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食堂にて

新卒で、ある建設会社に入社して、2箇所目の事務所で働いていたときのことだ。まだ、そこに転勤してきたばかりで右も左も分からない頃で、まだ桜が咲いていた。

「仕事をする上で、どんな人が一番必要とされるか分かる?」と、その建設事務所でトップである所長に聞かれた。私は、「やっぱり、仕事ができて建設事業をスムーズに進められる人ではないでしょうか」と、ありきたりな回答をした。すると、所長は、「うーん、違うんだよね」と言った。

それは金曜日の夜のことで、私と所長は男子寮の食堂で、寮母さんに作って頂いた夕食を食べていた。味噌汁は保温器、ご飯は炊飯器に入れられていて、自分で好きな量をよそうことになっていた。おかずはテーブルの上に、フードカバーをして置かれていた。だけれども、寮母さんは、熱々のおかずを食べてもらいたいと、金曜日だけは、毎回固形燃料で温める卓上コンロを使った食べ物を用意してくれていた。その日は陶板焼きで、時々蓋を開け、鍋の中の野菜やお肉をひっくり返しながら、焼けるのを待っていた。

「本当に求められるのは、空気を変えることのできる人なんだよね。この人がいたら、心が温まるとか、安らぐとか。結局、仕事の成果じゃなくて、人格なんだよ」と、いうのが所長の答えだった。そのときは、その意味がよく分からなかったし、所長ともまだ打ち解けていなかった。所長は、ご飯を早々に食べ終え、食器を片付けるとすぐに自分の部屋に戻っていった。「寮母さんの朝ごはんは、毎日食べてあげて」という言葉を残して。

その建設事務所では、ある事情により大規模な土木構造物の建設が中断されており、その構造物を作る必要性の再検討の真っ最中であった。建設の中断までは、多くの人員が投入されていたが、建設の再検討となったため、大幅に人員を削減されて、社員15名の小さな工事事務所になっていた。私が一番の下っ端で、その次に若い人はひとまわり近く離れていた。ほとんどが50歳以上で、管理職は半数を超え、ベテラン揃いで、私を除いて皆男性だった。

最盛期の工事事務所には大抵、寮や宿舎、社員食堂が完備されていた。その事務所は、工事が中断されているものの、また再開する可能性があるため、私がその事務所に所属した際には、社員の食と住を賄うためのものは、そのままの状態で維持されていた。男子寮に入所できるのは、単身赴任か独身の男性のみであり、男子寮に入ることのできない私は、寮のすぐ隣にあった世帯用の宿舎に住んでいた。そして、市内にある宿舎から、山間部の田舎にあった建設事務所まで車で片道1時間近くかけて通勤していた。先輩方は早朝から出張や会議があることも多く、かろうじて朝食を寮で食べられるのは私だけだった。でも、一人でも寮の食事を利用しないと、不要と結論付けられて廃止されてしまうこともある。将来建設が再開した場合や、60歳くらいであった寮母さんの職を奪ってしまわないためにも、所長は寮の制度を存続させたかったのである。所長は、そういう人だった。

そして、寮母さんは、私たちが仕事に集中できるようにと、寮母さんの仕事以外に、色々なことをそっとやって下さるような方だった。

工事が中断されたということは、遅かれ早かれ、中止か、続行かの結論を出さなければいけない時期がくる。残念ながら、工事は極めて中止に近い中断で、いくら工事の再検討しても結論は覆らないと私も薄々気付いていた。それなのに、構造物の妥当性や、それを作ることによる環境変化の予測を調査するのは、経験の浅い私にとって、負けると分かっていて挑む戦いのように感じていたが、「構造物を作ることは目に見える成果ではあるが、それが全てではないのではないか」と、同僚を観察するうちに私は思うようになった。それから私は、所長の言っていた、求められる人の探索に励んだ。

特に管理職は、工事関係者の説明に際して、徹底していたことは「ウソは絶対につかない、期待は持たせない、だからといって、落胆させる発言は絶対にしない、なぜなら、工事を中止の結論はまだ出ていないから」だった。工事の再開の確率が0%になるまで、私たちはやり続けていく責務があった。

夕方の寮での食事で、先輩方から今までいた現場の話を伺う中、どうしてこんなに第一線で工事に携わった優秀な人たちがこんなところに集まってるのか、と疑問に思い、じっと観察してみると、人の傷みが分かるという共通点があった。皆、いい意味で繊細で、発言することに対しても取り繕ったものではなく、もう人柄として染み付いたものがそのまま出てくるものであった。恐らく、経験したことが相手への思いやりになっていたのだと思う。

私は、構造物本体の検討をする課に所属していたが、若い人手が足りないからと、色々な課の手伝いもしていた。特に印象に残っているのは、魚類や鳥類、植物の環境を調査している先輩社員の手伝いである。その先輩は、環境調査だけでなく、構造物の建設予定地周辺の、村おこし、についても実践していた。ドジョウ、ダチョウの飼育と、食材としての価値があるかどうかの実証実験に、炭焼き、雪室が、観光のアピールになるかどうかの実験もした。さらには、村役場の若者たちと協力して、その地域の特産品の宣伝までやってみた。

あるとき、その単身赴任していた先輩と夕方の男子寮の食堂で会ったときに、どうしてそれをやろうと思われたのか聞いてみた。すると先輩はこう言った。

「ワタシたちって、いつかは結局いなくなるじゃない。工事をしても、しなくても。でもさ、今、村の人をみてるとワタシたちの事業が生活を何とかしてくれるって思ってるように感じるんだよね。仕方がないことだけど。でも、必ず終わりが来てしまう。だけどさ、余所者のワタシたちがここにお世話になっているのは確かだよね。だから、こういう仕事、どうですかって提案して、この村に合うようだったら、軌道に乗せるまでやるのがワタシにとってのここへの恩返しだと思ってるよ」

それを聞いて、その先輩が、どうして村の人々からすごく信頼されているのか分かった気がした。将来の心配に寄り添って、一緒に考えてくれるからだった。

私は、所長とは、親子のように仲が良くなった。所長は、お子さんに恵まれなかったそうで、所長ご夫妻は、部下であった方々を代わりに可愛がってこられたそうだ。

所長にとって、私は忌憚なく話せる部下であったのだろう。無論、私の方が、ずっと経験が少なくて話せることがなく、私はひたすら寮の食堂で所長の話を聞いてるだけで、時々思うことを言うだけであったと思う。あるときは、土曜日の朝日を拝める時間まで話続けたこともあった。それは、他の先輩社員が呆れるほどでもあったが、それでも毎回必ず誰かが加わり食堂での討論は続いた。様々な現場の苦労や、出会った人々のこと、今の悩み、所長やその他の同僚の話は尽きることがなかった。

私は、この赴任先で、土木という現場自体については学ぶことは確かに少なかった。それでも私はここで、独りで悩みを抱え続ける辛さから少しでも脱却できる方法を知った。それは、声を掛けて、誰かと共有する時間を少しでも作ってみることだと思う。誰も気付いていてくれなかったら、自分で声を上げてみることだ。

社内で困っているように見える人がいれば自分の所属先関係なく、「何か、手伝いましょうか」と声を掛けてみる。その悩みを解決できる可能性は、極めて低いかもしれない。でも、そこで見えてこなくても、必ず新たな空気の流れは生まれているはずだ。それは、ある会社に留まらず、社会全体にとって必要なことだと思う。色々な物事に、きちんと関心を持つことだ。

それが、私から所長への、社会で求められる人、の回答である。

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