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短編小説「壊れたカメラ」(47枚) 北原耕也
お安いご用ですよ。そう言って奥に引っ込んでもう四十分になる。あいかわらず客の前では調子がいいんだから。安請け合いして出てこなかったらどう言いわけするんだろう。糸子は道の向こう側を行く町民バスを見送りながら、軽い揶揄を含んだ小息をもらした。
若いカップルはソファに並んで坐り、見本用に置いてある大判のアルバムを広げて眺めている。テーブルの上のコーヒーはあらかたなくなっている。
「いま新しいコーヒーを淹れますね、もう少し時間がかかりそうだから」
糸子は二人に声をかけた。
「あ、どうぞおかまいなく」
男のほうが顔をあげて言った。「それより、面倒なことをお願いしてすみません」
「そんなことありません。父はむしろ喜んでますよ」
「ほんとですか? そう言ってもらえると訪ねてきた甲斐があります」
男は隣の女のほうを見た。
「よかったね」
ただの相づちでなく、それが本心のように女がこたえた。プラチナらしい菱形のイヤリングがかしげ気味にした耳元で揺れた。
「ケーキはどうかしら」と糸子が言った。
「ケーキ……ですか?」
女がテーブルの上のメニューに目をやって、男の顔を見た。メニューには店で出している五種類のケーキと値段が書いてある。
「お代はいただきません。お待たせするお詫びです。そこからお好きなものを選んでください」
「えっ」と女が幼児のような声をあげた。「いいんですか?」
「ええ、遠慮なさらずにどうぞ」
女は素直に喜んでメニューを手に取った。そして書いてある品目を順に目で追って小さくうなずくと、
「あたし、チョコレートシフォンにしよ。トモユキさんは?」とそのメニューを男の顔の前に差し出した。男は決まり悪そうにしてそれを受け取り、ろくに見もせず、
「じゃ、ぼくもそれで……」と彼女に同調した。
そう、彼の名はトモユキさんだ。父に渡した名刺には「塩田友幸」と書いてあった。社用の名刺らしく、頭に青と赤の英語のロゴと進栄社という社名が記されていた。それを父が癖で「シンエイシャ」と口に出して読むと、彼は「印刷屋です」と補足した。ついでに連れの女を「コクラさんです」と紹介する。それに女が「レンコです」とつづけると、父がまた「コクラレンコさん」と復唱するので、彼女はつられて「北九州市のコクラと同じ小倉に、蓮の子です。でも、生まれも育ちも東京です」とこたえた。
こうした客あしらいは計算づくならひどくいやらしい。が父の場合、悪気がないだけでなく自覚もしていない。なので警戒されることがない。それでいて相手の素姓をしっかりと確かめているのだから、感心してしまう。
二人は再びアルバムに目を移した。どうやら婚礼写真に興味があるらしく、なかでも新郎新婦が並んで撮った写真にはことさら関心を示した。二人はきっと結婚するんだろう、それも近いうちに。糸子はそう推測し、お似合いだと思った。その傍ら、胸の裏側がかすかに軋んだ。
自分にもそういう時代があった。時代といってもそんなむかしではなく、そこまでも行っていないが、ほんとうなら行くはずだった。そのほんとうが、ほんとうでなかった。ただそれだけのことだけれど。
「見つかったよ」
父が現れた。手にはまだ乾ききっていない大判の印画紙を持っている。「塩田もと子さん、間違いない」
「ほんとですか」
友幸が言って、蓮子と顔を見合わせた。
「ほら、どう?」
父が印画紙を二人の前に示した。「とりあえずモノクロで現像してみたんだけど」
「間違いないです。母とぼくです」と友幸は印画紙を見るなり言った。
「よかった。ふだん整理してないもんだから、よけいに時間がかかっちゃって」と父は弁解した。
「すみません。前もって連絡しておけばよかったんですが、こっちに来て急に思いついたもんですから。で、無理ついでに、母の胸の上だけ切りとって引き伸ばしてもらえますか?」
友幸は父のほうをうかがい見た。
「お安いご用ですよ、それぐらい」
「額装もできますか?」
「もちろん。サイズはどれぐらいにしましょうか?」
「B5ぐらいかな。額縁はシンプルなもので」
「原板は焼き増ししなくてもいいですか?」
「家に一枚あるけど少し傷んでるし、せっかくだから二枚焼き増ししてもらおうかな。ハガキぐらいの大きさにして、額なしで」
「わかりました」
父はそう言って、「大丈夫ですよ」とつけ加えた。
「それで、できるのはいつごろに?」
「お急ぎなら、あすの昼ごろまでに仕上げますよ」
「きょうじゅうにというわけにはいきませんか? できれば待っているあいだに」
父は一瞬、言葉が出なかった。いっとき上目づかいで思案顔をすると、「きょうじゅうに、待っているあいだに、ですか」とくり返した。
「きょうの新幹線で帰りたいので……」
「ああ、お家は東京でしたよね」
