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短編小説「だるまや食堂」(38枚) 北原耕也

 その男は突然やってきてこの地に居着き、五ヵ月ほどいると突然いなくなった。まるで気まぐれな猫みたいだが、じつは、男より数日遅れて見かけない猫が現れて男のもとに居坐り、男が姿を消すと示し合わせたようにその猫もいなくなった。そしてほぼ同時に、この地で生まれ育った一人の若者が、行き先も明らかにせず出ていった。
 だるまや食堂の親父、山樽睦芳は、この三つの出来事がひどく気にかかった。三つが三つ、無関係だと思えなかった。といって、関係があるという根拠もなかった。
 睦芳は自分と引きくらべながら、彼らの行く先を案じた。彼はめったに客が来ることのない店でぼんやりと天井を眺めたり、意味もなく外を通る車の数をかぞえたりしながら、二人と一匹のことを考えた。

 だるまや食堂は県道から少し入った、市の支所や診療所に通じる道の、入り口角にある。この町では唯一の食堂で、蕎麦や丼物などを扱って、夜になると居酒屋になる。四十四年前、まだ二十代後半だった睦芳が、売りに出されていた店を居抜きで譲り受け、開いた。
 食堂は町がそうであったように、西の先にあった鉱山とともに歩んできた。鉱山が盛んなときは町も賑わい店も繁盛したが、鉱山が閉鎖されると、町も衰え店も左前になった。
 周囲はすっかり様変わりした。電鉄がなくなり近くにあった駅もなくなって、銀行も撤退した。郵便局と町立病院はかろうじて残ったが、町が隣の市に吸収合併されると病院も診療所に格下げされた。人口はかつての五分の一に減った。
 食堂は立ちゆかなくなった。客は日にせいぜい片手でかぞえられるぐらいしかなく、あっても十人も来れば上出来、二十人を超えたら奇跡だった。それでも睦芳は、死んだ妻の保険金でやりくりし、やめずにつづけてきた。
 それは、信念というより意地だった。その意地が支えとなって、食堂は今日までなんとか持ちこたえてきた。

 その男が初めてだるまや食堂に顔を出したのは四月のことだった。夕食にはまだ早く店には客もない午後五時を少しまわったころ、厨房でキャベツを刻んでいた睦芳が店のドアを開ける気配に顔を上げると、その隙間から男がそっと顔をのぞかせた。様子から店をやっているのかといった感じで、睦芳は「伊達にのれんを出しているわけじゃない」と内心舌打ちしながら、目顔で招き入れた。
 男は小学生ではないかと思うほど背が低かった。年は睦芳よりやや年嵩の七十五前後だろうか。もちろん小柄な老人などめずらしくなく驚きもしないが、睦芳は彼の顔を見て少なからず困惑した。それは曰く言いがたい難しいつくりで、十五画を超える旧漢字が入り乱れたようなひどく難解な面容をしていた。睦芳流に表現すれば和洋中のみぞれあんかけといったふうで、大ぶりなそれが小さな体に乗っている様はどこか狛犬にも似ていて、不思議な存在感があった。
 男はラーメンを注文した。ラーメンがよほど好きなのか、あるいは相当に腹を空かせていたのか。注文の品が運ばれるや獲物を捕らえる鷲のごとく丼に襲いかかり、恐ろしい勢いで麺をすすった。そのたびに、なにかにうなずくように頭を上下させ、荒々しく鼻を鳴らす。麺をあらかた平らげると、最後には丼をうやうやしく戴いてなかの汁まできれいに飲み干した。睦芳はその食いっぷりに感動した。
 それから、週に一、二度、来るようになった。時間はたいがい午後五時前後。そのたび、まず夕飯を注文しておいて、そのあとに酒を頼んだ。酒は焼酎の水割りと決まっていて、薄くしたそれを食事の前にコップで二杯飲んだ。飲み終えるころには頬が赤らんで、例のこみ入った顔も幾分ほどけて、狛犬がチンほどになった。

