出発地点にふさわしい場所
全部を表そうとしたら1日がずれていくようです。
「頭の中の取捨選択」
昨日の朝(本当は「今朝」と書いていました)、寝ぼけながらスマホにメモした言葉です。
アウトプットが足りていないようなとき、寝ながらその形を探そうとしているのか、枕に頭を乗せたまま表してみたい言葉が浮かんでくることがあります。
一昨日(昨日と書いていた)は月1で設定している「読む日」であり、「最悪な子どもたち」もみて、自分の中で渋滞が生まれていたのかもしれません。
僕らは、自分の頭や心、意志のなかの何かを選び(隠し)ながら、表に出しているんだな、と思ったんですね。
自分を精一杯に使って表現するのはとても格好いいと感じることだけれど、それは「全部を表すこと」ではないのだと思います。
表そうと自分の外へ出してみたら全部は一部になってしまって、それは悲しいことかもしれないけれど、ただどうしようもないことでもあります。
言葉に意味を乗せて書くことと、そうではないこと、そしてそのどちらでもあることと、どちらでもないこと。
ある目的にどれにも「伝わっていくもの」があって、どれも素敵なことだと思います。
「幸せはいつから教わるものになったのか」
「哀れなるものたち」のあるシーンから起こされた言葉です。
今日(本当に今日)読んだのは、犬飼愛生・「手癖で愛すなよ」の中の「顔」という詩でした。
傍から見て可哀想だと思うことは、当人からすれば普通のことだったりするんだろうな、と思います。
わかり合うとか共感よりも、「きっとわからない」の方が果てしなく広がっていける気がします。
「わからない」ということが歩を進める源にもなるのだから。
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