「あした仕事なもんですから」
「やりましょう」
一大決心でもするように言い切った。「ちょっと時間をいただきますが。なに、そんなに手間はかかりません」
父は妙にわけ知り顔になり、微笑んだ。
「大丈夫ですよ」
糸子は「大丈夫ですよ」という意味が呑み込めなかったが、父がいつになく張りきっているのを見て嬉しかった。少なくともけさ起きたときはそうでなかったから。
父は糸子が知っているかぎり、つまり母が亡くなったのを機にこの家に戻ってきて以降、ずっと機嫌がよくなかった。といって取り立てて悪いというほどでもなく、飛行機が上昇しきれなくて低空を飛行しているような、天気で言えばややどんよりしたような状態だった。母が亡くなってからは飛ぶ高度がさらに低くなったような感じで、それでもなんとか飛行だけは維持してきた。もっとも客が来ればべつで、そのときばかりは調子のいい写真屋の親父に戻った。
低空飛行は商売のほうも同じだった。そしてそれは父の気分よりもずっと以前から始まっていた。なかでも影響が大きかったのはデジカメやスマホの出現による客離れで、入学や結婚といった記念写真で一時期はしのいだものの、子どもや若者の減少が進んでくるとそれまで積みあげてきた努力もふいになった。加えてあの大震災だ。店は浮上する機会をつかめないままよろよろと下降しだした。
店の一部を改装してカフェにしたのには、そうした背景と事情があった。発案者は糸子自身で、前に働いていた職場での経験が役に立った。結果それが功を奏して、店はもちろん父のほうも墜落せずにすんだ。父にすればそのぶん城の一角を明け渡すかたちになったが、カフェが目当てであれ店に客があるのはだれにとっても悪いことではなかった。
「あのう……」
友幸が遠慮がちに言った。「店のなかを見せてもらっていいですか」
「ええ、かまいませんよ」
糸子は隣の部屋のほうに手を伸べ、「ガラクタ置き場みたいですけど」と暗室にいるはずの父のほうを一瞥した。本気でそう思っているわけではないが、父のこだわりへの反発からついそんなせりふが出てしまう。いや、いくらかは見てもらいたい気持ちもあって、それをへりくだるつもりがそんな言葉になったのかもしれない。
「どうぞ」
糸子は先に立つと、丈の低い観葉植物だけで仕切ったカフェを出た。
「こっちがこの店の本家です」
そこは写真館のホールで、道路側の玄関と向き合うように受付用のカウンターがあり、中央のやや壁寄りに古い応接セットが置かれている。広さは八坪前後。壁には大小さまざまの写真が飾られている。
でも、それだけならふつうの写真館とあまり変わらない。ここが違うのは、ホールに並べられているたくさんの「ガラクタ」にある。多くはこの写真館で長年使ってきた写真機材だが、父が蒐集した機材も少なからず含まれている。そのなかには、博物館にでも行かなければ見られないような稀少なものもある。
「すごーい」
蓮子が頓狂な声をあげた。彼女は自分が驚いただけでは気がすまず、友幸の腕をつかんで左右に揺すった。友幸のほうはそれにかたちだけうなずいたが、心はすでに目の前のカメラに奪われているようだった。
「アンソニー型スタジオカメラ」
彼はカメラにさげてある説明文を口でなぞった。脚を含めて高さが百六十センチもある木製の大型カメラで、かつてこの写真館で使っていた。「昭和三年購入。レンズ、シュナイダー・クロイツナッハ クセナー四・五。製造、東京日本橋……。てことは、国産ということか」
友幸はこたえを求めるように糸子のほうを見た。
「組み立てて製品にしたってことで言えば、そうでしょうね」と糸子は言った。「アンソニーというのはアメリカのカメラ会社で、そこのカメラをもとにして日本でつくられたのがアンソニー型カメラっていうわけ。二十世紀の初めごろで、レンズの技術はまだまだだったから、それだけはドイツに頼ったってことでしょうね」
「脚の脇のハンドルでカメラの高さを調節し、蛇腹を伸ばしたり縮めたりしながらピントを合わせて撮る。雑誌かなにかで見たことがあります」
「そこに黒い布がかけてあるでしょ。冠布って言って、これを頭にかぶってピントを合わせたんです。その被写体を写し取るフィルムの役割をする感光材が、ガラスの乾板でした」
「実際、これで撮ってたんでしょ、ここで」
「ええ、先代のころからずうっと」
「先代……」
「父の父、つまりわたしの祖父です。ここの創業者で、店の『日の出写真館』という名称は彼の名前に由来しています。カメラはその祖父から父へと渡って、二〇一一年の三月十一日まで現役でした」
友幸はふと、なにか聞き違えたというふうな顔をした。
「三・一一……」隣で蓮子が言った。
「そう、その日の午後二時四十六分までは……。カメラはあのときの地震で壊れてしまったんです。津波は町まで押し寄せてくることはありませんでしたが、地震のほうはひどかったですから」