 見た目は里山と変わらないズリの山が緑に覆われ、里山のなかでもひときわ高い笊森山が一面ヤマツツジの朱色に染まる季節。男がだるまや食堂に顔を見せてからひと月あまり経ったある日のことだった。この日も男は五時過ぎに現れて、カウンターのいちばん端の席に坐った。カウンターは夜になれば居酒屋にもなるようにと睦芳が店を買ったときにつくったものだが、いつも一人の男には居心地のいい場所らしかった。壁際の隅はとくにお気に入りのようで、このころには夕刻一番乗りの彼の指定席になっていた。
 その男が、この日どういうわけか弁当を注文した。いつもの習いで初めに夕飯を決めてそのあと焼酎を頼む、そう見込んで構えていた睦芳は、一瞬、聞き違えかと思った。返事に窮していると、男はもう一度繰り返した。
「べんとう」
 睦芳は覚えたての文字をなぞるように、たどたどしく復唱した。男はうなずき、ちょっとすまなそうな顔をして指を二本立てた。
 弁当ならわけもなかった。そもそも睦芳が調理師見習いで修業した料理屋は本業が仕出し屋だったし、睦芳自身、店を出した当初は弁当を扱っていた。和食の調理人としてはボリュームが売りの決まりきった定食をつくるより、弁当をつくるほうがよほど腕が振るえる。
「弁当を二つ、ようがす」
 睦芳は注文を受け、なにか好みがあればと男に訊いた。
 男は、とんかつを入れてほしい、とこたえた。そして、できれば山菜を添えてもらえるとありがたい、とつけ加えた。
 とんかつはメニューにもあるし簡単だが、山菜は原発事故があってから、地物の提供を控えている。それでも、好きで自家用になればと県境を越えて採っていたから、睦芳はこれを材料に、天ぷらと酢の物、煮物にして添えることにした。
 男は焼酎を飲みはじめた。それが三杯目になり、四杯目になったが、夕食を頼む気配はなかった。どうやら弁当持ち帰りで、誰かといっしょに食べる計画らしい。睦芳はそう思い、思ったとたん、その誰かが気になった。
「二人で弁当とは悪くないですな」
 睦芳は食堂で夕食を済ますような男だから独り身に違いないと思い、鎌をかけた。そこに、少しばかり嫌みもこめた。
 妻に先立たれ、長女と長男、次男の三人いた子どもたちは、それを縁の切れ目のように家に寄りつかなくなった。それからずっと、睦芳は独り暮らしをつづけている。二人で食事をするなど、相手が誰であれ望むべくもなかった。
 男はこたえなかった。かわりに乾いた笑みを返して、焼酎の入ったコップに目を落とした。睦芳は直感で、なにかわけがあるのではないかと疑った。
 男は弁当を受けとると店を出た。睦芳はすぐさま、そのあとを追った。弁当を持っていったいどこに行くつもりなのか、確かめずにいられなかった。
 男は店の角を役場通りのほうに曲がった。その先には市の支所があり診療所があり、かつての駅跡でいまは更地になっている広場があり、そこを越えると市が合併と引き替えに建てた特別養護老人ホームがある。
 男は支所と診療所の前を通りすぎた。そのまま駅跡の広場を越えると、老人ホームの前まで行って立ち止まった。
 男は二階建てのその建物を見上げて深呼吸した。それから、暮れかかった東の空を眺めて首を左右に振り、不意に四股を踏んだ。いや、四股のようだが四股ではなかった。なにかの踊りのようだった。睦芳にはそれが、八幡神社の祭りで演じられる獅子舞のように見えた。髪をなびかせる彼の頭はまた、獅子頭ししがしらのようにも見えた。
 踊りは、しかし、時間にすればほんのわずかだった。男はずれた上着の襟を直し、姿勢を正すと、早足に玄関を入っていった。
 睦芳の疑問はいっそうふくらんだ。その傍ら、なぜだか胸が痛んだ。出所でどころがわからないその痛みは、澱のような後悔をともなった。
 男はその後も、ときどき弁当を注文した。数は決まって二つ。睦芳はそのたびに男への疑念を深め、彼のあれこれについて考えた。考えたけれども、弁当を届ける相手が老人ホームにいるらしいということ以外、思い浮かばなかった。

