円環と双極性――暁美ほむらの「叛逆」についての試論
女は聖母になる。そして同時に魔女にも。
――カール・シュミット
魔法少女の運命、すなわち罪と罰のエコノミーに対して、純粋なる暴力がふるわれた。罪はまどかによって引き受けられた(annehmen)。それによってあらゆる罪は贖われた。つまり、あらゆる時間の魔法少女は、常にすでに救済されることになったのである――しかし、ほむらは自身のソウル・ジェムを自ら砕き、魔女となる。彼女は救済を拒む。「円環の理」の救済を。
なぜ?我々は今や新たな考察をくわえる必要に迫られている。ほむらの「叛逆」とは何か。そのためには、「叛逆」の対象、「円環の理」とは何かを明らかにしなければならない。過去と未来を超越する”Jetztzeit”の概念も、時間(Zeit)の概念、すなわち過去と未来の概念を、その語の内に指示している。だが、今や時間は消失した。なんとなれば、時間の両端が結ばれてしまったのである。つまり、「円環」として*1。
Um sie kein Ort noch weniger eine Zeit
彼女たちの周りには空間はなく、まして時間もない*2
罪と罰のエコノミーを記述する神話的な法の仮面が剥ぎ取られ、神話以前の原初的世界が「現在」として顕現したとき、「始まり」の物語は「永遠」の物語となった。何によって?「円環の理」によって。世界は始まりもなければ終わりもない、閉じられた円環によって統治される。「円環の理」――その紋章には、とても意味深長な一文が魔女文字で書かれている。“Das Ewig Weibliche“すなわち「永遠に女性的なるもの」と*3。
「永遠に女性的なるもの」この有名なゲーテ「ファウスト」第二部最終節からの引用(ちなみにこの後は“ Zieht uns hinan“つまり「我々を引き上げる」と続く)は、「円環の理」による「救済」力の在り処を示しているはずである。この言葉によって、TV版ではどの程度の真剣さがあるのか測りかねた「円環の理」という概念に、初めて具体的な意味が加わった。だが、なぜ「円環の理」の「救済」の力は、「永遠に女性的なるもの」と呼ばれなければならないのか?このふたつの表徴を結びつけている体系は何なのだろうか?
「円環の理」は魔法少女が消滅するとき、その魂を救い上げる。魔法少女は「願い」によって誕生し、その願いが絶望へと変わる瞬間に、死ぬ。「円環の理」が祝福し、救済するのはまさに願いが絶望へと昇華する瞬間なのである。けして願いが願われ、魔法少女が誕生した瞬間ではない。魔法少女の魂はその最後の瞬間において、天上へと引き上げられる。しかし天上のどこへ?映画を見た我々は、もうその答を知っている。画面の中で何度も繰り返し象徴的に登場していた、あの天上にある円環――月へ、である。「円環の理」とは、月という象徴を解読することで明らかになるのだ。
19世紀の法学者でロマニストであったヨハン・ヤコブ・バッハオーフェンは、父権制の前段階としての太古の母権制の存在を文化人類学的な研究によって明らかにし、それによって法の歴史にオルタナティブな解釈を与えようとした。彼はその大著『母権論』において、月について古代の歴史において存在したデーメーテール的母性を象徴する天体と解釈する。月は、太陽と大地の境界にあってそれらを仲介する、デーメーテール=大地母神的な属性をもつ“天なる大地“なのである。
ヴァルター・ベンヤミンがフランツ・カフカの作品世界を(ベンヤミンのカフカ論は、TV版まどマギ解釈にあたって*4、贖罪としての魔法少女を論じるさい補助線にしたものでもあるのだが)*5、バッハオーフェンの神話的世界に結び付けているのは驚くべきことではない。もちろんバッハオーフェンがロマニストとして太古の母権制への考察をすすめた時局的な意義は、19世紀的なものだったかもしれない。『母権論』は、21世紀の今日では、20世紀初めにはまだ存在していた実証的な力や政治的武器としての力を今やもたない*6。だが、この非常に読みにくく衒学的な印象さえ与える著作は、ルートヴィヒ・クラーゲスらミュンヘン宇宙論サークルによって“再発見“されて以降、左右の区別を超えて多くの作家・思想家に影響を与えてきたことも忘れられてはならない。バッハオーフェンにとって太古の神話的世界は、単なる歴史でも物語でもなく、言語によって尽くすことのできない秘儀的な宗教的体系の「解釈」として現前している。そのような神話的世界と対峙するために、彼は膨大な量の資料群を用いて、より古層的な生の現実の表れである象徴を逆撫でに読む。そして彼はそのような読解こそが、現代にも続く人類の生の歴史を――運命としての歴史を――逆照射できると信じているのである。この理念はベンヤミンのカフカ解釈に(そしてベンヤミンのアレゴリー概念全般に)大きな影響を与えている。ベンヤミンによれば、神話・法の読み方が現在において忘却されているために、カフカ的世界では、神話以前の太古の世界が運命として現出するのである。