糸子はしかし、その日写真館にはいなかった。というより、遠く離れた関東の小都市にいた。転職してまもない工務店で事務の仕事をしていて、ふいに大きな地震に見舞われた。これまで経験したことのないような激しい揺れで、壁の上に祀ってある神棚から陶製の榊立てや皿が落ちてきて次々と割れた。机につかまりながら隣の住宅を見ると、屋根が波打って瓦が跳ね、ずれたり崩れたり、なかには軒下に落ちたのもあった。震度は5強。けれどそのときは、太平洋沿岸一帯で津波が起きるなんて考えもしなかった。
「その地震で、立ててあったものは倒れ、棚に載せてあったものは床に落ちて、多くが壊れました。このカメラもそうで、いちおうかたちだけは元に戻しましたが、ピントの狂いはどうにもなりませんでした。でも、津波に襲われた人たちのことを考えたら、ね」それぐらいたいしたことではない、と糸子は心のなかでつぶやいた。
「そういえば、前に来たとき、店内にはなにも置いてなかったような気がする……」と友幸が言った。
「震災の翌年の春って言ってましたよね。ちょうど店を再開してまもないころで、営業用に使うカメラの一台だけは修理して間に合わせましたが、あとは倉庫のなかに押し込んだままでした」
「あのときおじさんに、再開して八番目のお客さん。幸運の末広がりで、いいことがありますよ、って迎えられました」
「そうでしたか」
父はそんなこともすっかり忘れているに違いない。震災の翌年に撮ってもらったと彼から言われたときも思い出せなかったし、顔だっておぼえていなかったから。それだけもの忘れがひどくなったということだが、年を考えるとその程度で片づけていていいのかという心配も起こってくる。
「さっき、震災前まで使っていたと言ってましたよね」と友幸がなおもカメラにこだわって言った。「てことは、八十年以上も現役で働いていたっていうことだ」
「父は祖父から受けついだこのカメラをすごく大事にしていました。乾板がシートフィルムに代わり、営業写真の主力がデジタルカメラに移っても、このカメラだけはスタジオの中心でありつづけました」
父はそれ以外にもたたんで持ち運べるフィールド用の大型カメラを持っていて、野外撮影にもよく出かけていた。町を流れる小野瀬川が合流する大河の、海に注ぐその河口の市で毎夏開かれる川開きにも、母に三脚を担がせてかよった。市の観光用ポスターにその写真が採用されたこともいちどならずあって、それが父の自慢でもあった。
「修理して使えるようにすればいい」と蓮子が横から口を挟んだ。「そうしたら、あたしたちもそれで撮ってもらえる。ねえ、そう思わない?」
「ああ」と友幸は生返事をした。
「いまなら直そうと思えば直せるかもしれませんが、父はそうしないでしょうね。壊れたままの状態でずっと見守っていたい、そう考えているように思いますし、それが父なりの震災の受けとめ方なのじゃないかと思います。といって、被害に遭われた方々への気づかいといったようなものとも違うような気がしますけど……」
推測でしかないが、糸子にはそうした確信めいたものがあった。毎朝、食事前にこのカメラを磨かないとすまない父の姿を見ていると、執着とか愛着とも違う、なにか特別の感情を抱いているように思われた。
友幸はうなずき加減に小さく首を揺すった。が、なにも言わなかった。そのまま糸子に向かって軽く頭をさげると、蓮子に目くばせしてその場から移動した。
糸子は二人が古いカメラを陳列したショーケースの前まで行くのを見やって、言わなくてもいいことまで言ってしまったかもしれないと少しばかり悔やんだ。表情から気分を損ねたようには見えないけれど、心のなかには多少のさざ波ぐらい立てたかもしれない。そう思いながら糸子は、ほんとうのところ父の本心はどこにあるのだろう、と目の前に立つ一つ目玉の大きな木箱を見つめて自問した。
「写真屋がいやで、親父からずっと逃げまわっていた」
父はもともと店を継ぐつもりがなかった。
「家を飛び出して二年間、音信も絶った」
母の葬儀がすみ斎場から家に戻ったときだった。初め向かい合って茶を飲んでいた父がなんとなく間が持たなくなり、弔問客用に買っておいた酒を空になった茶碗に注いでひと息に飲み干したあと、言った。
「ところがあるとき、その親父が家出してしまった」
父は子どもにおとぎ話でも聞かせるような、どこか芝居がかった顔をした。「すぐにおふくろから連絡が来た、居場所がわかるはずがないのに。だから親父がどうのという前にまずそれを訊いてみた。すると、とっくのむかしに知っていたと言う。唯一居場所を教えていた友人から聞き出したらしい。しかも居場所だけじゃなくて暮らしぶりまで、折にふれて」
それで観念して帰ったんだ、と父は含み笑いしてまた酒を注いだ。それからその日の葬儀の感想を、僧侶が読経の一部を省いたなどとひとしきり話してから、「それがとんだ笑い話さ」と、言う口許からこぼれた酒を拭った。