     *

 睦芳が疑問を解く手がかりを見つけだす前に、新しい情報がもたらされた。
 持ってきたのは法川のりかわの光一だった。本名は秋月光一。笊森山の麓にある法川という小さな集落の住人で、旧町内では数少ない二十代の青年だった。
「奥さんだよ」
 光一は言った。「爺さんの名は半谷はんがい尚正なおまさ、婆さんの名は半谷満代。出身地は福島県南相馬市。二年前に妹さんを頼ってこの市に転居し、ひと月半前、ここの公営住宅に移住」
 睦芳は驚いた。清掃会社に勤めている光一が老人ホームにも出入りしていると知り、それとなく話してみたのだが、ここまで調べ上げてくるとは思わなかった。
「不幸な目にあってこっちに来たけど、それが幸運でもあったんだ」
 光一はわけ知り顔をした。「ここは、ほら、ほとんど僻地だから。公営住宅は空き部屋がいっぱいあるし、老人ホームも待ちが少ない」
 それは本当だった。鉱山が廃止されてから町は廃れる一方で、合併して市になったものの役場は支所に格下げ、ついでに路線バスも減らされてかえって不便になった。鉱山住宅跡に建てられた町営住宅は市営住宅に変わったが、古いばかりで住む人が少なく、合併の餌にされた老人ホームは体のいい姥捨て山だと評判が悪かった。
「限界集落なんてもんじゃないもんなあ」
「限界集落なんて言うな」
 睦芳はたしなめた。「病人に向かって、もう先がないと言うのと同じだ」
「だって、そうじゃないか」
「このやろう!」
 光一はぺろっと舌を出して店を飛び出した。

 それから二日経って、また光一が来た。
「むっちゃん」
 光一は四十以上も年上の睦芳をそう呼んだ。光一を連れてよく蕎麦を食いにきた祖父が睦芳を「むっちゃん」と呼ぶのを口真似しているうち、それが身についてしまった。
「あの爺さん、なにしてる人だと思う?」
 光一がいたずらっぽい目をした。
「おおかた、年金暮らしってとこだろ」
「それが違うんだな」
「あの年で、なにか仕事をしているとは思えないがな」
 光一は含み笑いをした。「山師、らしい」
「いまどき山師なんて職業があるのか?」
「廃坑で金鉱を探しているみたい」
「ばかばかしい。あるなら、みんな寄ってたかって掘ってるだろ」
「たくさんあるわけじゃないけど、あるところにはあるって。おれのじっちゃんも言ってた」
 光一の祖父は鉱夫だった。五十年ものあいだ坑内作業に従事し、退職したとたん、塵肺で死んだ。息子である光一の父親のほうは鉱夫がいやで高校を出ると電鉄に勤めたが、閉山にともなう鉄道の廃止で職を失い、その後は土木作業員で転々としている。三年前からは三陸で働いている。
「そのために、わざわざこんなところに来たのか?」
「たまたまだろ。鉱山博物館にでも行って金が採れることを知って、それでにわか山師になったってとこじゃない?」
「そうとうに欲の皮の突っ張った男だな」
「なんだか、かなり焦ってるみたい」
 睦芳は情けなかった。欲に駆られてあるかないかわからない金鉱を探しまわっている男も情けなかったが、そんな男に興味を抱いた自分が情けなかった。ならば、男への好奇心も失せていいはずだが、根っからの疑り深い性格は変わらなかった。
 その後も、光一は情報を持ってきた。大半がほとんど進展のないものだったが、なかに興味深い情報もあった。その一つがやはり金鉱の話だった。
 光一によれば、男が金鉱らしい鉱石を妻に見せているのを、偶然、老人ホームに居合わせて目撃したという。拳ほどもあるその鉱石は金色をしていて、見た目は確かに金鉱のようだった。それを入所している妻の手に握らせて、もう少し集めたら指輪一つぐらいできるかもしれない、男はそう言った。「なくしたものは仕方がない、これで埋め合わせるさ。痴呆の進んだ婆さんに、爺さんは子どもを諭すみたいにそうも語ってた」
 そんなの金鉱でもなんでもない。光一の話を一蹴しようとして、睦芳は言葉を呑み込んだ。
 金色の鉱石はたいがいが黄鉄鉱で、石英などに含まれる金鉱とは似ても似つかない。鉱山町に住んでいればそんなことは常識だ。そう思いつつ、睦芳はなにか引っかかった。
 婆さんをだましているだけじゃないのか? だが睦芳は、それも光一には言わなかった。もしそうだとしても、きっとそれなりのわけがあってのことだろう。そこに他人が立ち入ってはいけない。睦芳にはめずらしく、分別が働いた。
 もう一つ興味を引いたのがあった。猫の話だった。
 老人ホームで何度か顔を合わせるうちなんとなく顔見知りになった光一に、男が猫の餌を売っている店を訊いてきたというのだ。この周辺にはないけれど、市の中心部に行けばあるかもしれない。そう言うと、ついででいいから買ってきてもらえないか、そう頼んだという。
「猫を飼っているんですか?」光一が問うと、男は、どこから来たのか居着いてしまった、残飯だけではかわいそうなので、とこたえた。光一は断る理由もないから引き受けたが、妻は無類の猫好きでね、と、男はどこか割り切れなさそうにつぶやいた。
「へんな話だな。野良猫はこの辺にもいるけど、そう簡単になつくもんじゃない」
 睦芳の妻も猫が好きでよく野良に餌を与えていたが、一メートルより近くに寄ってくることはなかった。それを捕まえようとして、いきなり引っかかれたこともある。
「でも、あの爺さん、猫が気を許すような顔をしてるから」
「気に入らねえな」
 確かに、猫ならあの難解な顔が理解できるかもしれない。睦芳は内心同調しながら、男がちょっと妬ましかった。

