中島憲二さん・中島加珠子さんのインタビューが公開中です!!

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