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言葉の扉の向こう側
自分が調っているなと
思う時に、
過去の、トラウトから
自分の心を揺るがすような、
心をえぐられるような、
自分の中のエゴが騒ぎ出すような事が
おこる事ってあるんですよね。
そんな時が来たとしても、
過去のじぶんが感じた思いや、
過去のじぶんが対応したやり取り、
それとは違った視点から
その同じような出来事を見ている
じぶんがいました。
一瞬、なぜ
そんな事を言われなくちゃいけないんだろう?
と思う事でも、
その人が放つ言葉の奥に愛をみて
呼吸を調えてあげると、
全く違った見方がでてきます。
きっと、人生の中での精神性をはかる試験かのように、あなたはどう対応するの?また前と同じようにするの?それとも、違った見方をするの?どれくらいの視野が広がっているの?が試されいるような気がしてなりません。
その言葉の奥深くを漂う「愛語」をみる事。
こないだ購入した
すべてには時がある〜コヘレトの言葉〜
の中にも、興味深いことが書かれていました。
愛語とは、曹洞宗の開祖として知られる
道元が「正法眼蔵」という著書で、
いっている言葉です。
愛語は、他者を見て、慈愛の心が起きて
こないと、生まれないと言われています。
ここで大切なのは、主語が人ではなく
心だということです。
ここでの「心」は現代人が考える意識の
ことではありません。
もっと奥にあるものです。
そして、「愛語」とは、誰かにいいことをしたとか、秀でたところがあるのを誉めるだけのものではない。
池田晶子さんの著書の中にある言葉で
死の床にある人、絶望の底にある人を救う
ことができるのは、医療ではなくて
言葉である。宗教でもなくて、言葉である。
この言葉が、仮に患者さんの手を握って
一緒にいるよということを伝える
沈黙の言葉だとしても、これも言葉なんではないか。
池田晶子さんは、
言葉の扉の向こうでこそ、
本当の幸せを掴むことができるという。
言葉は、ものごとを知る道具ではなく、
本当の人生に出会うための扉であり、
本当の自分に出会うための扉でした。
扉であり、人生という河を渡る舟でもあった。
言葉というと、私たちは耳に聴こえる言葉、
目に見える言葉を想像しがちですが
それでは、沈黙の言葉を受け取り損ねてしまうことがあります。
沈黙の言葉にこそ、
見過ごしてはならないもの。
転載以上
それは、言語化できない何かかもしれない。
言葉の奥行きのようなものが
人には伝わるのだと思うんです。
愛語は、哲学的に考え抜かれた、
洗練された言葉でなくてもいい。
言葉には、そこに感情をのせただけ
幾重にも重なる
フィルターを感じる言葉もあれば、
透け透けで、今にも見破られそうな
フィルターの言葉もある。
どちらが良い、悪いではないですが
頭でキャッチしてしまうと、
心が置き去りになり、
じぶんの中での
深い共感や感動がどうしても
薄くなってしまう気がします。
何事も、バランスですが
心で受けとめる事ができると、
やっぱり、共感や慈愛の眼差しを
持って、その出来事を受け入れる事が
できる気がします。
誰だって、
なりたくてそうなった訳ではない事の方が多い。
なぜ、その人はそうならなくちゃ
いけなかったのか?
そんな眼差しで
出来事を捉えてみると
視点が変わって、
より、愛を感じながら
にっこり、優しい気持ちになれるのでは
ないかなと思います。