     *

 梅雨間近の暑い日だった。客もない、午後三時をまわったころ。睦芳がカウンターの前ではだけた胸に扇風機の風を送り込んでいると、女が一人入ってきた。どうせ知った人間しか来ないとすっかり無防備を決め込んでいた睦芳は、見たこともない女の訪問に仰天した。とっさに胸元を隠し「いらっしゃい」と言ったが、恥ずかしさで声にならなかった。
 あらためて見ると、ウイスキーの広告から抜け出してきたような垢抜けた女だった。年はざっと三十ぐらい、色白の瓜実顔に白いワンピースを着ていた。
 女は立ったまま壁に貼ってあるメニューを眺めた。そして、視線をメニューの右から左へ二往復させるとふと思案顔をし、冷やし中華はあるかしら、と言った。
「すみません、まだなんですよ」
 この時期、たまに暑い日があっても何日もつづくことはない。だから、まだ出す準備をしていないし、メニューにも書いていない。
 あたし、熱いものはだめなのよねえ。女はひとりごち、お弁当はできるのかしら、と遠慮がちに訊いた。
「弁当ならつくりますよ」
 睦芳はこたえて、まさか二つなんて言うんじゃないだろうな、と思った。
 女は、二つ、と言った。
 当たりだ。睦芳の胸に好奇の火が点った。
「なにかお好みがあれば」
 睦芳は返ってくる言葉を予想した。
 とんかつが入ったのを一つに、鰺のフライが入ったのをもう一つ。女は壁のメニューを見ながら言った。
 間違いない。女はきっと老人ホームに行く。彼女はあの爺さんと婆さんの娘だ。
 予想は少し外れたが、睦芳は確信した。それを自分の目で証明するために、女のあとをつけようと思った。
 だが、さすがにそれはできなかった。真っ昼間に若い女をつけまわすなんて、まるでストーカーみたいだし、色爺も甚だしい。睦芳は、女が店の角を曲がり役場通りを老人ホームのほうに向かったのを確かめて、それ以上追うのをやめた。
 何日か経って、睦芳はそのことを光一に話した。
「そんな人なんて見たこともないし、聞いたこともない」
 光一はあっさりと退けた。「ウイスキーの広告から抜け出してきたようないい女なら、たいがい噂にぐらいなるもの」
 睦芳は首をかしげた。閉山以来、なにごとにも興味を持たなくなった土地柄でも、確かにあれだけの女だったら、注目を集めないわけがない。もし、それすらもなくしてしまったというなら、この土地はもう死んだも同然だ。
「夢でも見てたんじゃないの?」
 光一が言った。
「夢なもんか」
「でなきゃ、幽霊でも見たか」
「幽霊か……」
 睦芳は否定するでもなく、頭のなかの答えを探るように仰向いた。「幽霊が弁当を持って、あの婆さんを訪ねたってか……」
 それもあり得るかもしれない。疑り深い睦芳にしてはものわかりよすぎたが、そう考えたほうが辻褄が合うような気がした。
 女はそれっきり、二度と姿を現すことはなかった。

