イエスの味方になりたい
「イエス様の無実を証言すること」サンヘドリンでは弟子であるペテロもヨハネにもできなかった無実証言を、イエスの側にたって、証言した。たった一人の証言者が一緒に十字架にかかっていたこの強盗だった。もてはやしていた群衆も弟子もイエスを裏切った中、イエスのたった一人の味方になった。
弟子たちには失うものがあっただろう。あの場でイエスの味方になり、イエスの無実を証言すれば、命、社会的立場、人間関係、未来、あらゆるものを失うおそれがあった。十字架につけられた強盗には、命も社会的立場も、未来も、何も、もう失うものはなかった。だが、彼は土壇場で最も大事なものを得た。
「イエスは神の子、救い主だ。イエスは何も悪いことをしていないのに十字架にかけられた。イエスは我々の罪の代償をはらった。イエスは復活した。」と証言したら、変な目で見られ、社会的な立場を失い、いろいろなものを失うかもしれないのは、現代の日本でも同じだろう。でもイエスの味方になりたい。
周囲にクリスチャンが誰一人いないとき、それは孤立し、周囲の無理解に心が傷つけられ、何かを失い得る状況かもしれない。だが、その状況は同時に、誰もイエスの味方をする者がいない状況で、ただ一人イエスの味方をし、あの強盗のようにイエスのために証言をする愛と勇気の証言者になる機会にもなる。
イエスに3度知らないと言うと宣言され、イエスの無実を証言できる立場にいたのに、イエスの無実を最もよく知っていたはずなのに、その証言の機会に3度知らないと言ってしまったペテロ。証言できていれば後悔し泣くこともなかったろう。だが人は弱い。決定的な土壇場でふがいなく保身に走ってしまう。
イエスの復活後、自分が裏切ってしまったイエスに再会し、愛するのかと問われ、愛しているのはあなたが知っていると答えたペテロ。その後公開の場でサンヘドリンで、全てを失う可能性があるのを承知の上で、周囲が全てイエスを否定する中で、イエスの味方になり、イエスのことを証言する者に変わった。
イエスは、ペテロが自分を裏切ることを知っていた。裏切ることなど決して無いと頭では考えていても、実際土壇場になると裏切る弱さがあるのも知っていた。知ったうえで立ち直ったら兄弟たちを力づけるよう励ました。そして裏切って傷心のペテロに直接会い、赦した。その愛がペテロを変えたのだと思う。
周囲の人たちがイエスのことを知らずに、イエスのことをああだこうだ間違って言う場面で、イエスを知らないふりをしてしまうか、イエスの味方になるか、その都度選択しなければならない。弱さゆえに知らないふりをしてしまっても、イエスは赦し、受け入れてくださる。その赦しの愛によって力を得たい。
イエスの無実を、イエスについての真実を、証言してしまった。証言したゆえにその代償として何かを失ってしまった。失うことは承知で証言した。その場で誰も味方のいないイエスのたった一人の味方になりたかったから。上出来だ。確かに何かを失ったかもしれないが、土壇場で最も大事なものを得たのだ。
人の目から見れば、敵対者に囲まれ、誰も味方のいない状況でも、神の目からみれば万軍の天使たちが城壁を囲むようにその場で待機していてくれる。それを見たゲハジのように目を開きたい。何より神ご自身が味方としてついていてくださることを励みにしたい。一人に見えたとしても、決して一人ではない。
そして、イエスの正しさを証言するときに、ことばだけでなく、行動でもその正しさを実証したい。イエスが教えた通りに行動してこそ、イエスの正しさを有言実行で証明することになる。イエスがことばだけでなく行いにも力があったように。イエスならどうするか。イエスに倣って生きたい。可能なかぎり。
イエスと全く同じように生きるのは今すぐは無理だとしても、今日より明日は、一歩だけ成長しイエスに近づきたい。そのような方向を向いて人生を歩みたい。たとえ到達地点が遠すぎても、せめて方向はそちらを向きたい。的外れな方向を向いていたとしても、神に背いていたとしても、向き直って生きたい。
画像:海岸での焚き火、Delphine Ducaruge (@delphinenz)
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