松本人志はお笑い界を支配しているか
先日、オリエンタルラジオの中田敦彦が、お笑い界における松本人志の影響力を問題視する動画を出した。これに対して動画内で名前を出された粗品の相方のせいやが反応するなど、多くの芸人や著名人が言及する事態となっている。
中田の主張は、現在のお笑いジャンルのほとんどが松本人志によって牛耳られており、その枠内でしか芸人は評価されないため、お笑い界のイノベーションが起こらなくなっている、というものである。松本は漫才、コント、大喜利、トークといった様々な大会を「主催」している。面白いとは松本人志が評価するということであり、逆に彼がつまらないといったものは世の中的にもつまらないというレッテルを貼られてしまう、というのだ。
日本のお笑い界が現状のままでいいのか、という点については、とりあえず議論しない。私自身の考えでは、大阪維新(あるいは自民党政権)と吉本興業の政治的結びつきなども含めて、現状のままではよくないと考えている。しかしとりあえずの論点は、日本のお笑い界の閉塞感は、松本人志によってもたらされたのかどうかである。
松本人志が、「スベる」「イタい」をはじめ、様々なお笑い用語を発明・あるいは普及させたのは事実であり、その意味でお笑い界、あるいはそれを超えた日本語世界そのものに、松本の磁場が働いているのは確かだろう。ただし、それをもって彼がお笑いのフィクサー的な役割を担って動いているという証明にはならない。また私はお笑い芸人ではないので、業界内での松本人志の影響力の実態について知るところではない。
常識的な見解としては、松本人志が様々な賞レースに呼ばれている事情は、彼が絶対的権力を行使したからではなく、局側の都合だろう。M-1に松本がいるのだからウチも、というわけだ。そもそもM-1に彼を呼んだのは島田紳助であり、彼が自発的に審査員になったわけではない。また、トークや大喜利が大会になるのは時代の要請だろう。テレビ局に予算がなくなり、金がかかった企画を打てなくなった以上、トークや大喜利のような芸人の話術だけで構成可能な安上がりのコンテンツが脚光を浴びる。松本が『一人ごっつ』をやっていたのは90年代であり、大喜利が『IPPONグランプリ』というかたちで大会になったのはそこから10年以上を経てのことだ。
また、松本人志の好みに合わない芸人が業界を干されているかといえば、別段そのようなこともないように思える。ナインティナインが『遺書』で「ダウンタウンのチンカス」と表現されていたのは有名だが、ナイナイは変わらず第一線を走り続けている。そもそも近年では、松本ははっきりジョークと分かる場面以外で、芸人を否定的に評価することはなくなっている。松本人志がお笑い界における絶対的な独裁者であるかのように述べる中田の主張には根拠がないといえるだろう。
しかし敢えてここで中田の議論を発展的に考えてみよう。松本人志が仮にお笑い界に絶対的な影響力を与えているとしよう。しかしそうであるとしても、それは松本人志が、中田の述べるような絶対的な独裁者であることを意味しないのではないか。むしろ彼は絶対的な独裁者にならないことによって、影響力を行使しているのではないか?
スラヴォイ・ジジェクによれば、リベラルで寛容な父親は、頭の固い権威主義的な父親よりも強く子供を支配することができる。日曜の午後、子供に祖母の家に行かせたいとする。後者は「お前は黙っておばあちゃんの家に行って大人しくしていなさい」と命令する。この場合、子供は父親の命令に反発することも可能だ。しかし前者は次のように言う。「お前はおばあちゃんの家に行っても行かなくてもよい。しかしお前はおばあちゃんがどれだけお前を愛しているかよく知っているね?」賢い子供であれば、祖母の家を必ず訪れるだけでなく、それは自分の意志で選好した結果だと思い込まされるのだ。
松本人志は、多くの芸人の中でレジェンドとして扱われている。どんなに芸風が異なる芸人でも、彼らは一度は松本人志に憧れたことになっている。
これは余談だが、不思議なのは、そのイメージが、「斜に構えながら一言クリティカルなボケを言う」という、過去の時代の松本人志のイメージに捉われていることだ。私の印象では、坊主頭にして以降の松本は、年を経るごとにどんどん持ち前の愛嬌を出していったように思える。
『ガキの使い』のフリートークを見てもわかるが、松本人志の才能は様々な新語を生み出すワードセンスだけでなく、細やかな身体表現の面白みもある。ワードセンスに関しては、ダウンタウン以降、多くの芸人が才能を発揮してきた。しかし細やかな身体表現だけで相方を撃沈させるほどの笑いをつくりあげることができる芸人は、松本以外ではアンタッチャブルの山崎をのぞいて知らない。
話を戻す。松本人志は多くの芸人にとって既に憧れの存在になっているとすれば、松本人志は影響力を発揮するために露骨な介入を行う必要はそもそもないのである。
実際、我々は松本人志が、今回中田敦彦が発した「問題提起」に対して、Twitterでいかに「寛容に」振舞ったかを知っている。松本は、島田紳助などが引退し、自身より上がほとんどいなくなって以降は、少なくともお笑い界に対しては極めてリベラルな態度を取り続けている。たとえば彼が「加藤の乱」を極めて穏便なかたちで鎮めてみせたのは記憶に新しい。当時の世間からすれば、松本人志がある種の寛容さを示したことで、大崎・岡本といった吉本上層部の権威主義的体質が一層際立ってみえた。
しかし実際にそれ後に起こったことは何か。吉本興業はほとんど何も変わらなかったのである。吉本上層部は誰も辞めず、吉本自体と反社との結びつきは曖昧にされ、政治との結託を深めていく。一方、加藤浩次は数年後、事実上吉本を追われることになる。
今回の事件についても、それを扱った記事や芸人のコメントを見ていると、中田敦彦の共感しがたい問題提起に対して戸惑い、それに対して松本人志がいかに寛容に振舞ったかについて称賛するものが多い。世論の決着は既についているといえるだろう。
だが、まさにこのような決着こそ、典型的なリベラルな父権における決着のされ方そのものなのだ。戦後民主主義における天皇制とも似ている。寛容な権力は、抵抗勢力そのものをまるごと吸収してしまうのだ。
そのことの善悪はとりあえず置いておこう。芸人は究極的には面白ければ何でもいい。しかしその面白さの基準に関して、芸人たちは自由に選択することを許されているようで、実はある一定の「賢明なる」選択を選ばされているのかもしれないが。