「親父がひょっこり帰ってきたんだ。なにごともなかったような顔をして」
「まさか狂言だった、なんて言うんじゃないでしょうね」と糸子が先まわりして訊いた。
「そう思うだろ。おれもそう思った。でも違った。親父はどっかへ撮影旅行に行ってたんだ。その証拠に、写真機材を一式担いでいた」
「だったら家出なんかじゃないじゃない」
「黙って家を出たという意味では家出だろうな。ただ、おふくろのほうはうすうすわかっていたようだ。家出したといっても落ち着き払っていたし、帰ってきたときもあたりまえのような顔をしていたから」
「やっぱり仕組まれたんだ」
「結果としてそうなるかもしれないが、親父もおふくろも示し合わせた様子はなかった。しかし、それでいてなんとなく通じていたような感じもした。心を以て心に伝うっていうのかな。あれが夫婦の極意なんだろうな、と、あとで振り返って感心したよ」と父は自分にうなずいた。
それがきっかけで父は写真館を継ぐことになった。とはいえカメラのあつかいについてはまったくの素人で、祖父のもとで弟子よろしく基礎から教えてもらうことになった。
ところが技術こそそれなりに身につけたものの、撮影の腕は少しも上達しない。撮っても撮っても祖父からは失敗だと言われ、厳しい説教を聞かされた。
写真は目の前のものをただ写せばいいというもんじゃない。写真はすなわち写実。写実とはありのままに写し出すことだが、ありのままとはそれが持っている目に見えないものも含めてのありのままだ。人物なら、外形だけでなくその人の心のなかまでということになる。それが写し取れるかどうかが勘所で、写真のよし悪しはそれで決まる。祖父は愛用のアンソニーの前で呪文のようにくり返した。
父にはそれが納得できなかった。写真は人間があつかうものだが、被写体をフィルムに写すのは機械であるカメラだ。焦点を合わせたら、撮る側ができるのはシャッターを切ることぐらい。だいたい被写体の心のなかなんて写せるわけがない、と反発した。
心を写すには心で撮らなければだめだ。と祖父はあきらめなかった。でないとピントが合っていても薄っぺらな写真になる。要はあの逆さまに映る像から被写体の魂が浮かびあがってくるようでないといけない。必要なのはピントグラスとの対話だ。初めは無理でも根気よくつづければ自然と立ち現れてくる。でも長くはない。一瞬かもしれない。そこを見逃さずにフィルムを装填するんだ。
父にとっては不毛の、逃げ出したくなるような日々がつづいた。
「でもある日、パッと開眼した」と父が言った。「失敗覚悟である人を撮ったら、それがうまくいったんだ。親父に見てもらったら、いいじゃないか、って褒めてもらった。それで自信がついた」
「そのある人がお母さんだったりして」と糸子がなかば冗談に言った。
「じつはそうなんだ、知り合ってまもない」
「よく言う。つくり話でしょ」
「ほんとなんだ。自分でも驚いたんだから」
「だったら、それもおじいさんの計算ね」
「被写体が被写体だから、いつもより気持ちが入っていたのは確かなんだ。でも、偶然だろうが企てだろうがいまはどっちでもいいと思っている。ともかくそうやって自分がかたちづくられて、ここまで来られたんだから。自分の力だけじゃないってことだ。そういう意味では両親に感謝しなくちゃな、もちろん母さんにも」
父は弔事用のネクタイをようやくゆるめて、窮屈そうな喪服の上着を脱いだ。それから重い荷物を降ろしたときのように深い吐息をもらすと、
「おれは、糸子にはどうだったんだろうな」
だれに問うでもなくつぶやいた。
その父が体調不良を訴えて寝込んだのは、葬儀から四日経ち糸子が仕事のために帰ろうとしたときだった。たぶん疲れが出たのだろう、初めはそう思った。が、よく見ると顔色もさして悪そうでなく、病院に行くよう勧めても「少し落ち着いてからにするよ」と言って行こうともしない。仕方なく帰る日を少し遅らせることにし、それを父に伝えてから、呑み込めた。
へたな芝居を見せられた、と思った。引きとめるつもりならばはっきりとそう言えばいいのに、とも思った。
けれど糸子はなにも言わなかった。父は母を失って心細いのだろう、と、むしろ父の心中を慮った。そしてひそかに、郷里に戻る決心をした。
それが早呑み込みだった。気づいたのは、会社に退職願を出したあとだった。糸子は父に見抜かれていた。彼のことも、彼との関係が壊れてしまったことも。
失恋というような生易しいものではなかった。いや失恋の痛手は人によってさまざまで一概に生易しいなどと言えないが、糸子の場合はさらにその上の破談だった。
いったいなにが原因したのかわからない。ただある日突然、なかったことにしたい、と相手から告げられた。それがあまりに唐突すぎて、わけを訊く力も失った。
母の危篤を知らされて帰ったのは、それから十日と経っていなかった。母は糸子が到着するのを待っていたかのように、まもなく息を引き取った。糸子にはもう一つ、かなしみが加わった。
