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短編小説「野中クインテット」(44枚) 北原耕也
「行くの? 行かないの?」
少年は繰り返した。
爺さんは三十メートルもある大杉のてっぺんを見上げながら、からだじゅうの空気が抜けてしまいそうな大きなため息をついた。これでもう四回、そのたびにからだがどんどんしぼんでいく。
「最後のご奉公ができる。さっきそう言ってたじゃない」
少年は不満げに頬をふくらませた。
「それは嘘じゃない」
爺さんは眉根を寄せ、今度は正面に建つ神社の屋根のほうに目を投げた。
築年数も定かでない大きいだけが取り柄の神社の屋根には、松島みたいな大小さまざまの苔むした島ができていた。その島々に、花をつけたタンポポが無数に伸びている。
「やりたいのは山々なんだが、肝心のドラムがないことにはなあ」
大棟の鳩が飛び立つのを目で追いながら、爺さんは語尾といっしょに長い嘆息をもらした。からだがまた少ししぼんだ。
「ドラムなんかなくたっていいじゃない」
「なんてことを言う。楽隊にドラムがなかったらワサビの利かないにぎり鮨、いやいや、ふんどしをなくした相撲取りとおんなじだ」
「じゃ、だれかにやってもらったら」
「そんなことができるならとっくにやっている。わが楽隊のドラムは堀畠の重夫をおいてほかにない」
「だって、その人寝たきりなんでしょ」
「だから困ってるんじゃないか」
「じゃ、断るの?」
「断るのは簡単だが、それじゃああんまり失礼だし、情けない」
「じゃ、やるの?」
「やれるもんならとっくに引き受けている」
「じゃ、どうするの?」
「だから困ってるんじゃないか」
「ぼく、帰らなくっちゃ」
「人を散々困らせておいて、帰るとはなにごとだ」
「ぼくは高玉のおじいちゃんに頼まれて来ただけだから」
少年は背を向けた。
「それを言われるとつらい。おれたちはかれに恩義がある」
爺さんは思案するふうに片目をすがめた。その視線の先に手水舎があった。
手水舎には一応屋根がついている。杉皮で葺いただけの屋根で、いまは半ば腐って端のほうが濡れ雑巾のようにだらしなく垂れ下がっている。爺さんは手水舎に向かうと手水鉢の前に立った。
手水鉢は場違いに立派だった。鉢は幅が一・五メートル、長さが二・五メートルもある大岩をくり抜いてつくられたもので、爺さんが横になっても余りあるくらい大きい。そこに、裏山から竹筒で引いてきた清冽な水がいつも満々と湛えてある。
「おまえは祝詞をあげられるのか?」
爺さんは鉢の上のひしゃくを手に取り、少年のほうを振り向いた。少年は首を横に振った。
「高玉神社宮司の孫ではないか」
「ぼくは門前の小僧じゃないもん。それに、孫でなくひ孫だもん」
「考えてみればそうだ。でも、ひ孫であれ高玉の血筋だ。深草宜義宮司がどんなお人だったかぐらいは知ってるだろう?」
「知らない」
「ったく。息子が息子なら孫も孫、ひ孫もひ孫か。同じ宮仕えでもお宮のほうがずっとましなのに、あの息子ときたら、よりによって……」
爺さんはいまいましげにひしゃくで水を汲んだ。
「で、おまえの父さんはなにをしてる」
「公務員」
「やっぱり」
爺さんはひしゃくを呷った。と思ったら、いきなり咳き込んで口から水を噴き上げた。仰向いたところにその噴水が降りそそぎ、顔面は水浸しになった。
「宮司はわれわれに被せられた汚名を拭い取ってくれた恩人だ。宮司がいなければ、われわれはいまに至るまで戦争犯罪者の汚名を着せられていた」
汚名がどうのと言う前に、自分の顔を拭うほうが先じゃないか。そんな顔で少年はくすっと笑った。
「このなかを見たか?」
爺さんは手で顔をひとこすりして、拝殿を指差した。少年が首を横に振ろうとすると、
「見るはずがないか。鍵はおれのポケットに入れてあった」
そう言うなり、「ついてこい。見せてやる」と、さっさと拝殿に上がった。少年は仕方なさそうにあとについた。
拝殿のなかに入ると正面に祭壇があった。祭壇には白茶けたハタキのおばけのような幣束が一対と、奥に鈍色をした大きな丸い鏡のようなものが置いてあった。それ以外になにもなく、がらんとしていた。
「そっちはどうでもいい、こっちを見てみろ」
促されて少年は左側の壁に目をやった。瞬間、無数の眼光にさらされた。
眼光の発生源は壁の上にあった。長押から天井際にかけて、肖像写真や肖像画の額が数え切れないほど掛けてあった。振り返ると、額は右側の壁の上にも、そして祭壇の向かい側にもある。そのどれもが、一様に兵士の格好をしていた。
