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熱量がないと発信できないのか?
こんにちは、ホロンです。
突然ですが、「自分には絶対にこれを成し遂げたい!と思うような熱量がないから発信できない」と思うことはありませんか?
僕はまさに、そう思っていました。
「そこまで誰かに聞いてほしいことがあるわけでもないし、絶対にこれを広めたいと思うものがあるわけでもないしなぁ…」と。
これは個人的な考えですが、「熱量は発信していくうちについてくる」ものだと思っています。
コンロでお湯を沸かすときのことを思い出してみてください。
鍋に水を入れて火にかけても、すぐには沸騰しませんよね?
ですが、そのまま火にかけ続けていたら、数分後に沸騰するようになります。
ここでのポイントは、「火にかけても沸騰するまでには時間がかかる」ということ。
一瞬だけ火にかけても、水は熱くはならないのです。
これを文章に置き換えるならば、めちゃくちゃ熱い想いを投下したとしても、回数が一回だけだったら、周りを熱くすることなんてできないということになります。
しかし、たとえ弱火だったとしても、継続して温め続けていたら、次第に熱くしていくことができるようになるのです。
最初はそんなに熱い想いじゃなかったとしても、発信していくうちに自分自身にも言い聞かせていくことになり、いつしか本当にそうなっていくんじゃないかと思っています。
「嘘から出たまこと」のことわざの通り、「まことは嘘から出す」のです。
最初口にした想いが嘘、あるいはごまかしやその場しのぎのものだったとしても、継続していけばそれは真実になります。
今回の話と若干ニュアンスは違いますが、『徒然草』の第85段にも似たような文章がありましたので、一部を引用します。
狂人の真似とて、大路を走らば、則ち狂人なり。悪人の真似とて、人を殺さば、悪人なり。驥を学ぶは、驥の類ひ、舜を学ぶは、舜の徒なり。偽りても、賢を学ばんを、賢と言ふべし。
現代語訳は以下の通り。
狂人の真似だと言って大路を走れば、それは狂人である。悪人の真似だと言って人を殺せば、悪人である。驥のような名馬の真似をすれば、その馬も驥のような名馬であるし、舜のような聖人を学べば、その人は舜と同様の聖人である。たとえ偽りであっても、賢人を真似てそれに近づこうとする人を、賢人と言うべきである。
賢人っぽく振る舞おうと真似していけば、賢人になる。
なんと心強い言葉なのでしょう。
これはつまり、「それっぽく振る舞うところからがスタート」なのではないかと思うのです。
最初は自分には熱量なんてないって思ってしまうかもしれません。
ですが、それでも熱量があるかのように振る舞うことで、自然と自分自身にも熱量が宿ってくるのではないかと思っています。
注意点としては、お湯は放っておいたら冷めてしまうように、熱量は投下していかないと冷めてしまうということです。
僕も日々冷めてしまう自分との戦いですが、少しでも自分自身や周りに熱量を投下していけるように健闘中です。
見守っていただければ幸いです。
それでは、今日はこのへんで。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。