146.「おたすけ」と「慈善事業」は違う
はじめに
僕ら世代の若者の傾向に、最近ちょっと違和感を感じているので、釣りの意味も込めて、こういった表題で記事を書かせて頂きたいと思います。
(釣りなんかい!∑(゚Д゚))
違和感の正体
「天理教を知って貰うことよりも、相手に喜んで(助かって)貰うことが大切だ」
僕は最近、この言葉にめちゃくちゃ違和感を覚えるようになりました。
以前までは、
「人に喜んで貰えることが第一で、別に天理教のことを知って貰わなくても良い」
と考えることは、
「宗教の本質は社会貢献だよね」
といった具合に素晴らしいことだと思ってましたし、
なんなら
「役に立たない、誰にも喜ばれない布教(にをいがけ)をするのではなく、お助けをして人に喜んで貰うべきだ」
とも思っていました。
でも僕気付いちゃったんです。
「それ、天理教を信仰してなくても出来るじゃん」
って。
むしろ、人に喜んで貰うこと、助かって貰うことは、天理教の専売特許じゃなくて皆やってるんです。
当たり前のことだと気付いたんです。
だから、
「天理教を知って貰うことよりも、相手に喜んで(助かって)貰うことが大切だ」
といった主張をするのであれば、
別に天理教を信仰する必要がありません。
つまりこの主張は、
天理教の教えが「最後(ダメ)の教え」であることを否定しているのではないかと、僕は思いました。
天理教教典に
十のものなら九つまで教え、なお、明かされなかった最後の一点、元の親を知らして、人類に親神の子供たる自覚を与、一れつ兄弟姉妹としての親和を促し、親子団らんの陽気ぐらしの世と立て替えようとの思召からである。
このように書いてあります。
また、おふでさきにも
このみちハ どふゆう事に をもうかな
このよをさめる しんぢつのみち 6-4
このようにあります。
ここで僕が結構問題だと思うことは、それだけ大事な、真実の教えなのにも関わらず、
「私は信仰しています」
という自覚がある人に限って、
「喜んで貰えたらそれで良い」
といった考え方に陥ってしまっている人が、若者を中心に大変多くなってしまっていることです。
どうしてそんな考え方になってしまうのか、山登りで例えてみたいと思います。
富士山で例えるならば、9合目までは自力で登れますが、最後の1合を登り切って頂上に行くために、お道の教え(最後(ダメ)の教え)が必要になってきます。
これは僕の勝手な想像ですが、おそらく人間は、富士山の5合目くらいまで登ったら幸せを感じるように出来ているのだと思います。
そこから先へ登っていくには、苦しくしんどい思いをしなくてはいけません。
ですから、「喜んで貰えたらそれで良い」と考えている人は、楽に登ってこれる富士山の5合目まで連れてきて、
「ここで満足してください」
と言っていることと同じことをしているのではないでしょうか。
もう少し踏み込んで言うと
「頑張ったらもっと素晴らし景色が広がっているけど、そこまで連れて行くのはしんどいから、5合目で満足してもらおう。」
(天理教の教えは素晴らしいけど、理解してもらうのは大変だから、喜んでもらったら良しとしよう)
といったマインドが心の中にあるのではないでしょうか。
確かに信仰を人に伝えるということは大変です。
特に日本人には宗教という事柄に対して、かなりネガティブなバイアスがかかっていると思います。
だから信仰を伝えるということは
「嫌われるかもしれない」
「誤解されてしまうかもしれない」
「距離を置かれてしまうかもしれない」
こういったリスクを背負わないといけません。
「こうした人間関係のリスクを負わなくても良いんじゃないか?」
という考えの人が、最近増えているのだと思います。
しかし僕は、それだけのリスクを背負う価値が、この教えの中にあると思います。
東本初代会長中川よし(以下中川よし氏)の伝記
「大いなる慈母」にこのことに関して答えが書いてあります。