 男はその後も週に一、二度、多いときは三度も店を訪れた。そして、その都度、夕食と弁当二つを注文し、焼酎の水割りを飲んだ。
 男はほとんどものをしゃべらなかった。ただ静かに酒を飲み、食事ができればそれを食べ、弁当ができるとそれを受けとって店を出た。
 たまに、隣り合わせた客から話しかけられることがあった。そのときも、なにかもごもごと念仏のようにつぶやいて返すだけで、意味の通じる言葉を発しなかった。こみ入った顔で念仏のようなことを言われると、話しかけたほうは意味がわからないままなんとなく納得するらしく、あまり変にも思われなかった。そんな具合だから、睦芳とのあいだでも、注文を受ける以外、まともな会話が成立しなかった。
 睦芳は男の複雑な面容がひどく気になっていた。決して不細工でも醜いわけでもないその顔は、まさに難解としか言いようがないものだった。睦芳には、そこになにか深い意味が含まれているような気がしてならなかった。
 怒ったり笑ったり、悲しんだり喜んだりする感情は、ふつう、一つの表情として顔に現れるものだ。男の場合は、それらの感情のすべてが、一つの顔に収まっているようだった。
 その表情は、まったく意味不明でありながら、同時に、たくさんの意味をたたえていた。それが、睦芳流に言う和洋中のみぞれあんかけだった。
 こうした面貌は生まれつきのものではない。なにかのきっかけでつくられたものだ。それがなんなのか不明だが、きっと人生を一変させるほど大きなことに違ない。ない頭をしぼり、鏡のなかののっぺりした自分の顔に落胆しながら、睦芳はそういう考えに到達した。

     *

 激しい雨と熱い日差しが交互に襲ってくる梅雨の末期、また新情報が伝えられた。その日の夕刻、急に降り出した雨にずぶ濡れになった光一が、店に飛び込んで来るなり頓狂な声をあげた。
「驚いちゃった」
 光一は睦芳が放ってよこしたタオルで顔をぬぐうと、
「とても正気だとは思えない」同意を求めるように睦芳を見た。
「この世に正気なやつがいるのか?」
 もう一枚タオルを放りながら、睦芳が皮肉った。
「むっちゃん以外はね」
 光一は軽くいなした。「それより、あの爺さん。例の金鉱とやらを、リュックいっぱいにしょってきた」
 それには睦芳も驚いた。
「婆さんのところへか?」
「そう。それをベッドの上に広げて見せて、これだけあれば十分だ、望みどおり指輪にしてやる。そう言ってた」
 睦芳は言葉が出なかった。金鉱でもない鉱石をいくら集めたって、金の指輪ができるはずがない。本気なのか、それとも嘘をついているのか。そのときになって指輪がつくれないと知ったら、どうする気なのか。
「なんで、そんなに金の指輪にこだわるんだ」
「よほど大事なものだったんじゃない。それを津波で流されたとか」
「津波か。そういえば南相馬市とか言ってたな」
「あの二人、津波で流され、原発の事故で追われたらしい」
 睦芳も薄々は感づいていた。
「おれ、婆さんの部屋に置いてあった写真を見たよ」
 光一はなにか考えをまとめるふうに首を揺らした。「写真に写っていたのは爺さんと婆さんの二人に、娘さんらしい女の人が一人。それと猫が一匹」
「その娘さんは年が三十ぐらいで、ウイスキーの広告から抜け出してきたようないい女だってんじゃないだろうな」
「当たり。そして猫は、なんていう種類かわかんないけど、顔が丸くて大きくて、毛が白くてふさふさしたやつ。その顔が、あの爺さんに瓜二つ」
「辻褄が合ったじゃないか」
「でも、あの女の人は、ここには来ていない」
「じゃ、ここに来た女は誰だ」
「だから、夢を見ていたか、幽霊」
「幽霊だとしたら、死んだ娘の……」
 そこまで言って、睦芳は口をつぐんだ。テレビで見た津波の場面がよみがえった。あの大波の下に自分の肉親がいると思ったら、恐ろしくなった。
「しかし、写真の爺さん、いまとずいぶん違ってたな」
 違わなきゃ正気でいられるか。睦芳は心のなかで毒づいた。