「この郷から戦争に行って死んだ人たちだ」
少年は額の数をかぞえた。
「その数、百十九人。召集されたうちの八割が死んだ。ほとんどが遺骨のない空箱で帰ってきた。そのかれらを戦地に送るのに、おれたちはラッパや太鼓で景気づけをやった。その名も野中神明軍楽隊」
爺さんはちょっと肩を怒らせ、すぐそれに気づいてすぼめた。
「人を死地へ送るのにお祭り騒ぎをしたってわけだ。おかげで負けたら、『戦争を賛美し音楽を国威発揚の道具にした極悪犯罪人』と激しく非難された。おまけにこの神社の神職見習いだったもんだから、『神の名を借り未来ある若者たちを死に追いやった死に損ないの死神め』とさんざ罵倒された。そのどっちかならまだしも、両方に荷担したというので、危うく戦犯にされるところだった」
爺さんは洟をすすった。
少年は額の肖像を順に見ていって、ふと足をとめた。そのまま長押の上の一点を見つめると、動かなくなった。顔が強ばった。
「どうした?」
爺さんは怪訝そうに少年の視線の先をたどった。そこに一人の兵士の肖像画があった。が、とりたてて変わったものではなかった。
「この人、死んでない」
少年がつぶやいた。爺さんは一瞬、聞き違いかと思った。
「死んでなんかいない」
「バカなことを言うな。ここにあるのは全部、戦死者のものばかりだ」
「死んだこと、確かめたの?」
少年の問いかけがあまりにも当たり前すぎたので、爺さんはうろたえた。
「確かに遺骨で帰ってきたわけじゃないから、大半が死んだと確認されたわけじゃない。でも、状況から言って、死んだと考えるのが妥当じゃないか」
「妥当、ってなに?」
「適当、適切といったようなこと、……かな」
「ふうーん」
「それより、この人がどうして死んでないと言えるんだ?」
「だって、この人、『わたしは死んでない』って言ってるもん」
爺さんは苦笑した。
所詮、子どもの戯言だ。いちいち相手にしていたら、こっちが子どもになっちまう。そう思うかたわらで、棘でも引っかかったように胸のあたりがちくちくした。
「ぼくの村の人たちもみんなそうだ」
爺さんの胸がまたちくりとした。
あの大津波からまだ二年しか経っていない。その場に居合わせた者として、死んだ人に特別の感情を抱くのも無理はない。死を認めたくない気持ちもよくわかる。まして、まだ十になるかならないかの子どもだ。
「怖かったろう?」
「怖いもなにもないよ。怖いと思うのは、怖いと感じる時間があるからじゃない。そんな余裕なんてなかったもん」
少年は悲しそうな顔をした。
「おまえの父さんは、そのときどこにいた?」
「消防署員だから、みんなに避難するよう呼びかけて歩いてた」
「母さんは?」
「小学校の先生で、子どもたちを連れて逃げようとしてた」
「お役人だったじいさんは?」
「そのふた月前に死んだ」
「宮司は?」
「ぼくといっしょ」
「おまえは学校じゃなかったのか?」
「学校は嫌いだから行ってないもん」
「そうか……」
「ね、どうするの? ぼく、もうそろそろ帰らなくっちゃ」
爺さんは天井を見上げて「うーん」とうなった。うなりながら四つのことを考えた。
一つ、堀畠の重夫にはベッドに横になったままドラムをたたいてもらおう。バスドラムが無理でも、スネアドラムぐらいならなんとかなるだろう。
二つ、脳梗塞で足の不自由な遠田の健三には、車椅子の上でサキソフォンを吹いてもらおう。
三つ、おれはクラリネットのほかに、死んだ笹原の宗悦に代わってトランペットも吹こう。ついでに、死んだ乙川の喜次郎の代わりをする重夫の代わりにバスドラムをたたきたいところだが、たぶん無理だろう。
四つ、あとで考える。
「よし、行こう。必ず行くよ」
爺さんはきっぱりとこたえた。返事はなかった。
気がつくと、少年の姿がなかった。不思議に思って表に出たら、階段の上に濡れたホンダワラが一枚落ちていた。
*
話を聞いて、重夫はやおらベッドから起き上がった。
大腸癌と宣告され六時間に及ぶ大手術をしたものの術後の経過が思わしくなく、一週間はまったくの寝たきりだった。食事や排尿はもちろん自力ではなにひとつできず、からだじゅうを管でつながれて、まるで修理中のロボットのように痛ましい姿で臥せっていた。二週間経ち人の手を借りてなんとか起き上がれるまでにはなったが、体力に加え気力の衰えがひどく、ろくに話すこともできないような状態だった。
ところが演奏会の話を聞かされたとたん、豹変した。蝋のようになった皮膚に赤みが差し、重く閉じられていた目がぱっちりと開いた。おまけに口まできいた。