TV版まどマギにおいて魔法少女の運命とは、ベンヤミンが述べるカフカ的世界のごとく、その世界の法を何も知らぬままに侵すことによって少女に対して降りかかるのであった。だが、その法を存在づける世界の始源とはいかなるものであるか。それ自体については十分に明らかにはされなかった。「叛逆の物語」において、その始源は、何らかのある図像解釈の体系に従って配置された象徴群によって開示されている。我々は、映画「叛逆の物語」を正しく解釈し、まどマギ論を一段階高い次元に引き上げるためにも、世界の始源であるもの、「円環の理」について、その象徴構造の解読を試みなければならない。そのためには、バッハオーフェンとその受容において蓄積されてきた図像解釈学の力を借りる必要があるだろう。
「叛逆の物語」は、まどかの救済に対してほむらの堕落を対置することによって、ほむらによる「円環の理」=まどかに対する「叛逆」の物語であったと通俗的には解釈されている。そしてこの解釈は、救済を嫌うキモヲタたちによって支持されている。だが、ほむらは本当にまどかの母権制に対して「叛逆」したのだろうか?「円環の理」=月=母権制の象徴構造は、この解釈に対して真っ向から対立している。バッハオーフェンによれば、月とは母権の象徴である。月の満ち欠けは生成と消滅を表し、その円環は永劫回帰を表す。「円環の理」は「永遠に女性的なるもの」とともに、月=母権制を顕示しているのである。月は夜を支配し、夜は死を象徴する。だが死は新たなる誕生=朝を告知している*7。したがって、月は生の円環そのものでもあるのである。「叛逆の物語」ではこの円環と月との関係が様々な形で示唆されている。たとえば閉鎖空間の中の見滝原において、ほむらと杏子が乗ったバスの表示は「見31見滝原循環」であり、31とは31日=1ヶ月のことであるという。31日=1ヶ月とは月の公転周期にほぼ等しく、それに従って定められたひとつの円環なのである。
クラーゲスがバッハオーフェンを受容する際に自らの議論に取り込んだのは、「双極性」の概念であった。クラーゲスによれば、夜と昼、明と暗、死と誕生、水と火、などのリズム的交代に従って、宇宙は生起する。彼の着想もまた、象徴の考古学的考察から成り立っている。月は満ち欠けを持ち、生と死の双極性を持つ円環として見られてきた。またその楕円軌道は、ひとつの中心ではなく、ふたつの中心をもつ。双極性の概念に着目すれば、月はあらかじめアンチテーゼをその中に内包しているといえるのである。既に述べたように、月は仲介者であった。天と地、男と女、昼と夜、北と南、あらゆる対立物の、ふたつの極の間を揺れ動く。父権制の原理が単一性であるのに対し、母権制は、世界を双極性によって把握するのである。まどかの救済とほむらの堕落は、こうした母権的なアンチテーゼのそれぞれの側面にすぎない。後者は前者に対する対抗者であり、それによって二元性が生じているというわけではない。両者の起源は同じ「永遠に女性的なるもの」である。まどかは「聖母」になり、ほむらは「魔女」になったのである。
ほむらの「叛逆」によって、見滝原の空に輝いていた満月は弦月となった。だが弦月は月の消滅ではなく、失われた正円の記憶を保持しているのである。弦月には今は消えているもう半分があることは明らかであり、逆撫でに読まれることによって、いまだ ἀρχήを象徴するのでる。ゆえに「円環の理」は、終盤でのほむらとさやかの会話からも示唆されているように、なおも天空において君臨しているのである。むしろ弦月の上下にできた角の存在は、月に双極があることも明らかにしてもいる。ほむらの「叛逆」によってむしろ、「円環の理」はその本性を表すのである。
月がまだ輝いている限り(月自体が支配するのではなく、月によって象徴されているものが支配するのである)、「叛逆の物語」を神=まどかの救済の失敗と堕落したほむらの勝利として読むことはできない。ほむらは自身が証言しているところによれば、「円環の理」の一部(つまり、まどかである)を切り取り、肉体をあたえたのである。しかしこの受肉する力、物質(Materiell)的な力こそまさに、大地母神マーテル・マトゥータ(Mater Matuta)として顕現する母権的な力なのである。真の根源は月=母権にあり、まどかとほむらの関係は、いま現在どちらの極が優勢であるかという問題にすぎない。