中川よし氏が、真実を尽くしておたすけさせて頂いていた地を、久しぶりに訪ねてみると、たすけて頂いたはずの方は亡くなっていたり、道(信仰)から離れていったりしている事実を知り、衝撃を受け、身上事情を助けることよりも、もっと大切なことがあると気づきました。
「私の丹波におけるおたすけは間違っていたのだ。たすかってもらいさえすればよいという考えから、身上だすけばかりをしていて、その精神を救うということに気づかなかった。そのためにこんなことになった。可哀そうなことをしてしまった。私は間違っていたのだ」
と思ったその落胆はひと通りのものではなかった。
(中略)
「おたすけとは実は天恩を教える事なのである。単に身上事情を救うことえはないのだ。天恩を知らしめたら間違いないのだ。恩報じの精神をつくっておかなければ、結局たすけたことが仇になる。申し訳ございません。このことに気づかなくて本当に申し訳ございません。」
(中略)
「人々の「精神」を救わねばならぬ。誠真実の心をもった信者をつくらねばならぬ。信者の増減は問題ではない。自分の身上や事情をたすかりたいばかりの気持ちの人に、誠真実の精神を植えつけもせず救ったのでは、天恩も知らしめずにたすけたのでは、普通の拝み屋と何ら変わらないではないか。自分だけたすかるために神に祈る人ではなく、たとい身は倒れても「人様たすかって頂きたい」という誠の心を抱いて逝く人が1人でも多くならなければ、親神の望み給う世界にはならぬ。真に救われた人というのは、こういう人を言うのだ。難儀不自由は、誠真実をつくってもらうことによって、たすかってもらおう。そしてたすかったら、必ず恩を知る人になってもらおう」
出典:大いなる慈母(文庫版) p181~184
このように、すでに先人の先生が
「天理教を知って貰うことよりも、相手に喜んで(助かって)貰うことが大切だ」
という思いの先に、道が無いことを示されています。
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」
と言う言葉がありますが、信仰するものにとって、先人が残して下さった歴史は学ばせて頂くことばかりです。
しかも中川よし氏は、仕事を通しておたすけしたり、慈善活動を通してにをいがけをしたわけではありません。
道一条で誠心誠意お助けに奔走したいたのにも関わらず、天恩を知らせなければ「それでも駄目だった」ということが、本当に厳しい話しなんですが、現実なんだと思います。
とは言っても…
ここで誤解しないでいただきたいことが、物事には段階があるように、いきなり中川よし氏のような思いに、一足飛びになれるわけがありません。
むしろ、
「天理教を知って貰うことよりも、相手に喜んで(助かって)貰うことが大切だ」
という思いで活動すること自体は、悪いことではなく良いことだと思います。
要は「喜んでもらうこと」をゴールに設定しては駄目だと思うのです。
ここで大切になってくるのは
「天理教を知って貰うことよりも、相手に喜んで(助かって)貰うことが大切だ」
この思いを、ゴールではなく入り口に設置することだと思います。
この話に関しては、また明日の記事に書きたいと思うのでよろしくお願いします。
おまけタイム
どーも!お酒に弱くなった男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!
僕はウィスキーが大好きで、「幸せの水」と呼んで崇めていたのですが、子供が産まれてから、全く飲まなくなってしまいました。
アルコールを摂ると、子育ても記事の更新も出来なくなってしまい、使い物にならなくなるからです。
ですから、昨日は久しぶりに沢山お酒を飲んだのですが、自分の酔っ払うペースの速さにビックリしました。
やっぱり飲まないと脳のアルコール耐性が落ちるんですね。
ちなみに、うちで全く飲まれることなく半端な量で放置されているウィスキー達はこちらです。
ウィスキー好きの人になら、このラインナップが飲めない悲しさを分かって頂けるはずです。
本日も最後まで読んでいただきありがとうございました!
ほな!