「嘘じゃないだろうね、伝ちゃん」
ついでに疑り深いところも戻ってきた。
「天地神明に誓って」
野中神社の元神職見習い日和伝吉は、重夫の劇的変化に驚きながらこたえた。
「その神明というのが怪しいんだよね。あたしらは神明で過ちを犯した。だから、今後は神妙にしようということで神明軍楽隊から神妙五重奏団と楽隊の名前も改めた」
「けど、だれもそう呼んではくれなかった。神妙五人組とか珍妙五人組とか、なかにはガラクタ五人組だなんて、まるでボロカスみたいに言う者もいた」
「仕方ないよ、そのとおりだったんだから」
「ならば、いっそのことしゃれた名前にしようって。それで、いまの野中クインテットになった。もっとも、そのクインテットも、宗やんと喜次ロが死んでクインテットでなくなった」
実際は宗悦が死んだときはカルテットに、喜次郎が死んだときはトリオにと、頭数に応じて名前を変えようと思った。が、結局、クインテットでとおした。四人であれ三人であれ、気持ちはいつも五人だった。
「名前はともかく、三人になってから出番がめっきり少なくなった。かれこれ四年近くもお呼びがない」
いちばん最後が老人会のいきいき・ふれあいパーティーだった。それが不思議な組み合わせで、老人会のほとんどが伝吉たちよりも歳が若く、どっちが励ましているのか励まされているのかわからないような演奏会だった。
「これが最後のご奉公になるかもしれんなあ」
「かもしれんて、伝ちゃん、ほんとはもっとやる気なんだ」
「まさか……」
「顔がそう言ってるよ。それに、憎たらしいくらい血色もいい」
「冗談じゃない」
「やっぱり神様の御利益かなあ」
「おれはもう神様とは縁を切った、というか、切られた。いまは、宮司不在の野中神社の単なる管理人だ」
相手が病人であることを忘れて、伝吉はむきになった。「だいたい九十にもなろうってのに、先のことなど考えられるか」
「それはあたしのほう。だから、なお悔しいんだけどね。きょうび九十を過ぎたって、いい加減にしてくれって言われるくらい元気な人がいっぱいい、い、いて……ててて」
言い終わらないうちに重夫は下腹を押さえた。
「もうなにも言うな。いま死なれては困る」
伝吉は重夫のからだを支えて寝かせた。「ともかく、今回の依頼はこれまでのとはわけが違う。高玉神社は深草宜義宮司の、たっての頼みなんだから」
重夫は急に燃料が切れてしまったように力なくうなずいた。
伝吉は病室の窓を開け、外の空気を入れた。風はまだ冷たいが、どことなく温もりを感じる。嗅げば、微かながら胸のあたりがうわずってくる。伝吉は鼻腔を広げて、窓から首を伸ばした。
病院は村の東端の高台にあって、三階西向きの病室からは低い里山に囲まれたなだらかな平野が見渡せる。そのまんなかに、ひときわ目立って野中神社のこんもりした森が見える。肝心の神社はすでに落ちぶれて見る影もないが、成長をやめない杉の森のほうは神社を押しのけていっそう存在感を増している。
野中神社を中心にして、東に堀畠、西に乙川、南に笹原、北に遠田の集落が広がっている。堀畠は畑作、乙川は養魚、笹原は牧畜、遠田は稲作というふうに、ひところはこの四つの集落で村人たちの食のほとんどをまかなってきた。
いまは違う。どの産業も輸入物や価格たたきにあって、地元産品に頼るだけでは生活が成り立たたなくなった。やむなく、いちばんの働き手は職を求めて都市に出ていく。結果、村には年寄りだけが残された。
「生き意地が汚いというか、おれたちも長く生きすぎたなあ。ほんとなら、あの神社に祀られた戦死者たちと同じ運命になるはずだったのに。前世の報いなのか、こうして生かされてしまった」
ぐっ、ぐぐっ。
なにか言いたそうに重夫がうめいた。
「しゃべらなくていいよ、重さんもおんなじ気持ちだってんだろう? 健ゾも宗やんも喜次ロも、きっとおんなじだ」
そもそも余興のつもりで始めた楽隊だった。それが評判になり、戦争が激しくなると出征の手伝いをさせられるようになって、気がつけば軍の部隊でもないのに「軍楽隊」の名で呼ばれるようになっていた。調子に乗ってその頭に「神明」とつけたのが運の尽きで、引くに引けなくなってしまった。そこから歯車が狂った。
「もとはと言えば、おれたちの境遇がそうさせた」
五人が召集もされず楽隊をやってこられたのにはわけがあった。
「おれは小児麻痺で片足がひどく短かく、かつ神職見習いだったし、重さんは生まれながらの片肺欠損だったし、健ゾは痙性斜頸で首が自由にならなかったし、宗やんは視覚障害で白杖なしでは歩けなかったし、喜次ロは難聴なうえに唖者だった。みんな戦には向いてなかった」
