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165.愛町分教会初代会長 関根豊松「ひながたを踏む」

はじめに

先日Twitterで、

このようなことを呟いたところ、関根氏の記事を書く事に対する、賛否両論の様々な反応をいただきました。

その上で結論を言うと、

「今日の記事に書いちゃう事に決めました。」

書いちゃうんですが、無難に今回は60年くらい前の「みちのとも」に掲載されていた、関根氏の言葉を紹介させていただきます。
※ちなみに僕は、愛町が発行している関根氏に関する資料を一つも持っていません。欲しいです。


ひながたを踏む


 よいことだと信じたら絶対に動くな、我が強いと言えばそれ迄ですが、私は親神様を信じ、教祖の教えを信じて今日までつっぱってきました。“つけたみちはどうでもこうでもつけにゃならん、なれど道に小首かたげて思案せにやならんようなことではどうもならん、頼りないようなことではどうもならん、よう聞き分け、何にえんりょきがねはいらん”というようなお言葉があったと思いますが、お道の者に一番肝腎なことは、親神様を信じ、教祖の教えを信じたら、それ一条に突進していくことですよ。
 事業を始めるに資本が要るように、私たちお道の人たすけと言う事業の資本は、親神様であり、おぢばの声であります。私達はその資本を卸して、身上事情に悩む人々に早く心の成人を遂げてくれるようなお取次ぎをするだけで、親神様の思召を取次ぎ、おぢばの声を取次ぐ、いわば出張所の店主です。それが取次ぎがうまくいかぬとか、店主の自由にならぬというのはどうかしています。本当に信じ切っていない証拠です。悩める世界をたすけてあげようと教祖が御苦労してお創め下さった信仰であり、それによって助かった私達であり、出張所の店主としての役目を仰せつかったのであります。その出張所としての役目を充分に果たし得ないとすれば、首になるより外にございません。
 勿論、信じ切っただけでは出張所長としての本来の任務が全うされるのではありません。信じる人のひながたを踏まねば信じ切ったということにはなりません。世の中にタダは無いはず。教祖のひながたを踏まずに、教祖同様の不思議な奇跡を見せて頂く道理はありますまい。この教会は割に皆さんが助かって下さるようで、人々は不思議と申されるそうですが、不思議と仰言る方が不思議ですよ。私達は教祖の道を継ぐ弟子です。弟子は教祖のなさったことを真似たらよいのです。教祖のひながたは判るものではなく、踏むべきものです。
 私は教祖のひながたを踏ましていただこうと日夜、努力しました。その結果がいつの間にか今日の姿になっただけですよ。

関根氏は、
「私たちお道の人たすけと言う事業の資本は、親神様であり、おぢばの声であります。」
と話し、
「世の中にタダは無いはず。教祖のひながたを踏まずに、教祖同様の不思議な奇跡を見せて頂く道理はありますまい。」
とお道の信仰を商売に例えて話されています。

これを分かりやすくすると。

店主=信仰者
商品=親神様の思召、おぢばの声
仕入れ方法=教祖のひながたを踏む
効能=不思議なたすけ

このことから関根氏は「親神様」「教祖」「ぢば」この3点をとても大切にされていたことが分かります。

関根氏は、このような気持ちでお助けにかかった結果、人間の考えではにわかに信じられない、奇跡のようなお助けが、あたかも普通のことかのようどんどん現れていました。

更に「みちのとも」には、このような言葉が残っています。

親神様が作って下さった体だ、その親神様を信じ切れば御守護があるのは当然ですよ。私の言うことを馬鹿にしたり信じ切れなかった人でたすかった人はございませんが、私が五十余年、命をかけて信じ切った親神様です。間違いのあろうはずがありません。自分の心に神があると信じ、助かりたいから神を拝むのではなく、神は存在すると信じるからこそ神があるのですよ。
 自分に捉われずに、道を無我夢中に信じた。どうなるだろうと迷ったことがない。ー それがよかったのでしょう。面白い道ですよ。自分の心一つで、実践一つで、どうにでもなる世界ですから面白くでたまりません

出典:みちのとも 昭和32年 9月号「奇跡の道場 愛町分教会の巻」


ここで、僕が一番大切だと思うことは、
「面白い道ですよ。自分の心一つで、実践一つで、どうにでもなる世界ですから面白くでたまりません」
この「面白い」と言う言葉です。

僕の尊敬する先輩が、
「人が助かる喜びを知ったら、お助けが辞められなくなる」
ということを言っていたのですが、これもお助けが「面白いと感じる」ということだと思います。


僕はこれからの信仰者は
「お助けの面白さを知る」
という経験を積むことが、とても大事になってくるのではないかと思います。

僕自身、人が助かる楽しさなんか、足のつま先ほどしか経験していませんが、それでも、今まで積み上げてきた苦労に、助かるという結果が乗っかった時は、パズルのピースが全てはまったような快感を覚えました。

個々のピースで見たら苦しみだった事が、全てのピースが埋まり完成した全体像を見ると、喜びが出来上がっているんです。

この苦しみのピースがなければ、この喜びは出来上がらないのだと知ると、苦しい出来事も喜びに変わります。

こういった経験をしているかどうかが、とても大事になってくると思うんです。

僕の勝手な想像ですが、おそらく形だけの信仰になってしまっている人は、こういった経験をしていない、もしくは忘れてしまっているのかもしれないと思いました。

では、「お助けが面白い」という経験をするため、思い出すために必要なのは何かと言うと、

自分の心に神があると信じ、助かりたいから神を拝むのではなく、神は存在すると信じるからこそ神があるのですよ。

そう神様を信じるという事です。

ただ神様の存在を信じるということではなく。

神様の教えを学び、それを確固たる心で信じる事が大切だと思います。


関根氏の記事は、評判が良く、Twitterが荒れなければ今後もちょくちょく書いていきたいと思います。


おまけタイム


どーも!おにぎりをおかずにおにぎりを食べる嫁を持つ男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!

嫁が朝ごはんにおにぎりを握っていたのですが、その内の一つに塩を入れ過ぎてしまい、しょっぱいおにぎりが出来てしまいました。

しかし、そこは発想の転換で嫁は

「このしょっぱいおにぎりをおかずに、普通のおにぎりを食べればええやん」

という天才的発想に至り、今朝も我が家は平和な食卓でした。


本日も最後まで読んでいただきありがとうございました!


ほな!



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