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分類おじさんの営み

おはようございます、こんにちは、こんばんは、ただです。
今回も前回の記事に連なるお話です。

前回、前々回の記事を端的に振り返ると

研修医を的確かつ迅速に見極めて、適切な指導をしよう。

それって、結局ステレオタイプに相手を判断する傲慢さの表れじゃない?

という内省をして、少しでも他人への評価の単一化、画一化を意識的にキャンセルしようということをつづりました。

ただその結論に対しても時間を置くと反論や疑問点が浮かんできたのでここでまた整理させてもらいます。

①単純化、画一化された評価で得をしている人もいる

最近周ってきた研修医の話です。
小柄な女性で、話したことの意図も適切に汲み取り行動できていて、そして何より愛嬌がありました。あるおじさんの医師を想像し、きっとそのおじさんに相対するときは気に入られて何かと話し相手をしなければいけなくなるだろうなと思い、

「頑張ってね、メリットデメリットどっちもあると思うけど」

と僕が言うと

「はい、そうやって生きてきて結構得もしてきたんで」

と彼女はあっけらかんと話しました。

彼女のそのときの眼はまるで梟のように愛嬌の奥に鋭さを内包していました。女性は相手との会話の距離感や取捨選択を思春期にはほぼ習得するといったりもしますが、そこまで意識的に露出した内核を見せられたことは余り無かったかもしれません。
彼女、いや多くの女性にとって愛嬌のステレオイプは手っ取り早い武器なのだとそのとき感じました。

しかし、それは性別で区別するようなものではないかもしれません。
かくいう自分も似たような感じでした。自分の触れられたくない内面世界を保持するために、良さげな外見を作って人当たりをよくしながら対人関係を円滑かつ最小限に進めていました

外面的で表面的な自分に劣等感を感じることもありましたが、平野啓一郎氏の人間の複数人格をまとめて本当の自分と考える「分人主義」に触れてから、そんな自分を認めてあげて積極的に活用することさえありました。

そんな体験を思うと、相手が提示している「外面」の中をほじくり出すことは求められてないのではないか。そんなことをすると藪から蛇が出てきたりはしないか?と感じました。
時と場合と個人によると言ったらそれまでだけど、手を出してほしくない人は確実にいるはずです。僕や彼女のように。

②そもそも人は分類することでしか正しく世界を見ることが出来ない

この前、「料理の四面体」という本を読みました。

端的に言えば、世界各国の料理は「火、油、空気、水」という4つの要素の四面体上ですべて分類できるということを、小気味良くエッセイとして書いていました。

率直な感想は

「……こんなに分類して楽しいかなぁ」

というものでした。

「刺身はサラダ」だと言われて、確かにそうだと納得させられる面はあります。ただ料理好きな人間としては、料理を分類されて似通っていると言われると、世界各国の新しい料理を作ろうとする営みの楽しさが逆に阻害されてしまうなと思いました。いい本ではあるけれども。

そして、昔にも同じ読後感になったことを思い出しました。
それは「いきの構造」という本を読んだ時です。

こちらは四面体ではなく8つの要素の直方体として「いき」を表現していたけれども、ふわっとしたものを分解、分類して定義している点に関しては全く同じでした。

これらを踏まえて内省してみると、幾分か残念な気持ちにはなるにせよ、料理にしても、粋にしても、構造を分解分類なしに自分が体得できるかと言われたら全く自信がないことに気が付きました。
元々センスのある人は出来るのかもしれないけれども、天性の才能がない人は料理の塩分濃度の最適解さえも、人に魅惑的と思われるような「いき」の構造も分解して学ばないと実用に耐えないのです。

そう思うと、この営みは「苦渋の決断として、仕方なく神を地上に引きずりおろす」という行為なのではないでしょうか。

そしてそれは「科学」と同じなのだと思います(言い過ぎか)。

引用か、自分の内発かは忘れましたが

「科学とはある一点に光を照らすだけのものである。それ以外の暗闇のことはなにも見えない。暗闇にあるものの結論が合っていたとしてもそれは科学ではなく偶然である」

僕の中にいつも浮遊している言葉です。これがまさに神を引きずりおろすということで、妥協の産物なのです。

そう考えながら、いきの構造を再読していたら

「意味体験と概念的認識との間に不可通約的な不尽性の存することを明らかに意識しつつ、しかもなお論理的言表の現勢化を「課題」として「無窮」に追跡するところに、まさに学の意義は存するのである。「いき」の構造の理解もこの意味において意義をもつことを信ずる。」

著:九鬼周造「いきの構造」

ほとんど同じ記述に僕はマークを引いていた。やれやれ。

ただこのままだと妥協しつつも、結局ステレオタイプに人を分類せざるを得ないという結論になりますが、そこには少しだけ進んだ気づきがありました。

「なにかひとつの材料を、この四面体どこかの一点に置くと、ひとつの料理ができるのだ。そしてその点を移動させていくと、次々に新しい料理が出来る」

著:玉村富男「料理の四面体」

料理の四面体のこの記述はそのまま人間に置き換えられるのではないか。
同じような高校大学をでた、感じのいい人間という括りでも、分類上の多面体では微妙に異なる場所にプロットされるはずです。その違いを探し求めることがステレオタイプに評価しつつも、相手を個として見れる必要条件なのではないかと。

ただ、人間を定義するには四面体や直方体では足りなそうです。もしかしたら究極的には球体になってしまうのかもしれません。

そして、この考えにはもう一つ個人的な利点があることに気づきました。
料理ではプロットする場所を想像上で変えると新たな創作料理が出来ます。人間ではどうでしょうか。そう、それは新しい人間を自分が創造することになるのです(何かを得るためには同等の対価が必要になるとかいった類の話ではありません)。

フィクションの世界で動く人間をつくるということはそんな営みなのではないか。「小説を書きたい」という自分の欲求とそれは一致することに気づきました。

つまり、この営みは自分の内面的な欲求にも、外面的な必需にも対応しているのです。

「なに普通のことを小難しく言っているんだ」

そんな声が聞こえてきそうですが、その通りではあります。
ただ昔、何かを最初からできる人って羨ましいなぁという話を友達にしたら

「けど、こうやって一つずつ考えていくと、何かスランプになったとき崩れないんじゃない? 最初からできている人ってそこに弱い気がするし、それが俺らの強みだよ」

と言われたことを思い出します。
小難しく、弁証法的に考えていくのはいつまでも変わらないんだろうなぁと感じた今日この頃でした。

最後までお読みいただきありがとうございました。ではでは!

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