155.「悟る」って大事 増野鼓雪
はじめに
二代真柱が、復元として教理を確立する前に、天理教内に多大な影響を及ぼした増野道興氏(増野鼓雪)の言葉に、
「そもそも話を聞いて覚えるのが良くない、各々が悟らなくては何にもならない」
(意訳)
といった意味合いの言葉があります。
「天理教は悟りの教えである」といったことも言われていますので、今日はこの「悟る」ということについて書いていきたいと思います。
悟る=己の信仰を掴む
私が最初に悟った事は何であったか。その時は神様などと言うものは何も分かっていなかった20歳の頃である。鶏を三羽買っていたが、ある日、縁側へ出て餌をやっていた。やりかけるとオスは食べないで、クククとメスを呼ぶ。するとメスが出てきて拾って食べる。ところが二羽のメスの中、一羽が気概の強いやつで、一羽はおとなしい。餌を落としてやると、強い方がすぐ先に拾って食べてしまうので、おとなしい方は、いつもカスばかり食っている。それを見て私は、知らず知らずのうちに、おとなしい方に同情して、余計にやるようになっていたが、この瞬間に神様というものを知った。神様の御心はこれだなと言うことを悟った。
このことから、
物を欲しがる心と、
与えられるものを待つ心
どちらを神様が好かれるかが悟れます。
また、おさしづに出てくる
余れば返やす、足らねば貰う。平均勘定はちゃんと付く
明治25年1月15日
というのも、こうした御心が働いておられるのかもしれないと感じることが出来ました。
増野氏の生きた時代は、教理体系が確立されていない時代でしたので、悟ることの大切さが、今以上に感じられた時代だったと思います。
そのためか、当時の信仰者に対して
覚えた教理は、女のつける白粉のようなものである。女は人のためにぬるので、自分自身には何にもならない。結局人にいかに美しく見せようかということにしかならぬ。そんな教理ならば一生懸命覚える必要はない。人があればこそ覚えるのであって、話す相手がなくなった時には教理を欲求しないと思う。すれば皆さん自身が欲しているのではなくて、他人の代理を勤めているに過ぎない。教祖は、この道は諭し悟りの道と言われたが、教えるというようなことは言われなかった。諭しは、悟らせるための方便に過ぎないのである。
このように話されています。
安易に教理を求めることを、先の話に出てきた「気概の強いメスの鶏」に例えて戒められ、信仰を掴むためには、自分で悟って掴むしかないことを熱弁されています。
教理体系が整ってきた今の時代であっても、閑話大会等、信仰体験を話す機会は沢山あり、これが、各々が悟りによって信仰を掴んだ体験を話す機会となっています。
教理「体力」、実動「心」、悟り「技術」
増野氏の言葉に触れていると
「教理勉強よりも、悟ることの方が大事じゃないか」
と思ってしまいますが、ここに優先順位はないとおもいますので、最後に僕が常々思っている、
「教理」と「実動」と「悟り」の属性について書きたいと思います。
教理勉強とは何なのかといえば、筋トレのようなものだと思います。
己の基礎能力を底上げするのが教理勉強です。
対して実動とは何なのかといえば、メンタルトレーニングのようなものだと思います。
己の心を鍛えるのが実動です。
そして悟りはとは何なのかといえば、教理と現実(実生活)を繋げる力だと思います。
己の持てる力(教理)と現実をリンクさせる技が悟りです。
また、悟ることが信仰を掴むことになる理由は、この教理と現実をリンクさせるという特性を持っているからだと思います。
このように考えると、
教理勉強が「体」
実動が「心」
悟りが「技術」
だと考えることが出来ます。
つまり、一つも欠けることなく「心技体」を兼ね備えることができる信仰者が、目指すべ信仰者の姿だと思うのです。
おまけタイム
どーも!心技体を兼ね備えたい男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!
ちょっと本文の「心技体」についておまけタイムで語らせて下さい。
教理勉強が「体」
実動が「心」
悟りが「技術」
と対応させたのですが、これってちょっと面白くないですか?
何が面白いかというと、「心技体」といえば、よくスポーツで使われる言葉ですが、対応しているものの属性がスポーツで考える場合と矛盾しているんです。
なんとなく言葉のイメージだけで言えば
教理勉強が「技術」
実動が「体」
悟りが「心」
のように感じます。
確かに、実際に使う所と対応させたら、このようになるかもしれませんが、作用している(影響がある)所、鍛えられている所を考えると、
教理勉強が「体」
実動が「心」
悟りが「技術」
になると思います。
このことについて、別の考えや意見があればどんどん教えて下さい。
本日も最後まで読んでいただきありがとうございました!
ほな!