陰キャと陽キャはねるねるねるねをしたらいいという話
我が家の娘は14歳、中学2年生の女子。
学校では陰キャの部類に属しているらしい、夕飯を食べながら「陰キャは学校では生きづらいんだよ」と言う。
しかし、私から見ると、娘は決して陰キャではない。
明るくよく笑うし、自らさまざまな話題を提供してくる。
何が陰キャで、何が陽キャなのか、自分なりに考えたことを紹介したいと思う。
陰キャと陽キャってなんだ
陰キャ:性格が暗い、大人数のコミュニケーションが苦手、ノリが悪い
陽キャ:性格が明るい、大人数で騒ぐのが好き、ノリがいい
パッと考えて私が定義した、陰キャと陽キャの違いだ。
学校の中だと、恋愛経験の豊富さや容姿、自己主張が強いかどうかなども関わるのだろう。
まず初めに1つの疑問が湧いてくる。
陰キャと陽キャは誰が決めているものなのかということだ。
「はい、じゃあ、あなたは今日から陰キャですね。よろしくお願いします」というようなシーンを私はまだ見たことがない。
結論から言うと、誰かが決めているわけではなく、自分で決めているんだと思う。決めているというより感じ取っている。
何かのコミュニティができたとき、もしくは、自分がコミュニティに参加したときに、そのコミュニティならではの陰キャと陽キャの基準があり、その中で自分がどこに位置づくかを感じ取る。
例えば、友達同士の間では陽キャの人が、営業力が強く体育会系のノリがある会社にはいったところ、周りの人の陽キャレベルが高く、そのコミュニティでは物静かな陰キャになるということもありえる。
陰キャ・陽キャはコミュニティにおいて、相対的に自分が明るいのか、暗いのかで、ああ、自分はここでは陰キャなんだ、ここでは陽キャなんだとラベルを自分で貼っている。
私から娘が陰キャに見えないのは、娘は家庭というコミュニティでは自分自身に陽キャのラベルを貼っているし、今の学校というコミュニティでは陰キャのラベルを貼っているからだ。
確かに、学校というコミュニティの中だけで考えても、部活の時は明るいけど、クラスにいると暗くなる子はいたし、高校デビュー、大学デビューなんかは、いままでのコミュニティで陰キャだった子が環境が変わることで陽キャになろうとしていることを指すのだと思える。
ここからわかることは、人は陰キャか陽キャか必ずどちらかに分類されるわけではないということだ。コミュニティによって陰キャや陽キャどっちにもなれるし、使い分けているとも言える。
陰キャな自分、陽キャな自分、本当の自分ってどっちなの?
人は環境によって陰キャにも陽キャにもなれるのだとしたら、本当の自分はどっちなのだろう、私の娘は家庭で見せる陽キャな部分と、学校で見せている陰キャな部分、どっちが本当の自分なのだろうか。
昔読んだ、平野啓一郎さんの本で面白い考えが紹介されている。分人という概念だ。平野さんの考えでは本当の自分というものはなく、あるのは分人だけ。分人というのは、複数の自分が合わさって、自分が構成されているという考えだ。陰キャの自分も陽キャの自分も自分というものを構成している一部でしかないと。
https://www.amazon.co.jp/dp/B00APR9D7Y/ref=dp-kindle-redirect?_encoding=UTF8&btkr=1
哲学者のジュリアンバジーニも同じようなことを言っている。自分という核は幻想で、存在しておらず、自分とはさまざまな経験や部品を集めたものであると。
https://www.ted.com/talks/julian_baggini_is_there_a_real_you/up-next?language=ja
どちらも共通して言っているのは「本当の自分」なんていうものはないということだ。学校にいる時の陰キャな自分、自宅にいるときの陽キャな自分、一人でいる時の自分、友達といる時の自分、そういった色んな自分を全て合わせた集合体が自分だということ。
あらゆる自分の割合を足していった結果、陰キャな割合が多い人は陰キャだと言われるし、陽キャな割合が多い人は陽キャだと言われることになる。
