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静けさをこわさぬうちに


尋ねて来たのに
主人は留守である。
主婦も留守である。
新緑の縁側に
茶碗が二つ置いてある。
-----では失敬、
ぼくは待ってゐるわけにはいかないのだ。

晩春/木山捷平(昭和43年)


最近やっと涼しくなってきましたね。
詩って普段あまり読まないんだけど、秋や冬になると、なんとなく詩集を手に取ることがあります。暑さが少し和らいで、心の広がりのようなものを感じたいと思うようになるからかもしれません。

最近、「感恩集」という木山捷平の追悼録を読んでいます。昭和の詩人・小説家である木山捷平の三回忌にあたり、妻であるみさをさんが中心となって編纂・出版された本です。木山さんの死にあたり寄せられた追悼文や、作品の批評、木山さんの人柄について述べられた短文などが収められています。これを読んでいると、みんな木山さんが大好きだったんだなあと、しみじみとした気持ちになります。私が好きなのは、例えばこんな文章。

すみの方で、こっそり呑むという人ではないし、まんなかで堂々と呑む人でもない。入ってきたときにあいてるところへちょこんと腰をおろして、そのまま、もう既に長く呑んでいた人のようになってしまう人だった。

私の会った作家たち/巖谷大四

木山さんは明治37年に岡山県小田郡(現笠岡市)に生まれ、昭和43年に64歳で亡くなりました。

冒頭に載せた詩は、木山さんが亡くなる年に詠まれたものです。みなさんはこの詩を読んでどのように感じられるでしょうか。一見すると、自分の死を予感する木山さんの焦りが生んだ詩のようにも思えます。実際、そういった側面もあったかもしれません。
ですが、私はこの詩を読むと、なんとなく静かで幸せな気持ちになります。諦観というと大げさなのですが、なんというかこの詩は、「去ることに対する前向きさ」のような雰囲気を纏っていると思うのです。

誰もいない新緑の縁側に置かれた二つの茶碗。茶を飲んだのが夫婦なのか、主人と客人なのかは分かりません。しかし、それは誰かと誰かが語り合ったなごりとして、新緑の庭や、そこを通り抜ける風と、驚くほど一体化して、その風景にしっくりと収まっています。そこを訪れた「ぼく」は、その幸福な調和を感じられた喜びと同時に、自分がそこに留まることで、調和を乱してしまう不安を感じたのではないでしょうか。そして、その静けさをこわさぬうちに、そっとその場を立ち去ったように思えるのです。

場所を去るという行為、あるいは別れという行為には、その場所あるいは風景を残し保つという側面があります。
私にもいつか、この世界を去る日がやってきます。それがどういう去り方になるのか見当もつきませんが、木山さんの詩のように、静かで美しい風景を壊すことなく、上手に別れを告げることができればいいなと願います。

読んでいただいて、ありがとうございます。