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勝浦・色川の旅【1】ー色川での日記ー

勝浦・色川の旅【0】
ー登場する場所と本ー

色川での日記

目が覚めると、願っていたよりも体調は良くなっていなかった。
それでもシャワーを浴び、パックをして宿を出た。
口色川までのバスがどこにあるのか分からず、止まっていたバスの運転手さんに聞くと、
「あそこで待っていると、ハイエースみたいなのが来ますよ」
と教えてくれた。
自家用車に運転手さんが乗って迎えに来てくれたようだった。
乗客は誰もおらず、黙々と進んでいく。
途中、おじいちゃんが一人乗り、そのおじいちゃんも自分より先に降りてしまう。
山道をひたすら進み、目的の口色川へ到着。
降りる時に英語で料金を告げられた。
わざわざ言わなくてもいいかなと思ったので、笑顔だけでやり取りする。
らくだ舎喫茶室までは歩いて10分ほど。
今から行っても開店前だけれども、他に行くあてもなく、そのまま目的地方向へ歩を進めた。
喫茶室を通り過ぎ、まだ道を進む。
看板を見つけたので止まって見てみると、眼前にある岩がこの地域での災害の慰霊岩であるとのこと。
川が流れる近くで腰を下ろした。
昨日の夜から夢中になって読んでいる「旅の彼方」。
もう残りもわずかだったので名残惜しく最後まで読んだ。
とても面白い本だ。
今書いている文章は、旅先でだからこそ書ける文章だと思う。
日常とは違う場所、違う空気、違う音の中で書く。
そうすると、自然に文体も変わってくる。

日常。
日々、僕は何をしているのだろう。
そのことが知りたくて、いや、本当は知っていて、それが虚しいことだとまでわかっていて、それでもなお何かを知りたくてここまで来たのかもしれない。

風が強く寒くなってきたので、少しだけ場所を移動してかがむ。
日の当たる場所はあたたかい。
太陽の力は偉大だ。
それにしても今日は雲ひとつない、気持ちのいい空がある。

かがむ姿勢に疲れて、日の当たる座れる場所へ来た。
この地域は人が少ない。
綺麗な学校があったけれど、あそこへ通う生徒はどれほどいるのだろう。
買い物はどうしているのだろう。
山を降りて買い出しへ行くのだろうか。
スーパーが徒歩圏内にある生活をしていると、明日のものは明日用意しようという考えができるものだが、ここで生活しようとすればそうはいかないと思う。

日々していることへ巡っていく。
日々のことのはずなのに、日々から離れた場所でそれが鮮明になるのは何故だろう。
離れてこそ見えてくるものがあるのだろう。

はっきり書くと、どうでもいいことに対してエネルギーを使い過ぎているのだと思う。
人生で成し遂げたい何か。
それが自分の知情意からくるものであると自覚して取り組んでいる人は世界にどれほどいるのだろう。
そんなこと考えずに働け、という声もあるかもしれないが、そのようなものが積み上がっていくものだとも思えない。
iPhoneの充電が切れる。

なにを一生懸命になって残したいと思っているのだろうか私は。
それでもそうした人々の少しずついいことが積み重なって今の世のなかをつくっているのだという気持ちも、ある。

旅の彼方/若菜晃子

自己実現と社会性、両方ないと継続できないという話。
ずっと頭に残っているけれど、そもそもこれは何を継続する話だっけ。
継続した先に何があるのか。
先にあるものなんてわからない。
太陽がものすごく照り付けてくる。
光を感じるとあつい。

二弍に2を読んで浮かんだ言葉は、「焦点」。
どこに焦点を合わせるか、ということ。
焦点を合わせたいと思うのは、それがないと何もできなくなってしまう気がするから。
では、焦点さえ定まれば万事OKとなるのか。
それもわからないことだ。
でも、駄々をこねていても仕方がない。
これから向かうのは、ヒントを得るため。
答えを教えてもらいにいくのではない。

仕事前に朝の屋台に立ち寄る人や、靴磨きやゴミ掃除のおじさん、駅で荷車を引いている男の人も、頭に荷物を乗せて歩いている女の人も、学校に向かっている子どもも、その合間をさすらっている犬さえも、それぞれがまだ自分の生を営んでいる(この言葉がしっくりくる)感じがする。

旅の彼方/若菜晃子

自分の生以外の何かを営むこととはどういうことだろう。
それが社会性ということなのか。
自分だけがハッピーな状態であればそれでハッピーと感じられるものでもない。
しかし、自分の生の営みを犠牲にしてまでできることがあるとも思いにくい。
犬が鳴いている。
あの犬は自分の生を営んでいるのだろうか。

少しだけ道路に寝そべってみた。
頭に血が巡っていく気がした。

旅をするということ。
それは、「同じ地球の丸の表面で、自分とは違う日常を送っている人がいることを知る」ということかもしれない。
人工的な音で溢れていようと、それをシャットダウンするかのように首を傾けてスマホに夢中な人で溢れていようと、ここでは川が流れ、木が揺れている。
自分がどこにいようと、自分がいない場所が存在し、そこで日常を送る人がいる。
当たり前のことを忘れてしまうから、何度でもまた旅に出たい気持ちが湧いてくる。
ただ「こんな場所があったんだ」と見つけられたことがどれほどうれしいことか。
一生懸命になって残すことに意味なんてないのかもしれない。
でも、喜びを表したい気持ちに嘘はないし、そこから新たにみなぎってくる力もあるのだと思う。

あつい太陽の光を浴び、水の音をきき、風が吹き、目の前の草木が揺れているのを見ていると、何も考えなくていい、感じなくていいと素直に思える。
自分の知情意からくるものへ取り組んでいないように見える人のことをあざ笑うような態度でいた自分が恥ずかしい。
これまでもそうであったように、これからも誰かをあざ笑うときがあるのかもしれない。
誰のこともあざ笑うことなんてない、そう誓えるほどの立派な人間ではない。
自分の中に誰かをあざ笑う態度を見つけたとき、その態度をどう改めていくかを大事にしたい。

もう一度寝そべる。
力が抜ける。
ただ、目の前の景色を見ていたい。
何をつらつらと書いていたのだろう。
わからないけれど、書くことができてうれしい。

【2】勝浦駅までのハイエースの中で

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