ボストンで勉強したこと 7
久司さんの活動は、世界的な広がりをみせていて、東海岸のセレブたちにも強い影響を与えていました。数多くの有名人がマクロビオティックを実践していて、当時その中で一番有名だったのはジョン・レノンさんだったと思います。それと、往年の大女優グロリア・スワンソンさんも熱心な玄米菜食の実践家でした。ボストンを発つことになった時、次はニューヨークに一週間ほど滞在する予定だったので、ほんとうに軽い気持ちで「ジョン・レノンに会えたらいいなあ」と言うと「では、会えるかどうかはわかりませんが、グロリアを紹介してあげましょう」と久司さんからグロリア・スワンソンさんの電話番号とアドレス、簡単な紹介状をもらいました。わたしたちより、さらに上の世代の洋画ファンなら、彼女が大女優だったことをご存知かもしれませんが、残念なことに我々は少し下の世代だったので、グロリアさんについては、名前を聞いたことがあるかな?くらいの認識だったので、恐れ多いことに、たいして緊張もせずにニューヨークのグロリアさんのご自宅をお訪ねしたのでした。
ジョンのアパートは、あの悲しい事件で、あまりにも有名になってしまったセントラルパークの近くの、あのアパートですが、グロリアさんはもう少し南の、やはり高級なアパートにお住まいでした。お仕着せを着た門衛みたいなガードマンに事情を話し正門は突破、次はロビーのカウンターの中にいた執事のような風貌のおじさんに、グロリアさんにとりついでもらえるよう 紹介状を見せました。
アメリカってすごいなと思うのは、アジア人の貧相なカップルでも、ちゃんとした紹介状さえあれば、取り次いでくれたことです。びっくりです。開けゴマ!です。
ロビーで少し待っていると、グロリアさんがエレベーターから降りてきました。真っ白な部屋着姿でした。お年は80才くらいだったでしょうか…きゃしゃな手を差し出しながら、ニューヨーカー独特の超早口でぺらぺらぺらぺらと話して、また風のように去って、エレベーターに乗り込んでゆきました。
はあ?今のは、なんだ?
二人のお粗末な英語脳のヒアリングの結果を足して割って出た結論は…「来てくれてありがとう。残念だけど今お料理をしているの。すぐに部屋に帰らないとフライパンが焦げちゃうの。だから失礼するわね。ミシオによろしく」ということでした。アメリカ人は久司さんのことを名前の道夫で呼ぶことも多いのですが、「ち」の発音が難しいようで、たいていのアメリカ人は「ミシオ」と言っていました。
ということで、我々の野望グロリア・スワンソンに紹介してもらってジョンとヨーコに会う計画は頓挫しました。
もともと、そんなにうまくいくとも思っていなかったので、当たって砕けろ気分でしたから、本当に早々と砕け散ってしまい、やっぱりダメだったね〜あははで終わった話しでした。
あの時会えなくてよかったと、心の底から思ったのは、1980年12月6日、長い長い北半球一周の旅を終えて、無事日本に帰国した日の翌々日のことでした。
もしもあの時、とてつもないラッキーと偶然が重なってジョンに会えていたら、わたしは12月8日に世界中を駆け巡ったあのバッドニュースの衝撃に耐えることはできなかったと思うのです。