それが負い目で楽隊に精を出した。ちんどん屋が出征兵士を先導して歩くような、いま思えば滑稽で情けないものだったが、当時は息子を戦地に送る親の悲しみを薄めてやる役割を果たした。
戦争に負けてみればそのことが逆に反感を買う種になり、召集免除への恨みも重なって村人たちの攻撃にさらされた。深草宜義宮司がいなかったら、いったいどうなっていたかわからない。
「毒を以て毒を制す、と言ってしまうとちょっと違ってくるけど、宮司は天皇の名を借りて村の人たちの批判を押さえ込んだ。かれは、すべてを神意、神の御心の問題にしてしまった。戦争が終わっても、みんな天皇と神様には弱かったからなあ」
その後は償いを込めて各地のイベントの手伝いをしてまわった。祭があれば神楽の前座を務めたし、運動会があれば競技をもり立てる演奏をした。老人ホームの激励にも行ったし、刑務所の慰問にも行った。頼まれれば県外にまで赴いた。
「おれたちにもまだ役に立つことがあるってこった」
重夫がぐふっ、ぐふっと言って頭を振った。
「あと一週間ある。頼むぞ重さん」
重夫はまたぐふっと言って、丸をつくった指をかざした。
病院を出ると、伝吉はその足で遠田の健三の家に向かった。
健三は縁側でサキソフォンの手入れをしていた。話はすでに電話でしてある。
その健三が顔を合わせるなりいきなり訊いてきた。
「高玉とはまだつながっていたのか?」
「いや、もう何十年も会ってないし、連絡も取ってない」
伝吉はちょっと面食らいながら応じた。
「それがなんで急に」
「深草宮司のひ孫が訪ねてきたんだ。正直言うと、おれはそのときまで宮司のことなどすっかり忘れていた。高玉神社の場所だって記憶になくて、ひ孫から津波のあったところだと聞かされてびっくりしたくらいだ」
こたえながら伝吉は、あの少年と会って以来、胸のなかがもやもやちくちくしてならないのはこのことも関係しているのではないか、と思った。
「変な話だな」
健三に言われるまでもなく、伝吉も不思議だと感じていた。が、一方で、なにか深い因縁があるのではないかとも思っていた。そもそも、深草宮司とは神様が縁で結びついてきた仲だったのだから。
「おれたちの楽隊が戦後出直してのちのちまでつづけてこられたのは、深草宮司のおかげだった。そういう縁があってのことじゃないか?」
戦争に敗れ、相前後して母と宮司だった父が死んで、伝吉は野中神社にひとり取り残された。その喪失感から、もはや父の跡を継ぐ意欲も失せていたが、そこへ追い打ちをかけるように村人たちから「楽隊は戦争加担者」という糾弾の刃が向けられた。伝吉ばかりでなくほかの四人も同じで、毎日が針の筵に坐らされているような状況だった。そんな苦境を、深草宮司が救ってくれた。
彼はそのころ、旧県社の宮司の職にあった。野中神社を何度か訪れたことのある宮司はこれにひどく心を痛め、なかに立ってうまく収めてくれた。楽隊以外になにも考えられなかった五人は、おかげで生きる希望を取り戻すことができた。
反対に失ったものもあった。野中神社にたいする村人たちの信頼だった。信頼を失えば権威も失う。権威を失った神社には路傍の祠ほどのありがたみもなくなる。宮司不在も重なって、村の人たちの心は次第に神社から離れていった。深草宮司にも、こればかりはどうにもならなかった。
もちろん、失地回復の努力はした。なんとかして神社に足を運んでもらいたい。そう願って、戦没者の肖像写真を集め、写真がなければ隣町の絵描きに肖像画を描いてもらって拝殿内に掲げ、慰霊することもした。それでいっときは村人たちの気持ちも戻ってきた。けれど、長くはつづかなかった。
結局、神社は村人たちから顧みられなくなり、隣町にある八幡神社の形だけの末社になった。祭礼も行事もいつの間にか途絶え、野中神社はただの無人神社、文字どおり野中の廃社同然の神社になってしまった。伝吉はそれが忍びなくて、だれに頼まれたわけでなく、拝殿の管理を引き受けた。
「最後は神様と縁切れになった。でも、どういうわけか深草宮司との縁は切れなかった」
その後、伝吉は、親の跡を継ぐ格好で高玉神社の宮司に就いた深草宮司と二、三度会っている。それがどんな場であったか覚えていないが、会うたびに楽隊のことが話題になったことだけは記憶している。
「楽隊のことがよっぽど気にかかったのか。あるいは、ガラクタな五人の先行きが心配だったのか。いずれ、心根の優しい人だったからなあ」
振り返れば、伝吉にはそんな気がしてくる。
ブオォッ!