 その婆さんが死んだ。これも光一が教えてくれた。
 光一によれば、震災のあとに患った心臓の病気がひどくなり、そこに肺炎を併発したのだという。遺体の枕元には金色の鉱石が一つ置かれていたそうで、指輪は間に合わなかった。伝聞だと断って光一はそう説明した。
「爺さん、最初から金の指輪なんてつくる気なかったんじゃないかな」
 光一が言った。
「婆さんをだましたってのか」
「金鉱がどんなものかも知っていた。それをわざわざ金色の鉱石にしたのは、そのほうがそれらしく見えるから」
「なにもだますことないじゃないか。なんなら、宝石店で買ってくればいい」
「いい年こいて、そんなこともわかんないの?」
「なんだと!」
 睦芳は大げさに拳を振り上げた。
「時間だよ。きっと、時間がほしかったんだと思う」
「わざと遅らせて、時間を稼いだってわけか」
「そう。いずれ指輪ができると思わせて、少しでも命を引き延ばそうとした」
「だったら、リュックにしょっていくこともなかったじゃないか。ずっと小出しにしていればよかった」
「これだもんな」
「なんだ、違うなら言ってみろ」
「あの爺さん、いよいよ婆さんの最後が近いことを知った。だから、その前に、ともかく喜ばせてあげたかった」
「子どもだましだな」
「震災でなにもかもなくしたんだ。夫婦二人だけになってみて、お互い、かけがえのない人だということがわかった」
「驚いたな、いつからそんなにものわかりよくなった?」
 茶化しながら、睦芳はかすかな痛みを感じた。
「むっちゃんはデリカシーがないから」
 光一はやり返した。「だいたい、自分の奥さんも愛したことなかったんじゃないの? だから……」
 言ってしまってから、光一は口を押さえた。
「偉そうなことを言うな」
 睦芳はむきになった。
「なにがわかる」
 だが、それ以上言葉にならなかった。妻が死んだのは持病の肝炎を悪化させたためで、ほかに理由はなかった。可能なかぎりの治療もしたし、夫としてできるかぎりのこともした。睦芳はそう釈明してみたが、なんだかむなしかった。
「まあ、胸を張れるようなこともなかったけど……」
 睦芳はあっさりと折れた。「鉱山やまも町も衰えていくばっかりで、気持ちもささくれだっていた。それを、女房にぶっつけていた。病気が悪くなったのはそのせいだと言われるとつらいが、でも、あのころはみんなそうだった」
 だからいいなどと思っていたわけではない。
「とにかく、やたら悔しかった」
 悔しくて、腹立たしくて、だから、なすがままになるのはいやだった。なんでもかんでも逆らって、意地を張りとおそうとした。その結果として、いまもこうして店をつづけている。
 それ以外になにがあるだろうか? 睦芳は自らに同意を求めながら、この意地もいつまで持つのか、と、弱気に傾いている自分を認めた。
「おれ、この町を出ていくよ」
 出し抜けに光一が言った。
「なんだ、急に」
 睦芳は別人を見るような目で光一を見た。
「ここにいても、ぜんぜん先が見えないもんね」
「どこに行ったって同じだよ」
「時給が最低賃金と同じの六百九十六円。一ヵ月働いても十万円になるかならないか。しかも、身分は臨時パート。こんなんで希望が持てると思う?」
「ここを出ていったら希望が持てるのか?」
「わかんない。でも、こんな抜け殻のようになった町とは心中したくない」
「ここは抜け殻か?」
「そうじゃないか。寄ってたかって鉱石を掘り尽くして、案配悪くなったら見捨てて撤退していく。まるで盗人、強盗。残ったのは、がらんどうの坑道とがらんどうの町、がらんどうの人間だけだ」
「ちょっと言いすぎじゃないか?」
「みんなそう思っている。思っていても口に出さない」
 光一は険しい視線を向けた。「みんな、本音を隠しているだけだよ」
「なにも遠慮はいらない。言いたけりゃ言えばいいじゃないか」
「おれの親父が言ってたよ。放射性廃棄物の処分場でも持ってくればいい、ちょっとは活気が出るんじゃないかって。そしたら、出稼ぎに行かなくてもすむのにって」
「毒まんじゅうだな」
「黙って死を待つよりましだよ」
 光一は強い口調で言った。「危険を負わなければ、希望なんて手に入らない。原発を誘致したところだって、同じ考えからだろ?」
 睦芳は反論しなかった。長く生きてきた者としてそれは違うと言ってやりたかったが、言えなかった。町にとどまったほうがいいと説得もしたかった。が、その根拠も見つからなかった。
「ばっちゃんひとり、置いていくのか?」
 唯一それが気がかりだった。
 光一はこたえなかった。

