ただの自分で笑っていたいよ
「自分らしい自分」
よく聞く言葉だ。
どこかキラキラしたものを感じる。
「ただ自分」
先に出てきた自分に対して、こちらの自分はどんなイメージだろう。
『キラキラは「良いこと」であり、ただの自分でいることは「現状維持でしかないこと」』なのか。
僕は、「ただの自分でいたい」という願いは、とても大きな願いだと思う。
「あなたはいつでも自分でいられていますか?」という問いに、どれだけの人が心から「YES」と言えるだろう。
誰かとの日々、誰かがどこかにいると感じながら過ごす日々のなかでは、「自分でいること」を保つのはとても難しいことのように思う。
僕はこれまで、とても愛想のいい人だったと思う。
誰に対しても笑顔で振る舞えたし、同感しないことに対しても「そうですね」と共感的態度を示すことができた。
そして、それは主体的な「自分でいること」を手放し、自分の中に虚無を作り出すことで可能だったことなのだと思う。
「主体的な」とつけたのは、「厄介事を起こしたくない」という消極的なニーズも自分の中にあったからだ。
そんな虚無な自分をやめてみた。
必要な時以外は、愛想を捨ててみた。
それが、イコール「ただの自分」なのではないのかもしれない。
でも、愛想を捨てた自分では誰かとの日々に亀裂が入った。
当たり前と言えば当たり前か。
無口でいれば「何かあったの?」と聞かれるし、愛想の振り分け方に敏感に反応を示された。
「なぜ私以外にはあんな態度で、私にはこんな態度なの?」
誰かとの日々のなかで、「ただの自分」でいようとすることは、わがままなことなのかもしれない。
でも、虚無な自分をやめてみた今、どうしてあれほど自分が愛想よくいられたのか思い出せなくなってきている。
やはりわがままになっているのかもしれない。
誰かとの日々のなかで、「ただの自分」でいようとすることは難しく、わがままなことに捉えられるのかもしれない。
でも、だからこそ、「ただの自分でいたい」という願いを絶対に手放したくない。
いつでも、どんな時でも、「ただの自分」ではいられないかもしれないけれど、一日のなかで、「ただの自分」でいられる時間を確保することに尽力したい。
自分にすらたどり着けなくなることがないように。
愛想のいい「自分らしい自分」で「ただの自分」が覆い被されてしまわないように。
「自分でいること」と「自分らしくいること」は違うのだ。
僕はこれから、「自分でいること」と「自分らしくいること」の揺れに、まだまだ、まだまだ迷いながら生きていくだろう。
でも、大丈夫。
そこに優劣などないのだから。
【関連note】