神学と物理学:前編(時間とは)
神様と人間の違いのひとつが、時間です。神様は時間の外におられ、時間の外から時間の中に自由に介在し、介入できます。一方、人間は生きている間は、時間の外に出ることはできず、時間の中で過ごすことしかできません。人間の命は有限の時間です。神様は無限の前からも、無限の後にもおられます。
物理学的に最先端の高性能な実験機材を通して時空を計測し、計測されたデータに適合するような数式に当てはめて仮説を構築し、その仮説を検証していく過程で現れてくる「時間」の姿と、その機材に遥かに劣る精度でしか時間を認知できない人間の知覚で認知可能な範囲の「時間」の姿は、だいぶ違います。
だから、相対論の実験や数式で表現される「進み方の異なる時間」や、量子物理学の実験や数式で表現される「プランク長に細切れになった時間」などは、人間の想像や日常感覚を超えてはいますが、現在の実験器具の精度で可能な限り詳しく理解できた「本当の時間の姿」に近いものだと僕は思います。
人間の感覚というのは重度の近眼のように、実は世界の本当の姿を正確には知覚できていません。現代物理学の実験と数式は度数の落ちるメガネのようなものです。現存するメガネの精度は完全に近眼を修正できるほどのものではありませんが、近眼よりはましな状態です。
だから、せめて概要でも相対論や量子論の描写する時間の姿を学び、そのメガネをかけて見える「時間の姿」をテーブルの上に置いて、神学的、哲学的に時間を議論をすることで、より生産的な議論になるのではないかと思います。
高校2,3年から大学1年にかけて物理学関連の入門書、専門書などを自分で買って受験勉強そっちのけで核物理学、量子物理学、相対論などを学んでいたので、物理に関してはある程度一般の人よりは関心・知識があります。「時間」に関してもそうです。
そこで知ったのは、相対論において、宇宙規模の超大な広さやブラックホールなどの超大な重力などに視野を広げると、つまり、これらの超大なものを世界の器として創造した神にしか取り扱うことのできないほどの大きなスケールに広げると、人間のスケールとは全く異なる振る舞いを時間がすること。
そして、量子物理学で素粒子レベルに超極小の空間に視野をズームインすると、つまり、これらの超極小なものを世界を構成する最小単位のブロックとして創造した神にしか取り扱うことのできないほどの小さなスケールに詳細化すると、またもや人間のスケールとは全く異なる振る舞いを時間がすることです。
スケール順に、超極大、人間、超極小となります。超極大では運動や重力によって進み方が異なり、超極小のスケールでは細切れになって計測できなくなります。もし人間のスケールで起きたら破壊的な影響をもたらす時間の振る舞いが、誤差程度に小さくなるよう宇宙も素粒子も物理定数も「定められています」。
僕はこのように人間の生存に都合よく全宇宙レベルでも素粒子レベルでも世界ができていること自体が、赤ん坊を外部環境の破壊的影響から守るために親が揺りかごを用意するように、神が人を愛して人のために世界を用意する意味で、世界を、宇宙を、素粒子を、物理定数を、創造したものだと、思っています。
もう一つの視点なのですが、超極大の世界と超極小の世界は、非常に単純なんです。単純とは、複雑さが少ないという意味です。構成要素となる数式の数や複雑さが少ないということでもあります。E=mc2に代表されるように、数学的にスッキリした式。短い式に収まるものです。
対局として生物学、生命情報学に代表されるように、人間の生体のような存在は、複雑さが極限にまで大きくなっています。超極大、人間、超極小のスケール順に分けてみると、超極大で複雑さが極小となり、人間で複雑さが極大となり、超極小でまた複雑さが極小となる。そのように世界が構成されています。
世界の複雑さをX軸に、スケールをY軸にとったグラフを描くなら、人間の脳の複雑さが複雑さの極点となるように「定められています」。人間の体が複雑さの極点である「霊」の器として機能するよう定められ、それに合わせて宇宙も、人体も、素粒子も設計されているからではないかと、僕には思えるのです。
近年の研究で脳神経の機構が非常に機械的、メカニックに作動するものであることが明らかになったという論文を見たことがあります。脳は、僕が想像していたようなデジタルな、コンピューターのようなものよりもかなり機械的な、からくり人形的なものでした。
からくり人形的な機械に霊を収納できるように設計するとしたら、その複雑さはどれほどでなければならないのか。これも、人間の想像を絶する超絶な複雑さです。コンピューターは自然発生しません。高度な複雑さ故に最終形態を事前に設計しなければ、最初の部品を設計することもできないからです。
コンピューターを遥かに凌駕する人間の脳も同様に、最終形態を事前に設計しなければ、その構成要素となる機械的部品の設計もできません。僕は論理的にそれが人間が自然に出来上がったものではないことの証拠だと考えています。
物理定数や数式は極大の宇宙と極小の素粒子を記述する「ことば」であり論理(ロゴス)です。DNAとタンパク質合成系は脳とそれを機能させる体を記述する「ことば」であり論理(ロゴス)です。
だから僕は、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」という「ことば」が「神のことば」であると、納得し実感できます。
神の愛は大きすぎて、深すぎて、人間には捉えきれません。それは宇宙の大きさを、素粒子の小ささを、人間の知覚が捉えきれないのと同じです。しかし、神様の愛を神であるのに人となり、人間に分かるように、生き方で、死に様で、そして復活をとおして、示した方がいます。神の子イエス・キリストです。
イエス・キリストがどのように生きたのか、どのように死なれたのか、どのように復活したのか。これを聖書を通して知り、これが自分のための愛だったと、受け入れるなら、死んだようにしか生きることのできなかった人生を、本当の意味で「生きる」ための命が得られます。
その命は死で終わるものではないので、私達が死んで時間の外に出てしまう時が来てももう恐れはなく、希望をもって生きることができます。
だから、このイエス・キリストにいのちがあり、このいのちは人の光なのです。
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