103.「理の親」について思うこと


はじめに


最近のホットワードの1つ、「理の親」について、思う所を述べさせていただきます。

あくまでこれは、
僕の仮説と感覚的な話しを、裏付け無しで好き勝手に述べているだけなので、話し半分で聞いて頂けたらと思います。


理の親という言葉が誕生した仮説


「理の親」という言葉は、原典に一ヵ所しか出てこないそうです。

(前略)一時事情前一つ理はもう無くなった理、又改まりた理は、道順序の理。道の親、理の親、これ心にちんと治めてくれ。出越したる処心に掛かる。(後略)
明治32年8月28日

しかも出てきたのは明治32年と、原典の中でも後期にあたります。

それでは、
この時まで「理の親」という言葉が使われていなかったのでしょうか?

このおさしづ以降から「理の親」という言葉が使われ始めたのでしょうか?

よくよく考えると、この一つのおさしづから、「理の親」が使われ出したと考えるのは、あまり現実的ではないと思いますので、このおさしづ以前から「理の親」という言葉は使われていたのではないのかなーと、僕は考えます。

このことから、
「理の親」という言葉は、信者の中から自然発生的に生まれた言葉なのではないか、というのが僕の仮説です。



「理の親」という言葉のポジション


「理の親」という言葉のポジションは、「恩人」という言葉のポジションに似ていると思います。

「恩人」というのは、自分の事を
「俺はお前の恩人だぞ」と恩着せがましく言う人ではありません。

「恩人」アピールをしてくる人は、
「自分が利益を与えたのだから、お前も利益を返せ」と、すぐに損得勘定で物事を考える人で、それではただのギブアンドテイクをしているに過ぎず、その人との関係はギブとテイクが終わったら終了してしまいます。

そういう人は本当の恩人ではないと思います。

これは「理の親」も全く同じです。

「あの方は私の恩人だ」と、
恩を受けた側の人が「恩人」という言葉を使うのであって、「理の親」も、

「あの方は私の理の親だ」と、
教えに導かれた人(助けられた人)が、導いた人(助けた人)の親心に感動して使っていた言葉だと思います。


「実の親ではないけれども、実の親のように、実の親以上に自分のことを考えてくれる方がいる。
実の親ではないが、親のような存在な人。
このような人をなんと呼べば良いだろうか?
そうだ「理の親」だ、あの方は、私を天の理へと導いて下さった親だから、「理の親」だ。」

と誰かが思い付いて、「理の親」という言葉が生まれ、それを聞いた周りの人も、
「なるほど理の親だ」
と納得して一気に広まっていった。
「理の親」という言葉を必要とするのは、「理の親」自身ではなく、助けられた「理の子」ですから、こんな感じで「理の親」って言葉が生まれたんじゃないのかなー、なんて思いました。


ですから、教祖がご自身のことを
「私は理の親やで」
と、わざわざ言う必要性が無いので、周りの者に、ご自身を「理の親」言っていた可能性は低いのではないのかと思います。

では、教祖ご在世当時の人々が、
「教祖は理の親である」と言っていたのかというと、そのような記録を僕は知らないのでなんとも言えません。
(ご存知の方がいましたら教えて下さい!)


「親の理」という言葉はいっぱいあるみたい


教祖の通られた雛形は、「親としての通り方」であったと思います。

「理の親」は一ヶ所しか原典に出てきませんが、「親の理」という言葉をおさしづ検索で調べてみると、38ヵ所33件のおさしづに出てきています。

その多くは、

「親という理に子という理、救けにゃならんのが親の理。」 
明治23年8月7日

「親という理に子という理、可愛い一条は親の理。」 明治24年8月15日

「皆可愛は親の理、難儀さそう不自由さそう親は無い。」 
明治24年12月24日
などなど

親というのは子供可愛い思いで一杯なんだよ。

ということが沢山述べられています。

こういう親心を感じた、先人の先生方は、その親心を伝えたいという思いで、お助けに奔走したと思われます。

すると、助けられた人は、
「親のように、私に気をかけて下さる」
「親以上に、私のことを思って下さっている。」
と感激する方も、きっと沢山居たと思います。


僕の場合


ちなみに僕は上級や大教会の会長さんを、「理の親」だと呼びたいです。

理由は2つあって

1つ目は
「凄く親心をかけて下さっていると感じるから」

2つ目は
先祖が助けられて、僕の今があるのであって、
「先祖が助けられた恩を忘れない」と言う人と、
「先祖の恩なんて自分には関係ない」と言う人を比べると、断然、前者の方が人として美しいと思うからです。


まとめ


「理の親」は教理として生まれたというよりは、
「実の親ではないが、親のような存在な人。」
を呼ぶ際に、適した言葉として生まれたという仮説の元考えると、
「理の親」と呼ぶ主導権は子が握っているので、呼びたい人は「理の親」と呼んだら良いし、呼びたくないような人は「理の親」と呼ばなくていいじゃん。

って言うのが僕の超個人的な意見です。

僕の今回の記事は、個人的には結構的を得ているように思いますが、冒頭で述べたように話し半分で読んで貰えたらと思います。


おまけタイム


どーも!オシャレ手作りマスクが欲しい男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!

手作りマスクを作る際、どんな生地を用意するかという問題が出てきます。

僕の家にも何か適当な生地がないか探したところ、ありました、とっておきの生地が!

それは、

お下がりで貰った、布オムツです。

赤ちゃんの地肌に触れるものですので、肌触りは抜群!

洗濯もしやすい!

変色も全くありません!

さらに、「この赤ちゃんが使用していました」というコメントと写真を付録で付ければ、そういった層への需要が期待出来ます!

こりゃ大ヒット間違い無しですね!


本日も最後まで読んでいただきありがとうございました!


ほな!





いいなと思ったら応援しよう!

ほこりまみれの信仰者こーせー / 天理教note
サポートして貰えたら、そりゃめちゃくちゃ嬉しいです!