霧笛のような音がした。目が合うと、健三はマウスピースを撫でながら満足そうに笑みを浮かべた。
「四年ぶりの音だ。久しく吹いてなかったせいかブルブルッて来たぜ」
「下腹に感じるいい音だよ」
「よし、一丁やってみるか」
健三はそばの柱にすがりつき、立ち上がろうとした。
「おい、無理をするな」
伝吉は制止した。脳梗塞の後遺症でまだ立てる状態ではないはずだ。「いま車椅子を持ってくる」
「バカを言っちゃいけないぜ。サックスは立って吹かなきゃいい音が出ない」
健三は自由のきく右足をふんばり、柱を這いのぼるようにして立ち上がった。「悪いが、そのベルトを首に掛けてくれないか」
「まさか立てるようになってるとは思わなかったよ」
驚きながら、伝吉は健三の求めにしたがってサキソフォンのベルトを掛けてやった。
「けさまではおれもそう思ってた。でも、電話をもらったら、なんだか立てるような気がしてきたんだ」
健三は背を柱にもたせかけると居住まいを正し、リードを口にくわえた。そして二、三度音出しをしてから、伝吉のほうをちらっと見た。伝吉がうなずいた。
「ワン、トゥー、スリー」
股間がしびれるようなテナーの低い音が響いた。曲はジャズのスタンダード・ナンバー、我が心のジョージア。健三はそれを思い入れたっぷりに吹いた。
首を横向きにして十五度ほど傾げ、サキソフォンも同様に斜めに傾けて腰をひねるようにして吹くスタイルは、健三独特のものだった。すべては痙性斜頸で首の自由がきかないせいで、こういう形を取る以外、うまく演奏する方法がなかった。
当初は見ていられないくらいぎこちなかった。そのうちすっかり板についてきて、この形が健三のオリジナルスタイルになった。見ようによってはそれがなかなか決まっていて、格好よかった。病気を知らない人のなかには、それをキザだと言う人もいた。健三のほうは、逆にそんな嫌みを嬉しがっていた。
出だしは順調だった。が、途中、トーンが上がるところで音を裏返させると、そこから立てつづけに音を外していった。いったんそうなってしまうと、あとは舵を失った船。あっちこっちと迷走したあげく、しまいにはすかしっ屁のような気の抜けた音を出して、その場にへたり込んでしまった。
「どうも、まだほんとじゃないや」
健三は苦笑いした。
「いや、四年ぶりにしちゃ上出来だよ。あと一週間もあるんだ。健ゾさんなら大丈夫だ」
「そうだな。一週間もありゃなんとかなるかな」
まんざらでもない顔をした。
*
そこは天空に浮かぶ競技場のようなところだった。津波被災地だと聞いて、海辺に近い体育館か野外広場ばかり想像していた三人は、眼前に広がる光景に驚嘆した。
迎えにきたマイクロバスに揺られて峠を二つ越えた。長い距離を走りぼんやりした頭で三つ目の峠に差しかかったなと思ったら不意に目の前が開け、広い頂に出た。頂といっても千畳敷を十も並べたくらい広大な丘で、標高が高いのか、たまたま靄がかかってそうなのか、丘全体が雲の上にぽっかりと浮いているようだった。
それだけでも驚きだったが、広場を見てさらに驚いた。まるで祭りと縁日と運動会をいっしょにしたような賑わいだった。
周囲には紅白の幕が張り巡らされ、奥まった場所の中央部には歌舞伎芝居でもできそうな大きな舞台が設えられていた。舞台前には観客用にたくさんの筵が敷かれ、そのまわりを綿菓子屋やお面屋やたこ焼き屋などおびただしい数の屋台が取り囲んでいた。
すでに大勢の人々が集まっていた。腰の曲がった爺さん婆さんがいれば、よちよち歩きの幼児もいた。学齢の児童や生徒、働き盛りの男たち女たちもいた。その数、野中周辺の住人よりはるかに多かった。
いきなり大砲のような花火が揚がった。つづいて、拡声器からばかでかい音量の声が流れた。
「ただいま野中クインテットの一行が到着すますた!」
三人は互いに顔を見合わせ、頬を引きつらせた。
「では、早速登場すていだだぎましょう!」
プロレスの場内アナウンスのような声がとどろき、また花火が揚がった。その音をかき消すように、今度は大きな歓声があがった。
「ささ、どんぞどんぞ」
驚いている暇はなかった。二日前にクリーニングから出したばかりの制服を着けるまもなく、尻を押され担がれるようにして舞台の上に載せられた。気がついてみれば、伝吉はクラリネットとトランペットを首からぶら下げ、健三は松葉杖を両脇に抱えた格好でサキソフォンを袈裟がけにし、重夫は車椅子に坐った状態でスネアドラムを膝の上に縛りつけていた。支度はすっかりできあがっていた。
いよっ、大統領!
