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歴史を微生物から見る視点の必要性

私は多くの人類が共通して持っている歴史の偏見があると思っている。

1 人類がしでかした「歴史」というものは、人間中心主義すぎており、政治や経済に関しても、他の生物の優位を誇らしげに語りすぎている。
2 人間は目に映らないものより、目に映るものを優先的に考えすぎている。
3 小さなものは、「弱い」と勝手に思い込んでいる。
4 地球の歴史で人間が勝利者の様に書き過ぎている。

そのことに気づいたのは、3年程前に読んだデイビッド・モントゴメリーの三部作「土の文明史」、「土と内臓 (微生物がつくる世界)」、「土・牛・微生物ー文明の衰退を食い止める土の話」あたりだったと思うのだが、その頃から人類史が人間の「行動」の結果の様に書き過ぎていることに気づいた様だ。ユヴァル・ノア・ハラリやマルクス・ガブリエルらは、環境史側から書こうと努力しているが、微生物学やウイルス学、マイクロバイオームの存在から得られる、「あらゆる生命の連関性が実はとんでもない」という「気づき」がまるでない。従って現在のコロナ禍でもどこか地に足が付いてない。きつい言い方をすると説得力が無いのだ。

最も環境に適応し続けた生命は「微生物」や「ウイルス」である

これは生物学者から言わせると「常識」である。けれど、経済学者や政治学者にとってこれは致命的な「アキレス腱」であって、人類の「主体性」などたかが知れていることにあまりに無知である。コロナ禍での政治家の動向を見れば一目瞭然であり、経済学者にしても「経済を回す」ことに必死になり過ぎている。
私は、この2年でマーティン・J・ブレイザー「失われてゆく、我々の内なる細菌」やアランナ・コリン「あなたの体は9割が細菌: 微生物の生態系が崩れはじめた」、ロブ・デサール&スーザン・パーキンズの「マイクロバイオームの世界」といった本を渉猟し、やがてフランク・ライアン「破壊する創造者――ウイルスがヒトを進化させた」や武村政春「生物はウイルスが進化させた 巨大ウイルスが語る新たな生命像」まで読むに至った。
結論から言えば、「人類は歴史の捉え方を間違えている」と確信した。
まず、全ての「生命にDNAがある」ということは進化出来る存在ということだ。ノーベル賞を受賞した、ポール・ナースによれば生命の定義は

「生命の原理」の定義は三つ
1 自然淘汰を通じて進化する能力がある(DNAを持っている)
2 「境界」を持つ、物理的存在である
3 化学的、物理的、情報的な機械(私的にはシステムと述べたいところ)である
ポール・ナース「WHAT IS LIFE?(ホワット・イズ・ライフ?)生命とは何か

私は人間の主体性をあまり信じていない。これを書くと非常に長くなるので省くが、要するに人間(全ての生命)は「内臓からの信号」に左右されていること、精神の「調子」の多くが、土にひそむ微生物やマイクロバイオームの具合で変化しうる、そして見えない微生物やウイルスが生命の進化におおいに携わっているという「事実」だ。

現代の生物学の知見を加味していこうとすると、今までの歴史書が「見えているものだけで書かれた言説(「書かれたこと」や「言われたこと」といった、言語で表現された内容の総体)の集まりに過ぎないとわかってしまう。

しかも、フランク・ライアン「破壊する創造者――ウイルスがヒトを進化させた」によれば、われわれを構成している細胞の70パーセント以上(9割という説もある)がヒトに由来しないものだということだ。どこに主体性などおこがましくも言えるのだろうか?

人類だけでなく、あらゆる生命は「環境」に翻弄され、そして淘汰を繰り返して生きてきた存在である。しかし人類だけはその翻弄から自由であろうとする。けれどそれは生身のまま宇宙に飛び出そうとするに等しい無謀な行為にであろう。

人間中心主義の功罪

まずは、人間は社会心理学や行動経済学の調査からでも明らかであるが、思考バイアスや、無意識的な衝動、偏見、思い込みが確実に存在していて、差別が無くならないのは、そこにある。
だからこそ、あらゆる方法や視点の移動、見方の変化を動かしてみることを努力するのが良いが、これが中々うまくいかない。人は過去の「物語」を否定するにはあまりに感情的な存在だからだ。
因みに私はワクチンを否定していない。一方で何故にワクチンを否定する人が後を絶たないかは、その導入に当たって後ろ暗い「政治」が見え隠れするフィルタが、そのワクチンの効果にまで「色眼鏡」という無意識的な偏見が乗っかっているからだろう。何よりワクチンで副作用は避けられない。下手をすると重症になることも確かに恐ろしい。人は幸運より不運の方を優先的に考える。それは生命としての「自然淘汰」が生み出した結果ではあるから仕方がない面もある。
それでも人類の歴史など地球の歴史からすればわずかなものに過ぎない。人類も含めあらゆる生命は99%以上が絶滅し、繁栄し、また絶滅したりを繰り返してきたことを「忘れている」のだ。
人間中心主義は実に根強い。けれどあらゆる微生物やウイルスに取り囲まれた生きていることを人間は忘れたいのかもしれない。けれどそれは決して感染症が無くならないのと同様で有り得ない「妄想」だ。
例えば、地球温暖化の原因に海洋微生物の減少(光合成を行うシアノバクテリア類のこと)から起こる二酸化炭素の増加によるものではないか、という知見は無視されている。ポール・G・フォーコウスキー「微生物が地球をつくった -生命40億年史の主人公」の著書を読むと、そうとしか考えられないのだが、政治家達は誰もこのことを考えない。確かに完全なデータは揃っていない。けれど環境破壊に海洋汚染による海洋微生物の減少を計算に入れないのはどういうことなのだろうか?

恐らくは海洋は国境の問題が絡んでいて、地球規模の調査が一向に進まないことに要因があると思える。マイクロプラスチック問題より海洋微生物の減少の方が大変な問題のはずなのだ。実は微生物の中にはプラスチックを食料にしているものも出始めている。これらの問題も、要は見えるものを優先的に考えすぎているからに他ならない。

価値の転換をし続ける存在

人間は、価値の転換をし続けた生物だ。ルソーはアルプス山脈の「風景」の雄大さに気づいた人であるが、それまでのアルプス山脈は高さがあるただの邪魔な山に過ぎなかったのだ。環境の「美しさ」への気づきなど欧米諸国にしてみれば数百年のも無い価値の転倒の結果なのだ。そんなことをまるで考えなかったのは先ほどの「土の文明史」を読めば嫌という程わかる。

今ではさすがに環境に配慮した経済活動が進んでいるが(ある国々を除く)、それでも見えるものを優先的に考える人類の欠陥や偏見は無くならないだろう。ではどうすればいいのか。大声で大々的に啓発するのではなく、少しずつ結果を示していくことでしか出来ないはずだ。それこそ歴史が証明していることだ。長期的な視点に立てばよいのだ。けれど明日も不明瞭な状況でどれだけ長期的な視点に立てる者がいるのだろうか?恐らく非常に少ないに違いない。

こうやって長々書いたのは、これらの内容をしっかりと読んで欲しいからで、衝動的に行動することは是非やめてほしいからだ。価値はどんどん転倒し続ける。だから安易に考えるのではなく、これから何を残していくべきかをよく考えてほしいからだ。

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