本当のことなんて-2-
皆さんにとって、「読みやすい文章」とはどんなものでしょうか。
「流れがある」というのも読みやすさに関わっているように思います。
文章の流れは、起承転結やストーリーから感じたり、文体から感じられたりします。
「AだからB、BだからC」というように因果がはっきりしている文章は、読みやすいかもしれません。
でも、それはイコールで「本当のこと」でしょうか。
因果が明確なことが本当のことなのであれば、僕は本当のことばかり書いたり話したりする必要はないと思います。
役立つことというのは、価値あること。
それはそう。
でも、いつもいつも「役立つこと」という価値基準だけで生きていかれるかと問われれば、僕には無理です。
「役立つこと」という基準を無視すれば、世間から無視されることになるかもしれません。
多分、そもそも、「役立つこと」が「因果が明確なこと」なわけじゃないと思うんですよね。
「因果が明確なこと」だけが「役立つこと」じゃないというか。
因果が不明確なことを伝えてみたい、聞いてみたい。
そう思います。
因果を求めること。
わかりやすい流れがあること。
それらが必要な場面はあります。
それと同時に、それらを無視した場面があってもいいじゃないと思います。
「AだからB、BだからC」と積み重ねているうちに、「AだからBじゃなくて、B'だった」と思い直すことを許せること。
「BじゃなくてB'だったなんて。今までのこと全部嘘じゃん」
そう思われてしまうかもしれません。
でも、わかりやすいこと、役立つこと、正しいことばかりを選べるわけでもありません。
「だってB'だったんだもの」と開き直るのも違うかもしれません。
では、そのまま「BだからC、CだからD」という積み重ねを続けていくのが「本当のこと」だとも思えません。
気づいた時に、B'へ戻れること。
そういう関係を築くためには、「信じること」と「余白を残すこと」の両方が必要なのかもしれません。
流れをそのまま受け止めることと、逆流を許すこと。
自分に対しても、他者に対しても。
自分自身も世界も曖昧です。
曖昧に生きる、曖昧を生きることは、時に難しいことかもしれません。
でも、きっと大丈夫です。
本当のこと、因果が明確なことばかりを積み上げる必要もないはずですから。
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