それでも目の前のことをやっているうちに、破談したかなしみは母が亡くなったかなしみで薄められた。父は喪主らしく忙しく立ち働いて、娘を気にとめることもなかった。糸子にはありがたかった。
結婚するつもりでいることは母に電話で話してある。父は知らないはずだが、おそらく母のほうから聞かされている。だからそのあとあったことも、仕事へ帰る前にちゃんと説明しておこう、そう思っていた。それがどうしてかできなかった。
しかし父には察しがついていた。そこで考えたのがあの子どもじみた芝居だった。父は娘を遠い地でひとりぼっちにしておけなかった。そんな父親の心のうちを、そのとき糸子は読みとれなかった。
表の停留所に町民バスがとまった。そのバスから女の人が一人降りてくる。川端にある美容院のおばあさんだ。彼女はその脚で店の入り口まで来てガラス戸越しに糸子を認めると、手を振ってそのまま自宅のほうへ向かった。
その脇を自転車が追い抜いていく。乗っているのはガソリンスタンドのおじさん。きょうはずいぶん早いあがりだ。いつも決まって往きは道の向こう側を、復りはこちら側を走っていく。家は相生坂の上のほうで、復路になる境橋の先からはきついのぼりになっている。年は父とたいして違わない。
糸子は振り返って後ろの時計を見あげた。すでに一時間も経っている。そろそろできあがってもいいころだ。待たせている二人はソファに戻ってまたアルバムを広げている。ときどき額がつくほど顔を寄せ合い、言葉を交わしている。
なにを話しているんだろう。結婚のことだろうか、あるいは式の日取りのことだろうか。もしかして新婚旅行の計画かもしれない――。そんな詮索しかしない自分にいじましさを感じながら、糸子は写真屋が新婚旅行のお手伝いをするのも悪くないなと思った。なにしろ地つづきなのだから。
思い返せば、以前、それと似たようなことを検討したことがあった。発案したのはやはり糸子で、そのときは旅行でなくて結婚式のコーディネートだった。店の経営の落ち込みと父の心の落ち込みをなんとかしようと思って考えているうち、ひらめいた。
だが調べてみて断念した。式そのものの演出はそもそも式場の仕事だし、服装のコーディネートはたいがい式場か貸衣装屋がやっている。もちろん写真屋でもやっていないわけではないが、店の規模が違うし、ここのような田舎の店なら、衣装などあつかわずにレンタルするか持ち込んでもらうかして撮っている。つまり身の丈に合っていなかった。結局、最後はカフェに落ち着いた。
その点、旅行業なら資本はさほどかからないうえ、やろうと思えばいまのカフェの片隅でもできる。幸い町内には同業者がいないし、糸子には過去に二年ほどそこで働いた経験もある。その八割方はホテルなどの手配や行程表の作成だったが、添乗員の仕事も少ないながら経験している。課題があるとすれば旅行業務取扱管理者の資格取得で、それだって一年間みっちり勉強すればなんとかなるだろう。仮にすぐそれが取れなかったとしても、店にパンフレットを置いて希望者を旅行会社に紹介するぐらいなら可能だ。報酬はないけれどもお客さんには喜ばれる。これは案外当たるかもしれない。
糸子は自分のアイディアに満足した。ついでに、いま人気の旅行先はどこなんだろう、などとあれこれ考えをめぐらせた。
「ちょっと出かけたいんですが」
友幸だった。見ると、蓮子もバッグを手にして出かけるそぶりでいる。きっと待ちきれなくなったのだろう。
「ごめんなさいね、時間がかかって」
糸子はすまなそうに言った。「そろそろできあがると思うんですけど」
「大丈夫です、まだ時間はありますから」
「そうですか……。で、出かけられるってどちらのほうへ?」
「ええ、ちょっと行ってみたいところがあって」
「ああ、前にここにいたことがあるんですものね」と糸子は来たときに聞いたのを思い出して言った。
「そのとき住んでいた場所に行ってみようかと」
「でも建物はもうないでしょ?」
「いいんです。そこで暮らしたということが確かめられれば。彼女にもそれを知ってもらいたいし」
「そう……」
中学校の隣の空き地につくられた仮設住宅にいたらしい。彼はそこからこの町の高校にかよった。合格した地元の高校をあえて替わって。
「そこでぼくは三年、母は七年間暮らしました。短かったけど、二人にとっては思い出深い場所でした」
「彼、高校を出てすぐ上京したでしよ。なので、そこでの三年間がお母さんと暮らした最後になったんです」と蓮子が補うように言った。それに友幸が困惑したような表情をした。
糸子はなにか言おうと思ったが、その言葉を見つけ損なった。ただうなずいて友幸のほうをうかがうと、
「すぐに戻りますから」
彼はその場を切りあげるように言った。そして自分も鞄を肩にさげると、「行こうか」とまだひとことありそうにしている蓮子をうながした。