陰キャは学校では生きづらいのか
冒頭の娘の言葉に戻るが、「陰キャは学校では生きづらい」これは理解できる。コミュニティによって相対的に決まる陰キャと陽キャ。陰キャがよくなくて、陽キャがいいという空気があるコミュニティだと陰キャは辛い。
学校というコミュニティはまさにそうなりやすい。
社会にでると、本当にさまざまな人生を歩んできている人がいて、陰キャだろうが陽キャだろうが、そこに良い悪いの基準はなくなることのほうが多いが、学校は「明るく楽しく元気よく」がよいことであるという雰囲気が充満している。
陰キャがそこでどう生きていくかにはいくつかの選択肢がある。
一つ目の選択肢はそのコミュニティから離れること。陰キャでいる自分で生きる時間が多くなると、自分の中の陰キャ割合が多くなることになる。そんな自分が嫌なのであれば、そのコミュニティから離れることをお勧めする。
二つ目の選択肢は気にしないこと。コミュニティの中で自分が陰キャであったとしても気にしないということ。なぜなら、陰キャな自分も紛れもない自分であり、そんな自分も嫌いじゃないのであれば、周りのことは気にせず、そのままでいるということをお勧めする。
三つ目の選択肢は陰キャな自分を前面に押しだしていくこと。一見矛盾した考えだが、陰キャであることを周りにもっと面白がってもらうというやり方だ。ちびまる子ちゃんの野口さんはこの選択肢をとっている。自分の暗さを前面にだして周りに受け入れてもらっている。このスキルを身につけると、あらゆるコミュニティで生きやすくなる。
陰キャから陽キャになることはできるのか
陰キャと陽キャはただ自分の割合でしかないので、陽キャの自分の割合を増やしていきさえすれば、陽キャになることは容易だ。
陽キャの割合を増やすにはどうしたらよいのか。
大前研一さんが自分を変えるには3つの方法があると言っているのが参考になる。
1.時間配分を変えること
2.住む場所を変えること
3.付き合う人を変えること
これは全て自分が経験することを変えるということにほかならない。
言い換えると、どの自分でいる時間を多くするかで自分を変えることができるということだ。
陰キャな自分の時間を多くするのか、陽キャな自分の時間を多くするのか、どの自分の時間を多くするのかで、自分を構成する自分ポートフォリオの割合が変わり、結果、自分自身が変わっていく。
実は何を隠そう、私自身ももともと陰キャの割合が多い人だったが、大人になってから陽キャの割合を増やしていって、今では人によっては私のことを陽キャだと思っている人がいるくらい変化することができた。
私のやり方は「3.付き合う人を変えること」だ。
友人や職場を変えたわけではなく、多くの時間を一緒に過ごすことになる彼女に陽キャな人を選んだ。
一緒に過ごすうちに、陰キャがでがちな時にも陽キャならではの考え方(基本は今を楽しむという考え方)に触れ、生きていくってことはこんなにも楽しんでよいものなんだと思ったことを覚えている。
陰キャであるか、陽キャであるか、どっちかが良いなんてことはない。
自分がどうなりたいか、自分というものをどう作っていきたいか、それによって、どの自分の時間を増やすのかを決めていけるといいんだろう。
ねるねるねるねというお菓子を知っているだろうか?
材料をいれてねればねるほど、色や味が変わっていくというお菓子だ。
この話を考えているときに、ねるねるねるねを思い出した。
人というのもねるねるねるねと同じだ、自分自身にどんな材料(経験)をいれるのかを選んで、今の自分をどんどん変化させていく。
どんな自分ができあがるかは、混ぜてみないとわからない。
自分が陰キャだろうと陽キャだろうと、どっちも大切な自分の一部。
両方ともねるねるねるねのように混ぜてしまえば、自然と自分らしい自分ができあがっていく。
毎日は自分を作っていく過程の一つで、人生は自分という作品を作っていく物語なんだ。
そう考えると、毎日がちょっと面白くなりませんか。