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151.社会福祉事業に力を入れることが、本当に困った人をたすけることになると思いますがどうでしょうか?「続・信仰問答」#17


はじめに

僕の家に眠っていた「続・信仰問答」という本は、天理教に関する疑問を、Q &Aで答える方式の本で、昭和37年に発売された本です。

この本に出で来る質問は、約60年経った現代でも、天理教信仰者を怯ませる「エグい質問」が詰まっています。

このシリーズでは、本に載っている質問と回答を取り上げ、そこから考えられる僕の意見を書いていきたいと思います。

前回の記事はこちら

それでは今回の質問です。


Q.社会福祉事業に力を入れることが、本当に困った人をたすけることになると思いますがどうでしょうか?


世の中には、貧困でその日の食べるものに困っている人や、身よりのない老人や子供や、医学的には回復する見込みのほとんどない身上に悩んでいる人がたくさんいます。こうした人は本当に困っている人でありますが、こうした人をたすけるのが宗教家と教団の第一の任務であり、そのためにはもっと社会福祉事業に力をそそぐべきであるという意見が割合多いものです。そういう人に対するそういう仕方の救済というものは当然あります。しかし世界的に眺めてみますと、そうした社会福祉事業は、教団の分野というより、国家・社会の責任として、もっと大きな規模で行うべきだという方向に向かっています。社会福祉事業が現在のように建物や施設をつくってやるということを意味するとすれば、信仰者としてはなかなかできることではなく、むしろそれは国家の役目であるといえるわけです。
信仰者としては、そうした建物や施設をつくって社会福祉事業をしなければならぬという固定観念にとらわれることなく、すでに相当な施設があるのでありますから、そこに関係し、出入りし、そして相談するという仕事をする方がむしろよいわけで、そうした分野はいくらでも残されています。また、飢えた人・困っている人に対して、国家がどのような手をさしのべているかを研究し、どんな人がそのすくいの手を受けているかを知って、その上で、信仰上からの相談をさしてもらうということもできます。おたすけ活動は、建物や施設はなくてもいつでもどこでもできる社会福祉の運動でありますしまたそうあわねばならないわけです。教会は神様の出ばり場所でありますから、門をとざすことなく、そうした方面にどしどし進出することがのぞましいと思います。


社会福祉事業に力を入れることが、本当に困った人をたすけることになると思いますがどうでしょうか?


この質問の裏側の意味について考えていきたいと思います。
この質問は、
「社会福祉事業は、本当に困っている人を直接手助けできるが、そこに信仰は必要ないのでは?」
という意図が読み取れる質問です。

そう考えると、これはかなり厳しい質問だと思います。

そのためか本文の回答は、信仰の必要性については触れられておらず、信仰者として社会福祉事業に関わることを勧めています。

なので今回は、本文の回答で触れられなかった、信仰の必要性について踏み込んで考えたいと思います。



そもそも天理教は「本当に困った人をたすける」のが目的なの?


「社会福祉事業に力を入れることが、本当に困った人をたすけることになると思いますが」
ここに込められた意味を掘っていくと、
「社会福祉事業の対象になる本当に困った人」
言い換えると
「障害、差別、貧困等で困っている人」
のことを指しているのだと思います。

一方、天理教のおたすけの対象となる人は、
「障害、差別、貧困等で困っている人」
だけかと言われれば、そうではありません。

「世界一れつを助けたい」と教祖が言われたように、
全人類がお助けの対象になっています。

ですから、そもそもおたすけの対象範囲が、
「信仰者」と「社会福祉事業」で全く違うということが一つあげられます。

ですから、社会福祉事業が
「本当に困った人をたすけることになると思います」
という主張ならば、天理教は
「全ての人を『本当にたすける』ことになると思います」
という主張になると思います。

ここで思い出すお話が、天理教教祖伝逸話編147「本当のたすかり」です。

天理教教祖伝逸話編147「本当のたすかり」
大和国倉橋村の山本与平妻いさ(註、当時四十才)は、明治十五年、ふしぎなたすけを頂いて、足腰がブキブキと音を立てて立ち上がり、年来の足の悩みをすっきり御守護頂いた。
 が、そのあと手が少しふるえて、なかなかよくならない。少しのことではあったが、当人はこれを苦にしていた。それで、明治十七年夏、おぢばへ帰り、教祖にお目にかかって、そのふるえる手を出して、「お息をかけて頂きとうございます。」と、願った。すると、教祖は、
「息をかけるは、いと易い事やが、あんたは、足を救けて頂いたのやから、手の少しふるえるぐらいは、何も差し支えはしない。すっきり救けてもらうよりは、少しぐらい残っている方が、前生のいんねんもよく悟れるし、いつまでも忘れなくて、それが本当のたすかりやで。人、皆、すっきり救かる事ばかり願うが、真実救かる理が大事やで。息をかける代わりに、この本を貸してやろ。これを写してもろて、たえず読むのやで。」
と、お諭し下されて、おふでさき十七号全冊をお貸し下された。この時以来、手のふるえは、一寸も苦にならないようになった。そして生家の父に写してもらったおふでさきを、生涯、いつも読ませて頂いていた。そして、誰を見ても、熱心ににをいをかけさせて頂き、八十九才まで長生きさせて頂いた。

「本当のたすかり」とは病気がすっきり御守護頂くことではなく、
「心のたすかり」のことであり、更に延いて言えば
「魂のたすかり」のことです。

この「本当にたすける」という所に、社会福祉事業では成すことの出来ない、信仰者の存在意義があると思います。


まとめ


本文にもありますが、社会福祉事業という素晴らしい行為は、国家や全世界レベルで推進していくべきことですし、また推進出来ることだと思います。

一方、「本当のたすかり」所謂「心のたすかり」「魂のたすかり」は、国家では推進していくことは出来ません。

ここに信仰者の生きる道があると思うのです

天理教の活動も、災害救援ひのきしん隊、教誨師、里親等、社会福祉事業に関連することが沢山あります。

そうした、
肉体的・精神的・経済的なおたすけに加えて、心と魂の救済に踏み込むことが出来るのは信仰者しかいません。

この両輪を兼ね備えていることに、信仰する魅力があると思います。


補足

約60年前の本ですので、回答の内容に、「社会福祉事業を行う」=「施設や建物といった箱物を作ること」が勧められていた当時の時代背景が見て取れます。
そのため現代の状況において、本文の回答は完全には外れていませんが、少し的が外れた印象を受けるのだと思います。



おまけタイム

どーも!成長を実感した男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!

実は本日の記事は、3ヶ月ほど前(第91回目の記事)に上げようと思って書いていた記事だったんですが、その時に

「社会福祉事業は、本当に困っている人を直接手助けできるが、そこに信仰は必要ないのでは?」

という問いを立て、この問いに対する明確な答えが思い浮かばなかったので、お蔵入りになっていた記事でした。

本日ふと
「あの問いに対する答え、もう書けるんじゃね?」
と思い取り掛かったところ、結構すんなり書くことが出来ましたので、成長を実感しました。


本日も最後まで読んでいただきありがとうございました!


ほな!



サポートして貰えたら、そりゃめちゃくちゃ嬉しいです!