二人を見送ってから糸子は、なにか釈然としないものが残った。それはこの町の人たちが共通して持っているもどかしさに似た感情で、隣町の被災者が仮設住宅に移住し始めて以降ずっと沈殿しているものだった。
隣町の惨状は、この町の人ならテレビや新聞、あるいは直接行ってみて知っている。が、被害に遭った人たちの気持ちはわからなかった。いや想像はできたけれど、心のうちまでわからなかった。それでも受けた傷の大きさが想像を絶しているという意味でわかっていたから、その傷をさらに広げることがないよう気を配ってきた。
震災による被害はこの町でも甚大だった。津波はまぬがれたものの、家が倒壊したり傾いたり、屋根や壁が損壊するような被害はあちこちであった。電気がとまり水道がとまり、町内のスーパーやコンビニから食料が消えて、日々の生活も立ちゆかなくなった。ガスはプロパンでそれだけは救われたが、出番はずっとあとになってから。町の人たちはみな、そういうつらさを味わった。程度の差はあれ、被災者という点では同じだった。
それでも、人が死ぬというのはまったくのべつものだった。糸子の母のような病死でさえ受け容れるのは容易でないが、原因が天災だとなれば、それが理不尽だからこそなお当事者には過酷だった。しかも相手が自然では責めたくても責めようがなく、怒りやかなしみは持って行く場もなかった。
山を一つ隔てただけのこの相違が、町の人たちに複雑な感情をもたらした。それは時が経っても薄れることがなく、いまもなお心のなかに生きつづけていた。
「できたぞ」
奥の部屋から父が小走りに出てきた。
「なかなかいい仕上がりになったよ」
父は箱に入れた写真をカフェのテーブルの上に置いた。それからいま気づいたようにまわりを見まわして、
「お二人さんは?」と娘のほうに顔を向けた。
「出かけました。前に住んでいたところを見てみたいって」と糸子がこたえた。
「仮設のあった場所か。行ったってただの空き地じゃないか」
「思い出の場所だからって。でも、すぐ戻ってくるから」
父はふーんと鼻で言って、写真が入った箱の蓋を開けた。
「どうだい?」
写真はバストショットで、女性は着物姿だった。年は四十なかばぐらい、口許がほのかにほころんでいるが、そのわりに目は笑っていない。
「なんだか誇らしさと恥ずかしさがないまぜになっているような感じ」
「カメラの前に立つのが慣れていないっていうのかな、どこか尊大そうに見えるのは緊張しているせいだろう。ほんとうはそれをほぐしてやるのがプロの写真屋なんだが、あのころはこっちにも余裕がなかった。でも、逆にそれが当時の状況を映し出しているみたいでかえっていいと思う」
「そうかしら、わたしにはわかんない」
「関係する人にはわかるってやつだ」
「わたしは関係者じゃないって言うの?」
「あのとき、おまえさんはここにいなかった」
「なんだか、いたことが特権みたい」
「そうさ。自慢することのできない、かなしい特権だ」
「まあ」と糸子はかすかな痛みを感じながら苦笑した。
「こっちが原板から焼いたものだ」
父はいっしょに持ってきた封筒からハガキ大の写真を取り出した。「これは卒業の記念写真だな」
母と息子の晴れの写真で、息子のほうは詰め襟の制服を着けている。
「記念写真には違いないと思うけど……」と糸子は首をかしげた。「でも、どうして卒業記念なの? 高校の入学記念でもおかしくないじゃない。そもそもの話、撮るときになんでそれを訊かなかったの?」
「だから気持ちにゆとりがなかったんだよ。とにかく間違いのないように撮るので精一杯だった。いま振り返っても、どんな状態で撮ったのか思い出せない。それが今回じっくりと見ることができたってことだ」
父は写真を手のひらに載せると指で示した。「中学校と高校の制服はここも隣町も同じ詰め襟だが、ボタンの校章が違う。小さくてわかりづらいけど、引き伸ばしてわかったんだ。ちゃんと『中』という文字が刻まれてある。しかも校章はこの町の中学校のものじゃない。つまり隣町の制服だということだ。それをわざわざ身に着けて、母といっしょに写真に収まった」
「震災で卒業式ができなかったんでしょ?」
「そうだ。卒業式の予行演習が終わって直後、津波が襲った」
「それでこっちに来て一年も経ってから、写真を」
「きっと、なにか思うところがあったんだろうな」
言われて糸子は、記念写真を撮ろうとするときってどんなときなのだろう、と思った。思いながら、それをいままでいちども考えたことがなかったのに気づいて驚いた。写真屋の娘なのに、と。
それでいっとき沈黙してしまい、そのまま目を宙に浮かせていて、ふと、
「人はなぜ記念写真を撮るんだろう」と小さな染みでも見つけたかのようにぽつりと言った。
父はそれに、なにか取り落としたような顔を返した。「なにか言ったか?」
「なぜ記念写真を撮るんだろう、って」と糸子はくり返した。
「それは人に訊くことじゃないな。自分に訊けばいいじゃないか」