このような考察のもとで、ほむらがソウル・ジェムを噛み砕く*8その真の意味が明らかになる。ソウル・ジェムは楕円形をしている。月の楕円軌道については既に触れた。楕円とは歪んだ円であり、失われた原初的正円の象形文字である。楕円たるソウル・ジェムはまた卵の隠喩である。キュゥべえの真名が孵卵器であることからもそれは明らかである。この卵こそ、『母権論』の著者が創造の始源の象徴として繰り返し言及する「世界卵」である。日本の読者にとっては、クラーゲスを経由して世界卵の表象を取り入れたヘルマン・ヘッセの『デミアン』における一節が最も有名であろう。
Der Vogel kämpft sich aus dem Ei. Das Ei ist die Welt. Wer geboren werden will, muß eine Welt zerstören.
鳥は卵の中から抜け出ようとたたかう。卵は世界だ。生まれようと欲するものは、ひとつの世界を破壊しなければならない。*9
卵は月と同じく破壊と生成を象徴する円環なのだ。楕円=卵の重要性は、飛行船や風船などの隠喩を通して、この映画において繰り返し強調されている。世界の破壊のためにソウル・ジェムを噛み砕くほむらは、別の見方をすれば、世界卵の破壊の再演という、これもまた母権的である祭儀にのっとって、それを行っているのである。
したがって「叛逆の物語」のほむらの試みを、「円環の理」そのものの破壊の試みとして読むならば(そのように読む意義も疑わしいが)、その試みは失敗していると言わざるをえない。せいぜい、母権的支配の別のヴァージョン(アンチテーゼ)といったところであろう。ひとつの世界が破壊されても、また別の世界が立ち上がる。楕円も欠けた月も、その根源からは逃れられないのだ。すなわち、「Das Ewig Weibliche――永遠に女性的なるもの」の円環からは。
生成と消滅の円環こそが「円環の理」である。閉じた輪の中で、魔法少女は踊り続ける。舞踏はディオニソス的芸術であり、母権的な芸術でもある。そのステップは楕円軌道を描き、ふたつの極を揺れ動く。楕円軌道であるからこそ、彼女たちは一定の距離を保つのではなく、近づきあい、離れあう*10。過去と未来はなく、運命としての現在だけがあるのである。
空と地面は遠く、人と人とは近く――この舞踏は永遠に続くのか、それとも何らかの終着点があるのか。われわれはその答えを導き出すだけの材料は未だ持たない*11。その答えは次回作――もしあるとすればだが――に委ねるとしよう。
*1:カール・レーヴィットは、円環的な時間のなかでは歴史概念は成立しなかったといい、歴史概念は直線的な―つまり神学的な―時間概念の成立と同時に開始されたと述べている(『歴史における意味』)。
*2:Johann Wolfgang Goethe, Faust. Der Tragödie Zweiter Teil, 6215
*3:http://dic.pixiv.net/a/%E5%86%86%E7%92%B0%E3%81%AE%E7%90%86
*4:http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20110223/p1
*5:http://hhasegawa84.tumblr.com/post/67084214405/gesetze-und-umschriebene-normen-bleiben-in-der
*6:エンゲルスは、バッハオーフェンの母権論を資本主義的=父権的家族制に対するオルタナティブとして読んだ(『家族・私有財産・国家の起源』)。この方法は19世紀においては画期的だったかもしれないが、現代におけるジェンダー論の批判に耐えうるものではないだろう。
*7:夕暮れ以降において戦う魔法少女を夜の女神ニュクスが生んだともいわれる、「夕べの国」ヘスペリアに住むニュンペーたちになぞらえることも可能であろう。魔法少女と夜というモチーフは、ギンズブルグがベナンダンディの研究によって明らかにしたような、太古の基層的文化との接続も想起させもする。
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