     *

 盆が明け、笊森山のススキが穂を出しはじめたころ、男が姿を消した。妻が死んでからふっつり店に来なくなり、気になった睦芳が市営住宅に行ってみると、すでに空き家になっていた。睦芳は事情を聞いてみようと、歯が抜けたように空き家のある市営住宅の、顔の知った自治会長のところへ行った。
 自治会長は盆をすぎてすぐ出ていったという以外、知らなかった。一人だったのか、誰かといっしょだったのか、荷物はどれぐらいあったのか、どこへ行ったのか。なにも知らなかった。もちろん、猫のことも、飼っていたかどうも知らなかった。
 自治会長は弁解するかわりに、誰もやる人がいなくて仕方なく引き受けた、貧乏くじを引かされたよ、とぼやいた。
 顔を合わせた瞬間、たぶん無駄だろうと思った睦芳は潔くあきらめた。自治会長は腰に手を当て、反り返るようにして伸び放題の庭木を見上げると、
 先の張り合いがなくなると、他人ひとへの興味も失せる。
 達観したように言って、風船がしぼむように笑った。そして、振り返って睦芳の顔をのぞき込み、
 あんたも奇特な人だね。
 そのときだけ、意地悪そうに目を光らせた。

 光一が町を出ていったのは、それからまもなくしてのことだった。睦芳はそれを、光一の祖母から聞かされた。
 光一の祖母はそのとき、電話をした睦芳にくどくどと愚痴をならべた。
 どごさ行ったがわがらね。いい大人おどなが子どもだましみでな給料ぜにっこもらって、ばがばがしくてやってられっか。このままじゃ、嫁ももらえね。ばっちゃんの面倒めんども見られね。とにかぐ、給料ぜにっこたげえどごさ行って稼ぐ。金がなげればなにもはじまらねもの。そのためならば泥棒ど人殺し以外、なんでもやっぺ。汚物おぶづのなが這いまわっぺが、放射能にさらされっぺが、どいなやんべ仕事すごどだってかまわね。地獄ずごぐ手前てめえまで行ってもいい。こごにいれば、そんたな仕事すごどすらねえ。なんもかも、がらんどうだもの。んだがら、出でいぐしかねえの。温和おどなすい光一こういづが、憤慨ごしゃぎながらそんたふにかだっていだおん。
 おらだづ、なにひとづわりいごどしてねえのに、なんでこったにひでえ目にばりあうんだべ。鉱山やまさ尽ぐしてきたじっちゃんは塵肺よろけで死ぬべす、鉱山やまがら逃げだ親父おやず出稼でがせぎさ行ったままってこねべす、そんたな親父おやずに愛想尽がした母親ががは家ば出でいぐし、この家のひとり息子の光一こういづはまだ親父おやずの二の舞になりそだべす。ほんに、せづね。
 あれわりいこれわりいって言うわけではながす。すたが、どう考えでも道理に合わね。鉱山やまは国のたがらだどもではやされで、モグラみでに穴掘らされで、さんざん取り尽ぐしたど思ったらば、みんなこぞってずらがっていってしまった。掘った穴はそのまんま、置ぎ土産は塵肺よろけど鉛のどぐばり。なんの穴埋めもしね。ばがを見だのは、先祖代々こごで暮らしてきた人だづだ。それでも、行くどごねえがら土地とづさすがりついで生きてきたけども、まわりを見だらば誰もいねえ。家族もばらばらだ。
