184.甘露台座談会#1 おつとめが21回なのはどのように決まったの?



はじめに


教祖御在世当時から入信されていた先人の先生方が語り合う、甘露台座談会が、「みちのとも昭和10年1月5日号」に載っていました。

おつとめの第三節がなぜ二十一回であるとか、第二節の成立時期についてであるとか、内容の是非はともかく、錚々たるメンバーの座談会になっており、とても面白い内容になっています。

尚注意して頂きたいことは、先生方が記憶を頼りに話されているので、年号など記憶に誤りがある可能性があるということです。

また、みかぐらうたの解説本が他にも沢山出ておりますので、それらと比較しながら読んでも面白いと思います。

座談会メンバー
管長様(中山正善)
山澤為造(元治元年より、父良治郎に連れられて参拝していた)
松村吉太郎(明治19年に身上を助けられてから本格的に入信)
髙井猶吉(明治12年に身上を助けられ本格的に入信)
飯降政甚(明治7年、飯降伊蔵の次男として出生)
梶本宗太郎(明治13年、父松治郎の長男として出生)
上原義彦(東大教会2代会長)
史料集成部より
桝井孝四郎氏、上田嘉成氏
道友社より
堀越儀郎氏、中山慶一氏、上田理太郎氏、高野友治氏、出沖虎夫氏


おつとめの変遷
おつとめが二十一回なのはどのように決まったの?


飯降
松恵様がお出直しされたのは明治十五年ですが、何時だったか松恵様がおつとめに出られた事があって、その時確かに二十一遍しておられたように記憶していますから、その頃から二十一遍も決まっていたのだと思います。
松村
以前の事はよくわからないが、はっきり二十一遍という事になったのは、教会本部設置の時からだと記憶している。
梶本
どういう風にして決まったのですか?
松村
みんな相談して決めたのだと思う。
管長様
理の上から考えてそういう事に決めたんですか。
松村
そうだ、皆相談の上、神様にお伺いをたてたのです。
髙井
いや、教祖御存命の時から二十一遍という事にきまっていたのや、ただ三遍ずつ七遍するのか七遍ずつ三遍するのか判らないのでお尋ねしたら、どちらでもよいと仰ったのや。
山澤
やはり教祖様がおいでになった時からでしょう。早くから三遍は三ッ身につく理、七遍は何言はいでもよいという理の上から三、七、二十一遍という事を仰せになっておられた。
松村
勿論そう言うお話は前から仰せになっておられたのだが、それを確定的に実行さして頂く事に決めたのは、教会本部が置かれるようになった時だったと思う。


ここでは松村氏の主張が、松村氏自身の思いが全面的に出ていて面白いと思いました。

松村氏と言えば、天理教の一派独立のために中心となって動いた先人です。

その活動の最中は教外だけでなく、教内からも応法だと冷たい視線にさらされ、一時は独立運動を辞退しようとさえ思い詰めていた時期もありました。
そんな時に、初代真柱より

「お前は生命を捧げる覚悟で従事して居るのではないか。それに、生きて居て辞退するとは何事である。死んだら、やれとは言わぬ。生きて居る間は、どこまでもやれ。内部にどんな事があっても、俺が引き受けるから、安心してやれ」
出典:稿本中山真之亮伝

と励まされ、なんとか独立運動をやり切りました。ですから、

勿論そう言うお話は前から仰せになっておられたのだが、それを確定的に実行さして頂く事に決めたのは、教会本部が置かれるようになった時だったと思う。

この主張は、一派独立を果たすために政府と折衝を重ねていた、松村氏ならではの強い思いが込められていると思います。

また、

三遍ずつ七遍するのか七遍ずつ三遍するのか判らないのでお尋ねしたら、どちらでもよいと仰ったのや。

「三遍ずつ七遍するのか七遍ずつ三遍するのか」どちらでも良いというのは驚きでした。
現在、神楽づとめの第三節は、七遍ずつ三遍行なっていますが、もしかしたら三遍ずつ七遍になっていた可能性もあったのかもしれません。

ここで一つ気になることは、
「七遍は何言はいでもよいという理」
この言葉の意味です。

言い回し的には、耳馴染みのある言葉のような気がするのですが、いまいち意味が分かっていません。(勉強不足ですみません)

考えられるのは、
「人間が何も言わなくても(思わなくても)神様が良いようにして下さる」
という意味でしょうか?

どなたか知っている方がおられましたら、教えて下さい。
(大和言葉のプロフェッショナル求む)


第二節の成立


山澤
「ちよとはなし」のおつとめが出来たのは明治七、八年頃かと思う。
松村
お神楽面や鳴物道具の揃ったおつとめが行われるようになったのは明治七年だ。その年六月十八日、お地場から十一人の人衆が御生家に来られて、お神楽つとめと十二下りのおつとめをされたという事が、三昧田の古い書類の中から出て来た。
梶本
その時山澤の母も一緒に行ったそうです。
山澤
その頃私は一時お屋敷へ寄せて頂くのを怠っていました。そして明治十年に身上におさわりを頂いて再び寄せて貰った時、辻忠作さんが「ちよとはなし」のおつとめのお手を教えて下さった事を覚えております。だからなんでも私の参拝を怠っていた間に「ちよとはなし」のお手が出来たんだと思います。
松村
明治十二年に松田正造が柏原分署へ拘留されたのは、おつとめをした罰だったと言うから、もうその頃には揃ったおつとめが出来ていたのだろう。
山澤
はっきりしたことは言えないが明治七、八年から十年までの間に出来上がったもののように思います。

第二節「ちよとはなし」の成立時期は、どうやらこのメンバーでは判らなかったようです。

稿本天理教教祖伝を見ますと、

明治三年には「ちよとはなし」の歌と手振りを、同八年には「いちれつすますかんろだい」の歌と手振りとを教えられ、ここに、かんろだいつとめの手一通りが初めて整い、つづいて、肥え、萠え出等十一通りの手を教えられた、更に、明治十五年に、手振りは元のままながら「いちれつすます」の句は「いちれつすまして」に改まり、それに伴うて、「あしきはらひ」も亦。「あしきをはろうて」と改まった。

明治三年が、第二節「ちよとはなし」の成立時期だと書いてあります。

予想していた明治七、八年〜十年と時期がかなりずれています。

山澤氏がお屋敷に行くのを怠っていた期間が少し気になりますが、他のメンバーが入信した時期を見ますと、第二節の成立時期を間違えても仕方ないと思いました。

しかし、そういったところも含めて、教祖御在世当時を知る先人達が対話を繰り広げる座談会は、大変面白い内容となっていました。

続く


おまけタイム


どーも!実は将棋好きな男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!

実は僕、将棋がかなり好きです。

どのくらい好きかというと、日曜日にNHKで放送している、将棋を結婚する前までは録画して見ていたほど好きです。

「好きと言ってもどうせ大したことないだろう。」
とか思ってませんでしたか?

舐めてもらっちゃ困ります。

自分で指すのも好きですが、対局を見るのがかなり好きなんです。

ですから、最近藤井聡太二冠の対局を見るのに必死で、このnoteにかける情熱が半分くらい持っていかれててピンチです。

何とか情熱を保ってやっていきたいと思います。


本日も最後まで読んでいただきありがとうございました!


ほな!

サポートして貰えたら、そりゃめちゃくちゃ嬉しいです!