ウエストランドM-1優勝に寄せて
2022年、ウエストランドが第十八回M-1グランプリ王者になった。このことは一般的には、「人を傷つけないお笑い」あるいは「コンプライアンスへの配慮」というトレンドの終焉であると捉えられている。しかし少なくとも5年以上前から「ソルジャー」(『ウエストランドのぶちラジ!』リスナー)である自分からみれば、そのような評価にはかなり違和感がある。
優勝以来、ウエストランドは様々なメディアでインタビューを受けているが、自分たちを反コンプラ時代の寵児として扱われることを井口はかなり警戒している。その話題になると井口は相槌すら返さないし、露骨に話題を変えようとする。逆にパンサー向井のラジオでは、悪口漫才の時代が来たとは思わないという向井の見解に、井口は同意しているのである。
私の考えでは、ウエストランド井口は、毒舌によって建前を壊すことが笑いになると考えているよりは、建前を理解しつつも偏見や悪意が現れてしまう人間の性が笑いになると理解しているように思える。サンドイッチマン富澤が述べたように「共犯」の笑いなのだ。従って、井口は漫才の中で、悪口を言う自分自身がいちばん醜くなるように演出する。悪口ばかり言ってるやつがいかにウザくみっともないかを見せるのがウエストランドの漫才のコンセプトといえる。
漫才でもバラエティの本番でもない平場の井口は、実はコンプライアンスを強く意識している。平場で言ってはいけないことを言うのはむしろ河本のほうで、井口はそれを制御する側になる。だから平場で失礼な「毒舌」を求められているときは、河本が言わなければならない。ウエストランドというコンビは、思われているよりも自由ではない。
ウエストランドに対する誤解の数々は、これまで「人を傷つける/傷つけない笑い」なるフレーズが、極めて雑なかたちで運用されてきたことに由来すると思われる。「傷つける」というワードの中には単なる差別やいじめから辛辣な批判や風刺まで、あらゆる攻撃性が包含されている。「人を傷つけない笑い」の称賛への懐疑は、必ずしも差別やいじめの自由を要求していることではない。また、お笑いには必ず政治風刺が必要だ、ということでもない。
一介の「ソルジャー」の立場から言わせてもらえば、ウエストランドに反コンプラの旗手たることを要求することも、逆に事務所の先輩である爆笑問題のような政治風刺を要求することも、間違っている。ウエストランドはそのような芸人ではない。井口の怒りの角度の鋭さは、もっと日常の、しょうもない事柄に対する気づきにおいて発揮される。M-1ネタの角度は確かに鋭角ではなかったかもしれない。しかし1000回以上にわたって続けられてきた「ぐちラジ」の中には、もっと鋭角な「悪口」がいくつもある(お気に入りは「下北」シリーズや「吉本でかい」シリーズである)。
何がいいたいかというと、ウエストランドはコンプラ以降の時代に適応した漫才師であり、彼らが売れることによってこれまで積み上げられてきたコンプライアンス、特に差別やイジメの排除が無に帰すわけではない。コンプラを破壊したい者が大御所芸人の中にも一定数以上いて、彼らが担げる御輿を探していることは察知できる。しかしそれはウエストランドの売れ方としては、幸福な結末にはならないだろう。