いよっ、世界一!
いよっ、ちんどん屋!
歓迎の声があちこちから飛んできた。三人は照れくさそうに観客席に向かって手を振った。こんな経験は初めてだった。
「生きててよかった。生きてることがこんなに幸せだとは思わなかった」
重夫が感きわまって涙ぐんだ。
「こんなからだになっても役に立つことがあるんだな」
健三は般若みたいな顔を仰向け、うなずき返した。
「人間、役に立たないことなんてあるもんか」
伝吉はぶら下げたクラリネットを抱き寄せた。
「えー、本日はわが村の諸君に芸術の素晴らすさ、楽すさをぜし味わってもらいだい、そう考えで、遠路はるばる野中クインテットの方々においでいだだいだとごろであります」
村長が登壇し、開会の挨拶が始まった。
「……そごで、僭越ながらひとごど言わせでもらいだい。そもそも芸術どはなぬが。このわだすが難すい話をすても始まらないので、ぶっちゃけだ話っこさせでもらえば、在郷太郎が在郷太郎から脱すて薫り高ぎ田舎紳士・田舎淑女になる、その品格をば与えでくれるものでありますて……。いやもどい、これは誤解ば招ぐ。ちまり、芸術どは、『生きてでいがったなあ』『生きてるって尊いもんだなあ』ど人をすて心がら感ずせすめるもの、その表現活動のごどでありますて、たどえば文学、美術、音楽、演劇、あるいは、戦後日本で一番最初に上映されだイタリア映画でわだすが生まれで初めで触れだ外国映画である『道』どが、わだすの妻が好ぎだった『喜びも悲しみも幾歳月』なんかもそうであります」
「そんちょっ!」
村長からひとこと、と主催者を紹介した司会者が舞台下手端から小声で言って、両掌をすぼめた。
「ついでだがら付け加えさせでもらえば、この映画は福島県は塩屋埼灯台の台長だった人の手記をば木下恵介が脚本にし監督すた作品で、昭和三十二年に芸術祭賞ば受賞すたものであります」
聞こえなかったのか無視したのか、村長はかまわずつづけた。「さらに付け加えるなら、わが妻の生まれ在所が塩屋崎灯台のあるいわき市平薄磯でありますて……」
「村長、映画の話になるど止めどなぐなるもんで……」
司会者が三人のところに来て申し訳なさそうに耳打ちした。
三人にはむしろそれでよかった。会場から浴びる熱気とこみ上げてくる嬉しさで演奏前から息が上がり、このままだと本番に入ったとたんこけてしまいそうだった。
「言い忘れだ。イタリア映画『道』はかの名監督フェデリコ・フェリーニの代表作でありますて、男ど女の哀すい姿をとおすて魂の再生ば描いだ物語であります。もつろん、アンソニー・クインどジュリエッタ・マシーナなぐしてこの映画はながったべし、ニーノ・ロータの音楽なぐして感動はながったべど……」
伝吉は会場を見まわした。到着してから深草宮司と少年のことがずっと気にかかっていた。
「……もっと付け加えれば、薄幸の娘ジェルソミーナが見つめだ海、非情な男ザンパノがたどり着いだ海、この海のシーンが実に印象的でありますて、思うに、監督は海を救済の象徴として描いだのではねえべがど……」
伝吉は二人を群衆のなかに探した。高い舞台からは会場のほぼ全体が俯瞰できたが、あまりにも人が多すぎるうえ距離がありすぎた。しかも、そろいの法被に鉢巻きをした一団がいたり、神楽や獅子踊りの装束を着けた一団がいたり、おかめ・ひょっとこやアニメキャラの面をかぶった一団がいたりで、判別が難しかった。
それでもあきらめず視線を移していくと、会場と外をつないでいるらしい紅白の細い通路の出入口付近に、奇妙な集団を見つけた。一見して神仏に関わる人たちの集団で、御幣を持った巫女や錫杖を持った修験者、法衣をまとった僧侶やキャソックを着た司祭などの姿があった。
そのなかに一人、狩衣姿の神職がいた。神職は僧侶や司祭たちとともに、入ってくる人からは小さな手形のようなものを受け取り、出ていく人にはそれを渡し与えていた。その所作がいかにも恭しく、また厳かだった。
伝吉は直感で、神職が深草宮司だと思った。それを裏づけるように、神職に付き添うようにして小柄な白衣姿があった。遠目にははっきりとしないが、体型からあの少年に相違なかった。