 みんないい気なもんだ。景気けいぎのいいどぎはちやほやして、わりぐなったらそっぽ向いで、とぎが経ったらば忘れでしまう。ちっとは覚えでいでくれでもよがんすべに、なんと忘れっぽいごどよ。
 光一こういづじゃねえけど、こごはもうがらんどうだ。人があづまるのは年に一回の八幡様はづまんさまのおまづりのどぎぐれえ。それも、神輿みごしかづいでんのはみんなにわが住民ばっか、見物けんぶづするのもよその人だづばり。どうせ遊びだもの、気楽きらぐなもんだ。おらだづは、ただ場所貸してるだげ。終わればまだがらんどうだ。
 このまづ鉱山やまが終わったどぎに終わった。いまはただいぎさせでもらってるだげ。早晩、ご臨終だぞ。
 それでいいのが、むっちゃん?
「いいわげねえべ」
 おれだづ、震災の被災者とおんなづだな。つがうどすれば、なんの補償もねえごどだ。おら、いっそのごど、震災にでもあったほうがいがった。
「ばがごぐな!」
 睦芳は怒鳴った。

 睦芳は窓から外を眺め、なんとはなしに通る車の数をかぞえていた。
 西の集落から東の街なかに向かうバスが一台、東から西に向かう清掃車が一台、通りすぎていく。軽トラックが二台、軽乗用車が三台、ワゴン車が一台と自転車が一台、それぞれ西か東に走り去っていった。
 人はたったの二人だけ。支所か診療所か、あるいは老人ホームにでも行くのか、郵便局前でバスを降りると、通りを横切り、店の角を曲がっていった。
 あとは、いつもその辺をのし歩く、白に茶の交じった大きな野良猫が一匹。猫は道ばたに咲いた彼岸花に鼻を近づけると、気に入らなそうな顔をしてそっぽを向いた。
 十時半の開店から客は一人もなかった。まもなく昼時間になる。
 客はあるかないかわからない。それでも、昼の準備はしておかなければならない。
 棚の上に、飲みかけの焼酎のボトルが何本か並んでいる。常連の客がキープしておいたものだ。そのなかに、あの男が残していったものと光一が残していったものがある。
 人の気配がした。睦芳は厨房から店のなかをのぞいた。
 誰もいなかった。
 気のせいかと思って仕事に戻ると、また人の気配がした。それは店の内というより、店の外のようだった。
 睦芳は気になって表へ出た。
 けれど、誰もいなかった。ただ、つい直前まで、そこに誰かがいたような名残があった。
 そこに漂う余韻を、睦芳はかいでみた。その感触から、睦芳はそこにいたはずの誰か、一人ではない何人かの誰かが、わかるような気がした。
 睦芳は、この町と心中してもいいと思った。ご臨終ならご臨終で、しっかりと見届けてやろうと思った。
 意地でも。
 と、睦芳は心のなかで力をこめた。

 昼を告げて支所のチャイムが鳴った。
 拡声器から大きな声を響かせて廃品回収の車が通りすぎていった。
 そのあとのしじまに、サイレンの音がした。
 鉱山から流れてくるらしいその音に、睦芳は空耳だとわかりながらじっと耳を傾けた。
                             (2014.9)


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