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195.「良い陽気」と「悪い陽気」がありますよ


はじめに

天理教の目的である「陽気ぐらし」の意味については、
「みんなで陽気に楽しく助け合って暮らす事」
といった、だいたいの共通認識は信者間でありますが、実は人によって色々解釈が違いますし、実生活に具体的に落とし込む際は、それこそかなり違いが出てきます。

そのためか、時々「陽気ぐらし」を語る際に、「良い陽気」と「悪い陽気」が混同しておられる方を時々見かけるので、今日はこの辺りをはっきりさせておきたいと思います。


い陽気と悪い陽気


「陽気」ってどんな状態なのかを、一番分かりやすく説明しているのが、以下のおさしづだと思います。

神が連れて通る陽気と、めん/\勝手の陽気とある。勝手の陽気は通るに通れん。陽気というは、皆んな勇ましてこそ、真の陽気という。めん/\楽しんで、後々の者苦しますようでは、ほんとの陽気とは言えん。
(明治30・12・11)

つまり、
自分勝手な陽気=悪い陽気
皆んな勇ませる陽気=良い陽気

という事になるかと思います。

ということで、結論がすでに出てしまいましたが、このおさしづについて、もう少し踏み込むために、
「いんねん 著:橋本武人」
に書かれている解説を紹介させていただきます。
※本文は少し長難しい(長くて難しい)ので、簡単にまとめて説明します。



めん/\勝手の陽気


「めん/\勝手の陽気」
これは分かりやすいです。

「自分だけ幸せになればいい」
「自分の家族だけ幸せに暮らせればいい」
「身内が幸せならそれでいい」

こうした、自分達が幸せであれば良いという考え方は、
「勝手の陽気は通るに通れん」
とあるように、結局のところ、陽気ぐらしから離れていくことになります。


「勇む」の正しい使い方


そして、重要なのは次です、

「皆んな勇ましてこそ、真の陽気という」

この言葉の中には、 人聞がこの世で陽気ぐらしを実現するための2つの重要なポイントが示されていると考えます。

1、「勇ませる」という相手(みんな)への働きかけによって真の陽気を味わえる事
2、「楽しませる」とか「喜ばせる」のではなく「勇ませる」と表現されている事

1の意味はそのままで、自分ではなく相手への働きかけが大切だということです。

2の意味は、かなり深い思惑が込められていますので、少し踏み込んで解説していきたいと思います。

「勇む」という言葉は、本来「〜にもかかわらず」という言葉に続いて使われます。

つまり、「楽しいにもかかわらず」とか「嬉しいにもかかわらず」と言ったポジティブな言葉には「勇む」という言葉は引っ付きません。
「苦しいにもかかわらず」とか「辛いにもかかわらず」と言ったネガティブな言葉に続くのが「勇む」という言葉なのです。

ネガティブな言葉に続く、代表的な教語といえば
「たんのう」です。

ですから、この二つを並べてよくよく意味を考えてみると、
「勇む」≒「たんのう」
というように意味が直結してきます。


たんのうの説明はこちら


嬉しい事や娯楽に「勇む」を使わないのは
「勇んで焼肉を食べましょう」とか
「勇んでゲームをしましょう」
とは使わない事を思えば、納得できるかと思います。

ですから、

皆んな勇ましてこそ、真の陽気という。

この言葉をめちゃくちゃ噛み砕いで説明すると。

「皆んなが苦しい状態の時に、全ての事象は神様が良い方向に導いて下さっているのだと相手に腑に落ちさせた時、起こってくる全ての事に親心を感じるようになり、それが喜びになる。これこそ真の陽気である。」

こんな感じの意味になると思います。
(ほぼたんのうの説明ですね)

これが「良い陽気」です。

そしてこの姿が、「陽気ぐらし」のポイントとなる重要な一面だと思います。


良い陽気と悪い陽気


僕が、良い陽気と悪い陽気について書こうと思ったきっかけは、友人に言われたこの言葉です。

「人を助けるためには、まず自分が幸せにならなくてはいけない。そして自分の幸せの余った分を他人に分け与えれば良い。」

この考え方は、まさに現代的な考え方だと思うのですが、僕はこの考え方には、前半は賛同出来ますが、後半は賛同出来ません。

その理由は、この言葉が表す「幸せの定義」が問題だからです。

「余ったら分け与えられる幸せ」って何なのでしょうか?

自分が幸せで満たされれば、余った幸せを分け与えられる
自分が経済的に満たされれば、余ったお金を分け与えられる

これは、
「人を助けて我が身助かる」
ではなく、
「自分助かって人を助ける」
という天理教の教えと真逆の考え方だと思います。

この考え方は、自分中心の「悪い陽気」とまでは言いませんが、一歩間違えれば限りなくそれに近くなってしまう危険性を感じました。


「人を助けて我が身助かる」について詳しくはこちら


余れば渡せる幸せとは、目に見える、物質的な幸せだと思います。

物質的な幸せは、本当の幸せではありません。

「皆んな勇ましてこそ、真の陽気」

とあるように。

逆説的ですが、自分ではなくまず人を助ける(勇ませる)ことが、自分が助かるための一番の近道です。


しかし僕は、「人を助けるためには、まず自分が幸せにならなくてはいけない」
この部分には賛成すると言いました。

これはどういう意味かと言いますと
人を助けるには、自分が陽気でなくてはいけない。
つまり、自分の心が「喜びのたんのうで満ちあふれていないといけない」と思うのです。

自分の心が喜びのたんのうで満ちあふれる為には、
元のいんねん
かしもの・かりものの理など
これら基本教理を身につけなくてはなりません。


「たんのう」するために基本教理を身につける必要性についてはこちら


人助けに従事するのは、めちゃくちゃきつく辛いことなので、それが原因でお助けする側が逆に病んでしまうことも多々あります。

しかし、「たんのう」を心に納めていれば、どんなに苦しい辛い現場にぶち当たっても、希望の光が無くなることはありません。

ですから、どれだけキツい負のエネルギーと対峙しても、心を倒さないために
「自分が幸せにならなくてはいけない」
つまり、
「揺るぎないたんのう」
を身につける必要があると思うのです。


おまけタイム


どーも!一月前に買ったワイヤレスイヤホンを洗濯してしまい、絶望に浸るが、希望の光に助け出された男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!

先日、買ったばかりのワイヤレスイヤホンを洗濯してしまうというミスを犯してしまいました。

かなりお気に入りのイヤホンだっただけに、ショックで凹んでます。

しかし、駄目元で充電して見た結果、左耳は戦闘不能でしたが、何と右耳は洗濯する以前同様に使うことができました。

普段9割方片耳使用派の僕にとっては、片方だけ生き残っていただけでも最高に嬉しかったです。

結論
ワイヤレスイヤホンは洗濯しても大丈夫( ˘ω˘ )



本日も最後まで読んでいただきありがとうございました!


ほな!












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