そのとき、一瞬、互いの視線が合ったような気がした。伝吉は健三の脇腹を小突き重夫の肩をたたいて知らせると、いっしょに深く頭を垂れた。頭を垂れながら、伝吉は二人が確かに答礼したのを視野のなかにとらえた。
期せずして、観客席から拍手が巻き起こった。
「芸術は長ぐ人生は短し、ど言います。人の命は短けれど、芸術作品は作者亡ぎあども残るどいうわげだ。そごで、わだすは声を大にして言いだい」
観客の勘違いを勘違いした村長が急に力を込めた。「冬の最中にフノリ取りをすて家の生計ば支えできた下浜の婆も、鋤や鍬がら台所用品までつぐって村の人々の暮らしば守ってきた糠塚の爺も、水神の母も、富森の父も、そすて村のみんなも、その人生はそれぞれにかけがえのない尊いものであります。言い換えれば、その人生が、いやその人生ごそが、最高の芸術なのであります。すたがって、芸術作品どすての人生は、命の長い短いに関係なぐ、永遠なのであります」
「長えど、村長!」
「芸術よりもきょうの飯!」
「次の選挙はまだ先だ!」
観客席からヤジが飛んだ。
「喧す! 黙って聞げ! んだがら在郷太郎って言われんだべ」
村長は臆しなかった。「すたらば、永遠どはどういうごどが。辞書によれば、未来に向がって果でしなぐつづぐごど、時間ば超越すて存在するごど、どあります。ちまり、永遠どは、過去がら現在へ、現在から未来へど記憶され引ぎ継がれでいぐ、そのごどにあるのでありますて、下浜の婆の人生も……」
もう耳を傾ける人はいなかった。会場のそこかしこで雑談が始まった。
村長は話の腰を折られ、あげくそっぽ向かれて話す勢いを失った。そのうち尻つぼみになると、「んでは、野中クインテットのみなさんの演奏をどうぞ」と不本意そうにバトンを渡した。
そのまま引き下がると思った。しかし、村長は下手のほうに四、五歩行きかけ、かと思うとなにか忘れ物でもしたようにすぐ引き返した。そして、三人のところに歩み寄ると、
「できたら、ニーノ・ロータの『道』ばやってもらえねべが」
決まり悪そうに言って、そそくさと下手に消えた。
三人はとっさのことで反射的にうなずいた。が、そんな曲は野中クインテットのレパートリーにない。というか、そもそもニーノ・ロータも「道」という曲も知らなかった。
仕方なく、「道」という題がついていればいいだろうと、童謡の「この道」をやることにした。この曲なら、保育園や老人ホームで何度も演奏してきた。
ところが演奏を始めるや、賑やかだった会場が急にしんみりとなった。それもそのはず、曲調が寂しいのに加え、初っぱなで気持ちが入りすぎた。
せっかく元気づけようとしてやってきたのに、それでは意に反する。三人は二番を終わったところで準備してきたレパートリーに切り替えた。
プログラムはだれもが知っている「鉄腕アトム」から始まる。そのあと、「巨人の星」「宇宙戦艦ヤマト」と元気のいいアニメ曲がつづく。
四曲目からは一転、健三選曲によるジャズのスタンダード・ナンバーに変わる。もっともスタンダードナンバーといっても、コールマン・ホーキンスやカウント・ベイシーといった名の知れたミュージシャンが得意とした曲のさわりを、適当につまみ食いした程度のもの。まともに演奏できる曲は一つもなかった。おまけに音はばらばらで、やたらと癇癪ばかり起こす。それでも、なんとなくジャズっぽく聴かせるのは、健三のサックスに負うところが大きい。
やがて佳境に入る。曲目は野中クインテットの看板メニュー「ソーラン唄い込み」。このあと二、三曲、得意の民謡のアレンジ曲を演奏すると、最後はお定まり、「星影のワルツ」をやって「蛍の光」で締めくくることになる。
「ソーラン唄い込み」は、健三が「大漁唄い込み」と「ソーラン節」を切ってつなぎ、こねまわしてつくった半オリジナル曲である。「エンヤドット・エンヤドット、ソーラン・ソーラン」をドラムとサキソフォンで、「ア ヨイヨイ」をクラリネットで、それぞれ合いの手よろしく軽妙に煽る。そこがミソの民謡曲だが、調子は全体がアップテンポの盆踊り。しかも、節まわしは元の漁師唄らしくたいそう力強い。そのリズムと旋律に、音感の悪い人でさえつい乗せられてしまい、踊り出してしまう。踊ればもちろん、腹の底から元気が湧いてくる。