「人生の大切なときを記録しておきたい、それを思い出として残しておきたい、というようなことかな」
「ありきたりだな」と父は断定的に言った。「それは表面的なことだ」
「じゃ、本質的なことがあるっていうの?」
「本質的かどうかわからない。むしろ動機と言ったほうがいいかもしれないな」
「だから、大切なときを記録して残しておきたいからじゃないの」
「なぜ記録して残したいんだ?」
「…………」
「おそれ、だと思う」と父は少し考えてから言った。
「おそれ……」
「ああ、忘れてしまうことの」
「たのしいことでも?」
「そう、たのしければたのしいほど」父はそう言って、すぐに言い直した。「いや、たのしいこともかなしいことも。いずれの場合でも、おそれるのは忘れてしまうことなんだと思う。意識しているかどうかはべつにして」
糸子は母のことを思った。母の写真は仏壇の上に飾ってあり、仕事場の机の上にも置いてある。そして毎日、父はそれを目にしている。ならばその父もまた、忘れてしまうことをおそれているというのだろうか。母のことなどめったなことで口にしない人が。
「写真に写っているのはある瞬間でしかない。しかし、そのなかにはたくさんの物語が隠されている。いい例がこの写真だよ」と父は母と子の写真を見て言った。「息子の制服が一つの象徴だと思う。母親が帯留めに挟んでいる根付もそうだ。写真にはあの日やあの日の前の、この人たちが経験したさまざまなことが詰め込まれている」
「ものがたり」
「一瞬のなかにある物語」
「それを忘れないように」
「そう、しっかりと記憶しておくために」
「でも……」と糸子が思いついて言った。「忘れてしまうおそれというのもあるけど、立場を変えて見たら忘れられてしまうおそれっていうのもあるんじゃないかしら」
「あるだろうね」
問いを待っていたようにこたえた。「案外、その思いのほうが強いかもしれない。しかもそれには本人もうすうす感づいている」
「お父さんもそう?」
「ふだんは意識しないな。でも、なにか思いつめたようなときには思うかもしれない」
父はそしてテーブルの上にある額の写真に目を落とした。
糸子は父が言ったことと向けた視線の先の関係について考えながら、頭のなかはまだ低空飛行のようだといらぬことを思った。そのくせ、いつになく饒舌なのはよい兆候なのかもしれないと都合のいい解釈も加えた。
父はじっとその写真を見つめていた。やがてそこから視線をはずすと、
「記念写真が遺影になってしまったな」と案じたとおりに言った。
「母親はそれを予感していた、とか」
「それはわからない」
「仮設住宅を出て何年も経たずに亡くなったんでしょ」
「二人してここで写真を撮ったということと、その母親が亡くなったということ以外、息子はなにも言っていない」
「まだ若いのに。病気だったのかしら」
「わからん」と父はぶっきらぼうに言った。
糸子はその先を考えるのをやめた。考えたところでどうなるものでもないし、なにかが変わるわけでもない。そう思いながら、たったひとりの肉親であったに違いない母親との別れに心を痛めた。痛めつつ、たとえ小さなことでも、その息子のためになにかしてあげられることはないだろうか、と沈黙のなかで考えた。
「アンソニーで撮ってやりたかったな」
しばらくして父が言った。「あれならもっといい写真になったろう」
これまで何度も聞かされたせりふだ。スタジオで撮った写真を客に渡す前、いつも決まり文句のようにそう言った。
とにかくアンソニーカメラが好きだった。画質が柔らかいとか、プリントしたときの品質がいいとか、訊けばそんな理由をあげたが、それ以上に、というかそれしかないぐらいカメラそのものが好きだった。木製箱型の蛇腹式胴体に鑄物の雲台、手まわしのハンドルにピントグラス、フィルムホルダーや冠布など、カメラを構成するそのすべてが好きで好きでたまらなかった。
「なんてったって写真の奥行きが違うもの」
アンソニーはかつてどこの写真館にもあった。父はそれに何度も改良を加え、長く一線で使えるようにしてきた。性能のいい大型カメラが出てきても、デジタルが主流になりシートフィルムの入手が困難になっても、そのこだわりようは変わらなかった。
「ピントグラスに写る被写体を見るたび興奮させられた」
父は切なそうに言って、壊れたアンソニーのほうへ目をやった。「あれは上下左右が逆さまだからいいんだな。目の前にある世界とはべつの世界を見せてくれるから。じっと見ていると、直接見たときには見えなかったものが見えてくるような気がする。しかも、そう感じたときは写真の出来も格段によくなっている。不思議だ」
だったら修理して使えるようにすればいいじゃない。と口から出そうになって、糸子は呑み込んだ。前に同じようなことを言って叱られ、修理の話は禁句にしている。かわりに、
