原田宗典を読んでいたころ
十七、八歳の頃、ずいぶん原田宗典さんの本を読んだ。軽妙な随筆とは反対に、彼の書く小説の主人公はみな、どこか卑屈で、じめじめした奴らだった。傲慢な高校生だった僕は、ちっぽけな自分と向き合う方便として、彼らの惨めな物語を貪欲に吸収した。彼らの惨めさを笑いながら、自分の惨めさと何とか折り合っていた。
でも、大学生になってしばらくすると、本棚にずらりと原田さんの本を並べているのが何だか恥ずかしくなって、まとめて処分してしまった。ぽっかり空いた場所には、メルヴィルの『白鯨』やドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』が、太った紳士みたいに、どっかりと座り込んだ。僕は紳士たちに愛想よく微笑み、自分こそが彼らの本当の理解者であるかのように振る舞った。結局僕は、傲慢な高校生から、傲慢な大学生になっただけだった。
最近ふと思い立って、原田さんの『十九、二十(じゅうく、はたち)』を再読した。話の筋は概ねこんな感じだ。
地元の岡山から東京の大学に進学した「ぼく」は、あと数週間で二十歳になろうとしていた。しかし「ぼく」を取り巻く現実は、二十歳という言葉のもつ煌めきとは程遠いものだった。恋人には振られた。かつて一家の大黒柱だった父は、その財産と父としての威厳を悉く失っていた。せめて帰省の電車賃だけでも稼ごうと、「ぼく」はエロ本専門の出版社でバイトし始めるが…
久々に読む原田さんの小説は、惨めさの極北のような作品だった。傾斜面で加速するように、「ぼく」が置かれた状況はどんどん悪化し、生活を蝕んでいく。側から見ていても気の毒なくらいだ。でも不思議と、絶望のような感情は湧いてこない。たぶん彼はこれから、自分の人生をなんとか構築していくのだろうという、楽観的な気持ちになる。どうしてだろう?
恐らくそれは、惨めさによって彼が摩耗することがないからだと思う。「そうすね」とか「はあ」とか言いながら、彼は目を背けたくなるような現実をどうにかやり過ごす。そこには強風になびく若木のようなしなやかさがある。
抜け目のない栗鼠のように、月日が僕たちの体から少しずつ、確実に、しなやかさを掠め取ってゆく。考えてみれば、僕が熱心に原田さんの作品を読んでいたころから、二十年近く経っているのだ。二十年。ちょっとびっくりしてしまうくらいの年月だ。
僕は足下に目を落とす。いつの間にこんなにたくさんの水が、僕の体から流れ落ちたのだろう?
十七歳の僕は、惨めな物語の主人公を笑いながら、本当は自分の体を流れる水脈の音を聞こうと、じっと耳を澄ませていたのかもしれない。
ふうっとひとつ息をついて、僕は読み終えた本を、そっと本棚の片隅に差し込んだ。十七歳のときと同じようにして。