演奏はどこへ行っても大受けで、ときに阿波踊り顔負けの熱狂的な踊りになる。終わるころには腰の曲がった年寄りもしゃんとなり、病み上がりも駆け出す、ともっぱらの噂だ。
ズンジャチャチャ・ズンジャチャチャ、ズーンヂャチャ・ズーンジャ、ピッピーロ・ピーロロ、ズンジャチャチャ・ズンジャチャ……。
「ソーラン唄い込み」の演奏が始まる。
すねてあさってを向いたようなジャズ演奏の反動で、会場は早くもイントロでどっと沸いた。合いの手のところにくると、「ア ヨイヨイ!」と天を突いて声が合わさった。二番に入るころにはだれもが浮き立ち、尻を浮かせてからだを揺すった。
舞台の三人は嬉しさで打ち震えた。
ズンジャチャチャ・ズンジャチャチャ、ズーンヂャチャ・ズーンジャ、ピッピーロ・ピーロロ、ズンジャチャチャ・ズンジャチャ……。
伝吉はクラリネットを左右に揺らし、それに合わせてからだをよじらせた。健三は片方の松葉杖が外れたのも気づかずサキソフォンをしゃくり、腰をくねらせた。重夫はドラムをたたきながら足踏みし、ときどき力あまって車椅子を持ち上げた。
大きなかけ声があがり、席のあちこちから観客が立ち上がった。同時に、手拍子でリズムを取り始めるや、思い思いに踊り出した。
エンヤドット・エンヤドット・ヤーレン・ソーラン……、ヤッショーマカショ・ヨイヨイヨイヨイ……、ヤッテマレ・ヤッテマレ・ヤレソレヤレソレ……、エンヤドット・ソーラン・ヨサコイサッサー……。
みんな総立ちになった。三人の奏でる音と観客の熱い息吹が重なり合い、混ざり合った。踏み鳴らす足音が、地響きを立てて広場を揺るがした。
舞台と客席がひとつになった。歓喜が弾け、沸騰した。興奮は最高潮に達した。
熱気が広場全体から竜巻のように立ちのぼった。その熱気が丘の上で渦巻きながら膨張し、たちまち周囲の雲を呼び寄せた。雲は海と化し、天空を覆う巨大な渦潮となった。
稲妻が走った。怒濤のような嵐が巻き起こった。
天地が咆哮した。
世界が暗転した。
ありとあるものが闇に呑み込まれた。
*
三人は小高い丘の上にいた。まわりは一面なにもない、見渡すかぎり月面のような荒野だった。
潮のにおいがした。
暮れかかった空の下に、茫洋として海が開けていた。さえぎるものはなにひとつなく、荒れ地がそのまま海に滑り込んでいた。海岸線は遠目には平らかな砂浜のように見えて、右から左へ延々とつづいていた。
荒野は背後にも果てしなく広がっていた。
遠く、高い山々に抱かれて台状のなだらかな平地が伸びていた。人工的につくられたものらしいその台地には、いくつもの細長い建物が並んでいた。
建物にはそれぞれに規則正しく小さな窓が切られていた。人の気配はなかった。
闇が迫っていた。
三人は演奏のときの姿そのままで、ただ黙然としていた。
海のほうから、風や波の音とも、音楽とも人の声ともつかない、あるいはそれらが混じり合ったような響きが打ち寄せてきた。それが一定のリズムで、初めは静かに、そのうちにだんだんと勢いを増して。
その響きに促されて重夫がドラムをたたいた。健三がサキソフォンを合わせた。伝吉がクラリネットを重ねた。
ズンジャドット・ズンジャドット……。
風と波が三人を後押しした。数え切れない人々の声が加勢した。
音と声は大きなうねりとなった。うねりは荒野を這い、台地に向かって押し寄せていった。
ズンジャドット・ズンジャドット……。
山影が膨らんだ。
薄闇が震えた。
大気が吐息した。
ズンジャドット・ズンジャドット……。
台地の建物に明かりが点った。
一つ、二つ、三つ――。
明かりは次々と点り、少し遅れて一つまた一つ、窓が開かれていった。
その光が、闇のなかで数珠玉のようにつながっていった。
(2014.03)