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希死念慮

年齢を重ねるにつれて悲観的になっていく。

見たくないものが見えて、見たいものが見えなくなっていく。善悪の感覚のない人間が成長して、無気力が増えていく。


愛想を振りまいてできるだけ自分よく見せようとする。いつかボロが出るのは分かっているけど嫌われたくない、離れて欲しくない、孤独になりたくないという利己的な考えの元行動している。
家族が居ない訳でもない、友達が一人もいない訳でもない、特段お金に困っている訳でもない、この現状に不満がある訳でもない、だけれども辛い。孤独だと感じる。

この閉塞感というものは時代と環境の一種のアイデンティティ・クライシスに直面しているんだろう。自分の過去と将来を評価して今を算出する行為に意味があるとは思えない、でもそうすることで少しでも今の自分をましにできるかなと考えてしまう。そもそも自分の進むべき道を知っている人の方が少ないんだろうけど。

心の内容が空虚なまま自分の殻に閉じこもっていても何も変わらないのに、最後には何も残らないのに。何も無い自分を表現しようと必死になって何かに挑戦しようとするけど、それすら怖くなってしまう。踏み出すことを躊躇している間に周りはどんどん前に進んでいって、見えなくなって。
現状を打開する策があるわけでは無いけどそれを見つけるためにどうにかもがいていないとそのまま落ちてしまいそうで怖くなる。
この時間稼ぎがいつまで続くのかと思うと吐き気がする。もらいすぎたものを返しきれない、人からの優しさが、同情が、心に突き刺さって。
あるいは哀れみの感情なんだろうけど、優しさというものは所詮表面上のものでしかないから。

胸がぎゅっと締め付けられて、自分なんかに優しくしても何も返せないのに。返すものなんて自分は持っていないのに。
この優しさすら気持ち悪いと思うようになってしまったらどうしたらいいんだろう。人からの善意が、悪意が、見分けられなくなっていく。
元々区別なんてできるように設計されていないのかもしれないけれど。人間が創った善悪に踊らされているだけかもしれない。結局、真意なんてものは見えないから。

死にたい明確な理由がある訳でもなく、生きてるのに疲れたから死にたいみたいな、生きるのすら億劫になってしまうのは生物としてどうなのかと思うけど人間が唯一自殺する生き物なのはそういうことなんでしょう。他人の気持ちを推し量る、生物として高等な進化を遂げたのに、その進化のせいで自死を選択するようになってしまったのがなんとも皮肉です。

四六時中死にたいと考えているわけでもないし、振れ幅があるから楽しい時だってあるし、めちゃくちゃ死にたい!みたいな時もある。あまりにも自分勝手すぎる。この希死念慮というものがなんなのか解明される日はこないだろうけど、いつか心の中にある行き場を失った不安を発散出来るようなものがあればいいなぁと思います。希死念慮を取り除けたところで社会に貢献できるような人間にはなれないと思うけれど、ただ普通に生きたい。いやこれが普通なのかもしれないし、みんな辛い思いをしているし、そんなこと分かってるんだけれども。1度だけでも、本気で生きたい。
何かに頼らないと生きていけない自分がどうにか自分で立てるように。そう求めてしまう。欲が出てきてしまう。

どんどん強欲になっていく、手に入れたもので満足出来なくなって、あれもこれも欲しがって。人のものにまで嫉妬して。今持っているものを活用して生きていくことに不安を感じる。新しく身につけることは怖いのに、自分に満足できない。

求めて生きることが悪いこととは思わないけど、お金とか地位とか権力だとかを求めて生きるのは根本的に間違っているし、後でつけを払うのは自分だから。他人を蹴落としてまで生きたくない。
社会の渦に飲まれてしまったらこの感覚も変わってしまうのだろうか。人を傷つけるくらいなら自分が傷ついた方がましだと思ってしまうのも、自分の幸せより他人の幸せの方が良いと思ってしまうのも。


考えて、考えて、考えて。解の無い問題を解くのは無駄かもしれないけど、なんとなく、楽しいから。生きる意味とか希死念慮とか。そういう人間の理解の範疇を超えたものは綺麗だし。まだ誰にも汚されていないはず。

ねぇ こうして   もらいすぎたのを返せたら
そのために生まれてきたと思える

パジャミィ/いよわ

毎回書く人が変わってますか?と聞かれそうなくらい文体が変わっていますけど、気分で書いているのでお許しください。


みんな2024年よく頑張った!!!
自分を褒めましょう!!!
どうか2025年が皆さんにとって良い年になるよう
願っています。







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