「さっきの二人、結婚するみたいね」と変化球のつもりで投げかけた。父はそれに、小さな虫を目にとめて見失ったような、面妖な顔を返した。
「アルバムの婚礼写真を熱心に見ていたもの」と糸子は証拠をあげた。「だから、それの報告で来たんじゃないの? お母さんの許へ。想像だけど」
「ああ」と父は少し遅れて返事をした。
「あの人たち、きっとまた来ると思うな。お母さんの命日とか、お盆とかに」
と糸子はそこまで言ってから、急になにか発見したように目を瞠った。「そういえば、彼のお父さんはどうしたんだろう。わたし、いまのいままで気にとめてなかった」
「ひどいな」と父が言った。
「お父さんは違うの?」
「いや」
「いやって、違うの違わないの?」
「どっちでもいいじゃないか」
「よくない」
「もう人の詮索はいいんじゃないか」
父はたしなめるように言った。糸子は矛先が自分に向けられそうな気配を感じて口を閉じた。
「さて」
父は自分を鼓舞するように両手で両腿を軽くたたいた。それから取り出した写真を元のところに収めると、振り返って時計を見あげた。
「もうこんな時間か」
その視線を通りのほうへ投げかけた。
「気にいってもらって安心しました」
礼を述べる友幸に父が言った。「きっとお母さんも喜んでいるでしょう」
「だといいんですけど、ほんとうのところ母が望んだかどうか。ぼくの思いつきでやったことですから」
友幸はどこかわだかまるような言い方をした。
「写真は見る人のためのものです」
父は写真屋の顔になって言った。「写真には撮ったり撮ってもらったりする人の思いがこめられていますが、それはその人も含めて見てくれる人がいなければ成立しません。つまり写真は見たり見てもらったりすることが前提です。カメラの前に立ってシャッターが切られた瞬間、もうその人からは離れた存在なんです」
「あとになって見られることを望まないってことはありませんか?」
「あるかもしれません。でも、それなら焼き捨てるなりすればいい、人の手に渡ったものはどうしようもありませんが。そもそもそういうものなんです」
友幸はどっちつかずにうなずいた。
「写真を大切にするのは、写っている人やことを大切したいからだと思います。それをけしからんと言う人はいないでしょう。まあ、まったくのゼロだとは言いませんけど」
「そうですね」と友幸は同意した。
「こちらにはときどき来られるんですか?」
糸子が話の向きを少しだけ変えるつもりでたずねた。
「この町には高校を出てからきょうが初めてです。実家のほう、といっても家はありませんが、年にいちどぐらいは来るようにしています」
「じゃ、これからも?」
「ええ、たぶん」
「失礼を承知でお聞きするんですが、お二人は結婚なさるんでしょ」
「はい。五ヵ月後に」即座に蓮子がこたえた。
「それはおめでとうございます」
「でも式はしませんの」と蓮子がつづけた。それに友幸が、「記念の写真だけは撮ろうと思っています」とつけ足した。
「そう。近ければここで撮って差しあげられるのにね」糸子は残念そうに言った。
「いいじゃないか、あとになっても」
ふいに父が割り込んだ。「里に帰ったついででいい、ぜひこちらにも寄ってください。そのときに撮ってあげますから」
「ほんとに?」と蓮子。
「はい、それも取っておきのカメラで」
父は自信たっぷりに言った。「当館のシンボル、あのいとしいアンソニーでね」
糸子は驚いた。ここに来ることがあればぜひ撮ってあげたい、と思っていたが、それはあくまでもいま使っているカメラでということ。
「ほかのカメラとは写りが違いますから。撮ってみればわかります」
「さっき壊れてるって聞きましたけど」蓮子が言った。
「修理しますよ、それまでには」
「嬉しい、撮ってほしい」
「ええ、撮りましょう」
「本気で言ってるの?」
糸子は父の顔をまじまじと見た。
「本気だよ」
「そんなこと聞いてなかった」
「いま決めたんだ」
糸子はあきれた。が、否定する気はなかった。心変わりへの反発はあっても、それを受け容れようという気持ちのほうが勝っていた。
「すごくありがたいんですけど、いつ来られるかはっきりしたことは言えません」
友幸が恐縮して言った。
「大丈夫ですよ」
父は近ごろ見たことがない鷹揚さをたたえて言った。「待つのも写真屋の仕事のうちです」
二人を見送るのに、父は先になって表へ出た。低空飛行から少しだけ機首をあげたみたい、とひとまず安堵して糸子もつづいた。
「待っていますよ」
あらためて礼を言って去る二人の背に、父が声をかけた。そしてそのまま、二人が県道に出て役場のほうへ曲がるのをじっと見つめていた。道を間違えてどこかへ行ってしまわないようしっかりと見とどけるとでもいうふうに。
やがて二人の姿は見えなくなった。父は向き直ると心持ち肩を丸め、息を一つ吐いた。それからもういちど県道のほうへ顔を傾けて、ふとなにか言った。
「大丈夫ですよ」
糸子にはそう聞こえた。
(2023.02)